メタボリックがとまらない ver.7 東京出戻り編

メタボリックがとまらない ver.7 東京出戻り編

副題 : もう遠距離の異動は無いだろう

いわゆる「パヨク」と呼ばれる界隈の人は、なぜ踊りたがるのか?というツイートが上がっている。

この疑問について、いろいろな人が上げてますが、私なりの考えを書いてみようと思う。





「なぜ彼等は踊るのか?」という事を考えるにあたり、そのような集まりについて考える必要がある。

参加している人の全てが、政治について学ぼうとしているのか、それとも集会に参加する事で政治について学んでいると勘違いしているのか、それについて考えてみた場合、おそらく後者の方が大勢を占めるだろう。

政治について学ぼうとしている人が少なく、集会に参加する事で政治について学んでいると勘違いしている人が多くても、両者を合わせてシンパとして数える事は可能ですから、集会の参加人数を増やしたい人からすれば、参加する人が後者であったとしても関係ない。

だとしたら、集会に参加する事で政治について学んでいると勘違いしている人達が、より楽しい経験を積んで家路についてもらう事が大切であって、本気で政治について学ぼうとしているかどうか、そして学ぼうとしている人達に対して、政治の仕組みについて真面目に教える事を考える事は、二の次になって当然である。




これを学校に置き換えてみる。

学校側が、勉強の大切さや楽しさ、集団生活に関わるルールを守る大切さを教える事より、「出席率」を重視するとしたら、単に学校に来る楽しさを生み出す事に力を注ぐだろう。

授業は極力軽くして、各種イベントに力を注ぐようにすれば、「楽しい学校生活」を生徒が体験できる確率が増える訳で、生徒の学力や社会力が向上しなくても、「出席率」だけは高まっていきやすい。

学校生活を、安易なクルーズ船体験に置き換えさえすれば、学生として学ぶべき事を学んでなくても、卒業まで楽しく学校生活を送る事は容易である。

そのような環境下で、「グーと言えばパー」「鶴と言えば亀」といった単純な教育を行い、その通りテストで答えられさえすれば良いというのが、「出席率」を優先した学校運営だと言える。





さてパヨク界隈の、参加者に踊らせる事が好きな人達を見てみると、上の図式が当てはまるとしか言えない。

政治サークル活動に楽しく参加する事が、政治活動であるかのように勘違いさせ、複雑な社会情勢や、それに伴う複雑な政治的行為について学ばせないまま、「政治が悪い!」「戦争反対!」「9条を守れ!」とだけ教えるのは、「国民=愚民」としか考えてないからだろう。

都知事選に敗北した蓮舫氏の陣営の人が、「なぜ落選したか分からない」と言ったのは、「国民=踊らされるバカ」だと基本的な考えを持っていたからであって、何故そのような考えを持つに至ったのかと言えば、「踊らされるバカ」を集める事に一生懸命となり、自分達の支持者を「踊らされるバカ」で固めたからだと言える。





「踊らされるバカ」を集める事に一生懸命で、「なぜ踊る必要があるのか?」という疑問を持つ人を排除し続けたら、そりゃあ集める側の質が下がって当然。

世の中の変化や、情勢の変化に対応する事を否定し、昔ながらの批判を繰り返すだけを「良し」として、出席率だけを追い求めているんだから、集める側の質が上がる筈がない。

これは日本史の先生が、未だに「1192作ろう鎌倉幕府」という知識しか持たないまま、授業をしているのと同じだろう。





「なぜ彼等は踊るのか?」という結論としては、踊らせる事しか政治活動として教えられない、そんな人達の集まりだからだとしか、私には思えないのである。

https://www.asahi.com/sp/articles/ASS774DP7S77UTFK00NM.html


都知事選は小池百合子氏の勝利となりましたが、蓮舫氏が石丸氏より低い3位となった事が、大きなニュースとなっている。
この結果を受けて、蓮舫氏の選対幹部が「何が原因かよくわからない」と発言したそうですが、原因が分からないのではなく、原因を受け入れたくないだけの話だろう。




蓮舫氏と、その周辺が採用した選挙の基本戦略は、それこそ「昭和」の時代から左翼系政党が採用してきた選挙戦略で、「反体制」「個人として出馬と仲間のサポート」「組織票の否定」である。
下賤な言葉に言い換えると、「体制に反対カッコいい!」「1人立つ私と、それをサポートする仲間カッコいい!」「組織に頼らない私カッコいい!」というのが、蓮舫氏とその周辺が採用した選挙戦略ですが、テレビと新聞しか無かった時代ならともかく、ネットで検証されてしまう現在においては、非常に古くさいとしか言いようがない。
特に若い人達からすれば、反体制を叫ぶだけの人より、説得力のある対案を示す人の方が「カッコいい」し、偏った内輪だけでベタベタしてる人より、様々な意見を取り入れる人の方が「カッコいい」し、組織に応援されてきた事を隠している人より、堂々と組織に応援を求める人の方が「まだカッコいい」のである。
更に言えば、私と同世代の人達ですら、蓮舫氏とその周辺が採用した選挙戦略について、ネットで検証するのは別に普通の事ですから、彼等の採用した選挙戦略について「古くさくてダサい」と感じてしまうのだ。




内輪でベタベタしてる人達からすれば、今回の選挙戦略について、特に古くさいと感じる事が無かったのであろう。
それは当然な事で、そういうのが好きな人で集まったコミュニティですから、コミュニティ内の価値観が統一されている訳で、コミュニティ外の人達からどのように見られようが、コミュニティ内では楽しく活動できる。
変な例えかも知れませんが、居酒屋で周囲の目を気にせず、悪ノリする常連客の集まりというのが、蓮舫氏とその周辺の人達だったのであって、一般客が常連客の悪ノリに眉をひそめようが、常連客は普段通りに悪ノリしているだけ。
そのような常連客の悪ノリによって、その店の評価が下がったとしても、常連客は自分達のコミュニティ内で通用する悪ノリを辞めませんから、最終的には常連客しか集まらない居酒屋へと変貌するし、常連客しか集まらない結果、常連客は悪ノリをし続けていき、その居酒屋に一般客の新規は来なくなっていく。
新規で来るのは、悪ノリする常連客に誘われた人ばかりとなるが、コミュニティ内の価値観に共感する人は残り、共感出来ない人は「ここの常連客ヤバい」と感じて来なくなるのだ。




様々なコミュニティの求める意見に優先順位をつけ、それを政策として実現していくのが政治家だとしたら、自分達の求める意見だけを採用し、他者の求める意見を排除するのは、政治活動家でしかない。
政治家と政治活動家は、戦後から最近に至るまで、同じものとして今までは考えられてきたし、オールドメディアも同じものとして今まで扱ってきたけど、両者は異なるという漠然とした肌感覚が、ネットの普及からくる検証によって醸し出されている。
政治家ではない「政治活動家」に対して、そして政治活動家を支援するコミュニティに対して、評価が下がり続けているというのが、ここ最近の世の中の流れであるのに、コミュニティ内の悪ノリを押し付けた結果、過去に大臣も勤めた有力者であり、世間からの認知度も非常に高い蓮舫氏が、2位にもなれなかったという事態を生み出したのだ。




まあ、同じ価値観の人で集まったコミュニティだから、周囲からどのように見られようが、コミュニティ内の価値観が変わる事はない。
これを変えない限り、サイレントマジョリティーからの応援は得られないが、サイレントマジョリティーを受け入れる為に、自分達の価値観を変える事は無いし、それによって同じ価値観の人達が離脱する事の方を問題視するだろう。




「貧すれば鈍する」ではありませんが、社会党が衰退していった流れと同じ事が、このコミュニティに起きるんだろうなあと、私は思っている。

世の中の流れと自分の経験との、どちらを優先しがちかと言えば、それは自分の経験だろう。

世の中の流れの中で、自分自身は生きていますから、自分の経験が役に立つ事は多いのですが、世の中は人知れず変わっているという現実に目を向けず、自分の経験に固執してしまうと、世の中の流れから取り残される。

これは年齢とは無関係で、よく言われる「老害」とは、年齢基準の老人だけではなく、自分の経験に固執する人すべてに言える事だ。





私は運送業の会社に勤めていますが、特にここ5年ぐらいの間で、お中元の荷扱い量が減ってきていると感じる。

途中でコロナ禍もありましたから、そういった関係があるのかも知れませんが、お中元という物に対する、世の中の考え方の変化が垣間見えると思ってまして、他の人に対して贈り物を送るという行事について、昔ほど優先順位が高く無くなっている。

最初に無くなったのは残暑見舞いだと思いますが、お中元で残暑見舞いを兼ねるのと同じように、お歳暮でお中元を兼ねるといった考え方が、今では主流となりつつあるように思う。





これに取って代わったのが、自分への御褒美という考え方だろう。

誰かに贈り物をして喜んでもらうという考え方は薄まり、頑張った自分への御褒美という考え方が主流になっているように、物流の現場からは見えてくるのであって、お中元商戦による繁忙期といった考え方で計画を立てるのは、過去の経験に固執した考え方だと言える。

今の段階で言えば、お歳暮商戦による繁忙期は存在しても、お中元商戦による繁忙期は、もはや過去の話と分析した方が正しいように思える。





運送業界が、従来通り7月の繁忙期を設定したいのであれば、自分への御褒美という考え方が主流となった世の中に対して、どのようにアプローチするかにかかってくる。

今まで通り、デパート等のお中元を当てにしても、世の中が自分への御褒美という考え方に変化した以上、今までみたいな集荷量を、デパート等から見込める事は無いだろう。

そのような世の中の変化に対応せず、自分達の経験に固執し続ける限り、7月の繁忙期がやってくる事はない。





まあ来年も同じ流れになると覚悟してますけどね。




L字パターを買ったのと同時に、こちらも手に入れてたりする。
ムジーク オンザスクリューDFのクリークですが、こちらの値段がべらぼうに安く、思わず買ってしまった。
実はL字を手に入れたのは、店内の電波の状態が悪くて、道路に面したパター売り場に移動した際に、つい見つけて試してしまったからだ。。






ムジークのフェアウェイウッドは飛ぶと、以前から聞いてはいたけれど、中古屋での値段もお高かったので、なかなか買う気にはなれなかった。
後継のDF2が出て、少しは値段も下がったけど、ザックリ26,000円以上というのが相場だったから、まあ指を咥えて眺めていた。
それが、どのような理由か知らないけど、相場の半値以下で並んでいたんだから、飛びつくのが当然だと言えよう。





こちらのフェアウェイウッドの特徴と言えば、お尻の上がったハイバック形状。
低重心化はソールの素材に任せて、ハイバックで強い球が出るよう狙っているみたいですが、そこら辺の効果については知らぬ存ぜぬである。






シャフトはフブキの65S。
硬いかな?と思いつつ、さほど硬く感じなかったから手に入れたのですが、まあ硬く感じたとしても、格安な値段に負けて手に入れた事だろう。




手に入れて速攻で練習に行き、そして翌日のラウンドでも使用したのですが、なかなか良いクラブである。
ロフトは19度らしいですが、上がりやすくて曲がりにくいクラブで、ティーショットでも地面からでも楽に上がるし、真っすぐ飛びやすい。
飛距離性能に関しては、概ね185〜195ヤードに収まっていて、あわよくば200ヤード飛んでくれたらという期待を持っていたが、そうは問屋が卸さない。
まあ200ヤードを狙うなんて実力は無いから、ロングの2打目でポンと打つ用か、ティーショット用というのが正直なところで、実際のラウンドでもそのような使い方だった。
スピンを効かせて上がるというより、最初からポーンと上がる感じ。




練習場の1打目で、いきなり真っすぐ飛んだから、私に合っているクラブと言えよう。
格安で手荷物入ったという事もあって、非常に満足なクラブである。
久しぶりにL字パターをラウンドで使いましたが、「こんな感じだったよなあ」と、いろいろ思い出す事が出来た。
よく言われる「L字パターは難しい」といった評価について、思い出す事が出来たという感じですが、これを難しいと取るかについては、人それぞれとしか言いようが無いし、人それぞれの打ち方によって、どのような形状のパターであっても、難しいという評価になり得る。




L字パターの特性ですが、芯を外した時のお助け要素が少ないというのが挙げられる。
これは特に、トゥ側に外した場合に言えますが、構造上トゥ側に外すと開いてしまいますし、力が大きく逃げてしまいますから、転がる距離もかなり短くなる。
これをもって「難しい」と呼ぶのは仕方ないのですが、程度の差は有るとはいえ、他のパターでもミスはミスなりの結果となるのですから、そんな大袈裟にL字は難しいと言い立てる必要は無い。
逆に、ヒール側に外した場合、さほど転がる距離は減少しないし、さほど方向性にも影響は出ないから、「外すならヒール」と意識してれば良いだけの話だから、最初から若干ヒール側にボールを置けば良い。




これまた構造上の話ですが、L字パターのヘッド重量は、今時のパターと比べてどうしても軽い。
まあ「軽いですが何か?」というのが正直な所ですけど、ヘッドが軽いからと言って、タップ式でなければならないという話ではなく、別にショルダー式でパッティングしても問題ない。
私から言わせてもらえば、ヘッドが軽い分だけ、ボールを手で投げるイメージと合致させやすいパターだと思う。




最後に「L字は開閉しやすいパター」と言われてますが、これにしても「開閉しながらパッティングしなければならない」という話でもない。
これは私の経験からきた打ち方ですが、L字パターの開閉を抑える打ち方をする事で、方向性を保つ事がしやすくなる訳で、これまたヘッド重量が軽いからこそ、そのように抑え込むのも別段苦労しない。
あくまで構造上「開閉しやすい」というだけの話であって、開きっぱなしになりやすいとか、閉じる動きが強いという事ではありませんから、そこまで難しさを強調するようなパターではない。




結論となりますが、L字パターを使う際に気をつけるのは、とにかくトゥ側に外さないようにする事。
それに注意さえすれば、そして違和感を感じる事が無ければ、L字は普通に使いこなせる。
どんなパターにも言える事ですが、違和感がどうしてもあるなら、そのタイプのパターは合っていない。
私にとって、アンサー型やL字マレットがそうであるように、違和感にあるパターは、どう練習しても自分の道具にならない。




食わず嫌いも無意味だが、合わないな物は合わないなんだと思った方が健康的である。

なんとなく立ち寄った中古屋で、なんとなく見つけてしまったL字パター。

5,000円の値札を見て手を伸ばし、試打してみたらポコポコ入ったので、お買い上げに至った。






George SpiritsのL字。
10年ぐらい前まで、George Spiritsのパターやウェッジを見掛ける事はあったが、最近あまり見掛ける事が無くなった。
旧ゲージデザインの社長が起こした会社だと記憶してますが、今でも活動してるのか興味がない。






8802型ではなく、IMG型のフランジ形状。
まあIMGよりフランジの幅が広いと思う。






トゥ側とヒール側が、若干肉抜きされていますが、どのような効果を狙っているのか分からない。
ありがちなのは、トゥとヒールにタングステンを入れるカスタムですが、L字パターに合っているとは思わないので、真逆の設計に興味がある。





こちらのグリップが入っていた。
あと多分ですが、かなり切り詰められており、33インチぐらいに感じた。



で、購入した翌日のラウンドに投入しましたが、雨の日にも関わらす、31パットと絶好調だった。
内訳は1パット6回、3パット1回だったんですけど、以前はL字パターをメインにしてましたので、L字パターに対しての慣れもあり、これと言って苦しむ事は無かった。




ハマればスコスコ入るという、L字パターの良さを実感した次第である。

私がゴルフを始めた頃、一般アマチュア向けアイアンでは、軽量スチールシャフトが主流となりつつあった時期でして、一般アマチュア向けアイアンにはNS950が、上級者向けアイアンにはダイナミックゴールドが入っていた。

しばらくしたら、ウェッジでもNS950が入った物の方が、ウェッジ売り場での勢力が広がり、気がついたらNS950の入ったアイアンの方が、圧倒的に勢力を広げており、NS950の全盛期は結構長いこと続いた。

これに終止符が打たれたのが、同メーカーから出たモーダス105の出現でして、NS950のの後継であるNeoが出ましたが、新製品のアイアンに標準で入っているスチールシャフトと言えば、モーダス105がほとんどと言って過言ではない。





さて私が不思議に思うのが、それまでNS950を使い慣れた一般アマチュアゴルファーからすると、モーダス105は重たく感じるのでは?という事。

アイアンの買い替えは、それほど頻繁ではありませんが、これまでと重さの違うシャフトが入ったアイアンしか店頭に並んでないという事態は、あまり宜しくないのではなかろうか?

まあ試打して決める人が多いのでしょうが、私みたいにせっかちな人なら、まあ大丈夫だろうと、並んでいるクラブを買っていってしまうでしょうから、買った後に「なんか重たい」と感じるのではなかろうか?




モーダス105も良いシャフトですが、なんか極端すぎるなあと感じてしまう。

都知事選の公示ポスターを見てると、「東京が変われば日本が変わる」みたいなキャッチフレーズを見かけるのですが、都知事選という争点において、このキャッチフレーズを使う事が適切なんだろうか?

そして、このキャッチフレーズを候補者達が採用する際、何を指して採用したのか疑問を覚えるのですが、まあ何も考えずに採用したんだろうなあとも思う。





私は全国を転々としましたが、東京の持つパワーというのは絶大なもので、全ての地域が東京の方を向き、全ての地域が東京を当てにしていると言って良い。

それを特に感じたのが松山でしたが、それは航空輸送で魚を運ぶ業務がメインだったからで、東北に魚を運ぶにしても、松山から羽田へ魚を運び、羽田から東北諸県へと運ばれていく。

「全ての道はローマへ通ず」と同じように、「全ての道は東京へ通ず」というのが、今の日本の実情であり、これは食品だけに限らず、金融や情報なども含めて、日本のハブとして東京は巨大な存在なのだ。




さて上記のように「東京」と言ってますが、ここで言う「東京」とは、行政単位としての「東京都」ではない。

上記で言う「東京」と、行政単位としての「東京都」は、一見すると同じであるかのように見えますが、では「東京都」が変われば日本が変わるか?と問われたら、誰もが「東京都が変わっても日本は変わらない」という事に気がつくだろう。

「東京都」に出来る変化の例を上げますが、築地から豊洲に市場を移す事は東京都に出来ますが、「東京」という巨大な市場を東京都以外に移す事は、行政単位としての東京都には出来ない。

過去の東京都がやった事で、国政レベルで動かせた物と言えば、ディーゼルの排ガス規制だと思いますが、あれは入ってくるものを規制するという事が出来たから可能だっただけで、例えば首都機能移転とかいったものは、行政単位としての東京都には出来ないのだ。




都知事選にせよ都議選にせよ、国政レベルの問題と絡めて取り上げるのは、なんか違うように思う。

https://news.yahoo.co.jp/expert/articles/f8bdb43f1011eb9df5c794501d4e663b7a1f7349?fbclid=IwZXh0bgNhZW0CMTEAAR37Us8GtF1Um8F0DYqLCeckTc2_pcFz_bh-mPCtL-R4_OmgFv8nx46Uets_aem_ZmFrZWR1bW15MTZieXRlcw


PGAツアーが、15分と時間を定めた上で、スコアカード提出後の修正を認めるルール改正を行うのだそうな。
まあ事の発端は、トイレに切羽詰まった状況で発生した出来事だから、そのようなルール改正が行われる事は致し方ない。




この記事で私が気になったのは、この件に関するコメントの中に、「スコアを自分でつけるのはゴルフだけ」なので「ゴルフもスコア管理をデジタル化すれば良い」といった意見があった事。
このような意見は、プロスポーツにおける審判のデジタル化の流れからすれば、出てきて当然な意見だとは思いますが、「ゴルフ」がこれまで培ってきた、フェアプレー精神と自己責任といった物より、今の考え方や流れを優先しているように感じてしまう。
どちらが正しくて、どちらが間違っているという問題ではなく、これまでのゴルフとの向き合い方を否定しているように感じてしまうのだ。




まともな答えが思い浮かばないけど、ドライな合理性ばかり追求すると、ゴルフの持つウェットな精神性が無くなっていく気がするなあ。

久しぶりに100切りしたおかげで、なんか良い時の考え方を実感する事が出来た。

それはパー伯父さんとの戦い方であって、なぜボギーオン重視だったのかを、思い出す事が出来たのである。




ゴルフにおいて、常に強者なのはコースであり、アマチュアゴルファーは常に弱者だ。

これを野球に例えるなら、ソフトバンクに草野球が挑むのと同じで、なんとかして試合らしく見せる為には、どのように継投していくのかが大切だろうが、私達アマチュアゴルファーは、先発完投や、先発+抑えといった考え方しかしていない訳で、それも相手の強さに関係なく、自軍の投手(飛距離やコントロール)は優れていると勘違いしている。

本当は、白ティーで100切りを目標としているぐらいなのだから、飛距離も大した事が無ければ、コントロールも大した事が無いのですけど、たまたま出たマン飛びや、たまたまのベタピンを実力と勘違いしているから、その勘違いが試合を壊す事に繋がるとは思い浮かばない。





さて、試合を壊さないと言ってますが、では壊れてない試合とは、具体的にどのようなものだろう?

あくまで私の考えですが、17番終了時のスコアに18番のパーを足した物が、求めているスコアを下回っていれば、とりあえず試合を壊していないと思う訳で、例えば18番がパー4であれば、17番終了時のスコアが95で収まっていれば、ギリギリ試合を壊していないと言える気がする。

「18番がバーディーなら99」というのは、ほぼノーチャンスだと思いますけど、最終ホールをパーで収めたらというのは、それと比べて可能性がまだ残されているように思いますので、試合を壊していないと言えるのではないか?





なんとか踏ん張ってさえいれば、そのうち流れも良くなってくる。

流れが良くなってくれさえすれば、なんか落ち着いた気持ちでゴルフが出来る訳で、逆を言えば、落ち着いた気持ちでゴルフをしてると、流れが良くなってくる。

とりあえずドライバーで、2打目が打てる場所に150ヤードも飛んでくれれば、そして2打目が、グリーン近くにまで飛んでくれれば、ボギーオンなゴルフは出来るのであって、それを繰り返していると、なんか知らんがスコアが良くなってくる。





試合を壊すゴルフをしなければ、スコアが後からついてくるのだと、しみじみ思い出したのであった。