小林一茶08 天の川都のうつけ泣くやらん
新版日本秀句3 一茶秀句 加藤楸邨著 春秋社 新版第一刷 2001年7月を基礎資料としている。享和 寛政13年2月5日1801年3月19日 改元享和元年1801年の五月に父と永別した一茶は、その年の九月頃には江戸へ戻っている。遺産相続は義弟一家にも大問題なので簡単には決着はつかないと考えたのだろう。俳諧師としての自立の道も魅力的だったはず。門松やひとりし聞けば夜の雨江戸へ奉公に出されたとはいえ、心のなかでは父親と繋がっていたし、その延長線上の故郷への思慕の情はあっただろうが、その父を送ればより所を失ったワケで、自らの孤独にはっと気づいたのだ。その淋しさは「門松」が象徴する正月の賑わいと対比的に、静かに降り続く雨へと向かう。もう帰るところは無いな。享和2年1802年の作だが、喪中という感覚だろうか。夕桜家ある人はとく帰る 享和3年「家ある人」に対して家を失った自分。「とく」は形容詞「疾し」の連用形、意味は「とっとと」とか。日も暮れかかるころ、帰るべき家が無ければ、夕映えの桜も色褪せる。この句は「享和句帳」にあるので、享和3年4月11日から12月11日までに書かれたものらしい。この頃41歳の一茶は本所大島の愛宕神社に寓居しており、一茶園雲外と号している。地方俳人などが訪れて飯時になると店屋へ出かけ、割り勘で食事をしたそうだ。お互いに、貧しさには慣れっこだったのだろう。梅咲けど鶯鳴けどひとりかな 享和3年リズム良く言葉を繰返すのは一茶調の萌芽である。梅や鶯は日本の詩の世界では風雅の中心課題であったのに、一茶は「ひとり」と内部の孤独感へと昇華させた。その効果は十分に上がって、これこそ一茶調であると思った。しかし、「一茶秀句」の著者加藤楸邨はこの句を、『梅も鶯も死んだ道具にすぎず、したがって「ひとり」は説かれおしつけられたものとなり終わっている』、だから迫力に欠けると書くのだが、「ど」と逆接が嫌われたのかな。行けど行けど一頭の牛に他ならず 永田 耕衣三回も反抗するような俳句もあるんだが。あけぼのの春早々に借り着かな 享和3年「春は曙」の典雅な世界から、「借り着」へと、いいわば底辺の庶民へと引き落とす。談林派得意の手法だったらしいが、聖俗対比の一茶調。ただ「早々に」が散文調子で好きじゃない。紫の袖に散りけり春の雪 享和3年同じ春の作だが、こちらは色の対比が鮮やかだ。さみだれや二階住居の草の花 享和3年古さを感じない句だが、こちらは間借り。今は学生でさえ間借りや下宿をしない時代だけど、親戚の家に預けられた女学生とかならありかも。前の住人が置いていった鉢植えが梅雨の雨に濡れているのを、東京暮らしにはぼちぼち慣れても、まだ雨の中を誘い合う友達もいなくて、ぼーっと見ている。そろそろぼー郷の里心が湧き上がるころ。女学生に気が向いてまったが、一茶は鉢植えでなしに、「草の花」と小さな名も無き花を、それも地に生えるのではない「二階住居の」どこかに置かれた不安定な生き様を詠っている。ここでも自らの身を「花」に見ているのだ。そして外には茫漠と降り続く雨。天の川都のうつけ泣くやらん 享和3年都は京都ではなく、北信濃に比べての都会で、とりあえず江戸で良いと思うけど、その華やぎ、豊かさ、そして喧噪、不浄に対する「天の川」。故郷でいつも見ていた天の川の清々しさが思い出されているのだが、一茶は都会生活に馴染めずにいるのだ。「うつけ」は「愚か者」と同義だが、もしかしたら俳諧のライバルを暗示しているのかもしれない。葛飾派を除名された一茶であるからして。(続く)