朝焼に祈り心や秋惜しむ
先日ブログでしか存じ上げない方々と遊んだ連歌の中から、自作の五七五を書き出すと、以下9句あった。これら「俳句もどき」を少しづつ咀嚼してみようと思う。消化吸収できるかどうかは不明だが、自由に加工変形できるので楽しそう。1).コスモスや肥後もつこすの叔父と囲碁 あき坊 (1)2).藤散るやいとうとましき棋譜を追ひ あき坊 (3)3).ハロウィーン魔女に仮装と言う暇女 あき坊 (5)4).大はしや夕立をすぢのジャポニズム あき坊(7)5).馬に揺れ花の七坂鵜戸神社 あき坊(11)6).香具山を巣立つ雁の子藤原京 あき坊(17)7).墨堤に君待つ宵や船遊 あき坊 (23)8).りこぼうの届くや母の震え文字 あき坊 (29)9).地芝居やまずは獅子舞江戸囃子(35)発句としてくださったものもブログに書き込んだものなので、他の句と同類なのだが、すべてをつまりは即興で反射的に作った。反射とは、生物学的には「脳が参加しない吟味と命令」とでも言うか、刺激に対して「判断」をしていない行動なのだ。熱い物に触れて、その刺激が脳へ行き、脳が「危険な熱さ」と判断してから「指を引け」と命じていたら、指の火傷は大怪我になってしまうだろう。なのでここで「反射的に」としたのは、言語野の働きの不十分さを表現したかったからだ。2025/10/30のブログに上げた俳句の中から、上掲1).を発句に連句をすることになった時には、密かに36句の歌仙連歌を予定した。細かすぎるルールを決めると、遅滞しておもしろくないので、発句の「季語・切字」以外は自由とした。なにしろ俳句の練習のつもりだから、俳句の姿は維持したいのが人情だ(個人的には)。例えば、平句にはいわゆる切字を使わないとの規則を作ると、方向性として「川柳」になるので、それはそれでおもしろいのだけれど、そこに突っ込む自信の無いこともある。また連歌36句から自分の長句五七五を拾い出せば、端から三人でせーので始めれば12の半分6句になるところを、今回はやや変則的だったので計9句となった。1).コスモスや肥後もつこすの叔父と囲碁ブログものを改めて読み直すと、ガサツさが目立つて辟易する。下五「叔父と囲碁」がダサい。しかし、俳句のデッサン素描だと言い訳して、発句に使ってもらえたことに感謝しよう。ブログに曝した句はそこで完結して、他へは絶対に出してはいけませんと商業主義俳句は言いますが、その理由は質的にも十分な推敲を経るべきだからかもしれない。批判的に自句を読むには時間も必要だ。試しに反射的にコスモスや鬼籍の叔父とコミガカリ一面に揺れるコスモス、夢で囲碁を打った、碁敵とはそんなもの。コミガカリとは接戦のこと、覚めてからそう感じた。そろそろ秋も去る季節、今朝も夜明がキレイになってきた。朝焼に祈り心や秋惜しむ2).藤散るやいとうとましき棋譜を追ひ 藤井王座七冠が伊藤叡王に負けて失冠した(藤散るや)タイミングだったので、時事ネタに丁度よかろうと、言葉遊びに「伊藤叡王・王座」の名前を取り込んでみた。「藤」は藤井(六冠)のこと。ただ、将棋を知らない人のためには『将棋藤井王座負く』と前書が要った。それなら「伊藤新王座」の立場に立てばわかりやすいか。藤散るやいとうつくしき将棋駒(我が将棋仲間を自宅に呼ぶ時に使う駒)(続く)