病む旅や枯野をかけつ廻る夢 は、自分で書いてなんだけど本当につまらない。金釘流のぎくしゃくで、ゴツゴツとして、病む旅と夢とが「や」を挟んでいがみ合っているようだ。

 

旅に病んて夢ハ枯野をかけ廻る 芭蕉 と、翁が平句の姿に整えたのは、それを生みの親とする川柳に在って発句に無い「しなやかさ」を承知されていたからで、さすが俳諧師芭蕉。

 

旅に病むや夢ハ枯野をかけ廻る が、ダメだから「旅に病んで」と切らずなのだろうが、その理由は何なんだろう?発句を拒む理由がワカラン。

 

旅に病む夢ハ枯野をかけ廻る と、切字「や」が省かれてすっきりしたけれど、二物衝突の構造を保つだけでは、発句の資格がないので、作者はそもそも発句を志向していない。もちろんこの線で行くなら

旅に病む夢ハ枯野をかけ廻り と、流すことになりそうだが。

 

 

結局、連歌が意識下にあるとして、気晴らしにここだけ独吟歌仙を。

同行二人の笠の破れて

  旅に病て夢ハ枯野をかけ廻る

ガザの少年オペはアンマン

 

「同行二人」は曽良が脱落する話。

旅に病て夢ハ枯野をかけ廻る

  同行二人の笠の破れて

  

ガザは斬新だけど、「病」を伏せて「オペ」から病気だとワカル。ワカリ過ぎて近すぎ。

旅に病て夢ハ枯野をかけ廻る

  ガザの少年オペはアンマン

致死的な病気の治療にアンマンへ脱出できたことは喜ばしいが、戦争とは残酷なものだ。

 

 

で、本題に戻って

かけ巡る枯野の夢や旅に病み と、個人的には発句に拘りたいのだが、「や」の直前の「夢」に意識が集中してしまい、「枯野」がぼやけるか。「枯野」を連歌の象徴として捉えている(我が主張)なら、「や」の直前に置きたい。

 

かけ巡る枯野や病みし旅の夢 と、句の中心点を明確に示せば快適だが、螺旋階段を駆け下りるような目眩がする。

 

かけ巡る枯野や旅に見たる夢 と、「病」を捨ててしまうか、

かけ巡る枯野や病みて見たる夢 と、「旅」を捨ててしまうか、

 

まぁちょっと疲れた。不得手な芭蕉に立ち向かったからだな。

 

締めくくりに、芭蕉の字余りを。

 

かれ朶に烏のとまりけり秋の暮 芭蕉(『曠野』) 『東日記』には

枯枝に烏のとまりたるや秋の暮 芭蕉と載り、これが初案で、中十の字余りである。

 

 櫓声波を打つて腸凍る夜や涙 芭蕉

ろせいなみをうって はらわたこおる よやなみだ、とは字余りすぎ。

「や」を下五の中程に置いて切っている。こうしてバランスを取っているのだろうか。

「櫓声」とは櫓を漕ぐ(ギーコギーコとか)の音。

 

舟大垣を発して桑名に赴く

<頼 山陽>

蘇水遥遥 入海流  蘇水遥遥 海に入って流る 

櫓声雁語 帯郷愁  櫓声雁語 郷愁を帯ぶ

独在天涯 年欲暮  独り天涯に在って年暮れんと欲す

一蓬風雪 下濃州  一蓬の風雪 濃州を下る

注;一蓬は一艘のとま舟、「蓬」はとまで、竹や茅で編んだもの

 

(終了)