ほろほろほろびゆくわたくしの秋 山頭火 (92)
一草庵玄関わが庵は御幸山裾にうづくまり、お宮とお寺とにいだかれてゐる。老いてはとかく物に倦みやすく、一人一草の簡素で事足る、所詮私の道は私の愚をつらぬくより外にはありえない。おちついて死ねそうな草萌ゆる 一草庵長い前書にある「私の愚」は借金の踏み倒しなら分かりやすいが、山頭火に「借」金の意識はない。例えば井月のように、筆を執って色紙なんぞを書いて頂戴する銭は報酬なのだし。もりもり盛りあがる雲へあゆむ 一草庵「層雲」に発表した最後の句なので、これを辞世と見做す向きもある。風のなか耕してゐる畑仕事をする山頭火は想像できないが、死を予感しながらも自暴自棄とはならず、実りを期待して耕す健気な日々もあった。その風はどこから吹いてくるのだろうか。風の中おのれを責めつつ歩く 孤寒 苦しみの象徴でもあった「風の中」が今は存在の証となっている。風の中米もらひに行く 鴉向かい風に立ち向かう気負いはすっかりなくなった。生への気負いはどうなんだろ?おたたも或る日は来てくれる山の秋ふかく「おたた」とは、御用桶(ごろびつ)とよぶ木製の桶に魚を入れ、頭上にのせ、松山を中心に近郊に「魚はいらんかえ」「魚おいりんか」などと呼んで家々をまわり、魚を売り歩いた松前町や松山近辺の女性をいうそうだ。データベース『えひめの記憶』|生涯学習情報提供システム松前町商工会キャラクターにおたたちゃん落葉するこれから水がうまくなる気温が下がりだすと飲み水の触感も透明になってくる。行乞途上お手手こぼれるその一粒一粒をいただく 四国遍路句集に並んでいる句あなもたいなやお手手のお米こぼれます 四国遍路心穏やかに世界を見回せるようだ。旅で果てることもほんに秋空 四国遍路ほろほろほろびゆくわたくしの秋 四国遍路死を予感してか、静かな時間が過ぎて行く。この静けさは作務の義務感を消し、修行僧の作務そのものを目的とする暮し、つまりは修行の本質に山頭火は達したのかもしれない。皆懺悔その爪を切るひややかな「皆」とは自分の全て、それを懺悔している「私」の爪をきわめて日常的に切っている。「ひややかな」に修飾する言葉が見つからないが、爪を切っている自分への「ひややかな」視線か。供へまつるお彼岸のお彼岸花のよろしさ母へ供えたのだろう。「おひがんの」「おひがんばなの」とリフレインは好調だ。夕焼うつくしく今日一日はつつましく「うつくしく」「つつましく」のリズムも、ナルシストらしくハイになっている。この三句を読むと、酒池肉林に放蕩していた山頭火とは別人のようだ。視線は優しく、内部から何かを吐き出す性癖が薄らいで、個性が失われたとも思えるほど伸びやかだ。いつ死ぬる木の実は播いておく 一草庵この世の命は果てるが、自分が消えた後にその木は実る。後始末の心配は要らない。風のなか耕してゐる収穫を期待しないところは、「播いておく」と同じ。死は生に取り込まれて迷いも不安も消えたようだ。一草庵に住む山頭火に松山の人々は親切だった。御幸寺の住職夫妻はいつも気にかけてくださった。黒田住職「層雲」の俳人らが集まって句会「柿の会」を結成し、時折一草庵に集まっていた。最後の庵を「一草庵」と名付けたのは大山澄太だった。「雑草のような生き様だから」ということらしい。昭和15年1940年9月16日「こんなによい月夜だのに誰も来てくれなかった、一洵和尚、どうしましたぞ!放哉坊の句をおもひださずにはゐられなかった。こんなによい月をひとりで観て寝る 放哉私にも自嘲の二三句ある。酒はない月しみじみ観てをり 蚊帳の中の私にまで月の明るくあけはなち月をながめつつ寝る一杯やりたいなあ!これが自然だ、私の真実だ!」 放哉は自嘲ではなくむしろ満足している。山頭火は「酒はない」が自嘲の始まり。あてもなくあるけば月がついてくる昭7年1932年10月17日の日記に残されたが、同年9月15日其中日記には『月の句はむつかしい、とりわけ、名月の句はむつかしい』と書いている。蚊帳へまともな月かげも誰か來さうな 山行水行寝床に居て「月」が見えると、人恋しい。放哉と同類の孤独。しかし、放哉は甘えなかった。月夜風ある一人咳して 放哉たつた一人になりきつて夕空 放哉仲秋名月蚊帳の中までまんまるい月昇る月へひとりの戸はあけとくうしろから月のかげする水をわたる 山行水行月も水底に旅空がある 旅から旅へ旅をせずに其中庵で暮らしている時は、安心な時間が流れる。日かげいつか月かげとなり木のかげ 雑草風景病気をしたときもほつかり覚めてまうへの月を感じてゐる 雑草風景病床からは見えない夜空へ、思いを飛ばしている。月がうらへまはれば藪かげ 山行水行月がうらへまはつても木かげ 山行水行山頭火は放哉が好きなのだ。墓のうらに廻る 放哉月が酒が私ひとりの秋かよ「かよ」は終助詞「か」を投げやりに言う時「かよ」となって、疑問から反語へと。「自分の為だけの秋」なワケないじゃんと。ひょいと穴からとかげかよ 山行水行意に反して「とかげ」だったので、がっかりした。みごもつてよろめいてこほろぎかよ 雑草風景「みごもつて」が分からないのだけど、お腹の形状からシャレたかも。嘗て詠んだ酔うてこほろぎと寝ていたよ 鉢の子野宿の友だった「こほろぎ」を思い出して、「今はみごもっているのか」だろう。昭和15年1940年9月22日 日記享年39歳海藤抱壺の訃報に驚いている。「いつぞや君を訪ねていつたときのさまざまのおもひでは尽きない ―こみあげる悲しさ淋しさが一句また一句、水のあふれるやうに句となつた。…そしてほとんど徹夜で句作推敲した」 全27句「抱壺の訃報に接して」と題して抱壺逝けるかよ水仙のしほるるごとく 「抱壺逝けるかよ」本当かよ、と信じたくない。ほつと息して読みなほす黒枠の黒たへがたくなり踏みあるく草の咲いてゐるおくやみ状をポストまで、ちぎれ雲うごくともなくぐいぐいかなしみがこみあげる風のさびしさ 思いが募ると俳句の質は落ちる。山頭火にあっても同様。組まれたる手の荒れていし仏かな 山本佳子我が母の句だが、近くに住む義姉の急死へ駆けつけた時のもの。しかし、彼女は冷静だった。悲しみの中でご遺体の「手荒れ」を発見するとはすごい。水仕事などで手の荒れている女性と、療養生活も無い急な死だったことを示している。(続く)