田捨女 32)松たけハたゝ一秋を千とせ哉
田捨女 32) 【かな】 秋5)松たけ松たけハたゝ一秋を千とせ哉 秋 180テキスト『松茸の季節が到来する。一日千秋ならぬ一秋千歳の待ちに待ったこの時節である。ただただ待つだけの日を過ごしてきた。』この解説では、前書「松たけ」を「待つだけ」と伏せられた意味に近づいてはいるが、女の業にまたもやそっぽを向いてしまった。「松たけ」は「待つだけ」を隠しているなら、その先の「たゝ一」は「徒人ただびと」つまり凡なる人でもあり、つまり自分に手立ての無い不遇をぼやいている姿を隠しているのだ。「一秋千歳」などと強引に意味づけするが、「一秋」とは「秋の間中ずっと」の意味である。句意は「なんの手段もないので、待つだけの秋でしたが、松茸の収穫をいつもいつも待つように、この先もずっとあなたをお待ちしています。」との女心を受け取ろう。松茸やかぶれたほどは松の形 芭蕉松林に生えるから松茸なのだが、「かぶれた」つまり笠が開いて「頭を覆った」様子は松の形でもあるな、と。ここで、「かぶる被る」は他動詞で四段活用すると辞書にあるので、助動詞「た」が連用形接続として、正しくは「かぶりた」である。そこを「かぶれた」と下二段に使っている。松茸にかぶれ給ひし和尚哉 一茶 この「かぶれ」は「齧れ」で「齧る」自動詞ラ変の連用形で、「お腹をこわす」の意味だが、文法的にはやはり「かぶり給ひし」であるべきと思う。しかし、芭蕉と同じように下二段に活用している。文法的誤りは似た言葉の自動詞「破る」が下二段活用なので、そこで混乱したか。でも俳句的には有りか。俳句の面白さとしては、一茶は芭蕉の句を十分に承知していたはずだから、遊び心フル充電の一句と思われる。ともかく、江戸時代の巨匠は松茸に関しては捨女に比べると感激が少ない印象だが、彼女も話の種に使っただけで、本当は「松茸」に「千歳」ほどの思い入れはなかったのではないか。松たけはただ一秋を千歳かな待つだけは徒人飽きを千とせ哉追記;山本健吉基本季語五○○選 講談社学術文庫では、項目として「茸」に傍題として「茸飯・くさびら・茸山たけやま・茸番・茸売」等があり、「松茸」は掲げられていない。しかし、解説文の中には「種類が多く、香り高い松茸をはじめ」とあるので、いわば椎茸、なめこなどと同じ扱いであるが取り上げられている。その上で、「『芳を詠む高松のこの峯も狭(せ)に笠立てて盈(み)ち盛りたる秋の香のよさ 作者不詳 万葉集』は、松茸を詠んだものとされる」との記載がある。癒やしの回文ママの背で松茸立つまでそのままままのそてまつたけたつまてそのまま※句跨がり。「背」は古くは「そ」と読む。(続く)