まつすぐな道でさみしい 山頭火 (91)
一代句集「草木塔」昭和15年1940年4月28日刊行を構成する折本句集は、「鉢の子」昭和7年1932年6月、「草木塔」昭和8年1933年12月、「山行水行」昭和10年1935年2月、「雑草風景」昭和11年1936年2月、「柿の葉」昭和12年1937年8月、「孤寒」昭和14年1939年1月、「鴉」昭和15年1940年7月の七冊を集成したもので、扉の頁に若うして死をいそぎたまへる母上の霊前に本書を供へまつると書かれている。一代句集草木塔昭和15年1940年4月28日刊行。「三年ぶりに句稿(昭和十三年七月―十四年九月)をせいりして七十二句ほど拾ひあげた。所詮は自分を知ることである。私は私の愚を守らう。(昭和十五年二月、御幸山麓一草庵にて、山頭火)』句集鴉15年1940年7月25日刊。(一代句集草木塔に収録済)この「鴉」最後尾の言葉である「愚」を山頭火は長く守りつつ、ようやく「一代句集」によって念願の亡き母の真の供養を果たせたのだった。一代句集草木塔上梓後、昭和15年1940年5月27日朝の汽船で松山から広島へ向かっている。広島では大山澄太を、徳山では久保白船を訪ね、5月28日は第三のふる里山口に泊って旧友と会い、其中庵に暮らした第三のふる里小郡では國森樹明に会って別れを告げた。そして北九州へと関門海峡を渡って門司、八幡から宗像の神湊(こうのみなと)隣泉寺へ寄って俊和尚に挨拶をしている。この隣泉寺には山頭火の生前唯一の句碑がある。松はみな枝垂れて南無観世音 鉢の子句集前書「大正十四年二月、いよいよ出家得度して肥後の片田舎なる味取観音堂守となつたが、それはまことに山林独住の、しづかといへばしづかな、さびしいと思へばさびしい生活であつた。」出家得度は大正14年1925年2月、堂守となったのはその3月5日。生活のために近在を托鉢に歩いた。直後の5月には木村緑平が早くも様子を見に来てゐる。7月には大牟田まで托鉢を続けながら緑平を訪ねた。この経験から、行乞への自信が生まれたのであろう。隣船寺の第十六世宗俊和尚を、山頭火は以前の昭和7年1932年1月6日に訪ねている。「水といつしよに歩いてゐさへすれば、おのづから神湊へ出た、俊和尚を訪ねる、不在、奥さんもお留守、それでもあがりこんで女中さん相手に話してゐるうちに奥さんだけは帰つて来られた、遠慮なく泊る。」鐵鉢の中へも霰 鉢の子神湊の隣泉寺から福岡へむかう途上で、この名句は生れた。しかし、昭和15年1940年5月27日日記「五月廿七日 晴。早起出立、中国九州の旅へ、――九時の汽船で広島へ向ふ。身心憂欝、おちついてはゐるけれど、――この旅はいはば私の逃避行である、――私は死んでも死にきれない境地を彷徨してゐるのだ。海上平穏、一時宇品着、電車で局にどんこ和尚を訪ふ、宅で泊めて貰ふ、よい風呂にはいりおいしい夕飯をいただく、ああどんこ和尚、どんこ和尚の家庭、しづかであたたかなるかな、私もくつろいでしんみりした。夜、後藤さん来訪、三人でしめやかに話した。罰あたりの私はおそくまで睡れなかつた。」「死んでも死にきれない境地」とは山頭火がひたすら抱え込む「愚」か。「どんこ和尚」とは、逓信省官僚で後に山頭火顕彰に精励された大山澄太のことらしい。https://crd.ndl.go.jp/reference/entry/index.php?id=1000296103&page=ref_view「五月二十八日 曇。早起、一雨ほしいなと誰もが希ふ。いつもの飲みすぎ食べすぎで多少の腹痛と下痢、自粛しよう、しなければならない。朝、奥さんは道後へ、私は山口へ。――己斐までバスと電車、賃金七銭、何といふ安さ、もつたいないと思ふ、折よく九時の列車に乗れた。バスの中ではうるさかつた、汽車の中ではさうざうしかつた。十二時、徳山下車、白船居訪問、ここでもよばれる、旧友のなつかしさ。三時の汽車で山口へ、四時着、Y君を訪ねる、M君を招き、三人連れで湯田の或る料亭で夕飯を食べる、飲みたいだけ飲み、しやべりたいだけしやべつた、Y君の沈黙とM君の饒舌とは変な対照だつた。夜ふけて帰山、私はY君の厄介になつた、おそくまでいろいろ話した。……曇れば波立つ行く春の海の憂欝島をばらまいて海は夏めくいちにち日向でひとりの仕事 柊屋(澄太居)よい眼ざめの雀のおしやべり風は初夏の、さつさうとしてあるけむくむく盛りあがる若葉匂ふなり初夏の風のひかりて渦潮の自嘲六十にして落ちつけないこゝろ海をわたる 」晴々として旅路に就いたと考えていたが、この二日分の日記はなんだろう。亡き母に供える程の人生の果実を配って(売って)歩く、それも思い出を辿り歩く最高の旅だろうに。それを「逃避行」とは。「逃避行」の理由は「私は死んでも死にきれない境地を彷徨してゐる」からなのだが、死への準備はほぼ完了したと見做すのは間違いと言う事か。山頭火には人生でのこれまでの「借財」の清算をしていない、つまり多くの関係者からの援助への報酬をこれ一冊で済ませてしまうことが、「逃避行」と思えたのか。空っぽの甕なら割れて砕けて石に返ればいいのだ。満々と水を溜めている振りはしない方がいい。上掲句の中の命令形は珍しい。風は初夏の、さつさうとしてあるけ山頭火句集ちくま文庫では一句ある、すなわち病院に多々桜君を見舞ふ投げ挿しは白桃の蕾とくとひらけ 旅心をとこべしをみなへしと咲きそろふべし 柿の葉この「べし」は命令形ではないが、意味は命令であるから同類としてもいいなら計二句となる。酔うて闇夜の蟇踏むまいぞ 一草庵「まい」は打消しの強い意思表示なので、強い断定である「ぞ」を伴って「まいぞ」は限りなく自分への命令形に近い。ここまで広げれば計三句となるが、三句とも願望やら鼓舞やらをない交ぜに使ったのだろう。ちょっと寄り道して、山頭火とは違って、人生への後悔から行脚をされた政治家を。くちなしやお詫び行脚の旅衣 孝堂総理になれなかった「藤波孝生」の佳句である。彼は一瞬の油断で罪びととなり、全てを失って歩いた。炎天を一虚無僧として歩く 孝堂リクルート事件で足元を掬われてしまったが、控え目に生くる幸せ根深汁 孝堂この句を人生訓とし、清貧に生きるはずの政治家だった。家には書物が山積みだったそうな。政治は恐ろしい、政治はテロだ。受託収賄罪で有罪判決を得るとは、無念であったろう。記者会見で「現在の心境は」と問われて藤咲けり郷土の太きつるの上 孝堂藤(藤波孝生)を咲かせてくれたふる里の人々の支援に感謝しお礼を述べた。政界引退真つすぐに一本の道草の花 孝堂藤波孝生が生きて来た道はまっすぐのはずだった。秋の野の名も無き花のように、市井の一人として生きたかったのだろう。まつすぐな道でさみしい 鉢の子山頭火は過去と無縁の道を見ているが、孝堂は生きて来た過去から続く道をみている。晋作の家孝允の家白芙蓉 孝堂二人は薩摩藩、孝堂は三重県伊勢の人。政治家として尊敬していたのかも、濁り無き白芙蓉。暮れなづむ三番町の紅椿 孝堂千代田区三番町、千鳥ヶ淵戦没者墓苑を暗示しているのか。第三句集、政界引退記念の句集「伊勢灣」昭和15年1940年6月1日木村緑平居を訪ね、人生で最も援助を受けた友人緑平に会った。翌日の昼すぎまで逗留して語り合ったとのこと。人生の集大成でもあるこの句集を渡せて(買っていただいたのだろうが)大いに安堵したろうな。これまで緑平にさんざん無心をしたので、それも山頭火が言う自らの「愚」であったかもしれない。晩年の木村緑平思いが叶ったか、すぐに若松へ引き返し、高松港行の船に乗って、6月3日には松山の一草庵に戻っている。「六月四日 晴。休養。夏を感じる。買物に出かけて、そしてほろほろぼろぼろ。はだかへ木の実ぽつとり 」この後日記も中断してしまい、突如、昭和15年1940年6月23日日記「… 深更、酔うて帰る途中、すべつてころんだ、額をすりむき、眼鏡が壊れ、帽子が飛んだ。 …罪と罰、因果必然、ごまかせないのである」 一代句集「草木塔」を配る旅で、小金を手に入れたのであろう。山頭火にあっては手持ち資金はその来歴を問わず、酒に注ぎ込まれる。そして前後不覚に到る。帰った翌日6月4日の買い物も、この旅のいわば売上金でだろう。「七月二日 晴。けさも早起、おとなりの時計が五つ鳴つた。身辺整理、捨てられるだけ捨てる。どうやら梅雨も早目に上つたらしい、暑くなつた、真夏真昼の感じがあつた。夕方から一洵老徃訪。 “あるときは王者のこころ あるときは乞食のこころ 生きがたく生く” 」「八月一日 晴。興亜奉公日、その一周年記念日。酒を飲め、飲まずにはゐられないならば、――酒に飲まれるな、酒を飲むならば。――暗欝、自責の苦悩に転々する、終日黙々として謹慎する。もくもく蚊帳のうちひとり食ふこの苦悩は私のみが知つてゐる、それを解消するのは私だけである。かなしいかな、ああ、さびしいかな。」 山頭火の日記(昭和15年2月11日~、松山日記) | mixiユーザー(id:7184021)の日記一代句集「草木塔」を配り終えて安堵に包まれて穏やかに生きているかと思えば、酒浸りのようだ。禁酒したいが蟬しぐれの、飲むな飲むなと熊蟬さけぶ 一草庵「八月二日 曇。身心やや軽く。――B亭の妻君来庵、掛取也、今更のやうに今春の悪夢を反省させられる。終日黙坐、麦ばかりの御飯を少々戴いて。あるがままに受け入れて、なるやうに任しきらう。事にこだはるな、物にとどこほるな、自己に侫るな、他己に頼るな。 “私は旧生活体制を清算する。そして、私は私の新生活体制をうち立てる。 そこで、改巻する。――” 」春にB亭で大酒を飲み、いつもの無銭飲食の狼藉が悪夢なのだろう。ようやく清算が済んで精神状態は改善され始めたようだが、そうなると、いつものように「生まれ変わりたい」願望が現れてくる。そしてそれが叶わないと知ると、死にたくなる。昭和15年1940年9月8日濁れる水の流れつつむ 一草庵 秋風が吹き出すころには、それでも山頭火はようやく落ち着いてきたように見える。(続く)