九月、四国巡礼の旅へ

鴉とんでゆく水をわたらう 

句集「鴉」の最後の句である。

 

啼いて鴉の、飛んで鴉の、おちつくところがない 鴉

昭和14年1939年3月31日に風来居を発って再度東へ向かう時、知多半島辺り。

この不安定な鴉が、四国巡礼に出る時は心静かに付き合てくれている。

 

愛知県美浜町小野浦地区のウォーキングマップの⑦に山頭火の句碑。

春の山からころころ石ころ 鴉

伊勢は志摩はかすんで遠く近く白波

 

広島澄太宅に二泊

「澄太君、わしはのんだ、笠ももりだしたが屋根ももりだした、畳も破れたが、馬鹿酒を呑みすぎたためか、心臓も破れたらしい、余命幾許もないような気がする。まあ、あと一年だね」と話したとか。

澄太は山頭火を知り合いの小野実人の医院に連れて行ったが、診察もせずに「心臓が疲れていますね、酒の業です。でも自分を偽らず、好きな句を作り、好きな人と交わって、もういつ死んでもいいでしょう。」と断定したそうだ。

 

死を意識すれば、死に場所こそが一番の問題となる。山頭火に言わせれば「ほんたうの古郷を欣求すること」でもあり、手をさしのべてくれる人に甘えて、結果として選んだところは伊予の松山だった。 

昭和14年1939年10月1日、山頭火57歳。宇品港から船に乗り、愛媛県三津浜に着いた。

 

十月一日朝、高浜沖の船上

秋空指してお城が見えます

秋晴れの島をばらまいておだやかな 四国遍路 

秋晴ひよいと四国へ渡つて来た    

宇品連絡船

ひよいと四国へ晴れきつてゐる 四国遍路

坊さんごっこも終わった、これからはただの乞食。

 

松山は俳句のメッカでもあるが、山頭火の大好きな温泉の町である。澄太が段取りをしたのであろう藤岡政一(当時郵便局長)高橋一洵(松山高商教授)らの世話になりながら、まずは野村朱鱗洞の墓参りをした。

松山出身の朱鱗洞は明治23年1893年生まれで、俳句は碧梧桐から始まり、井泉水の「層雲」に参加したが、大正7年1918年にスペイン風邪のために25歳で亡くなった。20歳ですでに海南新聞の俳句選者となり、井泉水は朱鱗洞を自分の後継者と認めていた。

山頭火と朱鱗洞は「層雲」初期におけるライバルでもあったが、朱鱗洞の俳句は、歌集「一握の砂」明治43年を刊行し評判の高かった石川啄木に比肩されるほどだったそうな。

 

「層雲」創刊は明治44年であり、啄木は当初からそこに詩や短歌を掲載しているとか。朱鱗洞は俳句で注目を浴び、俳壇の啄木ともいわれるほどの評判だった。それに比べて山頭火は朱鱗洞より十歳ほど年長の上、俳壇へのデビューは数年遅れているのでライバルとも言えないほどの差は付けられていたのだ。

 

大正3年1914年1月20日、高浜虚子が帰郷した時は朱鱗洞が中心になって7人ほどで句会を開き、歓迎している。碧梧桐により近いが、虚子ともまた親しく松山の俳句会を総括する存在だった。山頭火が井泉水に初めて会うのは、ようやくこの年大正3年10月27日の夜句会であった(山口県熊毛郡田布施町)。翌日山頭火は井泉水を案内して防府で椋鳥句会を開催したのだった。

 

朱鱗洞句碑

風ひそひそと柿の葉落としゆく月夜 朱鱗洞

若者というより老成感があるし、七音で始まるのもおもしろい。季語「月」の有季定型としてもいい。ただ、「月夜」の「月」を省いての一句もありかな。「風ひそひそと柿の葉落としゆく夜かな」とか。柿の葉はごっつい葉っぱだけど。

 

倉のひまより見ゆ春の山夕月が 朱鱗洞

「春の山」か「夕月が」か、どちらか捨ててくれれば分かりやすい。でも「層雲」だからね。

「春山の夕月見ゆる倉のひま」これでは仲間外れになるな。

 

若葉冷えゆく星の光なり 朱鱗洞

こうなると、「層雲」とは違う気配の「切れ味の良い俳句だ。

 

するする陽がしずむ海のかなたの國へ 朱鱗洞

なるほど、「國へ」とした途端に世界は一気に複雑化して、面白くなった。

 

はるの日の禮讃に或は鉦打ち鈴を振り 朱鱗洞

「或は」に典型的な自由律俳句を感じるが、軽みが消えてしまったので無い方が好きかも。

「はるの日の禮讃に鉦打ち鈴を振り」ではダメな理由がワカラン。

 

以下も朱鱗洞

ついついとんぼいつまでの夕明りかな 

「かな」とあえて詠嘆する処が朱鱗洞なのか。   

そぞろ歩くにあたたかく星かくれたり

人は林にいこひ林の鳥は啼き

幾何学的な均整の取れないところが自由律俳句。

 

墓を去らんとし陽炎うてをるよ

陽のましたへ舟をやりたしうしほがあふれ

「あふれ」とは何を指すのかよくはワカラナイが、なんと魅力的な。

 

小鯛きんきん光りはねしが手にしたり

闇にすっかりひらいたる桜にあゆむ

「ひらいたる」は誤記でないなら、「ひらきたる」の音の響きを嫌ったか。

 

空仰げば紺青の海高まさる

かゞやきのきはみしら波うち返し

「輝きの君は白波打返し」と間違って読んでしまった。

大井恒行の日日彼是: 野村朱燐洞「はるの日の礼讃に或るは鉦打ち鈴を振り」(「子規新報」第2巻第65号)・・

 

 

朱鱗洞の夭逝は俳句における層雲派にとってはかなりの痛手であったとか。

朱鱗洞追悼

一すじの煙悲しや日輪しづむ 山頭火大正7年1918年 

この頃山頭火は開いた古書店「雅楽多」の店番などしておった。

店番まいにちほつかりと百合が開いたり 大正7年

店を仕舞うて坐れば百合も匂ふなり 大正7年

しかし、山頭火36歳のこの年に弟二郎縊死。

またあふまじき弟にわかれ泥濘ありく 大正7年

 

 

で、大正4年野村朱鱗洞が海南新聞(後の愛媛新聞)の俳句選者として活躍していたころに、依頼を受けた山頭火は俳句二十句を出して掲載されているので、松山は山頭火のまったく知らない土地というワケでもなかった。

 

大正4年報知新聞(海南新聞が見つからなかったので)

大正天皇即位勅語

朕祖宗ノ遺烈ヲ承ケ惟神ノ寶祚ヲ踐ミ爰ニ即位ノ禮ヲ行ヒ普ク爾臣民ニ誥ク 云々

http://minken.party/2019/05/05/shouwa-taishou-sokui/

 

 

昭和14年1939年10月1日、山頭火が松山に来たことを「海南新聞」は大々的に取り上げている。『自然に帰依する俳人の心境』とは仰々しいタイトル。

10月4日付

大見出し「俳僧種田山頭火氏/飄然俳都を訪問」小見出し「故野村朱鱗洞氏墓に参詣」 

10月5日付 

鉄鉢は白船に譲ったので、左手には小さな鉦で、右手に杖、笈を背負う。首に頭陀袋は下げているが、墨染の衣ではなく袷の着物を尻からげにして、地下足袋姿だ

 

 

墨染の衣を脱ぎ捨て、行乞者の象徴とでもいうべき鉄鉢も白船に譲り、まったくの虚飾を捨て、「如実知自心」の実践に踏み出そうとしている。「如実知自心」とは「実のごとく自心を知るなり」で、「ありのままの自分の心を知る」こと、そしてその時「未熟な私たちは未熟な自分を知る」つまりは「佛を知る」ことになる。

 

井月や朱鱗洞の墓参りに拘り、その念願を果たすことで自らを解放する作業は一種の現実逃避とも思える。しかしともかく、人生の一仕事は済んだ。

 

(続く)