『銃後の俳句』
山頭火には「銃後」と題した二十五句がある。昭和14年1月発行の第六折本句集「孤寒」に収録した自選句である。
第一句は「層雲」昭和12年12月に「千人針」と題して掲載した五句の一句
日ざかりの千人針の一針づつ
前書に「街頭所見」とあるので、街角での即吟らしい。この即興性こそが俳句(俳諧)の真髄とも言える。山本健吉は俳句固有の方法として『挨拶』『滑稽』『即興』をあげているが、短歌にもある。有名な「大江山いくのの道の遠ければまだふみもみず天橋立 小式部内侍」は、母和泉式部の代理として出席した歌合で、藤原定頼から「歌はうまいが自分で詠めるのか?」とからかわれた時に、「即興」で詠んだと言われている。尤も、これも想定の範囲内で、技巧たっぷり準備万端前もって用意していた気もするが。
昭和12年7月7日夜、盧溝橋事件勃発。
7月11日「北支事変」と称すると政府発表。
険しい時代の幕開きで、山頭火のような無頼な生き方は世間から押し出され、官憲の職質にも見舞われる。
7月14日 日記
「(日本の大陸進出は)日本の必然、抵抗邀撃するのは支那の必然だ、ここに必然と必然との闘争が展開される。勝つても負けてもまた必然当然であれ。」
「勝っても負けても」と言い放っているところが面白い。山頭火に反戦意識はないが、政治色の無い連作「銃後」が素晴らしい戦時俳句となっている。
尤も「文章報国――句作一念の覚悟なくては、私は現代に生きてゐられない。」と人並な言葉を吐く。「支那時(事)変二周年記念日、黙祷、回向、私も日本人である、日本人ならば日本人らしく行動せよ。」とも、同じ7月7日の其中日記に書いている。
https://aozorashoin.com/title/50201
この翌年に息子健が親への仕送り原資を得るために満洲炭鉱へ入社し、大陸へ渡ったことを山頭火はどう感じているのだろうか。
8月18日日記
「死の用意、いつ死んでもよいやうに、いつでも死ねるやうに用意しておけ。
私は穀つぶし虫に過ぎない、省みても恥ぢ入るばかりである。
一切が無くなった、―ひかり、のぞみ、ちからのすべてが無くなつてしまつた。」
こんな社会情況では誰も助けてくれない、出来ることなら自活したいと思っていたらしい。
「彷徨、身心落ちつかず、やるせなさたへがたし」
ならばと、昭和12年1937年9月11日には国森樹明の口ききで、下関市竹崎町の材木問屋に就職している。日記
「人間を再認識すべく市井の中へ飛び込む覚悟を固める、おそらく私の最後のあがきであらう。五時の汽車で、樹明君と共に下関は、嬉しいやうな、悲しいやうな、淋しいやうな、切ない気持ちだつた。」
転一歩の覚悟での就職で、菜葉服にゴム長靴、小舟に乗って海上を往来して材木受け渡しの帳面付けをするのが主な仕事だった。しかし当然、、五日目には逃げ出してしまった。
菜っ葉服
動労の作業服のようなもので、使う中に皺が寄って「菜っ葉」のように見えるとか。
人並な就労もできず、11月には泥酔無銭飲食により山口警察署に留置される羽目になったが、これはもうドロップアウトした人間の典型だ。
昭和12年1937年12月12日南京占領
12月16日 日記
「悠久な時の流れ、いひかへれば厳粛な歴史の流れ、我々はその流れに流されて行く、その流れに躍り込んで泳ぎ切らなければならない、時代の波に棹さして自己の使命を果たさなければならない。」
山頭火も無関心ではいられないようだが、泳ぎを知らない者が流れに躍り込んでどうするのだ?
月のあかるさはどこを爆撃してゐることか
南京占領
ふたたびは踏むまい土を踏みしめて征く
しぐれて雪のちぎれゆく支那をおもふ
戦死者の家
ひつそりとしてヤツ手花咲く
12月24日 たまたま出かけていた山口駅で、六百五十柱の遺骨を迎えている。
遺骨を迎ふ
しぐれつつしづかにも六百五十柱
もくもくとしてしぐるる白い凾をまへに
山裾あたたかなここにうづめます
「層雲」昭和13年5月号に、次の二句だけを並べて発表している。
ふたたびは踏むまい土を踏みしめて征く
しぐれつつしづかにも六百五十柱
いわゆる嘱目の一句の優秀性は認めても、それを残すかどうか思案をしたのだろう。
中国社会科学院日本文学研究者である李芒氏と村上護氏(山頭火句集ちくま文庫編者)は山頭火の俳句について語り、李芒氏は山頭火の「銃後」を杜甫の戦争を詠んだ歌に匹敵すると、高く評価していた。
兵車行 杜甫 一部書き出すと
「信知生男悪 反是生女好 生女猶得嫁比鄰 生男埋沒随百草」
https://kanbunjuku.com/archives/109
雪へ雪ふる戦ひはこれからだといふ
この句にある「雪へ雪ふる」は
雪へ雪ふるしづけさにをる 其中一人
とも使われている。時間の流れと共に積もってゆく緊張感がある。
遺骨を迎へて
いさましくもかなしくも白い凾
街はおまつりお骨となつて帰られたか
東京大学大学院情報学還学際情報学府AI処理画像
遺骨を抱いて帰郷する父親
ぽろぽろしたたる汗がましろな凾に
お骨声なく水のうへをゆく
その一片は故郷の土となる秋
以上六句は昭和13年の句から
昭和13年は戦線が拡大し、華北と華中の両戦を結ぶために徐州作戦が開始された。4月の台児荘の戦闘では、帝国陸軍ははじめて大きな敗北をしている。
国家総動員法が公布され、働く気のない草庵ぐらしの人間にとっては、ますます生きにくい世の中となってゆく。この法は有体に言えば、国民の人としての基本的な権利「自由」を放棄せよと宣言するものだった。
第一次近衛内閣
昭和13年1938年5月24日 日記
「夜は今日借りた本を読みつづけた。
“高くこゝろをさとりて俗に帰るべし” 芭蕉の言葉(土芳―赤冊子)
この五カ月後、突如
「古池や蛙飛び込む水の音
―――蛙飛び込む水の音
――――――――水の音
---------音
芭蕉翁は聴覚の詩人、音の世界」
と書いているが、ピカソが牛の絵を描く時の、つまりキュビズムの完成へ到る作業と同じだ。
音はしぐれか
この句は昭和七年十月二十一日、山口県小郡の其中庵での作で、それも厠に入っている時に聞こえて来たそうな。呑兵衛にありがちなお腹をこわしていたのかも。そう思うと
音は朝から木の実をたべに来た鳥か 其中一人
其中庵で聞く音なら、これも弛んだ腹の音かもしれない。
昭和13年1938年7月7日 日支事変盧溝橋事件一周年
「日ましに戦時色が濃厚になつて」
其中庵も6年が経ち、雨漏りがひどくなる一方だ。11日に山口駅で遺骨を迎えた場面は、日記にくわしく書いている。
「十二時過ぎて、その汽車が着いた。あゝ二百数十柱!声なき凱旋、―悲しい場面であつた。
白い凾の横に供へられた桔梗二三輪、鳩が二三羽飛んで来て、空にひるがへる、すすり泣きの声が聞こえる、弔銃のつゝましさ、ラッパの哀音、行列はしゆくしゆくとして群衆の間を原隊へ帰って行つた。 …」
馬も召されておぢいさんおばあさん 銃後
ほまれの家
音は並んで日の丸はたたく 銃後
戦傷兵士
足は手は支那に残してふたたび日本に 銃後
皇后陛下御仁慈
当時の俳壇においてはいわゆる戦火想望俳句が主流となり、これは内地にあって戦場や戦闘を想望しながら作るフィクション俳句で、山口誓子はこれを唱導して「新興無季俳句はその有利の地歩を利用して、千載一遇の試練に堪へて見るのがよかろう。銃後に於いてよりもむしろ前線に於いて本来の面目を発揮するのがよかろう。」と書いた。「俳句研究」昭和12年12月号「戦争と俳句」
定型を捨て俳句から逸脱した感のある河東碧梧桐の新傾向俳句とは異なり、新興俳句は定型を維持しながら季語季題からの解放を目指した。これは三橋敏雄、池田澄子へと引き継がれた。
天凍てし甘粛省を征めてかへる 山口誓子
落日をゆく落日をゆく真赤い中隊 富澤赤黄男
戦争と畳の上の団扇かな 三橋敏雄
水枕ガバリと寒い海がある 西東三鬼
水枕は異様な音がするが、その音から寒い海へと飛ぶ。無季の傑作と思える。
西東三鬼は京大俳句事件に連座して逮捕されている。
機関銃眉間ニ赤キ花ガ咲ク 西東三鬼
前へススメ前へススミテ還ラザル 池田澄子
平成12年
この昭和12年1937年12月には高浜虚子は、大政翼賛会に連なる文学者愛国大会に於て宣戦の大詔を奉読するなど、政治のステージへ一気に駆け上がった。虚子は昭和初期には既に俳壇の絶対的権威として君臨していたので、避けがたいといえばそうなのだが。
昭和15年1940年「京大俳句」、昭和16年「土上」と新興俳句系の大弾圧が始まり、俳人たちの検挙起訴が行われ、彼等の雑誌もことごとく廃刊となり、新興俳句も当然終わった。虚子が日本文学報国会俳句部会の会長職に就くのは昭和17年5月、俳壇粛清の終わった後である。
大寒の埃の如く人死ぬる 高浜虚子
昭和15年1月「ホトトギス」。「大寒の埃」とは単なる季題趣味に発するのではなく、「大義がもたらす死」、つまり戦争という「私に対する不条理」を詠っているのだろう。虚子は一筋縄ではいかない複雑さを持っている。
戦時俳句には、今この戦前に生きる我らにも興味深いものが多々ある。
機関銃熱キ蛇腹ヲ震ハスル 西東三鬼
戦争が廊下の奥にたつてゐた 渡辺 白泉
山頭火日記 昭和13年1月13日
「事変俳句について
俳句は、ひつきょう、境地の詩であると思ふ、事象乃至景象が境地化せられなければ内容として生きないと思ふ。
戦争の現象だけでは、現象そのものは俳句の対象としてほんたうではない、浅薄である。
感動が内に籠つて感激となつて表現せられるところに俳句の本質がある。
事実の底の事実。―
現象の象徴的表現、― 心象。
凝つて溢れるもの。―」
山頭火の詩論では一番好きな文章だ。戦争だけでなく、なにか特殊の現象を目の当たりにした時、それだけを記述しても俳句にならない。「感激となって表現」されて初めて俳句たりうる。なにかが溢れ出す時、それは詩でなければならないし、それ以外に詩は生れない。
伊勢神宮所蔵 皇后陛下の御仁慈
この絵を見てたまげたのは、野原の野戦病院のような場所に包帯を巻く幼児を連れ出して居ることだ。さらに、幼児は国民の士気を鼓舞するために画家が敢えて描き込んだのだろうが、その児を見る皇后陛下の少しも動揺していない姿に違和感が生じてしまった。
「途上見分の一」(日記の端に)
「 日の丸をふりまはす子供に母親が説き諭してゐる。―
今日はバンザイではありませんよ、おとなしくお迎へするんですよ。
血縁の苦しさよ。」
(続く)








