昭和13年1938年11月、新居探しに行き詰っていた山頭火は中原呉郎等の援助で引っ越すことが出来た。この庵を「風来居」と名付け、その一角をオシャレにも「秋葉小路」と呼んでいた。
十一月、湯田の風来居に移る
一羽来て啼かない鳥である 鴉
転居を「草の中から人間の中へ」と引っ越しを伝えているが、近隣の騒がしいことに閉口している。
うらのこどもはよう泣く子
となりのこどもも よう泣く子
となりが泣けばうらも泣く
泣いて泣かれて明け暮れる
などと、戯れ歌も残している。
啼いて鴉の、飛んで鴉の、おちつくところがない 鴉
山頭火句集ちくま文庫小崎侃画
この頃の句
棕梠の夜風のおとなりはお寺
千人風呂
ちんぽこもおそそも湧いてあふれる湯 山行水行
千人風呂
はだかではなしがはづみます 柿の葉
二句とも湯田温泉の千人風呂の様子だそうだが、混浴だったのだろう。
とはいえ、中原呉郎の文学への夢を聞いたり、若い詩人たちの悩み事を聞いてやったりと、山頭火の本質とは異なる領域での交流は、もちろん酒を酌み交わしながらであっても、ボスの資質を持たない山頭火をだんだん疲れさせた。山頭火は人に甘えられるのが苦手で好まない。これは甘えん坊にしばしば見られる性癖である。
昭和14年1939年2月1日 日記
「私は近来あまりに放漫だった、知らず識らず、若い連中の仲間にまじって、年甲斐もなく浮かれ騒いだ、省みて汗するばかりである。私は自戒自粛して、正しい私に立ちかへらなければならない。」
「近来、私は人間に接触しすぎたやうである、なんだか嫌なものがこびりついたやうである、早く旅に出て、その嫌なものを払ひ落したい。」
若者との交流を「嫌なもの」と言い切るのはどうかとも思うが、若者のエネルギーや圧に辟易する気持ちはワカル。風来居を世話してもらったとの負い目も、山頭火に負担だったかも。
山頭火がずっと気になっていたのが、以前果たせなかった伊那の井月の跡を訪ねることで、井月は昭和8年に知って以来忘れられない俳人であった。
「井月全集」昭和5年刊。旅先で病に倒れてから、山頭火はこれを読み進め、その生き方や俳句に傾倒していった。
今日ばかり花も時雨よ西行忌 井月
旅人の我も数なり花ざかり 井月
何処やらに鶴の声きく霞かな 井月
落栗の座を定めるや窪溜り 井月
山頭火の井月思慕は募り、
「… 私は遂に無能無才、身心共にやりきれなくなつた、どうでもかうでも旅に出て局面を打開しなければならない、行詰つた境地から真実は生まれない、 …窮余の一策として俳諧の一筋をたよりに俳諧乞食旅行に踏み出さう!」
この時井月のことが念頭にあったはず。翌日の日記
「今日は仏前に供へたうどんを頂戴したけれど、絶食四日で、さすがの私もひよろひよろする、独座にたへかね横臥して読書思索。万葉集を味ひ、井月句集を読む、おゝ井月よ」と印象的に書いている。
井月全集を読み続け、自分のあるべき姿「正しい私」へとたどり着くためには、井月の墓前に行き直接井月の心に出会わねばだめだと考えていた。
そしてついに、ようやく昭和14年1939年3月31日、風来居を出発して、再び東を目指した。
三月、東へ旅立つ
旅もいつしかおたまじやくしが泳いでゐる 鴉
春の山からころころ石ころ 鴉
「ころころいしころ」のリフレイン絡みのリズムは山頭火絶好調の証。
この旅では、まず徳山の久保白泉に会い、4月1日には広島市大山澄太居に宿泊し、翌日は澄太と三原の仏通寺に詣でている。
多分路銀の無心も上手く行ったのだろうが、4泊もした後5日に宇品港から船で大阪へ向かった。
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青空書院 旅日記03 昭和14年
大阪から京都へ、次いで滋賀、近江の石塔寺(当時は極楽寺)に知人の和尚を訪ねて2泊。その後津島から名古屋へ出た。
この旅死の旅であらうほほけたたんぽぽ
吹きつめて行きどころがない風
知多半島、渥美半島と回り道をし、渥美町福江の潮音寺には芭蕉の弟子杜国の墓がある。芭蕉の句碑もある。
鷹ひとつみつけてうれしいらご崎 芭蕉
伊良湖崎芭蕉句碑
伊良湖岬
はるばるたづね来て岩鼻一人 鴉
岩鼻は突き出した岩の突端。
この時の山頭火は、「岬の景観はすばらしい、句作どころではない。…芭蕉翁は鷹を見つけてうれしかったけれど、私は鳶に啼かれてさびしがる外なかった。」と感想を残している。
渥美半島
まがると風が海ちかい豌豆畑 鴉
4月23日奥三河の鳳来寺、その後浜松、秋葉山、天龍川をさかのぼって伊那に向かった。
鳳来寺拝登
お山しんしんしづくする真実不虚 鴉
真実不虚(しんじつふこ)とは、真実にして虚ならざるなり。直前の「能除一切苦」の「執着からの苦を取り除けば」そこには「真実のみが残る」とかの意味。般若心経の終わり近くに出てくる。
鳳来寺
花ぐもりピアノのおけいこがはじまりました 鴉
「青蓋句屋」が何かワカラナイ。
浜名街道
水のまんなかの道がまつすぐ 鴉
秋葉山中
石に腰を、墓であつたか 鴉
秋葉山本宮秋葉神社
唱和14年1939年5月1日旅日記には
切株に腰かけて遠い遠い昔
石に腰かけると墓であつた
秋葉山
いのちをはりて枯れたる株の苔むして
大杉仰げばはるかなる太陽
等がメモられている。
「大杉の」は大景に挑んで佳き句と思えるが、句集には残していない。「大杉仰げばはるかなる太陽が暗い」とでもするかな。他の太陽を使った句、山頭火50歳
暗い窓から太陽をさがす
三八九居を引き払い、太宰府あたりで「うしろすがたのしぐれてゆくか」の名句を成したころの作品。室内つまり自我の世界から、小さな窓越に見える他者たる世界は暗く、希望の光は見えていない。
天竜川をさかのぼる
水音けふもひとり旅ゆく 鴉
天竜川
飯田近く
山のしづけさは白い花 鴉
飯田を通過する際には、前回急病でお世話になった太田蛙堂夫妻への感謝の気持ちでいっぱいになったそうな。
(続く)







