田捨女3)
粟の穂や身は数ならぬ女郎花
柏原本町・西楽寺の境内にこの句の碑があり、『寛政10年(1798) 自筆』となっている。
https://www.artm.pref.hyogo.jp/bungaku/map/detail/m435/
田ステ女は元禄11年1698年に没している。『ステ』の名も入っているけれど、自筆原稿からの写しなのかな。
女郎花に関して連俳書では、『女郎花はいかなる歌にも女にして詠みはべるなり。発句にもその心あるべし』とある。(山本健吉基本季語五○○選 講談社学術文庫)
ひよろひよろと猶露けしや女郎花 芭蕉(更科紀行)
留別四句
送られつおくりつ果ては木曾の秋 翁
草いろいろおのおの花の手柄かな
人々郊外に
送り出で三盃を傾侍るに
朝顔は酒盛り知らぬ盛りかな
ひよろひよろとこけて露けし女郎花
ここでは「こけて露けし」となっている。こちらはわかりやすいが例の嫌われ者の「説明臭さ」がある。
【ひよろひよろとなほ露けしやをみなへし】第71回 句碑No.75 東京都国分寺市西恋ヶ窪 熊野神社
「猶」が宜しいかと思う。
しかしその上で、「猶」は、否定されている物を改めて肯定する時に使われるので、俳句に使うのは如何なものかと調べたら、
余寒なほたたもいわしに微塵の眼 能村研三
吊れば鳴る明珍火箸余寒なほ 飯田蛇笏
「余寒なほ」は一塊でたくさん見いだせるが、他にも
甘露煮や寒鮒の金なほのこり 加藤楸邨
なほ北に行く汽車とまり夏の月 中村汀女
颱風外れぬカンナはなほも花に富む 津田清子
などと、それぞれにニュアンスを変えて使われている。
無いと思っていたが在るんだね。意味的には、「さらに」「もとのように」と二種類あるようだ。
で、入船山(柏原八幡神社)西山麓の北方にある田ステ女公園が千日寺跡。この寺は延宝2年(1674)に夫田季成が51歳で亡くなった時に、42歳のステは菩提を千日の間弔うために高谷の地に庵を建て、回向満願した。その姿が人々の心を打ち、日数に因んで庵は「千日寺」と呼ばれるようになったとか。千日寺は明治初年廃寺となり、そこにあった石地蔵・石燈籠・手水鉢やステ女の百回忌に建てられた句碑は西楽寺に預けられていた。それらは今は旧千日寺跡に戻され、新しく句碑や歌碑も加えられ「ステ女公園」として整備された。
ひぐらしや捨てゝおいても暮るゝ日を
この句も自筆句集からの「捨女句集」には見当たらない。
※千と数へて結願なせり と(勝手に)付けてみれば、満願の日に鳴きほこるヒグラシが聞こえてくる。
もう一方は
秋風のふきくるからに糸柳
こゝろぼそくも散る夕かな
で、婿養子殿が早々と亡くなり、家督の問題もあるし、家族を抱え不安だったのだろう。
これを俳句に切り出して
糸柳こゝろぼそくも散る夕
でイケそうだが、「心細く」で俳句から離れてしまうからムリか。
出典:国立国会図書館デジタルコレクション『田捨女』
捨女 在世中の田家邸宅(昭和初期) さすが庄屋の代官屋敷。
家督は次男(?)の李鶴が継ぎ、長男と思われる李厚は分家独立したようだが、いろいろ心労もあっただろう。
1674年延宝2年夫が死去、1681年天和元年落飾して妙融と号したが、すでに貞門女流六歌仙(六俳仙)の1人として著名であった。
その後京都で俳諧・仏道などの修行を重ねた後、1688年元禄元年播磨国の天徳山龍門寺の傍らに「不徹庵」を構え、貞閑と改名した。その地で俳句の後進の指導に当たられたとか。
捨女は元禄11年(1698)不徹庵で66歳の生涯を終え、龍門寺に葬られた。本山の妙心寺から嶺雲貞閑禅師の位号を贈られ墓は龍門寺にある。
※帰依した盤珪永琢禅師は元禄6年1693年死去、芭蕉は翌年元禄7年1694年に亡くなった。
さて、田捨女の紹介を終えたので、これから俳句を読むが、まずは有名な一句。
雪の朝二の字ふみ/\下駄の跡
雪の日の朝、下駄の足跡(二の字)をふみながら歩いている。幼い足が歩幅も狭く雪に驚きながらゆっくり歩いている。可愛らしい姿だが、(雪を踏んでいる)子供と下駄の跡の両方が見える人は、本人ではなく保護者であろう。
『古今名婦伝』では
初雪や二字ふみ出す下駄の跡
となっている。
全部ひっくるめて、後人の改作であるとする説もある。
有名な俳人のエピソードを紹介した『続俳家奇人談』天保3年1833年には、「田捨女 付盤珪禅師」という記事が有り、6歳の冬に次の句を詠んだことが話題になっている。
雪の朝二の字二の字の下駄の跡
雪に付いた下駄の跡を、きっと覚え立ての「二」の字と見做す機知はいかにも捨女らしい。「二の字二の字」の繰り返しからは、その跡を付けながらはしゃぎ遊んでいるようでさえある。
しかし、実は、この句も捨女自筆句集には見いだせない。
下駄の跡を「二の字」とする見立ては古くからあったとの指摘(「近世俳句俳文集」(小学館新編古典文学全集2001平成3年)がある。
また、ステが10歳のころ、親類の酒造家で店の手伝いをしていたら、得意先から菊という女が使いとして一升の酒を買いにやって来た。その日がたまたま重陽の節句(九月九日 菊の節句)だったので、ステは帳簿に次のように書きつけた。
一升や九月九日使菊
10歳にしてこれも信じがたい、機転が利きすぎ。自筆句集に残さなかったのは、捨女自身がこの句を好きでなかったのか、贋作か、どちらかなのだが。酒屋の看板にするならいいが、つまらん句だ。有名な捨女の名をかたって自分の句を世に出したい輩もいただろう。
(続く)






