田捨女13)

 

【や】間投助詞 -9

【中七】中七の途中・夏

 

1)ほとゝきす初音や花の念はらし 夏 108

移ろい行く季節の中ほととぎすの鳴く時期になってきたので、「花」つまり「余花」を切なく思っている。しかし、ほとぎすの「初音」も探していたものなので、それを聞けばいよいよ夏と去りゆく春への恨み心も晴れようというものだ。

「念」とは望みや希望の心。「晴らし」は「晴らす」の連用形で、心ののわだかまりを解き、と流しているか。子供等を「腹減らし」と下世話に言うように、「晴らし」は名詞化かもしれない。

ほととぎす初音や花の念晴らし

 

2)姫瓜のまかきやふかき窓のうち 夏 119

姫瓜はマクワウリの変種で、実が小さいので「姫」が付く。熟すと白色から黄色味の白に変わるので、画像はまだ若い。

 

熟せば食べられるらしいが、主にお盆のお供えや8月の朔日に飾る雛に用いられる。

ちなみに、清少納言の「枕草子」に「うつくしきもの(愛しきもの・肉親に対する愛情で、心引かれる意味)」として「瓜に描きたる稚児の顔」の瓜はこのヒメウリだそうだ。

姫瓜は垣に作る事が多いので、「籬まがき」つまり柴や竹などで目を粗く編んだ垣に蔓を絡めているのだ。「ふかき」は「深き」で奥まっている。

小さな実が葉隠れに見えない姫瓜のように、我が家(か余所のお宅か)の可愛い娘も、深い籬(まがき)を隔てた窓の室内にそっと暮らしている。

 

姫瓜の籬や深き窓の内

 

3)せみせみと鳴くや類句の哥の吟 夏 135

例えば「せみごゑ」とは絞り出すような苦しげな声で、

「験者の物の怪調ずとてせみごゑしぼり出して(呪文を)よみゐたれど」能因本・枕・すさまじきもの 等。

「せみせみと」と耳障りは軽いが、意味は「必死に絞り出している」ではないのか。我々も散々指導される「類句」の罠から逃れようとしている気がする。

 

句意は、「鳴声が時雨のように重なるとすべてが同じ蝉の声に聞こえる。さながらよく似た言葉を重ねて作った歌のようである。」でよかろう。

 

4)とまるせミの哥や西行やなぎかけ 夏 136

那須町ホームページより

遊行柳 | 那須町行政ページ

 

「遊行柳」は、「道の辺の柳」、「清水流るるの柳」、「朽ち木の柳」、「枯れ木の柳」などとも書かれるが、平安時代の西行法師が奥州を旅する途中、この地で、

道の辺に清水流るる柳蔭しばしとてこそ立ち止まりつれ 西行 と詠んだことによるというが、確かではないそうだ。

遊行柳

 

また、時宗19代尊酷上人(そんこくしょうにん)(遊行上人)が室町時代の文明3年1471年頃にこの地に至った時、「柳の精」が老翁となって現れ、上人に成仏させらてもらった。その喜びに

草も木も洩れぬ御法の声聞けば朽ちはてぬべき後もたのもし

と詠んで消え失せたという伝説があるが、他に柳の精は女性であるとの話もある。個人的には後者を取る。

藤沢の時宗総本山は遊行寺(正式には清浄光寺)と言うが、この伝説が由来なのだろう。

 

かような逸話を元に観世光信によって謡曲「遊行柳」が作られた。これを契機に伝説が広がり歌枕にもなっている。

松尾芭蕉が訪れたのは元禄2年1689年で、「おくのほそ道」に記述されてからメジャーになった。このころの捨女は盤珪和尚に入門1686年し、1688年には「盤珪の元へ走って?」庵を結んでいる。

 

この柳の傍らに西行、芭蕉、蕪村の歌碑、句碑が建てられており、今なお訪れる人々が多い。

 

今はまた流れは同じ柳蔭ゆき迷いなば道しるべせよ 蒲生氏郷

 

田一枚植えて立ち去る柳かな 松尾芭蕉

 

柳散清水涸石處々(やなぎちりしみずかれいしところどころ) 与謝蕪村

蕪村は蘇東坡の「水落ちて石出づ」を思い出したのだそうで、蕪村の頃はずいぶんと荒れていたのだろう。

 

本題の「せみせみと~」の句意は、蝉の鳴声も木にとまってしばしの間、聞こえてくると程度で、もちろん、句中の歌は蝉の鳴声である。

 

止る蝉の哥や西行柳蔭

 

5)人もとより文おこせし返事に  

をと計聞や空言かりのもし 秋 202

前書の「人もと」とは「親元」の「元」で、「どなたかのお住まい」ということか。

「おこせし」は「遣す」下二段活用の連用形+過去「き」の連体形で、意味は「送ってきた」文つまり手紙だ。わざわざ「人もと」などと突き放した前書を付けるのは、どなたからのお手紙であろうか。捨女は案外情熱家なのだ。41歳で孤閨をかこち、夫供養の千日回向が済んだら、まるで自由の身となったのだ。アラサーで夫と別れた女性は孤閨を守れるが、アラフォーではムリとされている。

 

「どこかの誰かからお手紙が来たので、そのお返事に」と前書して、季語「鴈」を「仮」に反映している。結構怒っているようだが、ちがうな。

「おとばかり聞く」とは、「噂ばかりを聞かされておりますけど」と拗ねているのだ。このたび頂いたお手紙には、「空言」うそばっかり、取って付けたような文字の列ですわ、と。よほど親しい殿方への返信である。受け取った男がにやりとするだろうと、捨女は期待している。彼が狼狽えたら、それだけの男と離れよう。

空を飛ぶ雁の文字を連ねた音信はあるものの、まったく心にもない作りごと「仮の文字」なのでしょうね、と皮肉を言われたら、オレなら

妻恋ふ鹿のをとこ公達 とでも付けて返書をするか。

 

テキストでは、『をとは彼方・遠で彼方をちの転』とするが、捨女はしばしば「お」と「を」を取り違えて書く。ここでは、「音ばかり聞く」だ。テキストでも転とは言いながら、『をとばかり聞くは音に聞くつまり噂に聞く・人づてに聞くか』としている。こちらが本線である。

音ばかり聞くや虚言仮の文字 

 

さて、今年もまもなく過去になる。なにかと喧しき出来事も多かったけど、来年はすっきり生きたいものだ。

 

酒のつまみに、おまけ

缶ビール。点字が打ってある、「お酒」と書かれているそうだ。

 

 

(続く)