田捨女25) 【かな】 春

 

3)つくは山かのも木の間の花見かな 春 59

筑波山から「かのもこのま」を導いたのは、「このもかのも」の知識からであろう。

筑波山;さいたまから首都高越しに

 

筑波嶺のこのもかのもに陰はあれど君がみかげにますかげはなし 詠人知らず 古今集

「このも」は「此の面」でこちら側、「かのも」は「彼の面」であちら側である。「陰」は物陰木陰だが、かばったり守ったりしてくれる人や、その人からのめぐみやおかげそのものを指すべく使われてもいる。

この陰も接頭語「み」を伴うと、天皇の御殿を言ったり、天皇(や神)の恩寵を示すことになる。

歌の意味は、「筑波山のあちらこちらに過ごしやすい木陰がありますが、天皇の恩寵を超えるほどの恵みはありません」ではあるが、「陰」「御影」「陰」と言葉の練習か遊びのような。

 

同じような言葉遊び系の歌は万葉集にもある。

天皇の、吉野の宮に幸(いでま)しし時の御製歌(おほみうた)

よき人のよしとよく見てよしと言ひし吉野よく見よよき人よく見つ 巻一(二十七)

「よき」「よし」「よく」と「よし」を繰返しながら、面白く「吉野」を強調しているので、天武天皇ご自身がお作りになったと考えるより、その周辺の人の忖度短歌であろう。

 

来むといふも来ぬ時あるを来じといふを来むとは待たじ来じといふものを 大伴坂上郎女巻四(五二七)

「む」「ぬ(ず)」「じ」と助動詞の練習のような歌だが、「こ」のリズムが心地よい。その中で「今夜こそ来て」と、女は待つだけの妻問婚の切なさを歌っている。こんなに素敵な歌が手元に届いたら、ダッシュで行っちゃうけどね。

 

捨女は古今の文献に通じているので、油断できない。

「筑波嶺のこのもかのもに」の歌では「君」は天皇を指すが、捨女はその歌を俳句に敷くに際して「君」を「恋しい殿御」と解して、慕う心を滲ませた。

 

つまり、この歌の表現を借りながら、歌垣で有名な筑波山に二人で行って、あちらこちらに人目を避けながら、花見をしましょうよ、と。

♪もしかしてPARTⅡ「二人の行き先は一つ」。

 

 

上五「つくは山」の舞台設定が効いている、二上山では拝みたくなって色気が無い。

そんな捨女を妄想しながら、「このもかのも」を「かのもこのま」と洒落つつの句作にシビれる。

 

筑波山彼の面木の間の花見かな   

 

4)朧月よかんの君と夕阝かな 春 81 

資料としている句集では、編著者らは「夕阝」をコメント無しで「夕べ」と読み、「『よかん』は『余間』で、余暇のひとときであろう。」としている。句意を「かすむ朧の春の夜、君と過ごすしばしの時間が値千金というのである。」と記している。彼らもきっと悩んだろうが、たどり着けなかった。

まずいことに、「余間」は「よま」と読んで、正殿に隣接する部屋を言うし、寺院なら内陣の隣の左右の部屋のことなのだ。「四間」と書いて、四坪の部屋とすることもあるようだ。

 

編著者らが読んだ原本が手元にないので想像するしかないが、「よかん」は書かれている平仮名「れ」を「ん」と読み違えたのではなかろうか。

崩し字「れ」

つまり、「よかれ」で、「よがる」(男が通わなくなる)の名詞で、「夜離れ」と書く。

最近お誘いの無い彼を詰っているのだ。

 

句中の「夕」は分かりやすいが、「夕(ゆふべ)」は夜の始まりで、以下、「よひ」「よなか」「あした」と時間は進行する。これに対して、「夕(ゆふ)」は昼の終わりを言う言葉だった。

実は、「夕阝」は原本は縦書きの古書なので、「阝」は「こざとへん」ではなく「け」を読み違えた気がする。

崩し字「け」

「阝」は「け」と読んで、「夕げ」つまり「夕餉」とする。

 

そして、この句では文字が乱れて読みにくいようなのだが、この句を書き留めるときの捨女はなぜか急いでいたのだろうか。あるいは「書き残すべきか」などと心が乱れるままに記載したにちがいない。またも想像だが、この句を作家としては残したいが、あからさまにはできない事情があったのではなかろうか。

 

句意は、拗ねている捨女が暖かくなってきた春の宵に、(近頃ご無沙汰であなたの記憶もおぼろげよ、それと同じおぼろな)朧月を眺めながら、亡くなったダンナよりもっと親しいが連れない男に「ね、ご飯しよっ」と念じつつ、今夜は一人の膳に向かっている。

 

朧月夜離れの君と夕餉かな

 

5)咲ましるたんたらすしのつゝしかな 春 85

「たんたら」は「段だら」で、横縞が幾つも重なった図柄のこと。「すし」は「筋」で、ひとつづきに細長く続いているモノを指すが、「段だら筋」とは特に色の違う横縞が連続する図柄、その状態のこと。

「咲ましる」は「咲き混じる」なので句意は簡単に、躑躅の色違いの花がそれぞれ咲き誇りつつ筋状に並び混じっている、なのだ。

 

しかし、捨女を半年も読み続けていると、彼女の心とどこかで交信しているようで、表の意味とは違う心を読まされる気がする。平仮名を多用するこの句もそう。

「ましる」「交じる」には「仲間に入る」意味があるので、「交はる」に極めて近い言葉である。

「たんたらすし」の「たん」は「旦」と書けば「旦那」の略である。

「たんたらすし」の「たらす」を「誑す」と書けば、「たぶらかす」である。

さらに言えば、「つゝし」の「つゝ」はセキレイ鶺鴒を指す隠語でもあり、セキレイはバレ句では性交の象徴である。

等々、ご本人に会えればご指導いただけるのだが、モームリ、叶わないな。

でも我が煩悩に従いつつ、この先も捨女を読んでみよう。

 

咲き混じる段だら筋の躑躅かな

 

気晴らし回文

泣かねども躑躅増しつつ元値かな あき坊

なかねともつつしましつつもとねかな 

※値切るなよ、植木屋さんを泣かすなよ、

 

(続く)