三条河原町のブログ

三条河原町のブログ

昭和30年ぐらいまでの娯楽日本映画は、
普通の人たちの生活を実感させてくれる
タイムトンネルです。

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再び、ユーチューブで林長二郎主演「花婿の寝言」を見る。

 

テレビのドラマも映画もつまんなくなった、「いま」、昭和10年から戦争を挟んで昭和40年ぐらいまでの映画はとてもいい。テレビのドキュメンタリーも丁寧に人々を描き出していた素晴らしい作品があった。

敗戦による本当の日本社会の変化は、昭和は45年(1970年)に入って)から徐々に進んでいったように思える。

 

長谷川一夫ファンとして、戦後の彼の作品も含めて、ブログを書き始めようと思います。

これは5年ほど前の記事ですが、また「花婿の寝言」がアップされていましたので。

 

ユーチューブで林長二郎主演「花婿の寝言」を見る。
おもしろい!これが、翌年2.26事件がおき、軍国主義まっしぐらへと進む暗い時代、昭和10年に制作された映画なのか。とんでもない、当時の平和な庶民生活が描かれている。
長谷川一夫こと林長二郎の演じる会社員は、当時というよりも、現代のサラリーマンに近い。
会社よりもズーッと家庭の方が大事そうだし、彼の友人は、奥さんに頼まれ、会社帰りに、肉を買い、家ではすき焼きの用意のためネギを切らされている。現代とちょっと違うところは、郊外の普通の新婚家庭にもお手伝いの「ねえや」がいることと、奥さんが昼寝をしているということで一悶着起きることだろう。

また長谷川一夫の演じる主役の新婚会社員がとてもいい! イメージとしては、藤山寛美演じる「あほぼん」をもうちょっとスマートで、ハンサムで、かっこよくした感じである。
藤山寛美は、昭和4年生まれだから、長谷川一夫が、寛美のまねをしたわけではなく、二人は、かつての関西特有のやわらかな笑いの世界を体現する人たちであるからかもしれない。

 

母親と義父(女房の父親)とのいい争いのなかで、「これは寝言を言いそうだ」と斬罪されると、母親の陰で、何も言えずに鼻をこすり目だけで不満を表す表情が何とも言えずかわいらしい。関西にはいるんです、こうゆう息子が。
「断然離婚する!」と言いきって自分の部屋に入り、何をするのかというと、箱にはいったたくさんの女房の写真とカメラをひっさげ、女房に「こんなにも君を愛していたのに!」「このカメラだって君を写すためだけにかったんだ」。もう、いらないとばかりになげすてようとするが、もったいなくてカメラに女房に渡す、そのしぐさが、とても自然。どんなに激しても、自分を見失わない冷静さを保ち備えている(というよりは、高級品のカメラを壊したくない。そんなことしたら損や、と計算してしまう)関西のぼんぼん。
舞台は東京郊外の住宅地、でも長谷川演じるこの主人公は、かつての関西のぼんぼんのにおいが充満している。
なぜなら、彼が京都伏見の酒造屋の「ぼん」(母親からは、かずぼんとよばれていたらしい)であったということと、初代中村鴈治郎の愛弟子であったことに源があるのだろう。

軽妙洒脱と軽佻浮薄の間をさまよう優しい笑いの世界。

当時の長谷川一夫は、27才ぐらい、まだ顔に疵はない。(松竹蒲田撮影所作品)

 

 

マスコミのウソが、一般の人々の目にはっきりと見え始めてきた今日現在。 3年前にアップしたブログをもう一度アップします。

当時の日本映画人の懐の深さを感じます。

 

京都・三十三間堂で江戸時代の初期から行われてきた通し矢にまつわる実際の出来事に題材をとり、1945年1月から5月にかけて撮影された。撮影は度重なる空襲に中断を余儀なくされながら進められたという。(ウイッキペディアより)

国民に外交・戦争を客観的かつ冷静に語ろうとせず、主観にのみ立脚し、いたずらに感情を高ぶらす報道のあり方。 
販売数を増やす方法としてそれもいいだろう、しかし「芝居道」で興行師が主張した「日本が、一等国のなった先々の事を考えると締まる時は締まらんなりまへん。」「わしは、今度の芝居で世間の人にそこにきがついいてもらいたいんや」 この部分が、報道、マスコミの世界で育ち損ねたような気がする。

感情的な報道の心地よさに酔う無責任な大衆、そして、それとは全く別世界に、自らを合理的に納得させ、おのれの命をかけ、戦わざるを得ない立場にある戦士の存在がある。 

この作品をこの時期に制作する事ができた日本人のすばらしさに感動するとともに、この作品が、「あまり話題にならなかった」と、のちに長谷川一夫が歎いているのを読みかなしかった。

私は「三十三間堂通し矢物語」は「芝居道」のラストシーンで興行師が語る次回作であるように思う。

「芝居の道は一筋、世のなかに遅れても、おもねってもいかん
世のなかのいろいろな音にじっと耳をかたむけるのや。
あの花火でもいい 勝ち戦続きの音やけど、
あの音のなかにもいろいろなものが聞き分けられる。」

 

三十三間堂通し矢物語

主人公の和佐大八郎が通し矢に挑戦したのは23才であった。 それをこの映画では17才にしている。ここに成瀬監督の一つの意図が読めるように思う。

トップで、三十三間堂、通し矢、その記録を示す名誉ある額の説明が三十三間堂のお坊さん達から見物人への説明として語られる。

次に続いて同じ流れのなか、京の町中で、辻講釈師が物語として、脹らまし、この通し矢が、尾張松平と紀州松平の壮絶な名誉争奪戦となっていること、

「尾張の星野勘左衛門に敗れた紀州の和佐大右衛門が名誉を奪還するために50才にして、再挑戦した。しかし記録を更新することができずに不面目を恥じて切腹、かくて通し矢は血を見ることとなった。星野の記録を破るものはこの5年間出てこなかった。

しかし、今年に入り、切腹した和佐大右衛門の遺子、大八郎17才が、寺社奉行に通し矢の許可を願い出た。」

「えらい評判になってまっせ」と講釈師の話しを聞いて興奮した大八郎の世話をする旅館の板前が帰ってくる。
「今頃、聞かはったんどすか?」「わてらもう10日も前に聞きましたえ」「いまごろ何をいうてはるのどすか。」 5年も前から、大八郎のいる小松屋旅館の板場で、話に花がさく。

街の中で通し矢の話しをするこの講釈師が、もう一度この映画のなかで、出てくるのは通し矢の当日。 「あんたはん、朝ご飯もくわんと、えらい早ようからきたはんのでんな!」と声がかかると「ゆんべからこうやって席を取ってます。これがわしの飯のたねやから」、と弁当を食いながら始まるのを待っている。

ともかく見物人は大騒ぎ、「星野とは卑怯なやつだ。尾張屋敷に大八郎をつれこんで,きそい矢をした。 それで、若い大八郎をつぶそうとした。」というように、おもしろおかしく噂がとびかっている。

これはみな講釈師のお仕事なんだろう。

星野は悪いやつだとヤジが飛びかう中、通し矢が始まる。

成瀬監督のうまいところは、この場面までに 映画を見ている私達に、通し矢に挑戦する大八郎の悩み、迷い、恐れを示し。その上で、大八郎をおそった浪人たちを追い払ってくれて、偶然、知り合った浪人、唐津勘兵衛との交流をじっくり、ゆっくり、丁寧にえがいている。

何とか通し矢を成就させようと思う周りの人々の優しさや気遣いに押しつぶされようとしていたこの少年の思いが、同じく弓をする先輩唐津勘兵衛との出会いと交流により少しづつ自信を取り戻して行く。

そこで、二人の間で、通し矢の本質が語られる。

「大八郎殿、貴殿の父上は何故お腹を召されたとお考えか」
「身の不面目を、恥じたのだと思います。」
「拙者の考えは違う。」
「と申されますと」
「不面目とは自分の待っている力を出し切れなかった怯懦を言う。父上は、全力を出し尽くされた。不面目ではない」
「では,藩の名誉のためですか」
「それもある。しかし,ただそれだけではないと思う。
拙者は父上は通し矢の厳しさにげんじられたのだと思う。
大八郎殿、通し矢は数を競う子供の遊びではないのですぞ。
あれは、弓道に身を捧げる者が後の者に捧げる一里塚だ。
人間努力をすればここまでやれるという事を後から来る者のために示すものだ。
その記録に達しられぬ者は、己の不勉強を恥じねばならぬ。
先人の達したものを,後から来る者は,それを乗り越えねばならぬつとめがある。
この記録のために立ったものは、それが失敗した場合、死んでそのことの森厳さを保たねばならね。
貴殿が、今なされようとしていることの意味の重さがおわかりか。」
「分かります。今こそ分かります。」
「分かったら、必ず成し遂げねばなりませぬぞ。」
「私は、私はだめです。確信が確信が持てないのです。」
「なぜだ!」
「私は、星野勘左衛門が怖いのです。」


実に、成瀬監督の話の運びはうまい。ここに星野数馬が、兄星野勘左衛門を迎えに来る。「ここでは唐津勘兵衛と名のっているそうですが、母上が京に参られたので、兄上を、お迎えに来ました。」とやってくる。

この信頼に値する先輩が,父の敵と思って来た星野勘左衛門であることを知って愕然とする大八郎。「母上のお召しとあらば・・・」、と席をたつ星野 「大八郎殿」と振り返る。「それじゃ、貴方はほんとうに・・・」と尋ねる大八郎。 何かはなそうとするが、唇をかみ何もいわず去って行く星野。

次回に続きます。

1867年「王政復古大号令」は発したものの徳川慶喜に「大政奉還」という先手を打たれ、一度は「徳川幕府打倒計画」は挫折した。ここで本格的な倒幕戦を行うきっかけを作るため、岩倉具視の了承のもと、西郷は、相良総三を隊長とする赤報隊を組織する。赤報隊は、江戸の街の人心をかき乱すため暴れ回った。この映画では、末端実行犯の様子をかなりリアルに見ることができる。こんな輩の集まりだったんだろう。

 

この赤報隊による江戸の街撹乱が徳川崩壊の大きなきっかけとなったのである。

 

放火・略奪・強姦・強殺を倫理観の強かった江戸社会において繰り返す。毎夜のように、鉄砲まで持った無類の徒が徒党を組んで江戸の商家へ押し入ったという。たとえば日本橋の公儀御用達播磨屋、蔵前の札差伊勢屋、本郷の高崎屋といった大店が次々と襲われ、家人や近隣の住民を惨殺した。江戸の市民はこのテロ集団を「薩摩御用盗」と呼んで恐れた。夜の江戸市中から人が消えたという。

 

この話の中で出てくる徒党を組んだ強盗団の、頭領は「日本を正しい道に進めるため」の軍資金を集めるために我らは戦っているという。古寺をねぐらに毎夜徒党を組んで略奪・強姦・強殺を繰り返している。彼らの信じる正義のためなら、何をやっても正義。

 

この強盗団の若者が、岡っ引きに、追われている若侍と出会い、酒をのまし話を聞いたうえで自分たちのねぐら古寺へつれて帰る。

 

ベロンベロンに酔っぱらった若侍を連れ帰った若者は、強盗団の仲間からは誰を連れてきたと叱責されるが、「いや剣道の達人で腕が立つようだし、それに岡っ引きに追われている。俺たちの役に立つぜ!」「それに、今日初めて酒を飲んだんだって!」

 

酒で酔った若侍禮三(長谷川一夫)と強盗団の暴れ者が、けんかをする。この喧嘩とても面白い、一種の新人の品定めでもあるんだろう、ボクシング、相撲、柔道の手が次から次へと繰り出されここまでのストリーの暗さを少し和ませてくれるような喧嘩シーンとなっている。古寺の小道具がうまく使われ長谷川一夫が水をかぶったり、祭壇の前に投げ飛ばされたり、この二人の喧嘩を仲間が見守る。この若造、なかなかの腕前と判明。乱暴者が悔しくて刀をとるところで喧嘩はやめさせられる。薄汚い場所での汚い浪人たちばかりの殺風景な喧嘩シーンなのに若侍の無鉄砲さが、りりしく、そしてかわいく、面白い。見ごたえのある場面となっている。

 

翌日になり、頭領から仲間に入らないかと誘われる、しかし、若侍は蘭学の勉強をするために江戸にやってきた。それに一緒に出てきたお光を探さなくてはならない。いくら徳川の軍資金を集めるためとはいえ強盗団の仲間には入りたくないと答える。しかし頭領は、ここにも学問をやった人物もいるから勉学もできると進める。若侍は「入ったとしても、脱退する事ができるとお約束していただけば」と念を押し入団する事となる。

 

毎夜徒党を組んで略奪・強姦・強殺を繰り返し、酒を飲むこんな仲間のなかで蘭学の勉強ができるわけもなく、若侍の心は荒んでいく。

 

実は彼は、上総の代官の息子である。

江戸時代の代官所とは:

代官:多くは御家人 中央から幕府の天領管理のため江戸から赴任

陣屋・代官所: 代官、手付、手代を含めて官史総勢14,5名、これで7万石からの知行を収める。

手付:幕府直参御目見得以下の者 江戸から赴任

手代:現地の百姓から選抜 現地採用 非常に厳しい試験をへて来るので、学問のできる者がそろっていた。

行政全般、司法のみならず最も重要な防衛軍事をすべて担当。天領には侍の数が極端に少ない。

 

江戸末期、何かこれまでとは違うあわただしさが、普通の人々の生活をもかき乱だそうとしていたのか。上総の国の代官は、忙しくしている、若い後妻もおり、もう成人した息子のことにはかまけてられないようである。息子禮三は、親を失った貧しい娘を自分の嫁にしたいと懇願するが、代官は取り合ってもくれない。禮三は、お光と駆け落ちをする。

 

禮三が貧しい娘と駆け落ちしたのをチャンスと勘定を預かっていた手代は代官所に送られてきたお上の公金を盗み内通していた代官の後妻と逃げる。彼の細工で代官の息子禮三が公金を盗んだことになってしまう。人々の心がささくれ立ってきている様子がわかる。

 

江戸の親戚を頼り蘭学の勉強をするためにお光をつれて船で到着するが、計らざる運命の手に弄ばれて、港の高灯篭に着いたまま二人は互いを見失った。

 

お光をさがしていると、岡っ引きに引き留められ、自分がおたずねものとなっていることを知る。何の事かわからず逃げ回る。そこで、たまたまであった男と生まれて初めての酒を飲み男の仲間のたむろする怪しげな寺に行く。

 

そこにいた浪人たちは、日本を正しい道に進めるために、江戸の街で強盗をし、人殺しをし、放火をすると言う。その考え方を納得できず。彼は躊躇する。しかし、お上から追われている身でも有り、いつでも脱盟できると言質を取り、かれらのもとで居候する。禮三はお光を捜し求めつつ、相逢う機会を得ずして時は過ぎる。

 

或る夜上総の国からきたと話す女のこえを耳にし、近づくと父の後妻当人であり、自分が公金泥棒にされてしまったことを知る。そこへ、岡っ引きたちに追われている仲間が助けを求めて来る。応戦するが追い詰められる。

 

禮三は別の夜鷹に誘われ逃げ込んだ。その夜鷹が汚れた生活に身も魂も疲れ果てたお光であった。悲しい二人の再会。

 

我身の堕落も忘れ口惜しく恨めしく、拳を挙げて彼女を打倒した。「きたねい!おれに触るなと」突っぱねる。しかし、刀傷を負っており、熱を出し倒れてしまう。結局は傷ついた彼を優しく看護してくれたのは、お光であった。2,3日して寺に帰ると、父の後妻(義理の母)と金を盗んで逃亡した手代が仲間として入っていた。

 

禮三のからだを案じるお光は禮三を追い古寺に行くが、禮三は、お光を軽蔑し、ありとあらゆる辱めを、彼女の上に加えた。そして今までは一歩引いていた仲間たちの悪事に積極的に参加すると宣言する。

 

私がいてはもっとだめになると、禮三のからだを案じつつお光は姿を隠す。

 

このあと禮三は、初めて仲間と強盗にはいり、彼らの現実をしる。このなかまに強姦されようとした娘を助け、その結果仲間たちは強盗に失敗し引き上げる。

 

そこで禮三に対するリンチが始まる。仲間で囲んで石を投げつけ、ひるんだところに手裏剣を投げつけ、倒れた禮三を全員で切りかかるという。

 

彼らの掲げる理想理念からすると、何とも浅ましくも卑怯な彼らの戦いぶり。

 

人の行動はその精神と分離することはできない、いくら「日本を正しい道に進めるために」と正義を振りかざしていても、やっていることが、略奪・強姦・強殺ならば、当然、精神がやんでくる。

 

この映画は、こんな人間の現実をきちんと描いてくれている。

1963年(昭和38年)に長谷川一夫映画300本目の作品として、雪之丞変化が制作された。

林成年(長谷川一夫長男)によると

「・・・主役は歌舞伎の女形中村雪之丞と、いなせな江戸やくざ者闇太郎の二役を演じるのであるが、なぜかこの設定は、父のために書き下ろされたと思えるくらい、父の生き方に酷似していた。

父は、歌舞伎の女形を目指した時期もあったので、私生活面でもかなり女性的な部分があり、その反面、はっとさせられるくらい虚無のにおいを漂わす性格を待っていたからだ。

そればかりではない。父の一生は、父なし子という自分の運命に最後までこだわり、突っ張って生き抜いたという点においてもみずからの血に対する復讐のような思いがあった。

それだけに、300本目の『雪之丈変化』に賭けた父の執念は、まことにすさまじいものがあった。」

 

私には、長谷川一夫の生き方がこの雪之丞とどのように酷似しているのか、もちろん象徴的な表現であろうがはっきり言って分からない。

なぜなら第一回目の作品と第三回目の作品ではあまりにも雪之丞の性格が違いすぎるからである。

 

もちろんこれは、よく分かる。 「300本目の『雪之丈変化』に賭けた父の執念は、まことにすさまじいものがあった。」 ただ少し、空回りしたような気もするが・・・

 

オープニングの鷺娘、その可憐な仕草、舞、その情のほとばしり、役者としてのすごみがある。ただ、長谷川が一人でも努力する事ができるオープニングの所作事、個々の場面での衣装と演技、ここに込められている思いは、わかりはするが。最後まで見ていると、何か長谷川一夫がかわいそうな気がしてくる。これは長谷川一夫の映画ではない。市川崑監督一人のための映画なんだろう。そして市川崑監督は雷蔵がすきなんだろう。そんなことがぼんやり感じられる。

 

話の筋は、よく知られている。そこに面白みを加える必要は無い、長谷川一夫、中村鴈治郎、市川雷蔵、勝新太郎、若尾文子、山本富士子、船越英二 彼ら一人一人の見せ場はそれなりにバランス良く配置されている、スター同士の絡む場面としては雪之丞と浪路(若尾)との不思議な濡れ場、雪之丞と門倉平馬(船越)との殺陣、その程度である。だが、練りに練られた個々の場面構成はすばらしい。

 

お話自体はまことにつまらなくなっている。雪之丞の復讐にスリルとサスペンスが全くなくなっている。

 

大映に入ってからの長谷川一夫の映画は、1953年の「浅間の鴉」の頃までで、その後は

ほんとうは内心面白くなかったのではないかと思ってしまいます。

 

確かに、「近松物語」、「残菊物語」はある。しかし、後の作品は・・・

 

「近松物語」の溝口監督のように真っ向勝負してくれる監督がいなくなってきたのでしょう。

 

映画界引退の決心が固まった映画であったような気がする。

長谷川一夫にとって「雪之丞変化」出世作であるとともに、後の二回の映画化を含め、彼の人生において常に大きな曲がり角となっています。

まず第1作目昭和11年(1936年)空前の大ヒット。その翌年初代鴈治郎追悼興行に出演、鴈治郎の娘婿として歌舞伎の世界に凱旋するような気が少しはあったのではなかろうか。

初代鴈治郎のもと上方歌舞伎の女形として本格的な修業を積み、松竹京都撮影所の苦境を救うべく入所、人気スターとなった後も大師匠鴈治郎の愛弟子であることの自負を待ち続けていた長谷川一夫である。松竹からも先では鴈治郎の名跡を、それが無理なら中村雀右衛門の名跡をとおいしい話もささやかれていたのではないか。

しかし、後ろ盾の鴈治郎を失い、その追善興行において、この歌舞伎の世界には二度と思い知らされた。あの松竹の大船撮影所は、雪之丞変化の大ヒットでできたと言われるほどの功績をあげてきたつもりの松竹もあてにならないことを思い知らされることとなった。

昭和13年(1938年)東宝へ移籍。もう二度と舞台の世界には戻れないと覚悟を固め入った東宝。顔を切られるという大きな犠牲を払う。

だが、この東宝時代の長谷川一夫の映画は、すばらしい。戦時下で数は少なく、そのすべてを見ているわけではないが、大スター長谷川一夫が確立された時期である。

藤十郎の恋、鶴八鶴次郎瞼の母、越後獅子祭、蛇姫様、シナの夜、昨日消えた男家光と彦左阿波の踊り子、川中島合戦、男の花道待って居た男、婦系図おもかげの街、伊那の勘太郎、韋駄天街道芝居道命の港後に続を信ず(若林中隊長・見てません)三十三間堂通し矢物語。敗戦直後も、檜舞台、或る夜の殿様、霧の夜ばなしぼんぼん、幽霊暁に死す(牧野監督作品・見ていません)

この10年間の東宝時代の作品、ここに並べた作品、私たちの先祖が、そうあらんと描いた人物を演じ続けている。長谷川も若いし、美しいしい。そして映画には人生を語る力があった。当時、庶民は、大衆娯楽映画作品から、人生を学んでいたと思う。ほんとうに良質の大衆娯楽作品が制作されていた。

戦時下でフィルムが少なくなり、東宝が長谷川を中心に舞台公演を「新演技座」の名の下に始める(昭和17年1942年)。しかし、昭和19年6月応召され3ヶ月後に除隊してからは終戦まで地方の軍需工場慰問巡業。そして、敗戦。

「敗戦直後にじっとしていられない性質の私は・・・戦禍を免れていた東宝劇場に古川緑波、高峰秀子、川田正子、市丸の皆さんと東宝と相談して公演を開きお客様にたいへんよろこんでいただきました。そうなると欲がでてきて、終戦のドサクサで解散した新演技座をなんとしても復活したくなり、山田五十鈴さんら同士と相計り、翌21年念願の新演技座を再開しました。しかし、残念なことに、その時東宝劇場は進駐軍に接収されていたため、劇場は横浜東方劇場に変更、前に評判をいただいた「鷺娘」を踊り、これを起点として伊豆の伊東をはじめ地方巡業にでましたところ、どこも大入り続きだったのは幸いでした。

巡業と巡業のあいまには映画を撮り、撮り終えるとまた巡業と、戦時中よりいそがしくなってきました。新演技座の客足は好調でしばらくたって山田五十鈴さんのお梶で「藤十郎の恋」を上演できたのが思い出です。

ところでその後有楽座で「藤十郎の恋」を続演している時、東宝が日映演の労働協力締結の申し入れを拒否したため、あの有名な東宝ストが起こり、有楽座公演は9日間で中止のやむなきにいたりました。・・舞台・銀幕60年より」


1948年(昭和23年)4月社長長谷川一夫、専務取締役清川峰輔を首脳に渋谷区円山町に稽古場を備えた資本金300万円の株式会社新演技座が正式に設立。創立当時の劇団員数は65人という。

鴈治郎のもとで女形の修業を積んだという自負以外になかなか自らの本拠地と心から信じるものを持てなかった長谷川にとってこの新演技座の独立にはあふれんばかりのおもいがあった。

従来の自分から脱皮するべく「スクリーンでは、時代劇と現代劇を演じ、ステージでは世話物も新派も新劇もやりたいし、女形や所作事も続けたい」と記している。

万を期して制作された新演技座制作第一回作品「小判鮫」、しかし、順調には行かなかった。ストライキの影響で予想外の制作日数を要し、大幅の経費増の見舞われることとなる。・・・

出演料に支払われる手形の割引に、一流映画会社振出のものでも銀行が応じてくれず、やむを得ず高利の街金の世話になるほかなかった。新演技座は多額の赤字負債を抱えることになる。折からのインフレによる諸物価の高騰も追い打ちをかける。

1本300万円とも400万円とも言われた長谷川一夫の映画出演料はもちろん、はいってくる金はすべて劇団運営につぎ込んでなお及ばなかった。自分のものは一本2000円のネクタイを買うのも惜しんだと言われる長谷川一夫の拠りどころであった新演技座が立ちゆかなくなって、債鬼に責め立てられて身動き取れぬ状態に追い込まれたのである。

事務所・稽古場の土地建物、自動車、丁度類はもとより、栄通りの長谷川一夫の私邸まで差押処分を受けた。まさに刀折れ矢つきた惨状で。金目のものはすべて手放したと言われる中で舞踊のための衣装、かずら、小道具だけはなんとしても守り抜いたのは、あくまでも舞台への執念だろう。(一部二枚目の疵より参照)
終戦直後より、戦前の大本営の行っていたことはすべて嘘だった真相はこうだったというGHQ作成によるNHK放送が行われている。【「真相箱」1945年12月より始まり1948年1月までNHKで放送される。しかしGHQの作成であるということは隠されていた。】

戦争の事実を知った人々が多くいた時代であり、番組の内容を巡って、抗議や非難など、NHKへ手紙、電話などが殺到。 そのことを知ったGHQは、その抗議を取り入れてより巧妙に番組を作成、疑問に答えるという形式を取り、日本の良い面も随所に挿入された。

真実の中に巧妙に織り交ぜられた虚偽等々の手法が用いられた。GHQの指令による言論統制により、次第に国民の間に自虐史観が広がった。これを批評した雑誌の対談記事は、民間検閲支隊による検閲により「占領政策全般に対する破壊的批判である」という理由で全文削除に処されたという。


映画も敵討ち、チャンバラはほぼ制限された。

ところで、日本軍が武装解除され、警察も武器を持つことを禁じられたこの頃、庶民の社会生活ではなにが起っていたか。

連合国総司令部(GHQ)の担当官として終戦直後の日本に駐留し、後にハーバード大学教授となったエドワード・ワグナー(朝鮮史)は、『日本における朝鮮少数民族』(原著1951年)という論文で次のように記している。

『戦後の日本においては、朝鮮人少数民族は、いつも刺戟的な勢力であった。数においては大いに減ったものの、朝鮮人は、依然として実に口喧しい、感情的・徒党的集団である。かれらは絶対に敗戦者の日本人には加担しようとせず、かえって戦勝国民の仲間入りをしようとした。

朝鮮人は、一般に、日本の法律はかれらに適用され得ないものとし、アメリカ占領軍の指令も同じようにほとんど意に介しなかった。そのため、国内に非常な混乱をおこした。占領当初の数ヶ月、在日朝鮮人炭鉱労働者の頑強な反抗のために日本の重要産業たる石炭産業の再建は損害をこうむった。 経済的領域における朝鮮人のいろいろな活動は、日本経済再建への努力をたびたび阻害した。

1948年の神戸における緊急事態宣言は、日本の教育改革を朝鮮人が妨害した結果、行われたものである。
(日本人の半島からの)引き上げについては占領当局が決定した政策を日本政府の手で実地しようとするのを妨害した。
たとえこのような事件(朝鮮人の犯罪)で朝鮮人の犯罪性が拡大されることがなかったとしても、この犯罪性が日本人・朝鮮人の関係に与えた影響は依然として甚大なるものがある。

朝鮮人の略奪行為が、大部分、庶民の日常生活にとってきわめて重要な地域において行われたということもあった。 

さらに朝鮮人は日本に不法に入国しようとしたが、ときには伝染病も持ち込んだという事情もあって、この不安を強める実例を提供した。朝鮮人は悪者だという心理が時の流れとともに日本人の心から薄れていくであろうと信ずべき理由はなにもないのである。』



長谷川一夫でさえも、大阪梅田のフルーツパーラー蝶屋の土地を取られてしまったと語っている。
小さい話しながら我が家も、祖母がちっと親切心を出したばっかりに借地だった家に居着かれてしまい。我が家は、借地料を払いながら別に家を借り、ズーッと裁判を抱えていた。私が中校生ぐらいになった時、やっとその家が戻ってきた。(ちなみに私は戦後生まれ)


「首相官邸襲撃事件」が1946年起きている
約2000人 の在日朝鮮人が武装解除された日本軍の武器と軍服を盗用、完全武装して首相官邸に突入。
日本の警官隊は当時武器の所持は禁じられていため、米軍憲兵隊に応援を頼み、 米軍憲兵隊と彼らとの間で大銃撃戦闘へと発展した。
かれらは、なんの国際法上の地位もないにも関わらず、勝手に自分たちを、戦勝国民であると詐称し、全国主要都市に出現し暴れまくった。(1945年末から約10年間弱)

【吉田茂氏がマッカーサーに宛てた「在日朝鮮人に対する措置」文書(1949年)】

朝鮮人居住者の問題 に関しては、早急に解決をはからなければなりません。
彼らは 総数100万にちかく、その半数は不法入国 であります。
私としては、これらすべての朝鮮人がその母国たる半島に帰還するよう期待するものであります。
その理由は次の通りであります。
現在および将来の食糧事情からみて、余分な人口の維持は不可能であります。 
米国の好意により、 日本は大量の食糧を輸入しており、その一部を在日朝鮮人を養うために使用 しております。
このような輸入は、将来の世代に負担を課すことになります。
朝鮮人のために負っている対米負債のこの部分を、将来の世代に負わせることは不公平であると思われます。
大多数の朝鮮人は、日本経済の復興に全く貢献しておりません 。
さらに悪いことには、朝鮮人の中で 犯罪分子が大きな割合 を占めております。
彼らは、 日本の経済法令の常習的違反者 であります。
彼らの 多くは共産主義者ならびにそのシンパで最も悪辣な政治犯罪を犯す傾向が強く、常時7000名以上が獄中にいる という状態であります。

―中略―

さて、朝鮮人の本国送還に関する私の見解は次の通りであります。

原則として、 すべての朝鮮人を日本政府の費用で本国に送還すべき である。 
日本への残留を希望する朝鮮人は、日本政府の許可を受けなければならない。
許可は日本の経済復興の貢献する能力を有すると思われる朝鮮人に与えられる。 
上述のような見解を、原則的に閣下がご承認くださるならば、
私は、 朝鮮人の本国帰還に関する予算並びに他の具体的措置を提出する ものであります。
敬具 吉田 茂


吉田茂氏がマッカーサーに宛てた「在日朝鮮人に対する措置」文書(1949年)
(田中宏「在日外国人」より)


同じ頃、朝鮮半島では、李承晩大統領が、(1948年8月18日)記者会見で「対馬は350年前に日本に奪取された韓国の領土」と主張。1949年1月7日には対馬領有を宣言した。
それ以前にも李承晩はアメリカ政府に対し、対馬と竹島を日本領から除外するよう執拗に要求していたが、アメリカは再三にわたって拒絶していた。

ところが、1949年2月:韓国軍10万は、一斉に釜山に集結開始(南部へ韓国軍大移動)

1949年3月:韓国軍は釜山で揚陸訓練開始。韓国にいたアメリカ陸軍第24軍は対馬上陸の為の日本侵攻演習と知り、釜山の軍事演習を知ったマッカーサーとトルーマン大統領が激怒。

1949年4月:上記理由で、激怒した米英が国連安保理で、韓国の国連加盟容認から一転して、韓国加盟を否決。

1949年5月:上記理由で、マッカーサーが韓国李政権への軍事物資援助を全て停止。

1949年6月:アメリカ第24軍本体が本国に撤退 韓国には国連監視団500名のみ残し引き上げ。
韓国は防衛上の後ろ盾を失う。

1950年1月:米韓軍事援助相互協定を調印。韓国側は軍事支援強化を求めるが米国は拒否。理由は韓国の北進を防ぎ、日本への侵攻防止、ソ連との約束で韓国軍に兵器を拒否した。

1950年6月:再び、李承晩が"対馬島と北九州"への軍事侵攻に韓国全軍を南部へ移動指示、釜山港に集結開始。

1950年6月10日:北朝鮮大機動演習を開始。全師団が南国境地帯で演習移動しているが、米国は韓国に知らせず。

1950年6月17日:韓国軍が釜山にぞくぞく集結。全軍が釜山港に集結。対馬と北九州侵攻準備で北国境はスカスカ。

1950年6月:スターリンが米国に何度も問い合わせ。米軍はソ連と交戦はしない。朝鮮半島は米国の守備範囲でない。アチソン国務長官が「朝鮮半島は米国の守備範囲でない」と米政府声明を出す。

1950年6月22日:北朝鮮軍最高司令官金日成、全面的南進作戦命令を発する。


かくして朝鮮戦争が始まる

北朝鮮は、韓国全軍が動きスカスカであることを知り動いた。ほぼなんの反撃もなく北朝鮮はソウルに到達、そのまま南下するも一切の抵抗なく進めることができた。当時の北朝鮮軍関係者は、全く反撃が無かった事に驚いたと証言している。


とんでもない時代でした。

疑問を感じるのは、李承晩大統領の強気はどこから来ているのかということです。



この時代、長谷川一夫は、映画を撮り続けている。暗い時代だから余計に明るい映画を求めたのだろうか。

1946年 檜舞台、或る夜の殿様、霧のよばなし
1947年 東宝千一夜、さくら音頭、大江戸の鬼、ぼんぼん
1948年 幽霊暁に死す、遊侠の群れ、小判鮫第一部
1949年 小判鮫第二部、銭形平次捕物控、足を洗った男、甲賀屋敷、蛇姫道中
1950年 続蛇姫道中、傷だらけの男、お富と与三郎(前後編)、城ヶ島の雨、千両肌、鬼あざみ

この後、大映に入る。

すみません話が、少しずれました。
次回この時代背景を踏まえて、「小判鮫」を見てみたいと思います。
長谷川一夫主演の雪之丞変化は戦前の昭和10年に第1作目、第2作目は戦後直後の昭和23年映画の題名は「小判鮫」となっており、人物名が変えてあります。監督は双方ともに衣笠貞之助。第3作目は、高度成長期、東京オリンピック前年昭和37年にもう一度映画主演300本記念として制作。監督は市川崑。

話の筋は、長崎で大きな商いをしていた雪之丞の父親が、奉行や仲間の商人にはかられ、店は取りつぶされ、妻までもが奉行のなぶり者にされてしまう。父親は、息子にその復習を託すが、まだ息子が幼かった故に同じ長屋にいてこの惨状を見聞きしてくれていた役者の菊之丞にすべてをたくした。大阪で修業を積み役者として大成した雪之丞は、菊之丞親方とともに江戸での公演をうつ、その初日に江戸で娘を公方の側室へおくりこんで権勢をはかっている奉行仲間が観覧していた。そこから雪之丞之復讐劇が始まる。

大きなあらすじは同じであるが、制作された時代による影響は大きく、最後の受け止めや印象がかなり違っている。映画とは、その時代時代の庶民の息吹を感じその大衆に迎合する形で作られていく、その変化が、日本の戦前、戦後、高度成長期と重なり、おもしろい。

映画の原作は、映画化が始まるときまだ朝日新聞に掲載中であった。衣笠監督と長谷川一夫が原作者の三上於菟吉を訪ね執筆中の小説の映画化の許可を取ったという。

この時代小説は、朝日新聞に掲載されていたというが、私はこの小説のヒットの土台は、1927年の昭和金融恐慌の先駆けとなった鈴木商店の倒産劇があるように思えてならない。あらすじは全く虚構とはいえ、何かみえないところで悪い権力が結びついて、三井、三菱と並び称されていた総合商社鈴木商店があっけなくつぶされてしまったと、大衆はみており、その同情心が、雪之丞の復讐劇に拍手喝采を送る下地だったのではないか。

鈴木商店が落ち目になっていくきっかけは、1918年米騒動の時、朝日新聞が鈴木商店は米の買い占めを行っている悪徳業者であると執拗に攻撃し、民衆は鈴木商店を焼き討ちにしたことにある。

しかし、この事件を再調査した城山三郎は、当時の鈴木商店が米を買い占めていた事実はなく、焼き打ちは大阪朝日新聞が事実無根の捏造報道を行って米騒動を煽ったことによる「風評被害」であり、鈴木商店と対立していた三井(米の買い占め輸出に関与していた?)と朝日の「共同謀議」という考えのもと、ノンフィクション小説『鼠 鈴木商店焼打ち事件』として発表している。

城山氏によると、大阪朝日新聞の寺内内閣攻撃の余波が、鈴木商店に及んだことも原因の一つであり、鈴木商店が、米価高騰にからんで米を買占めていると攻撃された。後日誤報として小さく訂正はされたが、敵国ドイツへ米を売った売国奴という攻撃さえ加えられ、総てにわたって鈴木商店についての報道は、悪意的に曲解されたものが多かったという。

1927年の昭和金融恐慌で、焼き討ち事件後、弱体化していた鈴木商店は潰れ商売がたきであった三井財閥に吸収されます。(注:三井財閥は、朝日新聞創設時の出資者)


小説の中で、雪之丞にたぶらかされ、同じ米の買い占めをやっていた廣海屋が長崎屋を裏切り安い値段で米を売りさばく。結果、庶民の怒りが長崎屋に向かい。店をつぶされた長崎屋は、廣海屋に放火する。
これも当時、十何年か前の鈴木商店の焼き討ち事件を彷彿とさせ、世情の動きを敏感に表現している。

1935年に発表された雪之丞変化は、もちろん主役の長谷川一夫(当時林長二郎)の演じる二役(女形雪之丞といなせな義賊闇太郎)の魅力により大ヒットし、快進撃を続け二部作のはずが三部作となった。(現在は、短くカットされた総集編しか残っていない、とても残念)

第1作目の雪之丞は何の疑いもなく、両親の幽霊に後押しされながら敵に挑む。公方側室の三斎の娘浪路の心を奪い。米の買い占めに走っていた廣海屋、長崎屋を罠にはめ、仲間同士を争わせる。 ひょんなことから、復讐の秘密を知られた盗人お初にはさんざん邪魔をされ、拉致までされてしまうが、同じような生い立ちを持つという闇太郎に助けられながら全員を追い詰めていく。 雪之丞に恋い焦がれて家を出ていた浪路は、父三斎の家来門倉平馬に犯されそうになり、平馬を刺し殺し自らも息絶えてしまう。雪之丞を舞台で殺そうと計画した、三斎の家来浜川たちとお初は、情報を察知していた闇太郎に殺され、お初はその犯人としてとらえられる。 雪之丞は、最後には三斎につり天井で殺されそうになるが、逆に三斎を天井の下敷きにし、何も無かったように舞台の世界に戻っていく。

今の時代から見ると、とんでもない復讐をやり遂げてしまう雪之丞ではあるが、演じている長谷川がまだ27才、芯のつよい、真面目で、けなげな性格が、全面に出ていてこの復讐劇に不思議な品格を漂わせている。

歌舞伎役者として劇中劇のなかで楽しませてくれる長谷川一夫、かれにとってはこれらが一番のファンサービスであったったようにも思える。滝夜叉(平将門のむすめが父の怨念を背負って、妖術を使って人をおそう)、本朝二十四孝の八重垣姫、野崎村のお光、紅葉狩。

最初の滝夜叉姫では(舞台の)奈落で出を待っている雪之丞に、父と母の幽霊が出てきて私達の恨みを果たしてくれと懇願する。また最後の、紅葉狩では、出を待つ鬼の姿の更科姫が、奈落で争う廣海屋と長崎屋に脅しをかけ半狂乱にさせる。この場面はとても気味が悪く迫力がある。最終的には二人は首を絞め合って死んでいく。

私的には野崎村のお光がとてもいい。そのかわいくてけなげな女形の身のこなし、皮肉な事だが長谷川一夫をとおして、だんだん歌舞伎が好きになっていくような気がする。

話はそれてしまったが、この復讐劇の主人公は、権勢を誇った大商人の息子でありながら、役者に身を落とし、父親を憤死させた悪徳奉行と代官、その仲間の商人を苦しめ、あっぱれ復讐を遂げる。 両親の恨みを果たさんとけなげに頑張る親孝行な息子として描かれている。

ほぼ同じ筋の復讐劇でありながら、次の二作は全く違う後味、印象を残す作品となっていく。
檜舞台は昭和20年9月19日に出されたGHQのいわゆるプレスコードの影響下制作された映画なんでしょう。「終戦(?)により、人々は解放されよかった、よかった」と、やたらに明るく作られている。(昭和21年1月17日公開)

この映画は、敗戦前に計画され、急きょ書き換えられて敗戦後制作されたという。
と、したら見えてくるものがいくつかある。

この主人公梅村曽太郎(長谷川一夫)は、舞踊家である母親一人にそだてられた。
彼の属している劇団新生座の公演は、復員兵を扱った現代劇をだしてはいるが、歌舞伎の伝統に従って中に所作事(踊り)を入れているし、村長さんと座員との宴会では、酔ったところで弁慶と富樫(勧進帳)との山伏問答がちらっと出てくる、また、曽太郎が国民服のままで酒に酔った弁慶の舞(面白や山水に盃をうかめては・・・)を余興で踊る。つまり歌舞伎や時代劇をベースにしていた劇団の設定のようである。

そこへとってつけたように、日本のやった戦争そのものを批判する「一本の足」というような劇中劇の練習が行われている。

しかし、そんな芝居の練習も曽太郎が鏡獅子の舞のけいこを始めるとこらからすべてがふっとんでしまう。

彼は自分の人生をすべてぶちこわされてしまったような大きな失意のもとこの練習を始める。母親が死の直前に手紙で明かしてくれたことは、29年前に引き裂かれてしまった父への思い、その父とはぐくんだ芸能を息子に引き継ぎ舞踊家として育て上げたという思い。
その父親の姿を、母がともに生きようとした人の姿を見たいと、新生座の公演先の小さな村までやってくる。

しかし、偶然と錯誤の結果、彼はその村の村長である父親が、母親と自分を拒否したと思い込む。母の思いの詰まった自分は何なのだろうか。兵隊に行っていっていた自分に代わって、母親の事を最後まで見てくれた恋人小松(山田五十鈴)までもが、その場にいたというのに、知っていながらぐるになって知らせてくれなかった。何なんだ!

そんな疑心暗鬼のおもいのなか檜舞台に向けて鏡獅子をもう一度丁寧に鍛錬し直す、その姿を見て、鏡獅子のけいこを後押しするように、無言で三味線を弾き続けてくれる小松。何度も何度も苦しみながら練習する曽太郎。徐々に、二人の思いが重なってくる。迷いが消えていく。

言葉ではなく精神の鍛練を求める激しい舞の実践と、それに厳しく連れ添う三味線の調べの中に、二人がともに生きるという実感をよみがえらせていったのではないだろうか。

そして檜舞台初日に29年間心の中にしまい続けてきた曽太郎の母の舞扇を曽太郎に使ってもらおうと駆けつけた父親。
母親の残したすばらしい鏡獅子の舞は、曽太郎にひきつがれていた。

戦争からの解放という明るいオブラートに包まれてはいるが、負け戦が濃厚になっていた企画当時は、その舞の鍛錬のきびしさと長谷川一夫の鏡獅子のすばらしい映像を日本芸能の一つの誇りとして残したかったのではないだろうか。

二枚目の疵(2004年出版)の中で矢野誠一氏は、「・・・母親、闇太郎と合わせ手の三役を務める林長二郎の、雪之丞のうつくしさに、真底目を見はった。かれこれ五十年間舞台を見続けているすれっからしの観客を自認する者だが、いまだかってあんなにも美しい女形役者に出会ったことはない。劇中劇の中で紹介される滝夜叉、三千歳、野崎村のお光、紅葉狩などは言うまでもないが、舞台以外のシーンすべてに不思議な魅力が息づいている。売り物の流し目を多用したクローズアップもさることながら、全身をロングでとらえたショットで見せる、さり気ない立居振舞は女形の天性そのものだ。・・・」と長谷川一夫の林長二郎時代の代表作「雪之丞変化」(1935年)をこう語っている。

次からは、長谷川一夫が3度映画化した雪之丞変化1935年、1948年、1963年のお話を・・・
戦争が終わった。元の生活に戻れる。
この解放感は、素晴らしいものであったようだ。
ともかくこの映画はとてつもなく明るく開放感が漂う。

この映画が企画されたのは戦争中である。
しかし、戦後になってしまい話が書き換えられたという。どこがどう変わったのかはわからないが、映画の端々に戦争が終わって、元の生活の営みに戻れたことへの喜びが、語られる。村長さんも一言「魚にはひれ、鳥には羽だね、人間、ところを得なくちゃ!」

東京の場面では「ほしがりません。勝つまでは」とビルの壁に描かれた字が消されていく。また町には、瀬戸物、なべ、人形などの商品があふれんばかりに露店で売られている風景、忙しく歩く勤め人たちの様子が出てくる。

しきりに、「戦争が終わって、なにか割り切れなかったものが、元の職場に戻れて、一瞬で何もかも吹っ切れた。」というような台詞が随所に出てきて映画全体のトーンを明るくしている。戦争に負けたことへの悔しさなど一切出てこない。

話は、都心に焼け残った劇場が使用できるようになったので、新生座は、お世話になった村長さんの村での公演を最後に、東京に戻るという。その村長さん(楢山曽助)はかつて東京で鳴らした役者で芝居への理解も深く、村でも、劇団員の中でも芸達者で、人気もののようである。

芝居が始まったところへ、復員兵が一人見物にやってくる。あとで、その男が、劇団の幹部役者で、外地から戻ってきたばっかりの梅村曽太郎だとわかる。彼だけが浦島太郎のようにひょっこりこの村にいる芝居仲間のところへ戻ってきたのである。

この梅村が、村のことなら何でも知っているであろう村長さんに尋ねる「この村に楢山曽助という方はおられますか?」突然、真面目な顔で、自分のことを自分に尋ねられた村長は、からかわれていると思いつつ「そんな方はいませんな、小原庄助ならいますが。」と朝から酒を飲み続けている自分のことを自嘲気味に答える。

「そうですか、もういらっしゃらないのですか?」「おいでになれば陰ながらでもお会いしたかったのですが。」・・・出番待ちで、一人残っていた梅村の恋人小松(山田五十鈴)に「母が死ぬ前に戦地に送ってくれた手紙で初めてしったのだが、その人は僕の父親なんだ・・・」、話の深刻さに気が付く村長、そして、彼が楢山曽助であると知っている小松。ところがここでは何も始まらない。仲間の芝居を観にいく梅村、出番で芝居に戻る小松。

村長の人柄を感じる楽しくて愉快な打ち上げ会を思い出に、一行は東京に戻り、檜舞台での公演にむけて練習を始めている。復員してきたばかりの梅村は、片足を失った復員兵の役と、中の所作事で鏡獅子の女小姓の弥生を踊ることとなった。この母から受け継いだ舞こそが梅村の原点である。

そこへあの村長の息子が、劇団に入れてくれとやってくる。梅村が、名前を聞くと「楢山・・」「君のお父さんの名前は?」「楢山曽助」・・・・・・あの村長が、自分の父、そしてそのことを小松君もしっていた・・・・・・「君は家を継がなくてはならない立場の人間だ。帰りたまえ! そして梅村曽太郎に追い返されたとお父さんに言いたまえ!」

ここからは鏡獅子の練習を繰り返す長谷川一夫(梅村曽太郎)の世界が始まる。セリフは全くない。
一人稽古場の残った長谷川は、洋服の姿のままで、獅子の頭に振り回される弥生を舞う。次には袴姿で、舞い始める、すると稽古場の隅から三味線の音、小松が鏡獅子の演奏をしてくれている。獅子の精に振り回される弥生の舞から、獅子の舞となる。繰り返し、繰り返しきっかけがつかめるまで繰り返される練習それにピッタリ寄り添う三味線の調べ。

初日の日を小松から聞いた村長さんは、まず娘にすべてを話し、29年間大事に手元に置き続けていた梅村の母親の舞扇を、どうか初日の日に使ってほしいと抱きしめて上京してくる。

梅村は、自分を拒否した父親へ、冷たいまなざしを向け舞台へむかう。村長は何も言えず扇を小松に預ける。扇のことを知った小松は、「お母さんの扇よ」手渡す。曽太郎は母親のしるしの入った扇を受け取り舞台に出ていく。

ここから始まる長谷川の鏡獅子は、素晴らしい。映画なので全部を見ることはできないし、カメラワークにすこし違和感があるが、かなりの時間を割いて長谷川の鏡獅子をたっぷり見せてくれる。
ともかく女小姓の弥生が素晴らしい。その可憐さ、品の良さ、よくぞフィルムに残してくれたと感謝したい。現在は恐ろしい時代で、数々の歌舞伎の名優が、同じ鏡獅子を舞う姿をユーチューブで見ることができるので、長谷川の弥生の華やかさ、美しさ、踊りのうまさを実感することができる。(檜舞台も是非ユーチューブにアップしてほしい)獅子になってからもその豪快さには迫力があり、他の追随を許すものではないと私は思う。

鴈治郎の追善興行に参加していた六代目菊五郎が、舞台化粧を落としていない顔の上にかけた眼鏡ごしに、幕だまりから林長二郎の芝居を見つめ、「うまいのまずいのという前に、役者の湯気みたいなものがたっている」とつぶやいたという。(二枚目の疵より)

のちに演劇出版社の社長を務めた利倉幸一は、長谷川一夫の身についた歌舞伎役者としての資質に目をむけ・・・戦後の新演技座公演の旗揚げに・・・
・・・長谷川一夫は故羽左衛門と鴈治郎を除いては・・・、舞台役者で「花形」らしい風格を持った第一人者だ。(今売り出しの海老蔵[後の十一代市川團十郎]にも花形の風格はあるが、長谷川一夫のもつてゐる華やかさには比すべくもない)(二枚目の疵より)



踊りが終わった後に、村長さんから「おめでとう」とこえをかけられ「ありがとうございます」と答える曽太郎。
12月8日真珠湾攻撃を知り、ほとんどの日本人が、特にインテリ層が、今までのうっとうしい気分から解放された、と語っている。日本をひねり潰そうとするアメリカの抑圧を何とかはねのけようと、国が戦う事をやっと決意したのだ。

しかし、現実の戦争を始めて見ると、用意周到に準備していたアメリカに対して、日本はあまりにもナイーブすぎた。国際正義を信じ、武士道精神そのものの戦争をした。しかし、相手は情報戦ではきれい事を言うが、現実の戦いでは全く違った。たとえば、商船、暗号傍受により狙い撃ちにされた。ガダルカナル島でも、若林中隊長の1月7日の日記に「本日某地域に於いて敵はGを使用せりと其の卑怯憎むべし」と記されている。(これが日記の最終日、この7日後戦死)

今回のパリのテロ事件においても、カミカゼと比較するような話が出ていたが、私たちがどうしても知っておかなければならないことは、カミカゼは一般人を狙っていない。女・こども・老人を巻き込んではいない。軍艦を、空母を、狙ったのである。アメリカ軍の空襲や原爆とは違う!また現在のテロとも全く違うことを忘れてはいけない

しかし、自存自衛のための戦いも、国力のすべてをかけて世界先進国を殆ど敵に回して4年間戦い抜くと、確かに普通の国民の思いとして、何もかも我慢のひとことで締め付けられているという重圧感が広がっていったのだろう。

そこに「天皇陛下のお言葉による終戦」国のためにと我慢に我慢を重ねていた国民の心は大きく解放され安堵の気持ちがただよった。天皇陛下に申し訳ないと悲しんだのも真実だが、もう我慢しなくていい普通の生活に戻れると感じた普通の人々が大多数を占めていたのも事実だろう。

この心の隙を、うまくGHQに絡め取られてしまった。GHQが日本を解放してくれたと!!解放どころか、GHQは、規制をかけもう二度と先進国として這い上がれないように締め付けていく。戦後、GHQは開放軍の顔をしつつ、「立派で恐ろしい日本」をつぶしていこうとする。

昭和21年に制作された映画「檜舞台」はこのような人々の開放感と戦前の無理から生じてしまった軋轢がさりげなく織りなされている。戦時中に母は病死、死に目にも会えず、終戦によりやっと戻るが、新しく知った現実に深い喪失感をもってしまった男が、自らのル-ツである母から受け継いだ芸をもう一度鍛錬し直す中で自信を、そして自分を取り戻して行く。

この男を演じる長谷川一夫は終戦を慰問巡業中の高岡市で聞いたという。(舞台・銀幕60年より)

終戦は高岡でしりました。ちょうど軍需工場(呉羽紡)の慰問公演をやっている時です。勅語放送を聞いた時、あまりのショックでこの日の公演は取りやめました。工員さんたちはぜひやってくれと言いましたが、私は舞台から涙ながらに「敗戦を知った現在、とても芝居をしたり、踊りを踊る気持ちにはなれません。どうぞ勘弁くださるようにお願い申し上げます」とあやまってしまいました。

ところが引きずらない。

さて終戦の大混乱は、皆様ご承知のとおりですが、じっとしていられない性質の私はなにがなんでも仕事をしたくてしょうがなく、東宝本社で相談して終戦の翌月、9月18日から東宝劇場でいち早く公演をおこないました。幸い東宝劇場は戦禍を免れまして内部は少しよごれていたものの、ステージも楽屋もそのまま使用にたえる状態だったのが幸せでした。顔ぶれは古川ロッパ、高峰秀子、川田正子、市丸のみなさんに私で、私は「鷺娘」を踊り、お客様には大変喜んでいただきましたのがなによりでした。

これが庶民の姿だったと思う。思い煩うよりも、みんな生きていくためにも食べていくためにも現実の普通の生活を自然に取り戻していた。戦争に負けたとはいえ、お上がそのままなんだから、何とかなるだろうと目の前の生活に没頭していく。

「檜舞台」は、こんな庶民のすがたを垣間見せながら、鏡獅子を踊りその素晴らしさを堪能させてくれる。六代目菊五郎の指導を仰ぎながら撮影されたという、その長谷川一夫の鏡獅子の美しさと豪快さ。

こんな素敵なものが、戦争をへても全くうしなわれなかった。

続きます。