長谷川一夫の「小判鮫」が制作された当時の日本はどのような状況にあったのだろうか。 1948年 | 三条河原町のブログ

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昭和30年ぐらいまでの娯楽日本映画は、
普通の人たちの生活を実感させてくれる
タイムトンネルです。

終戦直後より、戦前の大本営の行っていたことはすべて嘘だった真相はこうだったというGHQ作成によるNHK放送が行われている。【「真相箱」1945年12月より始まり1948年1月までNHKで放送される。しかしGHQの作成であるということは隠されていた。】

戦争の事実を知った人々が多くいた時代であり、番組の内容を巡って、抗議や非難など、NHKへ手紙、電話などが殺到。 そのことを知ったGHQは、その抗議を取り入れてより巧妙に番組を作成、疑問に答えるという形式を取り、日本の良い面も随所に挿入された。

真実の中に巧妙に織り交ぜられた虚偽等々の手法が用いられた。GHQの指令による言論統制により、次第に国民の間に自虐史観が広がった。これを批評した雑誌の対談記事は、民間検閲支隊による検閲により「占領政策全般に対する破壊的批判である」という理由で全文削除に処されたという。


映画も敵討ち、チャンバラはほぼ制限された。

ところで、日本軍が武装解除され、警察も武器を持つことを禁じられたこの頃、庶民の社会生活ではなにが起っていたか。

連合国総司令部(GHQ)の担当官として終戦直後の日本に駐留し、後にハーバード大学教授となったエドワード・ワグナー(朝鮮史)は、『日本における朝鮮少数民族』(原著1951年)という論文で次のように記している。

『戦後の日本においては、朝鮮人少数民族は、いつも刺戟的な勢力であった。数においては大いに減ったものの、朝鮮人は、依然として実に口喧しい、感情的・徒党的集団である。かれらは絶対に敗戦者の日本人には加担しようとせず、かえって戦勝国民の仲間入りをしようとした。

朝鮮人は、一般に、日本の法律はかれらに適用され得ないものとし、アメリカ占領軍の指令も同じようにほとんど意に介しなかった。そのため、国内に非常な混乱をおこした。占領当初の数ヶ月、在日朝鮮人炭鉱労働者の頑強な反抗のために日本の重要産業たる石炭産業の再建は損害をこうむった。 経済的領域における朝鮮人のいろいろな活動は、日本経済再建への努力をたびたび阻害した。

1948年の神戸における緊急事態宣言は、日本の教育改革を朝鮮人が妨害した結果、行われたものである。
(日本人の半島からの)引き上げについては占領当局が決定した政策を日本政府の手で実地しようとするのを妨害した。
たとえこのような事件(朝鮮人の犯罪)で朝鮮人の犯罪性が拡大されることがなかったとしても、この犯罪性が日本人・朝鮮人の関係に与えた影響は依然として甚大なるものがある。

朝鮮人の略奪行為が、大部分、庶民の日常生活にとってきわめて重要な地域において行われたということもあった。 

さらに朝鮮人は日本に不法に入国しようとしたが、ときには伝染病も持ち込んだという事情もあって、この不安を強める実例を提供した。朝鮮人は悪者だという心理が時の流れとともに日本人の心から薄れていくであろうと信ずべき理由はなにもないのである。』



長谷川一夫でさえも、大阪梅田のフルーツパーラー蝶屋の土地を取られてしまったと語っている。
小さい話しながら我が家も、祖母がちっと親切心を出したばっかりに借地だった家に居着かれてしまい。我が家は、借地料を払いながら別に家を借り、ズーッと裁判を抱えていた。私が中校生ぐらいになった時、やっとその家が戻ってきた。(ちなみに私は戦後生まれ)


「首相官邸襲撃事件」が1946年起きている
約2000人 の在日朝鮮人が武装解除された日本軍の武器と軍服を盗用、完全武装して首相官邸に突入。
日本の警官隊は当時武器の所持は禁じられていため、米軍憲兵隊に応援を頼み、 米軍憲兵隊と彼らとの間で大銃撃戦闘へと発展した。
かれらは、なんの国際法上の地位もないにも関わらず、勝手に自分たちを、戦勝国民であると詐称し、全国主要都市に出現し暴れまくった。(1945年末から約10年間弱)

【吉田茂氏がマッカーサーに宛てた「在日朝鮮人に対する措置」文書(1949年)】

朝鮮人居住者の問題 に関しては、早急に解決をはからなければなりません。
彼らは 総数100万にちかく、その半数は不法入国 であります。
私としては、これらすべての朝鮮人がその母国たる半島に帰還するよう期待するものであります。
その理由は次の通りであります。
現在および将来の食糧事情からみて、余分な人口の維持は不可能であります。 
米国の好意により、 日本は大量の食糧を輸入しており、その一部を在日朝鮮人を養うために使用 しております。
このような輸入は、将来の世代に負担を課すことになります。
朝鮮人のために負っている対米負債のこの部分を、将来の世代に負わせることは不公平であると思われます。
大多数の朝鮮人は、日本経済の復興に全く貢献しておりません 。
さらに悪いことには、朝鮮人の中で 犯罪分子が大きな割合 を占めております。
彼らは、 日本の経済法令の常習的違反者 であります。
彼らの 多くは共産主義者ならびにそのシンパで最も悪辣な政治犯罪を犯す傾向が強く、常時7000名以上が獄中にいる という状態であります。

―中略―

さて、朝鮮人の本国送還に関する私の見解は次の通りであります。

原則として、 すべての朝鮮人を日本政府の費用で本国に送還すべき である。 
日本への残留を希望する朝鮮人は、日本政府の許可を受けなければならない。
許可は日本の経済復興の貢献する能力を有すると思われる朝鮮人に与えられる。 
上述のような見解を、原則的に閣下がご承認くださるならば、
私は、 朝鮮人の本国帰還に関する予算並びに他の具体的措置を提出する ものであります。
敬具 吉田 茂


吉田茂氏がマッカーサーに宛てた「在日朝鮮人に対する措置」文書(1949年)
(田中宏「在日外国人」より)


同じ頃、朝鮮半島では、李承晩大統領が、(1948年8月18日)記者会見で「対馬は350年前に日本に奪取された韓国の領土」と主張。1949年1月7日には対馬領有を宣言した。
それ以前にも李承晩はアメリカ政府に対し、対馬と竹島を日本領から除外するよう執拗に要求していたが、アメリカは再三にわたって拒絶していた。

ところが、1949年2月:韓国軍10万は、一斉に釜山に集結開始(南部へ韓国軍大移動)

1949年3月:韓国軍は釜山で揚陸訓練開始。韓国にいたアメリカ陸軍第24軍は対馬上陸の為の日本侵攻演習と知り、釜山の軍事演習を知ったマッカーサーとトルーマン大統領が激怒。

1949年4月:上記理由で、激怒した米英が国連安保理で、韓国の国連加盟容認から一転して、韓国加盟を否決。

1949年5月:上記理由で、マッカーサーが韓国李政権への軍事物資援助を全て停止。

1949年6月:アメリカ第24軍本体が本国に撤退 韓国には国連監視団500名のみ残し引き上げ。
韓国は防衛上の後ろ盾を失う。

1950年1月:米韓軍事援助相互協定を調印。韓国側は軍事支援強化を求めるが米国は拒否。理由は韓国の北進を防ぎ、日本への侵攻防止、ソ連との約束で韓国軍に兵器を拒否した。

1950年6月:再び、李承晩が"対馬島と北九州"への軍事侵攻に韓国全軍を南部へ移動指示、釜山港に集結開始。

1950年6月10日:北朝鮮大機動演習を開始。全師団が南国境地帯で演習移動しているが、米国は韓国に知らせず。

1950年6月17日:韓国軍が釜山にぞくぞく集結。全軍が釜山港に集結。対馬と北九州侵攻準備で北国境はスカスカ。

1950年6月:スターリンが米国に何度も問い合わせ。米軍はソ連と交戦はしない。朝鮮半島は米国の守備範囲でない。アチソン国務長官が「朝鮮半島は米国の守備範囲でない」と米政府声明を出す。

1950年6月22日:北朝鮮軍最高司令官金日成、全面的南進作戦命令を発する。


かくして朝鮮戦争が始まる

北朝鮮は、韓国全軍が動きスカスカであることを知り動いた。ほぼなんの反撃もなく北朝鮮はソウルに到達、そのまま南下するも一切の抵抗なく進めることができた。当時の北朝鮮軍関係者は、全く反撃が無かった事に驚いたと証言している。


とんでもない時代でした。

疑問を感じるのは、李承晩大統領の強気はどこから来ているのかということです。



この時代、長谷川一夫は、映画を撮り続けている。暗い時代だから余計に明るい映画を求めたのだろうか。

1946年 檜舞台、或る夜の殿様、霧のよばなし
1947年 東宝千一夜、さくら音頭、大江戸の鬼、ぼんぼん
1948年 幽霊暁に死す、遊侠の群れ、小判鮫第一部
1949年 小判鮫第二部、銭形平次捕物控、足を洗った男、甲賀屋敷、蛇姫道中
1950年 続蛇姫道中、傷だらけの男、お富と与三郎(前後編)、城ヶ島の雨、千両肌、鬼あざみ

この後、大映に入る。

すみません話が、少しずれました。
次回この時代背景を踏まえて、「小判鮫」を見てみたいと思います。