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三条河原町のブログ

昭和30年ぐらいまでの娯楽日本映画は、
普通の人たちの生活を実感させてくれる
タイムトンネルです。

若林中隊長のガダルカナルでの活躍が戦前は、軍神として語られ、日本中に知れ渡り、当時のトップスター長谷川一夫主演で映画まで制作された。しかし、敗戦とともに、全くその名は忘れられてしまった。その映画も敗戦後、処分されてしまったようである。

意図的に忘れさせられてしまったのではないだろうか。

ガダルカナルでの最後の一週間前までに書き綴られた若林中隊長の日記を読めば読むほど、思うのであるが、この部下を思い、大切にする中隊長の姿そのものが、日本兵の強さであると、日本の強さであると、戦後、アメリカのエリートが悟ったからではあるまいか。

ガダルカナルの見晴台での、持久戦。それはとてつもない我慢を部下達に強いるものであった。その中で部下達に希望を捨てさせずに、戦闘力を維持させる。

・・・通信連絡はまことに重要である。特に戦斗間の通信連絡は単に戦闘技術上のみならず、士気上、団結上重要なる役割を果たす。相互の状況が判明し、各々当面の状況、自己の奮闘しある様子を明らかにすることにより、発憤と信頼性をます。・・・

この若林中隊とは劇的な香港攻略を始め負け知らずの陸軍歩兵中隊であった。若林により、鍛え抜かれた精鋭部隊であった。そのかれらが、ガダルカナル島の中で3ヶ月にも及ぶ食料の補給もない制海権もない制空権もない戦いを強いられたのである。

・・・本日一等兵山田環戦死す。攻撃せずして目下の持久任務においてかく逐次に兵員を失うことまことに申し訳なき次第なり。・・・

・・・飯々々。実に飯がほしい。うまいものを兵に腹一ぱい喰わせて満足に戦う姿を見たい。そればかりが念願だ。
たとえ迫撃砲がスコールのように落ちようが、爆撃で地を耕やされようが恐れはせぬ。私は兵が青く痩せていくのが見ていられぬ。・・・


アメリカにより、精鋭部隊がいる、日本部隊の拠点であると、奪還の最重要目標とされた見晴台への攻撃は苛烈極まれるものであった。

その中で若林中隊長の日記は優しい。自分のために苦労してくれる部下達への愛情がにじみ出ている。それも、「木の実拾い」、「煙草を喰らいて」、「突撃する気持ち」、「とかげ」、「担架」、「マッチ」、「河」、「タニシ」、「退屈」等、具体的な事柄から、部下への思いが、書き込まれている。作戦本部に対しては、問題視する記述もある。しかし、それにもかかわらず、自分の置かれている立場で可能な事を全うする事が日本のためであるという信念を失ってはいない。

・・・本日大隊本部に於いて中隊を無用に位置変更の命あり、思わず大声にて議論しぬ。・・・

中隊長として、後に続く者達を信じて、この苦しい戦闘を戦い抜かんとする気力には驚かされる。重傷を負った後も、比較的安全なところにある本部に残ることを拒否し、信じる部下の元に、最前線に、もどり、最後まで先頭にたち、戦い死んでいく。享年31歳。

自分が死んでしまっても、この自分の意思を引き継いで日本をまもってくれるものがいる。この信念は、現在は薄れつつあるとはいえ、わたし達には理解可能な、いや、心に響く心情である。なぜなら私達は先祖のおかげで、先祖の苦労のおかげで現在があると知っているからである。そしてその先祖から受けついだものを子孫に受け渡していかなければならないと信じている。

それは日本においては、宗教とか哲学とかイデオロギーというような抽象的なものではないと私は思う。
日本では伝統、伝統というが、それはものを作る技術そのものであり、芸術もしかり、
茶道、花道、剣道ほか道がつくもの、能狂言、歌舞伎といってもそのもの自体の動きや表現すべて具体的な事象が、何代も何代にも渡って工夫を加え世代を超えて作り続けられているのである。

この目に見え、手に触れられる具体的なものそのものを受け継ぎ、そこへ新しい工夫を加えて来たという実感そのものが伝統として存在するからこそ、後のもの達が、日本を愛する思いを引継いで、さらに新しい工夫を加えて発展させてくれると信じることができるのではないだろうか。

そしてこの手応えのある、目に見える伝統こそが、日本人が世界から恐れられる強さである。

伝統的な侍武将の姿を体現している若林中隊長、この中隊長を戦前の日本人は大好きだったんだと思う。



日本軍撤退作戦終了後、ガダルカナル島はソロモン諸島におけるアメリカ軍の新たな兵站基地として使用され、また、日本軍の残兵掃討を行い部隊の練度を上げることが行われたと言われる。戦後刊行されたグラフ雑誌『ライフ』には、米軍の捕虜となった日本の傷病兵などが、戦車の前に一列に並べられ、キャタピラでひき殺されている様子が掲載されたという。(ウィキペディアより)
ネットでの一枚の写真とのであい。

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右から六人目が若林中隊長を演じる長谷川一夫氏、両隣は母ハルさんと妹花子さん

(http://ameblo.jp/guadalcanal/entry-11614004368.html)

撮影現場での記念写真です。それは、映画の主人公若林中隊長のご遺族との記念写真です。この記念撮影に写っている長谷川の様子が、外の作品とは全く雰囲気を異にしているのにおどろきました。

この写真に写っている長谷川を見ると、心から尊敬する軍人を演じているんだというような自負がにじみ出ています。そして、ご遺族のかたに会えたことをとてもよろこんでいる様子です。

なにか、長谷川自身が、若林中隊長の霊をおびて「おれは頑張ったぞ!」と、お母さん妹さん一緒にいるように見えてきます。

もう! こんなに長谷川を魅了した若林中隊長とはどのような人だったのか?
この映画のあらすじは?
この映画を見ることはできるのか?
この映画のことを長谷川はなんといっているのだろうか?

若林中隊長の事が知りたくなり、できる限りさがしてみました。

「若林中隊長」 陸軍報道班員柴田賢次郎著 文芸春秋 昭和19年4月1日発行 
「アッツ玉砕」 昭和19年11月10日初版発行 川口松太郎著
「後に続くものを信ず」 軍神若林中隊長追悼録 昭和55年

映像は、現在フイルムセンターにも無く、戦後すぐに処分されてしまったようです。
話はどのようなものであったのか、ネットでは全く分かりませんでした。しかし、昭和19年に川口松太郎が、アッツ島玉砕の山崎部隊長の脚本を出しています。そこに一緒に「若林中隊長」の脚本も入っております。この話と、柴田賢次郎が文藝春秋で書いている「若林中隊長」のエピソードが加えられ、映画化されたのではないでしょうか。監督は渡辺邦雄。

長谷川自身「美女才人対談」のなかで、ちらっとですが当時を振り返り、
「後に続くを信ず」と言う映画を、兵隊からかえってすぐに撮りました。空襲の一番激しいときに出来上がり、自分でも気にいっていた作品だと、昭和54年(1979年)に語っています。

1979年と言えば、1970年以降 本多勝一の「中国への旅」朝日新聞掲載とかで、高度経済成長で自信を取り戻しつつあった日本に、もう一度「南京虐殺」とか「従軍慰安婦」とかのあらぬ濡れ衣を被せ、自虐史観を特に教育を通じ、庶民へ浸透させていった時期です。

もうこの頃になるとガダルカナルでの戦いとは、如何にばかげた戦いであったか、アメリカ軍に戦闘でやられたと言うよりは、日本に捨てられた兵隊達は、飢えに苦しみ、兵士達は互いの人肉まで食った地獄の戦場であったという話ばかりが声高に話された時代です。

私も、詳しくはないですが、ガダルカナルと言えば、日本軍のばかばかしい作戦で多くの日本兵の皆さんを殺してしまった戦いとしか考えてはいませんでした。

しかし、だからといって、前線で、現場で命をかけて、頑張った兵士達を、若林中隊長を、反省すべき軍部の無能さと同次元におとしめていいのでしょうか。

若林中隊長は一人で存在したわけではありません日本という国またその軍隊で、育ってきた人材です。日本軍には多くの若林東一がいたはずです。若林東一を育てる力のある国であり軍であったはずです。だからこそアメリカが、イギリスが、オランダが、そしてドイツやフランスも日本を恐れたのです。

東京裁判で言われたような謀略会議を開き世界支配を目指すような専制勢力など日本にはなかったのです。そんな強い統制力を持った機関など無かった、ズーッとむかしから、専制的な力を発揮する人を拒み続けてきた社会であるからこそ、大本営は無能だったのです。私はそう思います。 

つぎに、若林中隊長が戦死する一週間前まで書き続けた日記の紹介をしたい。
そこには、「三十三間堂通し矢物語」の星野勘左衛門がいるような気がする。
映画の中で「この仕事は(沖仲仕)人手がなくて困っているんじゃないの。」と語られているように、当時国内での働き手の不足は大きな問題となり、多くの朝鮮人が本土へ働きにやってき、それを受け入れていた日本人が描かれています。

「朴さんがかみさんを連れて帰ってきたぞ」といいながら大勢の沖仲仕達が社長室へなだれ込んでくる。

社長室の人垣の中に、
「社長さん女房です。内地の事は何も知りません。よろしくお願いします。」(朴)
「よくおいでだ。そんな人はたくさんいるから心配いらん。うちの方は達者か?」(社長)
「とっても喜んで社長さんにお礼をいっていました。
村中のものがうらやましがって、たくさんたくさんきたいといいています。」(朴)
「金さん。朴さんが、帰ってきたよ。」(小野班長:長谷川一夫)
「金さんこんにちは。
金さんお父さんが帰ってきてほしいと言っていたよ。
金のとうさん体が弱ってきて、はやく嫁さんをもらって孫の顔を見たいと言っています。」(朴)
「金くん、一度帰ったら」(小野班長)
「班長、仕事を捨てて帰られんです。
社長さんわし来年は兵隊です。それまでは帰りたくありません。」(金)
「そうか、おまえが兵隊に行くときは盛大に送ってやるぞ。」(社長)
「偉いなあ、金」(朴)
「社長さん、わし明日からうんとうんと働きます。」(朴)
「帰ってきたばかりだ、明日は休め」(課長)
「おまえの班は、明日から大阪港へ行くんだ。おまえも行くか。」(社長)
「はい、行かしてください。」(朴)

朴さんや金さんは何とか、日本人の仲間として働こうとし、彼らの気持ちを受け止め、日本人と同じように扱おうとする社長さんの姿がある。

社長さんは彼らの言葉を信じた。
親の体が弱ったときいても、帰りたくないと言った金のことば、
新婚の嫁さんと離れても、挺身隊として、大阪港へ行って働きたいと言う朴のことば、
彼らの言葉にも、嘘はなかったのだろう。

映画とは離れるが、以下の資料を見れば、どれだけ朝鮮人が、強い日本に寄り添っていたかが分かる。

日本軍に志願した朝鮮人
1937 年、日中戦争が勃発すると、試験的に朝鮮人の志願兵の募集が行われた。
朝鮮人に“徴兵制”が適用されたのは終戦直後の1944年である。
驚くべき志願率の高さ
朝鮮人志願兵の志願率(昭和20年5月の内務省資料)

年代 募集人員 志願者数 倍率
1938年 406 2946 7.3
1939年 613 12528 20.4
1940年 3060 84443 28
1941年 3208 144743 45.1
1942年 4077 254273 62.4
1943年 6300 303294 48.1

国立公文書館 アジア歴史資料センター
http://www.jacar.go.jp/
朝鮮及台湾ノ現況(本邦内政関係雑纂/植民地関係)
レファレンスコード:B20020312847 (志願率に関しては17画像目)

【崔基鎬(チェ・ケイホ)氏 1923 年生まれ。
明知大学助教授、中央大学、東国大学経営大学院教授を経て、現在、加耶大学客員教授は、
平成16年12月号 漁火(いさりび)」新聞6・7面で
・・・(一部略)
戦前から東京にいた私は、年に1~2 回はソウルとか当時の平壌に行きました。
その当時の韓国人は日本人以上の日本人です。劇場に行くと映画の前にニュースがありましたが、例えばニューギニアで日本が戦闘で勝利をおさめたという映像が流れると、拍手とか万歳が一斉に出ます。
私は劇場が好きで、日本でも浅草などに行って見ていましたが、韓国で見るような姿はごくわずかです。韓国ではほとんど全員が気違いのように喜びます。
・・・(一部略)】

ところが日本が、アメリカに負けた途端、すべてがわります。

「命の港」で頑張っていた社長さんに、敗戦後、金さんと朴さんはどのような言葉を発したのでしょうか。 映画は、1944年の様子で終わっていますが。

また、この映画を撮った渡辺邦夫監督は、戦後何を思ったでしょうか。
「命の港」昭和19年5月 渡辺邦夫監督 

長谷川一夫が沖仲仕を演じている映画があるなんて全く知りませんでした。長谷川はこの映画撮影後6月1日応召、鳥取西部第47部隊に36才にして入隊、8月29日に除隊しています。
次の年ガダルカナル玉砕(昭和17年)「後に続くを信ず」で有名な若林中隊長を演じて、そのあと「三十三間堂通し矢物語」です。

「命の港」は、戦時下、国内においてすべての人々が一丸となって日本軍を支えているという国策映画であるのでしょう。軍はいっさい出てきませんが・・・

しかし、このような国策映画を発想し、作るというのは、ほかの国ではちょっとないのではないでしょうか。 労働に対して「節約と勤勉を旨とし、倦まず、たゆまず、自分の職分に専心することを高く評価する価値観」を持つからこそ生まれてくる映画だと思います。

実に、おもしろいです。日本人の労働に従事する姿勢、哲学が、むろん理想形ではありますが、ほんとうにわかりやすく表現されています。渡辺監督もこんな日本人が大好きだったのだと思います。

『日本が太平洋戦争に敗北すると、戦意高揚映画に関わった製作者たちがGHQからの厳しい追求と尋問を受けたが、ほとんどの監督が軍部に脅されて仕方なく撮ったなどの姑息な言い訳に終始する中、渡辺だけは「国を護るために撮った。自分なりのやり方で戦ったまでだ」などと主張、尋問に当たっていた米軍将校はすっくと立ち上がると渡辺に両手を差し出し「この国に来て初めてサムライに会った」と言いながら握手を求めたという。』(ウィキペディアより)

静かな港湾風景、甲板で朝の体操をする長谷川演じる小野の班の日常から始まる。

会社の中では、社長が、工場の設計師に話をしている。
「船は1年の半分は走っとる。
あと半分だけ港にいるわけですが、その一割だけ荷役時間がはかどれば、
それだけ出帆が早める。
つまり、何十トンの船が、新しくできたことになる。
何十トンもの船をわしらがこしらえたというもんだ。」

「この独身者の寄宿舎なども荒くれ男どもに暮らしの苦労をしないで荷役に精魂を打ち込んでもらう。大の字になってわがうちのように・・こういう設計をねがいたいのですが。」

船の現場では、須藤班で働く小野の姉が仲間の不注意から、上から落ちてきた荷の下敷きになりそうになった。しかし・・・
「姉さん、今日は危なかったんだって?
幾度もいいようだけど、姉さん軍需工場の方へつとめたらどうだ。
姉さんも兄さんみたいなことになるとすみ(姉さんの娘)もかわいそうだし・・・」
「およしよ! けんちゃん(小野)らしくもない。
この仕事は人手がなくて困っているんじゃないの。
それにあの社長さんに使われていれば、どんなことがあっても安心できるし。
親も仲仕、亭主も仲仕、私にはこれが一番性に合っているんだよ。
けんちゃんだってそうじゃないか。ほかに話があっても、俺は仲仕で通すんだって・・・」
「そうだったな。もう言わないよ。」


小野班と須藤班とは競争相手で須藤の娘と小野が恋仲という設定。
しかし、小野が社長の娘に取り入ろうとしているとうわさが、須藤をいらだたせ、仲仕たちの喧嘩を誘う。
社長は、仲仕たちの喧嘩のあと
「いいか、今の日本は乗るかそるかの時だ。
俺たち沖仲仕の男が立つか、立たんかの時じゃないじゃない
聞こえるかあの船の汽笛が
俺たち男の意地はこの船を一刻も早くこの港から出すことだ。それが俺たちの意地だ。」


仲仕たちの意地を喧嘩から、仕事への誇りへと向かわせる。
大阪港への挺身隊80名に須藤班を選び出発させる。
そこで元気と自信をとりもどした須藤たち・・・

会社の方には、「石炭を積んだ船が戻ってこないので困っている。
ともかく、ついたらすぐに貨物車へ石炭を運べるように体制を整えておいてくれ」との要請が来ている。
社長はすぐに挺身隊に出ている者たちを呼びもどす。
須藤班も後から応援にいった小野班も一緒に夜行汽車で帰ってくる。

戦地から傷つきながらやっと戻ってきた石炭を積んだ船団を迎え、社長は
「この戦況の逼迫しているとき、飛行機を作ること軍艦をつくることすべてお前たちの荷役能率いかんにあるのだ。

いいか、各工場はこの船団の入港を救いのかみのように待って居るんだ。はしけ荷役は、はしけを総動員し、沿岸荷役は貨車や自動車への積み込みを、手ぐすね引いて待って居るんだ。
いいな、このはしけに、貨車や自動車に、荷を詰めるのも、詰められんのも私たち船舶荷役の肩にかかっているんだ。 明日こそは沖仲仕の腕と、意気を、根の限り示すんだぞ。」


静岡県立沼津中学卒業後、早稲田大学商学部に入学し、浅沼稲次郎らと建設者同盟を結成していたというから渡辺監督は、このような労働者の誇りとか仕事ぶりをよく知っていたのであろう。だからこそ生まれてきた映画だとおもうが、ともかく自分たちの仕事が社会とどのようにかかわりがあり、どのような意味を持っているのかを感じることができる社会を日本人は作り上げていたのだ。「自らの意思」で働くからこそ、その職場の共同体の中から新しい工夫や、技術が、うまれてくるのだろう。

この映画の中でも、詳しくは描かれてはいないが、傷ついた船のエンジンが止まってしまい、小野班の荷揚げの作業が中断される。だが、そんなことにめげず、自分たちの仲間に元機械工がいる、また、力仕事ならどんなことでも手助けできると、船長に提案し、機関士たちと一緒に働き、エンジンを復活させる。 遅れてしまった荷役仕事は、夜を徹して、行われることになる。

そして、朝を迎える。貨物車に満載された石炭が、出発していく。
仕事をやりきって貨物車を見送る沖仲仕たちの歓声!歓声!ばんざーい!


長谷川の役は、素朴で真面目な沖仲仕、働くことが大好き。
変な噂が立って、恋人が疑心暗鬼になっても、
「うわさなんて本当のことが立つもんか。 あやちゃん 仕事だよ、誠心だよ!」  

どんな悩みがあっても「仕事さえやっていると機嫌がよくなる」と、自ら書き留めているくらい仕事が好きな長谷川。これは、どんな目に合おうとも、仕事を重ねることで自信を、力をつけてきた長谷川一夫の心からのさけびのように思えます。
このあと、大八郎は、自室からも出ず、誰とも口を利かず、弓の練習もやらないと、小松屋の板場で語られる。そこへ尾張藩屋敷から、星野と大八郎の弓の試合が、申しいれられ、周りは反対するが、これは、あの方との約束だからと出かけていく大八郎。

周りの心配を覆し、星野に勝ったと大喜びで大八郎はもどってくる。


そして、通し矢の当日。星野の8千本を超える事ができるかと、多くの見物人がところ狭しと、三十三間堂の矢場に集まる。

もしこの挑戦に失敗したら、父と同じように、大八郎は、腹を切るだろうと案じる人は誰もいない。ただ一人、星野勘左衛門をのぞいて・・・

見物人のすごい熱気のなか大八郎は快調に弓を打ち続け,通し矢は5千本を数える。そこで休憩の提案がなされ大八郎は休もうとする。

ところが立ち会い方の星野から、「あいや、和佐殿、またれ、ここで休むとはなんたることでござるか。 ここで参観なされている諸家の方々にも礼を欠く。そのまま続けられては如何でござるか。」と提案する。

しかし、見物人達の恐ろしいヤジが飛び交う、「卑怯者!」「疲れさせて自分の記録を破らせないでおこうという魂胆だろう」「尾張屋敷に連れ込んで試合をするようなやつの意見を聞くな」「そうだ,そうだ」・・・他の立会人らからも促され星野は黙るしかなくなる。

休憩の後、通し矢は再開されるが、矢が全く通らなくなる。見物人達も白け出す。
大八郎はいたたまれなくなり、裏へ回り腹を切ろうとする。

星野は、大八郎の世話をやく小松屋の女将に
「休んだから肩にこりが出たのだ、こうなるにきまっていたから、拙者は止めたのだ。ともかくすぐに、小刀でも笄でも突き立てるのだ。
そして、こり血を抜いてこの印籠の薬を塗りつけて,固く縛り血をとめる。
そして、星野勘左衛門を破ったものができないはずはない。
自分の持っている力を出し切れなくて敗れるのは不面目である。
父上の死をさらに汚すのか、といってくだされ。」
と言い残して去って行く。

大八郎はそのあと、3188本の矢を通し、星野の8千本の記録を破る。

立ち会い方の席には星野はいない。 三十三間堂の中で自らの8千本記録を示す額を見上げる星野。星野は、一人立ち去っていく。

長谷川一夫演じる星野は、すばらしい!

母の手前でお茶を飲み語られる・・・

「その方が、そちの八千本をやぶれば・・・」(母)
「和佐どのに変わります。私が、和佐殿の父上の額をおろしたと同じように」
「母上・・・」
「いいえなんでもありません。これが武士道の習いでしょう。」(母)




『赫々の武勲、必死泌中の体当たり敵大混乱』こんな見出しで語られていたのは,神風特攻隊の姿であった。新聞はこのように特攻隊を描き、庶民を嬉しがらせた。


一方ではこの成瀬監督のように、冷静な目で見た戦況を知りたいという人たちもいたはずではあるが、売らんがための新聞報道に踊った多くの国民の大きなうねりは、冷静な人々の発言する場をうばっていった。公の場で、冷静な発言ができない空気が出来上がっていった。軍人、政治家を含めて・・・

星野の意見を聞こうとするものはいなかった。
辻講釈師の話が面白いから、心地いいから、何の疑いもなく信じてしまうのか。

なぜ朝日新聞が、一番勇ましく戦争を煽ったのか、売らんがため大きな力の片隅に、ソ連のため 日本を、蒋介石・アメリカ(ルーズベルト)との戦争につきすすめさせようとした尾崎秀実たちの影響が潜んでいたとも言われているが、この当時はそんなことわかっているはずもなく、「勇ましゅうて、朝日読んでいたら気ぃ大きゅうなる」と言われていた朝日新聞に酔ってしまった国民の責任は大きかったと思う。

日本社会は 報道を辻講釈師から、社会への責任を自覚できる「芝居道」の興行師に育てることに失敗してしまったのではないか。  戦後も・・・


それとは全く別世界に、この時期に五体満足な日本男児として、先人から受けついだおのが命を、生きた証を、誇りを、後から続くもののために、未来の日本のために、捧げていった者たちがいた。


「・・・弓道に身を捧げる者が後の者に捧げる一里塚だ。
人間努力をすればここまでやれるという事を後から来る者のために示すものだ。
その記録に達しられぬ者は、己の不勉強を恥じねばならぬ。
先人の達したものを,後から来る者は,それを乗り越えねばならぬつとめがある。・・・」







参照:尾崎秀実らに影響をあたえたレーニンの敗戦革命とは
1)帝国主義国家同士を謀略でもって、お互いを戦争させる。
2)戦争当事国を疲弊させ、戦争による不満を充満させ、国家元首と国民を離間させる。
3)敗戦国はモラルも一気に低下し、国家元首が窮地に立たされる事で、追い落としが可能となる。
4)共産主義による新たな希望を持たせる宣伝活動と、謀略、時には暴力をもって国家元首を追い落とし、新たな共産主義国家を建国する。

京都・三十三間堂で江戸時代の初期から行われてきた通し矢にまつわる実際の出来事に題材をとり、1945年1月から5月にかけて撮影された。撮影は度重なる空襲に中断を余儀なくされながら進められたという。(ウイッキペディアより)

国民に外交・戦争を客観的かつ冷静に語ろうとせず、主観にのみ立脚し、いたずらに感情を高ぶらす報道のあり方。 
販売数を増やす方法としてそれもいいだろう、しかし「芝居道」で興行師が主張した「日本が、一等国のなった先々の事を考えると締まる時は締まらんなりまへん。」「わしは、今度の芝居で世間の人にそこにきがついいてもらいたいんや」 この部分が、報道、マスコミの世界で育ち損ねたような気がする。

感情的な報道の心地よさに酔う無責任な大衆、そして、それとは全く別世界に、自らを合理的に納得させ、おのれの命をかけ、戦わざるを得ない立場にある戦士の存在がある。 

この作品をこの時期に制作する事ができた日本人のすばらしさに感動するとともに、この作品が、「あまり話題にならなかった」と、のちに長谷川一夫が歎いているのを読みかなしかった。

私は「三十三間堂通し矢物語」は「芝居道」のラストシーンで興行師が語る次回作であるように思う。

「芝居の道は一筋、世のなかに遅れても、おもねってもいかん
世のなかのいろいろな音にじっと耳をかたむけるのや。
あの花火でもいい 勝ち戦続きの音やけど、
あの音のなかにもいろいろなものが聞き分けられる。」

主人公の和佐大八郎が通し矢に挑戦したのは23才であった。 それをこの映画では17才にしている。ここに成瀬監督の一つの意図が読めるように思う。

トップで、三十三間堂、通し矢、その記録を示す名誉ある額の説明が三十三間堂のお坊さん達から見物人への説明として語られる。

次に続いて同じ流れのなか、京の町中で、辻講釈師が物語として、脹らまし、この通し矢が、尾張松平と紀州松平の壮絶な名誉争奪戦となっていること、

「尾張の星野勘左衛門に敗れた紀州の和佐大右衛門が名誉を奪還するために50才にして、再挑戦した。しかし記録を更新することができずに不面目を恥じて切腹、かくて通し矢は血を見ることとなった。星野の記録を破るものはこの5年間出てこなかった。

しかし、今年に入り、切腹した和佐大右衛門の遺子、大八郎17才が、寺社奉行に通し矢の許可を願い出た。」

「えらい評判になってまっせ」と講釈師の話しを聞いて興奮した大八郎の世話をする旅館の板前が帰ってくる。
「今頃、聞かはったんどすか?」「わてらもう10日も前に聞きましたえ」「いまごろ何をいうてはるのどすか。」 5年も前から、大八郎のいる小松屋旅館の板場で、話に花がさく。

街の中で通し矢の話しをするこの講釈師が、もう一度この映画のなかで、出てくるのは通し矢の当日。 「あんたはん、朝ご飯もくわんと、えらい早ようからきたはんのでんな!」と声がかかると「ゆんべからこうやって席を取ってます。これがわしの飯のたねやから」、と弁当を食いながら始まるのを待っている。

ともかく見物人は大騒ぎ、「星野とは卑怯なやつだ。尾張屋敷に大八郎をつれこんで,きそい矢をした。 それで、若い大八郎をつぶそうとした。」というように、おもしろおかしく噂がとびかっている。

これはみな講釈師のお仕事なんだろう。

星野は悪いやつだとヤジが飛びかう中、通し矢が始まる。

成瀬監督のうまいところは、この場面までに 映画を見ている私達に、通し矢に挑戦する大八郎の悩み、迷い、恐れを示し。その上で、大八郎をおそった浪人たちを追い払ってくれて、偶然、知り合った浪人、唐津勘兵衛との交流をじっくり、ゆっくり、丁寧にえがいている。

何とか通し矢を成就させようと思う周りの人々の優しさや気遣いに押しつぶされようとしていたこの少年の思いが、同じく弓をする先輩唐津勘兵衛との出会いと交流により少しづつ自信を取り戻して行く。

そこで、二人の間で、通し矢の本質が語られる。

「大八郎殿、貴殿の父上は何故お腹を召されたとお考えか」
「身の不面目を、恥じたのだと思います。」
「拙者の考えは違う。」
「と申されますと」
「不面目とは自分の待っている力を出し切れなかった怯懦を言う。父上は、全力を出し尽くされた。不面目ではない」
「では,藩の名誉のためですか」
「それもある。しかし,ただそれだけではないと思う。
拙者は父上は通し矢の厳しさにげんじられたのだと思う。
大八郎殿、通し矢は数を競う子供の遊びではないのですぞ。
あれは、弓道に身を捧げる者が後の者に捧げる一里塚だ。
人間努力をすればここまでやれるという事を後から来る者のために示すものだ。
その記録に達しられぬ者は、己の不勉強を恥じねばならぬ。
先人の達したものを,後から来る者は,それを乗り越えねばならぬつとめがある。
この記録のために立ったものは、それが失敗した場合、死んでそのことの森厳さを保たねばならね。
貴殿が、今なされようとしていることの意味の重さがおわかりか。」
「分かります。今こそ分かります。」
「分かったら、必ず成し遂げねばなりませぬぞ。」
「私は、私はだめです。確信が確信が持てないのです。」
「なぜだ!」
「私は、星野勘左衛門が怖いのです。」


実に、成瀬監督の話の運びはうまい。ここに星野数馬が、兄星野勘左衛門を迎えに来る。「ここでは唐津勘兵衛と名のっているそうですが、母上が京に参られたので、兄上を、お迎えに来ました。」とやってくる。

この信頼に値する先輩が,父の敵と思って来た星野勘左衛門であることを知って愕然とする大八郎。「母上のお召しとあらば・・・」、と席をたつ星野 「大八郎殿」と振り返る。「それじゃ、貴方はほんとうに・・・」と尋ねる大八郎。 何かはなそうとするが、唇をかみ何もいわず去って行く星野。

次回に続きます。
成瀬監督の思いがどこにあったのかを正確に知ることはできない。できることは、この作品と続いて1945年の前半に制作された同じく長谷川一夫主演の成瀬監督作品「三十三間堂通し矢物語」のなかに埋め込まれていると思う。

現在でも、テレビや新聞報道で一方的に正義であると国民を、あおりたてる事がある、冷静に考えてみれば間違っているとされる方にも正しいところがあったりする。周りをしっかり見渡し、全体を見きわめる冷静さを、大衆に先立って示すことができるのは、新聞やテレビのはずである。

昭和19年20年の状況を考えれば、南方の島々での日本兵玉砕、が報じられるようになり、神風特攻隊が計画実行されていくという時である。この昭和19年5月(芝居道)と昭和20年6月(三十三間堂通し矢物語)は制作された。(8月15日に敗戦)

自衛と東南アジアの植民地解放の戦いが、いい、悪いは、別の問題として、また政府や軍からしか情報を得られないという問題があるとはいえ、国民を煽り立て「神がかりのように」戦争状況を書き、大衆の感情を高ぶらせる新聞の報道にかなりの疑問を感じる人達が存在していたのではないか。その一人が成瀬監督である。

古川ロッパの興行師を通して語られている。
「大勝利大勝利と世間は、浮ついている。その浮ついた景気の尻馬に乗るだけで、仕打ち(京阪で、芝居などの興行の出資者・興行主)というもんはええもんか。よう考えて見てや。」
・・・
「おもろない?」
「見物が来ますやろか」
「来いへんかもしれまへん。それでもわてはやります。
旗行列や提灯行列やでええ気分になっているときではおまへん
日本が、一等国のなった先々の事を考えると締まる時は締まらんなりまへん。
わしは、今度の芝居で世間の人にそこにきがついいてもらいたいんや」
「せっかく当ててきた芝居をやめてしもうて?」
「芝居は目学問、耳学問といいます。
そうやったらわても世間の人より一歩でも、半歩でも先に出てなりまへんやろ
世のなかで一番ためになる芝居」
「損してもでっか?」


西南戦争 日清日露戦争で、血沸き肉躍るような戦争記事が新聞の売り上げを如実に伸ばすことを知った新聞は、以降、民衆の戦意を煽る姿勢を強めます。新聞報道は、この興行師とは違い、儲からなくても、自らの持つ大衆への影響力を自覚し、大衆に、冷静さを呼び戻す見解を示すという姿勢がおろそかにされてきたように思う。


「芝居の道は一筋、世のなかに遅れても、おもねってもいかん
世のなかのいろいろな音にじっと耳をかたむけるのや。
あの花火でもいい 勝ち戦続きの音やけど、
あの音のなかにもいろいろなものが聞き分けられる。」

次回に続けます。
「芝居道」昭和19年5月 戦争の真っ只中に制作された作品。

始まると劇中劇、舞台は日清戦争、戦艦の甲板で戦う水兵、一人の水兵が倒れ、テイエンは沈みましたかと問いかける、上官が抱きかかえ、「うん、大砲も打てないくらいやっつけたぞ、キンエンもやっつけている」と、声をかけると、天皇陛下万歳と死んでいく。

「一兵卒までが日本と思いを一つにして戦っている」この事実をできるだけ多くのひとに伝えようと、半額チケットまで出して集客する。同業者からは激しいい非難を受ける。

ところが、戦況がよくなると、勝った、勝ったと、旗行列、こんな戦争芝居をやりやがってと馬鹿にしていた他の興行師達も真似をし、みんながいいきになって浮かれ出す。

すると、この興行師はこんな時こそ心を引き締めなければ、苦しいなかで倹約をしながらも自らを鍛え戦った南北朝の武将の話を舞台にかける。

お説教など聞きたくもない観客は離れてしまうが、信念を曲げず、ほんとうに日本を考えれば今は浮かれているときではなく、気持ちを引き締めて過去の歴史から学ぶ時が来たと訴える。

しかし、誰も耳を貸さず古くからの役者までがこれでは人気に係わると離れ最後には小屋主ももうあんたには小屋は貸せないと宣言。けれども街では、少しではあるが、この興行師の芝居がおもしろいと噂する人が、でてきていた。

このあらすじの伏線に、彼が育てあげてきた若い役者の話が絡む。目をかけて育ててきた役者が、この戦争芝居で花開き花形役者として観客動員の力になっていた。しかし、人気が出てくるとそれを鼻にかけ、スタッフには威張る、女浄瑠璃に惚れて毎晩通い詰めている。見かねた興行師は意見するが、聞かない。

そこで、女浄瑠璃に、あいつを立派な役者にするために、別れてくれとたのむ。互いに子供の頃から、芸の道をめざしてきたという女浄瑠璃は、役者のために身をひく。

興行師にも文句ばっかり言われ、女にまで裏切られたと思った役者は、おれには人気がある、それに 東京からもきてくれという小屋があると出ていきます。

後で、人気におごっていた自分に気づき持ち直すとはいえ、長谷川一夫は、若くて生意気な、鼻息の強い、いやな役者を演じています。くそ生意気で、自分のことしか頭にない、下には傲慢で憎たらしく当たり散らす。ところが、興行師がくると急に表情も変え興行師におべんちゃらを言う、その表裏の妙。酔っぱらって楽屋入り、化粧台へいざっていく、その姿が、昭和30年代に観た松竹新喜劇の藤山寛美にとてもよくにている。

子供の時に観た若い寛美の記憶と、今、(戦時下の映画)観ている長谷川一夫がなぜこんなに重なるのかをわからないが。でれっと、そして、ぬれっとした、それでいて色気がある生意気盛りの役者の演じ方が同じではないかと思う。

長谷川一夫を中心に観るならこの前半部の役者の姿と演技がとてもいい。そして、こういう長谷川一夫の姿は、この映画でしか見られない。

話を元へ戻すと、この興行師は、芝居には大衆を導く力がある、だからこそ、儲ける事ばかり考えないで、いま、何が大事か、何をやるべきかを常に考えて芝居を打っていれば大衆は自ずと気づくもんだという。

興行師としては、思い上がっているように思われる方もいらっしゃるかもしれないが、一般大衆への影響の強さを考慮に入れれば、芝居、映画、新聞、テレビと、これらの仕事に係わる人びとが、心の隅にいつも置いておいてほしいい矜持が語られているのではないかと思う。

当時「勇ましゅうて、朝日読んでいたら気ィ大きゅうなる」と言われていた朝日新聞はよく売れた。

昭和6年満州事変の頃、トップは毎日新聞で、朝日とは100万部からの差があった。ところが昭和17年には朝日がトップにおどりで、なぜか毎日新聞は停滞した。戦時にあって一人大きく発行部数を増やし、儲けたのは、朝日新聞であった。

成瀬監督は、昭和19年当時のその新聞報道の姿勢に問題を感じていたのではないだろうか。儲ける事を考えない不思議なロッパ演じる興行師を通して、それを訴えているように思う。

ここで田辺聖子さんの「女のとせんぼ」から引用

婦人問題、女性の周辺は各紙力を入れている傾向だが、この点でも朝日はかなり先鋭的でエネルギッシュである。
精力的にフェミニズムに触れ、元来男性文化の牙城たるかなり無理して頑張ってはるという感じ、私は女性問題の記事は切り抜きするので、はさみと赤ペンは、新聞を読むとき手元におくが、朝日は一番切り抜く事が多い。
私にとって、ただいま朝日は
「面白いんやわぁ」
とカモカのおっちゃんにいうと、
「ちょっと待った。それは戦時中の朝日もそうであった」
という。なんで戦時中のが?
「朝日新聞は、戦時中の記事、毎日より勇ましゅうて派手で威勢よかった。庶民は『みい、朝日新聞読んでたら気ィ大きゅうなる』いうたもんです。『赫々の武勲、必死必中の体当たり敵大混乱』なんて書いて、庶民を嬉しがらせとった。毎日はわりと地味でしたな。朝日が派手で、みんな朝日の記事がおもしろい、いうて人気があった。  ―ウーン、いままた朝日がおもしろい、いうのは心すべきことにこそ。 小生、毎々いうのやが、名前も変えんと、戦中戦後、同じ名ァで、よう新聞つづけてる思うわ。新聞ほどアテにならんもんもおまへんねんデ。おせいさんもあんまり信頼しなはンな。社名でも変えて、日朝新聞とでもして再出発したんならエエが、前前通りの名ァで相変わらず社会の木鐸気分でいるのを、おもしろいというのは、警戒すべきことにこそ」


次に続けます。 「芝居道」と「三十三間堂通し矢物語」
「刺青判官」を見ることができました。

話は荒唐無稽、でも、そこに登場する松前藩からやってきた取的崩れ、ずんぐりむっくりの百さんが、おもしろい。長谷川一夫は遠山の金さんとこの百さんの二役をやっているのだが、総集編で3本を1本にまとめられたとき、百さんの話を中心にまとめられたらしく、この映画のなかで悪い奴等を相手にあばれまわり、恋をするのは百さんです。いつものかっこいい遠山の金さんはそえもの的扱い。

百さんの動きは、ともかく私のイメージでは、藤山寛美そのひとでした。

特に藤山寛美をよく見たのは、澁谷天外(二代目)のもとで暴れ回っていた頃で、昭和30年から35年ぐらいの間だったと思います。

その同じころ、長谷川一夫の「義経を巡る三人の女」、「残菊物語」、「逢いぞめ笠」、「浮舟」、「鬼火灯籠」を見ていました。(まだ、小学生だったんですが)

その時、長谷川一夫と藤山寛美の体の動きや表情、目の使い方が、似ているなんて思ってもいませんでした。

ところが、ところが、長谷川一夫が25才の百さん、体つきが似ているということもありますが、その動き、ちょっと照れたときは、手を腰のあたりにつけ、手のひらを開いてもぞもぞうごかす、同時に腰も動く、上目使い、それもあごをしゃくるように頼みとする人の顔をみる、開いた手を腰にあて、腰も引きながら、相手の顔を見上げる。喧嘩の場面では、カメラにお尻をむけて右左にふる、相手に頭突きをかます。

私のなかで、焼き付いている寛美さんそのものです。

崩れ取的の姿で、喧嘩の相手に頭突きをかますのは、同じ長谷川伸作の一本刀土俵入りが有名ですが、この次の年に撮っています。この時も頭突きをやったんでしょうか。私が観たのは昭和35年、52才で撮ったものです。もちろん頭突きで勝負は決まります。

話がそれてしまいましたが、長谷川と寛美がにているといえば、「刺青判官」から2年後の昭和10年の「花婿の寝言」これも寛美の「あほぼん」にそっくりです。

いろいろな人の思惑から、もつれた糸を最後にあほぼんが、あほとは言えぬ理にかなったしゃべりですべて解決するというような話の展開だったと思いますが、「あほぼんしゃべり」をゆっくりしたり、はやくしたり、いろんなリズムをとりながら事の条理を説いて解決していきます。

花婿の寝言では、それを花婿が寝言でやってくれています。これには花嫁のお父さんも、花婿のお母さんも、スケベ根性丸出しの怪しげな心霊術師も、そして、お調子者の同僚も退散していきます。

おもしろいことに、昭和10年から昭和35年くらいまでは、間にあの戦争を挟んでいながら、あほぼんと花婿が説く条理は、同じようなものだった気がします。

いま騒がれている「平和安保法制は憲法違反?」だと言う問題にしても、昭和29年31年には下記のように言っているのですよ。 いつからかわってしまったんでしょう?


1954(昭和29)鳩山内閣
大村防衛庁長官は衆・予算委答弁
「憲法は、自衛権を否定していない。自衛権は、国が独立国である以上、その国が当然に保有する権利である。憲法はこれを否定していない。したがって、現行憲法の下で、わが国が、自衛権を持っていることは、極めて明白である」
「憲法は、戦争を放棄したが、自衛のための抗争は放棄していない。戦争と武力の威嚇に関連して武力の行使が放棄されるのは、『国際紛争を解決する手段としては』ということである。他国から武力攻撃があった場合に、武力攻撃そのものを阻止することは、自己防衛そのものであって、国際紛争を解決することとは本質が違う。したがって、自国に対して武力攻撃が加えられた場合に国土を防衛する手段として武力を行使することは、憲法に違反しない」。

自衛隊の合憲性について、「憲法第9条は、独立国としてわが国が自衛権を持つことを認めている。したがって、自衛隊のような自衛のための任務を有し、かつ、その目的のため必要相当な範囲の実力部隊を設けることは、何ら憲法に違反するものではない」。
 
1956(昭和31) 鳩山首相答弁
「わが国に対して急迫不正の侵害が行われ、その侵害の手段としてわが国土に対し、誘導弾等による攻撃が行われた場合、座して自滅を待つべしというのが憲法の趣旨とするところだというふうには、どうしても考えられないと思うのです。そういう場合には、そのような攻撃を防ぐのに万やむを得ない必要最小限度の措置をとること、例えば、誘導弾等による攻撃を防御するのに、他の手段がないと認められる限り、誘導弾等の基地をたたくことは、法理的には自衛の範囲に含まれ、可能であるというべきものと思います」。
長谷川一夫は、松竹から東宝への移籍 昭和12年10月13日

新聞といえば、もうその以前から、連日にわたって、よくもこれだけ書けると思われるほど、私への人身攻撃がはじまっておりました。嘘かほんとうか、私を憎む松竹が、このため甚大な金をその道へつかったともききましたが、それこそ、よくもこれだけ材料が続くものだと感心させられるほど、あらゆる方面から、忘恩の徒として、背信者としての批難攻撃をうけました。

おそらく私を社会的に葬るべく、一部の人たちが専門的にこれにかかりきっていたのでしょう。私としましては、もうはじめから、充分覚悟をしていましたので、どんなにこきおろされましょうが、じっと我慢する気でおりました。

そのうちに、材料がつきてきたものか、あること、ないことが、おもしろ半分に捏造されはじめました。

これがあんまりあくどいのと、しつこいので、さすがに東宝側からも、
「あんまりひどい。こちらからも何か反駁をしたらどうです。貴方の意嚮によって、会社はいくらでもやりますから」といってくれました。
・・・
しかし、私は辛抱しました。いいたい事、反駁したいことは、山ほどありましたが、大恩を受けた松竹を諒解もなしに飛び出した―ということは、大局からみれば、なんと言っても自分のほうに負け目のあることです。もうこれ以上自分のことで、世間を騒がせたくないと思っておりましたので、その好意だけをいただくこととし、それよりも一日も早く仕事にかからせてもらいたいことを、おたのみしました。
(私の20年より)

・・・

そのマスコミからの攻撃に明け暮れるなか、昭和12年11月12日東宝の撮影所からの帰宅時、向かい側にある宿舎の大沢邸の前で顔を切られます。そして入院。

廊下の向こうで、大勢の人の罵りあう声が聞こえだしました。どうやら事件を聞き伝え聞いた新聞記者連中を、身内のもの達が止めているらしいのです。

私はそれを知ると瞬間、またか!と、ぞっとしましたが、ここをかぎつけてこられた以上は、もう逃げも隠れもできもせず、観念の肝を据えて、目をつぶりながら、彼らの闖入を待ちました。

まもなく、どやどやと乱れた足跡が近づいてきました。すると、

「待てつ、待たんかつ」と鋭い声が聞こえて

「君たちは、何というわからず屋だ。今日までもう必要以上にあの人をいじめたではないか。それに、まだその上、悲境のどん底に突き落とされた気の毒なあの人の姿を、写真にまで撮って公衆の面前にさらしたいというのかつ、君たちはには人間の情誼というものががないのか。許さん、そんな不人情な事は断じて許さん。帰ってくれ、このまま帰ってくれたまえ、それに見るとおり、ここは事実面会謝絶なのだから」

私のために、絶叫していてくれるのは、大河内傳次郎さんでした。(私の20年より)


こんな絶叫を新聞記者達にしてくれる仲間、本人も人気スターです。
大河内傳次郎と長谷川一夫は、戦後GHQに指導された東宝のストライキに反対し、旗の会の仲間として新東宝入りをします。

昭和12年、13年といえば、蒋介石の国民政府とドイツが仕組んだ第二次上海事変が起き、日中戦争へとはまり込んでいく時期でもある。 昭和13年1月には「爾後国民政府を対手とせず」という、いわゆる「近衛声明」(第一次近衛声明)が発表された年でもありました。

でも新聞記者が、映画スター長谷川一夫の事件にここまで関わり合っていたとは、現在と同じような社会だったのですね。 いわゆるファシスト国家のような統制の行き届いた暗い生活を一般国民が強いられていたようには感じられません。