長谷川一夫と藤山寛美 そして平和安保法制 | 三条河原町のブログ

三条河原町のブログ

昭和30年ぐらいまでの娯楽日本映画は、
普通の人たちの生活を実感させてくれる
タイムトンネルです。

「刺青判官」を見ることができました。

話は荒唐無稽、でも、そこに登場する松前藩からやってきた取的崩れ、ずんぐりむっくりの百さんが、おもしろい。長谷川一夫は遠山の金さんとこの百さんの二役をやっているのだが、総集編で3本を1本にまとめられたとき、百さんの話を中心にまとめられたらしく、この映画のなかで悪い奴等を相手にあばれまわり、恋をするのは百さんです。いつものかっこいい遠山の金さんはそえもの的扱い。

百さんの動きは、ともかく私のイメージでは、藤山寛美そのひとでした。

特に藤山寛美をよく見たのは、澁谷天外(二代目)のもとで暴れ回っていた頃で、昭和30年から35年ぐらいの間だったと思います。

その同じころ、長谷川一夫の「義経を巡る三人の女」、「残菊物語」、「逢いぞめ笠」、「浮舟」、「鬼火灯籠」を見ていました。(まだ、小学生だったんですが)

その時、長谷川一夫と藤山寛美の体の動きや表情、目の使い方が、似ているなんて思ってもいませんでした。

ところが、ところが、長谷川一夫が25才の百さん、体つきが似ているということもありますが、その動き、ちょっと照れたときは、手を腰のあたりにつけ、手のひらを開いてもぞもぞうごかす、同時に腰も動く、上目使い、それもあごをしゃくるように頼みとする人の顔をみる、開いた手を腰にあて、腰も引きながら、相手の顔を見上げる。喧嘩の場面では、カメラにお尻をむけて右左にふる、相手に頭突きをかます。

私のなかで、焼き付いている寛美さんそのものです。

崩れ取的の姿で、喧嘩の相手に頭突きをかますのは、同じ長谷川伸作の一本刀土俵入りが有名ですが、この次の年に撮っています。この時も頭突きをやったんでしょうか。私が観たのは昭和35年、52才で撮ったものです。もちろん頭突きで勝負は決まります。

話がそれてしまいましたが、長谷川と寛美がにているといえば、「刺青判官」から2年後の昭和10年の「花婿の寝言」これも寛美の「あほぼん」にそっくりです。

いろいろな人の思惑から、もつれた糸を最後にあほぼんが、あほとは言えぬ理にかなったしゃべりですべて解決するというような話の展開だったと思いますが、「あほぼんしゃべり」をゆっくりしたり、はやくしたり、いろんなリズムをとりながら事の条理を説いて解決していきます。

花婿の寝言では、それを花婿が寝言でやってくれています。これには花嫁のお父さんも、花婿のお母さんも、スケベ根性丸出しの怪しげな心霊術師も、そして、お調子者の同僚も退散していきます。

おもしろいことに、昭和10年から昭和35年くらいまでは、間にあの戦争を挟んでいながら、あほぼんと花婿が説く条理は、同じようなものだった気がします。

いま騒がれている「平和安保法制は憲法違反?」だと言う問題にしても、昭和29年31年には下記のように言っているのですよ。 いつからかわってしまったんでしょう?


1954(昭和29)鳩山内閣
大村防衛庁長官は衆・予算委答弁
「憲法は、自衛権を否定していない。自衛権は、国が独立国である以上、その国が当然に保有する権利である。憲法はこれを否定していない。したがって、現行憲法の下で、わが国が、自衛権を持っていることは、極めて明白である」
「憲法は、戦争を放棄したが、自衛のための抗争は放棄していない。戦争と武力の威嚇に関連して武力の行使が放棄されるのは、『国際紛争を解決する手段としては』ということである。他国から武力攻撃があった場合に、武力攻撃そのものを阻止することは、自己防衛そのものであって、国際紛争を解決することとは本質が違う。したがって、自国に対して武力攻撃が加えられた場合に国土を防衛する手段として武力を行使することは、憲法に違反しない」。

自衛隊の合憲性について、「憲法第9条は、独立国としてわが国が自衛権を持つことを認めている。したがって、自衛隊のような自衛のための任務を有し、かつ、その目的のため必要相当な範囲の実力部隊を設けることは、何ら憲法に違反するものではない」。
 
1956(昭和31) 鳩山首相答弁
「わが国に対して急迫不正の侵害が行われ、その侵害の手段としてわが国土に対し、誘導弾等による攻撃が行われた場合、座して自滅を待つべしというのが憲法の趣旨とするところだというふうには、どうしても考えられないと思うのです。そういう場合には、そのような攻撃を防ぐのに万やむを得ない必要最小限度の措置をとること、例えば、誘導弾等による攻撃を防御するのに、他の手段がないと認められる限り、誘導弾等の基地をたたくことは、法理的には自衛の範囲に含まれ、可能であるというべきものと思います」。