「後に続くを信ず」 ネットでの一枚の写真とのであい。 | 三条河原町のブログ

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昭和30年ぐらいまでの娯楽日本映画は、
普通の人たちの生活を実感させてくれる
タイムトンネルです。

ネットでの一枚の写真とのであい。

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右から六人目が若林中隊長を演じる長谷川一夫氏、両隣は母ハルさんと妹花子さん

(http://ameblo.jp/guadalcanal/entry-11614004368.html)

撮影現場での記念写真です。それは、映画の主人公若林中隊長のご遺族との記念写真です。この記念撮影に写っている長谷川の様子が、外の作品とは全く雰囲気を異にしているのにおどろきました。

この写真に写っている長谷川を見ると、心から尊敬する軍人を演じているんだというような自負がにじみ出ています。そして、ご遺族のかたに会えたことをとてもよろこんでいる様子です。

なにか、長谷川自身が、若林中隊長の霊をおびて「おれは頑張ったぞ!」と、お母さん妹さん一緒にいるように見えてきます。

もう! こんなに長谷川を魅了した若林中隊長とはどのような人だったのか?
この映画のあらすじは?
この映画を見ることはできるのか?
この映画のことを長谷川はなんといっているのだろうか?

若林中隊長の事が知りたくなり、できる限りさがしてみました。

「若林中隊長」 陸軍報道班員柴田賢次郎著 文芸春秋 昭和19年4月1日発行 
「アッツ玉砕」 昭和19年11月10日初版発行 川口松太郎著
「後に続くものを信ず」 軍神若林中隊長追悼録 昭和55年

映像は、現在フイルムセンターにも無く、戦後すぐに処分されてしまったようです。
話はどのようなものであったのか、ネットでは全く分かりませんでした。しかし、昭和19年に川口松太郎が、アッツ島玉砕の山崎部隊長の脚本を出しています。そこに一緒に「若林中隊長」の脚本も入っております。この話と、柴田賢次郎が文藝春秋で書いている「若林中隊長」のエピソードが加えられ、映画化されたのではないでしょうか。監督は渡辺邦雄。

長谷川自身「美女才人対談」のなかで、ちらっとですが当時を振り返り、
「後に続くを信ず」と言う映画を、兵隊からかえってすぐに撮りました。空襲の一番激しいときに出来上がり、自分でも気にいっていた作品だと、昭和54年(1979年)に語っています。

1979年と言えば、1970年以降 本多勝一の「中国への旅」朝日新聞掲載とかで、高度経済成長で自信を取り戻しつつあった日本に、もう一度「南京虐殺」とか「従軍慰安婦」とかのあらぬ濡れ衣を被せ、自虐史観を特に教育を通じ、庶民へ浸透させていった時期です。

もうこの頃になるとガダルカナルでの戦いとは、如何にばかげた戦いであったか、アメリカ軍に戦闘でやられたと言うよりは、日本に捨てられた兵隊達は、飢えに苦しみ、兵士達は互いの人肉まで食った地獄の戦場であったという話ばかりが声高に話された時代です。

私も、詳しくはないですが、ガダルカナルと言えば、日本軍のばかばかしい作戦で多くの日本兵の皆さんを殺してしまった戦いとしか考えてはいませんでした。

しかし、だからといって、前線で、現場で命をかけて、頑張った兵士達を、若林中隊長を、反省すべき軍部の無能さと同次元におとしめていいのでしょうか。

若林中隊長は一人で存在したわけではありません日本という国またその軍隊で、育ってきた人材です。日本軍には多くの若林東一がいたはずです。若林東一を育てる力のある国であり軍であったはずです。だからこそアメリカが、イギリスが、オランダが、そしてドイツやフランスも日本を恐れたのです。

東京裁判で言われたような謀略会議を開き世界支配を目指すような専制勢力など日本にはなかったのです。そんな強い統制力を持った機関など無かった、ズーッとむかしから、専制的な力を発揮する人を拒み続けてきた社会であるからこそ、大本営は無能だったのです。私はそう思います。 

つぎに、若林中隊長が戦死する一週間前まで書き続けた日記の紹介をしたい。
そこには、「三十三間堂通し矢物語」の星野勘左衛門がいるような気がする。