「命の港」の中で少しだけ触れられている、当時の朝鮮人労働者の事。日本人のナイーブさを感じる。 | 三条河原町のブログ

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昭和30年ぐらいまでの娯楽日本映画は、
普通の人たちの生活を実感させてくれる
タイムトンネルです。

映画の中で「この仕事は(沖仲仕)人手がなくて困っているんじゃないの。」と語られているように、当時国内での働き手の不足は大きな問題となり、多くの朝鮮人が本土へ働きにやってき、それを受け入れていた日本人が描かれています。

「朴さんがかみさんを連れて帰ってきたぞ」といいながら大勢の沖仲仕達が社長室へなだれ込んでくる。

社長室の人垣の中に、
「社長さん女房です。内地の事は何も知りません。よろしくお願いします。」(朴)
「よくおいでだ。そんな人はたくさんいるから心配いらん。うちの方は達者か?」(社長)
「とっても喜んで社長さんにお礼をいっていました。
村中のものがうらやましがって、たくさんたくさんきたいといいています。」(朴)
「金さん。朴さんが、帰ってきたよ。」(小野班長:長谷川一夫)
「金さんこんにちは。
金さんお父さんが帰ってきてほしいと言っていたよ。
金のとうさん体が弱ってきて、はやく嫁さんをもらって孫の顔を見たいと言っています。」(朴)
「金くん、一度帰ったら」(小野班長)
「班長、仕事を捨てて帰られんです。
社長さんわし来年は兵隊です。それまでは帰りたくありません。」(金)
「そうか、おまえが兵隊に行くときは盛大に送ってやるぞ。」(社長)
「偉いなあ、金」(朴)
「社長さん、わし明日からうんとうんと働きます。」(朴)
「帰ってきたばかりだ、明日は休め」(課長)
「おまえの班は、明日から大阪港へ行くんだ。おまえも行くか。」(社長)
「はい、行かしてください。」(朴)

朴さんや金さんは何とか、日本人の仲間として働こうとし、彼らの気持ちを受け止め、日本人と同じように扱おうとする社長さんの姿がある。

社長さんは彼らの言葉を信じた。
親の体が弱ったときいても、帰りたくないと言った金のことば、
新婚の嫁さんと離れても、挺身隊として、大阪港へ行って働きたいと言う朴のことば、
彼らの言葉にも、嘘はなかったのだろう。

映画とは離れるが、以下の資料を見れば、どれだけ朝鮮人が、強い日本に寄り添っていたかが分かる。

日本軍に志願した朝鮮人
1937 年、日中戦争が勃発すると、試験的に朝鮮人の志願兵の募集が行われた。
朝鮮人に“徴兵制”が適用されたのは終戦直後の1944年である。
驚くべき志願率の高さ
朝鮮人志願兵の志願率(昭和20年5月の内務省資料)

年代 募集人員 志願者数 倍率
1938年 406 2946 7.3
1939年 613 12528 20.4
1940年 3060 84443 28
1941年 3208 144743 45.1
1942年 4077 254273 62.4
1943年 6300 303294 48.1

国立公文書館 アジア歴史資料センター
http://www.jacar.go.jp/
朝鮮及台湾ノ現況(本邦内政関係雑纂/植民地関係)
レファレンスコード:B20020312847 (志願率に関しては17画像目)

【崔基鎬(チェ・ケイホ)氏 1923 年生まれ。
明知大学助教授、中央大学、東国大学経営大学院教授を経て、現在、加耶大学客員教授は、
平成16年12月号 漁火(いさりび)」新聞6・7面で
・・・(一部略)
戦前から東京にいた私は、年に1~2 回はソウルとか当時の平壌に行きました。
その当時の韓国人は日本人以上の日本人です。劇場に行くと映画の前にニュースがありましたが、例えばニューギニアで日本が戦闘で勝利をおさめたという映像が流れると、拍手とか万歳が一斉に出ます。
私は劇場が好きで、日本でも浅草などに行って見ていましたが、韓国で見るような姿はごくわずかです。韓国ではほとんど全員が気違いのように喜びます。
・・・(一部略)】

ところが日本が、アメリカに負けた途端、すべてがわります。

「命の港」で頑張っていた社長さんに、敗戦後、金さんと朴さんはどのような言葉を発したのでしょうか。 映画は、1944年の様子で終わっていますが。

また、この映画を撮った渡辺邦夫監督は、戦後何を思ったでしょうか。