萩市『吉田松陰誕生地』からの眺めは! | もしかして山口県在住? こじらせ ( 中年 ) 女のアイタタタ…な ブログ ☆

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山口県民になって数年…
日々のエピソードや感じたコトをこじらせながら綴っていきたいと思います。




1週間ぶりに萩旅行の記事の続きを書いたRieruです★

萩の有名人といえば、吉田松陰先生なのですが、松陰先生の生誕の地へは、足を運んだことがありません。
松陰先生のお墓の近くにあるとのことで、お墓に参る前に行ってみることにしました。
墓地前に駐車して…今回、頭領は車内にて待つとのことで、私ひとりだけ。
他には観光客がいなかったので、本当にひとりでした。
少し下った場所に、その場所はあります。


山手側は高い木が生い茂って暗く、明るいうちに訪ねた方が良いな、と感じました。

…近くに墓地があるしね。


イテテ


(コラコラ!)


生誕の地には、自然石で造られた『吉田松陰先生誕生之地碑』が建っていました。


高さ2m45cm、幅1m40cmもある大きな碑で、松下村塾の門下生だった山県有朋ちゃんが揮毫しています。(しかも絶筆)
裏には関係者26名の氏名と、『大正十一年八月四日 椿東村青年会長 信国顕治識』と刻まれていました。
近くには、宅地整備の由来が書かれた石碑も建っています。

敷地には看板があり、こちらに配置図等がありました。


おお、分かりやすい!

間取りは、こんな感じ。


これによると…画像手前の部分が『厩』で、その左側が『納屋』になるんですね。


で、こちら側から見て手前は、玄関になるわけですね。



…マジ?


マジ。


イテテ


(コラコラ!)



せ、せ、せ、狭すぎます!知識としては知っていましたが、実際にこの間取りを目の前にすると、驚きます。

松陰先生は元々『杉』家の次男で、『吉田』家を継いだのでしたね。
吉田家を継いだ後も両親らと共に、19歳までこちらに住んでいたそうです。

近くには、『松陰先生産湯の井』という石碑と井戸がありました。


こちらは田中義一氏の揮毫で、碑名の左側には『阿武郡小学校教職員児童建』とあります。

先程の看板には、このように書かれていました。(加筆あり)


吉田松陰生誕地

  ここは吉田松陰の実家、萩藩士杉家(家禄26石)の旧宅地である。
この付近は「団子岩」と総称され、萩城下が一望できる風光明媚な場所である。
杉家の建物は、元は萩藩士八谷(やたがい)聴雨の山荘であり「樹々亭(じゅじゅてい)」と称していた。
松陰は、天保元(1830)年8月4日(西暦9月20日)、杉百合之助の次男としてここに生まれ、19歳までの人間としての形成期を過ごした。
  両親や兄弟とともに農耕に従事し、その合間には父から漢籍(かんせき)の素読(そどく)などを受けた、思い出深い場所である。松陰自身の書き残した書の中にも、「樹々亭」「山屋敷」「山宅」などの表現が見られる。
   旧宅の間取りは玄関(3畳)、表座敷(6畳)、居間(6畳)、隠居部屋(3畳)、納戸(3畳)、台所、納屋、厩という、非常に狭く、簡素な造りであった。(割愛)
   
誕生地からの眺め。


萩城があった、指月山が見えます。

近いようで遠い…遠いようで近い。


ご存知、9歳の時には明倫館の兵学師範に、11歳の時は藩主 毛利敬親公に御前講義を、13歳の時には…語り出すと長くなりそうです。

この市街地が見える近くには、『伊藤柏翠句碑』が建っていました。


伊藤柏翠氏の本名は勇で、明治44(1911)年 東京浅草生まれ。昭和7(1932)年に病気療養中の鎌倉で句を作り始めて、昭和11(1936)年には、高浜虚子に師事しました。
昭和56(1981)年から毎年萩に来て、『萩花鳥句会』を指導され、俳誌『花鳥』を主宰して発行されていたのだとか。

碑の句は…


柏翠

この花の  松陰を生み  志士を生む

花…花…どんな花なんでしょうね。


こちらの歌碑も、東京出身の方が詠んだものです。


作者の吉井勇氏は、劇作家・小説家で、早くから『明星』に歌を発表され、のちに『スバル』の同人として活躍されたようです。
この歌碑の歌は、昭和30(1955)年に奥さまと萩を訪れた際、色紙に書かれたもので、それを昭和41(1966)年5月22日に、有志たちによって建立されました。


          萩に来て  ふと おもへらく  いまの世を

                救はむと起つ  松陰は誰


…え…『松陰は誰』って?


アイタタタ


(いやいやいやいや…)





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