車を運転中、信号の無い横断歩道に歩行者が立っていたら、ちゃんと止まって渡らせてあげるRieruです★
が!対向車が止まることは、ほとんどありません。(←さすが止まる率、全国で下から数えた方が早い県!)
そして、久しぶりに歩行者として信号に無い横断歩道で車が止まるのを待っていたら、なんと、珍しく止まってくれたトラックが!
…ナンバーを見たら
イテテ
(意識を高めよ、山口県ドライバー!)
波田陽区さんが、ローカルCMで呼びかけているから、きっと今後は止まる率は上がるであろう!と、山口県のドライバーを信じている女は今月、萩市にある『岩倉獄跡』を訪ねました。
この岩倉獄跡は、道を挟んで野山獄跡に向かい合うようにあります。
△ 恐らく駐車場はありません(野山獄跡の左側に駐車する方もいるかもしれません)
ん?現代の刑務所は、男性用と女性用で分かれているけど、江戸時代も分かれていたんですかね?
野山獄は『上牢』で士族が、岩倉獄は『下牢』で庶民用の牢として使われていたようです。
沿革
〜割愛〜
今は、町内会によって11月の第1日曜日に両獄ゆかりの人々の慰霊祭が行われている。
なるほど…って、え?岩倉さんが酔っ払って野山さん家に乱入!そして殺人事件を起こした!のに、両家取り潰し?
そんなことある?野山さん、カワイソウ…道を挟んでの隣家だから、日頃からご近所問題があったのでしょうか?そういうのが溜まり溜まって酒の飲みすぎで爆発?ご乱心の末、最悪の結果に?憶測の域を出ませんが、後日調べてみると岩倉さんはそのまま野山家に幽閉された後、斬首されたそうです。
その後、被害にあった野山さん家は上牢に、加害側の岩倉さん家は下牢になったのだとか。
なんともモヤモヤする事件ですが、『喧嘩両成敗』という言葉で片付けられているみたいです。
メジャーな資料として、岩倉さんの動機とか聴取された書類があれば読んでみたいのですが。
そんな昔、岩倉さん家だった岩倉獄の跡地(もちろん現在は一部の敷地しか残っていません)には、2基の石碑建っていました。
右側の石碑は『金子重輔君絶命之処碑』で、大正13(1924)年9月に吉田潤一氏により建立されました。
高さは1.3m、幅は95cmで、裏面には吉田潤一氏による撰文が刻まれているようです。(後ろには行けませんでした)
拓本にもあるように、田中義一さんによる書です。
金子重輔(重之輔)君…ご存知、海外へ密航計画を企てた吉田松陰先生に付き添って、行動を共にした方ですよね。
元々商家で生まれた後、足軽の金子家に養子として育った後、江戸の長州藩邸の雑役になった頃に松蔭先生の弟子になられたそうです。
最終的には、安政2(1855)年に岩倉獄で病死しました。
江戸から萩に運ばれる時、すでに病気にかかっていたようですが、武士である松蔭先生への待遇とは違っていたようです。
体調が悪いことを松蔭先生は知っていたので、彼の訃報を知るまで、ずっと心配していたのでした。
病名は分かりませんが、この後(?前から?)全国的にコレラが流行します。
安政6(1859)年2月4日、松蔭先生が野山獄中から兄の杉梅太郎に、“前年”に続いて萩城下でもコレラが流行るという内容の手紙を送っています。
じつは武家屋敷が集中する古萩では、すでにコレラが蔓延していたらしいのですが、同じ古萩にある野山獄(岩倉獄でも?)ではコレラに罹った者がいないことから、『食事を満足にしている者が罹りやすい』という玉木文之進(松蔭先生の叔父)の説を信じていたようです。
その梅太郎さんに送った手紙が、萩博物館に解説付きで展示されていました。
四日書
経板書壱冊、元銀壱匁(いちもんめ)壱分七厘五毛に付き申し候、しかれば先ず一年の利息位と見て壱匁四分位に売りてよし
五十枚紙代六分二厘五毛〇采料摺賃壱分五厘〇表紙糸とも壱分〇綴じ賃三分
もっともこれは自用の為二冊綴じ置き候、御用ならば上ぐべし、五分貰えばすむ、表紙の紙代は追って立て戻すなり
余計精細を要すれば算盤(そろばん)入用なり、小算盤御送り頼み奉り候
淡水(赤川)が国柱好者なり、叢書(そうしょ)へ収め置く積りに付き御借得頼み奉り候〇退食閑話の初めに記文を置くべし、述義にても御送り頼み奉り候
杉様(梅太郎) 野山(松蔭)
後半はアレですが、なかなか興味深かったです。
『獄中聞渋木生赴』…『吉田松陰詩碑』ですね。
こちらについては、(何度も書いてますが)岩倉獄跡側に置いてあるリーフレットに詳しく書かれていました。
獄中渋木生(しぶきせい)の赴(ふ)を聞く
驛舎(えきしゃ)君と訣(わか)る、匆々(そうそう)の詞(ことば)を盡(つく)さず。
囚繋(しゅうけい)各所に在り、消息相知らず。
江海呑舟(こうかいどんしゅう)の魚、徒(いたず)らに半畝(はんぼ)の池に苦しむ。
籠鳥故林(ろうちょうこりん)を失いて、未だ群飛の時を忘れず。
鼓角(こかく)自ら晨暮(しんぼ)あり、會見(かいけん)期を知らず。
夢魂尚相遂(むこんなおあいお)い、訃を聞いて却(かえ)って自ら疑う。
豈(あ)に計らんや生別離、更に死別離と爲(な)らんとは。
友人 吉田寅二郎矩方
…なんとな〜く、分かりますね。いや、更に分かりやすい文章がリーフレットに掲載されていました。
江戸伝馬町の獄舎から萩へ護送される途中、明木(あきらぎ…萩市旭地域明木地区)の駅で君と別れたが、その折には何かとあわただしく、君と言葉を交わすことも出来なかった。
その後、君は岩倉獄、私は野山獄にそれぞれつながれ、お互いの消息も判らない。
私達が狭い獄舎に押し込められているのは、まるで大海の魚が小さな池に閉じ込められて苦しんでいるようなものだ。
しかし、住んでいた林を失った籠の鳥が群鳥の時を忘れないように、私達も大志を忘れることは決してない。
時は流れ、一日は過ぎてゆくが、お互いに会うことも
できない。
だが、夢の中では心は通じあっていたので、君の訃報を聞いたときは、とても信じられなかった。
生きている間に別離があるとさえ思わなかったのに、死別とは本当に考えもしなかったことだ。
友人 吉田寅二矩方
そんなお2人の銅像が、椿東にある松蔭先生の墓所近くにあります。
アイタタタ
(松蔭先生の肖像画が描かれる際の逸話が関係あるかどうかは分かりませんが、大概実年齢より歳上に見られるように表現されてますよね)
梅雨時の萩旅行(1日目)
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