藤沢で起きた
悪魔払い殺人事件
1987(昭和62)年2月25日午後9時ごろ、神奈川県藤沢市亀井野1丁目のアパート藤本荘203号室で、借主の鈴木正人(当時39歳)と茂木美幸(同27歳)が、鈴木の従弟(いとこ)で美幸の夫である茂木政弘さん(同32歳、簡潔にするために、以下敬称を略しています)の遺体をバラバラに解体しているところを踏み込んだ警察官が見つけ、2人を死体損壊の現行犯で逮捕しました。
事件現場となった藤本荘(2017年撮影)
*2階の一番奥が203号室
(現在は建て替えられています)
逮捕された2人は、政弘に取り憑いた悪魔を追い出す「悪魔払い」のために彼を殺害し、さらに悪魔が肉体に再び取り憑かないよう遺体をバラバラにし肉や臓器を塩で清めていたもので、悪魔を完全に退散させることができれば政弘はよみがえるという趣旨の供述をしました。
朝日新聞(1987年2月28日)
これが世に言う「藤沢悪魔払いバラバラ殺人事件」です。
関係者の親族関係を整理すると、下のようになります。
鈴木正人(まさひと)は、小学4年の時に両親が離婚したため母方の祖母宅に預けられ、同居していた母の異父弟(鈴木にとっては叔父)夫婦の世話になりました。
関東学院大学に進学後もそれは続き、ついには父親(鈴木の母の異父弟)の反対を押し切って大学を中退します。
鈴木正人の母(政弘の伯母)の影響で「大山祇*命(おおやまねずのみこと)神示教会」(以下「神示教会」と略記)に入信していた政弘は、所属する同教会鵠沼(くげぬま)分教所で若手信者がつくっていたアマチュアロックバンドに加わります。
*「ねず」は教団が作った下のような文字ですが、フォントにないため便宜上「祇」を当てます
やがて同バンドのリーダーになった政弘は、バンド名を「スピッツ・ア・ロコ」に改め、作曲とドラムを担当して東京や神奈川で演奏活動をするようになりました。
1983(昭和55)年から1984(昭和56)年に彼のバンドは、ロックの専門レーベルであるバーボンレコード(徳間音工系列)からシングルレコード「キープ・オン・ラブ」「愛論人(アイロンマン)」の2枚とLPレコード「人情」を出してメジャーデビューを果たします。
バンドメンバーは家族という設定で、
茂木政弘(下左)は妹娘としていつも
女装してステージに上がっていました
「キープ・オン・ラブ」に収録された
茂木政弘作詞・作曲の歌
*最後のフレーズに当時の彼の心境がうかがえる
けれどもレコードの売り上げは振るわず、レコード会社との契約を更新してもらえなかった「スピッツ・ア・ロコ」は、ライブハウスで演奏活動を続けますが、これも赤字続きでした。
そのため、神示教会の関連会社でメンバーがアルバイトをし赤字を埋める状態が続いたため、バンド解散の話も出始め、リーダーの政弘はバンドの行く末に頭を悩ませながら、不振の原因は自分が作った曲を他のメンバーがうまく演奏してくれないからだという不満も抱いていたようです。
【従犯の茂木美幸】(茂木政弘の妻)
中学を卒業すると、病院に勤めながら定時制高校や看護の専門学校で学び、1984(昭和59)年には正看護婦(現在の名称では正看護師)の資格を得ています。
それより前、彼女がまだ准看護婦だった1978(昭和53)年8月、勤務先の病院に交通事故で入院していた弟の見舞いに来た茂木政弘と出会います。
その時は元患者と交際していた美幸ですが、政弘から神示教会の教えを聞いたり占ってもらったりしているうちに、彼に勧められて鵠沼分教所に通うようになり、入信して熱心な信者になります。
交際相手にも神示教会の信仰を勧めたものの受け入れられなかった美幸は彼と別れ、何かと相談に乗ってくれた政弘と親密な関係になり、事件が起きる前年の1986(昭和61)年4月に2人は結婚しました。
結婚式での写真
(TOUCH、1987年3月17日号)
結婚を機に、専業主婦になろうと看護婦の仕事を辞めた美幸は、政弘の両親の家に同居して、アルコール依存症で昼間から酒を飲むような義父(鈴木の母の異父弟)の世話と、家業の清掃会社を切り盛りする義母に代わって家事をする生活を始めました。
ところが一緒に暮らしてみると、夫の政弘が意志薄弱で優柔不断な上に、義両親からは介護や家事の不手際で責められることが多く、不満を募らせた美幸は、新婚早々に結婚生活への意欲を失っていきました。
鈴木正人の母親は、先に述べた詐欺事件で逮捕・勾留された際、保釈金を貸してくれなかったことを恨んで異父弟(茂木政弘の父、美幸の義父)と絶縁状態になり、政弘と美幸の結婚式に政弘の伯母である鈴木の母親と息子の正人は出席していません。
けれども鈴木正人は、子どものころ世話になった茂木の家を時折訪ねており、政弘との結婚を控えた美幸とも顔を合わせていました。
そして結婚から半年後の1986(昭和61)年10月ごろ、同宅で美幸から先に述べたような夫や結婚生活への愚痴を聞かされた鈴木は美幸に同情を寄せ、夫がもっとしっかりとしてバンドマンの夢をかなえてほしいという彼女の希望に協力したいと思ったようです。
ちなみに、神示教会と鈴木正人との関わりですが、母親が信者だった彼も、以前に政弘の勧めで鵠沼(くげぬま)分教所に行き、政弘が信頼を寄せる女性代表者から話を聞いたことがありました。
けれども、代表者と口論になった彼は悪態をついて帰ってしまい、神示教会の信者になることはなかったようです。
なお、分教所代表者が亡くなり神示教会本部のやり方に不信感をもつようになった政弘は1985年に、それにつれて美幸も1986年には神示教会を離れており、悪魔払い事件と神示教会との直接の関係は、教えや儀式からの影響を含めてまったくありません。
話を戻すと、先に述べたような美幸の苦悩を知って同情した鈴木正人は、政弘に関する情報を集めたり「兄貴」として彼に助言をしたりと、夫婦の生活への関わりを強めていきます。
メジャーデビューでつまづいた「スピッツ・ア・ロコ」ですが、支援者の協力で政弘の作ったCMソングが1986年暮れから1987年にかけて全国放送されるなどしたものの打開策とはならず、苦境が続きました。
もともと占いに頼るなど宗教的心性の強かった政弘と美幸は、この時も占い本で運勢を見たり、縁起物を身の回りに置いたりしていたそうです。
1987(昭和62)年2月、有名な占い師に夫婦で占ってもらったところ、バンドの成功はこれからも望み薄だという内容で政弘は落ち込みましたが、美幸は演奏ではなく作曲こそが政弘の天職で、夫は神の世界の音楽を人間界に出すべき「神が選んだ作曲家」だと言われたと受けとめ、それを鈴木にも話したようです。
鈴木が政弘に、「神の曲」を作って世界を救えと熱心に説き始めたのは、これがきっかけでした。
2月9日に鈴木は、自分に「神が降りてきた、乗り移った」と言いながら、政弘がいま住む両親の家を出て作曲の仕事一本に絞り、3人(政弘夫妻と鈴木)でやろうと彼をうながしました。
この神がかった鈴木の言動が、宗教的なものに動かされやすい政弘夫婦向けの演技だったのか、それとも鈴木自身そのように妄想したのかは分かりませんが、「作曲こそ天職」という美幸が理解した占い師の言葉と鈴木が語る神の意思に影響された政弘は、「神の曲」を書いてバンドで演奏し世界に広めて悪を封じる作曲家としてやっていくと2人に宣言したそうです。
しかしこのことからも、政弘が作曲だけでなくバンド演奏にもまだこだわっていることが分かったので、鈴木は夫妻に「政弘の心はきれいが、物事をやり遂げる“男らしさ”がない、オレが教育する」と言い、政弘と美幸は「お願いします」「鈴木さんを信じます」と応じました。
それから鈴木は、連日のように夫婦のもとにやってきて、「神がオレに移った」と言いながら「オレを信じて作曲活動をすれば必ず良い曲が書ける、どこまでオレを信じるかにかかっている」という話を夫婦に延々と、時には徹夜で語り続けたそうです。
2月12日の夜、横浜でライブ演奏をした「スピッツ・ア・ロコ」は、3月の2回のライブでバンドを解散する予定だとステージで告知しました。
ところがそれを会場で聞いていた音楽ビデオ演出業の人が、解散するには忍びないとバンド活動への協力を申し出たので政弘やメンバーは喜び、バンドの解散を思いとどまろうとしました。
翌日それを聞いた鈴木は、「作曲活動に専念しろ、神の曲を作るんだ!」と政弘を怒鳴りつけたそうです。
こうして、政弘を自分の思う通りに動かそうとする鈴木と、バンド仲間や演奏活動への思いを断ち切れずに心が揺れる政弘、そして鈴木の神がかりをうさん臭く感じながらもその気迫に押され、また腰が定まらない夫にいらだつ美幸という3人の葛藤が、この後に来る破局へとつながっていくのです。
【行き詰まり】
政弘の迷いで先行きが不透明になっていた2月14日、政弘に「悪気」がついていると美幸が言い出し、鈴木も「お前の目に悪が憑きはじめた」「お前の両親には悪魔が憑いている」と言い始めます。
鈴木が政弘の両親を「悪魔憑き」と言ったのは、作曲に専念できるよう親の家を出ろと言う鈴木に、育ててもらった恩のある親を捨てて家を出ることはできないと政弘が言い張ったからです。
「親の恩」への感謝は、夫婦・親子の良い家族関係を重視する神示教会の教えにおいて基本のことでした。
鈴木は、アルコールへの欲望を断てない父親と金儲けにばかりいそしむ母親が一緒では、悪魔に邪魔されて神の曲を作ることができない、心が揺れるのは悪魔がそうさせているのだと政弘を説得し、婚家で苦労させられた美幸もそれに同調したことから政弘はついに折れ、夫婦は鈴木に協力的なバンド関係者が所有する空き家に両親の家を出て移りました。
ところが、翌日(2月15日)になるともう政弘は、「早く神の曲を書け」と迫る鈴木と美幸に対し、「実家に戻りたい」「神の曲など作れない」と言い出す始末です。
そこで2月16日の朝、「この家も悪魔だらけだ」と鈴木に言われるがまま、政弘と美幸は鈴木の住む藤沢市のアパート「藤本荘」に連れられていきました。
事件が起きた時の藤本荘
美幸の本当の望みは、義両親からも鈴木からも離れて夫と2人だけで暮らし、必要なら自分が看護婦に復帰して生活を支え、政弘の作曲とバンド演奏の夢をかなえてやりたいということだったようです。
ですから、鈴木と同居して夫と自分が彼の管理下に置かれることは、美幸には不本意だったと思います。
そうした美幸の不満を敏感に察したのでしょう、鈴木は2月17日午前0時過ぎ、美幸の顔の中に鬼がいると言い出して1時間にわたり「鬼出て行け!」と言い続けたそうです。
この後も鈴木は、美幸の迷いを感じるたびに「悪鬼」がいると言いたて、平手打ちや後で見る「塩揉み」などをくわえています。
そのことを、自分が心の奥に秘めた夫を独り占めにしたいという身勝手な欲望を鈴木が見抜いたと受け取った美幸は、彼の「神がかり」の力に畏れをいだき、鈴木の言うことに逆らえなくなっていきます。
その間に政弘は、「旅立ち」「風呂上がり」と題する曲を何とか作り、ハミングした「旅立ち」のメロディーをカセットテープに吹き込んだそうですが、それらは人類を救う「神の曲」と言えるようなものではなく、相変わらず彼は「実家に帰りたい」「自分には神の曲は書けない」と弱音を吐くばかりでした。
一方、「スピッツ・ア・ロコ」の存続を願うバンドのメンバーや政弘と美幸の親は、鈴木から2人を引き離す相談をしていました。
2月18日の夜遅く、彼らは政弘と美幸を藤本荘から近くのファミリーレストランに連れ出し、3月に予定されているライブ演奏のことなどを話して、政弘にいったん実家に帰るよう説得しました。
はじめは、「今は曲を作るのが先で、それができなければ核戦争が起きてしまう」と拒んでいた政弘も、日が変わるころ(19日の午前2時ごろ)になってようやく実家に戻ることを承諾し、鈴木にそのことを話して家に帰りました。
美幸は黙って夫に従いましたが、先に述べたように政弘の実家に落ち着くつもりはなく、家を出て2人で暮らそうと考えていました。
ひとり取り残された鈴木は、自分がこれほど努力しているのにというやり切れなさと、簡単に態度を変える政弘や美幸に、怒りといら立ちを覚えます。
どうにも気持ちがおさまらない鈴木は、19日の午前9時30分ごろに政弘の実家を訪ね、口実を設けて政弘夫婦をまた藤本荘に連れ戻します。
もっと強く政弘の気持ちを引きつけないといけないと考えた鈴木は、途中で見かけたホームレスの男性を指して、「あれは悪魔の回し者だ、目を合わせるな!」と「悪魔」を持ち出して脅かし、美幸に命じて政弘に包帯で目隠しをさせました。
こうして藤本荘に戻った鈴木と政弘夫婦ですが、政弘の父がバンドメンバーと一緒にまた駆けつけて来て、悪魔の脅しに怯えた様子の政弘を美幸と共に連れ帰ります。
またしてもひとり取り残された鈴木が、優柔不断な政弘へのいら立ちと怒りをますますつのらせたことは言うまでもありません。
この時は美幸は、両親も加わった相談の結果、横浜市港北区の親の家に帰りました。
一方の政弘は、バンドの今後の活動などをメンバーと相談しましたが、それがすむと「藤沢(=藤本荘)に帰り作曲したい、藤沢に帰らなければ」と言い出して、2月20日へと日が変わった午前2時半ごろ、メンバーが止めるのも聞かず鈴木のもとに戻りました。
ただ政弘にとってそれは、自分の心からの希望というより、鈴木による悪魔の脅しを恐れての迷いに満ちた決断だったのでしょう。
藤本荘に戻り自分の顔を鏡で見た政弘は、充血した目がつりあがり青黒くなった自分の顔が「気違い(狂人)」に見えると言い出し、鈴木に対しても「兄貴には魔神が降りているのではないか」と言ったそうです。
自分をここまで追い詰め苦しめているのは、鈴木の言うように自分に憑いた悪魔なのか、それとも鈴木に「降りた」と言っている神が実は悪魔(魔神)なのではないかという心の迷いを、政弘はそのまま吐露したのでしょう。
政弘が鈴木に向かってこのようなことを言ったのは、これが初めてのことでした。
それを聞いた鈴木は、自分を侮辱していると激しく怒り、「オレはお前を男にしてやろうと命をかけてやっているのに、どうしてそんな勝手なことを言うんだ」と政弘を叱責しました。
せっかく鈴木のもとに戻ったのに、「美幸がいないと作曲できない」と言い、かといって彼女に電話でこっちに来いとはっきり言えない政弘の意志の弱さ(それは彼の優しさでもある)にさらにいら立った鈴木は、電話を代わって「このままでは政弘がダメになるからすぐに来い、必ず来い!」と美幸に強く言い、同意した彼女は2月21日の午後1時ごろに藤本荘にやってました。
こうして事件現場になる藤沢のアパートに、鈴木・政弘・美幸の3人がそろったのです。
【悪魔払い】
けれども、この時に鈴木の頭を支配していたのは、政弘に「神の曲」を書かせようということではもはやなく、政弘に取りついた悪魔(バンド活動や親への執着)を彼から取り除くことだけでした。
いくら説得しても政弘の心を支配できないと悟った鈴木は、新たな「悪魔払い」を思いつき、美幸が藤本荘に戻った時にもうそれを始めていました。
政弘の目を睨みつけたり声で悪魔を威嚇するようなことはそれまでもやっていた鈴木ですが、この時は上半身裸でうつ伏せになった政弘の背中の上方、首の後ろあたりに、体液が滲み出た楕円形の傷跡があり、鈴木は「悪魔の素」を見つけたので塩をつけて揉み、傷口から悪い汁を出したと美幸に説明したのです。
「塩揉み」「液出し」と鈴木が言うひどい痛みを伴うこうした行為を見て美幸はさすがにとまどったようですが、「鈴木さんを信じなさい、痛いけれど我慢する」と政弘が美幸に言ったので、彼女も鈴木を止められずに傷口を消毒し手当てすることしかできませんでした。
翌2月22日にも、鈴木に言われて美幸も加わった「塩揉み」「液出し」は、身体の範囲と行為の激しさを増して続けられました。
塩をつけた両手の爪を立てて皮膚を掻きむしり、裂けた傷口から力を入れて体液を絞り出す痛みに、政弘は手足をばたつかせて苦しみ暴れたそうです。
しかし、それを悪魔が苦しんで暴れていると解する彼らが、手をゆるめることはありません。
やがて政弘は、布団にぐったりと横たわったまま「ハアハア」と息をするだけになりました。
しかしそれでも悪魔が払えたという確証のもてない鈴木は、左手で政弘の喉仏を押さえ、「これを絞めてしまうと終わりなんだ、これをすると完璧なんだ」と言いながら美幸の反応をうかがいました。
つまり、政弘の肉体が死ねば悪魔はもはや彼の体にとどまれないということです。
読売新聞(1987年3月5日)
前日から延々と続けられたむごたらしい「悪魔払い」を終わりにしたいと思いながらも、鈴木の言っているのが夫の殺害であると理解した美幸の心中にはためらいが当然あったでしょう。
けれども、鈴木を畏れていたことと、最後は政弘が「鈴木さんを信じろ」と言っていたことで自分を納得させ、美幸は鈴木にうなずきました。
こうして1987(昭和62)年2月22日午後3時ごろ、政弘が暴れないよう美幸が彼の太もも・膝・足首をベルトや股引きなどで縛り、馬乗りになって押さえつけ、鈴木が首を手で締めて政弘を殺害したのです。
しかし、「悪魔払い」はそれで終わりませんでした。
私たちには理解し難いことですが、政弘の肉体が死ねば悪魔は退散し政弘が生き返るはずなのにそうならないのは、悪魔がまだ彼の肉体に取り憑いているからで、さらに身体をバラバラに解体して清めなければならないと鈴木が言い出したのです。
こうして鈴木と美幸は政弘を殺害しただけでなく、彼の遺体をハサミなどを用いて徹底的に解体しようとしたのです。
鬼気迫る解体の詳細は、あまりにもむごたらしいのでここに書くことを控えます。
おぞましさを承知のうえでお知りになりたい方は、この事件を裁いた横浜地裁の判決文を次のリンクからお読みください。
2月22日夕刻からの解体は、まず皮膚を裂き大きな肉片を切り取るところから始まりましたが、鈴木が「まだ十分ではない」と言うままに進められ、4日目の25日に警察官が解体現場に踏み込んだ時には、骨についたわずかな肉片を2人がこそげ落としている最中でした。
なお解体にあたっては、人体の構造を知り解剖学の実習も経験している看護婦の美幸が、鈴木に聞かれてやり方を教えたそうです。
事件が発覚したのは、政弘と連絡がつかなくなったことを心配したバンド仲間と親らが、2月25日の夜に藤本荘を訪ねたことによってです。
人の気配はあるものの応答がないためいったん引き上げた彼らは、まもなく大家さんを連れて戻り鍵を開けて入室したところ、凄惨な現場を目撃したので慌てて110番通報をし、午後9時ごろ、駆けつけた警察官により、鈴木と美幸は死体損壊の現行犯で逮捕されたのです。
【裁判と判決】
鈴木と美幸は、1987年3月4日に茂木政弘さんの殺害容疑で再逮捕されます。
事件を起こした時に2人は異常な精神状態にあったのではないかと疑われたため、横浜地検は精神鑑定のための鑑定留置を地裁に申請し、3月18日に認められました。
朝日新聞(1987年3月19日)
福島章氏による精神鑑定の結果、2人は事件当時「宗教的支配観念」にとらわれてはいたが、精神病の状態にはなく、刑法上の責任能力は問えるとのことで、横浜地検は2人を殺人と死体損壊の容疑で起訴しました。
なお、地裁の判決までに福島鑑定以外に鈴木には2件、美幸には1件の精神鑑定がなされています(1件は同じ鑑定人)。
そのうち、鈴木についての1件の鑑定では、彼は幻聴・妄想などの症状が出る統合失調症で「責任無能力」だったとされ、他の鑑定では鈴木と美幸ともに「三人精神病(感応精神病)*」の心因反応状態で責任能力が著しく低下していた(心神耗弱)とされました(この鑑定人は鈴木の統合失調症は否定)。
*他から隔離された親密な関係の集団(家族など)で発生しやすいもので、一人(多くは支配的な立場の人間)の妄想的確信が他の人にも共有された状態。現在では「共有精神病性障害」とも言われる
横浜地裁での2人の初公判は、1987(昭和62)年9月9日、石田恒良裁判長のもとで開かれました。
朝日新聞(1987年9月9日夕刊)
1992(平成4)年1月22日の論告求刑公判で検察側は、「宗教的支配観念による短絡的犯行で、両被告に精神的障害はなく、責任能力はある」として、それぞれに懲役15年を求刑しました。
毎日新聞(1992年1月22日夕刊)
政弘さんの殺害と死体損壊の事実は2人も認めているため、弁護側は2人の責任能力をめぐって争い無罪を主張しました。
それには、上に見たように、鈴木と美幸が事件当時「心神耗弱」状態にあったとする精神鑑定も根拠とされました。
しかし、1992(平成4)年5月13日の判決公判で、石田裁判長から交代した坂井智裁判長は、2人の責任能力を認めたうえで、鈴木正人に懲役14年、茂木美幸に懲役13年の実刑判決を言い渡しました。
鈴木正人だけが、この判決は不服だとして控訴します。
朝日新聞(1992年5月13日夕刊)
それに対して東京高裁の早川義郎裁判長は、1994(平成6)年2月9日、鈴木の控訴を棄却し一審判決の懲役14年を支持したことで、2人の刑は確定しました。
朝日新聞(1994年2月10日)
なお、刑期はいずれも満了しているため、鈴木正人と茂木美幸の2人はすでに出所していると思われますが、以後の消息は不明です。
動物や人間や神など何らかの霊的存在が人間に憑依(ひょうい:とりつくこと)して、その人に異常な言動(悪い意味だけではなく)を引き起こすと信じる「憑(つ)きもの信仰」は、世界各地で見られる民俗信仰(まじないや占いや祈願などを中心にした、教義や教団をもたない民間信仰)で、日本でも狐憑きや犬神憑きなどが知られています。
ウィキペディア「狐憑き」より
その背景には無知もあり、たとえば精神病についての理解がなかった時代には、幻聴が聞こえたり妄想に駆られて異常な言動をする人には邪悪な霊が憑いていると考えて恐れ、「憑きもの」を追い出す(落とす)ために棒で激しくその人の身体を打ち、ついには死なせてしまうこともあったようです。
この悪魔払い殺人事件には、問題となる出来事は「憑きもの」のせいだとする宗教的観念に加えて、茂木政弘と美幸は新興宗教団体「大山祇命神示教会」の熱心な信者で(事件前に離脱)、同教会を離れてからも何かといえば占いに頼り予言を信じるなど極めて強い宗教的心性の持ち主だったことが要因としてあります。
それに対して、事件を主導した鈴木正人についてはよく分からないところがあります
彼が、政弘さんへの「悪魔払い」をエスカレートさせていく中で、善悪を超越したかのような精神状態に陥ったことはあるとしても、当初の「神がかり」は政弘夫婦に向けた演技だったのではないかとの疑いが小川にはあるのです
鈴木を精神鑑定した福島章教授(当時)は鑑定報告書の中で、「鈴木は、かなり迷信的な母親の影響を受けて育ったものの、もともとは無神論者をもって任じていた」と書いています。
鈴木が「悪魔」と表現したのも、彼自身の供述では宗教がかった内容ではなく、「人を信頼することと反対の考え、つまり、人の物欲、名誉欲、嫉妬心、又は、自分勝手、裏切りのこと」だと言っています。
このベースには、両親の離婚後、親戚の家を転々とさせられた、ようやく母のもとで「宅建」の資格を取って不動産の仕事をし始めた矢先に、宝石詐欺事件の共犯に自分を巻き込んだ母親の「物欲」「自分勝手」「裏切り」に対する鈴木の失望と恨みがあると小川は思います。
そして、仕事にも身が入らなくなり、母親から慰謝料のように小遣いをもらう虚しい生活に、彼は何の喜びも感じられなかったに違いありません
そうした中、「兄貴」と慕ってくれる茂木政弘と妻の美幸の苦境を知った鈴木は、彼らを助けることが自分の生きがいにもなるだろうと思ったのでしょう。
ただ、それは決して自己犠牲的な援助ではなく、鈴木にとっては政弘夫妻を自分の思いどおりに支配・操作することで得られる自己肯定感が重要だったのではないかと小川は思うのです。
そうした鈴木にとって、意思薄弱な政弘は支配しやすい反面、同時に、周囲に影響されてすぐに心が揺れ、鈴木の思いから外れてしまうやっかいな人間でもありました。
そこで、揺れやすい政弘をコントロールするには、まず美幸を自分のもとに引き付け、政弘を自分と彼女で両挟みにしようと鈴木は考えたのでしょう
そのために、政弘と美幸の宗教的心性(神的・霊的なものへの信じやすさ)を利用しようとした鈴木は「神がかり」を演じ*、もし政弘や美幸が彼の思惑から外れた言動をすると、「悪魔にとり憑かれている」と脅して言うことをきかせようとしたのではないか、そんなふうに小川は推測します!
*2月13日の夜、政弘はバンド仲間に、「兄貴は無神論者だったが、急に神が兄貴に降りた」と言ったそうです(地裁判決文)
このように、自分では信じてもいない「神」や「悪魔」を便宜的に利用しようとした鈴木ですが、「神がかり」や「悪魔払い」を巧みに演じ切るには、鈴木の知識も思考も貧弱に過ぎました。
鈴木の「悪魔」や「悪魔払い」のイメージと知識は、1981・82(昭和56・57)年に彼が映画館に3回も通って観たという映画「エクソシスト」の1と2*から得たもので、それをまねて鈴木は、政弘さんの遺体を解体しているときに美幸に命じて割り箸で十字架を作り遺体にかざすというこっけいなことをしています。
*映画「エクソシスト」はカトリック神父の悪魔払いを描いた1973年公開のアメリカのホラー映画で、1977年に続編(2)が、1990年に「3」が作られています。鈴木は最初の2作をリバイバル上映で観たのでしょう
映画「エクソシスト」の1シーン
どのような手段・方法でどういう手順を踏み、結果をどう判定し最終的にどうするのか——、映画のエンターテインメントなら悪魔の憑いた人が死のうがどうしようが面白ければよいということかもしれませんが、これは現実なのですから、政弘さんの動揺を鎮めて世界を救う「神の曲」に集中させねばならないのです。
ところが、そういう計画性は鈴木にはありませんでした。
最初のうちは「にらめっこ」のように顔を凝視したり「鬼出ていけ」と恫喝するといった心理的圧迫行為をしていたのが、平手打ちなど痛みを与える物理的な力の行使へと、鈴木の自己流の「悪魔払い」はなし崩し的に変わっていきました。
そのエスカレートした先が、すでに見た「塩揉み」「液出し」です。
ただこれも、最初のうちは皮膚が赤くなる程度のことだったのです。
ところが、そのうちそれは爪を立てて皮膚を裂き、塩を揉み込みながら傷口から無理やり体液を絞り出すという、ひどい傷と激痛を伴うものになっていきます。
痛みにもがき苦しみながらも「我慢する」と必死に耐えていた政弘さんですが、ついには衰弱のあまりぐったりと横たわる状態になって、「塩揉み」「液出し」も限界を迎えます。
とても作曲させるどころの話ではありません。
それならと鈴木は、悪魔払いを完璧にしとげる「最後の手段」として、殺すしかないと美幸に同意を迫りました。
こうして政弘さんの命まで奪った鈴木ですが、そんなことで「神の曲」を書かせるという目的が果たせるはずもありません。
そこで鈴木は、殺しただけではまだ十分でないから、遺体をバラバラに解体して各部分を清めなければダメだと言い出したのです。
このように見てくると、悪魔払いを始めてからの鈴木は、いったい何をしようとしているのかやっている本人にも分からず、途中からはおそらく感覚の鈍磨とある種の狂気にも駆られて、行き当たりばったりの思いつきで行為をエスカレートさせていったというのが、このバラバラ殺人事件の真相ではなかったでしょうか。
とはいえ、4日間にもわたり(発覚しなければさらに時間をかけて)美幸の看護師としての知識を利用し、食事も睡眠もとりながら淡々と政弘さんの遺体解体を進めていったところを見ると、鈴木は完全に狂気に支配されていた(心神喪失あるいは耗弱)のではなく、遺体を細切れにして処分し証拠隠滅するという計算を、鈴木は働かせていたのではないかと思わざるをえません。
「兄貴」と妻の手で命を奪われた政弘さんは、苦労を共にしたバンド仲間や家族の絆を大切にする心優しい人(その裏返しが「優柔不断」「意思薄弱」な人)で、自分が生み出す音楽の力で悪がはびこる世界から人類を救いたいと真剣に考えていました*。
*ただ、1987年は、改革派のゴルバチョフ大統領のもとでソ連(現在のロシア)が緊張緩和政策を推進し、米国との間で中距離核兵器制限条約が締結された年であることを思うと、今にも核戦争が起きるかのような政弘さんの切迫した危機感には、現実離れしたところがあります
いろいろなしがらみに足を取られて、「神に選ばれた作曲家」である自分に期待された使命をなかなか全うできない不甲斐ない自分に、政弘さん自身もいら立ちを覚えていたでしょうし、だからこそ鈴木が施す「悪魔払い」の苦痛を甘んじて受けいれたのでしょう。
鈴木については疑問ですが、政弘さんはもちろん美幸にも悪意はなかったでしょう。
けれども、政弘さんと美幸の悲劇を見るとき、小川は宗教的心性の危うさを思わざるをえません。
小川は無信心な人間ですが、宗教を十把一絡げに「怖いもの」と決めつけるつもりはありませんし、個人の内なる信仰心は尊重しなければならないと考えています。
けれども、「占い」や「予言」、「神がかり」や「悪魔のしわざ」といった人智を超えたものを信じ、それによって世界を理解したり自分の生き方を決めようとすることは、自分自身で考え判断することをやめて、「権威」や「カリスマ」に無批判に身を委ねてしまうことになりはしないでしょうか.....
政弘さんも美幸も、私的な思惑を隠し持った鈴木の「神がかり」に惑わされず、仲間や支援してくれる人たちと知恵を出し合い協力を仰ぎながら地道に音楽活動を進めていけば、人生にまた違った道がひらけてくる可能性があったのではないかと無念に思います。
たとえ失敗し傷ついても、それが自分で考え決断した結果であれば、誤りを反省しながらもう一度立ち上がって人生に再チャレンジできるのではないかと小川は思うのです。
最後に、関係資料を見ていて一つ気になったことを書いておきます
今はなき雑誌「TOUCH」(小学館発行,1986−89)の1987年3月17日号で事件が取り上げられており、このブログにも写真を使わせていただいたのですが、その見出しは次のようになっています。
左:表紙、右:本文の見出し
記事の本文では、「鈴木が茂木夫妻を巻き込む形で……」(政弘さんの友人の談)とか「鈴木に翻弄される夫妻」と、この事件を主導したのは鈴木正人だと示唆しながら、見出しでは「悪魔の妻」「鬼の顔」と美幸を前面に押し出し、記事自体も最後は美幸の顔つきを話題にして、「目尻がつり上がり、黒眼の小さい三白眼、こういう人は、加虐性に富んでいます。それと、この顔は霊にとりつかれています。鬼ともいいますが、夜叉(やしゃ)、羅刹(らさつ)という霊がとりついています」という「運命学者」の決めつけで締めくくっています。
美幸の犯罪行為を擁護するつもりは小川にはありませんが、主犯ではない女性を前面に出し、結婚当初から彼女はすでに悪霊にとり憑かれていたかのような怪しげな霊の話で読者の興味を引こうとする週刊誌(記事を読んだ読者は、事件のことを考えるよりも、美幸の写真を見ながらこの女の顔はどうだこうだと言って楽しんだことでしょう)に、小川は憤りを覚えました
♡終わり♡
この藤沢の悪魔払いバラバラ殺人事件は、最初は単純な事件ですぐに書けると思っていました。
しかし、地裁の判決文だけで121枚あって読むだけでも大変でしたし、ロックを愛する心優しいミュージシャンの身になぜこういう悲劇が起こったのかを考えていくと、そう簡単には片づけられない事件だと思いました
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夏に涼しげな青い色のアクセサリーも作りました💙
アクセサリーたちです
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