藤沢で起きた

悪魔払い殺人事件

 

1987(昭和62)年2月25日午後9時ごろ、神奈川県藤沢市亀井野1丁目のアパート藤本荘203号室で、借主の鈴木正人(当時39歳)と茂木美幸(同27歳)が、鈴木の従弟(いとこ)で美幸の夫である茂木政弘さん(同32歳、簡潔にするために、以下敬称を略しています)の遺体をバラバラに解体しているところを踏み込んだ警察官が見つけ、2人を死体損壊の現行犯で逮捕しました。

 

事件現場となった藤本荘(2017年撮影)

*2階の一番奥が203号室

(現在は建て替えられています)

 

逮捕された2人は、政弘に取り憑いた悪魔を追い出す「悪魔払い」のために彼を殺害し、さらに悪魔が肉体に再び取り憑かないよう遺体をバラバラにし肉や臓器を塩で清めていたもので、悪魔を完全に退散させることができれば政弘はよみがえるという趣旨の供述をしました。

 

朝日新聞(1987年2月28日)

 

これが世に言う「藤沢悪魔払いバラバラ殺人事件」です。

 

関係者の親族関係を整理すると、下のようになります。

 

 
事件の概要に入る前に、加害者と被害者の3人について見ておきましょう。
 
【主犯の鈴木正人】
 
 

鈴木正人(まさひと)は、小学4年の時に両親が離婚したため母方の祖母宅に預けられ、同居していた母の異父弟(鈴木にとっては叔父)夫婦の世話になりました。

異父弟夫婦には2人の息子がおり、事件の被害者となる長男の茂木政弘は、鈴木と短期間ですが一緒に暮らしたことから、彼を「兄貴」と呼ぶようになります。
 
しかし、まもなく鈴木は千葉県の父方の親族に預けられ、小中学校を卒業して仕事に就きます。
 
ところが彼は、健康を害したとして仕事を辞めて、神奈川県三浦郡葉山町で不動産ブローカーをしていた母のもとに身を寄せ、定時制高校を卒業しました。
 
そうして母の仕事を手伝っていた1979(昭和54)年ごろ、鈴木は母親が起こしたダイヤモンド詐欺事件の共犯として逮捕・起訴され、長期間の勾留の末に執行猶予つきながら有罪判決を受けます。
 
母親が自分を事件に巻き込んだと恨んだ鈴木は、母からの度重なる謝罪をなかなか受け入れず、そのため母親は息子に対して非常に気を使うようになったそうです。
 
その件で屈折した気持ちを抱えた鈴木は、何かと体調がすぐれないこともあり、不動産売買の仲介などを断続的にしながら、1985(昭和60)年の秋ごろになると仕事もろくにせずに月に5万円、10万円と母親から小遣いをもらって生活するようになります。
 
【被害者の茂木政弘】
 
茂木政弘さんのジャケット写真
 
茂木政弘は、東京都荒川区に生まれ、その後神奈川県横須賀市に転居して県立高校に通っているとき、ロック音楽のドラム演奏に興味を持ちのめり込みます。
 

関東学院大学に進学後もそれは続き、ついには父親(鈴木の母の異父弟)の反対を押し切って大学を中退します。

 

鈴木正人の母(政弘の伯母)の影響で「大山祇*命(おおやまねずのみこと)神示教会」(以下「神示教会」と略記)に入信していた政弘は、所属する同教会鵠沼(くげぬま)分教所で若手信者がつくっていたアマチュアロックバンドに加わります。

 *「ねず」は教団が作った下のような文字ですが、フォントにないため便宜上「祇」を当てます

  

 

やがて同バンドのリーダーになった政弘は、バンド名を「スピッツ・ア・ロコ」に改め、作曲とドラムを担当して東京や神奈川で演奏活動をするようになりました。

 

1983(昭和55)年から1984(昭和56)年に彼のバンドは、ロックの専門レーベルであるバーボンレコード(徳間音工系列)からシングルレコード「キープ・オン・ラブ」「愛論人(アイロンマン)」の2枚とLPレコード「人情」を出してメジャーデビューを果たします。

 

バンドメンバーは家族という設定で、

茂木政弘(下左)は妹娘としていつも

女装してステージに上がっていました

「キープ・オン・ラブ」に収録された

茂木政弘作詞・作曲の歌

*最後のフレーズに当時の彼の心境がうかがえる

 

 

 

けれどもレコードの売り上げは振るわず、レコード会社との契約を更新してもらえなかった「スピッツ・ア・ロコ」は、ライブハウスで演奏活動を続けますが、これも赤字続きでした。

 

そのため、神示教会の関連会社でメンバーがアルバイトをし赤字を埋める状態が続いたため、バンド解散の話も出始め、リーダーの政弘はバンドの行く末に頭を悩ませながら、不振の原因は自分が作った曲を他のメンバーがうまく演奏してくれないからだという不満も抱いていたようです。

 

【従犯の茂木美幸】(茂木政弘の妻)

 

 
夫である茂木政弘の殺害・解体に鈴木正人と共に関わった妻の美幸は、秋田県に生まれ中学生の時に父親の転居で神奈川県に来ました。
 

中学を卒業すると、病院に勤めながら定時制高校や看護の専門学校で学び、1984(昭和59)年には正看護婦(現在の名称では正看護師)の資格を得ています。

 

それより前、彼女がまだ准看護婦だった1978(昭和53)年8月、勤務先の病院に交通事故で入院していた弟の見舞いに来た茂木政弘と出会います。

 

その時は元患者と交際していた美幸ですが、政弘から神示教会の教えを聞いたり占ってもらったりしているうちに、彼に勧められて鵠沼分教所に通うようになり、入信して熱心な信者になります。

 

交際相手にも神示教会の信仰を勧めたものの受け入れられなかった美幸は彼と別れ、何かと相談に乗ってくれた政弘と親密な関係になり、事件が起きる前年の1986(昭和61)年4月に2人は結婚しました。

 

結婚式での写真

(TOUCH、1987年3月17日号)

 

結婚を機に、専業主婦になろうと看護婦の仕事を辞めた美幸は、政弘の両親の家に同居して、アルコール依存症で昼間から酒を飲むような義父(鈴木の母の異父弟)の世話と、家業の清掃会社を切り盛りする義母に代わって家事をする生活を始めました。

 

ところが一緒に暮らしてみると、夫の政弘が意志薄弱で優柔不断な上に、義両親からは介護や家事の不手際で責められることが多く、不満を募らせた美幸は、新婚早々に結婚生活への意欲を失っていきました。

 
【破局への道】

鈴木正人の母親は、先に述べた詐欺事件で逮捕・勾留された際、保釈金を貸してくれなかったことを恨んで異父弟(茂木政弘の父、美幸の義父)と絶縁状態になり、政弘と美幸の結婚式に政弘の伯母である鈴木の母親と息子の正人は出席していません。

 

けれども鈴木正人は、子どものころ世話になった茂木の家を時折訪ねており、政弘との結婚を控えた美幸とも顔を合わせていました。

 

そして結婚から半年後の1986(昭和61)年10月ごろ、同宅で美幸から先に述べたような夫や結婚生活への愚痴を聞かされた鈴木は美幸に同情を寄せ、夫がもっとしっかりとしてバンドマンの夢をかなえてほしいという彼女の希望に協力したいと思ったようです。

 

ちなみに、神示教会と鈴木正人との関わりですが、母親が信者だった彼も、以前に政弘の勧めで鵠沼(くげぬま)分教所に行き、政弘が信頼を寄せる女性代表者から話を聞いたことがありました。

けれども、代表者と口論になった彼は悪態をついて帰ってしまい、神示教会の信者になることはなかったようです。

 

なお、分教所代表者が亡くなり神示教会本部のやり方に不信感をもつようになった政弘は1985年に、それにつれて美幸も1986年には神示教会を離れており、悪魔払い事件と神示教会との直接の関係は、教えや儀式からの影響を含めてまったくありません。

 

話を戻すと、先に述べたような美幸の苦悩を知って同情した鈴木正人は、政弘に関する情報を集めたり「兄貴」として彼に助言をしたりと、夫婦の生活への関わりを強めていきます。

 

メジャーデビューでつまづいた「スピッツ・ア・ロコ」ですが、支援者の協力で政弘の作ったCMソングが1986年暮れから1987年にかけて全国放送されるなどしたものの打開策とはならず、苦境が続きました。

 

もともと占いに頼るなど宗教的心性の強かった政弘と美幸は、この時も占い本で運勢を見たり、縁起物を身の回りに置いたりしていたそうです。

 

1987(昭和62)年2月、有名な占い師に夫婦で占ってもらったところ、バンドの成功はこれからも望み薄だという内容で政弘は落ち込みましたが、美幸は演奏ではなく作曲こそが政弘の天職で、夫は神の世界の音楽を人間界に出すべき「神が選んだ作曲家」だと言われたと受けとめ、それを鈴木にも話したようです。

 

鈴木が政弘に、「神の曲」を作って世界を救えと熱心に説き始めたのは、これがきっかけでした。

 

2月9日に鈴木は、自分に「神が降りてきた、乗り移った」と言いながら、政弘がいま住む両親の家を出て作曲の仕事一本に絞り、3人(政弘夫妻と鈴木)でやろうと彼をうながしました。

 

この神がかった鈴木の言動が、宗教的なものに動かされやすい政弘夫婦向けの演技だったのか、それとも鈴木自身そのように妄想したのかは分かりませんが、「作曲こそ天職」という美幸が理解した占い師の言葉と鈴木が語る神の意思に影響された政弘は、「神の曲」を書いてバンドで演奏し世界に広めて悪を封じる作曲家としてやっていくと2人に宣言したそうです。

 

しかしこのことからも、政弘が作曲だけでなくバンド演奏にもまだこだわっていることが分かったので、鈴木は夫妻に「政弘の心はきれいが、物事をやり遂げる“男らしさ”がない、オレが教育する」と言い、政弘と美幸は「お願いします」「鈴木さんを信じます」と応じました。

 

それから鈴木は、連日のように夫婦のもとにやってきて、「神がオレに移った」と言いながら「オレを信じて作曲活動をすれば必ず良い曲が書ける、どこまでオレを信じるかにかかっている」という話を夫婦に延々と、時には徹夜で語り続けたそうです。

 

2月12日の夜、横浜でライブ演奏をした「スピッツ・ア・ロコ」は、3月の2回のライブでバンドを解散する予定だとステージで告知しました。

ところがそれを会場で聞いていた音楽ビデオ演出業の人が、解散するには忍びないとバンド活動への協力を申し出たので政弘やメンバーは喜び、バンドの解散を思いとどまろうとしました。

 

翌日それを聞いた鈴木は、「作曲活動に専念しろ、神の曲を作るんだ!」と政弘を怒鳴りつけたそうです。

 

こうして、政弘を自分の思う通りに動かそうとする鈴木と、バンド仲間や演奏活動への思いを断ち切れずに心が揺れる政弘、そして鈴木の神がかりをうさん臭く感じながらもその気迫に押され、また腰が定まらない夫にいらだつ美幸という3人の葛藤が、この後に来る破局へとつながっていくのです。

 

【行き詰まり】

政弘の迷いで先行きが不透明になっていた2月14日、政弘に「悪気」がついていると美幸が言い出し、鈴木も「お前の目に悪が憑きはじめた」「お前の両親には悪魔が憑いている」と言い始めます。

 

鈴木が政弘の両親を「悪魔憑き」と言ったのは、作曲に専念できるよう親の家を出ろと言う鈴木に、育ててもらった恩のある親を捨てて家を出ることはできないと政弘が言い張ったからです。

「親の恩」への感謝は、夫婦・親子の良い家族関係を重視する神示教会の教えにおいて基本のことでした。

 

鈴木は、アルコールへの欲望を断てない父親と金儲けにばかりいそしむ母親が一緒では、悪魔に邪魔されて神の曲を作ることができない、心が揺れるのは悪魔がそうさせているのだと政弘を説得し、婚家で苦労させられた美幸もそれに同調したことから政弘はついに折れ、夫婦は鈴木に協力的なバンド関係者が所有する空き家に両親の家を出て移りました。

 

ところが、翌日(2月15日)になるともう政弘は、「早く神の曲を書け」と迫る鈴木と美幸に対し、「実家に戻りたい」「神の曲など作れない」と言い出す始末です。

 

そこで2月16日の朝、「この家も悪魔だらけだ」と鈴木に言われるがまま、政弘と美幸は鈴木の住む藤沢市のアパート「藤本荘」に連れられていきました。

 

事件が起きた時の藤本荘

 

美幸の本当の望みは、義両親からも鈴木からも離れて夫と2人だけで暮らし、必要なら自分が看護婦に復帰して生活を支え、政弘の作曲とバンド演奏の夢をかなえてやりたいということだったようです。

ですから、鈴木と同居して夫と自分が彼の管理下に置かれることは、美幸には不本意だったと思います。

 

そうした美幸の不満を敏感に察したのでしょう、鈴木は2月17日午前0時過ぎ、美幸の顔の中に鬼がいると言い出して1時間にわたり「鬼出て行け!」と言い続けたそうです。

この後も鈴木は、美幸の迷いを感じるたびに「悪鬼」がいると言いたて、平手打ちや後で見る「塩揉み」などをくわえています。

 

そのことを、自分が心の奥に秘めた夫を独り占めにしたいという身勝手な欲望を鈴木が見抜いたと受け取った美幸は、彼の「神がかり」の力に畏れをいだき、鈴木の言うことに逆らえなくなっていきます。


その間に政弘は、「旅立ち」「風呂上がり」と題する曲を何とか作り、ハミングした「旅立ち」のメロディーをカセットテープに吹き込んだそうですが、それらは人類を救う「神の曲」と言えるようなものではなく、相変わらず彼は「実家に帰りたい」「自分には神の曲は書けない」と弱音を吐くばかりでした。

 

一方、「スピッツ・ア・ロコ」の存続を願うバンドのメンバーや政弘と美幸の親は、鈴木から2人を引き離す相談をしていました。

 

2月18日の夜遅く、彼らは政弘と美幸を藤本荘から近くのファミリーレストランに連れ出し、3月に予定されているライブ演奏のことなどを話して、政弘にいったん実家に帰るよう説得しました。

 

はじめは、「今は曲を作るのが先で、それができなければ核戦争が起きてしまう」と拒んでいた政弘も、日が変わるころ(19日の午前2時ごろ)になってようやく実家に戻ることを承諾し、鈴木にそのことを話して家に帰りました。

 

美幸は黙って夫に従いましたが、先に述べたように政弘の実家に落ち着くつもりはなく、家を出て2人で暮らそうと考えていました。

 

ひとり取り残された鈴木は、自分がこれほど努力しているのにというやり切れなさと、簡単に態度を変える政弘や美幸に、怒りといら立ちを覚えます。

 

どうにも気持ちがおさまらない鈴木は、19日の午前9時30分ごろに政弘の実家を訪ね、口実を設けて政弘夫婦をまた藤本荘に連れ戻します。

 

もっと強く政弘の気持ちを引きつけないといけないと考えた鈴木は、途中で見かけたホームレスの男性を指して、「あれは悪魔の回し者だ、目を合わせるな!」と「悪魔」を持ち出して脅かし、美幸に命じて政弘に包帯で目隠しをさせました。

 

こうして藤本荘に戻った鈴木と政弘夫婦ですが、政弘の父がバンドメンバーと一緒にまた駆けつけて来て、悪魔の脅しに怯えた様子の政弘を美幸と共に連れ帰ります。

 

またしてもひとり取り残された鈴木が、優柔不断な政弘へのいら立ちと怒りをますますつのらせたことは言うまでもありません。

 

この時は美幸は、両親も加わった相談の結果、横浜市港北区の親の家に帰りました。

 

一方の政弘は、バンドの今後の活動などをメンバーと相談しましたが、それがすむと「藤沢(=藤本荘)に帰り作曲したい、藤沢に帰らなければ」と言い出して、2月20日へと日が変わった午前2時半ごろ、メンバーが止めるのも聞かず鈴木のもとに戻りました。

 

ただ政弘にとってそれは、自分の心からの希望というより、鈴木による悪魔の脅しを恐れての迷いに満ちた決断だったのでしょう。

 

藤本荘に戻り自分の顔を鏡で見た政弘は、充血した目がつりあがり青黒くなった自分の顔が「気違い(狂人)」に見えると言い出し、鈴木に対しても「兄貴には魔神が降りているのではないか」と言ったそうです。

 

自分をここまで追い詰め苦しめているのは、鈴木の言うように自分に憑いた悪魔なのか、それとも鈴木に「降りた」と言っている神が実は悪魔(魔神)なのではないかという心の迷いを、政弘はそのまま吐露したのでしょう。

政弘が鈴木に向かってこのようなことを言ったのは、これが初めてのことでした。

 

それを聞いた鈴木は、自分を侮辱していると激しく怒り、「オレはお前を男にしてやろうと命をかけてやっているのに、どうしてそんな勝手なことを言うんだ」と政弘を叱責しました。

 

せっかく鈴木のもとに戻ったのに、「美幸がいないと作曲できない」と言い、かといって彼女に電話でこっちに来いとはっきり言えない政弘の意志の弱さ(それは彼の優しさでもある)にさらにいら立った鈴木は、電話を代わって「このままでは政弘がダメになるからすぐに来い、必ず来い!」と美幸に強く言い、同意した彼女は2月21日の午後1時ごろに藤本荘にやってました。

 

こうして事件現場になる藤沢のアパートに、鈴木・政弘・美幸の3人がそろったのです。

 

【悪魔払い】

けれども、この時に鈴木の頭を支配していたのは、政弘に「神の曲」を書かせようということではもはやなく、政弘に取りついた悪魔(バンド活動や親への執着)を彼から取り除くことだけでした。

 

いくら説得しても政弘の心を支配できないと悟った鈴木は、新たな「悪魔払い」を思いつき、美幸が藤本荘に戻った時にもうそれを始めていました。

 

政弘の目を睨みつけたり声で悪魔を威嚇するようなことはそれまでもやっていた鈴木ですが、この時は上半身裸でうつ伏せになった政弘の背中の上方、首の後ろあたりに、体液が滲み出た楕円形の傷跡があり、鈴木は「悪魔の素」を見つけたので塩をつけて揉み、傷口から悪い汁を出したと美幸に説明したのです。

 

「塩揉み」「液出し」と鈴木が言うひどい痛みを伴うこうした行為を見て美幸はさすがにとまどったようですが、「鈴木さんを信じなさい、痛いけれど我慢する」と政弘が美幸に言ったので、彼女も鈴木を止められずに傷口を消毒し手当てすることしかできませんでした。

 

翌2月22日にも、鈴木に言われて美幸も加わった「塩揉み」「液出し」は、身体の範囲と行為の激しさを増して続けられました。

 

塩をつけた両手の爪を立てて皮膚を掻きむしり、裂けた傷口から力を入れて体液を絞り出す痛みに、政弘は手足をばたつかせて苦しみ暴れたそうです。

しかし、それを悪魔が苦しんで暴れていると解する彼らが、手をゆるめることはありません。

 

やがて政弘は、布団にぐったりと横たわったまま「ハアハア」と息をするだけになりました。

 

しかしそれでも悪魔が払えたという確証のもてない鈴木は、左手で政弘の喉仏を押さえ、「これを絞めてしまうと終わりなんだ、これをすると完璧なんだ」と言いながら美幸の反応をうかがいました。

つまり、政弘の肉体が死ねば悪魔はもはや彼の体にとどまれないということです。

 

読売新聞(1987年3月5日)

 

前日から延々と続けられたむごたらしい「悪魔払い」を終わりにしたいと思いながらも、鈴木の言っているのが夫の殺害であると理解した美幸の心中にはためらいが当然あったでしょう。

けれども、鈴木を畏れていたことと、最後は政弘が「鈴木さんを信じろ」と言っていたことで自分を納得させ、美幸は鈴木にうなずきました。

 

こうして1987(昭和62)年2月22日午後3時ごろ、政弘が暴れないよう美幸が彼の太もも・膝・足首をベルトや股引きなどで縛り、馬乗りになって押さえつけ、鈴木が首を手で締めて政弘を殺害したのです。

 

しかし、「悪魔払い」はそれで終わりませんでした。

 

私たちには理解し難いことですが、政弘の肉体が死ねば悪魔は退散し政弘が生き返るはずなのにそうならないのは、悪魔がまだ彼の肉体に取り憑いているからで、さらに身体をバラバラに解体して清めなければならないと鈴木が言い出したのです。

 

こうして鈴木と美幸は政弘を殺害しただけでなく、彼の遺体をハサミなどを用いて徹底的に解体しようとしたのです。

 

鬼気迫る解体の詳細は、あまりにもむごたらしいのでここに書くことを控えます。

おぞましさを承知のうえでお知りになりたい方は、この事件を裁いた横浜地裁の判決文を次のリンクからお読みください。

 

 

2月22日夕刻からの解体は、まず皮膚を裂き大きな肉片を切り取るところから始まりましたが、鈴木が「まだ十分ではない」と言うままに進められ、4日目の25日に警察官が解体現場に踏み込んだ時には、骨についたわずかな肉片を2人がこそげ落としている最中でした。

 

なお解体にあたっては、人体の構造を知り解剖学の実習も経験している看護婦の美幸が、鈴木に聞かれてやり方を教えたそうです。

 

事件が発覚したのは、政弘と連絡がつかなくなったことを心配したバンド仲間と親らが、2月25日の夜に藤本荘を訪ねたことによってです。

 

人の気配はあるものの応答がないためいったん引き上げた彼らは、まもなく大家さんを連れて戻り鍵を開けて入室したところ、凄惨な現場を目撃したので慌てて110番通報をし、午後9時ごろ、駆けつけた警察官により、鈴木と美幸は死体損壊の現行犯で逮捕されたのです。

 

【裁判と判決】

鈴木と美幸は、1987年3月4日に茂木政弘さんの殺害容疑で再逮捕されます。

 

事件を起こした時に2人は異常な精神状態にあったのではないかと疑われたため、横浜地検は精神鑑定のための鑑定留置を地裁に申請し、3月18日に認められました。

 

朝日新聞(1987年3月19日)

 

福島章氏による精神鑑定の結果、2人は事件当時「宗教的支配観念」にとらわれてはいたが、精神病の状態にはなく、刑法上の責任能力は問えるとのことで、横浜地検は2人を殺人と死体損壊の容疑で起訴しました。

 

なお、地裁の判決までに福島鑑定以外に鈴木には2件、美幸には1件の精神鑑定がなされています(1件は同じ鑑定人)

 

そのうち、鈴木についての1件の鑑定では、彼は幻聴・妄想などの症状が出る統合失調症で「責任無能力」だったとされ、他の鑑定では鈴木と美幸ともに「三人精神病(感応精神病)*」の心因反応状態で責任能力が著しく低下していた(心神耗弱)とされました(この鑑定人は鈴木の統合失調症は否定)

 *他から隔離された親密な関係の集団(家族など)で発生しやすいもので、一人(多くは支配的な立場の人間)の妄想的確信が他の人にも共有された状態。現在では「共有精神病性障害」とも言われる

 

横浜地裁での2人の初公判は、1987(昭和62)年9月9日、石田恒良裁判長のもとで開かれました。

 

朝日新聞(1987年9月9日夕刊)

 

1992(平成4)年1月22日の論告求刑公判で検察側は、「宗教的支配観念による短絡的犯行で、両被告に精神的障害はなく、責任能力はある」として、それぞれに懲役15年を求刑しました。

 

毎日新聞(1992年1月22日夕刊)

 

政弘さんの殺害と死体損壊の事実は2人も認めているため、弁護側は2人の責任能力をめぐって争い無罪を主張しました。

それには、上に見たように、鈴木と美幸が事件当時「心神耗弱」状態にあったとする精神鑑定も根拠とされました。

 

しかし、1992(平成4)年5月13日の判決公判で、石田裁判長から交代した坂井智裁判長は、2人の責任能力を認めたうえで、鈴木正人に懲役14年、茂木美幸に懲役13年の実刑判決を言い渡しました。

 

鈴木正人だけが、この判決は不服だとして控訴します。

 

朝日新聞(1992年5月13日夕刊)


それに対して東京高裁の早川義郎裁判長は、1994(平成6)年2月9日、鈴木の控訴を棄却し一審判決の懲役14年を支持したことで、2人の刑は確定しました。

 

朝日新聞(1994年2月10日)

 

なお、刑期はいずれも満了しているため、鈴木正人と茂木美幸の2人はすでに出所していると思われますが、以後の消息は不明です。

 

サムネイル

 小川里菜の目

 

動物や人間や神など何らかの霊的存在が人間に憑依(ひょうい:とりつくこと)して、その人に異常な言動(悪い意味だけではなく)を引き起こすと信じる「憑(つ)きもの信仰」は、世界各地で見られる民俗信仰(まじないや占いや祈願などを中心にした、教義や教団をもたない民間信仰)で、日本でも狐憑きや犬神憑きなどが知られています。

 

ウィキペディア「狐憑き」より

 

その背景には無知もあり、たとえば精神病についての理解がなかった時代には、幻聴が聞こえたり妄想に駆られて異常な言動をする人には邪悪な霊が憑いていると考えて恐れ、「憑きもの」を追い出す(落とす)ために棒で激しくその人の身体を打ち、ついには死なせてしまうこともあったようです。

 

この悪魔払い殺人事件には、問題となる出来事は「憑きもの」のせいだとする宗教的観念に加えて、茂木政弘と美幸は新興宗教団体「大山祇命神示教会」の熱心な信者で(事件前に離脱)、同教会を離れてからも何かといえば占いに頼り予言を信じるなど極めて強い宗教的心性の持ち主だったことが要因としてあります。

 

それに対して、事件を主導した鈴木正人についてはよく分からないところがありますショボーン

彼が、政弘さんへの「悪魔払い」をエスカレートさせていく中で、善悪を超越したかのような精神状態に陥ったことはあるとしても、当初の「神がかり」は政弘夫婦に向けた演技だったのではないかとの疑いが小川にはあるのですキョロキョロ

 

鈴木を精神鑑定した福島章教授(当時)は鑑定報告書の中で、「鈴木は、かなり迷信的な母親の影響を受けて育ったものの、もともとは無神論者をもって任じていた」と書いています。

 

鈴木が「悪魔」と表現したのも、彼自身の供述では宗教がかった内容ではなく、「人を信頼することと反対の考え、つまり、人の物欲名誉欲嫉妬心、又は、自分勝手裏切りのこと」だと言っています。

 

このベースには、両親の離婚後、親戚の家を転々とさせられた、ようやく母のもとで「宅建」の資格を取って不動産の仕事をし始めた矢先に、宝石詐欺事件の共犯に自分を巻き込んだ母親の「物欲」「自分勝手」「裏切り」に対する鈴木の失望と恨みがあると小川は思います。

 

そして、仕事にも身が入らなくなり、母親から慰謝料のように小遣いをもらう虚しい生活に、彼は何の喜びも感じられなかったに違いありませんショボーンあせる

 

そうした中、「兄貴」と慕ってくれる茂木政弘と妻の美幸の苦境を知った鈴木は、彼らを助けることが自分の生きがいにもなるだろうと思ったのでしょう。

 

ただ、それは決して自己犠牲的な援助ではなく、鈴木にとっては政弘夫妻を自分の思いどおりに支配・操作することで得られる自己肯定感が重要だったのではないかと小川は思うのです。

 

そうした鈴木にとって、意思薄弱な政弘は支配しやすい反面、同時に、周囲に影響されてすぐに心が揺れ、鈴木の思いから外れてしまうやっかいな人間でもありました。

そこで、揺れやすい政弘をコントロールするには、まず美幸を自分のもとに引き付け、政弘を自分と彼女で両挟みにしようと鈴木は考えたのでしょうびっくり

 

そのために、政弘と美幸の宗教的心性(神的・霊的なものへの信じやすさ)を利用しようとした鈴木は「神がかり」を演じ*、もし政弘や美幸が彼の思惑から外れた言動をすると、「悪魔にとり憑かれている」と脅して言うことをきかせようとしたのではないか、そんなふうに小川は推測します!

 *2月13日の夜、政弘はバンド仲間に、「兄貴は無神論者だったが、急に神が兄貴に降りた」と言ったそうです(地裁判決文)

 

このように、自分では信じてもいない「神」や「悪魔」を便宜的に利用しようとした鈴木ですが、「神がかり」や「悪魔払い」を巧みに演じ切るには、鈴木の知識も思考も貧弱に過ぎました。

 

鈴木の「悪魔」や「悪魔払い」のイメージと知識は、1981・82(昭和56・57)年に彼が映画館に3回も通って観たという映画「エクソシスト」の1と2*から得たもので、それをまねて鈴木は、政弘さんの遺体を解体しているときに美幸に命じて割り箸で十字架を作り遺体にかざすというこっけいなことをしています。

 *映画「エクソシスト」はカトリック神父の悪魔払いを描いた1973年公開のアメリカのホラー映画で、1977年に続編(2)が、1990年に「3」が作られています。鈴木は最初の2作をリバイバル上映で観たのでしょう

 

映画「エクソシスト」の1シーン

 

どのような手段・方法でどういう手順を踏み、結果をどう判定し最終的にどうするのか——、映画のエンターテインメントなら悪魔の憑いた人が死のうがどうしようが面白ければよいということかもしれませんが、これは現実なのですから、政弘さんの動揺を鎮めて世界を救う「神の曲」に集中させねばならないのです。

 

ところが、そういう計画性は鈴木にはありませんでした。

 

最初のうちは「にらめっこ」のように顔を凝視したり「鬼出ていけ」と恫喝するといった心理的圧迫行為をしていたのが、平手打ちなど痛みを与える物理的な力の行使へと、鈴木の自己流の「悪魔払い」はなし崩し的に変わっていきました。

 

そのエスカレートした先が、すでに見た「塩揉み」「液出し」です。

ただこれも、最初のうちは皮膚が赤くなる程度のことだったのです。

ところが、そのうちそれは爪を立てて皮膚を裂き、塩を揉み込みながら傷口から無理やり体液を絞り出すという、ひどい傷と激痛を伴うものになっていきます。

 

痛みにもがき苦しみながらも「我慢する」と必死に耐えていた政弘さんですが、ついには衰弱のあまりぐったりと横たわる状態になって、「塩揉み」「液出し」も限界を迎えます。

とても作曲させるどころの話ではありません。

 

それならと鈴木は、悪魔払いを完璧にしとげる「最後の手段」として、殺すしかないと美幸に同意を迫りました。

 

こうして政弘さんの命まで奪った鈴木ですが、そんなことで「神の曲」を書かせるという目的が果たせるはずもありません。

そこで鈴木は、殺しただけではまだ十分でないから、遺体をバラバラに解体して各部分を清めなければダメだと言い出したのです。

 

このように見てくると、悪魔払いを始めてからの鈴木は、いったい何をしようとしているのかやっている本人にも分からず、途中からはおそらく感覚の鈍磨とある種の狂気にも駆られて、行き当たりばったりの思いつきで行為をエスカレートさせていったというのが、このバラバラ殺人事件の真相ではなかったでしょうか。

 

とはいえ、4日間にもわたり(発覚しなければさらに時間をかけて)美幸の看護師としての知識を利用し、食事も睡眠もとりながら淡々と政弘さんの遺体解体を進めていったところを見ると、鈴木は完全に狂気に支配されていた(心神喪失あるいは耗弱)ではなく、遺体を細切れにして処分し証拠隠滅するという計算を、鈴木は働かせていたのではないかと思わざるをえません。

 

「兄貴」と妻の手で命を奪われた政弘さんは、苦労を共にしたバンド仲間や家族の絆を大切にする心優しい人(その裏返しが「優柔不断」「意思薄弱」な人)で、自分が生み出す音楽の力で悪がはびこる世界から人類を救いたいと真剣に考えていました*。

 *ただ、1987年は、改革派のゴルバチョフ大統領のもとでソ連(現在のロシア)が緊張緩和政策を推進し、米国との間で中距離核兵器制限条約が締結された年であることを思うと、今にも核戦争が起きるかのような政弘さんの切迫した危機感には、現実離れしたところがあります

 

いろいろなしがらみに足を取られて、「神に選ばれた作曲家」である自分に期待された使命をなかなか全うできない不甲斐ない自分に、政弘さん自身もいら立ちを覚えていたでしょうし、だからこそ鈴木が施す「悪魔払い」の苦痛を甘んじて受けいれたのでしょう。

 

鈴木については疑問ですが、政弘さんはもちろん美幸にも悪意はなかったでしょう。

けれども、政弘さんと美幸の悲劇を見るとき、小川は宗教的心性の危うさを思わざるをえません。

 

小川は無信心な人間ですが、宗教を十把一絡げに「怖いもの」と決めつけるつもりはありませんし、個人の内なる信仰心は尊重しなければならないと考えています。

 

けれども、「占い」や「予言」、「神がかり」や「悪魔のしわざ」といった人智を超えたものを信じ、それによって世界を理解したり自分の生き方を決めようとすることは、自分自身で考え判断することをやめて、「権威」や「カリスマ」に無批判に身を委ねてしまうことになりはしないでしょうか.....ガーン

 

 

政弘さんも美幸も、私的な思惑を隠し持った鈴木の「神がかり」に惑わされず、仲間や支援してくれる人たちと知恵を出し合い協力を仰ぎながら地道に音楽活動を進めていけば、人生にまた違った道がひらけてくる可能性があったのではないかと無念に思います。

 

たとえ失敗し傷ついても、それが自分で考え決断した結果であれば、誤りを反省しながらもう一度立ち上がって人生に再チャレンジできるのではないかと小川は思うのです。

 

 

最後に、関係資料を見ていて一つ気になったことを書いておきますニコニコ

 

今はなき雑誌「TOUCH」(小学館発行,1986−89)の1987年3月17日号で事件が取り上げられており、このブログにも写真を使わせていただいたのですが、その見出しは次のようになっています。

 

 

左:表紙、右:本文の見出し

 

記事の本文では、「鈴木が茂木夫妻を巻き込む形で……」(政弘さんの友人の談)とか「鈴木に翻弄される夫妻」と、この事件を主導したのは鈴木正人だと示唆しながら、見出しでは「悪魔の妻」「鬼の顔」と美幸を前面に押し出し、記事自体も最後は美幸の顔つきを話題にして、「目尻がつり上がり、黒眼の小さい三白眼、こういう人は、加虐性に富んでいます。それと、この顔は霊にとりつかれています。鬼ともいいますが、夜叉(やしゃ)、羅刹(らさつ)という霊がとりついています」という「運命学者」の決めつけで締めくくっています。

 

美幸の犯罪行為を擁護するつもりは小川にはありませんが、主犯ではない女性を前面に出し、結婚当初から彼女はすでに悪霊にとり憑かれていたかのような怪しげな霊の話で読者の興味を引こうとする週刊誌(記事を読んだ読者は、事件のことを考えるよりも、美幸の写真を見ながらこの女の顔はどうだこうだと言って楽しんだことでしょう)に、小川は憤りを覚えましたショボーン

 

♡終わり♡

 

この藤沢の悪魔払いバラバラ殺人事件は、最初は単純な事件ですぐに書けると思っていました。

しかし、地裁の判決文だけで121枚あって読むだけでも大変でしたし、ロックを愛する心優しいミュージシャンの身になぜこういう悲劇が起こったのかを考えていくと、そう簡単には片づけられない事件だと思いました煽り

 

悪戦苦闘のブログに疲れると、気分転換に手を動かしてアクセサリーを作っています。
最近始めたばかりでまだ上手くできませんが、何かを作ることはすごく楽しいですニコニコスター
 

 

夏に涼しげな青い色のアクセサリーも作りました💙

 

 
 このブログを完全させるまでに作った

アクセサリーたちですにっこり

 

 

 
読んでくださり、ありがとうございましたラブラブ
次回も宜しくお願いいたします😺

 

【リクエスト企画】

昭和に巻き起こった

エイズパニック

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「エイズ」に関する基礎知識

本題に入る前に、「エイズ」に関する基礎知識を確認しておきます。

すでに知っておられる方は、「本題」からお読みくだされば結構です。

【HIVとエイズ】

「エイズ」という言葉を、病気の原因となるウィルス病気(症状)の両方を指して使っている人もいますが、それは間違いです。

 

「エイズのはなし」(大阪市)

 

病気の原因となるウィルスは「ヒト免疫不全ウィルス」(Human Immunodeficiency Virus)で、で示した頭文字の略称で「HIV(エイチ・アイ・ブイ)」と呼ばれます。

 

「ヒト免疫不全ウィルス」と言うように、このウィルスは人間の免疫機能(簡単に言うと、からだの外部から侵入してきた細菌などの異物からからだを守るしくみ)を担っている白血球の一種(CD4陽性リンパ球)を破壊することで、免疫力を極端に低下させてしまうのです。

 
その結果、健康体であれば防ぐことのできるさまざまな病気を発症してしまうことがあり、それらの症状をまとめて「後天性免疫不全症候群」(Acquired Immunodeficiency Syndrome)、略して「エイズ」(AIDS)と呼ぶのです。
 

具体的には、HIVに感染した後、次にあげる23の合併症(この場合は、HIVの感染が原因となって起こる病気)のいずれかが発症した状態になると、エイズと診断されます。

 
「HIVとエイズについて」

(北海道大学病院HIV診療支援センター)

 
かつては、HIVに感染すると、ごく一部の例外を除いてほとんどの人がやがてエイズを発症したため、HIVの感染=エイズの発症のように捉えられ、「死の病」と恐れられました。
 
しかし現在では、HIVの治療薬が画期的に進歩し、ウィルスの増殖を抑えることができるようになったことから、1日に1錠「抗HIV薬」を服用することで、ほぼ確実にエイズの発症を予防することができます。
 
HIV感染は今では「死の病」の始まりではなくなっており、そのためにも感染の早期発見が大切なのです。
 
HIV検査は、全国の保健所や自治体の検査施設で無料・匿名で受けることができるほか、自宅でできる郵送検査キットも売られています。

もちろん、まず大切なことはHIVに感染しないこと(感染予防)です。

 
【感染源と経路】
HIVは、ウィルスが含まれた体液(血液、精液、膣分泌液、母乳など)が、粘膜や傷口を通して体内に入ることで感染します。
 
現在では、感染経路の8割以上は性行為で、通常の性器性交のほか、アナル(肛門)セックスやオーラル(口腔)セックスでも感染する可能性があります。
 
それ以外では、薬物依存症者が注射器を使い回すことで感染したり、HIVに汚染された血液製剤によって血友病の患者さんに感染が広がった「薬害エイズ」が日本でも大きな社会問題になりました。
そのほかには、母乳を介した母子感染もあります。
 
体液といっても、唾液や汗にはウィルスは含まれていませんので、キス*やペットボトルの回し飲みなどで感染することはありませんし、HIVはヒトの体外では長く存続できませんので共同浴場やプールなどで感染する心配もありません。

 *ただし、口腔内で出血しているところがあると、その血液を介しての感染はありうる

 

 

ですから、性行為以外の日常生活においてHIVに感染することはまずないのです。
 
【HIVの発見と起源】
エイズが初めて原因不明の奇病として認識されたのは、1981(昭和56)年のアメリカ合州国においてでした。
 
そして、1983(昭和58)年になってフランスのパスツール研究所の研究者がエイズ患者から原因となるHIV(ヒト免疫不全ウィルス)を初めて発見し、他の研究機関や大学でも同じウィルスが見つかりました。
 
朝日新聞(1983年5月14日夕刊)
 
さらに1985(昭和60)年には、それとやや異なる構造のウィルスが見つかったことから、前者はHIV-1、後者はHIV-2と呼ばれています。
 
HIVの起源は、アフリカでのチンパンジーなど霊長類を宿主とする「サル免疫不全ウィルス」(SIV)が、ヒトに感染するウィルスへと突然変異したものと考えられています。
そして、先に見たHIV-1はチンパンジーを宿主とするSIVから、HIV-2はマカク属(オナガザル科)などを宿主とするSIVからそれぞれ突然変異したものだそうです。
 
【HIVの感染予防と治療】
先に見たように、HIVは血液・精液(いわゆる「がまん汁」を含む)・膣分泌液・母乳といった体液を介して感染しますので、そうしたものに粘膜や傷口が直接触れないようにするのが予防法になります。
 
日常生活においては性行為が感染経路の大半ですので、「より安全なセックス」(SAFER SEX)を心がけること、具体的にはコンドームを行為の初めから確実に装着し、自分の口や性器、肛門、目などの粘膜*に相手の体液が直接触れないようにすることが大切です。

 *手などの皮膚がHIVを含む体液に触れても、傷口がない限りは感染しません

 

また、大切なパートナーにHIVを感染させないために、もし感染の心配がある場合は、先に述べた無料・匿名の検査をすすんで受けることが必要です。
 
いったんHIVに感染すると、当初は有効な治療薬がなく、やがてエイズを発症して死が避けられませんでしたが、1985(昭和60)年に画期的な抗HIV薬「AZT」(アジドチミジン)が開発され、1987年にアメリカで薬として承認されます。
 

開発したのは、当時アメリカの国立衛生研究所上級研究員だった満屋裕明(みつや・ひろあき)さんで、ウィルスを体内から駆除するものではありませんが、HIVの増殖*を阻害することで免疫細胞が壊されるのを防ぎ、エイズの発症を予防できる薬でした。

 *ウィルスは体内で最大1日に1兆個も増殖します

 

研究所を訪れたR.レーガン大統領(当時)と満屋さん(1988)

 
「AZT」と同じ原理を使ってタイプの異なる多くの薬が開発され、それらの特性をうまく組み合わせて使う多剤併用療法(カクテル療法)が1996(平成8)年に始まったことから、それからのちHIV感染者の死亡率が劇的に低下したのです。
 
産経新聞(2017年3月26日)
 
抗HIV薬は、初めのころは飲む薬の種類も多く服用法も複雑だったのですが、今では2〜3種類の薬を一つの錠剤にした「合錠」を1日1錠飲むだけでエイズが予防できる*ようになっています。
 *HIVの増殖を抑えるだけで完治(体内からのウィルスの駆除)はできませんから、一生服用を続ける必要があります
 
さらに、感染リスクの高い職業の人(医療関係者や性風俗従事者など)のためにHIVの感染を予防する薬(PrEP:Pre-exposure prophylaxis:プレップ)や、感染の恐れのある行為の後72時間以内に飲み始める薬(PEP:Post-exposure prophylaxis:ペップ)も開発されています。

 

 
サムネイル

ここからが「昭和のエイズパニック」の本題です

 

【日本におけるHIV/エイズ

先に書きましたように、世界で初めてエイズ患者が報告されたのは1981年のアメリカにおいてで、その4年後の1985(昭和60)年には日本でも患者が見つかっています。

 

①血友病患者のHIV感染ー薬害エイズ

 

朝日新聞(1985年3月21日)

 

記事に見られるように、日本で初めてのエイズ患者は、HIVに汚染された輸入血液製剤を投与された血友病*の患者さんでした。

 *血液中の止血に必要な凝固因子が不足しているため、出血すると血が固まらずに止まらない病気

 

1980年代に入って、アメリカから輸入された血液製剤は、ウィルスを不活性化させるための加熱処理がなされていない「非加熱製剤」だったため、HIVが混入した製剤が血友病患者に大量に使われ、1982年から1985年にかけて同製剤を治療に使った患者の3割、約1400人もがHIVに感染した*のです。

 *その後、約2000人まで感染者が増え、エイズを発症して亡くなられた方が多数出たとみられています

 
読売新聞(1985年9月9日夕刊)
 
そこには、非加熱製剤の危険性が明らかになり、1985年には安全な「加熱製剤」が承認されたにもかかわらず、同製剤を供給していたミドリ十字*が、非加熱製剤を回収せずに在庫品を流通させ続け、厚生省も回収を指示しなかったことが、日本の血友病患者の中でこれほどまでに感染者が増えた原因だとして、大きな社会問題になりました。

 *日中戦争時に、日本軍(関東軍)が毒ガス・細菌戦のために「満州」(中国東北部)の平房に設置し、人体実験や毒ガス・細菌兵器の設計・製造をおこなった「731(ななさんいち)部隊」の関係者が中心になり、戦後に設立した製薬会社

 
薬害エイズ」と呼ばれるこの事件については、また改めてこのブログで取り上げたいと思います。
 
②男性同性愛者のHIV感染
 
読売新聞(1985年5月30日)
 
日本における血友病患者のHIV感染が報じられたのと同じ1985年3月、アメリカ在住の日本人がエイズを発症・死亡し、「日本人第1号」と呼ばれました。
 
その2ヶ月後の5月、東京在住の2人の男性がエイズを発症していることが分かりました。
この2人は、外国渡航歴(1人はアメリカ)のある同性愛者・両性愛者です。
 
男性同性愛者にHIV感染が多いことから、アメリカでは、エイズは同性愛者の権利運動や性の自由・解放を求めた「性革命」に対する「神罰」だという見方がキリスト教保守勢力によりなされましたが、もちろんそういうことではなく、男性同性愛者がおこなうことの多いアナル(肛門・直腸)セックスでは、粘膜に裂傷ができやすいのが感染率が高い理由です。
 
こうして当初は日本でも、HIV/エイズを血友病患者か男性同性愛者の問題だと受けとめる人が多くありました。
 
読売新聞(1985年9月25日)
 
しかし、それからひと月後の次の記事は、厚生省「AIDS調査検討委員会」の「今後、日本のAIDS患者は急増期を迎える」との見方を伝え、まだ男性同性愛者が中心であるものの、次第にHIV感染が身近に迫って来ている様子がうかがえます。
 
読売新聞(1985年10月23日)
 
③売買春(性風俗)でのHIV感染
それから約1年後の1986(昭和61)年11月、記事としては小さな扱いですが、HIVに感染した外国人女性が、感染を知らないまま日本国内で売春をしていたとの報道がなされました。
 
朝日新聞(1986年11月7日)
 
記事によると、9月に観光ビザで「出稼ぎ」のために入国したフィリピン人女性(21歳)が、母国からの報道で自分がHIVに感染していることを知り帰国したいと11月4日に東京入国管理局に出頭しましたが、その間「長野県内数カ所で売春をしていた」とのことです。
 
フィリピン人女性のパスポート写真
(Emma 1987年5月12日号)
 
この女性が本当にHIVに感染しているのか、厚生省はエイズ抗体検査を実施しました。
ところが、その結果を厚生省は公表しないと決めたのです。
 
朝日新聞(1986年11月9日)
 
結果を公表しない理由として厚生省は、「女性のプライバシーなどを配慮し」と言っていますが、女性の個人情報は非公表で良いとしても、感染者だったかどうかまで公表しないというのは理解に苦しみます。
そのように感染の有無を一般には隠しながら、長野県の衛生部には検査結果を通知し、「この女性と接触したとみられる男性には、抗体検査や指導を徹底するよう指示した」というのです。
 
そういう指示を出したということは、女性が感染者であったからだと思いますが、なんとも中途半端な厚生省の対応は、感染報道によってパニックが起きることを恐れた厚生省自体がパニックにおちいり、検査結果を隠蔽したのではと思いたくもなります。
 
それはともかく、それまで血友病治療の血液製剤と男性同性愛が中心だったHIV感染/エイズ発症という問題が、いわゆる「性風俗」へ、さらには異性間の性交渉へと広がったことは、非常に大きな衝撃を日本国内に引き起こしました。
 
そして、今回のブログのタイトルにある「昭和のエイズパニック」の引き金を引いたのが、1987年早々に飛び込んできた次のニュースでした。
 
読売新聞(1987年1月18日)
 
記事にあるように、1987(昭和62)年1月17日、神戸市に住む29歳の女性がエイズを発症したと認定され、重体になっていると報じられました。
 
感染源は、以前に同居していたHIV感染が疑われるギリシャ人男性*ではないかというのですが、彼女はエイズを発症するまで、神戸の繁華街のスナックでアルバイトをしていたほか、売春にも従事して100人以上の男性と性行為をおこなっていたのです。

 *このギリシャ人男性が同性愛行為を行なっていたかどうかは分からず、また同居していたのがずいぶん以前であることから、感染源については厚生省の発表を疑問視する声がある(「Emma」)

 
神戸の女性とされる写真
(Emma 1987年5月12日号)
 
女性から男性への感染リスクは比較的低いと考えられていますが、買春した男性が感染した場合、本人から妻や恋人などへと感染が広がっていく恐れがあります。
 
こうして、特殊な人たちの問題と思われていたHIV/エイズが、家庭の中にも入り込んでくる可能性が出てきたのです。
 
読売新聞(1987年1月18日)
 
当時はバブル景気のまっただ中で、「性風俗」という名の売買春も日本中で活況を呈していました。
 

昭和62(1987)年の「警察白書」には、売春防止法違反の検挙数について、「制定直後に2万件を超えていた売春事犯は、その後逐年減少し、53(1978)年から57(1982)年にかけては4,000件台で推移した。しかし、58(1983)年からは増加に転じ、59(1984)年には15年ぶりに1万件の大台に乗り、60(1985)年には1万1,617件と著しい増加傾向を示した」と書かれています(西暦補記は小川)

 

この件数は、昭和61(1986)年には「警察の厳しい取締りと関係機関、団体等の諸施策の推進により、1万117件と若干の減少を示した」そうですが、翌昭和63(1988)年の警察白書によると、売防法違反の検挙件数は4年連続(1984〜1987年)で1万件を超え(1987年は1万885件)、また上の新聞記事にも書かれているように「性売りものの風俗店の多様化」が進んで、従来の「街娼型」「管理型」が減少する一方、新たに「派遣型」の売春が検挙数でいえば多数を占めるようになっています。

 

このような情況を背景に、売春にも関係していた日本初の女性患者が出たことで神戸では感染への不安が広がり、ニュースで報じられた1月18日だけで合計322人(男性258人、風俗店で働いている人を含む女性64人)が保健所に相談・検査に訪れました。

検査をした人の多くが、「家族に知られたくないので、通知を自宅に送らないで」と頼んだそうです。

 

読売新聞(1987年1月19日)

 
こうした感染不安は、重体だった女性が1月20日に亡くなったことで、さらに広がっていきます。
 
朝日新聞(1987年1月21日)
 
読売新聞(1987年1月21日)
 
神戸市内の性風俗店街は「ゴーストタウンのよう」になり、スナックなどへの客足も遠のきました。
 
実は、日本初の女性エイズ患者の報道がなされた同じ日の紙面に、エイズ治療薬の供給がアメリカで近く始まるという「明るいニュース」も掲載されていたのです。
その治療薬とはもちろん、先に見た満屋裕明さんがアメリカの研究所で開発した抗HIV薬「AZT」(アジドチミジン)です。
 
読売新聞(1987年1月18日)
 

薬品メーカーの強欲と満屋裕明さんの義憤

 

詳細は省きますが、アメリカ国立衛生研究所での満屋裕明さんの「AZT」開発実験に協力していた薬品メーカー「バローズ・ウェルカム社」(現在のグラクソ・スミスクライン社)が、満屋さんの論文を根拠にしながら無断で「AZT」の特許を取得し、年に1万ドルという「アメリカ史上最も高価な薬」として売り出す、まさに人の弱みにつけ込んだ強欲な行動に出たため(上の記事にある、「メーカーは、無料による大量供給体制をとっている」は大ウソ)、義憤に駆られた満屋さんは「AZT」とは別の新たな抗HIV薬の開発に取り組んで成功させ、適切な価格設定を条件にメーカーにライセンスを認めました。

ただ、そうした事情から抗HIV薬の普及にタイムラグができる事態が生じたのです。

 

しかし、この時点ではエイズはまだ「死の病」で、またHIV/エイズについての基礎知識も普及しておらず、神戸で始まったエイズパニックは全国に広がっていきます。
 
読売新聞(1987年1月28日)
 
読売新聞(1987年2月17日)
 
朝日新聞(1987年2月2日)
 
見られるように、性風俗店は客足の激減、その従事者・利用者は感染への不安でパニックになったほか、感染しているのではないかと心配する人が検査目的で街頭献血をするなど、混乱が広がりました。
 

また、最後の朝日新聞の記事にあるように、横須賀など米軍基地を多く抱える神奈川県では、HIV感染を恐れる人たちがいる一方で、米兵と遊ぼうと基地周辺に集まる未成年者を含んだ若い女性たちはまったくの無防備・無関心で、意識の差がかなり大きく見られたようです。

 

次の記事は、「都が開設したテレホンサービスにも、9万件近い電話が入り、身に覚えのある人や夫の行状に不安のある主婦などが、都立病院の窓口にも殺到するなど、エイズはパニックの様相を示し始めた」と書いています。

 

読売新聞(1987年2月2日夕刊)

 
サムネイル

小川里菜の目

 

パニック状態とは、なんらかの理由により感情や行動などの調整が難しくなり混乱した状態のことで、不安や怒りなどなんらかの情動が抑えられなくなり、癇癪(かんしゃく)や泣き出す、自傷行為、破壊行動などが生じることがあります(「ハッピーテラス」の解説参照)

 

パニック状態(以下、パニック)には、個人でなる場合もあれば、集団でなる場合もあるでしょう。

 

HIV/エイズが引き起こしたパニックにも個人と集団の両方があったようですので、それぞれ例をあげて見てみましょう。

 

①個人のパニック

 

朝日新聞(1986年8月10日)

 

これはアメリカの例ですが、ロサンゼルス近郊で、最近体調がよくないと感じていた20歳の男性が、恋人(女性)と一緒にHIVの検査を受けました。

 

検査結果は2人とも陰性だったのですが、それでも男性は恋人からHIVを移されたと思い込み、カッとなって彼女を殺してしまったという事件です。

 

こうした思い込みによるパニックで起きた悲劇は、日本でもありました。

 

朝日新聞(1987年5月1日)

 

東京都江東区に住む36歳の女性は、1987年1月ごろから体重が減ったり微熱が出るなど体調を崩し、「エイズ(正しくはHIV)に感染したのではないか」との不安にかられて、3月下旬に近くの病院で検査を受けたそうです。

 

検査結果は異常なしだったにもかかわらず、女性は「医者が感染を隠しているのでは」と安心できず、さらに夫や子どもまで寝起きが悪い、体がだるいと言い出したため、家族全員が感染したのではないかと思い込み、医学書を読みあさるなどしていたようです。

 

不安が解消されないまま、「死ぬよりほかない」と思い詰めた女性は一家無理心中をはかり、4月30日の早朝、眠っていた子ども2人を包丁で刺殺し、夫にも重傷を負わせてしまったという悲劇です。

 

②集団のパニック

アメリカでの事件の記事の最後にも、「学童患者の登校阻止や救急車による患者搬送拒否などヒステリックな現象が起き、大きな社会問題になっている」と書かれています。

 

このような集団のパニックは日本でも起きていました。

 

読売新聞(1987年2月9日)

 

上の記事が取り上げているのは、先に見たHIV感染が疑われるフィリピン人女性が売春をしていたとされる長野県松本市での「エイズパニック」です。

 

問題のフィリピン女性が「長野県内のナイトクラブで働いている可能性がある」と報じられ、それが松本市内のナイトクラブだと分かると、県や市、保健所や警察などに問い合わせが殺到したそうです。

さらに、「女性の名も店名も一切公表しなかったことから不安が憶測が呼び、根も葉もないうわさが飛び交い始めた」と記事は伝えています。

 

歓楽街の客足がぱったり途絶えたのは言うまでもありませんが、それだけでなく、次のような過剰反応とも言うべき「ヒステリックな現象」が起きたそうです。

 

・クラブによく行っていた人の子どもが、「お前のお父さんはエイズだ」といじめられた

・男子従業員が風邪をひいたのを発端に、従業員たちが社員食堂に食器やはしを持参するようになった

・治療の途中で歯科医院に行くのをやめた

 

フィリピン人女性たちに対しては、

・あからさまに避けて通る

・店で商品に触ろうとしたら、店員が「ドントタッチ(触るな)!」と手をはたく

・おつりを投げてよこす

・入店を断る

などの行為があったそうです。

 

さらに、これは福島原発事故やコロナ禍でも起きたことですが、

・松本市の野菜を積んだトラックが東京の市場に入れてもらえなかった

・長野県の人間だという理由で、観光地での宿泊を拒否された

・松本市の観光業者が、県外に団体客を連れて行く時、町名を偽って宿泊を申し込む「自主規制」をした

 

長野/松本の「エイズパニック」は、県内から2次感染者が出なかったこともあって3ヶ月ほどで落ち着きを取り戻したそうです。

 

こうした出来事からも、信頼できる機関がその時々に必要とされる正確な知識と情報を、マスコミにも協力を求めてすみやかに広め、憶測や思い込みからくる人びとの不安を払拭する努力が何よりも重要だとあらためて思いました。

 

また、以前取り上げた豊川信用金庫のデマ事件から学んだように、私たち一人ひとりにおいても、根拠のはっきりしない情報(特に、恐怖などの感情に強く訴える表現・内容のもの)を、たとえそれが家族や友人から聞いたうわさであっても簡単に信じるのではなく、そういう時こそより確かな情報を自分から探すなどの冷静な対応が求められると、あらためて肝に銘じた小川ですショボーン

 

こちらがアメブロです↓

 

こちらがYouTubeです↓

 

 

 

 

 

七夕🎋の本日(7月7日)はお昼から出勤だったので、10時のオープンと同時に大丸神戸店で開かれている「昭和レトロ展」に急いで行ってきましたニコニコ

 

 
会場では、昭和30年代の商店や、
 

 
昭和の茶の間が再現されていました。
 

 
喫茶店のテーブルには、ビデオゲームが組み込まれているものもあったのですねおねがい
 

 
岐阜の飛騨高山にある「高山昭和館」という昭和グッズの専門店や、神戸・元町の「ポエム」というレトロ喫茶店(小川は時間がなく入れませんでした)も会場内で営業していました。
 

 
レコードや映画のポスターなどもたくさん展示されていましたラブ
 

 
こちらは、1990年代に大丸神戸店の顧客案内係さんが実際に着用していた制服です。
 

 
今回もお読みくださり、ありがとうございます。
次回もどうぞよろしくお願いしますドキドキ

 

戸塚ヨットスクール事件

 
    

前回のブログで、次もリクエスト企画にしますと言いましたが、図書館が2週間休館になっていて新聞記事を取りに行くことができませんでしたえーん

その間に、以前に書いたブログと家にある資料をもとにもう一度「戸塚ヨットスクール事件」について書き直しました。戸塚ヨットスクールを知らない世代の方たちにも読んでいただきたく、今回は1回でまとめていますおねがい

 

朝日新聞(1983年6月14日)

 

【戸塚ヨットスクール事件とは】

愛知県でPTAが率先して学校での体罰の合法化を求める運動を行なっていた1982(昭和57)年、同じ愛知県の知多郡美浜町に戸塚宏が校長となって設立した「戸塚ヨットスクール」では、訓練生が行方不明になったり死亡する事件が相次いで起きていました。
 
今も根強い愛知県PTAの体罰容認論
愛知県小中学校PTA連絡協議会「愛知のPTA」
2020年4月号に載せられた同連理事の投稿 
 
まず同年8月14日未明、奄美大島で行われた同スクールの夏合宿の帰りに、水谷真さんと杉浦秀一さんという2人の高校生(当時15歳)が、高知県沖の太平洋を航行中のフェリー「あかつき」から海に飛び込んで*行方不明になりました。
捜索もむなしく遺体さえ見つからなかったため、失踪者としてのちに死亡したものと認定されました。
 *遺族の中には、戸塚関係者に突き落とされたのではないかとの疑念を持つ人もいる
 
朝日新聞(1982年8月16日)
 
名古屋高裁の判決文には、「あかつき号事件は、15歳の水谷及び杉浦に対し、暴行を加えて合宿所へ連行し、合宿所の格子戸付き押し入れに収容したり、奄美大島の夏期合宿施設へ連行し、現金を持たせず、手紙の発信や電話通信も一切禁止し長期にわたり見張って行動の自由を制限し、ついに奄美大島からの帰途フェリーから海に飛び込んだ二人を死亡させた悪質重大な事件であり、若年の二人が広い海に飛び込んででも逃走しようとまで思い詰めた胸中は察するに余りある。」と書かれています。
 
さらに、「問題児」ではなく身体を鍛えたいと特別合宿に参加中の小川真人君(同13歳、中学1年生)が、ヨットの上で角材で殴られたり海に何度も突き落とされる暴行の末、食事も喉を通らない状態にもかかわらず放置されて同年12月12日に亡くなりました。
 
小川真人君
 
 
前記判決文によると、「小川君は、戸塚ヨットスクールに入校前には心身に日常生活に支障が生ずるような異常はなかったのに、入校後到底こなせない早朝体操及び海上訓練を押し付けられ、被告人戸塚ら七名から多数回にわたり暴行を受けて身体表面に損傷を、体内の臓器にも多数の損傷を受け、食事も摂取できないほどに衰弱したのに、なおも一二月一二日早朝体操及び海上訓練を押し付けられた上暴行も加えられ、体温も低下し、意識も混濁して倒れ、常滑市民病院に搬入され懸命の救命措置が取られたが及ばず、被告人らの暴行による外傷性ショックにより死亡した」とされています。
 
真人くんの棺にとりすがる母の園子さん
(「FOCUS」1982年12月24・31合併号)
 
朝日新聞(1983年10月31日夕刊)
 
それらの事件に先立って戸塚ヨットスクールでは、1979(昭和54)年に腹痛を訴える13歳の少年を医師に診せることもせずに暴行し、訓練を強制して死亡させています。
 
読売新聞(1979年2月25日)
 
さらに、1980(昭和55)年には吉川幸嗣さんという21歳の青年に激しい暴行を加えた末、外傷性ショックにより死亡させています。
 
吉川幸嗣さん
 
読売新聞(1980年11月4日夕刊)
 
吉川さんの暴行死の経緯について、高裁判決文は次のように述べています。
 
「吉川さんは、戸塚ヨットスクール入校前には健康状態に格別異状もなく、入校後インフルエンザにり患していたこともないのに、一〇月三〇日正午ころ新人迎えの暴行を受け、同日夕方強制的に入校させられ、その後一〇月末及び一一月初めの寒風下で到底こなせない量の早朝体操を強要され、それができないために被告人らにひどく殴打足蹴りされ、海上のヨット訓練に興味を示さず指示に従おうともしなかったため、その都度被告人らにひどく殴打足蹴りされ、その他の訓練の機会にも反抗的な態度を取ったとしてひどく殴打足蹴りされ、その影響により次第に体力を減退消耗し、食事も摂取できなくなり、一一月二日昼から意識も混濁して体温も低下し、翌三日は早朝体操も海上訓練もしないで合宿所内で寝ていたが、他の者が話し掛けても意識がもうろうとした状態となり、同日午後一一時ころ脈拍が確認できないほどになり、異常に気付いたコーチらにより平病院*に自動車で運ばれたものの、その途中の同月四日午前零時ころ死亡し、体表には多数の損傷を、体内の筋肉、肺、心臓、腎、副腎等の臓器にも損傷を残している。これらを総合すれば、吉川さんは、インフルエンザによる出血性肺炎で死亡したものではなく、被告人戸塚ら六名の新人迎えの際の暴行や寒風下で早朝体操及び海上訓練を強制される過程で繰り返し加えられた暴行の結果、外傷性ショックによりついに死亡するに至ったものと認定することができる。」
 *コーチらは、近くにある常滑市民病院ではなく、わざわざ車で小一時間もかかるスクールと提携する平病院に運んだ
 
なお、ここで「新人迎えの暴行」と書かれているのは、入校を嫌がる子どもらをスクール関係者や支援者が、暴力的に拉致監禁してヨットスクールに連れ去ることで、戸塚らが逮捕されるまでは普通に行われていました。
 
朝日新聞(1983年8月3日)
 

こうして、4年間で5人もの死亡者・行方不明者を出したことから、病死とされて不起訴となった1979年の事件以外の4人について、戸塚宏校長とコーチら計15人が、傷害致死傷、監禁致死、暴行、強要などの罪で逮捕・起訴されました。

 

逮捕・連行される戸塚宏

(『FOCUS』1983年6月24日号)

 
【カリスマになった戸塚宏】

1940(昭和15)年に生まれた戸塚宏の経歴について、『戸塚ヨットスクールは、今』(東海テレビ取材班、2011)には次のように書かれています。

 

 朝鮮の清津で出生*し、終戦後、両親とともに日本に引き揚げた。父親はセメント会社の重役で、裕福な家庭に育った。

 子どものころは、勉強のできる優等生。性格はおとなしく、両親から叱られた記憶はないという。

 一九五九年、名古屋大学工学部に進学。そこでヨットと出会う。(中略)

 ヨット漬けの大学時代。四年生の時には主将を任された。練習は厳しく、真冬の海の航海に備え、冬でも半そでに短パン。下駄を履いて、体を鍛えた。

 *戸塚自身はなぜか、九州の八幡で生まれたと、あるネット番組の中で語っています(小川)

 

裕福な家庭で親に叱られることもなく育った、おとなしい優等生の戸塚宏……。

小川の推測ですが、甘やかされて育った「精神力」のひ弱な自分に抱いていたコンプレックスを、ヨットと出会い自らを厳しく鍛えることで克服して、自分に揺るぎない自信を持つことができたと思ったのが、彼の生き方・考え方(信念)の原点となった成功体験なのではないでしょうか。

 

さらにその後のヨットマンとしての栄光が、その信念を不動の確信にまで高めます。

 

彼が一躍有名になったきっかけは、1975〜76(昭和50〜51)年、沖縄海洋博覧会記念に開催された「サンフランシスコ〜沖縄間太平洋単独横断ヨットレース」に参加し、有名な海洋冒険家でヨットマンの堀江謙一さんらをおさえ、ぶっちぎりの優勝を成し遂げたことでした。
 
朝日新聞(1975年1月5日)
 
それを機に戸塚は、自分に続けとばかりに、1976年に子どもたちをオリンピック選手に育てることを目指した「戸塚ジュニアヨットスクール」を全国6箇所で開設しました。
その拠点となったのが、愛知県知多郡美浜町の施設(合宿所)です。
 
戸塚ヨットスクール株式会社の本社/合宿所
(2019年撮影)
 

ところが開校してまもなく、「たまたま登校拒否の子がまぎれこんできて、その子が良くなった」(同スクールHPの「Q&A」)ことから、戸塚ヨットスクールの訓練を受けると「情緒障害児*」の問題行動が「直る」という評判が立ち、全国紙がこぞって大きく取り上げたことから、スクールの目的が、当初のオリンピック選手育成から大きく変わっていきました。

 *「情緒障害」は医学的な診断名ではなく普遍的な定義もありませんが、教育においては「周囲の環境から受けるストレスによって生じたストレス反応として状況に合わない心身の状態が持続し、それらを自分の意思ではコントロールできないことが継続している状態」(文科省)の意味で使われます。戸塚宏はこの「情緒障害」に、不登校や家庭内暴力からアトピーなどのアレルギー性疾患まで広く含めて用いています

 

朝日新聞(1977年1月26日)

 

読売新聞(1978年4月2日)

 
自らの体験と信念(持論)に基づくだけで、医学・生理学や教育学などの専門知識は何もない戸塚でしたが、問題を抱えた子どもたちを「特別な訓練」で立ち直らせることのできるカリスマ的な教育実践者であるかのようにマスコミが取り上げたことで、家庭内暴力や当時の言い方では「登校拒否」などの子どもを抱え悩める親たちが、全国から「藁をもすがる」思いで駆け込むようになったのです。
 

【ヨットスクールの訓練】

それでは、戸塚ヨットスクールに入った訓練生たちは、戸塚やコーチたちからどういう「訓練」を受けさせられていたのでしょうか。

 

1982(昭和57)年、雑誌『FOCUS』4月16日号が、「先生、死にたくないんです! 戸塚ヨットスクール〝しごき〟の現場」という記事を掲載しています。

 

 

1982年には、先に書きましたように、2人の高校生が夏合宿の帰りにフェリーから太平洋に飛び込んで行方不明になった「あかつき号事件」と、年末には中学1年生が激しい暴行の末に亡くなる事件が起きています。

 

しかしこの記事は、取材のなされたのがそれらの事件が起こる前で、戸塚ヨットスクールの訓練を少しやり過ぎがあるかもしれない「荒療治」としながら、「受講費を50万円も払って、子供達に、これほどの辛い思いをさせなければならないほど、家庭は荒廃し、学校は無力になっているのだろうか」と、家庭と学校の問題の方に読者の目を向けさせています。

 

ですからこの記事は、基本的に戸塚らスクール側の主張を肯定的に伝える内容になっていますが、スクールでの訓練生たち*の生活と訓練の様子を次のように書いています。

 *この取材時にスクールには、小児マヒの青年から小学1年生の女子まで、40人ほどの訓練生がいました

 

まずスクールでの生活ですが、40人が食事や寝起きをするのは、「古ぼけた公民館の2階の40畳ほどのたたみ部屋」で、「テレビはおろかマンガ一つ与えられ」ず、食事がすむと「お互い口もきけないほどグッタリして」おり、「階下へ行くときはコーチの許可」が必要で、さらに「脱走の危険のある者が6人、押し入れに寝かされ、外からは釘が打ちつけられる。夜中には、ウメキ声に近いすすり泣きが聞こえた」そうです。

 

そして、訓練については次のように書かれています。

 

 朝6時起床、すぐに浜に出て柔軟体操が始まり、腕立て伏せなどが何十回とくり返される。少しでも気をぬく子がいると、コーチのバ声が飛ぶ。(中略)コーチに腹を踏みつけられ悲鳴をあげている者もいた。(中略)

 休むまもなくヨット訓練である。風にあおられ、転覆するヨットがあいつぐが、誰も助けにいかない。「死にたい」と言い続けて親をこまらせた自閉症の子供などは、足げにされ海へ突き落とされる。這い上がろうとするとバケツで海水が浴びせられる。救命具をつけているので溺死することはないが、生命の危険を感じ、「助けてください。死にたくないんです!」と叫びつづけている。

 

書かれているように訓練は、過酷な種目が組まれた早朝体操*と、後述する海上でのヨット訓練がメインで、どちらにおいても課されたメニューができなかったり、やる気がないと見なされたり、戸塚やコーチに反抗的な態度を取っていると思われると、容赦ない暴力的制裁が課されました。

 *体力や健康状態を考慮せず、約1時間にわたりランニング、腕立て伏せ、腹筋、背筋、スクワット、握力の運動を強制した

 

殴る蹴るは当たり前で、それ以外の暴力を高裁判決文から拾うと、次のようなものです。

・ランニングをしている訓練生の背部および頭部等を竹の棒で殴打する

・腕立て伏せをしている訓練生の身体を棒で殴打する

・ホースで訓練生の頭から水をかける

・海岸付近で訓練生の頭をつかんで、顔を海水に漬ける

・訓練生をヨットから海に突き落とす

・海に浮いている訓練生を目掛けて足から飛び込むようにして訓練生の身体を海中に沈める

・逃走しようとした者たちに激しい暴行を加え、夜間は手錠とロープで柱に縛りつけ、日中も必要に応じて手錠をかける

 

朝日新聞(1983年6月12日)

 

ヨット訓練については、「風にあおられ、転覆するヨットがあいつぐ」と上の記事に書かれていますが、これは初めから意図されたものでした。

 

先に述べたように、一流のヨット選手の育成から非行や家庭内暴力など社会に不適応な「情緒障害」児たちを「直す」ことへとスクールの目的を転換した戸塚は、そのためにわざと転覆しやすい訓練用ヨット「かざぐるま」を考案したのです。

 

すぐに転覆する「かざぐるま」

 

けれども転覆のしやすさは、「失敗から学ぶ」と言われるような、ヨットの操法をよりうまく習得するために考案されたものではありません。

 

わざと投げにくくしたボールや打ちにくくしたバットで野球の練習をさせるようなことが、効果的な練習方法とされている例などないのです。

 

ところが戸塚ヨットスクールでは、意図的に転覆しやすくしたヨットに、簡単な説明をしただけの初心者をいきなり乗せる「訓練」を、彼が言うところの「情緒障害児」に課しました。

 

そのようなことをしたのは、後で述べるように、生命の危機に直面することで初めて人間は、衰弱した本能(生命力)を回復させることができるという考え方が戸塚にあったからで、生きるか死ぬかの恐怖を体感させるには、安全性に配慮した操船しやすいヨットではダメなのです。

 

こうして戸塚は、転覆しやすくしたヨットに初心者を乗せ、海に投げ出され溺れかけさせるだけでなく(救命具をつけさせているので、それだけではまだ甘い)、這いあがろうとするとバケツで海水をぶっかけ、足蹴にして海に突き落とし、船に上がればヨットの用材で殴り腹を踏みつけ、その結果、高熱を出したりひどい腹痛で苦しんでも医者に診せず放置する——、そのようにして、文字どおり「生きるか死ぬかの瀬戸際」にまで訓練生たちを追い込むことで、自分の力で生きようとする本能(根性)を活性化させようとしたのです。

 

このような常軌を逸した暴力的な「訓練」によって、形の上では暴行死であれ自殺であれ病死であれ、現実にも生死の境を超えて生命を落としてしまう犠牲者を何人も出したというのが、戸塚ヨットスクール事件の核心なのです。

 

それでも戸塚やその信奉者たちは、自分たちの考え方や行動、スクールの訓練法に問題があったとは一切認めず、たまたま死者が出たのは訓練生の「本能=生命力」を過大に評価して、「しごき」のさじ加減を誤った「業務上過失致死」に過ぎないのだから、遺族への損害賠償に応じたことで責任は果たしたという態度を、今に至るも取っているのです。

 

【裁判とその後】

先にも書いたように、病死とされて不起訴となった1979年の少年の死を除き、訓練生4人の死の責任を問われ、戸塚宏とコーチら計15人が逮捕・起訴されました。

 

 

そのうち戸塚と8人のコーチに対し、名古屋地裁の小島裕史裁判長は1992(平成4)年7月27日の判決公判で、被告らに傷害致死罪・監禁致死罪の成立を認め、戸塚には懲役3年・執行猶予3年(求刑は懲役10年)を、コーチらには懲役1年6月から2年・執行猶予2年から3年を言い渡しました。

 

 

全員に執行猶予がついた一審判決に、小川君の両親ら遺族は悔しさを隠せませんでした。

 

しかし一方の戸塚は、ヨットスクールが検察の主張する「暴力的な営利集団」ではなく、「教育、治療目的のスクール」だと裁判所が認めたことで、「そこが一番言いたかったこと。うれしかった」と勝訴したかのように喜びを表したそうです。

 

被告らが実刑にならず、検察の求刑から大幅に軽い判決となったのは、裁判の長期化で起訴後の未決勾留期間が長くなっていた(戸塚で約700日)ことに加え、戸塚らの行為は「教育、治療」という善意の動機からだったと裁判官が評価したためではないか思われます。

 

これに対して検察側と戸塚ら6人が名古屋高裁に控訴しました。

 

控訴審では、戸塚ヨットスクールは「教育・治療目的」のスクールで、被告らの行為は教育的なものだったのかなどについて争われました。

 

1997(平成9)年3月12日、名古屋高裁の土川孝二裁判長は、「訓練は生徒達の人権を無視し、更生の名目で数々の暴力を振るった。もはや教育でも治療でもない」と一審の判断を否定して判決を破棄し、あらためて戸塚に懲役6年の実刑を、コーチのうち3人にも懲役2年6月、3年、3年6月の実刑判決を言い渡しました(他のコーチは執行猶予付)

 

朝日新聞(1997年3月13日)

 

戸塚と実刑判決を受けたコーチ3人は最高裁に上告しましたが、2002(平成14)年2月25日、福田博裁判長は被告の上告を棄却したことから、二審の判決が確定しました。

 

2006(平成18)年4月29日に静岡刑務所を満期出所した戸塚宏は、事件はスクールを潰すためのもので、自分やコーチは無実で教育に体罰は必要との持論をあらためて強調し、かつてのやり方の一部を不本意ながら封印しつつ、戸塚ヨットスクールを続けていくことを宣言しました。

 

その後、訓練それ自体による死者は出ていないものの、2009(平成21)年10月19日に入所して3日目の18歳の女性が戸塚ヨットスクールの寮の3階から飛び降りて死亡したほか、自殺や自殺未遂者が2006年、2011年、2012年と出ています。

 

戸塚ヨットスクールは現在も営業を続けていますが、ホームページによると2024年現在、新規入校募集はおこなっておらず、社会人や乳幼児向けの催しのほか、戸塚は講演会やセミナー、執筆などを中心に活動しているようです。

 

 

サムネイル

小川里菜の目

 

【浅く粗雑な精神論・根性論】

戸塚宏はヨットスクールでおこなった暴力的訓練法を、「脳幹論」と称する「理論」で正当化しています。

 

しかしそれは、日本児童青年精神医学会が2015(平成27)年4月12日付で「戸塚宏氏ほか『私の脳幹論』に関する理事会声明」(https://child-adolesc.jp/proposal/2015-04-15/)を出し、「「脳幹論」を根拠に行われる戸塚氏のトレーニングは、単に非科学的であるにとどまらず重大な人権侵害」であると批判しているように、とても科学的理論と言えるようなものではありません。

 

時代背景を見ると、戸塚が大学でヨットに打ち込んでいたのは1959-1963年と思われますが、1964(昭和39)年の東京オリンピックを機にいわゆる「スポーツ根性」論*が社会に広まります。

 *女子バレーボールを金メダルに導いた「鬼の大松」こと大松博文監督の過酷な「特訓」が賞賛され、「根性」という言葉がスポーツ界だけでなく一般社会にも普及します。1965(昭和40)年からは「スポ根」漫画の元祖と言われる梶原一騎「巨人の星」の連載が始まり、戸塚宏の有力な支援者となる石原慎太郎が『スパルタ教育』を出版したのは1969年のことです。

 

『昭和40年男』vol.60(2020年4月号)表紙

 

当時広まっていたこうした社会意識を背景に、戸塚自身のヨットでのトレーニング体験を後から「理屈」づけたものが「脳幹論」という一種の根性論です。

 

戸塚の「理屈」は経験的で、それだけに分かりやすく単純です。

 

たとえば、筋肉は負荷をかけて鍛えれば強くなり、逆に使わなければ弱まります。

 

また、「火事場の馬鹿力」と言われるように、動物は生きるか死ぬかの瀬戸際に置かれると、死に物狂いでふだんは発揮していない力を出すことがあります。

 

この2つの経験的事実を、イメージ(連想)によってつなぎ合わせると、次のようになります。

 

つまり、現代の便利で安楽な生活に慣らされ、しかも親に甘やかされて育った子どもにおいては、動物が本来持っている「本能」としての生命力(それを司るのが「脳幹」という脳の器官)が弱まっており、その結果、無気力(不登校や引きこもり)になったり逆に粗暴(非行や家庭内暴力)になったりと、異常な行動(不適応症状)をとるようになるのです。

 

このように、「安楽な環境で甘やかすほど人間は弱くなる」のであれば、その逆の「命の危険を感じるような環境で厳しくするほど人間は強くなる」ということになります。

 

しかし、筋力トレーニングを考えても、ただ負荷を強くかければかけるほど鍛えられるというような単純なものではないでしょう。

子どもを心理的・精神的に圧迫し追い詰めれば、強靭な精神力の子どもに育つとでも言うのでしょうか。

 

科学的トレーニング法ならば、まず本人の心身の状態を的確に把握し、課題と目標を定めた上でトレーニング計画を立て、その時々の状態をモニターしながら手順に沿ってトレーニングを進めていく計画性と慎重さがなければ、良い効果を生むことは不可能でしょう。

 

ところが、「生きるか死ぬかの瀬戸際に立たされれば、甘い考えなど吹き飛んで自分で生きる力がよみがえるはずだ」という戸塚の乱暴きわまるやり方は、辛いことが重なって死にたいと思いつめている人に対して、「死ぬ気になれば何でもできるはずだ、甘ったれるな!」と一方的に叱責し殴りつけるようなものです。

 

先にこのブログで取り上げた「東京農大ワンダーフォーゲル部死のしごき事件」(1965)では、無理な山行で疲労困憊している新入生に監督や上級生たちが、「たるんでいる」「気合を入れてやる」と殴る蹴るの暴行を加え続けたあげく、死者1名、重軽傷者多数を出しましたが、そこには限界まで追い詰めることで心身が強く鍛えられるという、戸塚ヨットスクールにそのまま重なる、浅はかで粗雑な精神論・根性論があるように小川は思います。

 

 

戸塚の単純な思考がよく現れているのは、問題を簡単な二元論に還元するところで、たとえば「ほめるか叱るか」という二元論です。

 

戸塚自身の育った裕福な家庭ではそうだったのかもしれませんが、彼にとって「ほめる」とはただ「甘やかす」ことであり、「子どものわがままを何でも聞きいれる」ことなのです*。

 *戸塚はあるネット番組で、千円の品を万引きした子どもに対して、横にあった千五百円の品を盗らなかったのはエライと言うのが「ほめる教育」だと批判していますが、そんな馬鹿げた「ほめる教育」を説いている人などどこにいるのでしょうか

 

子どもが持つ、本人もまだ知らない良き資質・能力(可能性)をいち早く見抜いてそれに気づかせ、勇気を奮って一歩前に踏み出そうとする時にはそっと背中に手を添えて励まし、それがうまくいけば共に喜び、失敗して自信を失った時にはその悲しさや悔しさに寄り添って立ち直りを支える——それ以外の「ほめる」行為を小川は思い当たりません。

 

「ほめる」と「叱る」は、戸塚が考えているように「あれかこれか」の関係にあるのでは決してなく、どちらもが適切になされてこそそれぞれの効果を発揮するのです。

 

戸塚にそれが理解できないのは、「ほめるとは単純な肯定(全肯定)」で「叱るとは単純な否定(全否定)」と思っているからです*。

 *知性が乏しい人の議論の特徴は、すぐに「全肯定」(すべて良い)か「全否定」(すべて悪い)かという単純な二者択一で論じるところにあります

 

本来の意味での「叱る」とは、「批判」であって「否定」ではありません。

つまり「批判」するとは、相手の問題点を指摘すると同時に、その問題点を克服する可能性が相手にあることを示す(少なくとも、問題克服の可能性があることに目を向けさせる)ことなので、否定と肯定の両面を含むものなのです。

 

なお小川は、以前に書いたブログ「昭和に起きた教師・指導者による暴力事件① 容認され、美化されてきた「体罰」という名の暴力」で、「体罰=暴力」についての小川の考えを述べていますので、よろしければこちらもぜひお読みください。

 

 

【訓練の「効果」】

監禁・傷害致死で逮捕される前年に戸塚宏は、「親も先生もカウンセラーも放りだした〝問題児〟を、すでに500人、文字通りたたき直して親もとに送り返した」と「たいへんな自信で語っていた」そうです(『FOCUS』1982年4月16日号)。

 

このように、①誰もが見放した「問題児」を自分は引き受けた、②そして彼らを現に直した実績が自分にはある——これが戸塚の自己正当化の二つの根拠です。

 

『知恵蔵 2007』(朝日新聞出版局)をベースにしたウェブ版『知恵蔵』には、戸塚ヨットスクールは「登校拒否、無気力、非行、家庭内暴力などの問題を抱える生徒を今までに700人以上受け入れ、約600人を更生させてきたということで有名」強調は小川)だと、何の根拠も示さずに書かれています。

 

もしこの数字が本当なら、85%を超える驚異的な更生率ですから、戸塚への賛否は別として、多くの研究者・教育者が注目せざるを得ないはずです。

しかし、戸塚ヨットスクールについての実態調査や、立ち直ったとされる訓練生の追跡調査がなされた形跡はまったくありません。

 *「戸塚ヨットスクールでは、(中略)訓練後の訓練生らの動向を系統的に追跡調査もしていない。」(高裁判決文)

 

ただ小川は、戸塚のいう立ち直りの話がすべて架空のものだと言っているわけではありません。

 

一口に「登校拒否、無気力、非行、家庭内暴力」といっても、当事者が抱える問題の諸要因も、本人の生育環境や性格もいろいろですから、立ち直り*のきっかけやそのつかみ方は人によってさまざまでしょう。

 *何をもって「立ち直り」と言えるのかという、より根本的な問題については、ここでは踏み込みません

 

ですから、宗教団体の宣伝冊子が「救われた」人の体験談で溢れているように、戸塚ヨットスクールの訓練のおかげで立ち直れたと言っている人がいても不思議ではありません。

 

また、戸塚らの「指導」に従順でヨットの操船も要領よくできた訓練生の中には、大して殴られることもなく「番外生」として取り立てられ、訓練生に対し暴力を振るう側に回った者たちもいましたが、彼らは「立ち直れた」人にカウントされていることでしょう。

 

朝日新聞(1983年7月25日夕刊)

 

【個人に還元できない問題の根と広がり】

一部の人は、戸塚宏は暴力を振るうことに喜びを感じるサディストだとか精神病質者(サイコパス)だと人格攻撃をしますが、小川はそれには同意しません。

 

確かに「事件」以後の戸塚は、体罰必要論を前面に押し出し、事件の犠牲者たちはまるで取るに足らない「大事の前の小事」であったかのように、傲慢な態度で責任転嫁と自己保身に終始するようになります。

 

そのような戸塚から小川は、人間として、ましてや教育者として最も重要な「生命への畏敬」の念を、微塵も感じることができません。

 

読売新聞(1983年6月14日)

 

だからと言って、自分の好きなヨットの訓練で困難を抱えた子どもたち親たちを救うことができるなら……という戸塚の当初の善意まで全面否定する必要はないのです。

とはいえ、幹部コーチらの次のような供述を読むと、そもそも「善意」など彼らにはなかったのではないかとさえ思われてくるのですが……・

 

読売新聞(1984年8月30日)

 

しかしそこは百歩譲って戸塚のやろうとしたことが「善意によって敷き詰められた道」だったとしても、誤った道である以上、それは「地獄に通じる」しかなかったのです。

 

もちろん、戸塚個人を問題にするだけではこの事件を矮小化することになります。

 

少年非行、家庭内暴力、不登校、引きこもりなど、たくさんの「問題」児が生み出された時代状況、戸塚とそのヨットスクールを、わずかな例と「評判」だけで無批判に救済者に祭り上げ、死者が出ると手のひらを返したマスコミの無責任、藁をもすがる思いで子どもをヨットスクールに預けなければならなかった親たちや預けられた本人の苦悩・苦痛、一言でいうなら当時の社会が抱えた「闇」にも、批判の目を向けなければならないでしょう。

 

朝日新聞(1983年6月15日)

 

子どもたちが見せる「問題行動」は、「怠け」や「甘え」といった「個人の問題」で片付けられるものではありません。

 

臨床心理学の香川克さんが不登校について、「この時代、戦後日本社会がずっと続けてきた経済的な成長がストップし、右肩下がりの状況が初めて生まれた。1990年代から2000年代にかけて、経済成長なき社会の中で子どもたちは育っている。成長なき社会の中では、成長を支える様々なシステムや暗黙の価値観が機能不全に陥っている。その中で、学びから逃走し、学校から脱落し、方向を喪失する子どもたちが出現してきているということになるのであろうか」(「不登校の状態像の変遷について——方向喪失型の不登校という新しい型」2012)と問題を投げかけているように、学校など日本の社会的諸制度が時代の変化に不適応な状態になっているという大きな問題と、子どもたちが示す社会への不適応症状とは、決して切り離しては考えられないものです。

 

「さまよえる子どもたち」に対しては、社会が抱える大きな問題と個別の問題を結びつけながら、子どもたち一人ひとりに即した適切なケアが必要なのですが、家庭も学校も機能不全に陥っている中で、教育というよりも「体罰=恐怖をテコにした調教」と言うべきトレーニングで鍛え直して見せると豪語するカリスマ的指導者しか「問題児」の受け皿がないかのように思われた「時代の悲劇」として、戸塚ヨットスクール事件はあったのではないでしょうか。

 

そして、そうした状況は今に至るも未解決のままに私たちの目の前にあるのではないかと懸念する小川ですショボーン

 

 

久しぶりに戸塚ヨットスクールの本や新聞記事を読みながら、ドロップビーズをつかってブローチを作ってみました。

はじめてのブローチ作りは、とても難しかったです🥲

サムネイル

 

 

こんな風にできました🩵

 

 次こそはリクエスト企画にしますニコニコ

次回もよろしくお願いします飛び出すハート

 

【リクエスト企画】

女子高生

コンクリート詰め殺人事件

1988年ー1989年

 

    

今回はリクエスト企画です。

この事件が起きたときに小川は生まれていませんので、リアルタイムには事件を知りません。
また、あまりにも有名な事件で、すでに多くの方が取り上げておられるため、この事件について今さら自分に何が書けるのだろうかと思い、あえて触れることを避けてきましたが、リクエストをいただきましたので、小川なりに書いてみようと思いました。

 

読売新聞(1989年3月31日)

 

被害者の古田順子さん

 

この事件は、当時17歳の高校3年生だった古田順子さんが、不良少年グループに拉致されて、メンバーの自宅の一室に41日間にもわたって監禁され、その間に筆舌に尽くしがたい残酷なリンチと性的暴行を受けてついに命まで奪われ、遺体をドラム缶にコンクリート詰めされ遺棄されるという、日本の犯罪史上にも稀に見る残虐非道なものです。

 

まず事件の概要を見ていきますが、すでに報じられていることにつけ加えた新情報は特にありませんので、事件について知っておられる方は流し読みしてくださればと思います。

 

また、被害者が受けた想像を絶するリンチ・性的暴行・虐待についての詳細かつ生々しい記述は控えます。

 

さらにこの事件では、犯行時にいずれも未成年だった加害者たちの実名報道の是非についても大きな議論の的になりました。

 

少年法61条は、少年のとき犯した罪について、氏名、年齢、容ぼう等により当該事件の本人と推知できるような記事又は写真の出版物への掲載(「推知報道」) を禁止していますが、2022(令和4)年4月の少年法改正によって、18歳以上の「特定少年」については、逆送(保護処分ではなく刑事罰を課すべきものとして家庭裁判所から事件が検察官に送られること)されて起訴された段階から、「推知報道」が解禁されることになりました。

 

 

この事件でいえば、逆送された4人のうち、裁判所の文書でAとされた主犯格の少年(当時18歳)がそれに該当します。

 

他の3人、 B(同17歳)、C(同16歳)、D(同17歳)は、改正少年法でも「推知報道」は解禁されていませんが、いずれも起訴されただけでなく有罪が確定し実刑判決(懲役刑)が下されていること、被害者への加害行為があまりにも残虐非道であるだけでなく、事件後の彼らの行動を見ても誠意をもって被害者や遺族への謝罪・贖罪に努めているとは思えないこと、更生どころかD以外の3人は再犯すら犯していること、事件から30年以上の年月が経ちすでにネットを中心に実名が広く知らされていて*、匿名にする意味が薄れていることなどを考え、このブログでは4人については最初に実名と確定刑などをあげておきます。

 *たとえば、Wikipediaでも日本語版「女子高生コンクリート詰め殺人事件」はガイドラインにより被害者も含め今も匿名ですが、英語版「Murder of Junko Furuta」ではすべて実名が記載されています

 

宮野裕史みやの・ひろし、殺害当時18歳) 主犯格、養子縁組により「横山裕史」と改名

 懲役20年(満期出所)、2013年振り込め詐欺で逮捕(起訴猶予)

 

 

小倉 譲おぐら・じょう、同17歳) 準主犯格、同「神作(かみさく)」と改名

 懲役5年から10年の不定期刑(10年で出所)、2004年に「三郷市逮捕監禁致傷事件」を起こして逮捕され懲役4年

 

 

湊 伸治みなと・しんじ、同16歳) 自宅を監禁場所に提供

 懲役5年から9年の不定期刑(9年で出所)、一時期ムエタイ選手(写真右)になるが、2018年に殺人未遂事件で逮捕され懲役1年6月・保護観察付き執行猶予3年

 

 

渡邊恭史わたなべ・やすし、同17歳)

 懲役5年から7年の不定期刑(7年で出所)、4人の中では唯一再犯記録なし

 

 

彼ら4人は、同じ足立区立中学校の先輩・後輩の関係で、事件が起きた1988(昭和63)年10月ごろから一緒になってひったくりや窃盗などを繰り返していました。

 

この事件には、上の4人のほか、湊(C)の兄(、当時17歳、高校3年生)と2人の少年()が関わっていましたが、関与の程度が比較的に軽いとの理由(それでも順子さんへの集団レイプなどに加わっている)で少年院への送致にとどまっています。

 

なお、実名をあげた4人について、裁判所の文書や主要紙の記事、関連書籍においてはA〜Dと記述され、一般にはそれで知られていますので、以下では記号を用いて記載することにします。

 

【事件の概要】

1988(昭和63)年11月25日の午後8時半ごろ、埼玉県三郷市に住む県立八潮南高校3年生の古田順子さんが、八潮市内のアルバイト先から自転車に乗って帰宅途中、女性を物色中のAとCに目をつけられます。

 

2人は、まずCが自転車ごと順子さんを蹴り倒したところに、バイクに乗ったAが現れて彼女を助けるという「一芝居」を打ちます。

 

「危ないから家まで送ってやろう」というAの親切そうな申し出にすっかり騙された順子さんは、自分からAのバイクに乗ってしまいます。

 

ところが、途中で態度を一変させたAに順子さんは、「オレはさっきのやつの仲間でヤクザだ」と脅されてホテルに連れ込まれ、レイプされたのです。

 

たまたま通りかかった女性をこのように襲って脅し、ホテルに連れ込んで強姦するのは彼らの常套手段でした。

 

事件に先立つ11月8日の夜にも、A・B・CはAが運転する乗用車で女性を物色中、自転車で帰宅途中の19歳の女性に目をつけます。

彼ら3人は、女性の進路を妨害して停車させ、無理やり車の後部座席に押し込み、言うことを聞かなければ殺すとほのめかして脅迫してから、ホテルでレイプする事件を起こしています。

 

さらにA・B・C・Dの4人は、順子さんを監禁していた12月27日の午前0時過ぎにも、帰宅途中の19歳の女性を、Aが運転する車の後部座席に無理に乗せて小刀やナイフで脅し、モーテルに連れ込んでレイプしているのです。

 

あとで述べるように、AとBがまず逮捕されたのはこれらの婦女暴行事件と多くのひったくり事件の容疑ででした。

そして、その取り調べで余罪を追及される中で順子さんの事件が発覚し、遺体の発見とC・Dらの逮捕につながったのです。

 

話を戻します。

 

順子さんをレイプするという目的を果たしたAが自慢げにCに電話をすると、そこに居合わせたBが「女の子を帰さないで」と言うので、順子さんを連れたAはホテル近くの公園でB・C・Dと合流します。

 

そこでBが「さらっちゃいましょう」と言い出したことから、グループのたまり場になっていた東京都足立区綾瀬のCの自宅に彼女を拉致・監禁する話がまとまり、Cの両親が寝静まるまで家の近くの公園に移って時間をつぶしてから、11月26日の午前1時半ごろに順子さんを2階のCの部屋に連れ込みました。

 

そして28日の夜に、Aの指図でB・C・DのほかにE・F・Gも加わり、集団で彼女をレイプしたのです。

 

事件発覚後、テレビ番組の取材が押しかけたC宅

 

住宅が建て込んだ監禁現場の家(写真は現在)

*建て替えられた家には、今は事件と無関係の人が住んでいます

 

順子さんが拉致・監禁され、ついには殺害・遺棄されるまでの経緯を、毎日新聞は次のようにまとめています。

 

毎日新聞(1990年5月22日)

 

毎日新聞(1990年7月20日)

 

順子さんの両親は、帰ってこない娘を心配して、11月27日に警察に捜索願いを出しました。

ところが、そうした両親の動きを予想したのでしょう、11月末から12月16日ごろにかけて3回にわたり順子さんに「家出しているんだから捜索願いを出さないで」とか「捜索願いを取り下げて」という電話を自宅にかけさせ、警察の動きを阻止しています。

 

順子さんが彼らの言いなりになったのは、おそらくAから最初に自分は暴力団員(ヤクザ)だと言われ、言う通りにしないと家族にも危害を加えると脅されたからでしょう。

 

それはまったくの出まかせではなく、Aは、足立区に縄張りを持つ極東関口一家系暴力団の組員になっていた中学の先輩の誘いで、自分の不良少年グループを「極東青年部会(極青会)」と称し組の下部組織のようにして、ひったくりなどで得た金の一部を上納したり少年たちに事務所の番や花売りなど組の下働きをさせ、その代わりにグループの活動資金を組から受け取っていました。

 

着替えの服を買い与えるなど順子さんを監禁中に使ったお金は、Aが持つ資金から出していたそうです。

 

読売新聞(1989年4月20日)

 

彼女にすれば、大切な家族(両親と兄・弟)をヤクザがらみの危険な目に巻き込むのは、何としても避けたかったことでしょう。

 

それでも順子さんは12月に入ると、見張りが手薄になったすきに2度逃げ出そうとしました。

しかし、その都度見つかって連れ戻され、また110番通報をしようともしたのですが、それも途中で阻まれてしまいます。

 

Cの両親(同じ病院の父は事務職員、母は看護師)は共働きで昼間は家におらず、そのためC宅が不良グループの溜まり場になって、昼間は家を自由に使い、親が帰宅すると2階のCの部屋(2階はCの部屋と兄Gの部屋の二間)に彼らはこもっていました。

 

読売新聞(1989年4月3日夕刊)

 

そんな状況でしたが、Cの両親は、11月末には部屋から漏れてくる声などで女の子が家にいることに気づいていたようです。

しかし、Cの暴力におびえる両親は、女性のことを息子に問い詰めることができぬまま、不良グループ仲間の家出少女だろうという認識でいたようです。

 

それでもさすがに心配したCの母親は、夕食を取らないかと声をかけて1階で少年らも交え食事をした時に「家に帰りなさい」と順子さんを諭し、一度は彼女を家から送り出しました。

けれども、Bらも一緒だったために逃げられるはずもなく、夜になってこっそりと連れ戻されました。

その時も母親は、Cから「よけいなことをするな」と長時間にわたって暴力を振るわれたようです。

 

またCの母親は、順子さんの持ち物からアドレス帳を見つけ、そこに書かれていた彼女の自宅に電話もしています。

 

ところがCの母親は、順子さんの不在を確認しただけで、息子にバレるのを恐れて自分の名前も告げず、彼女が家にいることも言わなかったため、この電話は彼女を救う助けにはまったくなりませんでした。

同じ親として、子どもが行方知れずになった親の悲しみや苦しみは容易に想像できるでしょうから、この段階で勇気をふるって順子さんの所在を彼女の両親に知らせてさえいたらと、悔やまれてなりません。

 

このように、彼女が逃げようとしたことがきっかけとなって、性暴力に加え順子さんへの彼らの凄まじいリンチ・虐待が始まりました。

 

その内容の詳細は控えますが、先にあげた表や次の新聞記事の見出しを追うだけでも、彼らが順子さんに対しておこなった仕打ちの非人間的な残虐性はお分かりになると思います。

 

読売新聞(1989年4月2日)

 

毎日新聞(1989年4月9日)

 

読売新聞(1989年4月21日)

 

順子さんに加えられた激しい暴行は、彼ら自身がもはや彼女をレイプする気すら起きないまでに身体を傷つけ変形させるものであり、さらに12月末ごろからは一日一杯の牛乳すら与えなくなって、彼女が衰弱するに任せました。

ひと月余りの監禁の間に、165㎝と高身長で50kg台あった順子さんの体重が、30kg台にまで減っていたそうです。

 

そして、あと3日で昭和最後の日を迎えようとしていた1989(昭和64)年1月4日、順子さんはついに絶命させられてしまいます。

 

全身傷だらけで腫れあがり、弱り切っていた順子さんの命はすでに風前の灯でしたが、死の直接のきっかけも、Aらの醜悪で執拗な暴力でした。

 

1月4日の朝、前夜からの賭け麻雀で10万円ほど負けたAは、その腹いせにB・C・Dを誘って午前8時ごろから2時間あまりにわたって、順子さんにやりたい放題の暴行を加えたのです。

 

それにより順子さんは、午後10時ごろまでに、外傷性ショックで亡くなりました。

 

読売新聞(1989年8月1日)

 

この事件が社会を震撼させたのは、順子さんへの暴行の凄まじさに加え、遺体をドラム缶にコンクリート詰めにして東京都江東区若洲の埋立地に遺棄するという、暴力団さながらの凶悪な手口でした。

 

遺体遺棄現場(読売新聞)

 

順子さんの様子がおかしいことを1月4日の夜にG(Cの兄)からの連絡で知ったA・B・C(暴行後にサウナに行っていた)は、事件の発覚を恐れてAが以前の勤め先からトラックを借り、ドラム缶やコンクリートを調達して、ボストンバッグに入れた順子さんの遺体をドラム缶に詰めコンクリートを流し込み、1月5日の夜にトラックで遺棄現場まで運び、捨てたのです*。

 *Dは死体遺棄に関与していませんが、300kgを超えるドラム缶の重さから、3人の他に複数の人物が遺棄を手伝ったのではないかと考えられています

 

順子さんの事件が発覚したのは、先に述べた11月8日と12月27日の2件のレイプ事件と20件のひったくりで逮捕されたAとBが、余罪を追及される中で自供*したためで、順子さんの死から3ヶ月近くたった3月29日にようやく彼女の遺体が発見されました。

 *警察は、1988年11月に綾瀬署管内で起きた母子強盗殺人事件への彼らの関与を疑い、取り調べで「人を殺しちゃダメじゃないか!」とかまをかけたところ、予想外に順子さんの殺害をAが口にしたのです。なお、母子強殺事件の犯人も、Aらと同じ足立区立中学校の卒業生3人であると判明しました(下の記事参照)。

 

朝日新聞(1989年4月26日夕刊)

 

朝日新聞(1989年5月16日夕刊)

 

読売新聞(1989年5月3日)

 

順子さんの遺体は、激しい暴行で黒く変色し、それに腐敗が加わって、両親にも我が子と識別できないほどの惨状だったそうです。

 

読売新聞(1989年4月1日)

 

【裁判・判決とその後】

事件に関与したA〜Gの7人のうち、主だったA・B・C・Dの4人については、東京地検が「刑事処分が相当」との意見書をつけて4月20日に家庭裁判所に送致し、家裁は成人事件と同様に刑事処分にするのが適当と判断して地検に逆送しました。

 

それを受けて東京地検は5月25日、「犯行は悪質で残酷」として殺人・死体遺棄・監禁罪や別件の窃盗罪などで彼ら4人を東京地裁に起訴したのです。

 

 

毎日新聞(1989年5月26日)

 

1989(平成元)年7月31日、東京地裁刑事4部(松本光雄裁判長)で初公判が開かれ、罪状認否では焦点の一つである殺意について、Aのみが「未必の故意」を認めたものの、他の3人は殺意を否認し、傷害致死を主張しました。

 

地裁での論告求刑公判は、1990(平成2)年5月21日に開かれました。

 

検察側は論告において、①女子高生はなぶり殺されたとしか言いようがなく、被告らの行為は極めて反社会的かつ自己中心的で、動機に酌量の余地はない、②被害者の両親の怒りは察するに余りある、③社会に与えた衝撃や不安は計り知れない、と強調し、監禁中の暴行について「人の仮面をかぶった鬼畜の所業」で「人間性を全く蹂躙し、とどまるところを知らぬ残虐性を如実に示している」として、主犯格のAに無期懲役、Bに懲役13年、C・Dには懲役5年以上10年以下を求刑しました。

 

なお、Aの情状について検察は、「犯罪的性向を矯正するのはほとんど不可能な状態。事件を犯したことに報いるには、刑事責任の峻厳(しゅんげん)さをその身に直接体験させる以外にない」と主張しました。

 

毎日新聞(1990年5月22日)

 

公判では、順子さんへの殺意の有無や加害者一人ひとりの事件へのかかわりの程度、情状酌量の余地をめぐって検察側と弁護/被告側の主張が対立しました。

 

 

毎日新聞(1990年6月25日夕刊)

 

1990(平成2)年7月20日、第一審の判決公判が開かれ、松本光雄裁判長は、Aに懲役17年、 Bに懲役5年以上10年以下、Cに懲役4年以上6年以下、Dに懲役3年以上4年以下のそれぞれ不定期刑を言い渡しました。

 

裁判長は判決理由の中で、「被害者を長期間非行集団のたまり場に囲い込み、集団の性的いじめに始まり、想像をはるかに超える暴行を繰り返したことにより、(中略)ついに同女をなぶり殺しにした。まことに身勝手極まる自己中心的な理由から、重大な結果を生ぜしめたもので、もとより、同女がこれほどまでに辱めを受けるいわれは一切なく(中略)、被告人の行為は悪質・重大であり、その刑事責任は重い。」と指摘し、順子さんについては「当時高校三年生として、就職も決まり夢をふくらませていた被害者は、何の落ち度もないのに、アルバイトからの帰宅途中、被告人らによってら致され、それまでの生活とは打って変わった屈辱的な取り扱いを受け、孤立無縁の状態のまま、繰り返し陰湿・過激ないじめを受け、監禁の後半には、精神的にも、肉体的にも衰弱の度合いを深め、最後には常識では考えられないような仕打ちまで受け入れざるをえず、助けを求めるすべもないまま、あえなく絶命し、挙げ句はコンクリート詰めにされて捨てられるなど、その身体的及び精神的苦痛・苦悶並びに被告人らへの恨みの深さはいかばかりのものであったか、誠に、これを表現する言葉さえないくらいである。」と述べています(判決理由要旨からの抜粋)

 

裁判長は、加害者たちがある段階からは順子さんへの「未必の殺意」を抱いていたと認めながらも、その一方で事件は最初から計画されたものではなく、「精神的に未熟な少年らが事態を打開できないまま、不幸な結末に至った側面」もあり、また被告らの未熟さには人格形成の過程での不幸な「他律的要因」もあるとして、一定の情状酌量の余地を認め、被告らの更生に期待し求刑より軽い刑を言い渡したのです。

 

 

毎日新聞(1990年7月20日)

 

しかしこの判決に対して、少年犯罪の刑事裁判では異例だそうですが、検察側が量刑不当として4人全員につき控訴し、またBとCの弁護人も控訴しました。

 

1991(平成3)年3月12日に東京高裁で始まった控訴審は、同年7月12日に判決公判を開きました。

 

柳瀬隆次裁判長は判決理由において、A・C・Dについては「被告人らのために斟酌(しんしゃく)できるすべての情状を十分考慮してみても、(中略)原判決の量刑は、著しく軽すぎて不当である」として、Aに懲役20年(一審懲役17年)、 Cに懲役5年以上9年以下(一審4年以上6年以下)、Dに懲役5年以上7年以下(同3年以上4年以下)と、一審より重い判決をあらためて言い渡しました。

 

ただBについては、少年に対する有期懲役刑の最高刑である「懲役5年以上10年以下」の原判決は、軽すぎて不当とも重すぎるとも言えないとし、控訴を棄却しています(一審判決を維持)

 

毎日新聞(1991年7月12日夕刊)

 

以上の控訴審判決でA・B・Cの刑は確定しましたが、Dだけが最高裁に上告したため、4人全員の刑が確定したのは、1992(平成4)年7月のDの上告棄却決定によってでした。

 

なお、加害者側からの被害者遺族への謝罪・補償については、Aの両親が自宅を売却した5千万円を補償金として支払うと弁護士を通して申し出、順子さんの両親も最終的にはそれを受け入れました。

そのことも、一審判決での「情状酌量」の一つにされています。

 

それ以外は、Bの母親が補償金にするためB名義の預金を始めたと言われますが、実際に支払いがあったのか、あったとしてどの程度だったのかは分かりません。

 

また、加害者家族の誰ひとり順子さん宅に「線香の一本もあげに来ない」と当時のワイドショーでリポーターが言っていますが、順子さんのご両親が今は加害者側の誰とも会う気にならないと面会や墓参をすべて断っていたようです。

 

その後、親たちや何より加害当事者たちが謝罪・贖罪のために何かしたのか、一般に伝えられていることは上記以外にありません。

 

 

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小川里菜の目

 

順子さんが加害者らから受けた暴力と辱めは、文字でその断片を読むだけでも胸が苦しくなるほど凄まじいものです。

 

しかも、それが41日にも及んだ(当然その最中には、この苦しみがいつ終わるとも順子さんにわからなかった)わけですから、彼女が恐怖と苦痛に耐えきれずに「殺して!」と懇願したと言われるのも無理ありません。

 

この事件が私たちに突きつけた「人は、ここまで無慈悲で無惨なことを、何の落ち度もない無抵抗の人間に対してできてしまうのだ」という現実はあまりにも重く苦しく、「加害者らはそもそも「野獣」で「人間」ではないのだから、私たちは彼らとは違う」というロジックで、他人事のように正義の高みから加害者たちをただ責めるだけでは、とても済まない問題だと小川は思います。

 

もちろん、彼らの悪魔のような所業は、少年だからといって、その未熟さを理由に赦されるものでは決してありません。

精神が病的に崩壊した状態での行為ならともかく、未熟といえども10代の後半にもなって自分がしていることの意味や被害者に与える苦痛が何も分からないなどということはありえないからです。

順子さんの苦痛が分かるからこそ、より大きな苦痛を与えようと揮発油やロウソクや鉄球などを使い、彼女の苦しむ様を見て笑い合っていたのですから。

 

どうして彼らは、それほどまでに非人間的な行為を平然とやってのけることができたのでしょうか。

 

第一審の判決文に、「「想像をはるかに超える暴行を繰り返したことにより、被害者が醜く変わり果てるや、次第に「もの」のように扱い」と書かれた箇所があります。

また、順子さんへの暴行を思い返してCは、「殴ったりするのがおもしろいというか。いま思えば、人間だとか思っていなかったですけど」と語っています(『かげろうの家』)。

 

 

 

たとえば主犯格のAは、後輩や仲間に対しては面倒見の良い先輩・リーダーとして振る舞っていました。

しかし、Aにとって実感される「人間」の範囲はそうした「身内」だけであり、それ以外は利用すべき対象か無関係かの「ヒトの形をしたもの」でしかなかったでしょう。

そうした「ものでしかないヒト」が泣こうが苦しもうが、自分の良心が痛むことなどないのです。

 

順子さんを拉致・監禁し集団レイプした時点で、彼らは彼女の人としての尊厳を無視し、「もの」として扱ったのですが、彼女がもしも諦めて自分の境遇を受け入れ彼らの仲間に入れば、「誰々のオンナ」あるいは「グループで共有されるオンナ」のような屈辱的立場ではあっても、訳もなくリンチや虐待を受けることはなく、食事も与えられる程度の「人間」扱いをされるようになった可能性があります。

 

ところが、順子さんがAらに逆らって逃げ出そうとしたことからその可能性はなくなり、「もの」でしかないことを彼女に思い知らせ、二度と逆らう気を起こさせないための制裁として、無慈悲なリンチを加え徹底的に痛めつけたのでしょう。

 

そのように、自分に身近なごく一部の人間以外は人を人とも思わないような人間たちがいったいどのようにして形成されたのか、事件を生んだ背景や土壌を解明することが必要だと小川は思います。

 

もちろんそれで亡くなった順子さんは返って来ませんが、彼らのような「人でなし」の人間を生み出した原因となる諸要因をこの社会から取り除いていくことが、第2、第3の順子さんを出さないことにつながるだろうからです。

 

彼女の無念の死を虚しいものにしないためにも、事件から30年以上が経過した今でもなお、それは私たちにとって課題であり続けているでしょう。

 

毎日新聞(1990年7月18日)

 

今ここでそうした分析や考察をする用意はありませんが、最後に小川なりに気になった点を2つだけあげておこうと思います。

 

まず一つは、家庭や家族のあり方についてです。

 

この事件の場合、両親と兄弟の4人家族が生活するごく普通の家が、監禁・虐殺の現場となっただけに、家庭・家族が問題解明のポイントになると思われて、関心と議論の的になりました。

 

読売新聞(1989年4月7日夕刊)

※この記事ではCの兄はEと表記されています

 

確かに、子どもの人格形成において家庭環境や親(の役割を担う人)との関係が重要であることは言うまでもありません。

 

ですから、両親の不仲や別居・離婚、共働きで親が留守がちの家、親が忙しく子どもと食卓を囲むことのない家族、親が夜の仕事をしている母子家庭、母親任せで父親不在の子育てなど、加害少年たちの家庭のあり方が、彼らの人間形成に負の影響を与えた可能性は否定できません。

 

けれども「共働き」や「単親」などは、彼らの家庭だけに特殊な「現実」ではなく、同じような家庭的条件にもかかわらず、特に大きな「問題」もなく人間として成長する子どもたちの方が多いのです。

 

ですから大切なことは、何らかの「現実」に不運が重なって「困難」になり、子どもの人間的成長を妨げる「問題」にまでこじれてしまわないよう、「家庭のことは家庭の自己責任で何とかしろ」と冷たく突き放すのではなく、個々の家庭や親・子がおちいっている困難を、とりわけ子どもの発するSOSを敏感に受けとめて、どういう支援が社会(私たち)にできるのかを共に考え、実際におこなうことだと小川は思います。

 

加害者の親たちも、必ずしも子どもの非行や暴力をただ傍観していたわけではないようです。

たとえば上の記事(黄色の枠内)にあるように、事件を主導したAの母親も息子の振るう暴力などの問題に悩んで学校や警察に何度も足を運んだとのことですが、この時代は「家庭の問題なので」と取り合ってもらえなかったそうです。

 

小川が気になった点のもう一つは、いじめや体罰を根絶したいとの思いでこのブログを始めたからでもありますが、この時代に蔓延していた暴力です。

 

加害者らの家庭は放任家庭というわけではなく、むしろ躾の厳しい家庭だったようです。

 

ところが、その躾の主な手段は暴力で、Cの父親は彼の幼少期から小学5年生くらいまで、酒の勢いも借りて子どもに体罰をおこなっていました。

教育熱心なAの母はAが勉強をサボると厳しくせっかんし、 Bの母も息子が中学生になるころまでは掃除機の柄や靴べらで彼を叩いていたそうです。

 

しかし、子どもが大きくなり親と体力的に互角あるいは逆転すると、今度は子どもが親に向かって暴力を振るうようになります。

Bの母親は、ついに息子の暴力に耐えかねて110番通報し、警察の力で息子を押さえつけようとしたことで母子の溝が決定的なものになり、Bは家を嫌ってC宅に入り浸るようになります。

 

当時、学校もまた校内暴力が横行する場でした。

ツッパリ生徒からの教師に対する暴力だけでなく、クラスやクラブ活動での生徒同士の暴力的ないじめがあり、一方で学校の秩序維持のために「問題」生徒には教師から容赦ない体罰が加えられました。

 

身長160㎝と小柄ながら、柔道の軽量級で強さを発揮していたAも、期待を込めて入った高校の柔道部で、生意気だと鉄アレイで耳をつぶされたり板の間で投げ飛ばされたりといった先輩たちからの執拗で暴力的ないじめを受け、監督に訴えても取り合ってもらえず、やむなく退部・退学したことが人生転落の大きなきっかけとなりました。

 

毎日新聞(1990年6月26日)

 

柔道の夢を絶たれて学校にも行かず荒れるAを、親は、当時「スパルタ教育」で家庭内暴力や不登校の子どもを立ち直らせると話題になっていた「戸塚ヨットスクール」に入れようとしたそうですが、そこでの激しい体罰の噂を聞いたAが抵抗し入らなかったそうです。

しかし、中学の先輩を通して暴力団と関わりを持ってしまったことが、Aの人生を決定的に狂わせることになりました。

 

このように、暴力が人間同士のコミュニケーションに取って代わり、力の行使によって目的を遂げるというやり方が、不良グループや暴走族にしか帰属先のないいわゆる「落ちこぼれ」の子どもたちの暴力に対する感覚をマヒさせたことが、この事件の背景にあるのではないかと思った小川です。

 

 

 

 

 

紫陽花が綺麗な時期ですね💙

職場までの行き帰りに見る紫陽花に癒されていますにっこり飛び出すハート

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お読みくださった方、ありがとうございました😺💓
次回もリクエスト企画にします✨

城丸君事件

1984年

毎日新聞(1998年11月16日)
 


1984(昭和59)年、札幌市豊平区に住む小学4年生の城丸秀徳君(当時9歳)が、電話で呼び出されて家を出たまま行方不明になり、4年後の1988(昭和63)年にとある農家の納屋から人骨が見つかり、さらに10年後の1998(平成10)年にそれが城丸君の遺骨であると判明する、何とも不可解な事件が起きました。
 
城丸秀徳君の写真を掲げ
公判での真相解明を訴える母の照代さん
 
【城丸秀徳君の失踪】
事の発端は、北海道では学校がまだ冬休みだった1984(昭和59)年1月10日の午前9時30分ごろ、城丸さん宅にかかってきた一本の電話でした。
 
これから朝食をとろうとしていた城丸家では、母親は食事の支度を、父親はリビングで新聞を読んでおり、小学6年生の兄と中学1年生の姉もそこに居合わせたそうです。
 
リビングに置かれた電話の受話器を取ったのは、末っ子の秀徳君でした。
 
電話は彼にかかって来たものらしく、年上の人と話すように緊張し、家族に会話を聞かれたくないかのような小声で受話器を手で隠すように「はい、はい……」と聞いていた秀徳君は、「分かりました」と言って電話を切ると、「ちょっと出かけてくる」と急いで外出しようとしたのです。
 
電話の様子を不審に思った母親が、どこに行くのか尋ねたところ秀徳君は、「ワタナベさんのお母さんが、僕の物を知らないうちに借りた。それを返したいと言って、来てくれと言うんだ。函館に行くと言っている。車で来るから道で渡してくれる。それを取りに行く。」「100メートルくらい離れたところに、おばさんが持って来てくれる。」(高裁判決文)と説明したそうです。
 
ただこの「説明」は常識ではありえない内容のため、秀徳君がとっさに考えた「嘘」ではないかという指摘があり、その可能性は高いように思われます。
ちなみに、秀徳君の友人や家族の知人に「ワタナベ」という人はいないとのことです。
 
居合わせた家族も彼の言っていることの意味がよく分からないまま、寒いからと差し出したコートを着て飛び出した秀徳君を心配した母親は、ついて行くよう兄に頼み、彼も弟の後を追って家を出ました。
 
ところが秀徳君は、60mほど後ろからついて来る兄に気づいたのか逃げるように駆け出し、あるところで左に曲がったように見えた*まま姿を消したのです。
 *兄は視力が悪いためにはっきりとは見えなかったという
 
矢印の方向に秀徳君は行き
二楽荘付近あるいはその先のT字路を
左折して姿が消えた
緑の丸は渡部さん宅(事件と無関係)
 
兄は、秀徳君が見えなくなったあたりを探しましたが見つからず、「渡部」という表札の家があったのでここに入ったかと思ってしばらく前で待っていましたが、弟が出てこないので一旦家に帰って事情を話し、母親が一緒に来て渡部さん宅を訪ねました。
 
ところが、出てきた渡部さんの娘さん(当時高校3年生)は、朝から両親は不在であり、電話はしていないし、そのような少年も来ていないと言うのです。
 
母と兄と後から駆けつけた父・姉も一緒になって付近を懸命に探しましたが、秀徳君の姿はどこにもありません。
 
途方にくれた両親は、地区の交番に電話をして息子が行方不明であることを話し、その後も彼が家に戻らないので、午後になって交番に出向き捜索を依頼しました。
 
そこで交番の警官が行方不明になった付近の聞き込みに回ったところ、有力な情報が得られました。
 
それは、二楽荘2階の1号室(写真の2階手前の部屋)に1歳7ヶ月の娘と住んでいる工藤加寿子(当時28歳)という女性が、午前10時前に外の空気を吸おうと部屋を出て1階に降りると、そこにいた少年から「2階に玄関*のあるワタナベさんという家を知りませんか」と聞かれたので、二楽荘の北隣の渡部さんのことかと思って教えたが、そのあとのことは知らないというのでした**。
 *積雪の関係で北海道では、階段を上がった2階に玄関のある家は珍しくない
 **高裁判決文にこの記述はなく、単に秀徳君が(「2階に玄関がある家」と間違って)二楽荘に来た(ので隣家の渡部さん宅を教えた)ことを工藤元被告は認めたと書かれている(カッコ内は小川の推測による補足)
 
2010年に撮られた二楽荘
外階段を上がった2階の手前が工藤元被告の部屋
現在はマンションに建て替えられている
 
そこで警察官は渡部さん宅を訪ねますが、母と兄が聞いたのと同じ話しか得られず、念のためにと任意で家の中も見せてもらったそうですが、事件と関係ありそうな点は何も見当たりませんでした。
 
工藤元被告が秀徳君の最終接触者だと分かったので、午後4時ごろに警察官が再び二楽荘の工藤宅を訪ねて改めて話を聞き、その時に任意で部屋の中をざっと見たそうですが、秀徳君はおらず不審な点もなかったそうです。
 
秀徳君の父親の城丸隆さん(同54歳)は、二つの会社の代表取締役を務め、豪邸に3台の外車を持つ近隣ではよく知られた裕福な家庭だったので、営利目的誘拐の可能性を考えて城丸さん宅に警察官が10日間泊まり込んで犯人からの電話を待ちましたが、何の連絡もありませんでした。
 
1月14日に警察は、公開捜査に踏み切って情報提供を待ちましたけれど、有力な情報は何も寄せられなかったそうです。
 
その時点で警察が、城丸さん宅に泊まり込んだように、工藤元被告を秀徳君失踪の有力容疑者としてその動きを徹底的にマークしていれば、事件は(残念な結果とはいえ)すぐに解決した可能性がありました。
 
というのも、事件当日である1月10日の夜に工藤元被告は、義姉に頼んで車で二楽荘に来てもらい、大きな段ボール箱を運び出すという不審な動きを近所の人に見られているのです。
 
段ボール箱の中に何が入っていたかは分かりませんが、工藤はそれを転居のたびに持ち運び、最後は後で述べる再婚相手の農家の庭で焼却しているのです。
その時、ひどい異臭が漂ったことを近所の人は覚えており、後日、秀徳君のものと判明する袋に入った人骨が発見されたのは、その農家の納屋の中でした。
 
このことから考えると、工藤元被告が事件当夜に大胆にも運び出した段ボール箱に、変わり果てた秀徳君が入っていた可能性は極めて高く、張り込んでいた警察官が現場を押さえていれば、決定的な証拠もろとも犯人を挙げることができたわけです。
 
しかし、身代金を要求する連絡もなく、有力な情報もないままに、捜査は暗礁に乗り上げてしまったのです。
 
そして、事件から1週間後に工藤元被告は生活保護を申請し、さらに1月26日には二楽荘を引き払って札幌市清田区のアパートに転居しています。
いったんは親戚(義姉?)宅に預けた例の段ボール箱を早く引き取る必要があったことも、急な転居の理由だったでしょう。
 
ちなみに、転居直後でしょうか、同日に警察は二楽荘の工藤の元居室でルミノール反応検査をしていますが、室内から血痕は見つかりませんでした。
秀徳君の骨からも死因は特定できませんでしたけれど、情況を考えると刺殺ではなく、絞殺ではないかというのが大方の見方です。
 
こうして城丸秀徳君の行方不明事件は、何の手がかりもないまま虚しく年月が過ぎていったのです。
 
【工藤加寿子元被告とは】
1955(昭和30)年に北海道新冠(にいかっぷ)郡新冠町に、両親と兄姉の5人家族の次女として生まれた工藤加寿子元被告は、中学を卒業すると集団就職で上京します。
 
しかし、勤めた紡績工場になじめず、北海道に戻って登別温泉で販売店員になりました。
そして、19歳(1974年)で静岡県熱海市のスナック従業員となってから、いわゆる水商売の世界で生きるようになり、横浜や神戸、東京と各地を転々とします。
 
工藤加寿子
 
1982(昭和57)年に東京上野でショーパブを経営する男性と結婚し娘を出産した工藤ですが、翌年には離婚しています。
 
その後、札幌の歓楽街ススキノの高級クラブでホステスとして働くものの、東京にいる時から店や同僚に借金を重ねていた工藤は、事件当時は合わせて800万円を超える借金を背負って、一部は早急な返済を迫られていたそうです。
 
工藤が陥っていたこの経済的にせっぱつまった状況が、事件を起こす動機だったのではないかと強く疑われたのです。
 
【思いがけない展開】
二楽荘から姿を消した工藤元被告は、2年後の1986(昭和61)年に、北海道樺戸郡新十津川町の農業・和歌寿美雄さん(当時35歳)と見合い結婚をしています。
 
それまで農業一筋で生きてきた和歌さんとホステスの女性とでは生活環境や価値観が違い過ぎてうまくいくはずないと家族はこぞって反対したそうですが、女性経験の乏しい和歌さんは、男の扱いに手慣れた工藤元被告に一目惚れしてしまい、「農業はしなくてもよい」など工藤の要求をすべて受け入れて結婚しました。
 
先に見た秀徳君の遺体が入っていたのではないかと思われる「段ボール箱」を工藤が燃やしたのは、和歌さんの自宅の庭においてです。
 
こうして「専業主婦」になった工藤は、農業どころか主婦としての家事もせず、昼ごろに起きてきては暇を持て余して毎日パチンコに通ったり、娘を連れて旅行に出たまま1週間も帰らないような好き放題の生活をするようになります。
 
新婚早々から寝室も別で、和歌さんが家の建て替えにとコツコツ貯めてきた2千万円とも言われる貯金を勝手に下ろして使い果たすような「妻」の行状に、さすがの和歌さんも心身の調子を崩して、心をゆるした義兄に「殺されるかもしれない」と酒の席で打ち明けるようになります。
 
義兄からも離婚を強く勧められた和歌さんが、ようや工藤と別れる決意を固めた矢先の1986(昭和61)年12月30日午前3時ごろ、和歌さん宅から出火し母屋が全焼、焼け跡から和歌さんの焼死体が見つかるという「限りなく事件に近い事故」が起きます。
 
【不審火で亡くなった夫に2億の保険金】
深夜の出火にもかかわらず、逃げ出した工藤母娘はおでかけの時のように着飾って化粧もしロングブーツを履くという「避難姿」で、衣服などの二人の荷物だけは母屋の外に運び出されていて火災を免れました。
 
また、預金通帳や印鑑、保険証書などをしっかり持ち出す準備の良さとは裏腹に、消防への一刻も早い通報が必要であるにもかかわらず、わざわざ隣家ではなく自宅から300mも離れた家に行って呼び鈴を鳴らして家人が起き出してくるのを悠長に待っているという信じられない行動を工藤元被告はとったのです。
 
しかも、工藤は和歌さんに勧めて、妻を受取人とする死亡時1億9千万円もの生命保険をかけさせていました。
 
毎日新聞(1998年11月16日)
 
どこから見ても工藤の関与が疑われる出火で、警察は保険金殺人を疑ったようですが、地方の小さな自治体の消防では火災調査の経験もノウハウも乏しかったのか、火元や火事の原因を特定することができないまま、この一件を「事故」として処理してしまいます。
 
和歌さんの葬儀での工藤加寿子
 
そこでさっそく工藤元被告は、和歌さんの生命保険金の支払いを保険会社に請求します。
しかし、さすがに保険会社は不審な事案として支払いを拒否したために、工藤は訴訟に持ち込みました。
けれども、裁判の場で真相が暴かれることを恐れたのか、工藤は途中で訴えを取り下げ、高額の保険金を受け取ることはできませんでした。
 
火災の翌年、1988(昭和63)年6月、義兄ら和歌さんの親族が焼け跡の整理をしていた時、延焼を免れた納屋の中から、ビニール袋に入った人骨を見つけ警察に届け出ました。
 
全焼した母屋と焼けなかった納屋(左)
 
当時のDNA鑑定技術では身元の特定はできなかったものの、血液型や身体の特徴が行方不明になっている城丸秀徳君とほぼ一致したため、工藤が関与しているのではないかと疑った警察は、1988(昭和63)年8月4日に彼女から任意で事情聴取をし、ポリグラフ(いわゆる「嘘発見器」)にもかけました。
 
 

 
ポリグラフ検査では、「秀徳君の首を絞めて殺しましたか」などいくつかの質問に精神的動揺を示す反応が見られたものの、情況証拠にできるほどの結果は得られなかったようです。
 
また、任意での事情聴取で工藤から、秀徳君失踪に関わっていることをほのめかすような言動があったとされますが、具体的に踏み込んだ供述はありませんでした。
 
【工藤の逮捕と裁判】
それから10年が経過した1998(平成10)年2月に警察庁が「短鎖DNA鑑定」という従来より精度の高い新しいDNA鑑定法を導入したのを受け、9月に北海道警察科学捜査研究所が秀徳君ではないかと思われる人骨を改めてDNA鑑定したところ、秀徳君とほぼ特定することができました。
 
そこで警察は、当時15年だった殺人罪の公訴時効が迫っていることから、11月15日に工藤加寿子を城丸秀徳君の殺害容疑で逮捕し、12月7日に札幌地裁に起訴しました。
なお、この時までに傷害致死(7年)や死体遺棄(3年)、死体損壊(3年)など可能性・関連性のある罪状はすべて当時の公訴時効が成立していたため、工藤容疑者が黙秘という姿勢を貫く中で、殺害の動機や方法、とりわけ殺意の立証という極めてハードルの高い殺人罪でしか工藤を起訴することができなかったのです。
 
毎日新聞(1998年11月29日)
 
毎日新聞(1998年12月8日)
 
札幌地裁での初公判は、1999(平成11)年4月26日に開かれ、工藤加寿子被告は起訴事実を全面的に否認し、弁護側は公訴棄却を求めました。
 
被告は、冒頭の罪状認否以外は、400余りのすべての訊問に対して黙秘の態度を貫きました。
 
毎日新聞(1999年4月26日夕刊)
 
2001(平成13)年5月30日、札幌地裁の佐藤學裁判長は、工藤被告の事件への関与が濃厚ではあるが、秀徳君への殺意については疑いが残るとして、無期懲役の求刑に対し無罪を言い渡しました。
 

 

車に乗せられ出廷する工藤被告

 

法廷に入る秀徳君の両親と祖母

 
検察側は判決を不服として札幌高裁に控訴しましたが、門野博裁判長は2002(平成14)年3月19日の判決公判で、「手段、方法は特定できないが、被告が秀徳君の死につながる行為に及んだことが認定できる」と一審の判断を追認しながらも、被告が経済的にひっ迫していたとしても「殺意を推認させる証拠もなく、殺意を認定することはできない」と工藤被告に無罪を言い渡しました。
 
それに対して検察が上告を断念したため、工藤被告の無罪が確定したのです。
 
無罪確定後に工藤元被告は、2002年5月2日に勾留期間の刑事補償1160万円を請求する訴えを地裁に行い、11月に928万円の支払い決定を受けています。
 
工藤元被告については、3度目の結婚・離婚をしたとも伝えられますが、その後の消息は知られないままで、もし存命であれば今年で69歳となるはずです。
 

 

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小川里菜の目

 

真相は闇の中ながら、これは、わずか9歳の少年が何らかの形で命を奪われた悲惨な事件で、また仮に和歌寿美雄さんの焼死も人為的なものであり、かつ同一人の犯行だとすれば、連続殺人事件ともなる凶悪犯罪だったことになります。

 

 

 

城丸君失踪の容疑者とされ殺人罪で起訴された工藤加寿子元被告への疑いは、札幌地裁と高裁のいずれにおいても関与が事実上認定されるほど濃いもので、小川も和歌さんの焼死を含めて彼女が犯人ではないかという心証を強く持っていますキョロキョロ

 

それにもかかわらず工藤元被告が無罪となったことについては、「黙秘権」の行使に注目が集まりましたけれど、それが有罪への壁になったと小川は思いませんショボーン

犯罪の立証責任は訴える側にあり、被疑者に自分に不利な証言をしない権利として黙秘権が保障されているのは、現代の司法として当然のことだからです。

 

また仮に、彼女が法廷で検事による被告人質問に黙秘でなく答えたとしても、自分の罪を自白するようなことでもしない限り、「無罪」という結果は同じだったと思われるからです。

 

有罪を立証するための物証がない最大の原因は、初動捜査に甘さがあったことではないでしょうか。

 

例えば、ネットでも指摘があるように、すぐに警察犬を投入して秀徳君の足跡を追わせることはできなかったのか、そして先に書いたように、最終接触者で警察も何らかの関与を疑っていたはずの工藤元被告人を、家宅捜索の令状をとるまではできなかったとしても、どうして行動をマークせず、彼の遺体が入っていたと思われる段ボール箱の当日夜の搬出をみすみす見逃してしまったのかです。

さらに、これも先に述べましたが、和歌さん宅の火災の原因が解明できないまま、工藤元被告の行動に不審な点が山ほどありながらも簡単に「事故」と断定してしまい、それ以上の捜査をしなかったことです。

 

城丸秀徳君と和歌寿美雄さんのいずれかで、もっとしっかりした初動捜査が行われていれば、その時点での事件解決も可能だったと思われるだけに、残念で仕方ありませんショボーン

 

最初のチャンスを逃してしまったあと、人骨が発見されてからそれが秀徳君の遺骨だと確定するまでに10年かかったのは、DNA鑑定技術の問題で仕方なかったと思います。

その結果、殺人罪以外の罪状がすべて公訴時効を迎え、殺人罪の時効成立もあとわずか2ヶ月ほどと迫った中での無理を承知の起訴となってしまいました。

 

初動捜査の不備が悔やまれるのは、工藤の犯行だと仮定しての話ですが、それが緻密な計画的犯行ではまったくなく、首をかしげるほどずさんな犯行だったからです。

 

和歌さん宅の出火時にも、午前3時に母娘が着飾って「避難」し、消防への通報もすぐにせずに十分燃えるのを待っていたかのような行動をとるなど、工藤元被告には常識的に考えて被災者を装うだけの知力も欠けているのではないかと思うほどの奇妙さです。

 

秀徳君の場合も、冬休みでまだ家族が家にいる可能性の高い時間帯に、誰が取るかもわからない家の固定電話にかけて呼び出すというのも妙な話です。

もし、何時に電話するから必ず秀徳君が取ってと前もって打ち合わせていたのなら、そんな面倒なことをせず、待ち合わせの場所と時間を決めておけば済む話です*。

また呼び出すとしても、秀徳君を利用して良からぬこと**を考えていたとすれば、自分の家に直接来るように言うなど、あまりにも用心深さに欠けます。

 *電話の主に秀徳君が何らかの弱みを握られ脅かされていたのではという指摘については、電話で話す秀徳君の緊張した様子からも可能性があると思いますが、それならなおさら家族に知られないように秀徳君を呼び出すのが普通だと思います

 **検察は、工藤元被告による身代金目的の誘拐という見方を示していましたが、誘拐という犯罪の難しさから、高裁段階では秀徳君を操って家からお金を持って来させようとしたのではないかという可能性を裁判官は示しています。ただ、わずか9歳の子どもに家からまとまった額のお金を持って来させることなどできるのか、という疑問は残ります。

 

こうした「普通に考えるとありえない」としか思えないことから、だから工藤は「無実」だという主張があるかもしれませんが、秀徳君の遺骨の保管という工藤以外の関与が考えられない事実がある以上、「無実」という推理は成り立たないでしょう。

 

とすれば先にも触れたように、工藤元被告人自身が、計画的かつ常識的に考え行動するだけの知力に欠ける人物だったとしか小川には考えられないのです。

 

工藤が抱えていた膨大な借金も一体何に使ったお金なのか、和歌さんが貯めていた2千万円とも言われる貯金をわずか数ヶ月でパチンコだけに使い果たしてしまったのか……、そこから感じるのは、彼女の「悪知恵」というより、後先も考えずにその時々の気分で散財する、何の思考も働かさない「愚かな欲望」でしかありません。

 

もしもそのような人物のずさん極まりない犯行で何の罪もない2人の人間の命が奪われ、行為のずさんさにもかかわらず結果としてそれが「完全犯罪」になることを許してしまったのだとしたら、亡くなった城丸秀徳君と和歌寿美雄さん、そしてその遺族の方たちの無念は癒やされることがないでしょうショボーン

 

一事不再理の原則から、工藤元被告の無罪は確定したまま再び裁かれることがないだけに、せめてこの事件の捜査のどこに問題があったのかの検証だけはしっかりとしなければならないのではないかと思う小川です🔚

 

 

休日の昼下がり、昭和レトロな喫茶店に行ってみました♡

 
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やっぱりスタバとは違い、扉を開けるのに勇気がいります驚き💦

 

入ってみると音楽が控え目にかかり、人も少なく静かで、時の流れが急にゆったりしたような気持ちになりました。
 
昭和な雰囲気に誘われて、クリームソーダ、アイスクリーム、プリンアラモードと、ついついたくさん食べてしまいましたよだれ飛び出すハート

 

 

 

 
読んでくださり、ありがとうございましたニコニコ
次はリクエスト企画にします。
次回もよろしくお願いいたします💕

 


YouTubeもよろしくお願いします😺

今回もリクエスト企画ですニコニコ飛び出すハート

三崎事件  親子3人殺害

1971年

 ただ 一人生き残った 
息子の証言が決め手に  
 

朝日新聞(1971年12月22日)

 

事件現場の現在

二階建てだった本店兼住宅は取り壊され

北角に平屋の事務所だけが建っている

 

 

【事件の概要】

1971(昭和56)年12月21日午後11時30分ごろ、「マグロの町」として知られる神奈川県三浦市三崎で船舶食糧販売業「岸本商店」を営む岸本繁さん(当時53歳)の本店兼自宅の1階事務室で繁さん、1階浴室で入浴中だった妻の喜代子さん(同49歳)、そして2階への階段の上部付近で次女の昌子さん(同17歳、高校2年生)の家族3人が、訪ねて来ていた知人と見られる中年男性に刃物で刺され、夫婦は即死、次女は重傷を負いながらも助けを求めて外に逃げましたが、救急搬送先の三浦市立病院で22日午前0時17分に亡くなりました。

 

 

当時家にいた家族4人の中では、次男の昌孝君(同14歳、中学2年生)だけが2階から飛び降りて逃げたため、助かりました。

 

昌孝君の証言によると、22日の午後11時5分ごろ、商店西側の勝手口の施錠していないシャッターと内側のガラス戸を開けて男が入ってきました。

1階事務室のソファーで新聞を読みながら父親の帰りを待っていた昌孝君は男に、「どちらさんですか。何のご用ですか」と聞いたのですが答えないまま男が「ソファーに座れ」と言うので一緒に座り、約7分ほど話をしたそうです。

 

男が、「お父さん、お母さんは元気か」「お父さんはどこに行った」「8歳のときに会ったのが最後だったが、ずい分大きくなったな」などと話かけてくるので昌孝君はそれに応じていました。

10分か15分して父親の繁さんが、長男に任せている岸本商店原町店から帰宅し、事務室に入ってきて男を見ると、「めずらしい人が来たな」と言ったそうです。

 

昌孝君は、男と父親が話を始めたので2階に上がり、寝床につきました。

 

ところが、それから10分ほどして階下で大きな物音と母親の「キャー、助けて」という叫び声がしたので、姉弟が階段の降り口に出て下を見ると、先ほどの男が血のついた刃物を持って下の廊下に立っており、二人が「人殺し」と叫ぶとものすごい勢いで階段を昇って来たそうです。

 

昌子さんは階段の上から2段目付近で男に刺されながら階下から外へと逃げました。

一方、昌孝君は男が追ってきたので北側の自室の窓から道路に飛び降り、路上にいた姉と一緒に家の向かいにある食堂「かねしろ」(上の航空写真の「食堂の跡地?」は小川の推測ですが、この辺りにあったと思われます)に駆け込んで助けを求めました。

 

読売新聞(1971年12月22日夕刊)

 

昌子さんは「かねしろ」の座敷に倒れ込みましたが、昌孝君が食堂にいた人と一緒に外に出ると、岸本商店の勝手口の近く(現在の全日本海員組合三崎支部付近)に駐車していた乗用車(コロナマークⅡ)の側に立っていた男が、「(犯人は)あっちだ、あっちだ」と大通り(横須賀三崎線)の方を指さし、自分は車に乗り込んで走り去ったのです。

 

この男は、同日の午後8時から9時ごろまで「かねしろ」で酒を飲んで焼肉を食べており、また事件後に騒ぎを聞いて外に出て男を目撃した近所の別の食堂の女将が、この男を知っていました。

 

こうした目撃証言をもとにその男を事件の容疑者と見て行方を探していた警察は、捜査線上に浮かんだ横浜で寿司店「あらい」を経営する荒井政男(同44歳)を、12月26日に長女の友人宅で発見し任意同行を求めました。

 

朝日新聞(1971年12月27日)

 

パトカーで浦賀警察署に連行し下車させようとした時、上の記事にあるように、突然荒井が警察官に頭突きをするようにして押しのけ路上に飛び出し、走ってきた車と接触して頭頂部に負傷したのです。

本人は否定していますが、後で述べる理由もあって自殺を図ったのではないかと見られています。

 

すぐに病院に運ばれた荒井は、比較的軽傷だったため、治療が終わった時点で殺人容疑で逮捕されました。

その後、警察は荒井の身柄を三崎警察署に移して取り調べを行いました。

 

読売新聞(1971年12月27日)

 

荒井政男は、1955(昭和30)年ごろにマグロ漁船でコック長をしていたころ、食糧品の仕入れを通じて岸本さんと知り合います。

1960(昭和35)年ごろに船を降りた荒井は、魚の行商を始め2、3年後には鮮魚店を開きましたが、時折り岸本さんの店を訪ねてはお茶を飲む程度の付き合いは続いたようです。

ところが、事件の9年ほど前に荒井が交通事故に遭ったころから付き合いは途絶えていました。

 

その後、横浜市金沢区谷津町の鮮魚店を寿司店「あらい」に改造した荒井は、それ以外にも団地のショッピングモールなどに鮮魚小売店4店舗を経営するまでになりました。

 

荒井政男

 

ところが、事件当時は店の経営が非常に苦しくなっており、三千万円を超える借金を抱えた荒井は、その一部でも年内に返せないと店舗の一つを開け渡さねばならないほどに追い詰められていたのです。

 

順調に商売を拡大してきた荒井の人生に狂いが生じたのは、事件前年の1970(昭和45)年9月に、詳細は不明ですが長女が「不幸な事件」に遭い、ぐれて家を出て行方不明になったことが原因でした。

 

鮮魚の仕入れだけは自分でした荒井ですが、あとの仕事は妻や店員に任せきりで、自分は娘を探すのに必死になり、仕事に身が入らなくなりました。

おまけに店員が売上金を横領するようなことも起き、経営状態がどんどん悪化して借金がかさんでいったのです。

 

また、長女を探している時に「不良仲間」に取り囲まれた荒井が激しい暴行を受けたことがあったため、彼は護身用として小刀を携行するようになっていました。

 

このように、借金返済のための金策と、娘を見つける手がかりを得ること、この2つが荒井の行動の背景としてありました。

 

【荒井の自供と否認】

東京高裁の判決文によると、12月26日に逮捕され三崎署で取り調べを受けた荒井容疑者は、その日のうちに犯行を自供しましたが、28日に検察庁に送られ検事の取り調べを受けると一転して犯行を否認します。

しかし29日になるとまた犯行を認め、それは翌1972(昭和47)年1月12日の最終取調べまで変わりませんでした。

 

ところが、横浜地裁横須賀支部で第一審の公判が始まると、荒井は再び犯行否認に転じ、その後の裁判を通して彼は一貫して無実を主張し続けたのです。

 

そこでまず、東京高裁の判決文(『判例時報』1367号所収)を参照して、彼の自供にもとづく事件の顛末を見ておきましょう。

 

ただし、犯行を認めた供述も、後であげる犯行を否認した供述も、取り調べや証言の段階で内容が変化したり、互いにつじつまの合わない話やどういうことか理解に苦しむ話が出てきますので、できるだけ筋が通るように小川がいくらか供述内容を取捨選択したことをお断りしておきます。

 

〈 犯行を認めた供述 〉

①娘の家出で商売に身が入らなくなり借金がかさんで金策に走り回っていた1971(昭和46)年11月20日ごろ(事件のひと月ほど前)、たまたま岸本商店の前を通りかかった荒井は繁さんに出会い、100万円ほどの借金を申し込んだところ心よく承知してくれ、ひと月後の12月20日ごろに取り来るよう言われた。

 

②そこで荒井は、12月21日の午後7時ごろ、岸本商店近くまで車で行って店を訪ねたが、繁さんは不在とのことで、妻の喜代子さんが出してくれたファンタ*を飲んでから一旦店を出た。

 *ファンタの容器(おそらくビン)に付着の指紋が、店内で検出された唯一の荒井の指紋

 

③車の中でウィスキーを飲んで待っていた荒井は、空腹だったので食堂「かねしろ」に入り、午後8時から9時過ぎまで焼肉などを食べながらまたウィスキーを飲んだ。

 

④食堂を出て車を勝手口に近い海員組合ビルのあたりに移動させた荒井は、飲み過ぎて下水の溝に嘔吐し路上で寝てしまった。

 

⑤午後11時ごろに目が覚めたので、勝手口のシャッターを開けて岸本商店に入った。

1階事務室にパジャマ姿の息子(昌孝君)がいたのでしばらく話をしていると、繁さんが帰ってきた。

 

⑥息子が2階に上がったので借金の話を持ち出すと、以前と態度が違って「1万や2万なら……」と繁さんが言うので、「話が違うじゃないか、そんなこと言わないで頼む」と言うと、「馬鹿野郎」と言いながら頬や頭を平手打ちされ、風呂場からも「だめだめ」という喜代子さんの声が聞こえたので、我慢できなくなった荒井は「ええくそと思って」持っていた小刀を抜いて繁さんを刺した。

 

⑦喜代子さんが大声を上げたので、風呂場に行って夢中で彼女を刺し、さらに2階の方からも大声がするので行くと、誰か(昌子さん)が階段を転がり落ちるように来てぶつかり、小刀が当たった。

 

⑧階段は2、3段以上には登らず、入ってきた勝手口から外に出て停めていた車に乗り、藤沢市の辻堂団地にある自分の鮮魚店の一つに行き、服と靴を替えて団地の焼却炉で小刀と一緒に燃やした。

 

⑨その後、アリバイ作りのために横浜市戸塚区飯島町の知人宅を22日の午前1時ごろ訪れ、「小田原まで集金に行った帰りに渋滞で遅くなったが、妻が心配するので自分が21日の午後10時ごろからここにいたと自宅に電話し妻に話してくれ」と知人に頼み、午前3時ごろまで話をして帰った。

 

一方、犯行を否認した後で荒井は、当日の自分の行動を次のように供述しています。

 

予め言っておきますと、荒井が「かねしろ」で飲食したこと、岸本商店に入り事件の現場を見て、外に出たところを多くの人に目撃され車で走り去ったことや、その後に知人宅を訪れたことは荒井自身も認めています。

 

〈 犯行を否認した供述 〉

❶12月21日の午後4時半か5時ごろ、荒井は家出中の娘を探そうと車で横須賀市内に行き、6時ごろまで探しても見つからないので、以前に何度も行ったことのある食堂(「かねしろ」とは別の近くの食堂)で腹ごしらえをしようと三浦市三崎に行った。

 

❷大通りの方に車を停めて車内でウィスキーを飲んだ後、上記食堂に行こうと岸本商店の前を通りかかると、シャッターの下が開いていたので、「コーラ」でも飲ませてもらおうと入り、妻の喜代子さんからファンタをご馳走になってその場で飲んでから店を出た。

 

❸結局、近くの食堂「かねしろ」に入り、午後8時ごろから1時間ほど焼肉などを食べながらウィスキーをコップで飲んだ。

この時に、護身用に持っている小刀をテーブルの上に出して居合わせた人に見せた。

 

❹車を海員組合ビルの近くに移動させたが、飲み過ぎて気持ちが悪くなり、下水の割れ目に嘔吐してからその近くに座って寝込んでしまった。

 

 

❺岸本商店のシャッターの開く音で目が覚めてそちらを見ると、男が店内に入っていくのが見えた。時計を見ると午後11時だった。

男は店員だろうと思ってしばらくトロトロしてから、車に入って寝ようとした時、岸本繁さんがシャッターの前にいたので挨拶を交わすと、繁さんは家に入って行った。

 

❻車の後部座席に横になって少しすると、人の声がしてシャッターが開き、人(昌子さん)が出てきて道路にしゃがみ込み、その後に男が出てきて荒井の車の側を通って北東の方向に走り去った。

 

❼そこで、夢中でシャッターをくぐり店内に入ると、事務室で繁さんが血だらけで倒れており、呼んでも返事がなかった。

まだ誰かいる気配がしたので、持っていた小刀を出して手に持ち、「誰かいるか!」と言ってから外に出た。

 

❽食堂「かねしろ」の外にいたパジャマ姿の男の子(昌孝君)が、「あの人を捕まえて」と自分を見て叫んだので、左手を少し上げながら「何言ってるんだ、犯人は逃げた、いないよ」と言ってから車に戻ったが、小刀を手にしていて犯人呼ばわりされたのでこれはいけないと思い、車を発進させた。

その時、食堂の主人が電話しているのが見えたので、110番通報をしていると思い自分はしなかった。

 

❾その後に知人宅を訪れたのは、別の知人から取引の仲介を頼まれ、うまくいけば借金の保証人になってやる(その別の知人の証言では「マージンを支払う」)と言われたからで、夜中でないと本人が帰宅しないと以前家人に言われたので真夜中の訪問になった。

妻への電話を頼んだのは、妻がいつも過剰に交通事故の心配をし、すぐに警察に問い合わせの電話をするので、心配しないようかけてもらった。

 

 

こうして知人宅を後にした荒井のその後の行動はどういうものだったでしょう。

 

12月22日の真夜中に知人宅を訪問したその日の朝、午前9時半ごろ、荒井は知り合いの生命保険会社の女性を訪ねて、今日中に保険に入りたいと言って五千万円の保険を契約しています。その時、交通事故で死んだ時の保険金支払いについて聞いたそうです。

この保険契約は急に思い立ったことのようで、初月に支払う保険料も持っていなかった荒井は、女性に立て替えてもらっています。

 

12月23日に荒井は金策のため郷里の石川県に行き、実弟から100万円を借りて25日に横浜に戻っています。

その足で彼は、かつて自分の店で働いていた知人宅に行き、23日に石川に行く旅費として借りていた5千円を返してから話をしたそうですが、知人によると彼は「自殺する」とか「最後の挨拶に来た」といった話をしたそうです。

 

12月26日、荒井は長女を探すために、横須賀市の娘の友だちの家を訪ねています。

その家に荒井がいた午後1時半ごろ、彼を探していた警察官がやってきて荒井は任意同行されました。

 

先に見たように、任意同行で浦賀署まで行った際に荒井は、警官を突き飛ばしてパトカーからいきなり車道に飛び出し、車と接触してケガを負いましたが、それは自分の死亡時保険金で家族が三千万円余りの借金を返済できるようにと思っての自殺未遂だったのかもしれません。

 

なお長女ですが、荒井が逮捕されて取り調べを受けている間に、事件を知ったからか、家に帰ってきたそうです。

 

【 裁判と判決 】

すでに見たように、取り調べで一旦は犯行を自供しながらそれを覆し、その後また犯行を認めて裁判にかけられた荒井は、そこでまた犯行を否認し、その後は一貫して無実を主張し続けます。

 

そうした荒井に対し、一審の横浜地裁横須賀支部は、1976(昭和51)年9月25日、犯人と顔を合わせている昌孝君の目撃証言は「きわめて信ぴょう性の高いもの」である一方、「被告人の犯行の手口は、残虐きわまりないもので、公判廷での供述は弁解のための弁解であって、反省の余地は見られない」として、求刑通り死刑を言い渡しました。

 

読売新聞(1976年9月25日夕刊)

 

被告・弁護側が無実を主張し控訴したため、東京高裁で控訴審が開かれましたが、1984(昭和59)年12月18日の判決公判で小野慶二裁判長は、犯行を否認する被告の供述には不自然なものや前後矛盾するなど内容に疑問が多く、虚偽と断ぜざるを得ないとして、控訴を棄却し原判決の死刑を支持しました。

 

読売新聞(1984年12月19日)

 

被告・弁護側は最高裁に上告しましたが、1990(平成2)年10月16日、最高裁第3小法廷の坂上壽男裁判長は、1、2審の死刑判決を支持して上告を棄却し、荒井政男に対する死刑が確定しました。

 

毎日新聞(1990年10月16日夕刊)

 

死刑確定後の1991(平成3)年1月31日、荒井死刑囚の弁護団は、横浜地裁横須賀支部に再審請求を行いました。

 

目撃証言以外に荒井の犯行を裏づける客観的な物証がほとんどないこの事件で、ほぼ唯一の物証とされたのが、荒井の車のトランクにあった大工道具袋に付着の血液が被害者の岸本繁さんのものだとされたことです。

 

荒井も岸本さんも、大工道具袋に付着のものと同じ血液型(A型)で、荒井は自分が以前にケガをした時についたものだと主張しましたが、MN式血液型では袋=M型、岸本さん=M型、荒井=MN型と出たため、岸本さんの血液だと裁判では認められ、有力な物証とされたのです。

 

しかし、古い血液痕ではMN式血液型の正確な判定はできないことが明らかになったため、弁護側はDND鑑定を求めて再審を請求したのです(第1次再審請求)。

 

ところが、2009(平成21)年9月3日、糖尿病や高血圧を患って7月中旬ごろから体調が悪化していた荒井死刑囚は、敗血症のために東京拘置所で病死(82歳)してしまいます。

 

そのため、「父は最後まで、私に無罪だと言っていた。獄中で死んだ父の無念を晴らしてほしい」という長女ら遺族が再審請求を引き継ぎました(第2次再審請求)。

 

読売新聞(2010年4月7日)

 

それを受けて2010(平成22)年3月16日、横浜地裁横須賀支部は、再審前にDNA鑑定を実施するとの異例の決定をし、大工道具袋の血痕が弁護側の主張どおり荒井のものであるかどうか鑑定しました。

しかし、結果は荒井のものでないことが分かり、2011(平成23)年8月23日に再審請求は棄却されました。

 

遺族・弁護団は、ミトコンドリアDNAの鑑定で道具袋の血痕は被害者の岸本繁さんのものでないとする鑑定書を添えて即時抗告しましたが、高裁・最高裁も2022(令和4)年4月までに再審請求を棄却しました。

 

遺族・弁護団は、棄却決定はDND鑑定の結果を正しく評価していないとして、2023(令和5)年1月17日に、横浜地裁横須賀支部に第3次再審請求をおこないました。

現時点では、その結果はまだ出ていません。

 

読売新聞(2023年1月18日横浜版)

 

 

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小川里菜の目

 

高校生の娘を含む一家3人が刺し殺されるという残虐な事件です。

容疑者として逮捕され、裁判で死刑判決を受けた荒井政男は、公判で無実を主張し、死刑確定後も再審を請求しました。

本人は病気のために獄中死しましたが、遺族が跡を継いで再審請求が続けられています。

 

荒井が判決どおり殺人犯だったのか、それとも不幸な偶然が重なって犯人と思われながら真犯人は別にいて罪を免れたのか、どちらと言えるだけの確証は小川にはありませんショボーン

 

確かに、荒井の不可解な行動や二転三転する供述、一方おおむね一貫した昌孝君の目撃証言、荒井の車の側を通って逃げたという「真犯人」を誰も見ておらず足音も聞いていないことなどを考えると、荒井の犯行でほぼ間違いないのではないかと小川も思います。

 

ただ、「誰が見てもいかにも犯人らしい」からこそ、予断に囚われることなく、本当にそうなのか慎重に裏づけを取る必要があるとも思うのですキョロキョロ

 

けれども、これまでにも述べたように、この事件では荒井を犯人とする客観的な物証がなく(事実上唯一の物証だった道具袋の血痕も、被害者のものだとした裁判での判断が、ミトコンドリアDNA鑑定で疑わしくなっている)、自白した内容(服や靴、凶器の刃物を団地の焼却炉で燃やしたなど)を裏づける証拠も得られていないようです。

 

また、被害者に近づいて小型の刃物*で刺殺したわけですから、犯人ならかなりの返り血を浴びずにはすまないと思われるのですが、荒井の車の運転席付近からは「米粒大」と「粟粒大」の血痕数点が見つかっただけで(微量すぎて血液鑑定はできなかったのでしょう)、荒井が血痕を拭き取った可能性がないのか、警察はルミノール反応の検査をすべきところしていません。

 *未発見の凶器の刃物については、傷口から刃渡り20cmぐらいのものと推定されており、「クリ小刀」や「アナゴ裂き包丁」(もしそうであれば刃渡りは普通10〜15cm)などと高裁判決文では書かれていますが、いずれにしても荒井が持っていたのはポケットに携帯できる程度の小型の刃物と思われます。

 

そして、小川が一番疑問に思うのは殺害動機ですびっくりマーク

 

荒井が犯人だとして、それが計画的な犯行でないことは裁判所も認めています(真犯人が別にいるなら、計画的犯行の可能性もあります)

 

自供では、借金を断られた上に岸本さんからバカにするようなことを言われ、頭や頬を平手打ちまでされた(岸本さんが日頃からすぐに手をあげるような人でないなら、このシチュエーションも想像しずらい)のでカッとなって刺したというのですが、行商から叩き上げた苦労人の荒井が、その程度の屈辱で我を忘れ、さらには侮辱した本人だけならまだしも、すぐに逃げずに風呂場にまで行って入浴中の妻を刺し殺し、子どもたちまで殺そうとしたのは、かねてから相当強い恨みを蓄積させていなければ想像しにくいことです。

しかし、そこまでの怨恨を荒井が岸本さん一家に抱いていたとは裁判でも言われていません。

 

また、いざとなれば「事故」を装った自殺で支払われる自分の保険金で家族が借金を返せるようにと考えるまで追い詰められた心境にあった荒井ですが、事件の翌日からそれまでと変わらず金策と娘の捜索を続けています。

 

荒井の犯行を疑わせる理由については、「荒井は交通事故で足が不自由になっているため、昌孝君の言うように階段をすごい勢いで駆け上がるのは難しい」「現場に残されたゴム長の靴跡が荒井が普段履いているものよりサイズが小さい」「靴跡は正常な歩行をする者のものだと鑑定されている」「突発的な犯行にもかかわらず、荒井の指紋がファンタの容器以外は室内から検出されない」などが弁護側からあげられています。

 

控訴審の東京高裁は、これらの疑問点についてかなり詳しく検討を重ねており、裁判官の誠実さを感じさせる判決文になっています。

 

ただ、それらの検討の結果は、荒井の犯行だとしても「不自然とまではいえない」「考えられなくはない」といった可能性を認めるにとどまる箇所が多く、残念ながらどうしても決め手に欠ける印象を払拭するには至っていないというのが、小川の正直な感想です。

 

車のルミノール検査をしなかったことなど、荒井の逮捕当日の自供で「決まり」と警察は早々に考えたのかもしれませんが、死刑という「誤審だった」ではすまない判決を下す限りは、自白と目撃証言だけに頼らず、徹底した裏づけ捜査で確かな物証*を発見する努力をもっとすべきでなかったのかと悔やまれますキョロキョロ

 *犯人が事務所で吸ったタバコの吸い殻が、警察が撮った現場写真に写っているにもかかわらず、犯人特定につながる可能性のあるその大事な証拠品が、行方不明になったそうです。

 

その後に導入された検査・鑑定技術なども駆使して、再審有罪であれ再審無罪であれ、今からでも真実により近づく可能性が少しでもあるのならば、荒井自身はもう亡くなっていますが、被害者と加害者双方の遺族のためにも、再審を通してこれまでよりも確かな形で決着をつけるという判断に裁判所は踏み切ってほしいと思う小川です。🔚

 

 今回、最高裁の判決文は「大判例」で見つかったのですが、地裁と高裁のものが見つからず、高裁の判決文が掲載された『判例時報』のコピーを国会図書館から取り寄せるのに2週間かかりました😂

 

 

5月19日の日曜日は、

神戸の元町に映画を観に行きました

 
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日曜日は普段は仕事なのですが、この日は午後からの出勤にしてもらいました。

日曜日にお出かけするのは、すごく久しぶりでした😸

 

 
以前に書いた、ベトナム戦争時に米軍が大量に散布した枯葉剤の影響と見られる結合双生児、「ベトちゃんドクちゃん」についてのブログです⬇️

 

 

観に行ったのは「ベトちゃんドクちゃん」のうち、「ドクちゃん」の今を描いたドキュメンタリ映画で(兄の「ベトちゃん」は、2007年に26歳で逝去)、制作にあたって小川もほんの少しですがカンパさせてもらいました。
 

*だいぶ早く入ったので写真ではガラガラですが

上映時には多くの観客が来られていました


こちらが、今回観た映画です⬇️

 

 

ドクさん一家(妻と双子の兄妹フジとサクラ)の現在の生活や、誕生から分離手術を受けた後のドクさんの結婚・子育て・仕事などの様子が、美化せずありのままに、お子さんにも分かりやすく描かれています。

家族でご一緒に、また「ベトちゃんドクちゃん」を知らない若い世代の方にもぜひ観ていただきたい映画だと思いましたおねがい

 

 
読んでくださり、ありがとうございました😺飛び出すハート

今回もリクエスト企画ですニコニコ飛び出すハート

札幌もみじ

通り魔殺人事件

1985年

通り魔殺人事件」とは、警察庁によると、「人の自由に出入りできる場所において、確たる動機がなく通りすがりに不特定の者に対し、凶器を使用するなどして、殺傷等の危害を加える事件」を言います。
 

今回は、「1985年の札幌もみじ台 通り魔殺人事件」のリクエストをいただきましたが、1980年代には現在よりも通り魔殺人事件が多く発生していました。

そのうち、リクエストくださった事件を中心に、よく似たもう一件の通り魔殺人事件も加えて見ていきます。

 

【1985年 札幌もみじ台 通り魔殺人事件】

 
朝日新聞(1985年9月3日)
 
1985(昭和60)年9月2日午後6時45分ごろ、札幌市白石区(1989年の分区で現在は厚別区)もみじ台にあるもみじ台ショッピングセンターの北西出入り口踊り場付近で、1人で本を買いに来て帰ろうとしていたもみじ台中学校3年の海藤恵子さん(当時15歳)が、背後から来た中年男性にいきなり胸や腹を包丁で刺され、間もなく失血死しました。
 
毎日新聞は目撃者の話として、「恵子さんはショッピングセンター内で男に追いかけられ、店外へ逃げたが踊り場付近で追いつかれ、腕で首を絞められたうえ、持っていた包丁で、わき腹を刺された」と報じています。
 
もみじ台団地に囲まれたショッピングセンター
北側のもみじ台北6丁目に
恵子さんの住む郵政官舎があった
 
ショッピングセンターの北西出入り口
階段の上の踊り場が刺された現場
(写真は現在)
 
犯人はそのまま逃走しましたが、殺人事件として男の行方を探していた警察は、9月6日になって近くに住む無職のA男(同42歳)を殺人容疑で逮捕しました。
凶器となった包丁に残された指紋が、前科のあるA男のものと一致したのが逮捕の決め手となりました。
A男が犯行に用いた文化包丁は、直前にショッピングセンター内の金物店で購入したものでした。
 
読売新聞(1985年9月3日)
 
読売新聞の第一報は、事件を恵子さんのポシェットをねらった物盗りの犯行のように報じていますが、逮捕後の取り調べで、A男は事件の10年ほど前から、当時の言い方では「精神分裂病」(以下、現在の呼称である「統合失調症」と記載)を発症して入退院を繰り返しており、1980(昭和55)年からは通院治療を受けていて、この日も「頭がくしゃくしゃしていて、女の子でも刺せば気が晴れるだろう」と犯行に及んだことが分かりました。
 
9月7日にA男は検察庁に送られましたが、札幌地検はA男の供述から精神鑑定が必要と判断し、札幌地裁も2ヶ月の鑑定留置を認めました。
その鑑定結果を参考にして札幌地検は11月7日に、犯行当時A男は「統合失調症で、心神喪失状態にあった」と判断し、不起訴処分にしました。
即日A男は、札幌市内の精神科病院に措置入院(強制入院)となりました。
 
読売新聞(1985年11月8日)
 
この事件では、犯人が逮捕されながらも、精神病による心身喪失状態で責任を問えないと裁判にかけられる以前に不起訴処分になったため、これ以上の情報がなく、A男の履歴や病状についても詳しいことは分からないままです。
 
【1988年 東京八丁堀 通り魔殺人事件】
札幌もみじ台の事件と似た通り魔殺人事件がその後も横浜や下関で起きていますが、2年半後の1988年に東京で起きた事件を見てみましょう。
 
読売新聞(1988年4月4日)
 
1988(昭和63)年4月3日午後1時55分ごろ、東京都中央区八丁堀の交差点の歩道で信号待ちをしていた根本昭子さん(当時42歳)を、「人間はみんな死ななきゃならないんだ」などとわめきながら坊主頭の男が果物ナイフでいきなり刺し、逃げる根本さんを執拗に追いかけてさらに何度も刺し失血死させる通り魔殺人事件が起きました。
 
八丁堀交差点(現在)
で刺され矢印のように逃げた根本さんを
B男が追いかけてめった刺しにした
 
朝日新聞(1988年4月4日)
 
110番通報で駆けつけた警察官が、現場から100メートルほど離れた路上で、返り血を浴びナイフを持って立っている男を見つけ、その場で取り押さえ殺人と銃刀法違反で現行犯逮捕しました。
 
調べによると、中央区に住む犯人のB男(同43歳)は、約20年前から統合失調症で八王子市内の精神科病院に入院していましたが、事件の前年(1987)6月に「治った」と言い張って退院し、弟が経営するマージャン店を手伝いながら通院治療を受けていました。
 
B男の自供によると、「小さいころから不幸続きだったので、人を殺せば幸せになれる」と思い、前々日の4月1日に近所の金物店で購入した果物ナイフを持ち、3日午後1時ごろ「誰かを殺そう」と外出し事件現場まで来たところ根本さんを見て、「女なら殺せる」と考え刺したとのことです。
 
朝日新聞(1988年6月8日)
 
B男の精神鑑定を行った東京地検は、1988年6月7日、鑑定結果から「男は統合失調症で、犯行時、心神喪失状態だった」とし、不起訴処分にしました。
B男は即日、都内の病院に措置入院となりました。
 

 

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小川里菜の目

 

【通り魔殺人事件と精神障害】

1980年代は現在よりも通り魔殺人事件が多く発生していたと書きましたが、警察庁の資料で発生件数の推移を見ておきましょうキョロキョロ

 

昭和61(1986)年度「警察白書」

(加工・西暦は小川、以下同)

 

ご覧のように「札幌もみじ台」の事件が起きた1985(昭和60)年は、統計がある限りで「過去最高(悪)」の16件(うち未遂が12件)の通り魔殺人事件が発生しています。

 

データが得られなかったので間が飛びますが、1993(平成5)年から2011(平成23)年の通り魔殺人事件の認知件数は下のようになっており、最も多かったのは2008(平成20)年の14件で、1985年の16件に次いでいます。

 

 

この2008年には、大きく報道された次のような通り魔殺人事件が起きていますが、いずれも犯人は精神障害者とは認められていません。

 

①土浦連続殺傷事件 3月19日・23日 茨城県土浦市

 犯人・金川真大(当時24歳) 2人死亡、7人負傷

 2013年2月死刑執行

②福岡連続殺傷事件 3月25日・4月14日 福岡県福岡市

 犯人・野地 卓(同22歳) 1人死亡、1人負傷

 無期懲役

③秋葉原通り魔事件 6月8日 東京都千代田区秋葉原

 犯人・加藤智大(同25歳) 7人死亡、10人負傷

 2022年7月死刑執行

④八王子通り魔事件 7月22日 東京都八王子市

 犯人・菅野昭一(同33歳) 1人死亡、1人負傷

 懲役30年

 

しかし、1993年から2011年の19年間の平均値は6.5件ですから、先に見た1981年から1985年の平均値9件より3割近く少なくなっています。
 
その後の2012(平成24)年から2023(令和5)年になると、認知件数が10件以上の年はありません。
 
CrimeInfo「通り魔殺人事件の認知・検挙事件数」
 
また、この12年間の平均値は6.6件ですから、1993年から2011年の平均値6.5件から変わっていません。
 
なお、これらの事件のうち精神障害者による犯行がどれぐらいあるかですが、先に見たように、1985年に起きた通り魔殺人事件では「精神障害者による犯行が8件と半数を占めた」と「警察白書」(1986)に書かれています。

 

ただし、ここで言われる「精神障害者」には、精神衛生法️/精神保健福祉法に則って、統合失調症など「(狭義の)精神障害者」だけでなく、覚醒剤などの薬物使用者・依存症者、知的障害者、精神病質者(サイコパス)が含まれています。

 

たとえば、内訳データの記載がある昭和57(1982)年度版「警察白書」によると、1981(昭和56)年の通り魔殺人事件の検挙件数6件(1986年度「警察白書」の表の青枠)の加害者内訳は、「覚醒剤使用者」が3件と半数を占め、「(狭義の)精神障害者」は1件、「その他」(広義の精神障害者以外)2件です。

 

しかも、ここでの「(狭義の)精神障害者」は「統合失調症以外」とのことですので、通り魔殺人事件の加害者には「(狭義の)精神障害者」とりわけ統合失調症者が多いということでは必ずしもないようです。

 
しかし1985年には、9月2日の「札幌もみじ台」事件に続き、9月19日に山口県下関市で精神科病院に通院歴のある男性が日本刀で母親を殺害したあと、通りに出て11名を殺傷する(うち死者3名)通り魔殺人事件が起きて日本中を震撼させたことから、精神障害と通り魔殺人の因果関係が大きくクローズアップされ、「だから精神障害者は怖い」という社会不安が広がったと思われます。
 
近年では、2021(令和3)年12月17日に大阪・北新地の雑居ビルに入る心療内科クリニックで、元患者である容疑者を含む27人が亡くなる放火事件が起き、容疑者も医師も死亡したため真相がよくわからないまま、精神障害者は殺人などの凶悪犯罪を犯す可能性が高いのではという不安が再燃しました。
 
炎と煙をあげる放火事件の現場
 
実際にはどうなのでしょうかキョロキョロ
 
次の表は、最新の「令和5(2023)年版犯罪白書」に掲載された「精神障害者等による刑法犯検挙人員」です。
 
刑法犯での検挙者総数に占める「精神障害者等」の割合は0.8%で、「等(=精神障害者の疑いのある者)」を除いた「精神障害者*」だけを見ると同割合は0.6%です。
 *先に述べた「(広義の)精神障害者」、表の注2(赤枠内)を参照ください
 
 
「令和元(2019)年版障害者白書」によると、精神障害者の概数は419万3千人で、人口の3.3%ですから、精神障害でない人が刑法犯で検挙される割合の方が精神障害者より約5倍も高いのですびっくり
したがって、「精神障害者は犯罪を起こしやすい」という「印象」は、事実無根の偏見に過ぎないことがわかります。
 
ただご覧のように、刑法犯のうち「殺人」(6.2%、「等」を除くと3.7%)と「放火」(12.6%、同10.3%)については割合の数値が高くなっています(この傾向はどの年も変わりません)。
 
これについて鈴木隆行・日本医療大学認知症研究所研究員は、「それらは外部への無差別的なものではなく、家族や自宅などの近親関係に対するものが多く、一般の犯罪とは同列には論じられない」と述べています(毎日新聞 医療プレミア「犯罪率は決して高くないのに……精神障害者への冷たい視線」2022年1月25日)。
 
これを裏づけるデータとして小川が見つけたのは、次のものです。
 
平成13(2001)年版「犯罪白書」
 
殺人事件における加害者と被害者の関係別構成比のデータ(1996年から2000年の累計)で、右が全検挙者で左が精神障害者が加害者のケースです。
 
一般に、殺人事件の被害者の大多数は加害者の身近な人間(知人や家族・親族)だとよく言われますが、このデータを見てもその通り(85%以上)で、「他人(第三者)」が被害者となったケースは15%以下に過ぎません。
この傾向は、加害者が精神障害者であってもなくても変わりません。
 
明らかに違うのは、全体では加害者の「知人」が被害に遭うケースが「親族等」よりやや多い(ほぼ同数)のに対し、精神障害者の場合は、先にあげた鈴木氏が「近親関係に対するものが多く」と言うように、「親族等」が被害者になるケースが7割にも上る点です。
 
このようにデータを見ても、通り魔殺人のように「精神障害者は相手かまわず人を襲う」という「不安」を裏づける事実はなく、「第三者」が被害者となる殺人事件の割合も精神障害の有無で違いはないということがわかります。
 
ちなみに、中村有紀子・越智啓太(法政大学)は、通り魔殺人事件を「精神障害型」「強盗型」「復讐型」の3類型に分けて、それぞれの犯人の属性(年齢や職業、婚姻歴の有無など)の特徴を考察していますが(日本心理学会第78回大会、2014)、3類型の件数割合などについては論じていません。
 
しかし、「強盗」や「復讐」だと動機が理解可能で、ある程度予防策も考えられるのに対し、「精神障害」、中でも妄想などを伴うことのある統合失調症や、覚醒剤などによる錯乱の場合は第三者に予測不能なため、発生件数自体少なくてもそれが喚起する社会の不安感は大きいと言えるでしょう。
 
【心神喪失・心神耗弱と不起訴処分】
たとえ発生の可能性が低くても、精神障害者による殺人事件に被害者遺族をはじめ多くの人がやりきれなさを感じるのは、精神障害が原因の場合、裁判以前に心神喪失あるいは心身耗弱*で検察が不起訴処分にするケースが多いからではないでしょうか。
 *刑法39条に、「1. 心神喪失者の行為は罰しない。 2. 心神耗弱者の行為は、その軽を軽減する。」とあり、「心神喪失者」とは「精神の障害によって,自己の行為の是非善悪を弁別する能力を欠くか,又はその能力はあるがこれに従って行動する能力がない者」、「心神耗弱者」とは「このような弁別能力又は弁別に従って行動する能力の著しく低い者」を言います。
 
平成18(2006)年版「犯罪白書」には、検挙された刑法犯のうち「精神障害者等」が約2400人ありますが、そのうち「心神喪失・心神耗弱」を理由に不起訴処分もしくは裁判で無罪になったのは約800人(約33%)で、3分の2は起訴もしくは裁判で有罪になっています。
 
また、不起訴あるいは無罪になった場合も、強制的な措置入院となるケースが大多数で、しかもその期限が定められておらずいつ退院できるか分からない「無期」入院もあります。
 
次のデータは、1996(平成8)年から2000(平成12)年の5年間に、殺人事件の刑事処分において検察庁で精神障害のため心神喪失・心神耗弱と認められ不起訴になった者と、裁判でそれらと認められ無罪あるいは刑の軽減を受けた者の合計702人の刑事処分後の状況を示したものです(平成13(2001)年版「犯罪白書」)。
 
 
ご覧のように、大部分(約85%)が「実刑・身柄拘束」「措置入院(強制入院)」となっており、「その他の入院」「通院治療」を含めると94%が何らかの措置を受けていて、「精神障害者は何をしても無罪放免」というイメージが正しくないことが分かります。
 
ちなみに、刑法犯として検挙された者(全体)のうち、実際に起訴されるのは一般にどれくらいあるかですが、次の表は2003(平成15)年から2022(令和4)年の起訴に関するデータで、起訴率が下がり続けて2022年には36.2%になっていることが分かります。
 
「その他の不起訴」は「嫌疑なし(犯罪事実がない)」「嫌疑不十分(証拠不十分)」があり起訴ができないケースですが、「起訴猶予」は犯罪の事実は認められるが何らかの理由であえて起訴しないケースです。
つまり、刑法犯全体においても、2022年では犯罪の嫌疑がある者のうち半数以上が「起訴猶予」になっているのです。
 
2023(令和5)年版「犯罪白書」
 
確かに、精神障害者の場合、殺人事件を起こしても実刑になるのは13%ほどで、大部分が「措置入院」になっていることについて、それが強制的で無期だとはいえ、多くの被害者遺族の処罰感情にそぐわないという事実はあると思います。
 
小川は行政書士の資格勉強をする中で、小さな子どもや重い認知症の人のような「制限行為能力者」(自らの意思に基づいて判断ができない、または法律行為をすることのできない者)という概念を学びましたが、責任能力が備わっていない者に対して、責任能力がある者と同じ形で行為責任を問うことができないのは、ある意味当然の論理だと思います。
 
そうした法の論理と、先に述べた被害者遺族のこれもまた当然の感情とどう折り合いをつければ良いのかとても難しい問題で、ここで結論的なことを言うだけの見識は小川にはありません。
 
最後に、そのこととも関係して考えておきたい問題があります。
 
北海道日高地方にある統合失調症の患者を中心とした非常にユニークな活動で知られる当事者施設「浦河ベテルの家」については、前にもこのブログで少し触れたことがありますが、そのメンバーの一人である山本賀代さんという人が、次のような詩を書いています。

 

あたしの どこがいけないの

あのこの どこが変でしょう

 

目に見えるもの 少し違うかもしれない

聞こえてくること 少し違うときもある

 

だけど それだけで 見下さないで 見捨てないで

 

私だって笑ってる 私だって怒ってる

私たちも愛し合う 私たちも語り合える

痛みもある 喜びも 苦しみも あなたと同じに 感じているはず

 

人間なんだ あなたと同じ

人間なんだ 私もあなたも

人間なんだ 病気とかでも

人間なんだ あなたも私も

 

同じ権利をください 裁かれる権利もください

同じ力をください 同じ立場をください

人と人として

 

自分の詩を歌う山本賀代さん(右)と

曲をつけた下野勉さん(左、故人)

 
ここで山本さんは、精神障害の当事者として、「裁かれる権利もください、人と人として」と訴えています。
 
精神障害者だからというだけで自分の意思を持たない無能力者として扱うのではなく、自分の行為に責任を負う一人の人間として「裁かれる権利もください」というのは、決して彼女の特異な主張ではなく、障害当事者の運動の中で上げられている声だと聞きます。
 
それについてはまだ調べられていませんが、きちんと受けとめて考えないといけないことがそこにあるのではないかと、今回のブログを書きながらあらためて思った小川ですショボーン
 

 

今週は事業所のお出かけイベントがあり
みんなでこちらに行ってきました↓
 

 
 

 

 

 

 

 

 

 

 

来場の人たちの多くは、生きたフクロウが見られて喜んでいたようです。
しかし小川の本心を言うと、フクロウは大好きなのですが、それだけに
みんな足をヒモで繋がれていて
飛ぶことはもちろん、歩くことさえ少しの範囲しかできずにじっと耐えているかのようなフクロウたちに、心が痛くなりましたえーんえーんえーん
前回のおせんころがし殺人事件のコメントで、動物虐待についてのやり取りした後のことでしたので、なおのことそう感じたのかもしれません𓅓
 
読んでくださった方、ありがとうございましたおねがいドキドキ
次回もリクエスト企画です爆笑

今回はリクエスト企画ですニコニコ

おせんころがし殺人事件

1951年

 

毎日新聞(1951年10月11日夕刊)
 
【「おせんころがし」での惨劇】
戦後の混乱がまだ収まらない1951(昭和26)年10月10日の午後6時ごろ、千葉県夷隅郡興津町(いすみぐんおきつまち、現在の勝浦市)にある国鉄(現在のJR東日本)上総興津(かずさおきつ)駅の待合室に、途方にくれたようすの母子連れがいました。
 
1927(昭和2)年開業時のままの駅舎
 
母親は、神奈川県横須賀市田中町(現在の西浦賀)で「蛇屋」(ヘビから滋養強壮のための漢方薬などを製造販売する商売)を営む小林八郎さん(当時42歳)の妻てる子さん(同29歳)で、房総半島にヘビを獲りに行ったまま連絡がとれなくなった夫を、3人の子ども(長女9歳、長男6歳、次女3歳)を連れて探しに来たのです。
 
関東に多いという蛇屋(例)
 
ところが、駅に着いた時には乗るつもりだった最終列車が出てしまっており、どうしたものか困り果てていました。
 
そこに自転車を押した若い男が近づいてきて、どこに行くのかと母親に尋ねました。
彼女が具体的な地名を口にしたかどうかは不明ですが、西の方(館山方面)に行くと言ったのでしょう、その方角なら自分も行くので自転車に子どもを乗せるから一緒に行ってやろうと男が申し出たのです。
 
相手は見知らぬ男ですから当然警戒したはずですが、秋の日はもう暮れかけており、小さな子どもを抱えて心細かったのでしょう、男の誘いに彼女は乗ってしまいました。*
 *第1報の新聞各紙の記事では、助かった長女の話として、母子4人が興津町から小湊町まで歩いて行ったときに向こうから来た男と出会ってトラブルになったと書かれていますが、その後の調べでは、ここに述べるような経緯だったと考えられています。
 
 
男が荷台に長男を乗せて自転車を押し、母親が次女を背負って長女の手を引くというふうにして一行は、「伊南房州通往還(いなんぼうしゅうつうおうかん)」という西は館山へと通じる古い街道(現在は国道128号線がそれに沿って作られている)を歩き始めました。
 
しばらく行くと道は「おせんころがし」と呼ばれる高さ20メートルの断崖絶壁の中腹に作られた狭い道にさしかかります。
 
昭和の絵葉書「おせんころがし」
矢印が道で向こうに見える半島が小湊付近
手前が「孝女お仙の碑」
 
ここで、「おせんころがし」の由来について簡単に見ておきます。
いくつかの異なる伝承があるようですが、碑のそばにある勝浦市の案内板には、一番よく知られている話が書かれています。
 
 

おせんころがし

 

高さ二十メートル、幅四キロメートルにもおよぶこの「おせんころがし」には、いくつかの悲話が残されています。豪族「古仙家」の一人娘お仙は日ごろから年貢に苦しむ領民に心痛め、強欲な父を見かねて説得しましたが聞き入れてくれません。ある日のこと、領民が父の殺害を計画し機会をうかがっているのを知ったお仙は、自ら父の身代わりとなり領民に断崖から海に投げ込まれてしまいました。領民たちは、それが身代わりのお仙であったことを翌朝まで知りませんでした。悲嘆にくれる領民たちは、わびを入れ、ここに地蔵尊を建てて供養しました。さすがの父も心を入れかえたということです。

 

平成十二年三月

             勝浦市

 

上の話のお仙が断崖を投げ落とされたのは碑が建っている付近だったのでしょうが、この事件が起きたのは約4キロメートルに渡って続く「おせんころがし」をさらに西に行った安房郡小湊町(あわぐんこみなとまち:現在の鴨川市)です。
 
 
歩き始めてしばらくすると、男は母親に「やらせろ(性行為をさせろ)」としつこく言い寄り始めました。
 
彼女は男を怒らせないようにいなしながら、ひと気のない「おせんころがし」の暗い道を歩いていたのですが、日が変わって小湊付近まで来たとき、最初から彼女を襲うつもりだった男は、突然自転車を倒し長男の頭を石で殴って崖下に放り投げ、さらに長女の手足を引っぱって崖を突き落としたのです。
 
そして、3歳の次女をおぶったまま命乞いをする母親を男は押し倒し、首を紐のようなもので絞めながらレイプし、次女もろとも崖下に突き落としました。
 
それだけでなく、崖の途中で引っかかっていた母親を、男は降りていって石で頭を殴りつけとどめをさしました。
 
朝になり現場を通りかかった小湊町の誕生寺の僧侶が、崖から落とされながらただ一人命をとりとめて泣いている長女を見つけ、彼女の話から付近を探したところ、母親と2人の子どもの遺体を発見しました。
 
読売新聞(1951年10月11日夕刊)
 
上の読売新聞の記事は、長女を発見した酒井要道さんをお仙の碑に近い(直線距離で350メートルほど)興津町大沢にある九成寺(くじょうじ)の住職と書いていますが、正しくは「小湊山誕生寺」の僧侶です。
ちなみに、「日出山九成寺」の名はお仙の碑の下部に刻まれているそうですから(南房総観光ポータルサイト「房総タウン.com」)、碑の建立に関係したお寺ではないかと思われます。
 
この事件の犯人として最初に疑われたのは、被害者の夫である小林八郎さんでした。
彼を容疑者として指名手配した警察は、10月11日の夜に房総半島内陸部にある千葉県君津郡久留里(きみつぐんくるり、現在の君津市久留里)の旅館にいた夫を逮捕しました。
 
 
読売新聞(1951年10月12日)
 
しかし夫の疑いはすぐに晴れ、次に警察が有力容疑者と見たのは、10月17日に詐欺横領容疑で検挙されていた男でした。
 
読売新聞(1951年10月20日)
 
ところがこの男も事件には無関係と分かり、捜査は暗礁に乗り上げました。このままいけば、事件が迷宮入りした可能性もあったのです。
 
事態が大きく動いたのは、犯人が自ら犯行を自供したからです。
 
【栗田源蔵の罪と罰】
 

栗田源蔵

 

犯行を自供したのは、1926(大正15)年11月3日に秋田県雄勝郡新成村(おかちぐんにいなりむら)の貧しい家に生まれた栗田源蔵(くりた・げんぞう)でした。

 

栗田の不遇な生い立ちについては、この事件を扱った多くの記事にほぼ同じ内容で書かれていますので、ここでは概要にとどめます。

 

病弱な父親と必死に家計を支える母親には栗田に愛情を注ぐ余裕はなく、今で言う「育児放棄」状態で大きくなっても夜尿症が治らず、学校ではいじめにあって小学3年で中退、丁稚奉公先を転々としますがどこも追い出されるようにして辞め、1945(昭和20)年に19歳で軍隊に招集されるも夜尿症が原因で2ヶ月で除隊となりました。

 

戦後は北海道の美唄(びばい)炭鉱で働くうちにそれまでと打って変わった粗暴さを身につけた栗田は、真偽は不明ですが北海道でも4人を殺害したと語っています。

ちなみに、のちに書いた「手記」で栗田は、すでに1944(昭和19)年、知人女性と性行為をしながら首を絞めて殺したと告白しています(下のリスト❶)。本当であれば初めての殺人です。

 

北海道から千葉に来て闇物資のブローカーとなった栗田は、1948(昭和23)年1月に同じ闇屋仲間で「情婦(愛人)」でもあった村井はつさんを、他に愛人ができたことからじゃまになり撲殺したことを自供しています(下のリスト①)。

 

ここで、表沙汰になった限りで栗田が関わったと思われる殺人事件を、「立件された事件」(①〜④の4件7人)と「立件に至らなかった事件」(❶〜❺の5件5人、詳細不明の北海道の件は除外)に分け、リストにしておきます(リスト内は敬称略)

 

<立件された事件>
1948(昭和23)年1月 千葉県駿東(すんとう)郡原町(現・沼津市)
村井はつ(同17歳、交際していた女性)石で撲殺 1953年3月3日白骨遺体発見
1951(昭和26)年8月9日 栃木県下都賀郡小山(おやま)(現・小山市)
増山文子(同26歳)強姦・絞殺し屍姦
1951(昭和26)年10月11日 千葉県安房郡小湊町(現・鴨川市)
小林てる子(同29歳)強姦、長男(同6歳)、次女(同3歳)殺害
1952(昭和27)年1月13日 千葉県千葉郡検見川町(現・千葉市花見地区)
鈴木きみ(当時25歳)と叔母のいわ(同64歳)が殺され、きみは強姦される
 
<立件に至らなかった事件>
1944(昭和19)年 知人女性を性行為しながら絞殺(手記)
1947(昭和22)年11月 宮城県松島町
氏名不詳の女性(同22−3歳) 仙台駅前で知り合い殺害
1948(昭和23)年3月 福島県石城(いわき)郡小名浜町(現・いわき市小名浜地区)
霜田ハル江さん(同23歳)絞殺
1951(昭和26)年6月 静岡県田方(たかた)郡函南(かんなみ)(現・函南町)
氏名不詳の若い女性 殺害し十国峠に埋める 遺体発見できず
1952(昭和27)年3月(遺体発見) 山形県米沢市上山裏(かみのやまうら)
氏名不詳の女性 防雪林内で絞殺された女性の白骨遺体が見つかる
 
読売新聞(1953年12月4日夕刊)
リスト❺の事件
自供したが立件に至らなかった
 
栗田が最初に殺人犯として逮捕されたのは、リスト④の事件によってです。
 
「おせんころがし」の事件からわずか3ヶ月後の1952(昭和27)年1月13日、千葉県検見川町(けみがわまち)の鈴木いわさん宅に押し入った栗田は、居合わせたいわさんを出刃包丁で刺し殺し、姪の鈴木きみさんの首を絞め仮死状態で性的暴行をした上で殺害、衣類などを奪って逃走しました。
 
警察は、事件現場に残された指紋と、前科のあった栗田のものとが一致したことから容疑者と見て栗田方を家宅捜索し、鈴木さんから奪った多数の衣料や血のついた包丁が発見されたため、1月17日に窃盗容疑で栗田を逮捕し取り調べたところ、18日に強姦・殺害についても自供したのです。
 
千葉地方裁判所は、1952(昭和27)年8月13日の判決公判で栗田に死刑を言い渡しました。
 
栗田が判決を不服として東京高裁に控訴したため、1952年11月25日に控訴審の公判が開始されました。
 
ところがその直後、1951(昭和26)年に起きた「栃木人妻殺し事件」(リスト②)の手口が栗田のものとよく似ていると追及された彼は犯行を自供、それをきっかけに、迷宮入りすると見られていた何件もの殺人事件の自供を新たに始めたのです。
 
なぜ栗田が余罪を自供したのかよくわかりませんが、控訴はしたものの死刑判決を覆せないだろうと諦めた栗田が、すべて話してスッキリしたいと思ったのでしょうか……。
 
読売新聞(1953年1月8日)
 
警察・検察が捜査を再開したところ、リスト①の事件の被害者村井はつさんの白骨遺体が1953年3月3日に栗田の自供どおり発見されました。
 
読売新聞(1953年3月4日)
 
記事の見出しにある「小平」(「おだいら」ですが、一般には「こだいら」の読みで知られる)とは、1945〜46(昭和20〜21)年にかけて、戦争末期から戦後の混乱に乗じ、食糧の提供や就職の斡旋など言葉巧みに若い女性を誘っては強姦し殺害した連続殺人事件の犯人である小平義雄(1905ー1949)のことです。
 
小平事件を報じる読売新聞(1946年)
(文春オンライン「小平事件」2021.8.22)
 
そしてついに1953(昭和28)年7月に栗田は「おせんころがし殺人事件」(リスト③)も自分の犯行だと認めたため、警察は助かった長女にいわゆる「面通し」をさせて証拠を固めました。
 
こうして、小林てる子さんら母子3人が「おせんころがし」で無惨な死を遂げてから1年10ヶ月、ようやく犯人が突き止められたのです。
 
読売新聞(1953年7月15日)
 
「おせんころがし殺人事件」を含むリスト①〜③の事件で改めて宇都宮地方裁判所に起訴された栗田に対し、1953(昭和28)年12月21日に宇都宮地裁は求刑どおり死刑判決を言い渡しました。
一審で2回の死刑判決を受けたのは、栗田が初めてのことだったそうです。
 
読売新聞(1953年12月21日夕刊)
 
千葉地裁の死刑判決に加え、宇都宮地裁の死刑判決に対しても不服として両方を東京高裁に控訴した栗田ですが、1954(昭和29)年10月21日に控訴を取り下げたため、死刑が確定しました。
 
読売新聞(1954年10月22日夕刊)
 
死刑が確定した栗田源蔵は、宮城刑務所に収監されました。
 
その後、控訴を取り下げながらも「おせんころがし殺人事件」については当日に別の窃盗事件を秋田で起こしていてアリバイがあると言い出し、再審を求める動きをするなど不可解な行動も見られました。
しかし、彼の言う「秋田の窃盗事件」では別の人物が容疑者として逮捕されており、死刑制度の是非についての議論はありましたが、栗田の冤罪を信じる人はほとんどいませんでした。
 
こうして1959(昭和34)年10月14日、宮城刑務所で栗田の死刑が執行され、33歳に約20日足らずの人生を虚しく終えたのです。
 
読売新聞(1959年10月16日)

 

サムネイル

小川里菜の目

 
戦前・戦中そして敗戦後まもなくという時代の不運に加え、極貧の家庭に子どもと関わる余裕のない両親からのネグレクト、いじめを受け小学校を3年で中退した学歴のなさ、そしてその結果でもありますが、まともな仕事に就けなかった栗田源蔵の悪行には、本人だけに責任を負わすのは酷と言わざるを得ない同情の余地があったとは思いますショボーン 
しかし、命ごいする女性や3歳・6歳という小さな子どもであっても、自分の欲望を満たすためになら何のためらいもなく命を奪う栗田の冷酷さには、同情の余地を帳消しにして余りある罪深さを感じざるをえません。
 
死刑執行を待ちながら、獄中で栗田は「懺悔録」と題する手記を書いており、そこには立件されるには至らなかった多くの殺人についても書かれていたそうです。
 
内容の一部は『週刊サンケイ』(1970年12月14日号)が掲載したようですが、2度の面会で栗田の信頼を得、手記の書籍化を一任されたという加藤美希雄氏が、栗田の死刑が執行された後の1963(昭和38)年1月、手記に補足・編集を加え、タイトルも『陵辱ーこの罪を負って私は地獄に堕ちる!』(あまとりあ社)にして出版しています。*
 *ミゾロギ・ダイスケ「女性や子どもばかり7人を殺害……日本で初めて二度「死刑判決」を受けた男の歪んだ快楽」(現代ビジネス、2021.11.05)を参照しました
 
 
栗田は立件されなかったものを含めると、10人以上の女性と性的関係を持っては殺害するを繰り返しており、その際に首を絞めて仮死状態にしたり絞殺してから屍姦する猟奇的な行為をしています。
 
その行為について栗田は、まだ幼い頃に近所の高齢男性が「女と睦まじくしているとき、叩いたり、痛めたりすると、凄い……」と言うのを聞いたからだと手記に書き、本にもそれが掲載されているそうです。
 
いわゆるSM行為は本来それによって双方が快感を得て楽しむものであって、一方的に苦痛を与え殺害までしてしまう栗田の行為は、単なる歪んだ性虐待・性犯罪でしかありません。
 
この本を小川は入手できずに読んでいませんが、そうした栗田の行為は、かつて聞いた老人の言葉に刺激され身につけた性嗜好というだけでは説明がつかないものを小川は感じるのです。
 
そこで、2つの可能性を考えてみました。
 
人間が取り結ぶ性関係は単なる生殖欲求に尽きるものではなく、基本は人と人との親密な(intimate=もっとも奥深い)関係性の上に成り立つものだと小川は思います。
ですから、たとえ「遊び」の関係であったとしても、そこには最低限の相互尊重や好ましさの共有が必要でしょう。
そうした親密な関係性を欠いた一方的・支配的な快楽追求は、どのようなものであったとしても性暴力でしかないと小川は思うのですキョロキョロ
 
ということは、栗田のように他者との親密な関係を育む能力・感性を身につける機会を幼少期から持てなかった人間は、人間らしい性行為をしようにもできない可能性が高く、ただ「刺激の強い」行為を求め繰り返すしかないのです。
 
もう1つの可能性は、抑えの効かない性欲の亢進や他者との共感の回路が機能しないなど、何らかの先天的で病的な異常があったのかもしれないということです。
 
栗田がどちらだったのか、両方が作用し合ったのか、あるいは第三の可能性があったのか、これ以上は小川にはわかりませんが、そんな男の身勝手な性欲のはけ口にされて命を奪われた多くの女性たち、とりわけ「おせんころがし」で殺害された母親と小学生にもならない幼い子どもたちのまだ言葉にすらできない無念さに、73年という年月を超えて憤りを禁じえない小川ですショボーン
 
 
GWも後半ですねにっこり
GW中は1日だけ休みがあったので、国際盲導犬デーin神戸に行ってきました🦮
 
 
 
 
 
 
いろいろ可愛い物が売っていたので
購入しました爆笑
 
クッキー工房マミーさんのクッキー🧸
 ⬇️
 
FAXで注文ができるそうですニコニコ

 

視覚障害の方々が読み終えた

点字紙を再利用した商品

⬇️ 
取り上げたい事件がたくさんあって、
資料集めもちょこちょこしています。
次もリクエスト企画にしようと思っていますおねがい
みなさんからの温かいコメント、いいねに
いつも感謝しておりますニコニコ飛び出すハート

「しごき」という名のリンチ殺人

東京農業大学ワンゲル部

死のシゴキ事件

1965年

 
    

昨年(2023)、小川が体罰やいじめを無くしたいと言っているからだと思いますが、アメブロを通じて東京都在住の元教師の方からメッセージをいただきました。

それは、その方が1970年代に東京のK大学に在学中、部活で先輩たちが後輩全員に、火のついたタバコを皮膚に押し当てる「根性焼き」をしており、非常に苦痛で怒りを覚えたにもかかわらず、自分たちが先輩になると今度は後輩に同じことをしてしまったという悔恨の告白でした。

その部活では、先輩が後輩に根性焼きをすることが「伝統」になっており、当時は何も考えずそれに従ってしまったというのです。

その話がずっと小川の心に残っていましたので、今回は大学の部活動で死者まで出したシゴキ事件を取り上げました。

 

【ワンダーフォーゲルとは】

ドイツの古語で「渡り鳥」を意味するワンダーフォーゲル(Wandervogel)とは、19世紀末にドイツの学生が始めたもので、本来は自然に親しみながら仲間と共にプランを立て野山を歩いて語り合い、楽しみながら健全な心身を鍛え成長する野外活動を言います。

 

「ワンゲル」と略称されるこの活動は、第二次対戦後に日本の学生の間でも広がりましたが、長い歴史と訓練のノウハウを持つ山岳部と異なり、山登りについてはいわば素人集団に誰もが気軽に参加できることで、上級生による未熟な指導や未経験者・体力のない学生に過酷な訓練を課すといった問題が、一部の大学のワンゲル部で見られることになりました。

 

朝日新聞(1965年5月22日夕刊)

 

今回取り上げたのは、その中でも最悪の結果を引き起こした事件です。

 

【事件の概要】

朝日新聞(1965年5月22日)

 

朝日新聞(1965年5月22日夕刊)

 

1965(昭和40)年5月15日から18日にかけて、東京農業大学ワンダーフォーゲル部は新入生を対象とした奥秩父を縦走する足掛け4日、実質2泊3日の「新人錬成山行(れんせいさんこう)」を行いました。

 

一行は、監督と他のOB、4年生6人、3年生4人、2年生8人、そして1年生(新入生)28人の合計48人でした。

 

その過程で監督と上級生から1年生に対する激しい「シゴキ」が加えられ、新入生のうち造園学科1年の和田昇くん(当時18歳)が入院先の東京・練馬病院で5月22日午前3時40分に死亡、同じく造園学科1年の木村弘君(同19歳)が全身の打撲と右手首骨折など2ヶ月の重傷で慶應病院に入院、さらに農業学科1年の松本定君(同18歳)も重傷で自宅療養するという事件が起きました。

 

事件は、和田君の死を不審に思った練馬病院が警察に届け出たことにより発覚しました。

 

和田君の遺体は22日に東大法医学教室で司法解剖され、その結果、和田君の「背中には直径20センチぐらいのえぐられたような傷あとがあり、みけんから鼻にかけて大きな打撲傷。また特に下半身の打撲傷がひどく、出血していた。この外傷のため内臓がひどく圧迫された」(朝日新聞、1965年5月22日夕刊)と分かりました。

 

彼の直接の死因は、肺水腫肺炎による呼吸困難ですが、東京地裁は判決文でその原因を、「ほとんど全身に見られる皮下筋肉組織に及ぶ広汎高度の外力による挫滅の結果による循環機能障害(いわゆる外傷性二次性ショック)をおいては考えられない」としています。

 

この「新人錬成山行」は、次のようなルートで行われました。

 

山行行程表

(東京地裁判決文別紙)

 

そこで山行の行程においていつどのような「シゴキ」が行われたのか、東京地裁判決文をもとに次のような表を作ってみましたのでご覧ください。

なお、「シゴキ」については亡くなった和田君に関するものだけを要約記載しており、木村・松本両君その他へのものは割愛しています(表中敬称略)

 

東京地裁判決文をもとに小川が作成

 

上の表にある「シゴキ」の加害者は、判決文に名前のある者の一部ですが、傷害致死罪・暴行罪などで起訴・有罪となった以下の7人のみ実名を記載し、他は仮名にしています。

 

 ①石塚彬丸(よしまる、当時25歳):監督、同大卒業生で同部OB、事件時は会社員

 ②渡辺利治*(同21歳):主将、造園学科4年

  *直接振るった暴力で地裁判決文が名前をあげているのは松本君に対する殴打

 ③森 茂(同23歳):副主将、農芸化学科4年

 ④寺岡 広(同21歳):副主将、林学科4年

 ⑤薄倉英行(同21歳):総務、造園学科4年

 ⑥藤岡 徹(同20歳):装備、農学科3年

 ⑦古屋隆雄(同21歳):農学科4年

 

なお、②渡辺から⑥藤岡までの5人が、同部の最高意思決定機関である運営委員会の構成メンバーで、5月初めに「新人錬成山行」の計画を立てた際、例年どおりということなのでしょうが、「錬成のためには新入生に暴行を加えることもやむをえない」と決定し、上級生で確認し合っていたようです。

 
しかし、15日の深夜に新宿駅を出て、塩山駅からバスと徒歩で16日未明に山行の出発点に着き、早朝5時半には山を登り始め、2回の休憩を取って昼前に宿営地である笠取小屋に到着、水なしの乾パンだけという昼食の後すぐに笠取山にピストン登山(同じ道の往復)というハードスケジュールのため、この日早くも1年生の中にへばる者が相当数出始めていました。
 
というのも、新入生は不慣れというだけでなく、笠取山へは荷物なしで登りましたが、それまでは自分のものに加え部と上級生の荷物など合計約20kg(重傷の木村君の証言では約30kg)を背負って歩かされていたからです。
それに対して上級生は、サブザック一つという身軽さでした。
 
次の写真は、16日の笠取山登山の時にたまたま一行に遭遇した一般登山者が撮り、朝日新聞社に提供したものです。
 

朝日新聞(1965年5月29日)

白く見えるのが黄色いシャツを着た1年生

黒く見えるのが緑色のシャツを着た上級生

最後尾(矢印)の新入生はすでに遅れてふらついていた

 
かつて日本山岳会に所属し山歩き40年というベテランの撮影者は、次のように話しています。

 

笠取小屋から農大の一行のすぐ後ろについて私も笠取山に向かった。農大生の最後尾についた一人はとくに疲れがひどく、平地でも上級生に腕を支えられ夢遊病者のようによろめいていた。笠取山正面の急斜面にかかった時は完全に立てず、はってのたうち回っていた。それでも上級生2人がかかえて強引に頂上まで登らせたらしい。額と鼻のわきにはなぐられたような傷があり、口のまわりもはれ上がって口も満足にきけなかった。(中略)

16日夜は強い雨だったから、テントの連中はほとんど眠れず、翌朝2時に起きての雲取山行きでさらにへばったのではないか。落伍者の体調も考えず追い立てる上級生などは、昔の軍隊の行軍よりひどい。

 

和田 昇君
 
亡くなった和田君は非常にまじめな性格で、この山行を楽しみに張り切って参加しており、初日(16日)は元気の良さで目立つほどだったそうです。
ですので、上の記事では最後尾でふらつく1年生が和田君ではないかと書かれていますが、別の学生だった可能性があります。
 
しかし登山未経験者だった和田君は、初日に頑張りすぎて体力を消耗し、17日になると急に疲れが出て歩行のペースが落ちました。それは、初日に元気だったことから、荷物をさらに5kgほど増やされたことも一因でした。
 
それでも上級生は、和田君の調子が前日までから急に変わったため、気が緩んだのではないか、疲れたように偽っているのではないかとさえ疑い、「気合を入れる」ために特に彼に厳しく当たったようです。

 

新入生に対して「シゴキ」として振るわれた暴力をまとめると、次のようなものでした。

 

①手で殴打する

顔面の平手打ちが最も多いのですが、手拳(こぶし)による殴打もあり、倒れている1年生を上級生が抱えて立たせてから殴り倒すこともありました

 

②木棒で殴打する

先端を尖らせた長さ約50cm〜1m50cm、太さ約2〜5cmの生木の棒で頭部や臀部を殴打しました

「精神棒」「シゴキ棒」と称したこの棒は、監督の石塚がナタで生木を切って現地で作り、これで殴るよう上級生に渡したとみられています

亡くなった和田君の背中に15〜20cmの「えぐられたような傷」があったそうですが、素手ではできない傷ですから、木棒もしくは次にあげる登山靴でのよほど強い打撃でできたものではないでしょうか

 

③登山靴で蹴る・踏みつける

遅れて歩く1年生の背後から臀部を蹴るほか、倒れている者の顔面を登山靴で踏みつけました

 

1960年代の登山靴(例)

 

④ロープで殴打する

棒状(長さ約40cm、太さ約4cm)に束ねたザック用細引きロープで顔面を殴打しました

 

棒状に束ねたロープ(例)

 

⑤暴言その他の虐待

暴行は、「蹴られたくなかったら、さっさと歩け」「遅れやがって」「甘ったれるんじゃない」「立て馬鹿野郎」「こんなに根性のない奴は初めてだ」などの暴言(いずれも地裁判決文より)を伴っていたほか、四つん這いで歩いたり足を投げ出して倒れている者の両足を持って道を引きずったり、歩いている間は水分補給をいっさい許さず、昼食も乾パンを水なしで無理に口に詰め込ませました。

 

重傷を負って入院した木村君は、取材に応じて自分の体験を次のように話しています太字加工は小川)

 

1日目、30キロの荷をしょわされ歩かされた。しばらくして倒れたところ、シリを木の枝でたたかれた。直径5センチぐらい、なま皮をはいだ枝で、先をナイフでとがらしてあった。

一行からちょっとでも遅れると、クツでシリや足をけられて痛みだした。また、荷が重すぎて、1日目で左手がしびれだした。上級生に実情をいったところ、厳しい言葉でしかられ、またたたかれた。

3日目も、ちょっとでも遅れると棒で頭をなぐられロープや素手でほおを打たれた。口の中が切れて血が出てきた。歩いているあいだ一切、水は飲ませてくれない。昼食になるとカラカラののどに乾パンを押込まれる。早く食べたものからジュースを一口ずつ飲ませてくれるという状態だった。

何度なぐられたか数え切れない。新宿に着いた時は一人で歩けなかった。

(朝日新聞1965年5月22日夕刊)

 

このような状況で、石塚監督はその様子を写真に撮り、約100枚を自分のアルバムに整理して貼っていたそうで、警察が石塚の止宿先の家宅捜索でカメラなどと共に証拠品として押収しました。
 

朝日新聞(1965年6月4日夕刊)

 
押収された写真を見た記者は、次のように書いています太字加工は小川)
 

みんな身長ほどもあるナマ木を持って、上級生たちがたむろしている姿はまるで暴力団のなぐり込み。地べたに倒れた新人の腹の上にドロだらけの大きな登山グツが乗っかったり、頭をかかえてしゃがんでいる新人の上に棒切れをふりあげていたりする。完全に目をつぶった新人の両手足を四人がつかんでまるで死んだ動物でも扱うようにひきずっているところもある。”なぶり殺し“の現場そのもののふんいきがなまなましく伝わってくる写真ばかり。そんな光景を石塚や上級生が笑いながらみている姿も写っている。

しかも、どんな神経なのか、この写真には被害者の名前が矢印できちんと書込んである。いかにも楽しそうにシゴキ、写真をとった彼らの気持ちがさむざむと感じられる写真集だ。

朝日新聞(1965年6月4日夕刊)

 

次の写真は、石塚がアルバムに貼っていたうちの1枚で、新入生が東京農大の応援歌「青山ほとり」を歌いながら「大根踊り」をさせられている写真です。
 

週刊『昭和タイムズ 昭和40年』ディアゴスティーニ

 

事件を担当した東京・練馬警察署は、大学生のクラブ活動中の出来事ということから慎重に捜査を進めましたが、亡くなった和田君を除く1年生全員27人から事情を聴取した結果、極めて悪質な集団暴行事件であると断定して、まず5月25日に渡辺利治主将を傷害致死、藤岡徹副主将を暴行の容疑で逮捕しました。
 

朝日新聞(1965年5月22日夕刊)

 
さらに、OBや上級生の証拠隠滅の動きを察知した警察は、監督や他の上級生の責任追及のための証拠固めを急ぎ、最初に逮捕した渡辺・藤岡両容疑者の自供も踏まえて5月28日にさらに6人の学生の逮捕状を取ったほか、6月4日には先に見たように石塚彬丸監督を傷害致死容疑で逮捕しました。
 

藤岡副主将               渡辺主将

 

 石塚監督
 
最終的に起訴されたのは、監督と部のリーダー(運営委員)である主将・2人の副主将・総務・装備、そして4年生1人の計7人でした。
他に、和田君に何度も暴行した未成年の2年生1人が家庭裁判所に送られ、保護観察処分になっています。
 
警察の捜査と並行して、大学も5月25日に緊急教授会を開き、主将の渡辺利治を退学処分に、他の上級生全員を無期停学処分にすることを決め、6月2日には同部部長の新屋和夫助教授を「監督が不十分」として3ヶ月の休職処分にすると発表しました。
 
なおウィキペディアに、2年生のうち「シゴキ」に批判的で、この山行でも新入生への暴行に加担しなかった学生がひとりいたと書かれていますが、教授会は「事件と直接関係ないとみられる学生」についても「教育的な立場から全員を処分した」と記事には書かれています。
 
積極的に「シゴキ」を止めることまではしなかったとしても、その場を支配していた「空気」の中で、監督や上級生・同輩からの圧力を感じながらも「シゴキ」に手を貸さなかったとすれば、それだけでもとても勇気ある行動だったのではないでしょうか。
 
その事実を知りながら、軽重をつけず一律に処分した同大教授会は、「連帯責任」の名のもとに集団の全員に制裁を加えるという、よくある「体罰」の論理と変わらないのではないかという疑問を抱かざるをえません。
 
起訴された7人の初公判は、1965(昭和40)年8月27日、東京地裁刑事第7部(津田正良裁判長)で開かれました。
 
被告らは、個々の暴行についてはほぼ認めましたが、「共謀」については全員が否認したほか、「倒れている和田君を登山グツでけったのも激励のためだった」(石塚)とか「和田君が眠いからなぐってくれといわれてやった」「気力をふるいたたせるためなぐっただけで、和田君の死因に影響を与えるようなことはしていない」と口々に述べたそうです。
 
毎日新聞(1965年5月27日夕刊)
 
それに対して、1966(昭和41)年5月23日の論告求刑公判で大塚利彦検事は、アウシュビッツ強制収容所の例をひきながら「人間を人間として扱わず、馬や野良犬などの動物のように考えている行為だ。錬成とはいえない意味のない暴行で、たとえ、先輩から受けついだ方法であったにしても、無批判に受け入れた責任は大きい」として、石塚監督と渡辺主将に懲役5年、他の5人の被告に懲役3年を求刑しました。
 
毎日新聞(1966年5月24日)
 
1966(昭和41)年6月22日の判決公判で津田裁判長は、石塚・渡辺両被告に懲役3年執行猶予3年(求刑は懲役5年)、森・寺岡・薄倉・藤岡・古屋の5人に懲役2年執行猶予3年(求刑は懲役3年)を言い渡しました。
 
判決文は、同部の人間性を軽視した「伝統的錬成方法」とそれを無批判に踏襲した被告人等の「自主性の欠除」を次のように厳しく批判しています。

 

大学は人間形成の府であるから、そこで行われることはすべて、人間形成につながらなければならないのであって、聊(いささ)かも人間性を軽視するが如き行動は許されない。従って、体力を鍛錬し、精神力を涵養するにしても、ただ肉体、気力の錬磨であってはならないのであって、そこには個人の価値を尊ぶ自主的精神の育成がなければならぬ。殴る蹴るということは、一個の人格を否定する行為であり、その対象は物体に等しく、訓練される動物と選ぶところはない。このような事が大学体育部の名に於いて行われてよい筈(はず)はない。大学のクラブ活動には、考えること、批判することは不可欠のものであるが、農大ワンダーフォーゲル部に於いては下級生は上級生の行うことに絶対服従し、現役学生は先輩の為したことに無批判的に従って居るという実情であって、かかる風潮が、新人錬成の場に於いて殴る蹴るという方法を生みこれを伝統的な不変的錬成方法にまで育てたのである。

 

さらに判決文は、「本件を悲惨なものとしたことには参加の自由はあっても離脱の自由がなかったということである」と指摘しています。

 
執行猶予がつけられたのは、この事件が「伝統という抗し難い壁の中」で起きたもので被告等の個人的要因のみから生じたものでないこと、被告等は自らの行動を反省し被害者や家族に対し贖罪しようとしていること、和田君の父親である和田嘉平さんが「父としての悲しさを超え被告人等の行為を許したいと証言し被告人等の反省を認めている」との理由からでした。
 
この地裁判決は、双方が控訴せずに確定しています。

 

サムネイル
 

小川里菜の目

 

この事件は、新入生が命を落とす事態まで至ったため明るみに出ましたが、それがなければ闇に葬られたことでしょうショボーン

 

ということは、同部においてはこれまでにも錬成山行で重軽傷者が出ていたのでしょうし、さらに東京農大に限らず運動部の活動で広く同様の「シゴキ」が行われている可能性があります。

 

朝日新聞(1965年5月25日夕刊)は、「伝統の名でのさばる暴力」という見出しで、実例を紹介しています。

 

 

某大学のサッカー部は新人を毎週1回練習のあとで一列に並べ、先輩がビンタを張ることを“伝統”にしている。「なぜわれわれはひっぱたかれるのですか」などと聞こうものなら「そんなことを聞く根性がイカン」とまたピシャリ。実は、ひっぱたいている本人も理由がわからないのである。「自分も新人のとき上級生にそうされた」——これがたった一つの理由なのだ。

新人同士が向かいあって並び、互いにひっぱたき合う。これも伝統的な行事になっている野球部もある。(略)この場合は敵を徹底的にたたきのめす“不屈“の精神と根性を養うのが目的だといい伝えられている。

 

のちに何人もの死者・行方不明者・自殺者を出した戸塚ヨットスクールのいわゆる「スパルタ教育」にもつながるものですが、力づくで人間を生命の危険を感じる限界にまで追い詰めることが精神的な強さ(根性)を鍛えることになるという非科学的な精神主義が運動部において根強くあり(戸塚宏も学生時代にヨット部でそれを身につけた)、それが指導者・先輩による「シゴキ」や「体罰」を生んできたのですびっくり

 

農大ワンゲル部の「シゴキ」にもありましたが、運動中の水分補給が推奨された小川の世代と異なり、いま35歳ぐらいより上の世代までは、部活中に水を飲むことはどこでも禁止されていたようですガーンあせる

 

今となってはまったく非科学的で生命の危険すら引き起こしかねないことなのですが、科学的な根拠があるかどうかよりも、「苦しさに耐えることで精神面が鍛えられるはずだ」という「信念」(主観的思い込み)がその理由だったのでしょう。

 

苦しいだけで効果がなく身体にも悪いとわかって今では誰もしない「うさぎ飛び」が、足腰を鍛えるためのトレーニングと称して広く行われていたのも、「根性を鍛える」という同じ理由からだったと思います。

 

『巨人の星』より

 

先にあげた新聞記事には、「このようなバカげたことを歓迎する空気が、大学当局や父兄の一部にあることも事実のようだ」と書かれていますが、最初は「バカげたこと」と感じていた本人自身が、それをやり続けるうちに次第に肯定的になり、そのうちそれを強制する側に回るというのが怖いところです。

 

東京地裁の判決文でも、「被告人等は新人、2年の時には体に手をかける錬成方法に疑いを抱いたが3年になってからはこれを肯定するようになったといい、身体に手をかける錬成方法は絶対必要であると供述している」と書かれています。

 

そこには、自分が苦しい思いをしてやったことを否定したくないという自己肯定の欲求が働いているでしょうし、何より学年が上がるにつれて「身体に手をかけられる」側から「かける」側に自分が立つことがもたらす優越感が大きかったのではないでしょうかキョロキョロ

 

この事件について知った時、最初は小川は、上級生らが新入生に「シゴキという名のいじめ」をして楽しんでいるのではないかと思いました。

 

しかし、東京地裁の判決文に書かれたシゴキの様子を読むにつれ、和田君を死に至らしめるほどの暴力を振るった上級生の中には、本当にそれが彼のためになると信じ、ある意味「善意」で殴ったり蹴ったりした者も多かったのではないかと思えてきたのです。

 

それはとても怖いことです。

なぜなら、悪いことと知りながら悪を行う人と異なり、善いことだと信じて悪を行う人は、自分の悪行を反省することができないまま悪を重ねてしまうことになるからです。

 

(オウム教団から見た)悪人を殺すことは、その人を救う慈悲の行為だ」という、まやかしでしかない「ポア」の論理で、教祖の命ずるまま幼い子どもさえも容赦せずに殺人を重ねたオウム真理教の信者たちに、その最も醜悪な姿を私たちは見ることができるでしょう。

 

最後に一つ付け加えておきたいことがあります。

それは、この事件にはワンゲル部だけでなく東京農大自体が当時持っていた暴力的な体質が関係しており、農大当局もそれに対して決して無関係ではなかったということです。

 

5月26日、亡くなった和田昇くんの慰霊祭が大学で行われました。

 

 

この時に、一部の学生が「事件の真相を発表せよ」「責任を明らかにせよ」と追及したことから、翌27日に大学は体育館で「経過報告」を行いました。

 

朝日新聞(1965年5月27日)

 

しかし、二千人ほど集まった学生たちのほとんどはその内容に満足せず、ただちに同大学学生会が緊急学生会に切り替えて「農大から暴力追放」など6項目を決議しました。

 

朝日新聞(1965年5月28日)

 

学生大会が5月28日に続いて開かれましたが、「農大からの暴力追放」に関連して同大学応援団の暴力的な勧誘や学内での行動に批判の声が上がったことから、応援団員と見られる学生たちが壇上に駆け上がってマイクを奪ったり「学生大会」の横断幕を引きずり下ろしてわめくなどの暴力行為におよび、会場は「異様な光景」を呈したそうです。

 

朝日新聞(1965年5月29日)

 

先に見たように、この事件で大学は、ワンゲル部の主将を退学に、他の上級生を無期停学にしましたが、学生たちは、学内の暴力に目をつぶって学生だけに責任を負わせるのはおかしいという理由で処分の撤回も要求したそうです。

 

処分しないことが妥当とまでは思えませんが、大学側が事件を生んだことへの自らの責任に口を閉ざしたまま、第三者のような顔をして直接(末端)の当事者だけを処分して終わりとすることへの学生たちの不満や怒りは十分理解できます。

 

その後の経過については調べられていませんが、この事件がきっかけとなって、運動部のあり方の見直しだけでなく、東京農大にあったとされる暴力容認の土壌が払拭される方向に進んだのであれば、和田君の無念の死も決して無駄にはならなかったと思い、そうあってほしいと願う小川ですショボーン

 

【 追記  2024,4,25

このブログをアップした後で、読者の方から石塚元監督のその後についてご教示をいただきました。

改めて調べたことを追記しておきます。

 

石塚元監督の出身地は、在日米軍横田基地のある東京都西多摩郡瑞穂町で、石塚家はその地の旧家・名家らしく、代々の当主には「幸右衛門」という名跡(みょうせき)があって、石塚彬丸(「りんまる」と読むようです)元監督も襲名後は第6代「石塚幸右衛門」を名乗っています。

事件当時彼はある会社に勤めていましたが、裁判時には無職となっていますので、起訴により解雇されたか辞職したと思われます。

その後彼の名前が公の場に出てくるのは、1997(平成9)年4月に瑞穂町の町議会議員になった時です。

実は彼の父親である第5代幸右衛門(石塚敏之助)は、瑞穂町ができた時(昭和15年、この年に息子の石塚元監督が誕生した)の初代町長で、その後にも1期町長になっており、彼はいわゆる地元の世襲政治家になったのです。

さらに石塚元監督は、2001(平成13)年5月から四期連続して2017(平成29)年まで瑞穂町長になっています。

次の写真は、2010(平成22)年に福生(ふっさ)青年会議所が開いた「瑞穂町長を囲む会」での石塚元監督/町長(まもなく70歳になる)です。

 

 

裁判の判決に服したわけですから、その後こうして政治家となり町長を務めたこと自体、非難すべきことではありません。

 

しかし、今年83歳になった彼が、かつて自分の行った「シゴキ」によって、まだ18歳で命を奪われた和田昇君や重傷を負った木村弘君・松本定君(後遺症はなかったでしょうか……)とそのご遺族・ご家族にどのような贖罪をしたのか、その時の真摯な反省から、町長として学校でのいじめや体罰をなくし町民の人権意識を高めるためにどのように努力し実績をあげたのか問いただしたいですし、それに応える責任が石塚彬丸(幸右衛門)氏にはあると思う小川です。

 

参照資料

・新聞の関連記事

・東京地方裁判所 昭和40年(合わ)182号判決

 

 

 

 先週は大阪で3日間の介護研修に参加しました。

帰りに同僚4人でネモフィラを見に行きました音譜

雲っていて18時前でしたが、綺麗な写真が撮れましたにっこり

 

 

 

 

 

 

読んでくださり、ありがとうございましたニコニコ💙

 

 

 


YouTubeもできましたおねがい

 

よろしくお願いいたします💓

 

今回はリクエスト企画ですニコニコ飛び出すハート

六本木ディスコ

照明落下事故

1988年

 

「トゥーリア」のビルから脱出する客たち

朝日新聞(1988年1月6日)

 

不時着する宇宙船のイメージのはずが……

 

本当に落下した照明装置

 

朝日新聞(1988年1月6日夕刊)

 

【事件の概要】

1987年(昭和62年)5月8日、東京都港区六本木に高級ディスコクラブ「TURIA(トゥーリア*)」(地下1階、地上2階)がオープンしました。

 *「トゥリア」と「トゥーリア」の2つの表記がありますが、このブログでは会社名以外は「トゥーリア」に統一しました

 

「トゥーリア」の内部

毎日新聞(1987年7月 高橋勝視撮影)

地下1階がダンスフロアで正面はDJブース

頭上の3重の照明装置(全体重量6トン)の2重目が

従業員のボタン操作で点滅しながら昇降した

 

 

アレンジャーは空間プロデューサーの山本コテツ氏で、内装を手がけたのはSF映画「ブレードランナー」の美術コンセプトを担当したシド・ミード氏。

 

 

近未来惑星に故障した宇宙船が不時着したというコンセプトで、宇宙船に模した照明装置が吹き抜けの2階天井から吊り下がり、音楽に合わせて点滅しながら上下に動くという構造でした。

 

1988年(昭和63年)のまだお正月気分が抜けない1月5日午後9時40分ごろ、「トゥーリア」のウリだった巨大照明装置のうち、たくさんの照明やビデオモニターがついた1.6トンもある鋼鉄製の輪「ミドルリング」がフロアーで踊っていた30人ほどの客の上に落下、直撃を受けた3人が死亡、14人が重軽傷を負う大惨事となりました。

 

 

亡くなった3人

毎日新聞(1988年1月6日夕刊)

 

亡くなったのは、自衛隊中央病院高等看護学院3年で卒業を間近にひかえた大分県出身の溝部明美さん(当時21歳)、群馬県桐生市から友人と遊びに来ていた英会話学校職員の高木恵子さん(同26歳)、そして世田谷区に住む会社員の平田昌徳さん(同24歳)です。

 

朝日新聞(1988年1月6日)

 

毎日新聞(1988年1月6日)

 

【ディスコ「トゥーリア」と事故原因】

ディスコクラブ「トゥーリア」を作ったのは、1986(昭和61)年7月に設立された「トゥリア企画」(山田友直社長)で、運営は「エラ・インターナショナル」(佐藤俊博代表)に委託していました。

 

「トゥリア企画」は、丸晶興産(赤城明社長、1981年12月設立)という不動産会社の丸がかえ子会社なのですが、この親会社は都心のビルやマンション用地の地上げで急成長し、年間売り上げ250億円を超えていた、まさにバブル経済の波に乗った会社でした。

 

そして、このディスコの入ったビル一帯を再開発するまでの3年間限定でオープンさせたのが「3」を意味する「トゥーリア」でした。

 

問題の照明器具は、世界各地のイベントなどで使われていたアメリカのバリライト(VARI-LITE)社製の照明装置(自動で動く照明)というふれ込みで話題を呼んだのですが、実際に「トゥーリア」で使われていたのは、受注した日本の「電子照明社」(大島弘義社長)が「バリーライト」と称して下請け会社に作らせたコピー商品でした。

 

バリライト(例)

本来はこうした照明器具単体の名前ですが

これを用いた大規模な照明装置全体が

当時「バリライト」と呼ばれていました

 

事故は、落ちたミドルリングを昇降させるために、照明装置を吊り下げたワイヤーを巻き取るドラムにモーターの回転を伝えるローラーチェーンが、重量計算を間違えた設計ミスによる強度不足で切れたことが原因で、それによりドラムが空回りして照明装置が落下したと分かりました。

 

 

読売新聞(1988年2月18日)

 

報道によると、使われていた2連式チェーンの「最大許容荷重」は1.3トンしかなく、そこに1.6トンのミドルリングの重量がかかったのですが、動かす時に実際にかかる負荷は「最大許容荷重」の2倍以上の3トンにもなったそうです。

 

しかも、設計では1日に4〜5回昇降させるとなっていたにもかかわらず、実際には店側の説明で1日に15〜20回、客の証言ではもっと頻繁に何十回と上下させていたとのことです。

 

事故のあった日、DJブースのボタンで装置を動かしていたのは22歳の女性従業員で、ミドルリングを上昇させていたところ突然停止し、直後に落下したそうです。

当初、彼女の操作ミスが疑われましたが、もちろん彼女には設計上の制限など何も知らされていなかったでしょう。

 

また、前年の1987年11月にリングの昇降がうまく働かなくなり、「ミドルリング」だけ動きを停止させていたことがあったそうです。

12月4日に電子照明の社員が点検して使用を再開したのですが、この時は操作盤のスイッチを修理しただけで、チェーンは点検しませんでした。

その後、12月26日にも定期点検がありましたが、やはりチェーンは見ておらず、動作確認だけで「異常なし」と判断されました。

 

こうして、事故を未然に防げたかもしれない機会が活かされないまま、定期点検からわずか10日後に惨劇が起きたのです。

 

朝日新聞(1988年1月6日夕刊)

 

この事故では、照明の昇降装置を設計・製作した会社(電子照明社の下請け会社)の桜井敏社長だけが業務上過失致死傷罪で起訴され、1992(平成4)年2月26日、東京地裁の原田国雄裁判長は被告に、禁錮2年執行猶予3年(求刑は禁錮2年)の有罪判決を言い渡しました。

 

判決理由で原田裁判長は、「綿密な強度設計をせず、経験に頼って部品選定をした安易な設計態度が事故を招いた」と指摘し、さらに元請け会社も照明装置の正確な予定重量を示さなかったとして、「他の関係者が注意を払っていれば(事故が)避けられた」ことから執行猶予をつけたと述べています。

 

朝日新聞(1992年2月26日夕刊)

 

こうした事故の責任追及でよくあるように、ここでも末端の末端の業者だけが責任を負わされ、3人もの死者を出した事故にもかかわらず、ディスコの所有者も運営者も照明装置納入(元請)業者も誰ひとり責任を問われないまま終わりました。

 

判決文を読むことができませんので詳しくはわかりませんが、裁判長が「他の関係者が注意を払っていれば避けられた」と判断したのであれば、それを唯一起訴された被告に執行猶予をつけて罰を軽減する理由とするのではなく、「注意を払わなかった」他の関係者の過失責任を問うべきではないのかと思わざるをえません。

 

なお、3年という期間限定でオープンしたディスコクラブ「トゥーリア」は、この事故により8ヶ月で閉店となりました。

 

また、事故現場の跡地の一隅に、慰霊碑代わりの地蔵尊が建立されたようですが、ほぼ誰も責任を取らなかった事故の結末を思うと、こうした形ばかりの慰霊で犠牲者の無念が晴れたとはとうてい思うことができない小川です。

 

 

 

サムネイル

小川里菜の目

 

平成の大不況のもとで生まれ、その中で生きてきた小川にとって、1980年代のバブル時代の日本は金銭的にも豊かだし、ディスコで踊る当時の若者たちの映像を見ても生き生きしているようで、すべてが輝いて見えますおねがい飛び出すハート

平成生まれの小川にとって、バブル時代のイメージはまさにゴールドカラーなのです。

 

しかし、「バブル(泡)」と言われるように、その豊かさも精いっぱいふくらませた風船を金色に塗った見かけの輝きでしかなかったことがバブルがはじけてわかり、その負の遺産をその後の世代が負わされ続けたわけですキョロキョロ

 

そうしたバブル時代の見せかけの華やかさと浮かれたような輝きの裏面を、いや本当の顔を、バブル崩壊に先立ってかいま見せたのが、バブル経済真っ只中の1988(昭和63)年に起きた、このディスコ事故ではなかったでしょうかキョロキョロ

 

当時、六本木を象徴する人気ディスコだった「マハラジャ」の生みの親である菅野諄(まこと)さん(当時52歳)を、朝日新聞がコラム「六本木このごろ」の第1回で「ディスコ演出家」として取り上げています。

 

朝日新聞(1988年4月5日)

 

車は3台。BMW、ベンツ、そしてロールスロイス。田園調布に230坪(760平方メートル)の自宅。プール付き。灰色と白の細かな格子模様が入ったスーツは、イタリアの「ジャンニ・ベルサーチェ」。ネクタイは同じイタリアの「アルマーニ」。フランスの「シャルル・ジョルダン」の黒い革靴。腕の時計はスイスの「ロレックス」、390万円。

 

いかにも「バブル」の体現者といういでたちの菅野氏は、勤めていた証券会社を31歳で「脱サラ」してこの業界に身を転じて大成功した人物。

 


当時のマハラジャ

彼は、バブルが膨らんでいく中で「新しい上流志向が出て来る」と感じたそうです。

 

土地の値上がりを前提にした投機が経済の主な原動力となり、「財テク(財務テクノロジー)」という名の「金もうけ術」に普通の人びともが踊らされて少しでも多く儲かる投機先を探し回した時代。

 

小川も祖父にそのころの話を聞くと、自宅や勤務先にまでマンションや宝石などを投資目的で買わないかというセールスの電話がうるさいほどかかってきたそうですびっくり

 

もちろん、バブルと言えどもすべての人が一攫千金によって上流志向を実現できないのは明らかですショボーン

 

けれども、当時の女子学生たちが気分だけでも高級志向を満たそうと競って身につけたシャネルやルイヴィトンなどのブランド品と同じように、ディスコも豪華な内装やきらびやかな照明、そして場にふさわしくない服装の人は丁重に入場を断るという「演出」で、来客が「特別」な高級感を味わえるよう競い合ったのです。

 

記事の中で菅野氏が、高級ディスコは「夢と希望と錯覚を売る」仕事だと言っていますが、事故が起きた「トゥーリア」にはまさに「夢と希望と錯覚」が詰まっていました。

 

「トゥーリア」に、不動産業の親会社が地上げ*で儲けた資金が投入されていたことは先に述べた通りです。

 *地主や借地・借家人と交渉し土地の売買契約や立ち退き契約を取りつけること。更地にした土地の転売や再開発で多額の儲けを得ることができた。バブル期には暴力や嫌がらせなどで無理やり土地を売らせたり立ち退かせたりする悪徳不動産業者も横行した。

 

読売新聞(1988年1月7日夕刊)

 

また、開店からわずか3年で閉店すると決めていたように、短い期間で儲けられるだけ儲けてサッと次のトレンド(流行の波)に乗り換えるという、その場その時の儲けがすべての根無草のような商いの仕方も、いかにもバブリーです口笛

 

さらに、1億7千万円を投じた豪華な内装と言いながら、一番の売り物である照明装置にさえ安価で粗悪な模倣品を使うという実体の安っぽさは、まさに見かけで「錯覚」を誘うやり方そのものでしょうショボーン

 

つけ加えて言えば、これだけの事故が起きても、丸投げの連鎖ゆえに「知らなかった」とほとんど誰も罪に問われることなく、うやむやに事が済まされてしまう無責任さも、バブルを生んだ土壌でありまたその結果でもあるのでしょうか。

 

「失われた30年」と言われるように、生まれながらに「景気のよさ」とは無縁の生活を生きてきた小川には、たとえ「錯覚」であっても「夢と希望」があるかのように若者たちがディスコではじけていた時代を見ると、羨ましく思うことがありますラブ

 

しかしよく考えてみると、錯覚でしかない「夢と希望」で一時の楽しみを得ることは、麻薬がもたらす幻想と快感におぼれて薬物依存者が身を滅ぼすことと同じなのかもしれないとも思います。

 

結局、「夢と希望」は、自分が今立っている地に足をつけ、根を下ろして地道に生きることを通してしか生まれてこないのではないかという、平凡な結論に踏みとどまるしかないと思い直した小川ですキョロキョロ

 

 

 

1988年に起きた事件のうち、これまでにブログでアップしたものです

  ↓

 

 

 

またお読みくださると嬉しいですニコニコ花

 

桜が満開ですね🌸

時間がなくて、ゆっくり花見はできませんが

仕事帰りに見る夜桜に癒されていますにっこり

 

 

 

読んでくださり、ありがとうございますニコニコ飛び出すハート

 

 

「チバリーヒルズ」

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