リクエスト企画

大雪山系旭岳

SOS遭難事故

1989年

毎日新聞(1989年7月26日)

 

*これについては、Wikipediaなど「SOS遭難事件」とされていることが多いですが、遭難に関して本人または第三者による「故意」の要因がないことから、このブログでは「SOS遭難事故」としています

 

【大雪山系旭岳】

 

(Googleマップ)

 

大雪山系の諸峰(Wikipedia)

 

北海道の中央部に位置する大雪山は、一つの山ではなく、「北海道の屋根」とも呼ばれる2000m級の峰々が20以上も連なる巨大な火山群で、「大雪山系」と言われます。

一帯は「大雪山国立公園」に指定されており、なかでも道内最高峰として登山者の人気を集めているのが旭岳(標高2291m)です。

 

旭岳に向かう登山者

 

「登山の初心者でも挑戦できるのが旭岳。脚力に自信がなくても〈大雪山旭岳ロープウェイ〉を利用すれば、標高1600メートルに位置する姿見駅まであっという間に辿り着きます」(「おもいっきり北海道」)と観光案内サイトに書かれているように、五合目付近までロープウェイで上がると、あとはほぼ一直線に山頂まで片道2時間ほどで行けるとあって、旭岳は手軽に登れる山という印象が強くあります。

 

姿見駅から旭岳への登山ルート

(YAMAP)

 

「山の日」に登山客でにぎわう旭岳山頂

(毎日新聞、2016年8月11日)

 

しかしそうしたお手軽なイメージとは裏腹に、旭岳は遭難事故が多発している山でもあるのです(YAMA HACK「遭難事故の多い旭岳。なぜ?どこで?実際の事故原因から学ぶ対策方法」2020年9月12日)

上の記事によると、旭岳遭難事故のもっとも多い原因は「道迷い」だそうです。

というのも、「山の天気は変わりやすい」と言われるように、晴れていると思うと一転して天気が崩れ霧がでて視界が悪くなると、たとえ道標があっても道に迷ってしまうことがあるのです。

 

 

晴れている時(上)と霧が出た時(下)の旭岳登山道

(上記の記事)

 

この大雪山系旭岳で、1989年の遭難者捜索をきっかけにして、その5年前に起きたミステリアスな遭難事故が明るみに出たのです。

 

【発見されたSOS遭難事故】

1989(平成元)年7月24日の午後、同じ大雪山系の黒岳から旭岳に向かっている途中で行方不明になった東京からの登山者2名を捜索するため、北海道警察(以下、道警)のヘリコプター「ぎんれい1号」が旭岳周辺を飛行していたところ、同岳南方の湿地帯で倒木を組んだと思われる「SOS」と読める大きな文字を発見しました。

 

 

行方不明だった登山者2名は、その場所から3kmほど北で午後6時50分ごろに無事救助されたのですが、この文字については知らないとのことでした。

 

そこで道警は、他に遭難者がいるものと考え、翌7月25日にあらためてヘリを飛ばし、見つかった文字の周辺を捜索したところ、人骨と見られる白骨3片(大腿骨、上腕骨、骨盤のそれぞれ一部)と、カセットテープレコーダーとカセットテープ4本(1本はレコーダーに装着)、洗面用具や山王神社のお守りなどが入ったリュックサックが発見されました。

なお、骨には動物の噛み痕と見られるものがついていました。

 

 

朝日新聞(1989年7月26日)

 

発見された骨について旭川医科大学で鑑定したところ、骨盤の形状から20−40歳の女性のもので、身長は160cm前後、採取された骨髄から血液型はA型とされました。

 

「SOS」の木文字は、シラカンバ(白樺)の倒木を集めて3段に積み上げた長辺が5mと大きなもので、中には直径50cm長さ5mもの木もあり、これを作るには相当な労力(男性1人だと少なくとも丸2日)が必要と推定されました。

 

「S」の字(朝日新聞、1989年7月28日)

 

なお警察が調べてみると、この「SOS」の木文字は、1987(昭和62)年9月20日に林野庁と国土地理院が地図作成のために高度3700mから撮影した航空写真に、3文字合わせても幅は約0.9㎜と小さいながら写っていたことが分かりました。

 

読売新聞(1989年7月31日)

 

さらに、テープレコーダーにセットされていたカセットテープには、アニメ「超時空要塞マクロス」と「魔法のプリンセス ミンキーモモ」の主題歌や「マクロス」を話題にしたラジオ番組の録音のあとに、2分17秒にわたって男性が大声で「えーすーおーおーえーすー たーすーけーてーくーれー」のように一文字ずつ区切りながら叫ぶ声が録音されていたと7月27日に道警が発表しました。

その声は、当時テレビで何度も流され、今でもこの事件を扱ったYouTube動画で聴くことができます。

 

カセットテープレコーダー

 

カセットテープのケース

「ミンキーモモ」の切り抜きが貼られていた

 

(毎日新聞、同上)

 

また、7月28日にも道警がヘリで4人の捜査員を現地に降ろし捜索をしたところ、あらたに頭蓋骨*やカメラの三脚、男性用のバスケットシューズ(27cm)の片方など35点の遺留品が発見されましたが、周囲に新しいヒグマの足跡が多数見つかったために捜索を切り上げて撤収しました。

 *この頭蓋骨についても、旭川医科大学は先に見つかった骨と同様に女性のものと鑑定した

 

毎日新聞(1989年7月28日夕刊)

 

こうして、最初に見つかった骨が女性のものと鑑定されながら、他の遺留品やテープの声が男性のものであったことから、遭難者は男女のペアだったのか、男性と女性が別々の時期に同じ場所で遭難したのかなど、遭難者の身元確認は混乱することになります。

というのも、旭岳での女性の行方不明者の届け出は記録になかったからです。

 

(読売新聞、1989年7月28日)

 

【特定されたSOSの発信者】

当時、旭岳周辺で行方不明のままになっていた登山者は、1984年7月の愛知県の男性と1989年6月の東京都の男性の2人で、その他に1989年4月に札幌から網走の女満別に向かったまま消息を絶った3人乗り小型飛行機のルートもこの近くでした。

 

そのうち、発見された骨や遺留品の経年状態から、1984(昭和59)年7月10日に旭岳に登ったまま行方不明になっていた愛知県江南市の会社員・岩村賢司さん(行方不明時、25歳)の可能性が高いと見てテープの声を両親に聴いてもらいましたが、確証が得られませんでした。

 

ところが、7月28日に北海道放送(HBC)の取材班4人*が旭岳に入山し、29日に現場付近を取材中、「SOS」の木文字から北に約50mのところにある木の根の部分の自然にできた穴に倒木や枯れ枝を立てかけて雨露をしのげるよう細工し、ゴミ袋や雨ガッパを敷いてビバーク(登山での緊急時の野営)した跡があり、穴の中とそこにあった袋から岩村賢司さんの免許証やユースホステル会員証、印鑑、彼が愛用していたカメラなど30数点を見つけたのです。

 *取材班4人は、このあと過労のため自力で現場から動けなくなり、7月30日の朝に道警のヘリで救出されました

 

 

 

岩村賢司さん

毎日新聞(1989年7月30日)

 

読売新聞(1989年7月31日)

 

これら遺留品を、岩村さんの両親と会社の同僚に見せたところ、彼のものに間違いないと確認された*ことから、道警は木文字を作った遭難者は岩村賢司さんであるとほぼ断定しました。

 *下の記事にあるように、最初に発見されたお守りは岩村さんの実家(京都市右京区)の近くの山王神社のもので、父親が毎年交通安全のお守りを息子の賢司さんに渡していました

 

読売新聞(1989年7月30日)

 

道警は、8月3日にも4度目の捜索を現場でおこない、さらに人骨や毛髪、衣類、時計などを発見しています。

 

読売新聞(1989年8月4日)

 

4回の捜索をおこなった北海道警旭川東署は、8月4日に「捜すべきところはすべて捜した」として捜索を打ち切ると発表し、骨の「女性」はいったい誰かという謎を残しながら、「SOS遭難事故」は岩本賢司さんの遭難ということでひとまず落着しました。

 

【謎の「女性」の正体】

それから1年半後の1991(平成3)年2月28日、旭川東署は発見された人骨を女性のものとした当時の鑑定は誤りで、遺骨も岩村さんのものだったと発表しました。

 

DNA鑑定が本格的に導入され始めたのは1992年になってからで、1989年当時の鑑定は骨の形状によるものでした。

旭川医科大学では、見つかった骨片のうち主に骨盤の大きさと形状からそれが女性のものだと鑑定したのですが、頭蓋骨と生前の写真とを比較し、輪郭の他に鼻や口、耳、眉など特定のポイントの一致からその人物を特定するスーパーインポーズという新たな手法で再鑑定したところ、頭蓋骨が岩村さんのものであると分かったのです。

 

また、血液型についても骨髄が変質していたために当初A型とした鑑定は誤りで、岩村さんと同じO型であったと訂正されました。

 

こうして骨だけを残した謎の女性遭難者は最初からいなかったことが分かり、SOS遭難事故は岩村賢司さんの単独遭難事故だったことですべて決着がついたのです。

 

朝日新聞(1991年3月6日)

 

【岩村さんの登山ルート】

冒頭にロープウェイの姿見駅から旭岳山頂への登山ルートを紹介しましたが、岩村賢司さんはそれとは異なり、5年後に東京から来て遭難した2人の登山者(その捜索過程でSOSの木文字が見つかった)と同じ黒岳から旭岳に至る縦走コースをたどっていたようです。

 

岩村さんが届け出た登山ルートについては、全国紙では読売新聞(1989年7月29日付)だけが報じています。

 

それによると岩村さんは、1984年7月10日に宿泊していた層雲峡ユースホステル*(現在の層雲峡ホステル)を出て、黒岳(標高1984m)ふもとのロープウェイ駅から五合目の黒岳駅(1300m)に上がり、さらにスキー場のペアリフトに乗り継いで、7合目(1520m)からまず黒岳に登りました。

 *ユースホステル(YH)は、旅する若者たち(ユース)に安全かつ安価な宿泊所(ホステル)を提供しようという理念をかかげ20世紀初頭にドイツで始まった運動が世界に広がり,日本では第二次大戦後に多く作られた会員制の宿泊施設

 

層雲峡ユースホステル

 

黒岳ロープウェイのふもと駅

(右手奥に見えるのが黒岳)

 

ペアリフトで黒岳7合目駅へ

 

黒岳山頂から中岳・間宮岳を経て旭岳に登り、西の姿見駅からロープウェイで下山し、旭岳温泉に行くというのが岩村さんの計画でした。

 

YAMAPのルート地図に小川加工

 

YAMAPによるとこのルートは、黒岳7合目のリフト駅から旭岳の姿見駅まで11.9km、7時間を要する「きつい」部類のルート*になります。

モデルケースによると、朝の7時に黒岳7合目リフト駅を出たとすると旭岳に着くのは12時19分と5時間以上(約9.1km)かかるそうです。

 *このルートは、走破するのにどれだけのエネルギー(体力)を必要とするかを示す「コース定数」( 1.8 x 標準コースタイム(h) + 0.3 x 歩行距離(km) + 10.0 x 上り累積標高(km) + 0.6 x 下り累積標高(km))が「28」で、健脚向きの「きつい」コースだとYAMAPでは表示されています。ちなみに、姿見駅から旭岳を往復するだけならコース定数は「16」で初心者向きの「ふつう」です

(ルートの高低と距離、YAMAP)

 

岩村さんにどれだけの登山歴があり健脚だったのかは分かりませんが、スポーツマンというよりアニメ好きでやや太り気味だったと言われることも考えると、旭岳を出た時点ですでにかなり疲労が溜まっていたのではないでしょうか。

 

【遭難場所と遭難原因】

ところで、岩村さんが遭難しSOSの木文字を作った「旭岳山頂から南へ約4km」という場所がどこなのか、その正確な位置情報を得ることはできませんでした。

 

そこで、新聞各紙が載せた現場見取り図と後に述べる遭難ポイント、それに「saitama-n」さんが「YamaReco」に掲載しておられる日記(「SOS遭難事件」2021年3月2日)の地図を参照すると、次の場所ではないかと推定されます。

 

(YAMAP)

 

(Google Map)

 

このように、旭岳山頂からSOSの木文字の場所への位置関係から考えると、山頂から姿見駅に向かって下りるときに、ある地点で西方ではなく南方へと道を間違えてしまったものと思われます。

 

その「ある地点」とは、実際にそれまでも道を誤る人がしばしば出ていた場所で、岩村さんもそこで道迷いをしてしまった可能性が非常に高いと考えられています。

下の地図の、山頂から下ってほぼ直線に西の姿見駅に向かう手前で道がカーブしているところがその地点です。

 

(YAMAP)

 

この近くには、旭岳の道しるべとして有名な四角い「金庫岩」があり、山頂に上るときはこの岩を左手に見、下る時はこの岩を右手に見て通るのです。

 

金庫岩

(最上晶さんのブログ「追分日乗」より、2022年)

 

ところが、金庫岩から少し離れたところに、非常によく似た「ニセ金庫岩」と呼ばれる四角い岩があるのです。

 

ニセ金庫岩(同上)

 

上の写真に写っているように、SOS遭難事故が明るみに出た後の7月31日、環境庁(現在の環境省)大雪山国立公園の管理事務所は、旭岳登山道の中で最も迷いやすいニセ金庫岩の近くに新たに標識を設置し*、その後さらにロープを張って誤った方向に迷い込まないための措置を取りましたが、岩村さんが訪れた時には標識もロープもありませんでした。

 *今では地図にも、従来から記載のあった金庫岩に加えてニセ金庫岩が載せられています

 

朝日新聞(1969年8月1日)

 

可能性として、岩村さんは旭岳を下りるときに金庫岩を見過ごし(岩村さんの疲労に加え、上りと下りとで金庫岩は形が異なって見えるとの指摘もあります)、ニセ金庫岩の方を金庫岩と見誤り、それを右手に見て進んだため、出口のない道へと迷い込んだのではないかと思われます。

 

 

正しいルートだと、上図のように姿見駅へと西に向かって進むのですが、間違うと南に下りますので、もし岩村さんがコンパス(方位磁石)を持っていたり登山に慣れていればすぐに間違いに気づいたのでしょうけれど、軽装備で特に登山経験が豊富というわけではなかった岩村さんは、「ちょっとおかしいかな」と思ったとしても「まあ大丈夫だろう」という気持ち*で間違った道なき道をそのまま進んでしまったのではないでしょうか**。

 *危機が迫っていても「大丈夫だろう」「大したことない」と過小評価して心の平静を保とうとする「正常性バイアス」と呼ばれる心理的な自己防衛機制が働いたのかもしれません

 **2000年代後半から急速に普及したスマートフォンがこの時代にもしあれば、事故は防げたかもしれません

 

【遭難現場の状況と録音テープ】

岩村さんがどのようにしてSOSの木文字を作った湿原にまでたどり着いたのかは分かりませんが、湿原の周囲には「笹地」の地図記号が書かれているように、斜面が笹で覆われていました。

 

 

旭岳の笹は「チシマザサ(千島笹)」という大型の笹で、「主に標高1000メートル前後の山地は、山の斜面を埋め尽くすほどの大群落をつくることが多い」(Wikipedia)そうです。

1〜3mのチシマザサが伸びた斜面を下から登ることは非常に難しく、岩村さんがテープに「笹深く上へは行けない」と吹き込んだのは、いったん下りるともう元には戻れない状況を言っていたのだと思われます。

 

チシマザサ(那須岳:栃木・福島の例)

 

またテープの声に「がけの上で身動きとれず」とあることを含めて、山岳ガイドの宮下岳夫さんは、「リュックが見つかった現場付近には笹が一面に生えている。近くの忠別川を川下に4、500m下りていくと、急に切り立ったがけに出る。川を下れば人家に出ると判断して川下に向かった場合、急に両岸が高さ200mのがけに突きあたったら、一般のハイカーはパニックになる。テープの声はその時に吹き込んだものではないか。遭難した人物は湿原方向にやむなく引き返し、ヘリの助けを求めてSOSの記号をつくったのだと思う」(毎日新聞、1989年7月28日)と推測していますが、ほぼ事実に近いのではないかと思われます。

 

「SOS 助けてくれ 場所は初めにヘリに会ったところ」という点については、岩村さんの消息不明の知らせを受けて道警は救助ヘリを飛ばし旭岳一帯を捜索したのですが、彼を発見できませんでした。

 

ヘリでの捜索には多額の費用がかかるため、道警としてはいつまでも捜索を続けることはできず、岩村さんの会社の同僚たちが民間ヘリをチャーターしようとカンパを集めたりもしたそうですが、結局彼の発見には至りませんでした。

 

しかし、岩村さんの方はいずれかのヘリを見てそれに希望をつないだのでしょう。

 

テープレコーダーに救助を求める声を吹き込んだ時期や意図についてはよく分かりませんけれど、自分が衰弱して大声を出せなくなったときに備えたのかもしれません。

 

なお、岩村さんの死因についても、死後5年が経過し遺骨も部分的にしか残っていなかったことから特定できていません。

 

現場がヒグマの生息地であり、遺骨に動物の噛み痕があったことから、ヒグマに襲われた可能性もありますが、骨の散乱や噛み痕は死後のことかもしれず、またキツネの仕業との見方もあるようで、衰弱死の可能性も含めて真相は藪の中です。

 

岩村さんが、たった独りどんな思いで懸命に倒木を集めて巨大なSOSの木文字を作り、またテープに助けを求める声を吹き込んだのだろうかと考えると、ご遺族ならずともいたたまれない気持ちになります。

 

アニメ好きの彼が、テープに録音していたアニメソングやラジオ放送を聴いて心を慰めていたとも考えられますが、電池が消耗してしまうといざというときに録音が役に立たなくなるので、それも思うようにはできなかったことでしょう。

 

ただ、彼が作ったSOSの木文字が、5年後に他の遭難者を発見・救助するきっかけになったことが、せめてもの慰めと言うしかありません。

 

ちなみに、SOSの木文字は現在はもう目視できなくなっているようで、事故発生から41年が経過して自然に還ったのかもしれません。

 

サムネイル

小川里菜の目

 

「ミステリアスな遭難事故」と初めに書きましたが、SOSの大きな木文字、テープに吹き込まれた叫び声、遺骨の女性(これについては後に判明)といった「謎」が発見当初からさまざまな推測・憶測を呼び、今でも「事件」と呼ばれることが多いように人びとの興味を引きつけています。

 

遭難の現場が発生から5年も経って発見されたことから、今となっては確かに推測するしかない「謎」は残りますが、出来事自体は岩村さんの道迷いによる遭難であって、それをことさらミステリー仕立てにすることはないでしょう。

 

ただ、気になったことをあげるとすれば、読売新聞が報じた岩村さんの当日の登山計画は、彼の体力や技量に比してややハード過ぎたのではなかったかとの懸念です。

 

旭岳も観光案内に「初心者でも挑戦できる」「脚力に自信がなくても」とありますが、黒岳も「ロープウェイとペアリフトを利用すれば、比較的手軽に山域の高原風景や紅葉、雲海、雪景色を楽しむことができます。「大雪山 黒岳」は登山・トレッキングファンに定番の山であり、北海道の自然美を象徴するスポットの一つです。ロープウェイを使えば5合目駅(黒岳駅)まで上がれるため、体力に自信がない方でも高所の絶景を満喫できます」(北海道観光ツアーズ)と手軽さをアピールして登山者を誘っています。

 

しかし、脚力や体力に自信がなくても手軽に楽しめる旭岳と黒岳とはいえ、この2つの山をつないで縦走するコースは、先に見たようにかなり「きつい」ものであるにもかかわらず、岩村さんや5年後に同じルートで遭難した登山者たちは、山の魅力と誘い文句に惹かれるあまりつい見方が甘くなってしまった可能性を否定できないように思いました。

 

人間がいくら飼い慣らそうとしても、自然はそう簡単に人の思い通りにはならない厳しい顔を持っているという畏れと謙虚さを私たちは失ってならないことを、正常性バイアスに流された根拠のない楽天性ではなく最悪の事態を想定して危機を危機と認知できることの重要性とともに、事故の教訓として再確認しなければならないと小川は思いました。

 

もう一つ気になったことは、岩村さんの死にヒグマが関わっていた可能性です。

 

 

 

というのも、今年はクマ(ツキノワグマ、ヒグマ)が人間の生活圏に出没して被害を及ぼす事件がこれまでになく多発したからで、恒例の「今年の漢字」にも2025年は「熊」が選ばれたほどです。

 

(写真提供:日本漢字能力検定協会)

 

旭岳をはじめ大雪山系にはヒグマが多数生息しており目撃情報は多々ありますが、人命に被害が出た記録は1949(昭和24)年7月30日に1人が亡くなったただ一件だけです。

 

この事件は、北海道秩父別町から来た男性9人のパーティーが、愛山渓温泉から旭岳山頂を目指し往復26kmを日帰りするという、この場合は明らかに無謀な計画の中で起きました。

 

「日本クマ事件簿 vol.01」(ソトラバ、2023年5月20日)によると、午後1時に愛山渓温泉を出発した一行が、当時はまだなかった大雪山旭岳ロープウェイ(1967年開業)姿見駅の近くにある姿見の池に夕方になってようやく到着したものの、うち4人は疲労困憊していたために登頂を諦めて下山することにしました。

 

姿見の池と旭岳

 

ところが午後7時ごろ、下山していた登山路で下から上ってくるクマと出くわし、大声をあげて威嚇したのがかえってクマを刺激したのか、笹藪に飛び込んだ4人のうち21歳の男性がクマに押し倒されて犠牲になりました。

 

通報を受け8月1日になって20人の捜索隊が現場付近を捜したところ、男性の頭と足、そして胴体がバラバラに見つかりましたが、筋肉はほとんど食べられていたそうです。

 

ただ、どうしてこのときクマが人を襲ったのかについては、「クマが人間を襲う場合は、空腹や苛立ち、戯れ、恐怖と、さまざまな要因が考えられるため、本当の理由は推測の域を出ない」とこの記事は述べています。

 

クマによる死亡被害が確認されたのは、先に述べたように大雪山系ではこの1件にとどまりますが、行方不明者の中には同様の被害者がいる可能性があり、もしかしたら岩村さんもその1人なのかもしれません。

 

ところで、今年の特に東北地方を中心としたクマの出没と被害については、原因としてクマのエサとなるブナ(どんぐり)の結実が青森・宮城・秋田・新潟・山形で大凶作だったことが指摘されています。

 

読売新聞(2025年11月17日、新潟県版)

 

ブナの結実は、年によって波(豊作と凶作の周期)があるそうですが、岩手県内の状況(下表)を見てもここ10年豊作の年はなく、凶作や大凶作の年が増えています。

 

読売新聞(2025年11月7日、岩手県版)

 

ブナ凶作の原因としては気候変動による温暖化の影響が指摘され、山でエサの不足したクマが人口減少・過疎化にともなう耕作放棄地の増加もあり人里まで下りてきてそこを生息地にする個体が増えている*というです(石田雅彦「「クマ被害」増加の原因は「人口減少」と「温暖化」だった。東京農工大などの研究」Yahoo!ニュース2025年4月20日、など)

 *こうしたクマは「アーバンベア」と呼ばれ、冬眠も浅く短くなっているそうです

 

また、エサ不足の環境下ではクマにも変化があらわれ、臆病と言われてきたクマでもエサがないことで性格が一変し凶暴になると言われます(読売新聞、2025年12月22日岩手県版「記者ノート2025」)

 

岩手県内では今年10月16日、北上市の瀬見温泉で従業員の男性が露天風呂の清掃作業中にクマに襲われ行方不明になる(のちに死亡を確認)という痛ましい事件も起きており、人に直接の害を及ぼすクマ(個体)に対しては、緊急避難的措置として駆除することも必要でしょう。

 

読売新聞(2025年10月17日)

 

しかし、こうしたクマの異常行動の背景に気候変動や過疎化など人間の諸活動の影響があるとすれば、ただクマを駆除しさえすればいいということではなく、地球環境破壊に対する人類の責任を重く受けとめ、地球規模での有効な対策を国際的な協力関係のもと早急に講じることが必要でしょう。

 

 

 

ところが、「気候変動はフェイクだ」とする真逆の主張が台頭してそうした取り組みの足をひっぱり、国際社会に混乱が生じています。

 

いま増加しているクマ被害は、地球/自然の発する「SOS」なのではないのかと、小川には思えてならないのです。

 

 

 

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本年は小川のブログをお読みくださり

どうもありがとうございました🩷

来年も気持ちを新たにして

ブログに取り組みますので

どうぞよろしくお願いいたします🩷🩷

 

2025年も今日で最後だね

小川のブログを読んでくれて、ありがとう

 

ボクは小川が作ってくれた蝶ネクタイをして、12月28日に一緒に神戸のスペイン料理店カルメンで忘年会をしたよ

 

 

 

 

 

 

 

 

ナイヤガラ種ブドウジュース / 前菜(タパス:小皿料理)

タマネギとニンニクと玉子のスープ / サラダ

フラメンカ・エッグ / ヒレステーキ

パエリア / デザートのロールケーキとコーヒー

 
来年も小川のブログをよろしくね💞
ボクもときどき登場するよ🐱
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戦後2人目の確定女性死刑囚

3人を毒殺した

杉村サダメ事件

1960年

朝日新聞(1960年12月31日)

 

【事件の概要】

1960(昭和35)年12月28日の午後、熊本市長谷町(はせまち、現在の西区春日)に住む衣類行商人の奥村キヨノさん(51歳)が、行きつけの熊本市高江町(たかえまち、現在の南区南高江3丁目)杉村サダメ(49歳)宅を集金に訪れ、出された納豆(当時は、熊本特有の表現で「ねば納豆」と言った)を食べたところすぐに苦しみだして午後5時ごろに亡くなりました。

 

地図は現在のもの

*同地区に当時の農村の面影はまったくない

 

奥村キヨノさん

 

それをきっかけに、サダメ宅で他にも近所の人が亡くなったといううわさを熊本県警川尻警察署(現在の熊本南警察署)刈草駐在所(現在は廃止)の巡査が聞き込んだことから捜査したところ、12月18日の午後1時ごろサダメ宅に売掛金の取り立てに訪れた熊本市近見町(ちかみまち、現在の南区近見)衣類行商人・村上敏子さん*(49歳)が、サダメにすすめられた鯛ミソを一口食べてから隣家に行商に回ったところで苦しみ始め、近所の人に助けられて自宅に帰ったものの意識不明の重体になっていた**ことが分かりました。

 *新聞報道ならびに熊本地裁判決文では「村上敏子」となっていますが、なぜか大塚公子『死刑囚の最後の瞬間』、深笛義也『女性死刑囚』では名前が「山村富士子」とされています

 **その後、一命は取り留めましたが、彼女は植物状態になりました

 

村上さんが苦しみだした時にサダメが駆けつけて来たのですが、その間に村上さんの財布に入っていたはずの1万3千円が無くなっていました。

 

さらにさかのぼると、12月6日の午後1時ごろ、サダメ宅に来た近所に住む義母(亡夫・杉村登さんの母=姑)の杉村クラさん(81歳)が、出された好物の乳酸菌飲料ヤクルトを飲んだあと近くに住むクラさんの弟宅で苦しみだし、自宅に運ばれてから死亡しており、また12月14日午前10時ごろサダメ宅の隣りに住む茶飲み友だちの嘉悦タケさん(45歳)が、サダメが持って来た馬肉煮を食べたところすぐに苦しみだして、午後3時50分ごろ運ばれた国立熊本病院で亡くなっていたことも分かりました。

しかし、両人とも医師が死因を脳卒中と診断したことから、その時は事件性がないとされていたのです。

 

嘉悦タケさん

 

疑惑が深まったと見た警察は、12月29日朝に杉村サダメ宅を捜索して農薬ホリドールの100cc入りビンなど4本に鯛ミソと納豆の食べ残りを見つけ押収し、県警鑑識課で調べたところ、鯛ミソと納豆から有機リン剤の反応が出ました。

そこで警察は、川尻署に同行を求めて彼女を取り調べました。

 

取り調べを受ける杉村サダメ

(読売新聞 1960年12月31日)

 

当初は容疑を否認していたサダメですが、自宅台所から押収された農薬が混入した鯛ミソと納豆という証拠を突きつけられると、行商人の村上敏子さん・奥村キヨノさんの件については関与を認めました。

しかし、義母の杉村クラさんと隣家の嘉悦タケさんについては医師の診断どおり脳卒中だと言い張りました。

 

サダメの取り調べを進める一方で警察は、奥村さんの遺体解剖に加え、30日には土葬されていた嘉悦タケさんの遺体を掘り起こして熊本大学法医学教室で司法解剖したところ、両遺体から有機リン酸の反応が検出されました。

なお、杉村クラさんの遺体は火葬されていたために司法解剖ができませんでした。

 

解剖結果を示されたサダメは、12月30日になって3人の毒殺と1人の同未遂に関与したことを自供したのです。

 

【杉村サダメと犯行の動機】

杉村サダメは、1911(明治44)年10月27日*、熊本県鹿本(かもと)郡川辺村鍋田(現在の山鹿市鍋田)に石屋をしていた猿渡己之平・シガ夫婦の長女として生まれました。

 *地裁判決文では「10月27日」ですが、大塚公子・深笛義也は誕生日を「12月29日」と記載しています

 

 

川辺尋常高等小学校*を卒業後、サダメは近くの農家に奉公したり家業の石屋を手伝ったりしていましたが、やがてとび職をしていた杉村登さんと出会い、1930(昭和5)年4月に19歳で熊本市高江町の杉村家に「嫁入り」しています。

 *尋常小学校6年と高等小学校2年の計8年在学で、13歳か14歳で卒業した

 

夫とは恋愛結婚だったと言われ、翌1931年に一人娘が生まれました。

 

ところが、相思相愛だったはずの夫は実は大酒飲みの暴力男で「女癖」も悪く、結婚して10年ほどすると子連れの愛人を次々と家に引き入れ、いわゆる「妻妾同居」の状態だった時期もあったようです。

たまりかねたサダメは離婚を切り出しますが夫はとりあわず、逆に殴る蹴るの暴力を振るわれました。

 

夫が酒を飲んでろくに働かないために、サダメは日雇い人夫をしたり小商いをして何とか毎日の生計を維持していたそうです。

 

1950(昭和25)年2月、娘のアヤ子さんが婿養子を迎えて同居するようになり、娘夫婦と一緒に戦後の農地改革で手に入れた農地(3反3畝=3300㎡ほど)を耕作しますが、生活は依然として苦しいままでした。

 

そうした過労や夫とのストレスも影響したのか体調を悪くしたサダメは、1952(昭和27)年に子宮筋腫のため子宮摘出の手術を受けています。

 

1953(昭和28)年6月に、酒乱だった夫が、当時は高価で手に入りにくい酒に代わるものして出回っていた人体に有毒な工業用メチルアルコール(メタノール)*を原料とする密造酒(ヤミ酒)を飲んで54歳で亡くなり、前後して実父母とも死別します。

 *飲用のエチルアルコール(エタノール)と違い、飲んだあとに体内の代謝で生成される「蟻酸」が有毒なため、個人差が大きいですが致死量(半数致死量:LD50)は体重1kgあたり30-100ml、失明する量は約10mlとされています(三協化学株式会社、下図とも)

 

 

さらに1957(昭和32)年9月ごろ、娘夫婦とは農地のほとんど(田2反3畝、畑1反)を財産分けする形で別居しました。

娘夫婦との別居は、サダメが新しく付き合い始めた男性が家に出入りするようになったことが原因と思われます。

 

志垣権蔵という名のヤクルトの配達員をしている男性(55歳)とサダメは内縁関係を結び、1958(昭和33)年の暮れごろからサダメの家で同居を始めます。

「やさしい男で、2人の仲はうまくいっていた」(サダメの供述)ようですが、しかしこの男は妻子ある既婚者でした。

 

当時の新聞は、2人が「派手な生活」を送っていた(冒頭の朝日新聞 1960.12.30)とかサダメが「派手好きで浪費が多く」(読売新聞)と書いていますが、実際は、同居していた男性が自分の決して多くない収入の大半を大学に通う次男の学資などとして妻子に渡していたため、農地の大半を娘夫婦に与えたサダメの生活は以前にも増して苦しくなり、親族・知人からの借金や商店の買掛金(ツケ)がかさんでいました。

 

読売新聞(1960年12月31日)

 

1960(昭和35)年11月末ごろには、借金の元利合計が約15万5千円、八百屋・魚屋・酒屋などの買掛金(ツケ)が約1万8千円あまり(両方合わせて約17万円*)にまでなり、当時の慣習として年末には借金の利息分だけでも支払わなければならなくなります。

 *日銀の資料を参考に試算すると、消費者物価ベースでは1960年の17万円は2024年の約105万円に相当するようです

 

「生来小心な反面、勝ち気で見栄っ張りの性格でもある」(熊本地裁判決文)サダメは、さしあたり3万円程度の現金を手に入れようとひとり苦慮します。

そして、12月の初めごろには農作物の消毒に使用し残りを保管していた農薬「ホリドール*」などを使って他人を中毒させ、苦しむすきに所持金を奪おうと考えるに至り、その機会をうかがうようになりました。

 *毒性が非常に強いため、日本では1971(昭和46)年に製造・使用が禁止されました

 

そして、最初におこなった義母と隣家の女性の毒殺がいずれも脳卒中として処理されたことに自信を得たサダメが、出入りの女性行商人を中毒させ現金を奪おうとしたのは先に述べたとおりです。

 

ただ肝腎の所持金の強奪は、村上敏子さんの財布から1万3千円を抜き取った*以外はことごとく失敗しています。

 *このお金をサダメはすぐに借金返済に使いました

 

義母の杉村クラさんは、内職で貯めた1万5千円程度の現金を常に手提げ袋に入れて持ち歩いていると知っているサダメがそれを狙って農薬入りのヤクルトを飲ませ、クラさんの弟宅で苦しむ彼女を介抱するふりをして身辺を探りましたが、周りに人がいたこともあり何も盗ることができませんでした。

 

また隣家の嘉悦タケさんは、3日前に結婚した長男の祝儀金があるだろうと農薬入りの肉を持参して食べさせ、苦しむタケさんの懐に財布があるのを見つけ手に取ったものの、この時も居合わせた家族に見られて盗ることはできませんでした。

 

奥村キヨノさんからは、彼女が苦しんで脱ぎ捨てたエプロンのポケットから財布を取り出すことに成功しましたが、売掛金の回収で大金が入っているとの期待に反し、中にはわずか15円分の硬貨があっただけでした。

 

【裁判と判決】

 

読売新聞(1961年1月1日)

 

1960年の大晦日、熊本県警川尻署は強盗殺人ならびに同未遂容疑で熊本地検に杉村サダメを送検しました。

 

熊本地裁の公判では、弁護人がサダメは犯行当時「心神喪失あるいは耗弱ないしはそれに類する異常な精神状態にあった」と主張したようですが、熊本地裁の安東勝裁判長は、諸状況や公廷での被告人の言動からその主張を退け、1961(昭和36)年6月27日の判決公判でサダメに求刑どおり死刑を言い渡しました。

 

読売新聞(1961年6月27日夕刊)

 

 

被告・弁護人は控訴しますが福岡高裁でも死刑判決はくつがえらず、1963(昭和38)年3月28日、最高裁第1小法廷が上告を棄却したことで、杉村サダメに戦後の女性で2人目の死刑が確定*しました。

 *下の記事にもあるように、戦後初めて死刑が確定した女性は、1949(昭和24)年に姫路市で夫婦を殺害し放火した山本宏子(1951年死刑確定)ですが、彼女は収監中に精神に異常をきたしたこともあり恩赦で無期懲役に減刑され、その後病死しています

 

朝日新聞(1963年3月28日夕刊)

 

読売新聞(1963年3月28日夕刊)

 

福岡拘置所に収監された杉村サダメの死刑は、1970(昭和45)年9月19日に執行されました。58歳でした。

 

杉村サダメの死刑執行は戦後女性では2人目で、1人目はホテル日本閣殺人事件(1961年発覚)の小林カウ(1966年死刑確定、1970年6月11日執行)です。

 

ホテル日本閣殺人事件の小林カウ

 

 

 

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小川里菜の目

 

「毒殺は女性の犯行」というイメージがあり、体力の問題もあって統計的にもその傾向は認められるようです。

殺人事件を起こすのは男性が約8割と圧倒的に多いのですが、「女性が一度殺意を抱くと、毒殺を選ぶ人は非常に多い」(「女性の殺人 追い詰められた末の犯行で、毒殺選ぶ犯人多い」『女性セブン』2016.6.22)のです。

 

この毒殺事件もその例に漏れないのですけれど、「カッとなって犯行に及ぶ男性に比べて、女性の殺人事件のほとんどが追い詰められた末の犯行」(碓井真史/犯罪心理学、上の記事)だと言われる点について、杉村サダメの場合はどうだったのでしょうか。

 

確かに、年の瀬に借金を抱えたサダメが金銭的に「追い詰められ」ていたことは事実ですが、金額的にも殺人を犯さなければならないほど切羽詰まった状況に置かれていたわけではなく、頭を下げて回ればその場はなんとかしのげたのではないかとも思われます。

 

ただ、あの時代の田舎の裕福でない家に生まれた女性には珍しくなかったのかもしれませんが、子どものころからサダメは長女として家のために懸命に働き、結婚してからも相手が悪かったこともあってずっと生活の苦労が絶えなかったという事情がうかがえます。

つまり、犯行時に追い詰められていたというより、彼女はずっと「追い詰められた人生」を生きてきたのではないかということです。

 

そんな彼女がようやく「やさしい男」とめぐり逢えたものの、彼は乏しい収入を妻子に渡していた既婚者で、戦後手に入れた農地のほとんどを娘夫婦に譲り渡したサダメは経済的にさらに「追い詰められ」ることになります。

 

何がきっかけになったのか分かりませんが、それまで悪事に手を染めた形跡のないサダメのずっと張り詰めていた心の糸があの時にプツンと切れた——そんなイメージを小川は抱いてしまいます。

 

それにしても、特段の恨みもなくむしろ親しくしていたように見える義母(姑)・隣家の茶飲み友だち・出入りの行商人に次々と毒を盛ることがどうしてできたのか、「情」が湧かない見ず知らずの他人の方が殺害へのハードルが低いだろうにと思います。

 

しかし法務省の「犯罪白書」(令和5年版)を見ても、殺人事件の被害者の内訳は、親族が44.7%、知り合いが39.7%、つまり約85%が身近な人となっているように、関係の近さは加害/被害の関係になる可能性を高める現実があるようです。

 

そこには、関係が近いと愛憎のもつれた関係になる可能性が高いという面と、犯行の機会が多くあるという面があるでしょうが、サダメの場合はおそらく閉鎖的な生活環境に置かれ交友関係が非常に限られる中で、ターゲットとなるのは義理の親族や顔見知りしかなかったということだったのではないでしょうか。

 

何ら落ち度のない3人の命を奪い、1人を植物状態にして人生を奪ったことの罪の重さは計り知れません。

その点で、杉村サダメに同情の余地はまったくないと言えるでしょう。

 

ただ、彼女が根っからの冷酷非道な悪人であったのかと言えば、彼女についても「加害者の被害者性」という面があったことを見ておかなければならないと思います。

 

彼女の生涯について詳しいことは伝えられていないため分かりませんが、それは貧困であり、戦中・戦後の時代・社会状況であり、男尊女卑の意識が強い中で夫の暴力や理不尽な行いに耐えながら家のため子どものために生きなければならなかった女性の苦しみであったことでしょう。

 

一時期紙面を騒がせたものの、ほとんど忘れられた存在であった杉村サダメがあらためて世に知られるようになったのは、死刑囚として31年あまりの獄中生活を余儀なくされた後にえん罪が認められ再審無罪になった免田栄さんが、「松村さん」という仮名でサダメについて著書で書いたことがきっかけだったと言われています。

 

免田 栄さん(2007)

 

免田さんが容疑者とされた強盗殺人事件は、奇しくも杉村サダメが逮捕された12年前(1948・昭和23年)の同じ日(12月29日)に、場所も同じ熊本県(人吉市)で起きました。

 

1952(昭和27)年に死刑が確定した免田さんは、無実だとして再審を請求し続け、ようやく1983(昭和58)年に再審無罪が確定しました。

その翌年(1984)に『免田栄獄中記』が出版されています。

 

 

[昭和]45年9月19日 死刑執行 松村さん

彼女は敗戦後、男女同権が叫ばれる社会のなかで、女性の犯罪として類をみないことをしている。この彼女も罪を悔いて信仰に入り、同囚の模範的な人物になっていた。けれどもYという支所長から極端にきらわれ、どれほど日常善行を尽くしても、支所長が巡視にくるたびに家庭内のいやみをいわれた。そのきらわれかたは、支所長が八ッ当たりしているのではないかと噂されるほどであった。しかし彼女は仏門に帰依して驚くほど立派な最後だったといわれている。問題のY支所長は退職して間もなく世を去った

 

先に見たように、当時の新聞はサダメを「派手好きで浪費が多い、金ほしさの中年女」といかにもの悪女、文字通りの「毒婦」として描きましたが、このように獄中でもなお彼女はY(山地)支所長から「女の分際で人を殺したうえに、亭主が死んで早々に別の男を引っ張り込むような女だ」といびられ続けたようです。

 

免田さんは2004年に出した『免田栄 獄中ノート 私の見送った死刑囚たち』において、サダメの実名をあげながらより具体的に次のように書いています。

 

1970年9月19日 杉村サダメさん

女性の死刑囚ということで、社会からたいへん注目されていたらしいが、本人は素直な性格だった。初めて出会ったとき、「こんにちは、免田さんですね。よく話をうかがっています」と、明るく言葉をかけられ、返す言葉を迷った。女性死刑囚は九州で初めてだろうという噂に、どんな女性だろうと好奇心と怖さが重なっていたが、会ってみて全く期待はずれで普通の女性と変わりないじゃないかと思いながら、「あー、お元気ですか」と答えた。彼女が男二人を扱って証人[商人?…小川]に毒まんじゅうを食わせて殺し*、所持金を奪っていたとは、彼女に会うたびに不思議に思う。彼女は面会の帰りに、花園の手入れをしている私の所に来て、「免田さん、免田さん、花ください」と言って、花をもらって帰っていった。

山地支所長から「女性の分際で人を殺すなんて」と嫌われ、女区を巡視するたびに雑役にでて働いている彼女を呼びつけ、掃除・整頓について叱責する。「母ちゃんに言えず、杉村に言うとる」と噂されるほどの扱いを受けた。しかし、処刑の知らせを受け、「ありがとうございます」と言って、静かに死刑台に立ったということを後日聞いた。

 *当時はこのように誤って伝えられていたようです(小川)

 

 

また大塚公子さんは、「サダメは死刑確定後、処刑されるまで福岡拘置所の特別舎に収監されていた。ここで同囚の女性収監者たちに〝4階のおばあちゃん〟と親しまれ、慕われていた。教誨、娯楽などの集会時に、同囚者の苦悩を聞いてやり、励ましたり慰めたりを年長者らしくする。このとき出される茶菓を皆にすすめ、自分はあまり口にしなかったとも伝えられている。常に謙虚で慎み深い生活態度であった。とくに印象的なのは、正月に特別食のぜんざいが配当されたときのことだ。畳に三つ指を突いて「ありがとうございます。ごちそうになります」と言い、合掌して感謝していた。こうした態度からは、連続毒殺魔のおもかげはまるでかけらもうかがえなくなっていた」(『死刑囚の最後の瞬間』p.142)と書いています。

 

 

仏門に帰依し罪を悔いたサダメの心中を軽々に推察することは小川にはできませんが、死刑の執行が告げられると彼女は、次のように挨拶して合掌し、刑場におもむいたそうです(大塚、p.143)

 

私のような人間のために、こんな最後のひとときを設けていただきまして、本当にもったいない気持ちでいっぱいです。私を真人間に生まれ変わらせてくださった教誨師の先生、長い間お世話をしてくださった拘置所の先生方に深く感謝いたします。本当にありがとうございました。感謝の気持ちを持ちながら死んでいける私は幸福です。ではお先にまいります。あの世では被害者の皆さんに会って、罪を償いたいと思います。本当に皆さん、ありがとうございました。さようなら。

 

獄中で彼女に会い直接言葉を交わした免田さんが伝える話をあわせて考えると、杉村サダメは「真人間に生まれ変わった」と自分では思っていたのかもしれませんが、そうではなくて、一時の狂気からもとの「真人間に戻って」死んでいったのではないかと小川には思えてならないのですショボーン

 

 

早いものでもう12月だね

2025年ももうすぐ終わってしまうね……

 

ボクも小川も、クリスマスだからといって特別なことは何もしないんだけど

季節を感じるために

毎年どこかのクリスマス装飾と一緒に写真を撮ってるんだ

 

 

 

今年も、クリスマスツリーを見かけたので

ボクもサンタ帽をかぶって撮ってもらったよ

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 今回も最後までお読みくださり

ありがとうございますニコニコ

次回は、リクエスト企画をしようと思います

どうぞよろしくお願いします💓

【リクエスト企画】

京都・大阪

連続強盗殺人事件

1984年

 今回のリクエストは、京都の事件の犯行直後に逃げる犯人とぶつかりそうになったという生々しい体験をお持ちの読者の方からいただきました。

ご本人の了解を得て、リクエストの文面を下にあげます。

 

○*・○*・○*・○*・・*○・*○・*○・*○

毎回興味深く拝見させて頂いております。

私は57歳の普通のサラリーマンです。

高校時代は京都市内に住み、自転車通学しておりました。

高校1年の夏休みが明けて数日経った頃の帰り道、船岡山公園近くを通っていた際、

その公園から走り出てきた中年の男性とぶつかりかけた事がありました。

その後家に帰ったら、船岡山公園で警官が殺されたと……。

ぶつかりかけた中年の男性……、広田雅晴死刑囚でした。

多分、警官を殺して間無しに出会ったんだと思います。

今思い出してもゾッとします。

広田雅晴死刑囚の事件も取り上げて欲しいです。

よろしくお願いします。

○*・○*・○*・○*・・*○・*○・*○・*○

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【京都 警察官殺害・拳銃強奪事件】

 

朝日新聞(1984年9月5日)

 

1984(昭和59)年9月4日午後12時40分ごろ、京都府警西陣警察署十二坊派出所*(現在の北警察署十二坊交番)に外部からの電話がありました。

 *「派出所」と「交番」は同じものですが、1994年からは「交番」が正式名称となりました

 

 

電話に出た同派出所勤務の鹿野人詩巡査(30歳)は昼の休憩時間でしたが、「不審者が船岡山公園に上がっていく、すぐに来てくれ」との電話を受け、西陣署通信司令室に警らに向かうと連絡してから午後12時42分にオートバイで同公園に向かいました*。

 *通常は2人勤務ですが、この時は相棒が巡査部長昇任試験を受けるため不在だったので、鹿野巡査が1人で対応したのが仇になりました

 

船岡山公園(マップピンが事件現場)

 

鹿野人詩巡査

 

午後12時50分ごろ、船岡山公園に到着しバイクを降りた鹿野巡査は待ち伏せていた何者かに刃物で襲いかかられ、右肩や背中、太ももなど16カ所をめった刺しにされて倒れたところを、彼の拳銃を奪った犯人にとどめを刺すように背後から1発撃たれたのです。

 

奪われたニューナンブ38口径 銃弾5発装填

(Wikipedia)

 

携帯していた警察無線で鹿野巡査から「至急、至急、助けてくれ」と緊急通報があったため行方を捜していたところ、「警官が倒れている」との110番通報が公園を散歩していた住民からあり、午後1時10分ごろ駆けつけた警察官が公園南側斜面の参道で血まみれで倒れている鹿野巡査を発見しました。

鹿野巡査*はすぐに西陣警察署向かいの相馬病院に救急搬送されましたが、出血多量により現場ですでに死亡していたことが確認されました。

 *同日付で警部補に2階級特進

 

病院に駆けつけた妻の鹿野真理子さん(30歳)

異様な雰囲気に泣き出す長男(3歳)

夫はすでに亡くなり解剖台に乗せられていました

(「FOCUS」1984年9月14日号)

 

船岡山公園の事件現場に建つ

鹿野人詩警部補の顕彰碑

「船山の山の歴史にとこしえに

職に殉ぜし君を語らむ」(左の歌碑)

 

【大阪 消費者金融強盗殺人事件】

 

読売新聞(1984年9月5日)

 

京都の事件から3時間後の午後4時ごろ、大阪市都島区東野田町2丁目永井ビル2階の消費者金融「ローンズタカラ京橋店」に、赤い半袖ポロシャツにサングラス、黒い手袋をして手に拳銃をもった男が押し入りました*。

 *この少し前に同じと見られる男が、同ビル4階にある「ローンズ善木」で融資を頼みましたが、証明書類が必要と言われるとそのまま去りました。そこには複数の男性従業員がいたため強盗を諦めた可能性があるようです

 

マップピンが事件現場の永井ビル

 

読売新聞(1984年9月5日)

 

男は、自席で新聞を読んでいた従業員の鈴木隆さん(23歳)にカウンター越しに拳銃を向け「金を出せ」と脅しましたが、鈴木さんが「冗談でしょう」と取り合わなかったため、いきなり彼の胸部に向け発砲しました。

鈴木さんが読んでいた新聞には弾丸が貫通した穴があいており、ほぼ即死状態でした。

 

鈴木 隆さん

 

恐怖に凍りつく女性従業員(26歳)に「金を出せ」と要求した男は、出された約60万円を持参の紙袋に入れて慌てる様子もなく立ち去ったのです。

その直後、女性従業員が110番通報しています。

 

【容疑者として浮かんだ男】

京都で奪われた拳銃と大阪で使用されたものと銃弾の線状痕が一致したことから、警察は両事件を同一人物による犯行と見、9月5日に広域重要指定「115号事件」として捜査を進め、手がかりとなる次のような情報を得ました。

 

①午後1時50分ごろ、タクシー運転手から第一現場(京都)近くで「白いシャツの中年男を乗せ、千本通中立売(せんぼんどおりなかだちうり、第一現場から南西に約2km)で降ろした」との110番通報。この時に男は行く先を「千中(せんなか)」と通称で言ったことから、京都に土地勘のある人物と思われる。また後部座席のカバーに血痕が付着しているのが見つかった。

 

②タクシーが客を降ろした直後ごろ、近くの映画館「西陣大映」に左肘や顔に血のようなものを、ズボンに白い土のようなものをつけた不審な中年男が現れ、ロビーの自動販売機で清涼飲料水「リアルゴールド」を買って入ったが、5分ほどして出ていった。清涼飲料水の空きビンからは男のものと見られる指紋が採取された。

 

③午後3時30分ごろ、第二現場(大阪)近くのクレープ店「あんどれ」に、若い女性客が多い同店には珍しい40歳くらいの赤の半袖シャツを着た男がひとりで訪れ、レモンのかき氷を食べ紙コップで水を飲んだ。これらのカップ類からも指紋が採取された。

 

その他、両現場周辺の聞き込み捜査で有力なものだけでも30人を超える目撃情報が得られましたが、30−40歳の中年男性、身長160−165cm、小太りあるいはがっしりした体格、色黒、短髪という特徴、それに京都では白シャツか白シャツを左腕に巻いたランニングシャツ姿、大阪では赤いポロシャツ、ベージュの紙袋といった点がほぼ一致していました。

 

そして、上記の特徴と②と③の指紋から容疑者として浮上したのが京都府警の元巡査・廣田雅晴(41歳、身長161.5cm、体重63kg)でした。

また、当時はまだDNA鑑定が捜査に使われていませんでしたが(1992年度以降に導入)、①の血痕も鹿野巡査と同じA型でMN型(赤血球の抗原の型)であることから、彼の血液痕と見て矛盾がないと鑑定されました。

 

読売新聞(1984年9月5日夕刊)

 

【廣田雅晴の経歴と前科】

 

 

廣田雅晴(結婚前の旧姓は「神宮」)は、1943(昭和18)年1月5日、大阪市に5人きょうだいの第3子(次男)として生まれました。

1歳のころ、母親の故郷である千葉県山武(さんむ)郡成東町(なるとうまち、現在の山武市成東)に家族で転居*し、両親は農業で生計をたてました。

 *1944年に米軍の本土空襲が始まり、8月末には大阪市の学童疎開が始まっているので、転居には戦火を避ける意味合いもあったのでしょうか……

 

マップピンが山武市成東

 

しかし家は貧しく、きょうだいで高校に進学できたのは雅晴だけだったようです。

 

地元の小中学校を卒業し1958(昭和33)年4月に千葉県立成東高校に進学した廣田は、8クラスのうち1つだけある就職クラスに入りました。

クラスでは上位2−3番目の良い成績で、欠席や遅刻も不良グループとの関係もまったくありませんでしたが、小柄で特にこれといった特技はなく、いつもニコニコと人の後に従うタイプの生徒だったようです(読売新聞 1984年9月6日)

 

1961(昭和36)年3月に同高校を卒業した廣田は、東京都江東区の石川島造船化工機(現在は親会社の「株式会社IHI」に統合)に就職しますが、高所作業が苦手なため1年ほどで退職しました。

 

その後、都内で司法書士事務所事務員などとして働いたあと関西に行き、京都で製麺会社の従業員になります。

 

1964(昭和39)年6月の深夜、京都の五条通を歩いていた廣田は、七条警察署(現在は下京警察署に統合)の警察官から職務質問を受けました。

 

その時の廣田のがっしりした体格や素直な受け答えに好感をもった警官に、警察官にならないかと声をかけられた彼は、高校のころに警察官になりたいと思った時期もあったことから、すぐに勤めていた製麺会社を辞めて受験勉強を始めます。

 

その年(1964)の京都府警採用試験に合格した廣田は、10月1日付で巡査として採用され、1965(昭和40)年9月の警察学校修了とともに九条警察署(現在の南警察署)警ら課に配属され、下殿田(しもとのだ)派出所勤務を命じられます。

 

下殿田交番(現在)

 

廣田は、「警察職員として功労があり、若しくは成績が優秀であると認められる者」(警察官表彰規則)に対して授与される本部長賞誉を受けるなど勤務態度は良好で、近隣住民からも「ダッコちゃん*」の愛称で親しまれていたそうです。

 *1960年に大流行した空気で膨らませるビニール製の人形。昭和を代表する玩具でしたが、黒人差別ではとの批判もあって販売が停止されました。なお、2001年に青・赤・黄など多様な色とデザインでリバイバル販売されています

 

 

1967(昭和42)年4月に婿養子となって結婚した彼は、姓を神宮から廣田に改めて3人の子どもにも恵まれました。

 

1971(昭和46)年に巡査部長昇任試験に合格した廣田は、翌年(1972)峰山警察署(現在の京丹後警察署)外勤課に転属、2年間の主任在職中に署長褒賞を4回受けるなど順調にキャリアを積み重ねていました。

 

京都市内での勤務を希望していた廣田は、異動願が受け入れられて1974(昭和49)年に西陣警察署(現在の北警察署)外勤課に移り、当初は通信指令室(110番通報を受けて現場出動をパトカーや派出所に指令する業務)に勤務します。

しかし、巡査部長になったからにはより幹部に近い仕事に就けるという期待と現実との落差*に加えて仕事の多忙もあり、彼は不満をつのらせたようです。

そのことで上司との関係も悪化していったようですが、詳しいことは分かりません。

 *警察官の階級には、巡査から警視総監まで9段階あり、巡査部長は下から2つ目(巡査長と呼称される役職を入れても3つ目)で「現場主任」というのが通常の役どころで、幹部職に就くには警部補以上になる必要がありますから、彼の期待の方が過剰だったのではないでしょうか

 

ところが1977(昭和52)年、廣田は十二坊派出所勤務を命じられます。

これを事実上の降格と受け取った彼は、「努力して巡査部長になっても交番勤めか」と知人に愚痴をこぼしていたようです*。

 *最初の九条署でも次の峰山署でも、廣田は派出所勤務を生き生きとやって何度も表彰され、同寮や住民の信頼も厚かったと言われますので、それほどまでに「交番勤め」を不満に思った理由がよく分かりません

 

そうした不満もあってか廣田は休日になると競馬や競艇といったギャンブルにのめり込み*、やがては仕事も休んで消費者金融から借金を重ねるようになりました。

 *小豆相場にも手を出していたと言われる(Wikipedia)

 

借金の額が膨れ上がって金に困った彼は、ついに警察官でありながら強盗を働くことを計画したのです。

 

1978(昭和53)年7月17日、廣田は西陣警察署の拳銃保管庫*から、管理者がいないすきをついて他の警官の拳銃(実弾を5発装填)を袋に隠して盗み出しました。

 *派出所勤務の警察官も、出勤時と退勤時に警察署に出向いて拳銃を管理者立ち会いの下で保管庫に出し入れする規則だが、その管理がずさんであった

 

19日に拳銃紛失が明らかになったため、特捜班が保管庫に出入りした署員をリストアップして捜索していたところ、20日になって「田中」と名乗る男から上鴨警察署(現在は統合されて北警察署)に、拳銃を盗んだ者だが後日警官を通して返すとの電話がかかりました。

 

電話があった翌日の7月21日午前11時45分ごろ、下京区上珠数屋町通(かみじゅずやまちどおり)をバイクで走行していた近畿相互銀行都支店の店長代理(32歳の男性)に向けて拳銃1発が発射されました。

弾丸はバイクの風防ガラスを貫通したものの行員には当たらなかったため、犯人はそのまま逃走しました。

 

そのすぐ後の午後12時10分ごろ、南区東九条の札の辻郵便局に拳銃を持った男が押し入り、女性局員に金を出せと脅しました。

ところが女性局員が大声を上げたため、男は拳銃で彼女の頭を殴りつけてケガを負わせ、自転車で逃走しました。

 

この日の夕刻、上鴨警察署に再び「田中」と名乗る男からまだ拳銃を持っているが弾は撃ち尽くしたという電話がありました。

 

翌7月22日になり、「犯人から拳銃の隠し場所を教える電話があった」と廣田が署に届け出たため、指定された南区の六孫王(ろくそんのう)神社境内を探したところ、盗まれた拳銃(実弾4発と空薬莢1つ)が見つかりました。

 

六孫王神社

 

廣田は拳銃が盗まれた日に保管庫に出入りした署員の1人にリストアップされており、犯人から電話があったという話にも曖昧な点が多いことから、重要参考人として取り調べを受けましたが、自分は拳銃発見の功労者だと容疑を否認し続けました。

 

直接の物証はなかったのですが、警察は7月23日に廣田を窃盗容疑で逮捕し、24日に銃刀法違反と火薬類取り締まり法違反の容疑を加えて京都地検に送検し、同日付で彼は懲戒免職処分となりました。

 

26日に郵便局での強盗傷人容疑で再逮捕された廣田は、8月17日に近畿相銀行員への強盗未遂が追加されて京都地裁に起訴されます。

 

逮捕後も容疑を否認していた廣田ですが、強盗事件があった7月21日のアリバイとして彼が申し立てたことがすべて虚偽と判明したことから徐々に自供を始め、計画性についてのみ否定したものの8月1日にはほぼ全面自供をしました。

動機については、拳銃窃盗は上司を困らせるためで、強盗は借金の返済に迫られてとっさに思いついた犯行だったと主張しています。

 

1978年10月16日、京都地裁(吉田治正裁判長)での初公判が開かれましたが、廣田は盗まれた拳銃の所持以外は起訴事実すべてを否認し、裁判では事実認定から争われました。

 

また彼は、公判中に京都拘置所から反権力的な指向のある『人民新聞』に、「公安の実態を暴く これが警察の内状だ」と題して、証拠は警察のでっち上げで自分は無実であり「出所したら警察に復しゅうしてやる。このままでは死にきれない」と書いた手記を投稿しています(掲載は1978年11月5日付の同紙)

 

朝日新聞(1984年9月5日夕刊)

 

1980(昭和55)年6月10日、京都地裁の吉田裁判長は、懲役8年の求刑に対し事件に計画性はなかったとして廣田に懲役5年の実刑判決を言い渡しました。

 

廣田は裁判には期待しないとして控訴しませんでしたが、検察側が量刑不当として6月21日に大阪高裁に控訴しました。

被告の廣田が控訴審に出廷しないまま、大阪高裁の吉川寛吾裁判長は1981(昭和56)年2月19日の判決公判で、被告人は反省しておらず一審の量刑は軽すぎるとし、一審判決を破棄して懲役7年の実刑としました。

 

廣田は上告せずに刑は確定し、加古川刑務所で服役することになりました。

刑期は懲役7年から未決勾留日数を除いた約5年半です。

 

廣田の服役態度は良好で、2級ボイラー技士や危険物取扱者(乙種)の資格を取得し、簿記などの勉強に励むなど、犯した罪の重さから仮出所はないとされていたにもかかわらず、身元引受人(成東に住む母親と弟)の存在や改悛の情と更生の意欲が見られるという理由で、刑期を1年残し1984(昭和49)年8月30日に仮出所しました。

 

出所した廣田は、出迎えた妻子・母親と一緒に滋賀県大津市のホテルに1泊したあと、妻に用意させた現金20万円をもって8月31日に母親と千葉の実家に行きます。

 

【犯行から逮捕まで】

9月3日の早朝、東京に仕事を探しに行くと母親に告げて家を出た廣田は、東京を素通りし新幹線で京都に向かいました。

 

午前10時ごろに京都駅に着いた廣田は、上京区千本通の金物店でステンレス製包丁1本*を購入し、さらに銃砲火薬店でボウガン(洋弓銃)1丁と矢6本、射撃用革手袋にサングラスを購入して持参した紙袋に入れました。

 *後で店に戻って折りたたみ式の金ノコを追加購入しましたが、それはボウガンを携帯しやすくするために銃身と銃床を切り離すのに使ったようです。しかし後述するようにボウガンの使用は断念しました

 

廣田が立ち寄った銃砲火薬店

(手前の道路が千本通)

 

ボウガン(例)

*2022年3月施行の改正銃刀法で

ボウガンは原則所持禁止となった

 

購入したうち、包丁とサングラスは犯行で使われましたが、全長約78cmのボウガンは持ち運びに目立ち過ぎるため使用を断念し、代わりに警察官から使い慣れた拳銃を奪取しようと廣田は考えました。

 

詳細は省きますが、この日の夜、彼は二度にわたり「放置バイクがある」など虚偽の電話で嵐山と十二坊の各派出所警官を公園におびき出そうとし、また以前に職務で出入りしたことのある南区の質店に警察官を装った電話で店を開けさせようとしましたが、いずれも失敗*に終わっています。

 *嵐山派出所からは警官が2人でやってきたため襲うのを諦めたようです。ですから、もし鹿野巡査が同僚と一緒に船岡山公園に行っていたなら、惨劇は起きなかったかもしれません

 

この夜、東山区三条大橋東の「京都スポーツサウナ」(閉業し跡地はマンションになっている)に宿泊した廣田は、9月4日午前7時40分ごろに同サウナを出て、午後12時40分ごろに船岡山公園正門付近の公衆電話から十二坊派出所に電話をかけ、鹿野巡査をおびき出して殺害し拳銃を奪ったことはすでに述べた通りです。

 

 

大阪での事件後の足どりですが、驚いたことに廣田は午後4時45分ごろ大阪市北区曽根崎1丁目のソープランド「トルコエレガンス」に行き、その1時間ほど後に近くのピンクサロン「サロン将軍」に立ち寄っています。

 

開店時間直後のピンクサロンでは、10万円を払ってホステス全員を指名し、その1人に5万円を渡して白いポロシャツにズボン、下着と靴下、それにボストンバッグを買いに行かせ、店内で着替えてから1時間ほどして店を出ています(着ていた服は持参の紙袋に入れた)

なお、いずれの店からも廣田の掌紋が検出されています。

 

その後、廣田はタクシーで京都駅に行き新幹線で上京、江戸川に紙袋とボストンバッグを捨てて*から千葉に向かいました。

 *後の捜索で、江戸川河川敷で口が開き空っぽの状態のボストンバッグだけが見つかりました

 

先に見たように、9月5日には警察は廣田を有力容疑者と見て行方を追っていましたが、午前8時前に西陣署に「廣田や、京都にはおらん、千葉におる」との電話があり、千葉の実家にかかってきた電話の逆探知からも千葉市内にいることが確認されました。

 

そうして午後3時45分、廣田がタクシーで実家に戻って来たところを張り込んでいた警察官が身柄確保して成東署に任意同行を求めました。

 

午後5時37分に京都の強盗殺人容疑で逮捕された廣田は新幹線で京都に移送されましたが、車中では、あっさりと捕まったことについて記者団に「京都府警にはヘタを打たしてやる(下手をしてしくじらせる)が、千葉県警にヘタを打たすわけにはいかんのや」と言ったそうです。

 

新幹線車内での廣田

 

朝日新聞(1984年9月6日)

 

9月6日午前1時49分に西陣警察署に到着した廣田は、その後の取り調べで容疑を全面否認します。

 

凶器の包丁や拳銃、返り血のついた着衣といった直接的物証がないまま全面否認を続ける廣田に取り調べは難航し、拘留期限が切れる9月27日の午後、処分保留のまま釈放された廣田をその場で大阪府警の捜査員が大阪の強盗殺人事件で再逮捕し都島警察署に連行するという展開になりました。

 

読売新聞(1984年9月27日夕刊)

 

 

読売新聞(1984年9月28日、写真共)

 

大阪に移された後も、肝心な点について廣田は黙秘を続けていましたが、10月9日になってようやく「二つの事件は自分がやった」と犯行を認める自供を始めました。

 

しかし、京都の事件では自分も現場にいたが殺害したのは服役中に知り合った覚せい剤関係の仲間だとか、拳銃は知人が江戸川べりの橋桁の下に埋めたとか、残りの弾丸と金は京都の山中に隠したなど、供述内容は裏が取れないまま二転三転します。

 

何枚もの地図を書いての供述に、警察はそのつど人を動員して捜索しますが、手袋とバラバラにされたボウガン以外の決定的な証拠は何も発見することができず、虚実を織り交ぜた供述に警察は翻弄されました。

 

朝日新聞(1984年10月11日夕刊)

 

動機については、京都府警への恨みと見られていましたが、廣田は「親子3人で一緒に暮らすため東京に家を買いたかった」と述べたようです。

 

1978年の事件で廣田の弁護人を務めた京都弁護士会の堀和幸弁護士*は彼の性格について、「一口にいえば、我の強い変わり者」、自分の考えに固執するタイプで感情的な起伏が強く、思い込んだらいちずな行動に走る性癖がみられ、その場その場で自分の行動に理屈をつけるのがうまく「弁解するより、自分を正当化する」傾向が強いと評し、前回逮捕された時も警察での自供がくるくる変わったが、変わった理由について彼一流の理屈を述べていたといいます(朝日新聞 1984年9月5日夕刊)

 *堀弁護士は、この事件の裁判でも廣田の弁護人を務めた

 

10月15日には、廣田が2つの事件とも自分がやったと犯行をほぼ全面的に自供したと報じられ、19日に大阪地検は京都・大阪の連続強盗殺人事件を一括して大阪地裁に起訴しました。しかし、直接の物証を欠いたまま指・掌紋*に目撃証言という状況証拠と自供だけによる立証には懸念も残りました。

 *先に見たように、強盗殺人の現場に残されたものではない

 

朝日新聞(1984年10月20日夕刊)

 

【裁判と判決】

強盗殺人罪などに問われた廣田雅晴に対する初公判は、1984年12月24日、大阪地裁(青木暢茂裁判長)で開かれました。

6年前と同様に罪状認否で廣田が捜査段階での自供を覆し、起訴事実を全面的に否認して無罪を主張したことから、裁判は目撃証言の信憑性や自白の任意性・信用性を中心に全面的な争いとなりました。

 

朝日新聞(1984年12月24日夕刊)

 

特に犯行を認めた自白について廣田は、取調官による拷問とも言える暴力*によって無理強いされたものだと主張しました。

 *廣田の主張によれば、殴る蹴る、首を絞める、タバコの火などで火傷を負わせる、急所を痛めつけ辱める、失禁した床に顔を押しつけるなど

 

一方、1988(昭和63)年7月12日の論告求刑公判で検察は、「自白の中心部分を裏付ける多くの目撃証言や客観的証拠がそろっており、犯罪の証明は十分」だとして廣田に死刑を求刑しました。

 

1988年10月25日、大阪地裁の判決公判で青木裁判長は、「昭和59年8月30日に仮釈放となり、保護司をはじめ、被告人の妻や実母、更には姉、兄弟らも被告人の更生を望みこれに助力する態勢にあったと見られ、被告人の自覚と努力次第でその後更生して地道な社会生活を送ることができた筈であり、また、当時特に経済的に差し迫った状況にあったとも認められないのに、仮出所してわずか5日後に、自己本位な物欲の赴くまま、しかもさしたる道義的抵抗感を抱くことなく、現職警察官の殺害とけん銃の強奪及び金融機関での強盗殺人などという重大事犯を企図実行したものであって、結局、右犯行に至る経緯、動機につき酌量すべき事情は何ら見出せない」とし、京都・大阪両事件とも「犯行の態様は、終始自己の身勝手な目的のためには他人の生命を全く顧慮しないという憎むべき態度で貫かれており、各殺害方法も凶悪極まりないもの」で、「被告人に対してはもはや矯正教育の効果は期待しえず、その犯罪傾向や反社会的性格は改善すべくもないといわざるを得ない」として求刑どおり死刑を言い渡しました。

 

朝日新聞(1988年10月25日夕刊)

 

被告・弁護側は判決を不服として即日控訴しましたが、1993(平成5)年4月30日、大阪高裁の村上保之助裁判長は一審判決の事実認定を追認したうえで、「被告人は、本件各犯行当日の5日前の前刑仮出獄の際には、家族から暖かく迎えられ、妻には当面の入り用のために現金20万円を用意してもらい、被告人としては右仮出獄後の生活に何ら不満を抱くような事情がなかったと認められることに徴すると、原判決のいうように、本件各犯行の動機につき酌むべき事情は何ら見出せないといわざるをえない」として控訴を棄却しました。

 

朝日新聞(1993年4月30日夕刊)

 

大阪高裁の控訴審判決に際して読売新聞(1993年4月30日夕刊)が裁判での主な3つの争点を簡略に整理していますので、参考までに下に再録しておきます。

 

 

なお、この裁判では事実関係からの全面的な争いになったため、検察・弁護双方の主張を詳細に検証した地裁の判決文は資料等を省略したものでも6万字を超え(標準書式でA4用紙44枚)、高裁の判決文も2万字を超える膨大なものとなっており、このブログではそれらの内容の主要な一部を要約紹介することしかできていません。

裁判での争点と裁判所の判断に関心や疑問をお持ちになられた方は、直接判決文にあたってご検討ください。

 

 

 

被告・弁護側はさらに最高裁に上告しましたが、1997(平成9)年12月19日、最高裁第三小法廷(園部逸夫裁判長)は一・二審の死刑判決を支持して上告棄却の判決をくだし、これによって1998(平成10)年1月26日、廣田雅晴の死刑が確定しました。

 

なお、1997年11月14日に廣田は姓を結婚前の「神宮」に戻しています。

 

死刑確定後、神宮(廣田)雅晴は7回にわたって再審請求をおこない、2011(平成23)年には第8次の再審請求をおこなったとされますが(Wikipedia)、それについての情報を得ることはできていません。

 

なお神宮(廣田)は、2009(平成21)年11月16日の夕刻、未遂に終わりましたが独房内で首つり自殺をはかっています。

 

大阪拘置所に今も収監されている神宮(廣田)*死刑囚は、執行がなされないまま死刑確定から28年がたち、現在82歳になります。

 *以下では煩雑さを避けるために、姓の記述を事件当時の「廣田」のままにします

 

 

サムネイル
 

小川里菜の目

 

読売新聞(1984年10月15日夕刊)

 

上の新聞記事に見られるように、この事件(広域重要指定115号事件)は、同年(1984)3月の江崎グリコ社長拉致に始まるグリコ・森永事件(広域重要指定114号事件)と時期が重なり、社会に大きな衝撃を与えました。

 

すでに述べたように、凶器の包丁と拳銃は結局発見されず、直接の物証を欠いた事件でしたが、裁判所が認めたように多数の目撃証言を含む状況証拠だけでも廣田雅晴の犯行に間違いないと小川も思います。

廣田が言う「真犯人は別」という可能性をうかがわせるものは何もありませんし、死刑制度の是非論は別にして、彼のえん罪を認めて支援する運動も伝えられるものはないと思います。

 

ですので、彼が京都と大阪の2つの事件の犯人であるとの前提での話になりますが、廣田の犯罪行動は不可解の一語に尽きます。

 

1978年に起こした最初の事件(拳銃の窃盗と強盗未遂)でも、勤勉で優秀な警察官であった廣田が、職場での処遇に不満があったとはいえ、家庭をもち子どももある身でありながらギャンブルに多額の借金、そのあげくに強盗を画策するという極端なブレようには、小川の想像力が追いつきません。

 

同じことは、服役中に職業的資格の取得や勉強に励んで特例的に仮出所を認められ、地裁・高裁の判決文で言われるように妻子や母親、弟そして保護司が彼の更生を信じて支えようと手を差し伸べていたにもかかわらず、それまでの模範囚の顔から一変して出所後わずか5日にして連続強盗殺人を犯してしまったことにも言えます。

 

しかも、警官時代の上司にいくら恨みがあったとはいえ、京都事件で殺害したのはかつての自分自身と重なる交番勤務の巡査なのです。

 

また殺害方法も、京都ではめった刺しにされもう抵抗できない瀕死の状態で倒れ込んでいる警官に背中からとどめの一発を撃つ残虐さですし、大阪でも「金を出せ」との脅しにすぐに反応しないからと情け容赦なく胸をめがけて拳銃を発射し殺害しています。

同じく居合わせた女性従業員には発砲しなかったのですから、目撃者の口封じに撃ったということでもありません。

 

無意味としか思えない殺戮に、「冷血」とはまさに廣田のためにある言葉のように感じますが、彼がどうしてそこまで人間性を喪失してしまったのか、彼の生い立ちや環境を考えても特に非道な扱いを受けた体験があるわけではなく、理解の糸口さえ見いだすことができませんでした。

 

最後に言いたいことの一つは、廣田が自白は取調官の「拷問」によるものだと主張した点についてです。

 

裁判官は彼の身体に傷跡があることは認めながら、それは暴行によるものではないと結論しています。

小川も、廣田が言うとおりの「拷問」があったとも、犯行を認めた彼の自供が強いられた虚偽のものであったとも思いませんが、警察への社会的信頼を大きく毀損し仲間の警官を殺害したいわば「裏切り者」でありながら白(しら)を切り続ける廣田に対して、取り調べで何らかの制裁的な暴力が振るわれた可能性まで払拭することのできない後味の悪さが残りました。

 

裁判で自供をひるがえしそれが暴力的な取り調べによるものだと言い逃れる余地を無くすためには(またえん罪を生まないためにも)、録音や録画による取り調べの可視化が不可欠です。

日本では、2019年の改正刑事訴訟法で一部の重大事件について可視化が義務づけられるようになり、それは一歩前進ですが、日弁連などが強く求めている全面的な可視化に向けて早急に対象事件を拡大していく必要があるのではないでしょうか。

 

もう一つは、京都事件で殉職された鹿野人詩警部補のために事件現場に顕彰碑が建てられ、その後も命日に追悼式がおこなわれているのは当然のことだと思います。

 

上京・北の両警察署員による追悼式

(2018年9月7日)

 

しかしその一方、大阪事件で命を落とした鈴木隆さんについては、当時の新聞報道でも遺族の声など大手紙を見る限りは伝えられることもなく、その後もすっかり忘れ去られた感があることに心が痛みます。

 

そこで、大阪地裁と大阪高裁が判決文で鹿野・鈴木両被害者について触れている箇所を最後にあげて、理不尽にも命を奪われたお二人への追悼の気持ちといたします。

 

「鹿野人詩巡査は、昭和29年4月山形市で生まれ、昭和48年3月山形県立山形南高等学校を卒業後、私立竜谷大学に進学し、昭和54年3月に同校を卒業して同年4月京都府巡査に採用され、同年9月西陣警察署外勤課外勤第二係配置となり、昭和56年3月から同署十二坊派出所に勤務し、その間昭和55年に結婚して二児をもうけたものであるが、周囲の者から職務熱心で責任感が強いとの評価を得ており、上司や同僚及び地域住民の信望も厚かった。

鈴木隆は、昭和35年11月大阪市で生まれ、昭和40年に両親が離婚したため、父親に引き取られて一時は養護施設に預けられるなどし、昭和51年4月大阪産業大学付属高等学校に進学したが、父親が出奔して所在不明となったことなどから同校を二年次で中退し、その後ラーメン店店員、自動車販売会社のセールスマンなどをして稼働し、昭和59年3月から、金融業を営む宝産業株式会社京橋支店で勤務していたものであり、その間昭和55年に結婚して一児をもうけていた。」(大阪地裁判決文)

 

京都事件の被害者鹿野人詩巡査は、当時30歳で妻と幼児二人をかかえて一家の支柱であったし、大阪事件の被害者鈴木隆は、当時妻子と別居中であったが、いまだ23歳で妻との仲を取り戻して再出発する望みを抱いていたものであり、右両事件の結果は、このような被害者二名の生命をその場で奪ったもので、まことに重大であるというべきであって、所論指摘の大阪事件で強奪された現金が約60万円にとどまることなどは、特に被告人のために斟酌すべき事情とは考えられない。」(大阪高裁判決文)

 

 

今回も最後までお読みくださり

ありがとうございますおねがい

次回もどうぞよろしく

お願いいたします飛び出すハート

 

 

女子高生は二度殺された

近畿大学附属女子高校

〈体罰殺〉事件

1995(平成7)

今回は、今から30年前の1995年に起きた「近畿大学附属女子高校〈体罰殺〉事件」を取り上げます。

この事件では、生徒の態度を反抗的だと感じ激高した教師から、殴る突き飛ばすという暴力を執拗に受けて倒れた女子高生が、コンクリートの柱に頭を激突させ亡くなりました。

ところが、加害教師が逮捕されると、元同僚教師や顧問をしていた体育系クラブの卒業生らが減刑嘆願署名を集め出し、その過程で被害生徒と両親に対して「体罰を受けても当然」とばかりに暴行を正当化する内容の根も葉もないデマ(誹謗中傷)が拡散され、遺族への嫌がらせ行為が相次ぎました。

「体罰殺」させられた女子高生は、二度殺されたのです。

サムネイル

 

毎日新聞(1995年7月18日)

 

 

【女子高生の死】

1995(平成7)年7月17日の午後4時35分ごろ、福岡県飯塚市にある飯塚病院救命救急センターに意識不明になった1人の女子高校生が救急搬送されてきました。

 

学校の衛生看護科講師(医師)により応急措置を施されていた女子高生は、病院に運び込まれた時点で自発呼吸もなく心臓も停止し、すでに臨死状態でした。

それでも救命救急センターの医師たちは心臓マッサージを続け、人工呼吸器などを使いながら、集中治療室(ICU)で懸命の蘇生措置をおこないました。

 

両親と兄、祖母や親族らが病院に駆けつけ、なんとか息を吹き返してほしい目を覚ましてほしいと彼女に声をかけたり身体をさすったりしましたが、翌7月18日午後2時37分に医師から臨終が告げられました。

 

まだ16歳の、あまりにも早い死でした。

 

【暴行死の経緯】

彼女は陣内知美(じんのうち・ともみ)さん、飯塚市立岩にあった近畿大学附属女子高校(前身は白木学園嘉穂女子高校、現在は校舎も移転した近畿大学附属福岡高校)に通う2年1組(担任・棚橋敏雄教諭)の生徒です。

 

同校には「普通科」と「衛生看護科」があり、「普通科」には、短大や専門学校をめざす進学コース、4年制大学をめざす特別進学コース、就職希望の情報処理コースの3つがあって、知美さんは学年に1クラスある情報処理コース(通称「就職コース」)に所属していました。

 

近大附属女子高校の旧校舎

(今は内部が改築され学生向けマンション「セトル飯塚」)

 

そして知美さんを体罰死させたのは、進路指導部長で彼女のクラスの副担任をしていた宮本煌(あきら、当時50歳)です。

 

1945(昭和20)年生まれの宮本煌は、福岡大学商学部を1968年に卒業すると同時に同校の非常勤講師になり、1972年には教諭となって、事件が起きるまで通算27年間勤続の「ベテラン教師」でした。

事件を起こしたときに彼は、2年生の「商業」(内容は主に簿記)を担当していました。

 

1995(平成7)年7月17日の放課後、宮本は11月におこなわれる予定の日商簿記3級の資格試験に備え、模擬試験で再試験をしても合格点(70点)が取れなかった2年1組の10人の生徒を対象に再々試験をおこなおうとしていました。

 

再々試験は学校の指示によるものではなく、生徒に簿記の資格をとらせてやろうと宮本が自発的におこなうものでした。

ちなみに知美さんは、36人のクラス中3位の成績(86点)で合格しており、再々試験の対象外でした。

 

午後3時40分からの試験のため宮本が2年1組の教室に入ると、受験する生徒が試験用紙を受け取りに来て、それぞれ自分の席に戻ったところで解答を始めました。

 

そのとき宮本は、試験の対象ではない知美さんが一番後ろの自席に座り、「下校時の身だしなみのために机の上に鏡を立てて櫛で髪の毛をといて」(福岡高裁判決文)いるのに気づきます。

特に約束はなかったようですが、この日は朝から30度を超える暑さでもあり、涼しい教室内で友だちが試験を終えるのを待っていたのかもしれません。

 

宮本は教卓から彼女に向かい「試験に関係ない者は出れ」と言いましたが、よく聞こえなかったのか知美さんはすぐに席を立とうとしません。

 

『そんな陣内の態度を見て、私の言葉を無視したように感じ』た宮本は(以下、供述調書からの引用は二重カギ括弧で記載、太字強調は小川)、知美さんの席に近づいて「陣内、試験に関係ないから出ていけ」と『普通の口調で』言いました(居合わせた友人は『大きな声で怒鳴った』と供述)。*

 *供述調書等の関係者の証言内容は、福岡地裁と高裁の判決文のほか、藤井誠二『暴力の学校 倒錯の街』(雲母書房1998、朝日文庫2002)から引用しています

 

 

 

知美さんは何も言わずに立ち上がって出ていこうとしましたが、その様子は宮本の目には『私の言葉に対して何も言わず、少しふてくされたような感じでしぶしぶ黙って立ち上がり』と映りました。

 

教室を出ようとする知美さんの後ろを「出れ」と言いながらついていった宮本は、彼女が出入り口近くの壁にある鏡の前で立ち止まり、両手で髪を整える仕草をしたことで怒りの感情に火がつきます。

 

鏡は、教室の黒板脇に掲示された生徒信条の「八、女子高等学校の生徒は、いつも端正に制服をつけ、清潔である」をふまえ、生徒たちが身だしなみを整えるために設置されていたのでしょう。

 

しかし宮本は、『それを見て、私が教室から出て行けと言ったことに対し反発をして、これみよがしに髪をとくような仕草をしていると思い』、『そのような態度をとる陣内に対し腹立たしくなり、横着もんと思って頭にきました』。

 

そのとき彼は、知美さんがスカートを腰のところで2回折り曲げ、短くしていることに気づきます。

同校の校則では、スカートは膝の皿が隠れる長さにするよう定められていたのです。

 

それを見つけた宮本は、『なおも感情的に腹立たしくなり、このまま見過ごすわけにはいかないと考え』、『スカートの折り曲げたところを右手で掴みながら、「元に戻せ、直さんか」と少し強めの口調で』言ったところ、知美さんが「わかっちょる」と『反発するような口調で答えた』ことから、カッとした宮本は「なに言いよってか」と言い、右手の平手で彼女の頭部を殴打しました。

 

教室で試験を受けていた友人のひとりが、『私はその様子を見て、いつものことがまた始まったと思いました。宮本先生は(略)生徒を注意するときにはビンタをすることがよくありますので、この時も宮本先生と知美のやり取りを見て、また宮本先生のいつものことが始まったと思い、私はその光景に見慣れていたので、特に気に止めることなく答案用紙のほうに目を移したのです』と供述するように、宮本が叱責すると同時に(段階を踏むこともなく)手を上げるのは、生徒が「いつものこと」「見慣れていた」というほど常習的だった*のです。

 *ビンタにとどまらず、同じ年の6月14日にも宮本は、別の女子生徒に対し「教科書を持ち帰っているかどうかの確認をするためにカバンの中を見せろといって追い回し、足を引っ張って階段を引きずり降ろす等の暴行を加えるという事件」(福岡高裁判決文、太字強調は小川)を起こしています。カバンを見せることを拒んだ生徒は、生理中のためカバンに入れていたナプキンや下着を男性教師に見られたくなかったからだと言っています

 

曲げていたスカートを両手で直しながら(すぐ近くの席にいた友人の証言)教室を出ようとしていた知美さんの背中を、宮本が追い打ちをかけるようにいきなり右手で強く押したため、バランスを崩して前のめりになった彼女は、教室の床に倒れ両手両膝をついた四つん這いのかっこうになったのです。

彼女が肩にかけていたカバンが落ちて、中から櫛やエチケットブラシが飛び出しました。

 

友人によると、すぐに立ち上がった知美さんは、「そんなんしたら直されんやん」と言いながら教室を出ていこうとしましたが、宮本は『さらに知美の背中を押して、「何ちゃ」と言いながら知美の後ろから廊下に出ました。廊下に出ると、2人は向かい合うような恰好になり、すぐに宮本先生が知美をビンタし始めた』のです(友人の供述)

 

ところが、最初に背中を押したあたりからもう宮本は自分が振るった暴力については記憶にないと言いつつ、『このまま見過ごしてしまうとみんなの手前よろしくない』と思い、『個人的感情でも頭にきていたので体罰を加えて指導しようと思った』と供述しています。

 

このヤロウ」というように腹立たしく思っていた』宮本は、試験監督をしている最中にもかかわらず知美さんの後から廊下に出て、彼女に向き合うかっこうでなおも「スカートを下ろせ」と言いました。

 

「下ろしよろうもんちゃ(下ろそうとしているでしょ)」と答える知美さんに、『右手を頭のところまで振り上げ、力いっぱい知美の左頬を叩きはじめ』(友人の証言、宮本は叩いた記憶はないと供述)た宮本は、下駄箱の方に後ずさりする彼女の肩をさらに力を込めて後方にのけぞらせるように突き飛ばしたのです。

 

伝えられる内容をもとに、廊下の様子を生成AIで再現してみたのが下の図です。

実際とはもちろん異なっている*でしょうが、大まかな場のイメージ(下駄箱、鉄柵のある窓、コンクリートの柱)はもっていただけると思います。

 *小川が使用したGoogle Geminiで作成できたのは「叱責する」画像までで、「生徒に暴力をふるう教師」のシーンは倫理的に問題があるという理由からでしょう作画が受け付けられませんでした

 

 

突き飛ばされた知美さんは下駄箱に乗り上げるようになったため、「先生何しよっとね」と言いながら必死で身体を起こそうと、しがみつくように宮本の襟首あたりをつかみました。

 

それを、自分に立ち向かってきたものと勘違いした宮本は、知美さんの手を払いのけ、彼女の右の頭部を左手で下から上に突き上げるようにして力まかせに押しました。

 

後方にのけぞった知美さんは、「下駄箱の上に座るようにして倒れ、廊下の窓付近でその後頭部を強く打ちつけ、その勢いで左側に崩れるようにして、コンクリートの柱で頭頂部を強く打った」(藤井、文庫版 p.51)のです。

 

この時の様子を目撃していた衛生看護科の友人は、『宮本先生は左手で知美の右側頭部を強く叩きつけたのです。(略)知美の右側頭部に手を置いて押すようにして叩いたということです。知美は後ろの窓の辺りで後頭部を一回ガーンと打ちつけ、その後コンクリートの柱に頭頂部をぶつけたのをはっきり見ました。知美は、窓のところに後頭部を一回ぶつけたあと、お尻を下駄箱の上に乗せたまま左側のコンクリートに頭をぶつけたのです』と供述しています。

 

『目はうつろで顔色は真っ青、唇の色は紫色をしており、「ウーッ」と唸って』(友人の供述)口から白い泡を吹きながら失神して床の上に崩れ落ちた知美さんを見た宮本は、ようやく我に返ってうろたえます。

 

事件が起きたのは午後3時45分ごろですが、知美さんが救急車で飯塚病院救命救急センターに運び込まれたのは午後4時35分ごろで、一刻を争う事態にもかかわらず、50分もの時間が経っていました。

 

詳しい事情は分かりませんが、知美さんに一目見て分かるような外傷や出血がなかった*ことと、体罰が日常的になされている中で突いたり叩いたりしたぐらいで命に別状はないだろうという教師たちの甘い見方が、初動対応の遅れ**をもたらしたのかもしれません。

 *病院でも原因が脳の損傷だとすぐにはわからず、心臓に持病がないか家族は聞かれたようですが、知美さんは中学時代は陸上の短距離選手で、高校でもほとんど休むことのない健康体でした。

 **思いがけない事態にうろたえた宮本は「すぐに救急車を呼んでくれ」と叫びましたが、それを聞いた同僚教師は119番通報をためらって養護教諭を探すことを優先し、10分後にやっと養護教諭が通報しています

 

先に述べたように、病院に運び込まれた時点で知美さんはもう臨死状態になっていましたが、脳死の可能性を告げられながらも何とか命だけは救ってほしいと懇願する家族に、医師たちは必死の救命措置を続けます。

しかしそれもむなしく、7月18日午後2時37分、知美さんの臨終が宣告されました。

 

19日におこなわれた司法解剖の結果、死因は頭部を激しく打ちつけたことによる「急性脳腫脹」とわかりました。

 

朝日新聞(1995年7月19日)

 

20日は一学期の終業式で、冒頭の黙祷に続いて山近博幸校長が事件の経過を全校生徒に説明しました。

校長が「断腸の思いがした」と言ったところで、知美さんと同じ2年生の生徒たちから「ウソつくな!」「知美を返せ!」という声が上がりましたが、それに対して、後に知美さんに加えられる誹謗中傷の予兆のように、3年生の1部生徒からは「うるさいっちゃ!」との声も上がったそうです(藤井 pp.70〜71、下の朝日新聞記事、「きょういくブログー福岡「体罰死」事件から15年」2010.7.17)

場が騒然とする中、終業式はわずか5分という異例の短さで終わりました。

 

朝日新聞(1995年7月21日)

 

同日午後におこなわれた告別式には200人あまりの友人らが参列し、号泣しながら知美さんと最後の別れをしました。

 

山近校長ら学校関係者も弔問に訪れましたが、「体罰があることを知らなかった」と発言した校長に対し、取り囲んだ生徒からは「いつも暴力があったじゃない!」と抗議の声が浴びせられたそうです。

 

【裁判と判決】

7月17日の119番通報を受けて救急隊員と同時に学校に駆けつけた警察官は、すぐに事件を目撃していた生徒4人から詳しい事情聴取をおこないました。

 

宮本煌についても、警察は傷害容疑で飯塚警察署にパトカーで連行し事情を聴きましたが、その内容が生徒の証言と大きく食い違うため、証拠隠滅の恐れがあるとの理由で宮本を逮捕しました。

 

知美さんの死去により容疑を傷害から傷害致死に切り替えられた宮本は、8月8日に福岡地裁に起訴されました。

 

7月25日に懲罰委員会を設置した近畿大学は、8月8日の起訴を受け同日付で宮本煌の懲戒免職処分を決定しています。

 

朝日新聞(1995年8月9日)

 

1995年10月2日に福岡地裁(陶山博生裁判長)で開かれた初公判で、宮本被告と弁護人は起訴事実についてはほぼ認めながら、知美さんの頭部をコンクリート柱に激突させたのは故意ではなく彼女の死亡は「不幸な事故」だったとの取り調べ段階からの主張を繰り返しました。

 

朝日新聞(1995年7月19日夕刊)

 

この時に弁護人は、後で詳しく触れますが、宮本に対する減刑嘆願署名を裁判所に提出することを表明し、署名運動に参加した卒業生5人を証人として呼ぶことも申請しました(藤井 p.86)

 

公判での尋問で宮本は、教室を出ようとする知美さんの背中を押して四つん這いになる形に突き倒したことについて「記憶にない」「覚えがない」「わからない」と繰り返しながら、検察調書の供述で記憶があやふやだった時に認めたほどの暴力は振るっていないとまで言っています(藤井 p.206)

 

1995年12月25日の判決公判で陶山裁判長は、宮本被告に懲役2年の実刑を言い渡しました(求刑は懲役3年)

 

宮本と弁護人は執行猶予がつくことを期待していたようですが、裁判長は「被告人は、被害者のすぐ前に立ち、怒りのあまり我を忘れて、手加減を加えずにいきなり力を込めて被害者をコンクリート柱等の方向に突くなどしたため、被害者は不意を突かれて身構える暇もなくコンクリート柱等に激突して頭部を強打したのであって、本件行為の持つ危険性は大きい」と指摘したうえで、「被告人は日頃から体罰禁止は建前に過ぎないと考え、安易に力に頼る指導をしていたこともあって、本件においても、右のような説諭等による指導を十分行うことなく、被害者の態度に短絡的に激怒して本件犯行に及んだものである。本件の動機は、被害者の校則違反を是正しようとする等の教育的意図がなかったということはできないにしても、もっぱら被害者の態度に誘発された私的な怒りの感情に基づくものであるから、特に酌むべき事情は認められない」としました。

 

朝日新聞(1995年12月25日夕刊)

 

にもかかわらず求刑の懲役3年より判決を軽くしたことについて、上の記事にもあるように、①被害者をコンクリート柱にぶつけようという意図はなく、結果を予想していなかった、②被害者の態度にもまったく原因がないとまではいえない、③懲戒解雇され社会的制裁を受けている、④日頃から生徒の就職活動のために熱意をもって取り組んでいる、⑤卓球部の活動を通して被告人を慕う卒業生も多数いる、⑥被害者の冥福を祈り*心から反省している、といった「酌むべき事情」を認めてのことだと判決文は述べています。
⑤の卓球部については減刑嘆願署名運動との関係で後で触れることにしますが、⑥についてはその後の宮本の言動を考えると疑問を感じざるをえません。
 *拘置所で写経を始め公判では「供養のために仏門に入りたい」とまで言った宮本ですが、仮出所後に保護司に付き添われて一度だけ陣内家を訪れ、前触れなしの来訪に気持ちの整理がつかないから出直してほしいと知美さんの両親に言われて帰ると、その後保護司を通して遺族が連絡をとっても知美さんの遺影の前に頭を垂れに来ることは二度とありませんでした
 
懲役2年という非常に軽い判決にもかかわらず、1996(平成8)年1月8日、宮本は一審判決を不服として福岡高裁に控訴します。
 
朝日新聞(1996年1月9日)
 

控訴趣意書を執筆したのは、宮本被告の弁護人である桑原昭熙(あきひろ)弁護士福岡地家裁飯塚支部長)で、福岡高裁判決文の要約によると控訴の趣意は「事実誤認、理由齟齬(そご)」と「量刑不当」にありました。

 
そのうち問題の核心というべき事実誤認というのは、宮本被告は知美さんの態度に激怒して犯行に及んだのではなく、スカートの丈を短くするという校則違反を見過ごすことで知美さんが不利益処分を受けたりしないよう、また彼女の将来や他生徒への影響を考えて教育的立場から指導したのであり、さらに知美さんを突いたのは彼女が宮本の襟首をつかんで来たために手加減しながら突いたに過ぎず、それを私的な怒りの感情から死を招くほどの激しい暴行を加えたかのように一審判決が認定しているのは誤りだというのです。
 
この主張は、現場で目撃していた生徒たちの証言とまったく食い違い、宮本のしたことは知美さんや生徒たちのことを思うあまりの教育的配慮に基づく自制の効いた行為であって、それが知美さんに死をもたらしたのは滑りやすい廊下など偶然が重なった不幸な事故に過ぎないという、一審で宮本と桑原弁護士が繰り返した主張のままです。
 
このあからさまな居直り、あるいは「御為(おため)ごかし」(広辞苑:表面は相手のためになるように見せかけて、実は自分の利益をはかること)の典型とも言うべき控訴趣意書からは、一審判決が「酌むべき事情」としてあげた宮本の「心からの反省」など微塵も感じることはできません。

 

福岡高裁の神作良二裁判長が、1996年6月25日の判決公判で一審の実刑判決を支持し、被告・弁護人の控訴を棄却する判決を言い渡したのはまったく当然のことでした。

 

毎日新聞(1996年6月25日夕刊)

 

判決文は、「16歳の若さで思いもかけないことから突如として一命を奪われることとなった被害者本人の無念さはいうに及ばず、これまで愛情を込めて育てあげてきてその成長を楽しみにしていた両親や身内の者が被害者を喪ったことにより受けた悲しみの深さには察するに余りあるものがある」とし、「同校では服装等について細かな校則が定められ、躾教育重視の方針からこの点について日頃厳しい指導がなされ、表向きは体罰が禁止されいたものの一部教師の間では口で注意をしても改めない場合に体罰を用いて生徒の指導にあたる*ことが必ずしも珍しいことではなく、かつこれが許されるという風潮が弥漫(びまん:一面に広まる)して」いたと具体例を挙げて指摘しています。

 *これまで見たように、宮本の場合は「口で注意」と「体罰という名の暴力」は同時に、もしくは口より先にいきなり殴ることすらしていました

 

そうして判決文は、知美さんが宮本に対して「実力をもって反抗したような事情は認められず、せいぜい被告人に突き転ばされた被害者が「そんなんしたら、直されんやん」と抗議し、更に加えられた暴行を被害者が避けようとして被告人を押し返すようにした事情が窺えるだけであるのに、被告人はこれを反抗的態度と受け取り、「なめられてたまるか」という気持ちから被害者に対し一方的に暴行を加えたものであって(略)遂には教育の名に値しない私憤に由来する暴行に終わったもので、まさしく違法な体罰であったといわなければならない」太字強調は小川)と断じています。

 
もしこれが「学校」や「教師と生徒」という枠内ではなく一般社会で起きた事件であれば、無抵抗の相手への一方的暴行によって死に至らしめた罪への罰が、たった2年の懲役刑で済んだとはとても思えません。
 
ちなみに、傷害致死罪の法定刑の下限は2005年の刑法改正で懲役3年に引き上げられましたが、当時は宮本に下された懲役2年が最低限でした。

傷害致死罪は当時の上限が15年、刑法改正後は懲役20年(他の刑が加重される場合は30年)もありうる非常に重い罪なのです。

 

ところがそれが「教育」の名の下におこなわれると、スポーツ(卓球)で鍛えた50歳の「大の男」が身長150㎝で体重40㎏足らずの16歳の少女を力まかせに殴り突き飛ばして死なせても、下限の量刑どころか執行猶予まで当然のように求めて恥じない当事者・関係者の意識に、暗澹(あんたん)たる思いがします。

この事件では目撃した生徒が多数いたために加害者に言い逃れができませんでしたが、もしこれが密室でなされた暴行であればと思うと、背筋が寒くなります。
 

なお、宮本が最高裁に上告しなかったことから高裁の控訴棄却によって懲役2年(未決勾留日から110日を刑に算入)が確定し、1997年7月17日、高裁判決から1年あまりで宮本は仮釈放で出所しました。

その10日後に保護司に連れられた宮本が陣内家を事前の連絡もなしに訪れた時の様子は、先に見たとおりです。

 
【「娘は二度殺された」】
裁判に向けて宮本の関係者らが減刑嘆願署名を集める運動を始めたことは先に触れました。
 
宮本が起訴されたのは8月8日ですが、知美さんが亡くなった7月18日から一週間経つか経たないうちに、つまり事件の詳細がまだ明らかになる以前に、宮本の減刑を求める嘆願署名が動き始めたのです。
 

朝日新聞(1995年7月28日)

 

その中心のひとりが、福岡県立嘉穂高校定時制で長くつとめ近大附属女子高校に転職してから宮本の同寮となった井上正喜(事件の前年1994年に定年退職、敬称略)です。

宮本と井上教諭とは、卓球部の顧問同士であり元同僚として27−28年の長い付き合いがありましたが、宮本が役員をしていた県の卓球協会や顧問だった近大附属女子高校卓球部の部員・卒業生(OG)とその家族ら卓球人脈が嘆願署名運動の中心となったのです。

 

7月25日付で井上の名で書かれた「嘆願署名のお願い」は、宮本が「スポーツマンらしく明るく朗らかな性格で常に人に親しまれ、先輩には礼儀正しく後輩、生徒の指導に誠意をもって当たってこられました」と述べ、同校卓球部を十数年連続して筑豊地区優勝に導いた実績も「愛情に基づく共に汗にまみれた指導によるもので、力による暴力を背景とした結果ではありません」とし、事件は「魔がさしたとしか思われ」ない不幸な事故だったと減刑嘆願署名への協力を求めています(藤井 pp.103-104)

 

宮本が暴力的な「指導」とはまったく無縁の「明るく朗らか」な人物だったとするこの「お願い」は、「ビンタはいつものこと」という生徒たちの証言とまったく食い違う事実*を前提にし、事件当日の状況にまったく触れることなく「魔がさした」だけだと決めつける根拠薄弱で一方的な内容ですが、ただここには知美さんを貶める言葉はありません。

 *親しい同寮や彼に従順な生徒に宮本が見せていた顔が井上の言うようなものであった可能性まで小川は否定するものではありません

 

署名がいわば「身内」でおこなわれていた間は、「人柄」や就職・部活で世話になった「恩」を前面に出し宮本への「同情」を誘うものだったのでしょう。

しかし、わずか3ヶ月あまりで7万5218筆*も集めた署名活動が地縁・血縁・社縁などをフル活用してよく事情を知らない人たちにまで広がるにつれ、「生徒を死なせた」という事の重大さを打ち消すために、被害者が「そんな目にあわされても仕方がない不良生徒」だったというストーリー(誹謗中傷する話)がねつ造され広められていきます。

 *署名した人は飯塚市にとどまりませんが、参考までに言うと1995年時点の飯塚市の人口は約14万人でした

 

つまり、「悪いのは宮本先生だけではない」から「悪いのは生徒の方で、教育熱心な宮本先生はむしろかわいそうな被害者」へと話がずらされ善悪が転倒させられていったのです。

 

知美さんへの誹謗中傷は、「地域でも評判の悪い子」「シンナー常習者」「入れ墨をしていた」「茶髪でピアス*」「覚せい剤を打った注射の痕があった」といった内容で、「入れ墨」や「覚せい剤の注射痕」には彼女が運び込まれた「飯塚病院の看護師の話では」という事実無根の「証拠」まで添えられていたそうです。

 *ここにあげた中では、彼女が耳に「ピアス」の穴を開けていたことだけが事実ですが、それで「不良生徒」のレッテルを貼るとしたらどれだけ多くの「不良」がいたことでしょう

 

宮本の暴力で殺された知美さんは、悪意ある噂によって死後にも尊厳を踏みにじられ、二度殺されたのです。

 

また、悪意ある噂は「父親は入れ墨のある暴力団(あるいは右翼団体)の幹部」「母親は事件直後に学校に怒鳴り込んで保証金を要求した」「両親は離婚(あるいは別居)している」「放任家庭なのに事件後に急に騒ぎ出した」などと知美さんの両親にも向けられ、家には親が悪いと責める電話や手紙(下は実際に届いた手紙の一部)があり、注文してもいない寿司やカラオケセットが届けられるという嫌がらせを受けました。

 
    

「お前さんは子どもの教育やしつけを間違えたばっかりに、先生の家庭を目茶苦茶にした。先生は悪くない。お前の娘が一方的に悪い。100人が100人そう思っている。反省するなら自殺しろ。死んで子どもの所に行って一から教育のやり直しだ。わかったらすぐに実行に移すんだ。あんなに涙を流すなら親子3人*で死ぬんだ。死んで先生にお詫びして先生に謝罪しろ。そうしたらお前たちは神様に許して頂ける。馬鹿野郎、娘のためだ、自殺しろ。死ね。夫婦で死ね。」(福岡)

 *知美さんには2歳上の兄がいた

(藤井 pp.88-89)

 

この噂の出処や伝播については、藤井誠二さんが詳しく取材していますのでぜひ著書をお読みいただきたいのですが、井上ら署名活動の中心人物がデマをねつ造して組織的に流したということではなさそうです。

 

しかし、むしろ自然発生的に憶測や脚色を重ねた(中には偽りと知りながら作ったものもあったでしょう)デマがネットのない時代にこれほど広がったことには怖さを感じます。

敷き詰められた枯れ草は、わずかな火種からでも大きく燃え広がるように、噂が広がっていったように思われるのです。
 

この噂の場合に「枯れ草」に当たるのは、「お上(学校や先生)は常に正しい」「お上に逆らうこと(先生の言うことをきかない生徒)は常に悪である」という権威主義的意識で、それを支えたのが「お上」は就職の世話などの「恩」を施し、施された者は「報恩」(恩返し)でそれに応えるべきという上下の関係性とその経験だったでしょう。

 

この上意下達の権威主義的意識は、筑豊炭鉱の中心であった飯塚市が炭鉱業で財を成した麻生財閥発祥の地であり、今も麻生一族の関連企業が君臨する「城下町」*であるという土地柄を色濃く反映しているように思われます。

 *知美さんが救急搬送された病床数1000床を超える巨大な飯塚病院も、医療法人ではなく株式会社麻生が経営する企業立病院です

 

飯塚市忠隈に今も残る高さ121mのボタ(捨石)山

 

また1966(昭和41)年に飯塚市に福岡キャンパスを開設した近畿大学(産業理工学部、九州短期大学、附属高校)も地元では大きな存在だったようで、そんな「立派な学校の先生の言うことを素直にきかない生徒や先生を非難する親は事情を問わずそもそも悪い」という強固な先入観に、デマを流した人とそれを真に受けた人たちは囚われていたのでしょう。

 

しかし考えてみると、こうした権威主義は決して「旧態依然とした田舎の意識」にとどまるものではなく、程度の差はあれ日本の社会に広く根づいており、いまだに教育現場で繰り返される「体罰」*とその容認論・必要論の根もそこにあるのではないでしょうか。

 *教師の権威主義的意識の極めて歪んだ表れが、生徒を教師の性的支配の対象として扱う盗撮など学校での性犯罪でしょう

 

「記憶がない」(本人の供述)ほど我を忘れて知美さんに暴力を振るい続けた宮本の怒りは、他の生徒たちの面前で彼女に「先生」としての自分の権威を無視(否定)されたのではないかという恐怖、一言でいえば高裁判決文にある「なめられてたまるか」という気持ちだったように思います。

 

 
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小川里菜の目

 

陣内知美さん

(藤井著書、単行本表紙より)

 

【体罰と権威主義教育】

藤井誠二さんは著書のあとがきで次のように述べています。

 

「私が、このルポルタージュの副題を「体罰死事件」とせず「殺人事件」としたのも、「体罰によらない教育」という言い方があるように、あたかも裏を返せば「体罰という教育方法」があるかのごとく錯覚してしまう危険性があり、おそらく多くの人にとって「体罰」という字面や響きが「教育」的なイメージを喚起させてしまうであろうことを危惧したためである」(藤井 p298、太字強調は小川)

 

「体罰」は「教育」ではなく、「権力的強者と弱者の関係を前提におこなわれる一方的で卑劣な暴力である」とする主張には小川も基本的に同意します。

 

その上であえて言いたいことは、「体罰」もある種の「教育(権威主義教育)方法」ではないかということです。

 

この事件で宮本が暴力を振るう端緒となったのは、知美さんがスカートを膝頭が見えるまで短くしていたからです。

それがなぜ「罪」(「(体)罰」というからには「罪」が前提になる)かといえば、校則でスカートの丈は膝のお皿の下までと決められていたからです。

事件当時、近大附属女子高校には180項目もの校則があったそうで、スカートの丈もその一つでした。

 

しかし、スカートの丈が数㎝長いか短いかが本来の「教育」(education:個人が可能性としてもつ能力・特性を引き出す(educare)こと)にとって教師が血眼になるほど重要な意味を持つのか、合理的な説明ができるとは思えません。

 

とすれば、不合理な校則の意味は「校則の内容」にあるのではなく「校則を守るかどうか」という形式にあるのです。

つまり、「学校(お上)が決めた校則には無条件に従う」という「権威への服従」の習性を身につけさせるのが「校則教育」のポイントなのです。

 

そのためにはむしろ、「校則は不合理なものであればあるほど良い」ことになります。

すんなり納得できる校則より、いくらバカげた校則であっても学校(お上)決めたことには黙って従わせる方が、権威主義教育にとって良い訓練になるからです。

そしてもし従わない生徒がでてくると、「権威」の仮面をかなぐり捨てた「権力」が表に出て、「体罰」と称する「暴力」が振るわれることになります。

 

訓練されるのは生徒だけでなく教師もだったでしょう。

スカート丈どころか下着の色が生徒の才能を引き出す教育にどう関係するのか、教師自身もわけが分からないまま生徒を従わせることに汲々とし、もし違反する生徒を自分のクラスから出せば管理職や他の教師から責められる——その意味では、彼個人を懲戒免職にしただけで近畿大学本部を含め学校自体の加害責任はうやむやなままにコマとして使い捨てられた宮本は、権威主義教育の被害者としての一面もあったのではないでしょうか。

 

【知美さんの死を忘れず】

知美さんの父・陣内元春さんと母・明美さんら遺族が、喪ったばかりの娘を「二度殺される」誹謗中傷や嫌がらせを受けて二重三重の苦しみを味わわされている中、「陣内さん支援ネットワーク」を立ち上げて彼らを支えつづけたのが佐田正信さんです。

 

1960(昭和35)年、飯塚市に隣接する福岡県直方(のおがた)市に生まれた佐田さんは、東京の大学を出たあと郷里に戻り、家庭教師をしながら1990年に「登校拒否を考える会・筑豊」や「学校に行かない子どもを支える会・直方」を発足させ、1992年にはフリースペース「スペーストトロ」という不登校の子どもたちが交流できる居場所に自宅を開放し、彼らの話し相手になるなどの社会活動をしていました。

 

佐田正信さん

 

佐田さんらは、事件から3ヶ月後の1995年10月1日に「陣内知美さんの死を忘れない飯塚集会」をもち、1996年7月には知美さんの追悼集会を開いてネットワークを「陣内知美さんの死を忘れない追悼集会実行委員会」にあらため、その翌年からも7月に知美さんの追悼集会を開催しました。

 

ネットには、佐田さんが書いた2000年7月9日の追悼集会の案内が残されています。

 

 1995年7月17日のあの悲しい夏の日から数えて6度目の夏を迎えようとしています。私たちは、事件の現場、福岡県飯塚市で毎年、この追悼集会を持ちながら事件のその後を見守ってきました。事件そのものは残念ながら風化しています。
 事件の現場近畿大学付属女子高(現・近大付福岡高校)に境を接する男子校でも教員による対生徒暴力(体罰)事件が起きました。しかし、その一方で「実際に今現在学校に通い常に暴力の危険にさらされている若者たちの命を守るために動いていこう。そのことによって知美さんの死を追悼していこう。彼女の死を活かしていこう。」という私たちの思いは“体罰ホットライン”を生み出しそこに寄せられる情報に対応し教育現場に警鐘を鳴らし続けています。
 また、その動きの中から全国の仲間たちと「教員による対生徒暴力(体罰)を告発する全国市民ネットワーク」が立ち上がりその歩みを始めました。そのような動きの原点となった、この集会で今年も知美さんの死の重み命の重みを、日々の暮しに流されがちな私たちの身に刻み込み明日からの何らかの標にする一日を持ちたいと思います。どうぞ、ご参加ください。

 

ここに書かれている「体罰ホットライン」や「教員による対生徒暴力(体罰)を告発する全国市民ネットワーク」について具体的なことは分かりませんでしたが、各自治体や弁護士会、法務省にいじめや体罰などについての相談を電話やメールで受けつける「子どもの人権110番」といった相談窓口が設置されるようになったのには、佐田さんら市民の活動が大きく寄与したのではないでしょうか。

 

法務省の「子どもの人権110番」(2006年開設)

 

佐田さんは1997年8月、仮出所した宮本煌に保護司に託して手紙を書き、知美さんの追悼集会に出席しマスコミに今の心境を語ってほしい、事件を心から反省しているのなら知美さんや遺族にしっかり詫びたうえで、加害者になってしまった立場から二度とこのようなことが起きないよう社会に向けて発言してほしいと提案しました(藤井 pp.278-284)

 

手紙の末尾に追伸として、佐田さんは次のように切々と宮本に呼びかけています。

 

この2年間、陣内家のみなさんは、大変な状況に翻弄されてこられました。誹謗中傷、嫌がらせ……。そんなことと、日々直面しながらの2年間でした。そして彼らが、ただ一つのことを待ち続けていた2年間でもありました。その、たった一つのこと、それは貴方を心から許し、貴方に心を開ける日がくることであります。

どうか、どうか、今までは立場の違った歩みをしてきた私たちが、知美さんの死を無駄にしないための努力を、それぞれが生涯続けていくという一点で、お互いの手と手が結べる日が来ることを……。

 

ところが宮本は、「受け取る理由がない」と手紙を開封することすらせずに送り返してきたそうです。

宮本としては、事件のことはもう忘れてしまいたいという気持ちとともに、「先生は悪くない、むしろ被害者だ」と署名を集めた人たちの手前、今さら「罪を悔いた加害者」として振る舞うことはできなかったのかもしれません。

 

その意味で、身内をかばうことだけを考えてなされた減刑嘆願署名運動は、知美さんの遺族を苦しめただけでなく、宮本自身の更生の道まで閉ざしてしまう二重に罪作りなものだったと、小川には思えるのです。

 

なお、2000年10月31日、佐田正信さんが40歳の若さでガンのため急逝されたことを、追悼の気持ちを込めてここに書き留めておきます。

 

佐田正信さんの遺稿集(向陽舎、2002)

 

🔚

 

今回のブログは、書きながら悲しみと怒りで何度も心が押しつぶされそうになりました。

そんな心のバランスをとるために、不謹慎とのお叱りを受けるかもしれませんが、ブログ内容とはまったくかけ離れた楽しい写真を最後に掲載します。
 
神戸の老舗スペイン料理店「カルメン」で開かれたフラメンコディナーの様子です。
トラ吉を連れて秋の一夜、食事とフラメンコライブを楽しんできましたのでご覧下さい。
サムネイル

 


 

 

 

 

 

今回も最後までお読みくださり

ありがとうございましたおねがい

次回はリクエスト企画にします飛び出すハート

 

恋人の逢瀬を邪魔しようと

無関係な人を死傷させた

横須賀線電車爆破事件

1968年

朝日新聞(1968年6月17日)

 

爆発直後の車内で倒れた乗客たち

毎日新聞(1968年11月10日)

 
【事件発生から犯人の逮捕まで】
1968(昭和43)年6月16日の日曜日、この日は「父の日」でした。
午後3時30分ごろ、国鉄(現在のJR)横須賀線の東京行き電車(10両編成)が大船駅の手前約100mの踏切にさしかかったとき、突然前から6両目の網棚に置かれていた荷物が大音響をあげて爆発しました。
 
 

朝日新聞(1968年6月17日)

*座席の○は乾電池が見つかったところ

 

爆発物の破片に加えて破損した天井の鉄片や窓ガラスなどが車内に飛び散って突き刺さり、同じ車両にいた50人ほどの乗客のうち重軽傷を負った多数の人*が病院に運ばれて、そのうち網棚の下に座っていて頭部に重傷の広島勇さん(30歳)が大船中央病院で亡くなりました。

 *裁判で加害者が罪に問われた被害者数は死者1人を含む15人ですが、直後の新聞記事には死者1人、重軽傷者28人と報じられています

 

亡くなった広島 勇さん

 
広島さんは、4月に生まれたばかりの長女が入院している逗子市内の病院に見舞いに行った帰りでした。
 
朝日新聞(1968年6月17日)
 

ちょうど1年前の「父の日」、1967年6月18日に兵庫県神戸市垂水区の塩屋駅構内で、山陽電鉄の姫路行き普通電車の網棚に置かれた荷物が爆発し、女性2人が死亡、29人が重軽傷を負う大惨事(未解決事件)があり、類似点から一時は同一犯の仕業ではないかと疑われました(その後、使用された火薬の違いなどから犯人は別と警察が判断)

 

読売新聞(1968年6月17日)

 

1962年から63年にかけて、「草加(「そうか」もしくは「くさか」)次郎」を名乗る犯人が、東京都内で十数件の爆破・脅迫事件(1978年に公訴時効)を起こして以降、上の記事にあるように模倣犯と見られるものを含めて未遂を含む何件もの爆破・爆発事件が起き、未解決が多くなっていたことから、警察庁は翌18日にこの横須賀線電車爆破事件を「第107号広域重要事件」に指定し、警察の威信をかけて事件解決に取り組む決意を示しました。

 

読売新聞(1968年6月18日夕刊)

 
犯人の手がかりを求めて、飛び散った破片から爆発物について捜査本部が復元したところ、「火薬を詰めたパイプ・タイムスイッチ・乾電池」を組み合わせた次のような構造の手製爆弾であると推定されました。
また、乾電池ケースと電線やパイプのフタなどの接合部分にはハンダが使われていました。
 

朝日新聞(1968年6月17日夕刊)

 
その後判明したことを含めて遺留品から分かったことは……
【爆発物】
①火薬:猟銃で散弾の発射薬などとして用いられる無煙火薬
 

朝日新聞(1968年6月18日)

 

②パイプ:ガスや水道の配管工事で使われる鋳鉄製の三方継ぎ手(T字型パイプ、直径約5.2cm)

 

読売新聞(1968年6月19日)

 

三方継ぎ手(例)

 
【タイムスイッチ】

松下電工(ナショナル、現在のパナソニック)製のゼンマイ式タイムスイッチ

 

「ナショナル時間スイッチ」(例)

 

【点火用電源】

①電池:単一(1.5v)乾電池4本

②乾電池ケース:主に生徒・学生が勉強に使うクラウン社製テープレコーダー「クラウン・マイスタディ・ジュニア」の電池ケース

 

 

 

「クラウン・マイスタディ」シリーズのテープレコーダー(例)

同、L型の電池ケース(単一乾電池4本が直列)

 

【包装物】

①箱:爆弾が入れられていたのは、「みすづ総本店」が製造販売した名古屋銘菓「鯱(しゃち)もなか(10個入)のボール紙の箱

 

朝日新聞(1968年6月20日)

 

読売新聞(1968年11月10日)

 

②新聞紙:菓子箱を包んでいたのは毎日新聞(1968年4月17日付、多摩版)、輪転機に固有の微妙な印刷ズレから三多摩地区(八王子・立川・日野方面)に配られたものと判明

 

読売新聞(1968年11月10日)

 

これらのうち、特に新聞紙と火薬から、三多摩地区の毎日新聞購読者で猟銃を所持している者をピックアップし、捜査員のべ2万500人を投入してしらみつぶしに当たったところ、1人の容疑者が捜査線上に浮かびました。

 

日野市上田に住む大工の若松善紀(当時25歳)です。

警察は、若松が爆弾に使用された三方継ぎ手などを入手できたか慎重に捜査を進め、若松の隣りに住む夫婦から前年10月に「鯱もなか」を新婚旅行のみやげとして彼に渡したとの有力な情報が得られました。

 

毎日新聞(1968年11月10日)

 

こうして事件発生から約5ヶ月がたった11月9日朝7時、都内の工事現場の宿舎に泊まっていた若松善紀に警察が任意同行を求めました。

 

当初は関わりを否認していた若松ですが、午後になって犯行を自供し始めたことから、同日午後6時40分に爆発物取締罰則違反、電車汽車転覆致死、殺人、殺人未遂等の容疑で彼を逮捕しました。

 

朝日新聞(1968年11月10日)

 

読売新聞(1968年11月10日)

 

【若松善紀という人物】

 

 

若松善紀は、1943(昭和18)年8月10日、日本有数の豪雪地帯である山形県尾花沢(おばなざわ)市大字野黒沢(のぐろさわ)に5人きょうだいの末っ子として生まれました。

長兄は生後すぐに亡くなっているので、実質的に善紀のきょうだいは姉2人と兄1人*です。

 *長姉(9歳上)、次姉(6歳上)、兄(2歳上)

 

 

山形県尾花沢市

 

父親は運送会社の経営がうまくいかずトラック運転手として働いていましたが、1944(昭和19)年11月の2度目の召集で陸軍自動車部隊の軍曹としてフィリピン戦線に送られ、1945(昭和20)年3月17日、レイテ島カンギマット山で戦死しました。

父親が35歳、善紀がまだ2歳になる年で、彼は父を知らずに育っています。

 

36歳で夫を失った善紀の母親レイさんは、5反歩(約50アール)ほどの田畑を耕しながら姑と4人の子どもを養う評判の働き者だったそうです。

 

よちよち歩きを始めたのがようやく3歳のころと成長の遅かった善紀は、手のかからないおとなしい子どもで、忙しく働く母親や姉たち、兄をかわいがる祖母*からあまりかまわれることなく育ちました。

 *善紀の父親は婚外子(私生児)で実母が子を置いて家を出たため、父の祖母が戸籍上も母親となって彼を育てたので、善紀が「祖母」と思っていたのは実は「曾祖母」でした

 

1947(昭和22)年3月、東京から来た母娘が若松の家の物置小屋を借りて生活するようになります。

 

この母親は、大工だった夫の野黒沢の実家に東京からひとり娘を連れて「疎開」してきていたのですが、窃盗事件を起こした夫が服役中に獄中で病死したため、夫の実家におれなくなったのです。

そして雅子*という善紀の幼なじみで遊び相手となる同い年の娘が、後に彼が事件を起こす原因となる「運命の女」だったのです。

 *大判例に収録された横浜地裁の判決文に「小幡雅子」と彼女の名前があげられています。これが仮名でなければ、「小幡」はのちに母親が再婚してからの姓と思われます。なお、佐木隆三『殺人百科3』(以下、佐木)の「爆破狂 若松善紀」では「彼女」とのみ記され、加賀乙彦『ある若き死刑囚の生涯』では「山田敏子」、同『死刑囚の記録』の「鉄窓の宗教者」では「M子」と書かれていますが、このブログでは「雅子」としておきます(簡潔にするため敬称を略します)

 

 

 

雅子は、善紀が「自分のおふくろに似て、気が強くて短気」(佐木、p.206)と言うように、遊びでも善紀を常にリードする存在でしたが、おとなしい彼にはそのような関係がむしろ性に合ったようです。

なお、雅子は自分の父親が窃盗事件で服役し獄中死したことを成人してからも知りませんでした。

 

1950(昭和25)年3月、雅子の母親が亡夫の知り合いの大工と再婚することになり、母娘は横浜に去ってしまいます。

 

その年の4月、善紀は野黒沢にあった尾花沢市立福原中部小学校(2014年に閉校)に入学します。

 

おとなしいながら友だちは多く、成績も中の上くらい、図工が得意で機械いじりが好き、切手集めが趣味という目立たない子どもでした。

 

兄によると「気持の変わりやすい」性格だったらしく、友だちと遊びに行っても急にいなくなって1人で別の所に行くなどの行動が見られた一方、これと思うと距離をいとわず歩いて行ったり真夜中に起き出して機械いじりに熱中することがあったそうですから、現在なら発達障害であるADHD(注意欠如多動症)とASD(自閉スペクトラム症・アスペルガー症候群)の併存*と診断されたかもしれません。

 *ADHDは落ち着きがなく衝動的に行動しがちで、ASDは人間関係が不器用で特定のことにこだわりが強いという相反する特性をもちながら、両方の障害を合わせ持つ人も少なくないそうです

 

小学2年生の時に祖母が亡くなり、豆腐業を営む既婚男性が家に出入りするようになって家庭が複雑になりながら、豆腐作りを教わることで一家は経済的に助けられます。

 

小学2年か3年のころ、親戚の女の子の口まねをしたのがきっかけで善紀に吃音(きつおん:一般に「どもる」と言われる発話障害)が出始め、1956(昭和31)年4月に市立福原中学校に入ると症状がより顕著になりました。

 

中学校での善紀は、社会・図工・英語が得意科目で、卒業時の成績は約160人の生徒の中で30番くらいと学力的には高校進学が十分可能でした。

本人も、将来は船舶の無線通信士か電車の運転士になることを希望していましたが、高校にやるお金はないと母親に言われたため、進学を断念せざるを得ませんでした。

高校進学率が全国平均で6割に達していない時代で、善紀の姉たちや兄も中学を卒業しただけで結婚したり働いたりしていたのです。

 

1959(昭和34)年3月に中学を卒業した善紀は、働きながら定時制高校に通わせてもらえると期待して、4月に山形市錦町の指物大工に弟子入りしました。

しかし、1年ほど働いて高校の話を親方に持ちかけたところ、大工が学校に行っても仕方がないと断られたため、1960年7月の休みの日に親方に無断で実家に戻ります。

 

定時制高校に行きたいと訴える善紀に、次姉や学歴での苦労を知っている兄は、きょうだいで一番成績の良い弟には高校に行かせてやりたいと口添えしてくれましたが、中途半端なことをせず手に職をつけろと母親が強く反対したため、進学を諦めざるを得ませんでした。

 

【東京での仕事と抱いた夢】

1960(昭和35)年8月末、同郷の親方が東京都保谷(ほうや)(2001年に田無市と合併して現在は西東京市)で営む工務店に、善紀は3年の見習い契約・お礼奉公*半年という条件で働き始めました。

 *見習い修業(住み込みで作業着と食事が支給され小遣い銭をもらい下働きする)をさせてもらったお礼として、契約が終わったあと一定期間無給で働く制度

 

善紀のまじめな働きぶりを認めた親方は、1963(昭和38)年8月、見習い期間が終わるとお礼奉公を免除し、一人前の大工として月給4万円*で雇用してくれました。

彼が20歳になる年のことです。

 *30人以上の事業所を対象とした「毎月勤労統計」によると、1963年の常用労働者の平均賃金は3万円弱(2万9941円)でしたから、条件としては悪くなかったでしょう

 

1964(昭和39)年1月に、東京都新宿区西落合に4畳半一間のアパートを借りて暮らし始めた善紀は、昼の弁当を作って出勤し、ラジオを組み立てるなど電気関係のものをいじることを趣味にしながら、仕事から帰ると数学やNHKラジオ講座で英語の勉強をするという、質素で勤勉な毎日を送りました。

酒も付き合い以外1人では飲まず、当時の職人にありがちな酔っ払った姿を見せたこともありません。

 

また子どものころから図工が好きな善紀は、親方からのアドバイスもあり、暇さえあれば設計図面を見て建築の勉強をし、二級建築士から一級建築士の資格を取得して将来は自分の設計事務所をもつことを夢見ていたのです。

熱心に英語の勉強をしていたのは、海外での仕事も視野に置いていたからです。

 

そんな折り、彼のアパートに工務店の先輩の弟で福原中学の一学年上であった渡辺喜代光(上記横浜地裁判決文による、敬称略)が、飯場暮らしがいやだからしばらく置いてほしいと転がり込んできます。

仕方なく同居してみるとそれなりに楽しかったようですが、この渡辺がのちに事件を起こす原因の一端になろうとはこの時は想像すらできませんでした。

 

3ヶ月ほどして渡辺は、善紀の住まいから徒歩で10分くらいのところにアパートを借りて出て行きます。

 

1965(昭和40)年に善紀は、吃音を治したいと池袋にあった言語矯正施設に通い始めました。

しかし、ここにも彼の潔癖症的なこだわりが現れているように思われますが、仕事で遅刻することが多くなったという理由で3ヶ月ほどで行くのをやめてしまいます。

 

1966(昭和41)年11月2日、善紀は猟銃の所持許可をとって水平2連の散弾銃を購入します。

山形に帰省したときイノシシを撃ちに行ったことはあるようですが、東京では射撃場で的を撃つくらいだったのではないでしょうか。

 

水平2連散弾銃(例)

 

事件を起こすまでに善紀は銃砲店で5回*、250gずつ無煙火薬を許可をとって購入しており、これが事件で爆発物に使用されました。

 *1966年11月と12月、1967年1月と10月、1968年3月

 

火薬を購入したのは、実包(実弾)を既製品で買うより、火薬や部品を購入して自分で組み立てる(自家装填という)方が使用済み薬莢の再利用もできて安上がりであるのと、目的に合わせて自分で火薬の量を調整できるからです。

 

図右の火薬や部品を購入し組み立てる

 

【雅子との再会と失意の別れ】

1967(昭和42)年2月、善紀は思いがけず17年ぶりに雅子と再会します。

正月に山形の実家に帰ったとき、雅子の母親から来ていた年賀状を見て横浜市戸塚区の住所を知った彼が母親に挨拶の手紙を出したところ、雅子本人から返信があったのです。

 

2月16日、東京に行くから昔の思い出話をしたいという彼女との初デートを楽しんだ善紀は、せがまれて西落合のアパートにも案内し、東京駅13番線*ホームから横須賀線で帰る彼女を見送りました。

 *東北新幹線のホーム増設など駅の改造により、現在の東京駅に13番線は存在せず、横須賀線は地下3番線と4番線から発着しています

 

川崎市で従姉が経営する食堂を手伝っていた雅子は、夕方に仕事が終わると善紀から聞いた下駄箱に隠した鍵を使ってアパートに入り、夕食を作って善紀の帰りを出迎え、おしゃべりをして終電で帰るようになります。

 

3月の初め、3年前から好きになり付き合っていた藤原という男性が、前年冬に吐血し急逝したという打ち明け話をしていて終電を逃した雅子は、初めて善紀のアパートに泊まり2人は性的な関係をもちます。

 

工務店の親方に勤勉さを見込まれ、娘婿として会社の2代目社長にと望まれていた善紀ですが、郷里を引きずりたくない彼はその気になれず、関係をもったのを機に雅子に結婚したいと申し出ると彼女もあっさりと承諾したのです。

 

こうして2人は、次のような結婚誓約書(佐木、p.182)を作成し署名に血判まで押して、同棲生活を始めます。

 

結婚誓約書

一、甲乙双方は絶対離婚を認めない。

一、甲乙双方は家庭平和を維持するために最善の協力を惜しまない。

一、甲はいかなる理由を問わず、乙の前歴(所謂、結婚経験及び藤原との交情)に触れて、乙を苦境に晒すことをしない。

一、乙に全生計を預けるため、甲は全給料を乙に手渡す。

一、外出の際は甲乙双方互いに連絡し合わなければならない。

一、甲乙双方はマイホーム建設の希望をもって努力し合う。

一、右建設遂行のため、甲乙同伴の外出を、最高月1回に制限する。

一、甲は乙の両親の扶養の義務を負う。

一、甲も乙も浮気は、これを認めない。飲酒喫煙は甲のみ認むる。

 以上を以って、甲を夫、乙を妻とし同一のものを二通作成し、甲乙双方署名捺印し、各々1通ずつを所持するものとする。

 私たちは右事項を固く守ることを誓います。

昭和42年3月10日

 

「誓約書」はおそらく善紀の発案だと思いますが、まるで設計図を想わせる彼の生真面目さやこだわりが強く表われた堅苦しく息が詰まるような内容に、雅子が心から賛同して署名したとはとても思えません。

 

というのも彼女は、その場の空気や流れには逆らわず従順そうに見えるけれど、結局は自分の欲求や感情のままに行動する我の強いタイプの女性*だったように思われるからです。

 *先に述べたように、善紀は雅子を「気が強くて短気」「キツい性格」と言っているように、プライベートな場では思い通りにならないとキレて手近な物を投げつけることもあったようです

 

結婚誓約を交わしてからわずかひと月ほど後の4月16日、善紀が仕事から帰ると雅子は書き置き一つ残さずにアパートを出て行ってしまっていました。

 

後日彼女から来た手紙には、「(雅子は)犯罪者の血を引いたロクな娘ではない」と結婚に反対する善紀の母から彼宛の手紙をアパートで見つけて読み、自分の父親が服役中に獄死したことを初めて知って大きなショックを受けたこと、またその手紙に雅子に結婚経験があると書かれていたため善紀にそのことを聞かれてはぐらかした*けれど、実は自分は既婚者だとの告白が書かれていました。

 *結婚誓約書」に「乙の前歴(所謂、結婚経験云々)」と書かれていたのはこのことです

 

横浜市の会社に中卒で就職した雅子は、9歳年長の上司にプロポーズされ、18歳で結婚していたのです。

彼女に上司への恋愛感情はなかったのですが、彼が借家住まいの両親に持ち家での同居を申し出たことから、両親が娘に結婚するよう強く迫ったからです。

 

状況に逆らえず結婚した雅子ですが、夫が子どものできない体質で職場での「不倫」のうさわもありますます心が離れ、新婚3年目になる成人式の帰りにたまたまラーメン屋で知り合った藤原征広という同い年のサラリーマン男性と意気投合して深い仲になりました。

 

夫は妻の「不倫」を知りながら責めようとせず、ただ離婚の求めには頑として応じませんでした。

 

こうして3年続いた藤原との関係は、大酒飲みだった彼のあっけない吐血死で幕を下ろしました。

失意の渦中にあった雅子は、善紀からの便りに懐かしさを覚えると同時に彼への好奇心がつのり、会いたいと手紙を出したのです。

 

やりたいようにさせてくれる善紀の優しさに一時は心が引かれた雅子ですが、コソコソと落ち着きがなく彼女に頼りがちで、その一方で見栄をはって才能をひけらかす善紀の性格が嫌になった、「それに吃音だし……」と事件後に彼女は供述しています(佐木、p.206)

 

しかし、その場しのぎで気分まかせ、裏表の顔を使い分けて男を翻弄する小悪魔的な雅子の言動に、生真面目な善紀の方が振り回されたことも否定できません。

 

姿を消した後に雅子から来た手紙の末尾には、善紀のアパートにヘアピンを忘れたので3日後に取りに行くから顔を合わせなくて済むよう留守にしておいてと書かれていました(佐木、p.187)。

たかがヘアピン1本を取りにくるというのも変ですが、実際に彼女がアパートに来たのは、顔を合わせるのを意図したかのように予定前日の善紀が在宅していた時間でした。

 

会ったからには当然復縁しようと口説く善紀に彼女は応じるそぶりを見せ、性関係までも復活したので、善紀は今度こそ彼女と結婚できると期待しました。

ところが、夫や両親が二人の仲を裂こうとしたとはいえ、雅子は結婚にはそっけない態度をとり続けます。

 

それだけではなく、一時期善紀のアパートに同居していた渡辺喜代光に、善紀と別れたいのにしつこく結婚を迫られて困っているから助けてほしいと相談をもちかけ、何度も会ううち二人は深い仲になってしまうのです。

 

自分のすぐ近くにいる渡辺のアパートに雅子が頻繁に入り込んでいると知った善紀は、1967年10月16日、善紀に代わって渡辺の兄が親方の娘婿として2代目社長になりそうな保谷市の工務店に辞表を出して別の工務店に転職、住まいも日野市に新婚世帯向けに建てられた一軒家を借りて四畳半一間のアパートから引っ越します。

 

新居の隣りに住む新婚夫婦から、新婚旅行のみやげとして「鯱もなか」をもらったのが10月26日のことで、善紀はその菓子箱を捨てずに置いていました。

 

若松善紀が日野市内に借りた一軒家

読売新聞(1968年11月10日)

 

広い新居に家財道具をしつらえることで雅子の心をつかむという彼なりの賭けに出たのでしょうが、引っ越しの前日まで荷造りの手伝いをしていた雅子の気持ちは、本心ではすでに冷めてしまっていました。

 

この期に及んでなお結婚についても渡辺との関係についてもあいまいな態度をとる雅子に業を煮やした善紀がつい言葉を荒らげたため、口論になって雅子は彼のアパートを飛び出し、その足で渡辺のアパートに行きました。

 

次の日、彼は2人の新婚住居となるはずだった家に、自分ひとりで引っ越します。

 

【横須賀線がなければいい!】

1968(昭和43)年の2月ごろを最後に雅子と会うこともなくなり、失恋の傷心を抱えたまま迎えた6月16日の日曜日、かなりの雨のため善紀は建築現場の仕事が休みでした。

 

「父の日」ということで、父親のいない自分の不遇さを思い起こすうちに、今日は渡辺も仕事が休みだろうから、仕事を終えた雅子がまた横須賀線に乗って彼のアパートに行くに違いないという考えが浮かぶと、ムシャクシャした気持ちをどうにも抑えることができませんでした。

 

そしてこれが、あることにこだわるとそれ以外の物事が見えなくなる視野狭窄に陥り、後先考えずに衝動的に行動してしまう彼の特性なのですが、「横須賀線がなければいいんだろう!」と、以前に作って家に置いていた爆発物で横須賀線を不通にしてやれと浅はかにも考えたのです。

 

正規に購入した無煙火薬と職場にいくらでもある三方継ぎ手で善紀が手製の爆発物を作ったのは、雅子と会えなくなった後の1968年4月初めごろ*だったようです。

 *横浜地裁の判決文では、すでに2月中旬ごろから時限爆破装置の試作を始めていたとされています

 

裁判では、すでにこの段階で善紀は爆発物を使って世間をあっと言わせ雅子へのうっぷんを晴らそうと計画していたとされましたが、そこまで用意周到に計画したのなら、届けを出して購入した猟銃用の火薬に職場で使用している部品、隣家からのもらい物の菓子箱に自分が購読している新聞紙など足のつきやすいものばかりを使ったのは、こだわりの強い彼にしては不用心にすぎます。

 

さらに、火薬の量を変えて彼は爆発物を4つ作りますが、うち3つを工事現場の近くの砂浜や建築中のマンションの中などで他の従業員に爆発させて見せたのも、それで犯罪を行おうと思っている者の行動にしてはあまりに不自然です。

 

加賀乙彦『ある若き死刑囚の生涯』(p.10、以下「加賀」と略記)には善紀の手記をもとに、「友人たちが喜んでくれるので、おのれの孤独を卒業させるよい機会だと、工具部品の三方継ぎ手に火薬を詰めて爆発させることができたときは前宣伝をして3回も花火大会をしてみんなに見物させた。故郷の山国では、花火の代わりに手製の爆弾を破裂させて喜ぶ風習があったので、それが別に危険な悪いことだとは思わなかった」と書かれています。

 

山形の尾花沢あたりにそのような風習があったのか確認することはできませんでしたが、「爆弾」を作った段階では職場の同僚を驚かせる花火程度の遊びとしてやったのだというのです。

 

火薬の量を変えて4つ(12g、15g、15g、35g)作ったものを、火薬量の少ないものから日を置き異なる場所・条件で爆発させ、3つ目(火薬15g)は先述したように建築中のマンションの4階で爆発させたため、床や天井のコンクリートが破損し、彼は上司からこっぴどく叱られました。

こうして使う機会を失った4つ目(火薬35g)の「爆弾」を善紀は家に持ち帰ったのです。

 

一番威力の大きなものを事件で使ったのが意識的なのかは分かりませんが、それまでの経験から3つ目の倍以上の量の火薬を詰めたものがどれほど破壊力があるか、善紀に想像できなかったはずはありません。

 

彼は裁判で、人を殺傷するつもりはまったくなかったと証言しており、確かに意図的な殺意はなかったとしても、網棚の上という乗客から至近距離での爆発で人的被害がまったくないというのは素人判断でもありえないでしょう。

横浜地裁が善紀に未必の殺意を認めたのは、当然のことだと思われます。

 

こうして善紀は、三方継ぎ手の爆発物に炊飯器に使っていたタイムスイッチや英会話の勉強用のテープレコーダーの電池ボックスなど家にある部品を組み合わせて時限爆弾を作り、3時間30分後に爆発するようセットして家を出ました。

東京駅まで家から1時間半ほどかかりますので、電車の発車後2時間ほどで爆発する設定です。

 

かつて雅子を何度も見送った東京駅13番線ホームに入構していた午後1時45分発普通電車の5号車の網棚に爆弾の入った包みを置いた善紀は、それから中央線で新宿に出、京王線で府中競馬場に行きました。

 

一方、爆弾を乗せた電車は午後2時59分に横須賀駅に到着、5分後の午後3時4分に東京駅に向けて発車しました。

本来なら横須賀駅で折り返す時、駅員が忘れ物などないか車内をチェックすることになっているのですが、停車時間が5分と短く、すぐに東京方面に向かう乗客が乗り込んできたので、ほとんどチェックはしなかったようです。

 

競馬場から帰った善紀が爆発で負傷者が出ていることを知ったのは午後7時のニュースで、翌17日の新聞朝刊で現場の惨状と1人が亡くなったことを知りました。

 

読売新聞(1968年6月17日)

 

【裁判と判決】

1968年11月9日に逮捕された後の若松善紀は、取り調べを受けた大船署で素直に犯行を供述し、取調官に促されて11日に次のような手記を書いています(佐木、p.201-202)

 

 

手記

私しママは横須賀線電車を爆破したのですが別に世の中にふまんが有ったのではありません。

社会に対して反感もありません。

只、電車の中で爆発をやって見たかっただけです。

現在の私しの気持ちは本当に申し訳ないと思っております。

どんなつぐないでもするから許して下さい。

  十一日

 

「電車の中で爆発をやって見たかっただけ」というのは事実でありませんが、「女性に振られたうっぷんを晴らすために」とは彼の「見栄」からも言えなかったのでしょう。

 

1968年12月25日から横浜地裁(野瀬高生裁判長)で開かれた公判で若松は、犯行については認めながら、乗客を殺傷する意図と爆破の計画性については否認しました。

 

1969年3月3日の論告求刑公判で検察側は、「個人的な動機から、このような事件を起こした行為は非人間性、反社会性の現われであり、長期かつ綿密に計画された残忍な許しがたい犯行」と断じ、「爆破魔に対する社会の恐怖と憎しみからして極刑が妥当」として死刑を求刑しました。

 

朝日新聞(1969年3月3日夕刊)

 

検察の論告に見られるように、草加次郎事件以来の多くの未解決爆破事件に対する「社会の恐怖と憎しみ」を若松は一身に背負わされることになり、3月20日の判決公判でも野瀬裁判長は検察の主張をほぼ全面的に認め、求刑どおり死刑を言い渡しました。

初公判からわずか3ヶ月というスピード審理でした。

 

読売新聞(1969年3月20日夕刊)

 

法廷で若松は、「申し訳ないことをしました。深くお詫びします」と頭を下げて謝罪しましたが、裁判長は、「未だ所謂草加次郎の犯行など未解決のものもあり、この種犯罪の持つ独自のスリルと猟奇性および犯人検挙の至難性のため、その模倣性は充分に考えられ、同種犯行の再発のおそれなしとは云えないのである。よってこの種犯行の量刑にあたっては、この点も十分考慮しなければならないところである」と模倣犯罪を予防するためという死刑宣告の意図を明らかにしています。

 

異例の撮影が認められた法廷での若松善紀

 

1969年12月4日、東京高裁(樋口勝裁判長)で初公判が始まった控訴審では、弁護側が一審から求めていた若松の精神鑑定が認められ、東京医科歯科大学犯罪心理学教室の中田修教授が鑑定にあたりました。

 

鑑定の結果は、若松には「狭義の精神障害」はないが、犯行時の精神状態は「情動の著しいうっ滞(たまりとどこおっている状態)と、その衝動的な解放による意識的視野の狭窄など、やや特異な心理状態にあったと考えられる」というものでした(佐木、p210)

 

「発達障害」という概念が日本に入ってきたのは1970年代で、この時にはそうした面からの言及はありませんが、鑑定書に言われる状態の原因として彼に発達障害があると現在なら指摘されるかもしれません。

 

いずれにしても、鑑定が若松の責任能力を否定するものでなかったことから、1970年8月11日の判決公判で控訴棄却の判決がくだされました。

 

読売新聞(1970年8月12日)

 

若松は、裁判は一連の爆破事件の重圧を自分に課して模倣犯を防止するためのみせしめに過ぎないという強い不信感から上告しない意向でしたが、支援者の説得もあって最高裁に上告します。

 

1971年4月22日、最高裁第一小法廷(藤林益三裁判長)は、上告趣意はいずれも上告適法の理由に当たらないとして上告を棄却し、若松善紀の死刑が確定しました。

 

読売新聞(1971年4月22日夕刊)

 

若松は、裁判が始まったころから誰かが差し入れた聖書を読んでキリスト教に関心を持ち、教誨師であった泉田精一牧師の導きで1973年2月27日に念願の洗礼を受けプロテスタント信者になりました。

 

また短歌を作り始めた若松は新聞や雑誌に投稿し、「純多摩良樹(すみたま・よしき)」というペンネームで本格的に作歌に取り組むようになります。

やがて彼の歌は、太田青丘氏が主宰する歌誌『潮音』にしばしば掲載され、その作品が高く評価される歌人となりました。

 

「運命(さだめ)とは不思議なりけり父の無き われ〈父の日〉に罪を犯せり」

「一瞬に人を殺(あや)めしわが罪を おもへばこの身凍る思ひす」

「わが希(ねが)ひ歌に託して読みゆかん 処刑さるる日近づきてゐむ」

 

1975(昭和50)年12月5日、死刑確定から4年半という早さ*で、若松善紀の死刑が東京拘置所において執行されました。

32歳でした。

 *秋葉原通り魔事件(2008)の加藤智大死刑囚の執行(2022)の際の記者会見で法務大臣が、2012年から2021年の10年間の確定から執行までの平均期間は約7年9ヶ月と述べています

 

遺志により遺骨は泉田牧師が引き取り、20年後に遺族の申し出で故郷に還りました。

また彼が生前望んでいた歌集が1996(平成8)年2月、『死に至る罪 純多摩良樹歌集』(短歌新聞社)として出版されています。

 

 

 

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小川里菜の目

 

「一人の乗客が私の爆破で犠牲になった。幼い女の子のいる父親だった。父親を亡くすとは自分の過去に照らしても、まったく許せない大罪だと思う。私は自分の非を、殺人の大罪をおかしてしまった悪事を認めた」(加賀、p.21-22)と本人が言うまでもなく、彼が軽薄にも犯した罪の重さははかりしれません。

亡くなった広島勇さんのほかにも、左手を切断するほどの重傷を負った女性や、後遺症にその後も苦しめられた被害者がたくさんおられたのです。

 

そのことを大前提にしながらも、若松善紀という人間と事件に至る経緯を知ると、当初マスコミが流した「爆破狂」や「爆弾魔」という印象とは異なるものを彼に感じます。

 

向学心・向上心に富み、仕事にも勉強にも人一倍熱心に取り組みながら、人づき合いが不器用でこだわりが強く、感情がたかぶったり何か思い込むと周りが見えなくなって衝動的に行動してしまう——そんな男が偶然としか言いようのない人間関係に翻弄されたあげく、魔が差したように起こしてしまった大罪、そのように小川には思えるのです。

 

若松が、罪を犯した結果として獄中でキリスト教の信仰と短歌に出会い、もちまえの真面目さでそれらにのめり込むことで、彼は生まれて初めて自分自身と深く向き合う内省の時を得たのではなかったでしょうか。

 

宗教心がなく短歌の素養もない小川に、彼の信仰や作品について評価し論じるだけの能力はありません。

 

しかし、死刑囚となり「純多摩良樹」としていわば再生した若松善紀が、生きることの喜びや命の重みを日々感じつつ、自分の罪から目を背けることなく最期を迎えたことは間違いないと思います。

 

そのような人間を処刑することにどれだけの意味があるのかという根源的な疑問については、残された字数がなく機会をあらためることにいたします。

 

純多摩良樹(若松善紀)は、すべての歌を辞世のつもりで作っていると言って、あえて「辞世の歌」を残しませんでした。

最後に小川の心に残った一首をあげておきます。

死刑囚の独房で彼は文鳥を飼っていました。

 

「生きのこる文鳥のためあたたかき陽は少しづつ部屋にさしこむ」

 

 

〈参照〉

・事件を報じた朝日、読売、毎日の各紙記事

・佐木隆三『殺人百科 三』(徳間文庫、1984)

・加賀乙彦『ある若き死刑囚の生涯』(ちくまプライマリー新書、2019)

・加賀乙彦『死刑囚の記録』(中公新書、1980)

 

今回も最後までお読みくださり

ありがとうございましたおねがい

次回もよろしくお願いします飛び出すハート

 

トラ吉が通ります

大阪・関西万博の旅

 

今日はボクが通るよ

だから、今回はいつもの小川が追いかけた事件じゃないよ

2025年10月8日に大阪・関西万博に行ったんだ

小川はこれまでボクを連れていってくれなかったけど、

最後の最後に連れていってくれたんだ!

そのときの様子を紹介するね

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前日の夜に小川が、羊毛フェルトでミャクミャクさんを作ったんだよ
 

 
ボクのリュックに小川作のミャクミャクさんを入れて、電車に乗って出発したよ
 

 

夢洲(ゆめしま)駅も大渋滞してた

 
 
夢洲駅のスクリーンには……
 

 

 

 

 
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「万博もうすぐ」

「終わっちゃうよ?」

「後悔しても知らないよ」

「(グッズを) 買ってって」

 ……だって!

 

 

 

東ゲートから入場すると、

「いらっしゃいませ」ってミャクミャクさんが出迎えてくれたよ

 

 
こちらは西ゲート近くにいるミャクミャクさんだよ
 

 

これがあの「大屋根リング」だよ


 

 
水筒にお茶を入れて持って行ってたのに、
あまりの暑さにすぐに飲み干して、お水を買ったよ
 

 

予約していたパソナ館に入ったよ

 

 

 

 
まず、スクリーンショーを見たんだ
 

 

 

 

 

 

 

カナダで採れる虹色のアンモナイトの化石を「アンモライト」って言うんだって

これが世界最大のアンモライトだ!

 

 

 

 
 

別のパビリオンにはガンダムもいた!

 

 

 

 

 

 

 

 

 
 
あちこち見学しているうちに日が暮れてきた……
大屋根リングの上から見る夕暮れの景色は
すごくきれいだったよ
 


 
夜になると花火が上がるんだ!
 

 
 ドローンのショーもあったよ
 


 
万博で、ボクのことを可愛いって
たくさんの人に言ってもらえて
嬉しかったんだ
 
人見知りの小川もパビリオンで何時間も待っているときに
同じ列の人たちに話しかけられて楽しそうに話してたよ
 

もうすぐ万博は終わってしまうけど

これから行く人はいっぱい楽しんできてね🐱💕
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限界集落での惨劇

山口連続放火殺人事件

2013年

朝日新聞(2013年7月22日夕刊)

 

【事件の概要】

 

(同)

 

第23回参議院選挙の投票日だった2013(平成25)年7月21日(日曜日)の午後9時ごろ、山口県周南市金峰(みたけ)地区*の郷(ごう)集落で、貞森 誠さん(当時71歳)と妻の喜代子さん(同72歳)の家から出火したのに住民が気づきました。

 *大字金峰(おおあざみたけ)は、郷、奥谷(おくだに)、菅蔵(すげぞう)の3集落から成っていた

 

火災前の貞森さん宅

(ストリートビュー、2013年5月撮影)

 

それに続いて、貞森さん宅から70mほど離れた山本ミヤ子さん(同79歳)宅からも火の手があがり、住民からの119番通報でかけつけた消防隊の消火活動により午後10時14分ごろようやく鎮火しました。

 

手前の家が火災前の山本ミヤ子さん宅

*隣り(奥)が犯人・保見光成の家

(同)

 

それぞれの焼け跡から貞森さん夫妻と山本さんの遺体が発見されましたが、死因は頭部や顔面を鈍器のようなもの激しく殴られたことによる脳挫傷・出血性ショック・頸椎骨折などで、足にも打撲痕のあることが分かりました。

 

ANNNewsCH「テレメンタリー」(2023)

 

事件はそれで終わらず、さらに翌日(7月22日)の朝になって、同じ住民の石村文人さん(同80歳)と河村聡子さん(同72歳)が、それぞれの自宅から同様に撲殺遺体となって発見されたのです。

石村さんと河村さんの遺体にはさらに、前歯が折れるなど口に何かを突っ込まれたような痕があったそうです。

 

河村さん宅は夫の二次男さんが友人と旅行のため不在で、聡子さんは火災の現場を見に来ていたことから、殺害されたのは家に帰った後だと考えられました。

 

(同)

 

①貞森さん宅、②山本さん宅、③犯人の保見宅

④石村さん宅、⑤河村さん宅

朝日新聞(2013年7月23日)

 

警察は、山本ミヤ子さんの隣に住み、冒頭の新聞記事に写真がある「つけびして」という奇妙な川柳*が窓に貼られていた保見光成(ほみ・こうせい、同63歳)の行方が分からなくなっていることから、事情を知っている重要参考人として行方を追いました。

 *当初、「つけびして」が放火の予告ではないかと騒がれましたが、そうではないことが後に判明しました

 

 

400人を越える警察官を動員して周囲を徹底捜索したところ、7月25日にまず近くの山中から男物の衣服や保見の携帯電話などの遺留品が見つかり、さらに翌26日午前9時5分ごろ、そこから離れた山中の道に立っていたTシャツにパンツ姿で裸足の男性を発見しました。

男が保見であると認めたため、警察は署に任意同行を求めて事情聴取を始めました。

 

なお、保見が発見されるまで警察からの勧告で、近隣住民が金峰小学校の跡地に建てられた「金峰杣(そま)の里交流館」*に避難するという事態になっていました。

 *被害者の1人、河村聡子さんが命名

 

郷公民館(左)と金峰杣の里交流館(右)

 

 

朝日新聞(2013年7月26日夕刊)

 

保見が放火と殺人を認める供述をしたことから、警察はまず山本さんの件について殺人罪と非現住建造物等放火罪*の容疑で7月26日の午後に保見を逮捕し、27日の午前に山口地検に送りました**。

 *保見は住民を殺害した後に火をつけているので、すでに生きている人がいない状態であることから「非現住建造物等放火罪」が適用されました

 **警察は、8月15日に貞森さん夫妻の殺人・非現住建造物等放火容疑で、9月5日に石村さんと河村さんの殺人容疑で保見を逮捕し、5人全員について送検しました

 

朝日新聞(2013年7月27日夕刊)

 

保見は、犯行後に多量の睡眠薬とロープを持って自殺するために山中に入ったと自供しました。

警察官が捜索中に発見した「ホミ」と名前の彫られたICレコーダーには、別離の言葉のような彼の声が吹き込まれていました*。

 *今回のブログを書くにあたっては、新聞記事などのほかに高橋ユキさんの『つけびの村 噂が5人を殺したのか?』(晶文社、2019)を参照させていただいています

 

ポパイ、ポパイ、幸せになってね、ポパイ。

いい人間ばっかり思ったらダメよ……。

オリーブ、幸せにね、ごめんね、ごめんね、ごめんね。

うわさ話ばっかし、うわさ話ばっかし。

田舎には娯楽はないんだ、田舎には娯楽はないんだ。ただ悪口しかない。

お父さん、お母さん、ごめん。

お姉ちゃん、お姉ちゃん、お姉ちゃん、ごめんね。

○○さん、ごめんなさい……。

これから死にます。

犬のことは、大きな犬はオリーブです。

 *ポパイとオリーブは保見の飼い犬の名前

 

 

【保見光成という男】

 

保見光成

 

保見光成は1949(昭和24)年12月、保見友一とタケヨ夫婦の6人の子どもの末っ子(兄3人と姉3人)として郷集落に生まれました。

 

 

後で少し詳しく触れますが、保見の名前は元来は「中(わたる)」で、2009(平成21)年に彼自身で「光成(こうせい)」と改名したのですが、近隣住民は事件後に報道で初めてそのことを知ったそうです。

 

鹿野町立金峰(みたけ)小学校と鹿野中学校(現在は周南市立)を卒業した保見は、山口県岩国市で数年働いたあと20歳近く年上の長兄を頼って上京します。

 

金峰小学校(2003年に正式に廃校)

*校舎は解体され、跡地に「金峰杣の里交流館」が

作られたが、今は使われていない

ちなみに、手前に見えるガードレールは

県特産の夏みかん色に塗装されている

 

保見は神奈川県川崎市に住み、工務店の左官職人などをして働きます。

 

30代のころの保見

 

1994(平成6)年5月、45歳になる年に彼は、両親の介護と最後は故郷で暮らしたいとの思いから郷の実家に戻りました。

ほぼ30年ぶりの帰郷です。

 

実家に戻った保見は、自宅に隣接する土地を被害者の1人である石村文人さんから購入し、そこに習い覚えた建築の技術を活かしてバリアフリーの家を両親のために独力で建てました。

 

保見が建てた両親のための家

(yab山口ニュース「金峰」より)

 

さらに高齢者の家のリフォームを主とした便利屋を営もうと、新しく建てた家に「シルバーハウスHOMI」という看板を掲げた彼に、近くの住民も無料でビラを作って協力したそうです。

 

(ストリートビュー、2013年5月撮影)

 

最初のころ保見は集落の人びとになじもうとしたようで、帰郷翌月(6月)の自治会の旅行に参加し、7月の歓迎会にも出席しています。

 

こうして小さな郷集落*での保見の再出発は順調なように見えました。

 *1965年には115人だった郷集落の人口は、1988年には33人と激減し、2013年の事件当時は8世帯12人だけが暮らしていました

 

しかし、歓迎会の席上で彼がこの村でやりたいことを花や果物の樹を植えるなど「村おこし」の提案の形で述べたとき、その反応は冷ややかなものだったようです。

それはおそらく、提案内容というよりも、集落の意志決定のルールを踏まえずに、村のあり方についての話を外/上から持ち込むような保見の態度への住民の拒否反応だったのではないでしょうか。

 

さらに決定的と思えるのは、数ヶ月に1度、郷集落の共同作業として道の草刈りをするのですが、保見は1度参加しただけで「ただ働きはしない」と作業に加わらなくなったことです。

 

都会では、たとえばマンションの共用部分の掃除でも管理費を払って業者にやってもらうように、仕事と言えば賃労働が当たり前になっていますが、昔の共同体ではお金目的の労働以外に、たとえば道路など共用のインフラを維持するため住民全員が無償で労力を提供する「もやい」(協力・助け合い)の仕事*がありました。

 *自発的に参加するボランティアと異なり、そこで暮らす以上は参加するのが住民の義務と考えられている仕事

 

この集落で生まれ育った保見がそのことを知らなかったわけではないと思うのですが、中卒後すぐに集落を出て20数年東京圏で暮らした彼には、それは田舎の古くさく非合理な風習だと思えたのでしょうか。

 

住民たちも最初は若い人への期待もあって保見の帰郷を歓迎する気持が強かったようですが、ほどなくして疎遠な空気が保見と集落の人たちの間に漂うようになります。

 

保見は得意の大工仕事で新宅にバーカウンターを作りカラオケセットを置き、外にはネオンサインまで光らせて、そこを住民の憩いの場・交流の場にしようと誘いの声を周囲にかけたようですが、それに応えて訪れる住民は誰ひとりいなかったそうです。

 

ここにも周囲からすっかり浮き上がってしまった保見の誤算がありましたし、仕事帰りになじみの焼き鳥屋に通うのが日常だった彼の娯楽感覚と集落のそれとのズレ*がそこにもあったのでしょう。

 *先にあげた録音にある「田舎には娯楽はないんだ」とはこのズレのことでしょうし、後で述べるようにさほど他意のない「うわさ話」がいわば田舎の娯楽でした

 

保見がコミュニティーで完全に浮いた存在になってしまったのは、両親が相次いで亡くなってからです。

 

2002(平成14)年の末、まず母親のタケヨさんが亡くなり、その翌年(2003)には父親の友一さんも亡くなりました。

 

そのころから保見は、家の前にマネキンなど奇妙なオブジェを置いたり、大音量でカラオケを独り絶唱するなど、周囲から見れば「奇行」がいっそう目立つようになり、農薬の散布や飼い犬の糞の始末などをめぐって住民とのいさかいも日常的に起こります。

 

玄関先に置かれたマネキン

(2013年5月撮影)

 

ドクロのオブジェ

ANN「テレメンタリー」

 

貞森さん殺害の理由ではないかと疑われたのが、2003(平成15)年1月4日に起きた事件です。

 

2002年末に死去した母親の香典返しに貞森さん宅を訪れた保見が、誠さんと一緒に酒を飲んでいて口論になり、誠さんが包丁を持ちだし保見の胸を刺したのです。

といっても、そのまま家に帰るくらいの軽傷で、貞森誠さんは傷害罪で15万円の罰金刑となりました。

 

朝日新聞(2013年7月25日)

 

それ以降、それまで親戚同然の付き合いをしていた2人の仲は険悪になったと言われますが、事件後にその恨みからの犯行かと問われた保見は、もうとっくに済んだことだからそれは関係ないと答えたそうです。

 

【被害妄想】

両親の死後、当初考えていたリフォーム業もうまくいかなかった保見は、自宅に陶芸の窯を作り、陶芸を本格的に始めようとしたらしく、先にあげた2009年の「中(わたる)」から「光成」への改名も、その決意の表れでした*。

 *事件が起きる前に陶芸はもうやめていたようです

 

しかし、住民との疎遠な関係は深まるばかりで、そうした孤立が作り置いたカレーに毒を入れられたなど保見の被害妄想をかき立てたようです。

 

さらに、保見の神経を逆なでしたのが住民たちの「うわさ話」で、高橋ユキさんの取材によると、保見の家から県道を挟んだ向かいの家で毎週金曜日の午前中にもたれていた共同購入の「コープの寄り合い」で、居残った女性たちの間でうわさ話の花が咲いていたようです。

その常連に、事件の被害者となった山本ミヤ子さんと河村聡子さんがいました。

 

保見の家(右)の向かいにある

コープの「寄り合い」があった家(左)

(2013年5月撮影)

 

自分の悪口を言われていると思い込んだ保見は、その憤りを「うわさ話を娯楽にして喜んでいる馬鹿な田舎者」という意味の皮肉を込めた川柳にし、住民に見えるよう家の窓に貼り出しました。

 

「かつを」は、当時人気があった「相田みつを」

をもじっただけで、特に意味はないそうです

 

また保見は、2011(平成23)年の元旦、住民との人間関係で悩まされていると周南警察署に相談に行っています。

その時は、相談員に1時間ほど苦境を訴えたことで、少し気持がおさまったと言って帰りました。

 

帰郷してからの保見は、先に述べたように一時はリフォーム業を立ち上げましたがうまくいかず、その後はこれといった仕事もせずに、東京で貯めた約1千万円の貯金を取り崩す生活だったようです。

そうして、犯行時に残っていた貯金はわずか1627円、所持金が4246円とほとんどお金を使い果たしており、そうした経済的行き詰まりも彼の精神状態(被害妄想)悪化に拍車をかけたことでしょう。

 

こうして、特別なきっかけがあったのかどうかは分かりませんが、2013年7月21日の夜、保見光成は貞森さん夫妻と山本ミヤ子さんを撲殺して家に火をつけ、その後で石村文人さんと河村聡子さんを同じように撲殺したのです。

 

【裁判と判決】

山口地検は、逮捕直後には5人の殺害を自供した保見が、その後はあいまいな供述を重ねたことから、精神鑑定のための留置を地裁に申請して認められ、約3ヶ月間鑑定留置しました。

起訴前精神鑑定は、県立こころの医療センター・兼行浩史院長がおこないました。

 

朝日新聞(2013年9月18日)

 

精神鑑定の結果、刑事責任能力を問えると判断した地検は、12月27日に保見を5人に対する殺人と2人に対する非現住建造物等放火の罪で山口地裁に起訴しました。

なお、地裁での審理は裁判員裁判となりました。

 

朝日新聞(2013年12月28日)

 

公判前整理手続き*において、保見に対する再鑑定が必要だと地検と弁護側の双方が申し立てたことから、約4ヶ月にわたって2回目の精神鑑定が岡田幸之(国立精神・神経医療研究センター司法精神医学研究部長)によりおこなわれました。

 *公判開始前におこなわれる、裁判所・検察官・弁護人が、争点を明確にした上、これを判断するための証拠を厳選し、審理計画を立てることを目的とする手続。争点が複雑な刑事事件でおこなわれるほか、裁判員裁判では必ず行うことになっており、保見の事件の場合は24回の会合が重ねられました

 

2度の精神鑑定の内容は詳しくは分かりませんが、2度目の鑑定では保見に「妄想性障害」があったと鑑定され、弁護側はそれを根拠に犯行時に保見には刑事責任能力がなかったか著しく低下していたと主張しました。

 

しかし、鑑定した岡田医師は法廷で、妄想の積み重ねが動機形成に影響したことは認めながら、妄想性障害によって事件が引き起こされたとの見方は否定し、最初の兼行鑑定人もその後の言動を見ると妄想性障害と思われるとしつつ、動機は正常な心理として了解でき病的判断からの犯行ではないと証言しています。

 

朝日新聞(2015年7月8日)

 

山口地裁(大寄淳裁判長)での公判は、2015年6月25日に始まりました。

保見は取り調べでの自供をくつがえし、「私は火をつけていません。頭を叩いてもいません。私は無実だと思っています」と無罪を主張し、弁護人も「被害者の頭を殴った証拠はなく、放火についても証拠がない」とし、保見の責任能力について妄想性障害のためにやって良いことと悪いことが分からなかったとして争う姿勢を示しました。

 

朝日新聞(2015年6月25日夕刊)

 

一方検察側は冒頭陳述で、経済的に苦しい状況にあった保見が、「生活が立ち行かなくなり、自殺を決意するとともに、両親の死後、近隣住民にあらぬうわさを立てられ、挑発を受けたなどと自分勝手に思い込んで、報復してやろうと考えた」と動機を述べ、さらに当時保見には完全責任能力があったと主張したのです。

 

こうして裁判は、保見が放火と殺害をおこなったのかという事実問題と、彼に刑事責任能力がどの程度あったのかを争点に進められることになりました。

 

7月10日の論告求刑公判で検察は、先に述べた理由から保見に死刑を求刑し、弁護側は最終弁論で、妄想の影響で事件当時保見には判断能力がほとんどないに等しい状態であったし、さらに放火殺人についても決定的証拠がなく「推定無罪」と認定すべきだと主張しました。

 

朝日新聞(2015年7月11日)

 

7月28日、裁判員裁判の判決公判で大寄裁判長は、求刑通り保見に死刑を言い渡しました。

 

事実関係について裁判長は、被告の供述や鑑定結果から、被告が5人の被害者宅を訪れたこと、火災は自然発火や失火ではなく放火と認められること、犯行を認めた被告の供述調書も「一定程度信用できる」ことなどから、「常識に照らして、被告が犯人と認めるのに十分だ」として、決定的証拠がないという被告・弁護側の主張を退けました。

 

また、妄想性障害との鑑定結果を評価した上で、「妄想は報復の動機を形成する過程に影響したとは言えるが、報復をするかどうかは被告が選択したことだ」と刑事責任能力を認めました。

 

朝日新聞(2015年7月29日)

 

この判決に対して弁護側は即日控訴しましたが、広島高裁は2016年7月25日の初公判で、弁護側の無実の主張と新たな証拠の採用を却下して即日結審し、9月13日の控訴判決で多和田隆史裁判長は一審判決を支持し被告の控訴を棄却しました。

 

朝日新聞(2016年9月14日)

 

保見の弁護人は、判決の翌日(9月14日)に高裁判決を不服として最高裁に上告しました。

 

最高裁への上告にあたって弁護人は、殺害も放火もしていないという保見の主張については触れず、妄想性障害による心神耗弱状態だったので死刑の破棄を求めるという刑事責任能力についてのみ問題にしました。

保見自身は、「そもそもやっていない」との彼の主張を弁護人が上告理由にあげなかったことに対し、非情に不満だったようです。

 

元号が令和に改まった2019年7月11日、最高裁第一小法廷の山口厚裁判長は裁判官5人の一致した意見として、被告の完全責任能力を認めた上で、「強固な殺意に基づく執拗で残忍な犯行」として上告を棄却し、保見の死刑判決が確定したのです。

 

朝日新聞(2019年7月12日)

 

その後、2019年11月12日、保見は妄想性障害が犯行に影響を与えたとする精神科医の意見書など約30点を新たな証拠として提出し、山口地裁に再審の請求をしました。

 

朝日新聞(2019年11月15日)

 

しかし2021(令和3)年3月25日、同地裁は、新証拠は「確定した判決の信頼性を揺るがすものではない」として再審請求を棄却しました。

 

その後、広島高裁も再審の訴えを退けたために、保見と弁護人は最高裁に特別抗告しましたが、2025年1月29日、最高裁第二小法廷(岡村和美裁判長)は特別抗告を棄却し、再審を認めない判断が確定し、保見は現在も死刑囚として獄中にいます。

 

朝日新聞(2025年2月1日)

 

 

サムネイル

小川里菜の目

 

【『ムラ社会」の光と影】

「人口の50%以上が65歳以上の高齢者となり、社会的共同生活の維持が困難になった集落」が「限界集落」(1988年に社会学者の大野晃氏が提唱)と言われますが、この事件が起きた郷集落はまさにその限界集落でした。

 

ただでさえ人間関係が良い意味でも悪い意味でも濃密ないわゆる「ムラ社会」の特徴が、さらに濃縮された形であったのが郷集落だったのではないでしょうか。

 

都会しか知らない小川にはなかなか理解できないことなのですが、先にあげた高橋ユキさんの丁寧なルポルタージュを読むと、数少なくなった住民たちが肩寄せ合って仲良く暮らしているという面と、同時にお互いの不平不満や嫉妬や蓄積された過去の恨みつらみが「うわさ話」や時には嫌がらせという形で発散されつつ再生産されるという両面があったのだと思わされます。

 

この矛盾した両面はどちらもが「本当」であり、「建て前と本音」という割り切りでは理解できないものではないでしょうか。

 

ですから、放火・殺人という犯罪はもちろん許せないことですが、そこへと至る過程においては、保見と被害者ら住民たちのどちらが悪いと単純には言えないのが現実だと小川は思いました。

 

【「よそもの」だった保見家】

先に書きましたように、帰郷した保見が「都会」の尺度で行動しようとすれば、住民たちとの軋轢が生まれるのは当然のことでした。

なかでも「社会的共同生活の維持が困難になった限界集落」で共同生活の維持のための「もやい」の仕事を「お金にならない」として拒否したのは決定的な問題だったでしょう。

 

また、「ムラ社会」に特有の「よそもの」への警戒心や差別意識もこの事件に無縁ではなかったようです。

 

保見の父の友一は3人兄弟の末っ子でしたが、金峰地区のさらに奥の山中に暮らしていた一家が、戦前に郷集落に下りてきて住み着いたようです。

そのため保見家は田畑をもたず、また2人の兄と違って父の友一は定職につかず、手伝い仕事などをしながら暮らしていました。

 

そうした「うさんくささ」もあったのでしょう、「友一は泥棒だった」という話が住民の間で広く共有されていました。

「泥棒」といっても「窃盗」と大げさに騒ぐほどのことではなく、ズルいやり方で小銭を得ようとする類のこと*だったようです。

 *カボチャや米、洗濯して干していた服などを盗んだという「うわさ」はあったようです

 

そして、息子の保見光成も帰郷してから定職がなく、また住民からすれば集落のしきたりより自分の考え・価値観を優先する言動をとったことから、郷の出身にもかかわらず「よそもの」のように見られてしまっていたのでしょう。

 

子どものころの保見はガキ大将で、地区の子どもたちを引き連れて遊んでいたそうですが、それをよく思わない子どもも多く、次第に孤立していったそうです。

そのような回りに合わせるより自分の考えや感性を優先させる彼の性格が、先に述べた「村おこし」の提案のように、故郷で周囲との軋轢を生んだのも無理ありません。

 

【うわさ話】

この事件を理解するためのキーワードが「うわさ話」です。

 

保見は、住民の悪意あるうわさ話が自分を苦しめ追い詰めたと主張し、住民側はそれを否定して、ある人はそもそもうわさをするほど保見のことは知らないとテレビのインタビューで話しています。

 

うわさ話については、保見の被害妄想を差し引いたとしても、どちらかの言い分がまったくの事実無根ということではないでしょう。

 

テレビ番組で保見のうわさ話はしなかったと話していた女性*は非常に知的な雰囲気の方で、自分から進んで根も葉もない話をするような人とは思えず、保見がリフォーム業を始めた時にもチラシを無料で作成して協力した方です。

しかしその人の家が、ムラのうわさが集まりまた拡散される中心になっていた先述した「コープの寄り合い」の場所だったのです。

 *事件後に郷集落を離れて息子さんのところに移られ、家は空き家になっています

 

「コープの寄り合い」があった家

(2025年8月撮影)

 

うわさ話が保見が感じていたほど悪意に満ちたものであったのかどうかは分かりませんが、意図的に誰かを貶めるものというより、多くはストレス発散の「娯楽」(昔で言う「井戸端会議」)として語られていたのではなかったでしょうか。

 

ただ、保見に限らず話の中ではかなり辛辣な人物評もあった*ようですから、それが当人の耳に入ると良い気がしないのは当然です。

ましてや、保見のように妄想障害のある場合には、それを自分に対する攻撃だと受けとめても不思議はありません。

 *高橋ユキさんによると、両親を介護していた保見について母親の、息子に暴力を振るわれたとか作る食事が脂っこいものばかりで困るといった愚痴を山本ミヤ子さんが聞いて、「寄り合い」の話題に上ったことがあるそうです

 

また、当たり前のことですが、郷集落の住民が非の打ち所のない善人ばかりということもありえません。

 

酔って保見を包丁で刺したことのある貞森誠さんは酒癖の悪さで知られていたそうですし、保見が以前に買っていた犬や猫を含め集落で何匹もの動物を毒殺したのではないかと見られていた人も被害者の中にいました。

 

しかし、そうしたことも含めて狭い集落でまるで仲の良い家族のように生活を続けて行かなければならないのが現実であり、そうするのがそこに生きる人たちの生活の知恵だったのだと思います。

 

その意味で、住民の間には「仲の良さ」と「仲の悪さ」が背中合わせに共在していたのです。

 

【保見の孤立と妄想性障害】

「妄想性障害」とは、主症状である妄想(非合理的でありかつそうではない証拠を示されても頑として認めない訂正不能な思い込み)*が1ヶ月以上続くもので、妄想に影響された行動以外にそれほど奇異な行動はなく、生活機能に障害がないのが特徴です。

 *妄想にはいくつかのタイプがありますが、多いのは保見の場合のように「証拠がないのに、騙されている、嫌がらせを受けている、毒を盛られている」と思い込む被害妄想です

 

妄想といえば統合失調症を思い浮かべますが、妄想性障害では妄想以外の幻覚・幻聴や支離滅裂な言動はなく、診断において両者は明確に区別されています。

それだけ本人に病気だという自覚(病識)がないため、医師にかかる人の割合は少ないそうです。

 

なお、平均発症年齢は40歳前後だそうですので、保見が妄想性障害だったとすれば45歳で帰郷する前からすでに発症が始まっていた可能性もあります。

 

妄想性障害は、薬物や脳の疾患に起因するものではないとされますが、原因ははっきりしません。

 

ただ、中年期以降に発症する妄想性障害の特徴として、「社会の中での孤立が妄想成立の背景にあるものと考えられる」(東京都健康長寿医療センター「認知症と鑑別が必要な精神疾患」)という指摘は、この事件との関係でとても重要でしょう。

保見の被害妄想の深刻化は、まさに彼の集落での孤立化に比例して進んだと考えられるからです。

 

朝日新聞(2016年6月26日)

 

集落での保見の孤立を象徴するものが墓地の様子です。

 

 

墓石が倒されているのは「墓じまい」をしたという意味だそうですが、両親が亡くなったあと、保見は他家の墓から断絶するかのように「保見家之墓」の周りを鉄パイプの柵で囲んだそうです。

 

ここまでいくと修復はもう至難の業だったでしょうが、もし保見と住民との間で何らかの交流の回路が開けていれば、この悲劇は避けられた可能性があったのではないかと悔やまれてなりません。

そしてそれができなかったことを、どちらかだけのせいにすることはできないように思います。

 

【背景の複雑さ】

事件直後は、放火・殺人で5人も犠牲になったことが社会に大きな衝撃を与えましたが、「つけびして」の川柳やうわさ話について知られるようになると、保見に同情的な見方をする人が多くなります。

 

現場にかけつけたものの警察の規制線で郷集落に入れないマスコミが周辺の集落で取材し、いくつもの伝聞内容を報じたこともそれに拍車をかけました。

 

それらによると、保見は郷集落で「村八分」にあっていただけでなく、さまざまな嫌がらせを受け、おまけに村の雑用をただで押しつけられ、住民たちからいじめられていたというのです。

 

うわさ話や動物の毒殺やつけ火と見られるボヤ騒ぎまで実際にあったように、保見が受けたと感じていたいじめや嫌がらせのすべてが彼の妄想だったとまでは言えませんが、高橋ユキさんの取材によっても、保見が「村八分」(葬式と火事以外の付き合いを絶つこと)にされていた事実はありませんし*、「草刈り機を燃やされた」という嫌がらせについては保見本人が地裁で「草刈り機は持っていない」と否定しています。

 *根も葉もないことで誰かが悪者にされていじめられることが昔はよくあり、その背景にはこの村の貧しさがあったという古老の話を、高橋ユキさんは著書で伝えています(p.196-7)

 

また、リフォーム業を始めた時に墓の修理など雑用を頼まれて引き受けたものの、集落の人に手間賃の請求ができなかったということはあったようですが(上の6月26日付朝日新聞記事)、集落の共同作業は保見の方から拒否したことは述べた通りですし、回覧板の受け取りも彼が「いらない」と断っていました。

 

このブログでも画像などを引用させてもらった2本のドキュメンタリー番組はYouTubeで見ることができますが、番組の内容に小川は特に偏りは感じませんでした。

 

けれども、番組につけられたコメントを見ると、多くが住民に対して批判的、保見に対して同情的で、なかには被害者たちに「自業自得」「被害者づらするな」とまで書く人がいて驚きました。

 

小川が見た限りですが、そのような書き込みをしているのは都会の人というより、自分も田舎で暮らしてムラ社会の過干渉や年長者支配、適度な距離感がとれない人間関係に苦しい思いを強いられた人、田舎暮らしに憧れて移住したもののそこでの習慣に馴染めず疎外感を抱いて挫折した人が少なくないように見受けられ、この事件の背景にある問題の根深さ複雑さを思わせました。

 

番組では、過疎が進む金峰地区を何とか活性化させようと、地区の住民有志が事件の前から金峰神社がその昔、桜の名所で知られる奈良県吉野から神様が分霊されたことにちなんでソメイヨシノの苗木を植えたり、渡りをするアサギマダラが来る里を観光の目玉にしようとフジバカマを植えるなどの活動を進めており、その紹介もしていました。

 

フジバカマを吸蜜するアサギマダラ

(Wikipedia)

 

その中で、住民が周南公立大学の学生たちにフジバカマの苗を植える作業を教えているシーンがありました。

大学の実習授業なのか詳しい説明はありませんでしたが、そのシーンについてもコメントで「(保見にしたように)今も学生に無償労働をさせて反省がない」とか「学徒動員だ」といった明らかに筋違いの批判が書かれていて、とても悲しくなりました。

 

「自然がいっぱいでのどかな田舎暮らし」と都会人が美化し憧れるのも、「過疎の村など古くさい因習と共に消えてなくなればよい」と体験者が切り捨てるのも、どちらもあまりに単純な見方ではないでしょうか。

 

行きすぎた東京一極集中と地方での高齢化・過疎化の進行というこの国が抱えている問題をどうするのか、そのためには「都会か田舎か」という二項対立に話を落とし込むのではなく、それぞれがもつ豊かさと貧しさ、そこに生きる人間たちの暮らし方や考え方、価値意識、そして人間関係のあり方について総合的に見ながら、わたしたちの求める人間らしい生活とはどういうものかを考えることが必要ではないかと小川は思います。

 

その意味で、特に小川のように都会しか知らない人間はこの事件の複雑な背景や、今住民の方たちが取り組んでいる古里再活性化の取り組みについて知ることで学べることがあるのではないかと感じた小川です。

 

高橋ユキさんが受け取った独特の文字

で書かれた保見光成の手紙

(高橋前掲書、p169)

 

最後に、気になった方もおられると思いますので、ICレコーダーの別離の言葉で名前がでてきた保見光成が溺愛していた2頭の犬、オリーブ(ゴールデンレトリバー)とポパイ(雑種)の消息に触れておきましょう。

 

 

オリーブ(左)とポパイ(右)

 

保見が山中に逃げる前、彼は犬たちに餌を十分に与えてから山に放しました。

しかしオリーブは逃げずに家の前にいたところを警察に保護された後、市役所に引き渡されました。

殺処分を心配した団体がオリーブを引き取り、より条件のよい団体のところに移送している途中で、オリーブは心臓発作を起こして死にました。

死んでいることに気づかれたのは7月26日の午前9時6分で、奇しくも保見が山中で身柄を拘束された1分後のことでした。

 

一方、山から下りてきたポパイが警察に保護されたのは8月13日で、その後シラナガ動物病院の院長がポパイの保護を申し出、同病院でケアを受けて元気に過ごしていましたが、2024年4月17日に老衰のために死にました。

推定年齢は17歳でした。

 

 

もうすぐ大阪・関西万博が終わるね

小川がミャクミャクカラーのアクセサリーを作ったんだよ

 

 
 
 
小川はコレをつけて万博に行くんだって😺
ボクは連れて行ってもらえないみたいだ……
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今回も最後までお読みくださり

ありがとうございます🤗

次回もよろしくお願いいたします🩷

 

リクエスト企画

夕張保険金殺人事件

1984年

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今回はリクエストいただいていた夕張保険金殺人事件です

この事件は、夫婦で死刑が執行された日本で唯一の事例です

読売新聞(1984年8月20日)

 

【火災と犠牲者】

1984(昭和59)年5月5日午後10時40分ごろ、北海道夕張市鹿島栄町の商店街にある「日高工業*」の従業員寮で火災が発生し、木造モルタル1部3階建ての同寮(延べ350㎡)が全焼しました。

 *この時の会社名については、「日高興業」あるいは「日高商事」と書いている記事もありますが、このブログでは新聞各社が報じている「日高工業」としています

 

この火事で、同工業の男性従業員4人と住み込み寮母の子ども2人が一酸化炭素中毒で死亡したほか、消火にあたっていた夕張消防署南部支署の消防士が崩れ落ちたモルタルの下敷きになり殉職しました。

 

寮母(子どもたちの母親)はこの夜、近くのスナックの手伝いに行って寮にはおらず、また従業員の石川清(当時24歳、後に放火の実行犯と判明)が2階から飛び降りて両足と骨盤骨折の重傷を負いました。

 

燃える従業員寮

読売新聞(2006年3月11日)

 

この火事で亡くなられた方たちは以下の7人です。

 

①中村美智子さん(12歳、鹿島中学1年、寮母の長女)

②中村勝彦さん(11歳、鹿島小学校6年、寮母の長男)

③山形 実さん(51歳、日高工業従業員)

④長谷川幸春さん(49歳、同)

⑤掛村政勝さん(46歳、同)

⑥佐藤忠勝さん(57歳、同)

⑦佐藤隆三さん(52歳、消防士長)

 

焼け落ちた従業員寮

 

この日は、石川の入寮を祝う宴会がおこなわれており、従業員たちは泥酔状態で就寝したために火事に気がつくのが遅れ、煙に巻かれて逃げ出す間もなく亡くなったようです。

 

夕張警察署と夕張市消防局が現場検証したところ、宴会をしていた1階の石油ストーブ付近がもっとも激しく燃えていたことから、ジンギスカン鍋か石油ストーブの火の不始末が出火原因と見て、事件性なしと認定しました。

 

それを受けて日高工業には保険会社数社から、火災保険金2400万円、生命保険金(従業員4人分)1億1400万円の計1億3800万円*が支払われました。

 *報道によって金額が異なるので、ここでは毎日新聞(1987年3月9日夕刊)の数値をあげます

 

日高工業は、社長の日高安政(当時41歳)と妻の信子(同38歳)が経営しており、得た保険金のうち800万円が4人の作業員の遺族に、500万円が個別補償(亡くなった2人の子どもたちの補償を含む?)に当てられ、残り1億2500万円もの大金が日高夫妻の手元に入りました。

 

【明るみに出た犯罪】

火事は事件性なしと認定されましたが、北海道警捜査一課(米道貞治課長・当時)は不審な点が多々あることから、極秘に捜査を進めたそうです(読売新聞、2008年12月30日)

 

不審な点とは、作業員寮の所有者である日高安政が暴力団組長で多額の保険金を得たこと、住み込みで組の活動をしていた石川清が、火災直前の5月1日に作業員として入寮し、自分が提案して食材や酒を買い「入寮祝い」の宴会を催したこと、宴会では石川はビール缶1本しか飲まず他の従業員に酔い潰れるまで酒をすすめたこと、宴会後は寮母さん家族の部屋で普段着のまま寝たと言いながら子どもたちは亡くなったのに自分だけ助かったことなどでした。

 

日高が計画し石川が実行した放火殺人・保険金詐取事件ではないかと考えた捜査一課は、関係者への一斉事情聴取の方針を決めました。

ところがその矢先の7月18日、石川が入院していた美唄(びばい)労災病院から姿をくらましましたのです。

 

石川 清

 

ひと月後の8月15日、逃亡先の青森駅前の公衆電話から夕張署に「作業員寮火災のことで相談したいことがある」と石川から電話があったため、警察は青森署に任意同行を求めて事情聴取したところ、「火をつけたのは自分で、放火は日高夫妻の指示だった」と自供したことから、8月16日の朝に石川を逮捕するとともに、19日早朝に日高夫妻を自宅で逮捕しました。

 

日高信子      /      日高安政

 

朝日新聞(1984年8月20日)

 

石川の供述によると、宴会が終わり従業員たちが寝静まったあと、石油ストーブでヤカンを空焚きしたものの出火せず、近くにあった新聞紙にライターで火をつけたところ瞬く間に障子から天井へと火の手が広がったので、あわてて2階に駆け上がって子どもたちを起こそうとしたものの寝入りばなで起きず、煙と火が迫るなか仕方なく自分だけ2階から飛び降りて逃げたというのです。

 

放火は日高夫妻から500万円の報酬で命じられたものでしたが、実際には75万円(報道によっては100万円)しかもらえず夫妻に不信感をつのらせたのと、以前に組を抜けようと東京まで逃げた組員が連れ戻され、カンナの刃で指を4本切り落とされたことがあったので、口封じに自分は殺されるのではないかと恐ろしくなり、逃亡先から警察に自白の電話をしたのです。

 

現住建造物等放火と殺人の容疑で逮捕された日高夫妻は、当初は犯行を否認していましたが、8月23日になってようやく犯行を認める供述を始めました。

 

朝日新聞(1984年8月24日)

 

ただこの時点では、日高夫妻は火災保険金狙いについては認めましたが、従業員にかけた生命保険金も狙ったことや彼らへの殺意についての供述はあいまいなままでした。

動機については、札幌でデートクラブをつくる資金を得るためと自供しました。

 

読売新聞(1984年8月24日)

 

【犯人たち】

 

 

日高安政

日高安政は、1943(昭和18)年に北海道様似(さまに)郡様似町に7人兄弟の6男として生まれました。

 

 

夕張市に転居した6歳のころ、父親が亡くなり母子家庭になります。

小学生のころから兄たちの影響もあって非行を繰り返したため、小学6年生から15歳まで北海道紋別郡遠軽(えんがる)町の教護院(現在の児童自立支援施設)「北海道家庭学校」で過ごします。

 

社会福祉法人「北海道家庭学校」

 

その後、トラック運転手、炭鉱労働者、調理師見習いなどを経て、17歳のころから暴力団員になります。

 

1969(昭和44)年に結婚して一女をもうけ、1970年ごろ三菱鉱業が経営する三菱大夕張炭鉱の下請け会社「日高班」を設立して、炭鉱に作業員をあっせんする手配師業を始めました。

 

ちょうどそのころ、客として行った夕張のキャバレー「ダイアナ」で、ホステスをしていた信子と出会い一目惚れするのです。

 

日高信子

日高信子は、1946(昭和21)年に夕張市で炭鉱員の7人兄妹の4女として生まれました。

安政の3歳年下でその時に面識があったかはわかりませんが同じ小学校に通い、その後、道立夕張高校生のころには不良少女として有名だったそうです。

 

親としては娘の手に職をつけてやろうと思ったのでしょう、高校卒業後に上京して山野美容専門学校に入りますが、1年でやめて夕張に帰ります。

それからは美容師見習いや事務員などを経て暴力団員と結婚、一女をもうけました。

 

その夫がガンで亡くなったため、信子はキャバレー「ダイアナ」でホステスとして働き始め、1970年に日高安政と出会ったのは先に述べたとおりです。

 

信子に一目惚れした安政は、妻と離婚して彼女に求婚しますが、暴力団員ということで両親は結婚に大反対でした。

 

そこで安政は、組に20万円を支払って組を抜けたように偽装し、1972(昭和47)年に信子との再婚を果たすとほどなくして組に復帰します。

 

保険金の味をしめた夫婦

結婚した安政と信子は、1976(昭和51)年に「日高班」を「有限会社日高商事」に変更します。

そうして2人は二人三脚で事業に取り組んだのかと思いきや、安政は女性と東京に逃げ信子は従業員と駆け落ちするというどっちもどっちの身持ちの悪さで、1977年に日高商事は倒産してしまいます。

 

しかしすぐにそれぞれの相手と別れよりを戻した日高夫婦は、「有限会社鹿島工業」を設立してやり直しをはかりました。

 

そのころ安政は、暴力団「誠友会」総長と知り合って親分子分の関係になり、組の下部組織「初代誠友会日高組」を立ち上げて、サラ金業やスナック経営も手がけるようになります。

 

1978(昭和53)年、すでに暴力事件で執行猶予中だった安政が、覚せい剤取締法違反で有罪になり、懲役刑で札幌刑務所に服役します。

安政の犯罪歴は前科12犯にもなっていました。

 

信子は夫が不在の間、「鹿島工業」をたたんで新たに「日高工業」を興し、坑内作業員の手配師業などを続けます。

 

ところがこの時、1981(昭和56)年10月16日、北炭夕張新炭鉱でガス突出事故が起きます。

同炭鉱は、炭層が深部にありメタンガス突出事故の起きやすい炭鉱として知られていましたが、安い輸入石炭からさらに石油へと国のエネルギー政策が転換するなか、国内の炭鉱は次々と閉山に追い込まれ、残ったこの北炭夕張新炭鉱でも合理化の波と生産目標達成の圧力がかかり安全性が軽視されていたことが事故の背景にあったようです。

 

坑口から約3000mという深い坑道で大量のメタンガスが噴出したこの事故では、救出作業中の作業員の服の静電気から引火した火災も加わり、93人の死者(窒息死83人、焼死10人)と多数の重軽傷者がでました。

 

火災が鎮火しないために、安否不明者がまだいる中、10月23日に坑道への注水を余儀なくされたため、最後の遺体が収容されたのは翌1982(昭和57)年3月28日になってのことでした。

この事故で夕張新炭鉱自体も同年10月に閉山し、夕張で残った大きな炭鉱は三菱南大夕張炭鉱だけになりました(1985年にガス爆発事故が起き、1990年に閉山)

 

坑内から運び出される遺体(10月16日)

(朝日新聞デジタル)

 

夕張新炭鉱事故犠牲者の慰霊碑

 

この事故で、日高信子が切り盛りしていた日高工業から同炭鉱に派遣されていた作業員7人(同社の従業員の半数)も犠牲になりました。

 

この時、作業員にかけていた生命保険約1億3千万円が日高工業に支払われ、そのうち亡くなった作業員の遺族への補償分を除いた約6千万円が信子の手に入ります。

 

この当時は炭鉱で落盤などの労災事故が起きても、作業員にわずかな過失でもあれば炭鉱からの補償はまったくなされず、1〜3万円の「見舞金」が出るだけだったので、零細下請け業者の間では従業員1人200〜400万円程度の郵便簡易保険に入るのが慣習となっていたそうです。

 

朝日新聞(1984年8月25日夕刊)

 

安政が出所して社長に復帰したのは、炭鉱事故から半年後のことですが、思いがけず転がり込んだ大金に日高夫妻は味をしめたのです。

 

この事故で手にした6千万円で日高夫妻は、夕張市南部青葉町に「日高御殿」と地元で呼ばれた自宅兼事務所を新築しただけでなく、1千万円もする高級外車リンカーンコンチネンタルを購入したり、子ども*にポニー(子馬)を買い与えたり、競馬好きの安政は1レースに100万円、1日で1千万円を使うことさえあったようです。

 *日高夫婦にはそれぞれ前の配偶者との間に1人ずつ子どもがいたほか、2人の間にも1人子どもがいましたので、2人か3人の子どもを扶養していたと思われます

 

廃墟となって残る「日高御殿」

(2014年7月撮影)

 

また信子も、夕張市内に「ショップ88」という贈答品から文房具、学習机、ディズニーのキャラクターグッズを売る店を開きますが、組員に店番をさせたために客が寄りつかず、不良のたまり場になってしまったそうです。

 

このように夫婦そろっての計画性のない浪費のため、手にした保険金をたちまち使い果たした上、1200万円もの借金を背負うことになります。

 

金に困った日高夫婦は、いろいろな保険金詐取を試みたようで、会社の車でわざと急ブレーキを踏んで後続車を追突させ自賠責の保険金を得る「事故」が少なくとも3件判明しています。

従業員寮の放火についても、石川以前に何人かに打診した形跡があり、実際1981年5月には放火未遂もありました。

 

金に窮した日高安政は1985年の初めごろ、廃れていく一方の夕張に見切りをつけて札幌でデートクラブを始めるのに2千万円ほど必要だと信子に相談したところ、いくら工面しても100万円ほどしかないと言われたため、かねてから頭にはあった従業員寮への放火による保険金詐取を本気で考えるようになります。

 

このように、放火を言い出したのは安政ですが、具体的に話を進める中で死者が出ることにためらいを見せる夫に、信子の方が強い口調で夫に実行するよう尻を叩いたことから、裁判で信子は共謀共同正犯として安政と同罪と断定されました。

 

そうして日高夫婦が放火の実行犯として選んだのが住み込み組員の石川清で、出火時に夫婦は行きつけの飲食店でアリバイを作るという段取りも決めました。

 

石川清

秋田県に生まれた石川清は、中学卒業後に札幌の家具店に就職し、その後レストランやクラブで調理師見習いをしますが長続きせず、ススキノのソープランドで客引きをしていたときに知り合った暴力団員に誘われて日高安政が組長の「初代誠友会日高組」に入ります。

 

彼の実直な性格を見込んだ安政から作業員寮への放火をもちかけられた石川は、さすがにためらいましたが、安政と信子からうまくやれば500万円の報酬だけでなく、組の中でも「いい顔」にしてやると説得され、バカにされ続けたこれまでの人生をこれで変えることができると思い引き受けたそうです(深笛義也『女性死刑囚』鹿砦社、2013,p.23)

 

 

 

こうして新入りの坑内作業員を装って寮に入り、自分から入寮祝いの宴会を申し出て従業員たちを酔わせたのちに放火するという顛末は、先に述べたとおりです。

 

【裁判と死刑執行】

 

朝日新聞(1984年9月8日夕刊)

 

1984(昭和59)年9月8日、札幌地検は日高安政・信子の2人を現住建造物等放火と殺人罪で札幌地裁に起訴しました(保険金詐欺罪は追起訴)

 

夫婦とは別に起訴され(日高夫婦と同じ罪状)分離公判となった石川清に対し、札幌地裁の吉本徹也裁判長は1987年3月4日の判決公判で、「被告人は、6人の犠牲者に対し、いずれも確定的殺意を有していたことが認められる」として、求刑通り無期懲役の判決を下しました。

 

6人も殺害した実行犯でありながら死刑判決にならなかったのは、事件を主導したのは日高夫妻で、石川は子どもたちを巻き添えにしたことを悔い、自ら罪を告白して事件解決のきっかけをつくった事情が考慮されたのでしょう。

 

この判決を石川は受け入れて控訴せず、27歳で無期懲役が確定して38年が経った現在、石川は65歳になった今も服役していると思われます。

 

朝日新聞(1987年3月4日夕刊)

 

一方、日高夫婦は石川に放火を命じた事実は認めたものの、火災保険だけが目当てで従業員に対する殺意はなく、死者を出さないようにという指示を石川が守らなかったのだと主張して殺人罪について争いました(信子は、泥酔癖のある1人の従業員についてのみ未必の殺意を認めた)

 

しかし、札幌地裁の鈴木勝利裁判長は1987年3月9日の判決公判で、「犠牲者に対して確定的な殺意は認められないものの、未必的殺意が認められる」と断定し、「従業員4人のほか、こどもの日に幼い姉弟を巻き添えにするなど、犯行は冷酷非道、残虐極まりない」と、2人に死刑を言い渡しました。

 

信子も同等の罪と認めたことについては、「首謀者は安政だが、信子も犯行を持ちかけられると、制止するどころか、石川を実行行為者に選び、死者が出ることを一時的にためらう安政に、強い言葉で納得させるなど、謀議過程では最も重要な役割を果たした。また保険金をだまし取った際も主導的立場にあり、罪は安政と同等と評価される」としました。

 

読売新聞(1987年3月9日夕刊)

 

朝日新聞(1987年3月9日夕刊)

 

判決を不服とした信子と安政は、10日と11日に相次いで札幌高裁に控訴しました。

 

 

朝日新聞(1987年3月11日と12日)

 

ところが1988(昭和63)年10月11日(信子)と13日(安政)、高裁での審理が4回行われた段階で夫婦がそれぞれ控訴を突然に取り下げたため、一審で死刑判決が確定するという異例の事態となります。

 

 

ちょうどそのころ、裕仁天皇が重病でいわゆる「Xデー」(崩御の日)が近いと言われていたため、大喪の礼(天皇の葬儀)と新天皇の即位に合わせて確定囚への恩赦が行われるという噂が流れていたのです。

 

1947(昭和22)年施行の日本国憲法のもとでは、1952(昭和27)年のサンフランシスコ講和条約発効の恩赦で、小田原一家5人殺害事件(1949)の犯人・杉山優ら14人の死刑囚が無期懲役に減刑された例があり、それを期待したのだと思われます。

 

なお、同じ期待から上告を取り下げて刑を確定させた死刑囚に、クラブママらの連続殺人事件(1978)の平田光成と、元昭和石油役員一家惨殺事件(1983)の今井義人がいました。

 

しかし、凶悪事件を起こした死刑囚の恩赦による減刑には国民の理解が得られにくいことから、1951年以降に起きた事件について死刑囚が恩赦により減刑された例はありません(Wikipedia「日本において獄死もしくは恩赦された死刑囚の一覧」)

 

しかも、講和条約発効恩赦の時に法的根拠となった政令「減刑令」(1946年11月3日)において、「第五条 左に揭げる罪については、その刑を減輕しない。 二  刑法第百八条の罪(現住建造物等放火罪)及びその未遂󠄂罪」とありますので、日高夫婦の場合は恩赦による減刑がまずありえない事例だったのです。

 

そして、1989年1月7日に裕仁天皇(昭和天皇)が死去しましたが、当然のこととして日高夫妻はもちろん、上述の平田光成・今井義人両死刑囚への恩赦もありませんでした*。

 *死刑確定者だけでなく、懲役刑と禁固刑での服役者に対する恩赦もなかった

 

毎日新聞(1989年2月8日夕刊)

 

ところが、1996(平成8)年5月10日になって、日高安政が控訴審の審理再開を札幌高裁に申し立てます(信子は申し立てをせず)

安政は、「死刑判決を受け、精神的にも不安定で法律知識もない日高被告が恩赦があると誤信して控訴を取り下げたのは無効」だと主張したのです。

 

毎日新聞(1996年5月11日)

 

しかし、札幌高裁は審理再開を認めず、安政は最高裁に特別抗告しますが1997(平成9)年5月31日にそれも棄却されました。

 

そしてその2ヶ月後の1997年8月1日、日高安政・信子夫婦の死刑が札幌刑務所でそろって執行されました。

 

この日は連続射殺事件(1968)の永山則夫死刑囚の死刑も執行され、永山の死刑執行にはその必要性に疑問や批判の声が上がりましたが、日高夫妻に対してそうした声はありませんでした。

 

 

 

サムネイル
 

小川里菜の目

 

日高安政・信子の金銭欲のために、何の落ち度もない4人の従業員と2人の子どもの生命が奪われ、それに消火作業中の消防士が殉職するというこの事件では、誰しも実行犯の石川清よりも彼に指図しやらせた日高夫婦に対して憤りを覚えることでしょうショボーン

 

読売新聞(2008年12月30日)

 

もちろん本文で触れたように、保険金詐取を誘発した背景にある炭鉱の悪しき慣習、つまり労災事故が起きても炭鉱会社は極力補償をしないような仕組みがあり、零細下請け企業では従業員の給料から天引きで生命保険をかけて万一の時の補償金と企業の取り分に当てていたのは見過ごせない問題ですキョロキョロ

 

さらに、炭鉱が斜陽産業になりかつては「黒いダイヤモンド」と言われた石炭で栄えた夕張の町が希望の光を失っていったことも、人心の荒廃を招いたことでしょう。

 

炭鉱の町夕張の残照

「1980年ごろの黒ダイヤまつり」

(みんなでつくる夕張の記憶ミュージアム)

 

また、詳しいことは分かりませんが、特に安政は父親が亡くなって子だくさんの母子家庭で育ち、小学生の時から兄たちについて非行に走るという不遇な生育環境もありました。

 

しかしそうした諸事情を考慮したとしても、早くから2人共にヤクザの世界と関係をもち、地道に働いて生活を整えるという姿勢を夫婦そろって持とうとしなかったことが、このような事件を引き起こした最大の原因だと言わざるを得ません。

 

彼らの自堕落さ(身持ちにしまりがなくだらしないこと)が、新夕張炭鉱の事故で得た6千万円もの保険金を、家の新築はともかく高級外車などの無駄な浪費やギャンブルであっという間に使い果たし多額の借金まで背負って首が回らなくなり、従業員もろとも宿舎を焼いて保険金を手に入れるというとんでもない犯罪へと自らを導いてしまったのです。

 

放火事件の動機は、安政が札幌でデートクラブを経営したいということだったはずですが、手に入れた1億2500万円もの保険金がその準備に使われた形跡はなさそうで、Wikipediaでは「これらの保険金も1ヶ月ほどでほとんど使い果たしたという」と出典不明ながら書かれています。

 

このように、日高夫妻のその場しのぎの計画性のなさ、堅実さのかけらもない金銭感覚、信子の見栄と浪費癖、安政のギャンブル好きにはあきれるほかありません。

 

前回とりあげた新宿駅西口バス放火事件の犯人・丸山博文に対しては、6人の生命を奪ったその罪はもちろん重大だとしても、知的障害をかかえ被害・追跡妄想に苦しみ周囲からの侮蔑に耐えながら、事件を起こすまでは残してきた子どもへの愛惜の情と自責の念から地道に働いて貯金をし仕送りを欠かさなかった事などを考えると、傲慢な言い方かもしれませんが、人間として救われるべき余地があると思いました。

 

それに対して、この事件の首謀者である日高安政と信子に救いの余地はあるのでしょうか。

 

 

特に付き合いはなかったものの以前に日高夫妻の近所に住んでいて、獄中の信子と10年あまり文通をしたという山形静子さん(夕張働く者の歴史を記録する会)によると、信子は罪を犯したことを悔いる言葉を交えていつも便せんにびっしりとしっかりした文章を書いて来ており、「頭のいい人」という印象をもったそうです(読売新聞2006年3月11日「ほっかいどう おんな語り」)

 

また、法廷ではっきりとものも言えない安政に対して、信子は組員から「姐さん」と畏怖される存在だったように、腹のすわった態度だったと言われます。

 

その意味では、もし彼女がもう少しまともな人間と出会っていたらと思わないでもありませんが、しかしそれも自らが招いたことであり、先に見たような自堕落としか言えない生活態度を見ると、日高安政と信子については丸山博文と異なり、「愚か者」という言葉しか小川には思い浮かびません。

 

そのような愚か者たちに無惨に生命を奪われまた殉職された7人の方たち、とりわけまだ11歳と12歳で人生を断たれてしまった姉弟(美智子さんと勝彦君)の2人と、寮とスナックと掛け持ちで働きながら子どもたちを懸命に育ててきた母親の北野谷トキ子さん(当時33歳)には、どれほど無念だったろうかと思わずにはおれません…ショボーン

 

 

今回も最後までお読みくださり

ありがとうございますおねがい

次回もよろしくお願いいたします飛び出すハート

 

【リクエスト企画】

新宿駅西口バス放火事件

1980年

サムネイル

今回もリクエスト企画で、今から45年前の8月19日に起きた新宿西口バス放火事件です。

この事件では、バスの発車を車内で待っていた約30人の乗客のうち6人が死亡、14人が重軽傷を負いました。

 

1980年の夏は、8月14日に富士山で大規模落石事故、16日に静岡駅前地下街でガス爆発事故、そして19日にこの事件と立て続けに、以前ブログにした大惨事が起きています。

 

読売新聞(1980年8月20日)

 

【事件の概要】

1980(昭和55)年8月19日午後9時8分ごろ、国鉄(現在のJR)新宿駅西口バスターミナルの20番乗り場に停車していた京王帝都電鉄(現在の京王電鉄)が運行する中野車庫行きの路線バスが、午後9時10分の発車を待っていました。

 

 

2019年撮影の同じ20番のバス停

上:前方から、下:後方から


この日運行されていたバスは、前方に乗車用扉、後方に降車用扉が2つある3扉バス(前乗り後ろ降り)で、今では見かけませんが1970-80年代にはかなり多くの3扉バスが走っていたそうです。

なお事件当時、換気のために3つの扉はすべて開放されていました。

 

中野車庫に停車する京王帝都電鉄の3扉バス

(1983年撮影)

 

発車2分前とあって車内は約30人の乗客で座席はほぼ埋まり、立っている人も何人かいました。

 

その時、バス停のある道路西側の植込み(上のバス停の写真に少し見える)から、1人の中年男が左手に丸めた新聞紙、右手にバケツをもってバスの後方から回り込むようにやって来ると、新聞紙にライターで火をつけて空いていた後部扉から車内に投げ込み、そこに向けてバケツに入っていたガソリンをぶちまけたのです。

 

読売新聞(1980年8月20日、加工は小川)

 

一瞬にして車内ではガソリンが爆発的に炎上し、最後部の座席にいた3人は逃げる間もなくそのまま火だるまとなって焼死、他の乗客も衣服や身体に火が燃え移って叫び声を上げながら車外に逃げ出しましたが、さらに3人が病院で亡くなり14人が重軽傷を負って火傷の後遺症に苦しむことになります。

 

燃え上がる京王帝都電鉄バス

偶然通りかかった報道カメラマンの石井義治さんが撮影し

冒頭にあげた翌朝の読売新聞1面に掲載された写真

しかし彼は、妹の石井美津子さんがこの事件に巻き込まれ

大火傷を負っていたとは知りませんでした

 

 

猛火で焼けただれたバスと車内後部

 

【亡くなられた6人】

斎藤安夫さん(当時40歳) 車内で焼死

斎藤秀一(8歳、斎藤安夫さんの長男) 車内で焼死

 

読売新聞(1980年8月22日)

 

この日、大の巨人ファンで王選手が大好きな秀一君(小学3年生)にせがまれた子煩悩な父・斎藤安夫さんは、後楽園球場におこなわれた巨人ーヤクルトの試合を2人で観戦しての帰りにこのバスに乗り合わせたのです。

 

通夜の祭壇には、王貞治選手から秀一君に贈られたサインボールと色紙が飾られていました。

 

今井 操さん(21歳) 車内で焼死

 

読売新聞(1980年8月20日夕刊)

 

今井操さんは、13年前に夫が病死した後、母の利子さん(57歳)がビル清掃の仕事をしながら育て上げた、たった一人の愛娘でした。

 

高校を卒業して資生堂の美容部員になった操さんは、新宿駅東口の新宿三愛店で美容指導をしていました。

仕事が終わって帰りのバスに乗るときには、必ず母親に電話を入れていたそうで、この日も彼女は午後9時に「これから帰りますから」と電話をしています。

 

佐藤悦子さん(26歳) 8月23日、帝京大学医学部付属病院で死去

 

読売新聞(1980年8月23日夕刊)

 

佐藤悦子さんは、佐藤嘉一さん・幸枝さん夫妻の二女で、1974年に都内の英語専門学校を卒業し大手火災保険会社で事務職をしていました。

茶道と華道が趣味の、おとなしいがしっかりとした人だったようです。

 

この日は午後8時半まで会社で残業しての帰りで、バス後部のベンチシートに座っていて難に遭いました。

 

全身に火傷を負った佐藤さんは、帝京大学医学部附属病院の集中治療室(ICU)で手当を受けていましたが、亡くなる2日前からは心臓だけが動いている状態が続いていました。

 

同僚らに見送られる佐藤悦子さんの棺

朝日新聞(1980年8月26日)

 

近藤道夫さん(29歳) 10月16日、東京女子医大病院で死去

 

読売新聞(1980年10月17日)

 

近藤道夫さんは、この年(1980)の春に日大歯学部を卒業し国家試験に合格して歯科医師になったばかりで、この日は歯科医院での勤務を終えたあと、新宿で妻の礼子さん(旅行代理店勤務)と待ち合わせ、食事をしての帰りでした。

2人は5年前に学生結婚して、近所でも評判の仲の良い夫婦だったそうです。

 

バスの後部座席に座っていた2人はともに大きな火傷を負い、特に道夫さんは体表の67%もの火傷*で東京女子医大附属病院で治療を受けていました。

 *成人では体表面積の40%以上の火傷で生命の危険があるとされる

 

一時は容態が良くなり、順調に回復した礼子さんが夫の病室を訪ねて手のリハビリを手伝ったりしていたそうです。

ところが道夫さんは、10月9日に突然敗血症ショックを起こして心肺停止状態に陥り、16日に亡くなりました。

 

秋葉静枝さん(36歳) 10月26日、日本医大救命救急センターで死去

 

読売新聞(1980年10月27日)

 

秋葉静枝さんはシングルマザーで、6年前に離婚してから3人の息子と78歳の母親の一家5人の生活を1人で支えるために、会社の経理の仕事のほか週に3、4回は午前1時ごろまで飲食店のレジのアルバイトをして懸命に働いていました。

 

この日は、会社を午後6時過ぎに出て、長男・武雄君(16歳、定時制高校1年)と新宿駅で待ち合わせて革靴を買った後、彼と別れて二男・正保君(14歳、中学3年)と会い駅前でお茶を飲みましたが、正保君は京王線で、静枝さんは交通費を節約したのでしょう通勤で使っている京王帝都バスで別々に渋谷区内の自宅に帰るところでした。

 

静枝さんは、全身の83、5%もの火傷を負った上に、炎を吸い込んだことによる気道熱傷で、当初から危篤状態が続いていました。

 

一時は奇跡的に意識が回復して子どもたちと話もできましたが、9月20日ごろから敗血症と肺炎を併発して、ついに10月26日午前11時に息を引き取りました。

 

なお、秋葉静枝さんは買い物に立ち寄っていたことから、通常は労災と認定されないケースでしたが、飯田橋労働基準監督署は、「母子家庭の秋葉さんの通勤においては、買い物はやむを得ぬ寄り道」だとして労災を認め、遺族年金と葬祭給付が遺族に支払われることになりました。

 

朝日新聞(1981年2月17日夕刊)

 

【負傷した方たち】

この他、生命は助かったものの重い火傷の後遺症に苦しまれた方など、次の14人が重軽傷を負いました(東京地裁判決文別表と朝日・読売の報道を参照)

 

⑴横尾智恵子さん(当時21歳) 加療6ヶ月を要する熱傷*

 *「火傷(やけど)」の医学用語

⑵石井(杉原)美津子さん(同36歳) 加療6ヶ月を要する熱傷

⑶長田兆生さん(同33歳) 加療3ヶ月を要する熱傷

⑷大柴貞雄さん(同55歳) 加療3ヶ月を要する骨折と熱傷

⑸近藤礼子さん(同33歳) 加療3ヶ月を要する熱傷

⑹北村輝代さん(同22歳) 加療5週間を要する熱傷

⑺三橋 好さん(同66歳) 加療4週間を要する熱傷

⑻伊藤元輝さん(同21歳) 加療3週間を要する熱傷

⑼斉藤きよさん(同26歳) 加療3週間を要する熱傷と打撲擦過傷

⑽古木武雄さん(同34歳) 加療2週間を要する熱傷

⑾松下武夫さん(同68歳) 加療2週間を要する打撲と熱傷

⑿松下ともよさん(同34歳) 加療2週間を要する熱傷

⒀大柴美智子さん(同44歳) 加療1週間を要する打撲

⒁舟木 優さん(同31歳、バス運転手) 加療1週間を要する熱傷

 

燃え上がるバスと放心状態で座り込む火傷を負った女性

読売新聞(1980年8月20日、石井義治さん撮影)

 

【逮捕された犯人

 

 

この重大事件を起こしたのは、住所不定の建設作業員・丸山博文(ひろぶみ、当時38歳)です。

丸山はバスに放火した後、来た時と逆に道路を西に渡って逃げようとしましたが、地下街入り口付近で通行人が取り押さえ、駆けつけた新宿署員により放火殺人の現行犯として逮捕されました。

 

読売新聞(1980年8月20日)

 

当初事件への関与を否定していた丸山は、8月21日になってようやく容疑を認めました。

 

読売新聞(1980年8月22日夕刊)

 

【丸山博文とは】

丸山博文は、1942(昭和17)年6月14日、福岡県小倉市(現在の北九州市小倉南区)朽網(くさみ)に1女4男の末っ子として生まれました。

長女は5歳で早逝しており、実質的には男ばかり4人兄弟の末弟です。

 

父親は陸軍小倉造兵廠の工員でしたが、敗戦により失業したため、一家の暮らしは母親が小作農をして支えました。

 

ところがその母親が、1945(昭和20)年9月17日の枕崎台風で倒壊した家屋の下敷きになり亡くなります。

博文が3歳の時のことで、当時36歳だった母親は身重だったために逃げ遅れたと言われています。

長女に加えて妻も亡くした父親は酒びたりになり、博文(以下、丸山と表記)が7歳の時に再婚しますが1年で離婚します。

 

1949(昭和24)年4月に小倉市立(現在は北九州市立)朽網小学校に入学した丸山は、4年生からは学校に行かずに家の農業の手伝いなどをするようになります。

地元の曾根中学校にも入学はしましたが一度も登校せず、大人になっても小学校卒業程度の識字能力さえなかったそうです。

 

また、事件後の精神鑑定で丸山には軽度の知的障害(当時の言い方では「精神薄弱軽愚級」知能年齢7〜10歳)があると判定されています。

 

読売新聞(1980年8月29日)

 

16-17歳になったころ丸山は、山口県岩国市近郊で土建業を営んでいた次兄を頼って郷里を離れ、とび職の手伝いをして暮らします。

1961(昭和36)年11月にアルコール依存の父親が脳卒中で亡くなった時も、弔いに帰ることはなかったそうです。

 

1971(昭和46)年5月ごろ、29歳の丸山がバーのホステスをしていた26歳の女性と知り合って親しくなり、岩国市内のアパートで同棲生活を始めたころから、人生は暗転を始めます。

 

妊娠が分かったからでしょう、1972(昭和47)年1月17日に婚姻届を出した2人に、3月26日長男が誕生します。

 

ところが、この妻となった女性は統合失調症を患っていたようで、異常な飲酒癖があり*、乳飲み子の世話もせず酒を飲み歩き、男性関係もあったようです。

 *統合失調症の症状を抑えようと飲酒をすることで、アルコール依存になったりさらに症状を悪化させることがある

 

丸山は、仕事から帰ると赤ん坊にミルクを飲ませ懸命に世話をしますが、そんな夫に妻は暴力を振るっては暴れる始末でした。

 

1973(昭和48)年1月20日に2人は協議離婚し、1年足らずの結婚生活に終止符を打ちます。

 

このような状態にもかかわらず、「子育ては母親の役割」という当時の固定観念からなのか、子どもの親権者には母親がなりました。

しかし、当然ながらこの母親に子育てはできないことから、丸山は同居のまま子どもの面倒を見ようとしました。

 

けれども同年2月15日、精神疾患の症状がひどくなった元妻は、岩国新生病院(現在の「いしい記念病院」)で統合失調症(当時の言い方では「精神分裂病」)の診断を受け入院しました。

 

働きに出ることができなくなった丸山は、仕方なく長男を下関の養護施設に預けることにしました。

 

このように、妻の入院も子どもの施設入所も、丸山には直接責任のないことだったにもかかわらず彼は自分のせいだと自責の念を持ち続け、特に子どもに対しては強く責任を感じて、事件の4ヶ月前まで、施設に誓約した額(月五千円)以上のお金を毎月欠かさず児童相談所を通じて送り続け、さらに1977(昭和52)年のクリスマスには靴とジャンパーを、修学が近づいた1978(昭和53)年にはランドセルと学用品を息子にあてて贈っています。

さらに彼は、子どもの名義で69万7千円の貯金もしていました。

 

丸山は、息子を引き取りたいと施設に2度ほど要望しましたが、子どもが15歳になるまで待つように言われ、さらに飲酒などを注意されたことから福祉職員に逆らうようなことを言ったのではないかと怖れ、彼らから執拗に責められ追いかけられているとの妄想(被害妄想と追跡妄想)を抱くようになり、職場や居住場所を転々とするようになります*。

 *まじめに働いていた職場を、妄想に駆られて賃金も受け取らず突然飛び出したことが再三あったそうです(地裁判決文)

 

【バス放火へ】

元妻が入院し子どもを施設に預けてからも丸山はしばらく岩国市内のアパートに住んでいましたが、1973年10月15日、酒を飲んでアパート2階の若い女性の部屋に侵入して暴れ、岩国警察署に保護されます。

警察は、丸山が何者かに怯えている様子なので精神障害を疑って、すぐ上の兄の同意を得て元妻と同じ岩国新生病院に統合失調症*の病名で入院治療を受けました。

 *事件後の精神鑑定では、統合失調症の罹患は否定されています

 

1974(昭和49)年2月20日、同病院を退院した丸山は、翌年(1975)に岩国を離れ、岐阜から静岡、神奈川、東京など各地を転々としながら飯場や簡易宿泊所に泊まって建設作業員として生活します。

その間に、子どもが入所している施設への送金を欠かさず、子ども名義の貯金もしていたのは先に述べたとおりです。

 

1980(昭和55)年7月5日、丸山は東京都世田谷区にある有限会社黒田工務店の住み込み作業員になります。

ところが工務店が8月13日からお盆休みに入るため雇用期間はいったん終了とのことで、彼は7万2千円余りの賃金を受け取り店を退出しました。

 

仕事の腕が良いというわけではないもののまじめに働く丸山に対し、工務店側からはお盆休みが明けたらまた働きに戻っておいでという話もあったようです。

 

8月13日は新宿区内の簡易宿泊所に一泊した丸山ですが、先に述べた「福祉関係者に追跡されている」という妄想から連泊を避け、14日の夜、国鉄(現JR)新宿駅近くで通行人に付近に旅館がないか聞いたところ「高い旅館なら知っている」と馬鹿にしたように言われ浮浪者扱いされたため、この夜から野宿生活をするようになります*。

 *先に述べた子ども名義の貯金以外に、丸山は自分名義で20数万円の貯金がありましたから、野宿はお金がなかったからではありません

 

8月15日、お盆休みをそれぞれに過ごす人たちでひときわ賑わう新宿の街で、元妻と子どもへの自責の念にかられ、福祉関係者に責められ追われる妄想に脅かされながら、ただひとり薄汚れた姿で野宿するわが身への嘆きとも恨みともつかない気持ちだったのでしょうか、京王百貨店入り口脇の地下街への階段に座り酒を飲んで大きな声を揚げていた丸山は、百貨店関係者らしい人に注意されて追い出され、近くの路上でも大声をあげて通行人から「うるさいぞ!」と注意されたようです。

 

それから彼は、多摩川競艇場に出かけて1万円ほど負け、不快な気分のまま新宿駅に戻って酒を飲みながら付近をぶらつきます。

そのうちこの日の朝の出来事が思い出され、さらにむしゃくしゃした気持ちになった丸山は、午後10時すぎに新宿4丁目のガソリンスタンドでガソリン10リットルをポリエチレン容器に入れてもらい購入*しました。

 *現在は消防法により、身分証明書を提示し専用の金属製携行缶を使わないとガソリンを購入できませんが、当時は工事現場で車両に給油するなどの必要からポリエチレン容器に入れての販売がなされていたようです

 

この時点ではバスへの放火など具体的なことまでは考えていなかったようですが、どこかにガソリンで火をつけ、自分をバカにする世間の人たちを驚かせて憂さを晴らしたいという気持ちがあったと思われます*。

 *丸山は二転三転する供述の中で、憂さ晴らし目的以外に、ガソリンの購入はお盆休み明けに復職する工務店への手土産だったとも言ったようですが、裁判官によって不自然だと退けられています

 

購入したガソリンを丸山は、新宿駅西口バスターミナル西側の中央分離帯の植込みの中に隠します。

 

15日朝の出来事以来、被害妄想による過敏な反応と思われるのですが、丸山にとって不快な出来事が相次いで起こります。

 

8月16日、彼は再び多摩川競艇場に行きまた1万円ほど負けます。

17日は新宿駅周辺をぶらつき、ガソリンの入ったポリ容器を手にして地下街を歩いたりしましたが、この日はそれを使うことなく植込みに戻します。

 

8月18日の朝、丸山は気分転換をしようと東京都八王子市の高尾山方面に遊びに出かけ、高尾山口駅付近をぶらつきます。

 

その夜は付近で野宿し、8月19日の朝、高尾駅に行ったときに通りかかった中年女性から腹の立つことを言われたと思い込みます。

 

さらに、同駅近くの禁漁の立て札のある川で、故郷で好きだった釣りをしていた丸山は、地元の人から注意をされ、不快な気分は消えるどころか増幅しました。

 

19日午後7時ごろに新宿駅に戻った丸山は、駅の売店で清酒1合(180ml)入りのアルミ缶2本を買って1本を飲みながら、衣類などが入った手提げ袋を預けていた新宿西口地下街のコインロッカーに行きます。

 

ところが、使用期限の3日が過ぎていたため鍵が取り替えられすでに他人が使っていて開けることができず、管理人を探しますが見つからないままロッカーに戻ると、荷物が取り出されて開いていたものの自分の荷物は当然ながらそこにはありません。

 

「またも馬鹿にされたものと腹を立て」(地裁判決文)、ガソリンを隠していた植込みに入って残りの酒を飲みながら目の前のバス停から発着するバスを見ているうち、工務店を出たあとに起きた一連の不快な出来事が次々と頭をよぎった丸山は、「世間が自分を馬鹿にしているなどとの憤まんの情が一気に昂じ(…)、このうっぷんを晴らそうと決意」(同)したのです。

 

丸山が抱き続けてきた強い自罰感情が他罰感情へと反転したのでしょう。

 

ガソリンを撒くのに適当な容器を探しに駅西口付近を歩き回った丸山は、ゲームセンター横にあったブリキ製バケツを見つけて植込みに持ち帰ります。

そして彼は、ポリ容器からガソリン約3.8リットルをバケツに移し替え、付近に落ちていた新聞紙を丸め持っていたライターで火をつけ道路を横断してバス停に向かいました。

 

20番バス停に停まっていたバスに後ろから回り込んで近づいた丸山は、午後9時8分ごろ、「馬鹿野郎、なめやがって!」と怒声をあげながら火のついた新聞紙を開いていた後部降車扉から投げ入れ、バケツのガソリンをそれに振りまくように投げかけて爆発的に炎上させたのです。

 

 

丸山が用いたバケツとポリ容器

読売新聞(1980年8月21日)

 

【裁判と判決】

 

読売新聞(1980年8月21日夕刊)

 

先述のように丸山は、8月21日になって自供を始めますが、それに先だって同日午前、警視庁捜査一課と新宿署は丸山を建造物等以外放火罪*と殺人罪で東京地検に送検しました。

 *「死刑、無期懲役、または5年以上の懲役」という重罪の現住建造物等放火罪には「バス」が含まれていないため、より罪の軽い(1年以上10年以下の懲役)建造物等以外放火罪での送検を余儀なくされた

 

東京地検は丸山の精神鑑定のための留置を裁判所に請求し認められたのでの逸見(へんみ)武光東大医学部教授(精神衛生学)に鑑定を依頼しました。

 

1980年10月27日付の鑑定書(「逸見第1次鑑定」)では、丸山は被害妄想や強迫観念に似た抑うつ症状はあるが心神耗弱状態とまでは言えず責任能力が問えるとのことで、地検は丸山を東京地裁に起訴しました。

 

朝日新聞(1980年8月30日)

 

1981(昭和56)年1月16日に開かれた東京地裁の初公判で丸山は、「酒を飲んでいて、頭がカッカしていて、わからない」と明確な罪状認否をせず、弁護人も全面的に争う姿勢を示しました。

 

朝日新聞(1981年1月17日)

 

その後、9月14日の第14回公判で弁護団は、丸山がバスに放火したという事実については認めながら、当時被告は心神喪失状態で無罪と主張します。

 

朝日新聞(1981年9月15日)

 

東京地裁は、逸見武光教授からの「再度鑑定をしたい」との意見もあり、逸見教授と福島章上智大学教授(犯罪精神医学)に精神鑑定を依頼し、逸見教授からは1982(昭和52)年12月23日に(「逸見第2次鑑定」)、福島教授からは同年11月4日に(「福島鑑定」)鑑定書が出されました。

また、桜ヶ丘保養院副院長・徳井達司医師(精神科医)から1980(昭和55)年9月2日に「精神衛生診断書」、1983(昭和58)年5月9日に「意見書」(合わせて「徳井鑑定」)が出されています。

 

丸山が統合失調症に罹患していたかについては、逸見・福島・徳井の3人ともそれによる人格変化等の症状は見い出せないとして否定しながら、福島鑑定人は被告の知能指数は69で先に触れたように軽度の知的障害と鑑定しています。

 

こうして逸見・福島両鑑定人は、精神的未成熟と繊細で感受性の強い性格から、離婚した妻や施設に預けた長男への罪責感と負い目、自身の精神科病院入院歴への恥辱感、息子の引き取りについて福祉関係者に逆らったという後悔から、丸山が被害妄想、追跡妄想を抱くようになり(精神の障害)、加えて犯行時には飲酒による酩酊(逸見鑑定人は「複雑酩酊*」、福島鑑定人は「単純酩酊」)の影響で心神耗弱の状態にあったとしました。

 *感情の起伏が激しくなり人格が変わったように興奮したり暴力的な言動をとる状態の酩酊。飲酒時のことを覚えていない場合(部分的健忘)もある

 

しかし検察側は、そうした鑑定結果に疑問を呈した徳井医師の意見書などを引きながら、1983年12月19日の論告求刑公判で丸山に死刑を求刑しました。

 

朝日新聞(1983年12月19日夕刊)

 

1984(昭和59)年2月6日の最終弁論公判で異例の出来事が起こります。

 

朝日新聞(1984年2月7日)

 

心神喪失で無罪を主張する丸山の弁護人が、弁論の核心である被告の迫害妄想について論じ始めたところ、被告人席でそれを聞いていた丸山が背後の弁護人席をふりかえって「やめてくれ……」と言い、正面を向いて「自分がだらしないから……」と上体を小刻みに揺らしながらつぶやいたそうです。

 

その様子を見た神田忠治裁判長が30分の休憩を指示し、その間に弁護団が丸山を説得しましたが、「福祉」が被告を追い詰め嫌がらせを続けたという彼の「内面の事実」を強調する箇所の朗読を丸山が拒否したため、再開後に弁護人はその部分を飛ばして弁論を終えたのです。

 

拒否の理由として、丸山には無罪の主張より被害者にわびたいという気持ちと、「福祉」には元妻と息子が面倒を見てもらい世話になっているのにその悪口は言えないという思いがあったようです。

 

後で詳しく触れますが、被害者の1人で重傷を負った杉原(旧姓・石井)美津子さんが丸山に手紙を出し、彼からは1981年12月12日付消印のはがきで次のような返信がありました。

 

おてがみありがとうございました。55年8月19日はほんとにすまないことおしました。じぶんは、こうかいしてます

バスにおきゃくさんが のっているとは おもわなかったし めが はっきりみえなくて ほんとに すまないことおしました おおぜいなくなり おわびのしよが ございません

ほんとにすまない   丸山

(原文のママ、杉原美津子『生きてみたいもう一度』)

 

1984(昭和59)年4月24日に開かれた判決公判で東京地裁の神田忠治裁判長は、被告の丸山博文が犯行時に心神耗弱だったと認め、無期懲役の判決を下しました。

 

 

 

朝日新聞(1984年4月24日夕刊)

 

神田裁判長は判決文で、争点となる①ガソリン購入の目的、②犯行の動機、③殺意の有無、④責任能力の4点について検察と弁護人双方の主張を検討したうえで、概略次のように結論しています。

 

①ガソリン購入の目的は、工務店への手土産という主張(弁護側)も、乗り合いバスへの放火にあったという認定(検察側)も無理があり、購入時点ではどこかに火を付けてやろうと考えていたにとどまるものと認めるべきである。

②犯行の動機は、「福祉」に対する激怒ではなく、世間に対する憤まんの情を癒やそうとしたことにあると考えられる。

③殺意は、バスに多数の乗客が存在することを認識していたと認められ、乗客の焼死を予見しながら、あえて放火行為に及んだもので、殺意があったと認められる。

④責任能力については、犯行時の諸行動を見る限り心神喪失は否定すべきだが、被害・追跡妄想という病的体験から情動興奮が酒の酔いも手伝って一気に昂じ、精神的成熟に劣る被告に強い影響を与えて、是非善悪を弁識しそれに従って行為する能力が著しく低下していたと認められる。

 

以上のことから判決文は、被告人の不遇な生育歴や家庭環境、追跡・迫害妄想から各地を転々とした不安定な生活状況、長男の養育費を長年にわたり律儀に送り続けるなどのまじめさ、道路交通法違反以外の前科前歴もなく、「本件犯行を真摯に反省し、被害者や遺族に対して心から謝罪の意を表していること等の諸情状を十分しん酌しても、被告人の刑責は余りにも重大であって、法律上の必要的減軽事由がなければ、極刑をもって処断すべきところ(…)被告人は、本件犯行当時、心神耗弱の状態にあったので、(…)被告人を無期懲役に処することとした次第である」と締めくくられています。

 

判決後、刑務官に促されて退廷しながら、丸山は二度「おわびさしてください」と叫んだそうです。

 

地裁判決を不服として検察が5月4日に控訴し、それに対して弁護側も控訴したことから、東京高裁で第二審が行われましたが、1986(昭和61)年8月26日の控訴審判決公判で山本茂裁判長は、検察・弁護双方の控訴を棄却して地裁の判決どおり無期懲役を言い渡しました。

 

この時も丸山は、傍聴席に向かって「ごめんなさい」と床に手をつき2度土下座をしています。

 

朝日新聞(1986年8月27日)

 

丸山の判決はこれで確定し、彼は千葉刑務所に収監され服役しました。

 

【獄中自殺という結末】

 

朝日新聞(1998年4月16日)

 

ところが、服役して11年になる1997(平成9)年10月7日、丸山は昼食後に作業場に忘れ物をしたと言って取りに行き、天井の配管にビニールひもをかけて首を吊って自殺していたことが、半年たって公表されました。

55歳でした。

 

朝日新聞(1998年4月16日夕刊)

 

遺書はなく自殺の予兆もなかったと言われますが、裁判で彼の弁護を担当した安田好弘弁護士によると、丸山は自分の子どもと同い年の子を殺してしまったことを悔い、「自分は生きていちゃいかんのだ」と自分を責め続けていたようです。

 

サムネイル
 

小川里菜の目

 

何の落ち度もないまだ8歳の子どもを含む3人が生きながら焼き殺され、さらに3人の死者と14人の重軽傷者を出したこのバス放火事件には、あまりの悲惨さに言葉を失います。

 

そしてそのような残虐非道な事件を起こした丸山博文の罪は、まさに「万死に値する」(何度死んでも償いきれないほど罪深い)ものとしか言いようがありません。

 

けれども、精神鑑定をした逸見教授は「事件の悲惨さと丸山という人間の哀しさの間で、深刻なジレンマを感じる」と述べたそうですが、事件に至る彼の半生を知ると、丸山を指さし「おまえひとりが悪い」と突き放して断罪し済ませることができない気持ちに小川もなります。

 

もちろん、被害者・遺族にすれば、丸山がどんな生い立ちや境遇であろうと関係なく、取り返しのつかない喪失・苦痛を一方的に被ったという事実こそすべてであることは当然の気持ちでしょう。

 

そのことを承知の上で、直接の当事者ではない第三者として、またこのような悲劇が二度と起きないようにとの思いでこの事件を見る小川には、丸山個人が引き起こしたという面だけでなく、わたしたち人間が共通してもつ弱さやわたしたちの社会が抱える問題も与って起きたという側面からもこの事件を捉えることが必要だと思われるのです。

 

この事件では、直接の被害者であると同時にそれを超えた視点をも合わせ持ち、その複雑な思いの軌跡を語った当事者がいます。

 

先に名前をあげた杉原美津子(事件当時は旧姓の石井)さんです。

 

 

編集プロダクションに勤めていた杉原さんは、体表面積の80%もの熱傷で重体となりましたがなんとか一命を取り留め、退院後に手記『生きてみたい、もう一度』(文藝春秋、1983、以下「手記」)を出版しました。

 

出版時の杉原さん

 

「手記」の冒頭に、1981年12月11日付で丸山に送った次のような手紙が載せられています。

 

私は一度だって、あなたのことをうらんだりにくんだりしてきませんでした。
あなたをさばく気持も全くありません。
あなたをうらんだりにくんだり、さばいたりすることは、大ぜいの人にできることです。
私にできること、したいことは、こうしてあなたに手紙を書くことだけです。
どうか、もう一度、生きてみてください。あなたにとって、いちばんたいせつなものを見つけて、勇気をだして生きてみてください。今からだって、決して、おそくはありません。やりなおしはできます。
あなたは私の苦しさを、全部は、わからないでしょう。
おなじように、私にも、あなたのつらさ、さびしさが、全部は、わかりません。
つらいことは、誰にもかわってもらえません。たった一人でがまんしていくしかないのです。強くなってください。
私もがまんして、もう一度、生きてみます。どうか、あなたもがまんして、勇気をだして、生きてください。
あなたも私も強くなるのです。生きるのです。

(一部抜粋)

 

この手紙を出した翌々日(13日)、杉原さんは丸山に面会しようと東京拘置所に行きましたが、本人が会いたくないとのことで「私は拒絶された」という苦い思いを胸に帰りました。

しかしその後、12日の消印の丸山からの返信はがきを受け取ったことは先に書いたとおりです。

 

事件に遭遇したとき、杉原さんはいわゆる不倫関係に悩んで死にたいとさえ思っており、一命を取り留めた後も生きる気力・勇気が持てず、丸山を憎めればそれが生への火種になるのではと思ったりしたそうです。

 

しかし、裁判の起訴状などで丸山の半生を知った杉原さんは、次のように自問します。

 

一人の人間の犯すまちがいは、たった一人で為し得るものだろうか。丸山博文、あなたの犯した放火殺人、殺人未遂というまちがい、そして、全身熱傷80%という結果を招いた私自身のまちがい。どちらも、社会の敗北者の無惨な結末だったのではなかったか。

ならば、我々敗北者は、社会の何に敗北したのか。異常な犯罪を生み出す社会の土壌、その社会を構成する我々すべての人間たちに、果たして、〝異常〟は存在してはいなかったろうか。

丸山博文という一人の人間が犯罪者になっていった背景には、どのような事実が存在したのか。

(「手記」p.118、太字は原文では傍点)

 

杉原さんは、自分自身と重ね合わせながら、丸山の中に肥大した「殺意」について考え、次のように述べています。

 

丸山博文の挫折は、異常な、特殊なものだったのだろうか。

ひとたび事件が起きれば、犯罪者を異常人と規定し、犯罪の行為を狂気のしわざだと解釈する。我々の常識ある世界のこととは違うのだと分別する。

〝自分は、第二第三の丸山博文にならない〟と、誰に言えるのだろうか。

孤独につき落とされたとき、人間としての値打ちや誇りをずたずたに切り裂かれたとき、条件さえ整っていれば狂気に走る可能性は、誰もがもっているのではないだろうか。追い詰められた者の最後にとる方法として、自分をそういう状況にひきずりこんだを抹殺するか、あるいはそういう状況に堕ちていかざるを得なかった自分を抹殺するか、その狂気の瞬間に、凶器が手元にあれば、一線を越えてしまうのではないだろうか。その瞬間にブレーキの力となり得るものは、誰かとのつながりだろう。他の人間との、確かに愛情、信頼と感じられる絆があれば、自身の狂気をくいとめることもできよう。

(中略)

丸山博文が狂気へ走ることが〝できた〟のは、彼には誰もいなかったから、だったのではないか。

丸山博文一人が異常であり、特殊であったのではなかろう。我々の人間の弱さの中には、常に丸山博文と同じ因子が存在してはいないだろうか。

(「手記」pp.137-138)

 

凶悪事件の被害者・遺族の心にはただ悲しみと加害者への憎しみしかないと単純に決めつけがちな中で、また自分は善人だという高みから犯人を糾弾するだけで済ます人が少なくない中で、被害当事者である杉原さんがこのように自らと丸山に向き合い考えを深められていることに、小川は驚きと共に彼女の知性を感じました。

 

最後に、丸山の自殺について杉原さんが次のように書いていることを紹介します。

 

Mさんの自死は、私に、ある後ろめたさを残した。それは、私も人々と同じように、Mさんに「まちがい」の原因のすべてを負わせてしまった一人ではなかったかという、「加害意識」だった。だがこの時、同時に、自死したMさんに激しい怒りがこみあげたのはなぜだったのだろう。

(『炎を越えて』pp.82-83)

 

その怒りはおそらく、彼の死に際して「生きていてこそ償えるのに……」と語ったそのことだったでしょう。

丸山にしてみれば、自殺は自らに処した死刑だったのかもしれませんが、杉原さんにすれば、生きて罪を償うことから逃げたということに他ならなかったと思います。

 

内容に触れることができたのはほんの一部ですので、興味を持たれた方はぜひ「手記」と『炎を越えてー新宿西口バス放火事件後34年の軌跡』(文藝春秋、2014)をお読みください。

 

なお、杉原美津子さんは熱傷治療での非加熱製剤の輸血でC型肝炎になり、2009年には肝臓ガンの告知を受けて、2014年12月7日、70歳で逝去されました。

 

最後までお読みいただき、ありがとうございます

【リクエスト企画】

斎藤勇東大名誉教授

惨殺事件

1982年

サムネイル

今回は、リクエスト企画で「齋藤勇東大名誉教授惨殺事件」です😺

 

読者のみなさまからはこれまでに、たくさんのリクエストをいただいております。

資料の入手などで順番は前後いたしますが、リクエストには順次お応えしていこうと思っておりますので、よろしくお願いします🙏

 

読売新聞(1982年7月5日)

 

【事件の概要】

1982(昭和57)年7月4日午後1時20分ごろ、東京都新宿区南榎町の齋藤眞さん(東大名誉教授、基督教国際大学教授、政治学者、当時61歳)宅で、同居している眞さんの父・斎藤勇(たけし)さん*(東大名誉教授、英文学者、95歳)が孫の無職・齋藤透(27歳、眞さんの長男、以下「T」と表記に惨殺される事件が起こりました。

 *1887(明治20)年に福島県伊達郡富野村(現在の伊達市梁川町)に生まれ、東京大学英文科卒業。東大教授、東京女子大学学長、国際基督教大学教授を歴任。英文学、特に英詩の権威で学士院会員、1975年に文化功労者に選ばれる

 

齋藤 勇さん

 

勇さんは、頭部、特に顔を激しく金属製の置き時計で殴られたうえに、柳刃包丁を眉間に9㎝も突き立てられたため、外傷性くも膜下出血で亡くなりました。

遺体には、頭に15カ所、額に8カ所、顔に17カ所と、40カ所にも及ぶ傷があったそうです。

 

齋藤宅は、閑静な住宅街にある敷地面積1300㎡の邸宅で、勇さんが殺害されたのは1階の書斎でした。

 

矢印が1階の書斎

朝日新聞(1982年7月5日)

 

毎日新聞(1982年7月5日)

 

その日、眞さんは名古屋大学での集中講義のため不在で、家には勇さんの他、眞さんの妻(Tの母)の和子さん(55歳)と娘(Tの妹、高校2年生、16歳)、そして家政婦(62歳)がおり、3人も台所などで殴られています。

 

また、母親が助けを求めて近所に駆け込み110番通報して警視庁第二機動捜査隊赤羽分駐署主任・根岸省二警部補(54歳)や牛込署員が駆けつけ、家政婦部屋(上の図ではお手伝い部屋)の押し入れに隠れていたTを見つけ取り押さえましたが、その際に根岸警部補が顔面をチーズナイフで刺されたために重傷、7月14日に入院先の警察病院で亡くなりました*。

 *殉職した根岸省二警部補には妻と2人の娘さんがおり、死後、警視に2階級特進しました

 

チーズナイフ(例)

 

読売新聞(1982年7月15日)

 

Tはかねてから統合失調症(当時の言い方では精神分裂病)と診断されて治療を受けていました。

和子さんらの話によると、夫と共に名古屋に行っていた和子さんに家政婦から、7月3日から透が食事をまったくとらなくなって様子もおかしいと連絡があったため、和子さんが一人先に帰宅したそうです。

 

台所の椅子に上半身裸で座り身体を硬直させて小刻みに震えているTの異様な姿に和子さんは、すぐに彼が入院したことのある千葉県旭市の精神科病院・海上寮療養所の主治医に電話で相談したところ、刺激をせず様子を見るようにとの助言を得ます。

 

(社会福祉法人「ロザリオの聖母会」海上寮療養所)

 

そうしているうちに、Tの硬直状態が解けて平静になったため、和子さんは12時半ごろ再度病院に電話をして様子を伝え、夫(眞さん)が帰宅したら改めて相談したい旨を伝えました。

 

ところが、その後まもなくしてTが興奮状態になり、英語で*意味不明なことをわめき出します。

 *後述するように、透は家でも常に英語しか話しませんでした

 

母親を数回殴ったTは、祖父・勇さんの書斎に侵入して本や新聞を投げつけ金属製の置き時計で激しく殴り、さらに台所から柳刃包丁とチーズナイフを持ち出して、刃渡り約20㎝の柳刃包丁で勇さんの眉間を刺し殺害したのです。

 

Tは、止めようとした家政婦や家に帰ってきた妹にも殴りかかって家政婦部屋に隠れ、駆けつけた警察官に取り押さえられたのは先に書いたとおりです。

なお、母の和子さんは1ヶ月の重傷、家政婦も軽傷を負っています。

 

【Tの生い立ちと病】

Tは、当時住んでいた自宅近くの世田谷区立明正小学校に通いました。

小学生時代は明るい元気な子どもで、サッカー好きのまじめな少年だったそうです。

 

卒業後、私立の駒場東邦中学校・高等学校に進学、中学ではサッカー部に入りますがすぐにやめ、その後はクラブ活動はしませんでしたが、ロックが好きでエレキギターを弾く、人を傷つけるようなことはしないナイーブな優しい若者でした。

成績も上位で、理系科目はやや苦手でしたが、特に英語はよくできたようです。

 

慶応大学法学部政治学科にストレートで入学したTは、所属ゼミの委員を務め、書いた論文も指導教授に高く評価されました。

ただ、きまじめな性格で、友人たちとふざけ合うようなタイプではなかったようです。

 

大学卒業が近くなったころ、彼は父親に精神の不調を訴えて親類の精神科医を受診し投薬治療を受けています。

統合失調症を発症したのはこのころではないかと思われます。

 

内定していた商社への就職をとりやめて大学院進学を希望したTは、1978(昭和53)年秋に父・眞さんに伴われてアメリカに行き、プリンストン大学の聴講生になりました。

翌1979年に帰国した彼は、慶応大学の大学院に入ります。

 

知人への手紙によると、Tは1980(昭和55)年初頭に霊的な神秘体験をしたそうです。

それが統合失調症による幻覚・幻聴だったのかは分かりませんが、それを機に宗教に傾倒*した彼は、牧師になって神に一生を捧げたいと慶応大学大学院を辞めて東京神学大学に学士入学(学士=大卒者は大学の3年次から入学できる制度)しました。

 *祖父・勇も父・眞も熱心なクリスチャンで、Tも一時期教会に通っており、宗教の素地はあったようです

 

しかし、もっと高い神秘体験をしてキリスト教も超えたいと思ったらしいTは、秋には東京神学大学を退学、チベット仏教に関心があったことからインド旅行を計画してインド政府観光局でアルバイトをしたそうです。

 

1981(昭和56)年1月、ひとりで再び渡米したTは、極端な菜食主義を実践して栄養失調になり、5月にいったん帰国しています。

 

同年夏に父・眞さんと一緒に三たびアメリカに行ったTは(父親はすぐに帰国)、留学先を探し回りますが、眠れず食事もとらずベッドに横たわったままになったために、餓死するのではないかと心配した友人が彼を入院させると共に、父親に連絡をしました。

 

眞さんがアメリカに行って彼を連れ帰り、すぐに先述の海上寮療養所に入院させます。

10日ほどすると緊張が解けて会話ができ、食事もとれるようになったので10月9日に退院し、通院に切り替えました。

 

ところが、アメリカ人牧師と会った後からまた興奮気味になり、アメリカでの不眠・不食・緊張が再発したため、11月2日に二度目の入院をします。

 

1982(昭和57)年1月18日、症状がおさまったとして退院したTは、日本人医師にはかかりたくないとアメリカ人の精神科医のもとに週1〜2回通い、心理学の勉強をするためにアメリカの大学院に留学したいとの希望を医師に話したそうです。

なお、このころには日本語は一切使わず、家族を含めて誰とも英語だけで話をするようになっていました。

 

その間にTは、神智学(神秘的な直観によって神の啓示をえようとする信仰と実践の教義体系)から人智学という独自の思想体系を築いた神秘思想家で教育者のルドルフ・シュタイナー(オーストリア、1962−1925)の「第五福音書」を翻訳したり、チベット仏教から影響を受けた心理学者・カール・グスタフ・ユング(スイス、1875−1961)の著作を原書で読んだりしています。

 

 

R.シュタイナー / C.G.ユング 

 

報道によるとTは、英語で書かれた7月1日の日記に「悪魔を殺してやる」と書き、犯行当日である4日のページには「ゾロアスター・アーミンマン*。地球上の人間を殺せ——との指令を神から受けた」との英文が、スペルを逆さまから書く方法で記されていたそうです(読売新聞、1982年7月5日)

 *ゾロアスター教は、善(光)と悪(闇)の闘いという二元論的世界観をもつ古代ペルシャ(現在のイラン)に生まれた宗教で、「アーミンマン」というのは不明ですが、「アーリマン」のことだとするなら善神「アフラ・マズダ」と対立する悪神で、シュタイナーの人智学でも「ルシファー」と並ぶ悪の二大原理の一つとされています

 

祖父・勇さんを惨殺したのはその直後のことで、祖父殺害はTの妄想の中では神の指令どおりに悪魔を殺すことだったのではないかと考えられています。

 

【心神喪失での不起訴と措置入院】

 

朝日新聞(1982年7月5日夕刊)

 

逮捕されたTは、取り調べ中も日本語を話さず、英語の通訳を介したために時間を要したそうですが、犯行については「知っている」とだけ述べて詳しい供述はしませんでした。

なお彼は、留置場で通常出される和食中心の食事にはいっさい手をつけず、特別に用意されたパンだけを食べたそうです。

 

読売新聞(1982年7月6日)

 

7月6日に、まず根岸警部補への殺人未遂容疑で送検されたTは、9日に祖父の殺人と傷害容疑で追送検されました。

東京地検は彼の精神鑑定のための留置許可状を東京地裁に申請し、地裁は留置を10月13日までの3ヶ月間認めました。

鑑定は、山上皓(あきら)・東京医科歯科大学助教授(現在の准教授)が担当することになりました。

 

読売新聞(1982年7月6日夕刊)

 

朝日新聞(1952年7月9日夕刊)

 

精神鑑定の結果を受けて東京地検は、10月12日、が犯行当時は統合失調症による心神喪失状態にあったと認めて不起訴処分とし、ただちに鈴木俊一東京都知事に通報して、同日都知事は彼を都内の精神科病院に措置入院させました。

 

読売新聞(1982年10月13日)

 

 

サムネイル

小川里菜の目

 

東大名誉教授で文化功労者、英文学界の長老、イギリス詩の権威だった斎藤勇さんが、95歳にしてなお過去の著作の見直しに日々取り組んでいたさなか、こともあろうに孫から悪魔とみなされて自宅で惨殺されたこの事件には、無惨という言葉しか小川には思い浮かびませんショボーン

 

朝日新聞(1982年7月11日)

 

事件後、父親の眞さんは記者会見で「息子の教育は完全に失敗だった」と語っています。

 

朝日新聞(1982年7月8日)

 

暴力的な振る舞いの兆候がこれまで息子に見られなかったことから、事件が予期できず止められなかった親の悔恨としての言葉なら理解できるのですが、裁判所が認めたようにTが精神を病んでの心神喪失状態だったのであれば、それは子どもに対する親の教育が悪かったという問題ではないはずですし、そのように言うことは精神疾患を抱えた子どもを持つ親への過剰なプレッシャーにもなるのではないかと懸念しますショボーン

 

また父の眞さんは、家族・親族の多くが東大卒の学者一家だったことでTが学歴コンプレックスにおちいっていたことが精神を病み事件を引き起こす要因の一つだったのではないかとも言っておられますが、そこまでの東大コンプレックスを彼が抱いていたようにも小川には思えませんキョロキョロ

 

Tの病状や精神状態の分析・評価は小川にできることではありませんので、ここでは、いったいTは病んだ心で何を思い何を求めていたのかについて考えてみます。

 

先のブログで取り上げたパラコート連続殺人事件が起きたのは3年後の1985年ですが、その事件の背景にあったであろう人心の荒廃について小川は、世界同時不況のただなかで特に働き盛りの男性の自殺率が戦後第2のピークとなったことに見られるように、競争に落ちこぼれあるいは落ちこぼれかけている人たちの不遇感やいらだち、将来への不安や絶望感があったのではないかと書きました。

 

 

そうした時代状況は、この事件が起きた1982年にすでに始まっていました。

 

それに対して、このような時代を生き抜くには「物」から「心」へと視点を変えるべきだということが盛んに言われるようになります。

 

NHKの教育テレビで1962(昭和37)年から20年にわたり放送されてきた「宗教の時間」が、1982年度から「心の時代」という番組名に変更されたのが象徴的です。

 

つまり、物質的な豊かさは高度経済成長によって基本的に達成されたが、心の貧しさ——物質的な貪欲さや隣人への妬み、成功者への恨みなど——を引きずっているために、どこまでも飢餓感や劣等感にとりつかれ不平不満に苦しんでいる。だから「ボロは着てても心は錦」ということわざのように、わたしたちがいま求めるべきは「心の豊かさ」なのだ、ということでしょう。

 

それは、近代の物質文明や物欲にとりつかれた人間への批判と、心つまり精神的な次元の豊かさにこそ人間の真の幸福があるのだという考え方です。

そしてその考え方は、容易に宗教(ただし、既成教団のような制度的・世俗的な宗教ではなく、神秘体験や悟りなどで人生を転換させ個人が救済を実感できる宗教)へとつながっていきます。

 

Tがそうした考え方に染まっていたことは、次の記事からもうかがえます。

 

朝日新聞(1982年7月6日)

 

Tが英語だけを使い日本語を話さなくなったと先に書きましたが、その理由でもある「日本人嫌い」について、Tが主治医に次のように話していたと上の記事には書かれています。

 

米国人はダイレクトにものを言い合っても、あとでお互いに許し合う。ところが日本人は表面をとりつくろっても、裏で恨み合う。物質文明に走り、神秘的、精神的なものを大切にしない。私は地上に平和をもたらしたい。

 

Tがこうした考え方をはっきりと持つようになったのは、アメリカでの何らかの体験が大きなきっかけになったようですが、それが何かはWikipediaなどでも「キリスト教の異端の宗派や神秘学に傾倒し」とあるだけで、具体的なことが書かれていません。

 

1970年代から80年代のアメリカで活発に活動していた「異端の宗派」のうち、小川が調べた限り最も可能性があるのは「クリシュナ意識運動」ではないかと思われます*。

 *「クリシュナ意識運動」は「キリスト教の異端」ではありませんが、キリスト教の異端の宗派として知られるモルモン教(末日聖徒イエス・キリスト教会)やエホバの証人などは教義から見てTへの影響はないと思います

 

クリシュナ意識運動は、1960年代のアメリカでインド人宗教家が始めたものです。

その教えを簡単に言えば、ヒンドゥー教のヴィシュヌ神の化身であるクリシュナ神を崇拝し、「ハレー・クリシュナ、ハレー・クリシュナ、ハレー・クリシュナ、ハレー、ハレー……」というマントラ(聖なる言葉)を唱えて歌い踊ったり「愛のヨーガ」をおこなうことで精神を浄化し、人びとを物質的な苦しみから解放するというものだそうです。

 

また、神話的な語りとしてですが「悪魔的な存在(アシュラ=邪心・煩悩)は破壊されるべき」と教え、精神的な浄化のために肉だけでなくタマネギやニンニクなども禁止する厳格な菜食主義を実践し、共同生活では外国人にも英語の使用が求められ、1970年〜80年代には大学のキャンパスでも熱心な布教がなされていたようです。

 

(harekrishna.jp)

 

このように、物質的なとらわれからの解放と精神の浄化、悪魔の討伐、菜食主義、英語中心の生活を説くクリシュナ意識運動の影響をTが受けた可能性は非常に高いと思われるのですが、ただその組織に彼が帰依した(信者になった)形跡は見られません。

もし信仰共同体に帰属して指導者の教えに従っていたならば、自己流の極端な菜食主義で栄養失調になり倒れるようなことは起きなかったでしょう。

 

また、Tの伯父(眞さんの兄)である齋藤光さん(東大名誉教授、日大教授、英文学、67歳)は、「(甥は)ゾロアスター教を信仰し、菜食主義で通していた」と語っています(毎日新聞、1982年7月5日)

 

確かに先に見たように、Tの7月4日の日記に「ゾロアスター・アーミンマン」と書かれていたようです。

1970年代のヒッピー文化の中で、インド経由でアメリカに入ったゾロアスター教に関心を持つ人もいてTがそういう人物に接触するか何かを読むかした可能性はありますが、ゾロアスター教に菜食主義の教義はなく、またゾロアスター教が神聖なものと見なす「火」*をTは極端に嫌ったとも言われています(読売新聞、1982年7月5日)ので、彼がゾロアスター教の善悪の戦いという世界観に影響されたとしても、信者だったとは思えません。

 *このことからゾロアスター教は「拝火教」とも呼ばれる

 

神聖な火を守るゾロアスター教の神官

(ナショナル ジオグラフィック)

 

以上のことから考えると、祖父や父の影響でキリスト教信仰に近しかったTは、それでは「物から心へ」と向かう時代に悩める人びとが求める救済にならないと思い、クリシュナ意識運動やゾロアスター教、さらにシュタイナーやユングから取捨選択的に(悪く言えばつまみ食い的、良く言えば主体的・創造的に)学び受け入れて、自分独自の覚りを見いだそうとしたのではないでしょうか。

 

その姿勢を見ると、何か一つを単純に信じ込むのではなく多面的に考えて真理を見いだそうとする「学者一家の血」をTも引き継いでいたのかもしれません。

 

しかし、統合失調症が悪化するにつれて、宗教的観念の世界と現実世界との境界線がしだいにあいまいになり、病気が引き起こす幻覚や幻聴に突き動かされて、神が命じる悪魔との戦いという使命を、家という俗世界の支配者=悪魔である祖父*に対して果たそうとしたのかもしれないと小川は推測します。

 *だから、悪魔そのものではない母親や家政婦を殺そうとはしなかったのでしょうが、もし父親の眞さんが家にいたらどうなっていたのでしょうか……

 

そして、これは小川の想像にすぎませんが、もしTがこの事件を起こさず、また統合失調症の悪化があるていど抑えられながらあと数年たっていたら、彼はオウム真理教に惹かれていたかもしれないとも思うのです。

オウム真理教の高学歴信者とTとの間に、共通するものがあると感じるからです。

 

オウム真理教教祖 麻原彰晃

 

精神病については置きますが、知的エリートの一族に生まれ裕福な家庭の「坊ちゃん」として生活世界に根を下ろすこともなく育ったTの悲劇は、「世界に平和をもたらしたい」という「ピュア」な思いを抱きながら、現実世界から立ち上がってくる問題の解決を、観念的な精神世界の中だけで追い求めようとした「知の空転」にあったのではないかと、事件を振り返って考える小川ですショボーン

 

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