青森実子保険金殺人事件

1972年

実の子に保険金をかけて殺害する——そんなおぞましい事件は決して多くはありませんが、残念なことにこれまでいくつも起きています。

そうした中でも、まだ9歳の少女が犠牲となった悲しすぎる事件を今回は取り上げました。

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被害者の少女を悼んで事件現場近くに

建立された「わかこちゃん地蔵」

 

【事件の発生から犯人発覚まで】

1972(昭和47)年8月28日の午後8時12分ごろ、青森市三内稲元の市道で、ジュースを買うために父親に手をつながれ車道側を歩いていた小学4年生の少女が、後ろから時速70㎞のスピードで突っ込んできた乗用車のボンネットの上にはね上げられ、即死しました。

車はそのまま走り去りました。

 

9月1日、弘前市の親戚宅で営まれた葬儀では、父親が「犯人が分かったら殺してやりたい」と涙ながらに会葬者に訴えたそうです。

 

父親の名前は村田満(当時38歳)、少し前まで自動車板金塗装会社を営んでいた男で、車にはねられたのは長女の和佳子(わかこ)ちゃん(市立三内小学校4年、9歳)でした。

その時、二女(同小学校2年、7歳)も父親に手を引かれ歩道側を歩いていました。

 

ひき逃げ事件として捜査が始められましたが、ほとんどのひき逃げ事件では直前に気づいた車が急ブレーキをかけて事故を回避しようとするのに対し、この時はまったくブレーキ痕がないことに警察は疑念を抱きます。

また、ジュースを買いにいくのに自宅から250mも離れた市道を歩いていたという話にも不自然さが感じられました。

 

そこで警察は、殺人や強盗などの凶悪事件を担当する刑事一課が父親の身辺状況を調べました。

 

すると父親の村田は、自分の会社が経営不振で多額の借金を抱え、保険外交員をして家計を支えていた妻(34歳)にも家を出られて6月に協議離婚したこと、子どもを引き取りたいとの妻の懇願を村田がなぜか頑なに拒否したこと、7月に会社が倒産していたことなどが判明しました。

 

中でも警察が注目したのは、5月22日に父親を受取人とする1700万円の東邦生命保険*の「災害賠償ファミリー年金保険」が和佳子ちゃんにかけられ、さらに8月10日には郵便局(郵政省)の簡易保険を追加して、総額1900万円**の死亡保険が和佳子ちゃんにかけられていたことでした。

 *1999(平成11)年に経営破綻し、現在はジブラルタ生命が保険契約を引き継いでいます

 **簡易保険は400万円だったとの報道もあり、そうであれば総額は2100万円になります

 

簡易保険証書(1970年代)

 

また、村田の交友関係を探ったところ、元ダンプカー運転手の杉田賢治(22歳)と見習大工の米谷宜祐(20歳)の2人が捜査線上に浮かびました。

この2人とは、1972年になると収入がほぼなくなった村田が日銭を稼ぐために行っていた日雇い仕事で知り合ったのです。

 

杉田は、1970年4月に酒酔い運転で、1971年7月にはダンプでの歩行者ひき逃げで警察に検挙されており、またこの事件後に酒に酔って「子どもをひいた」と言っていたとの証言も警察は聞き込んでいました。

 

杉田賢治      /      米谷宜祐

 

そこで警察が、9月3日に父親の村田と杉田を署に呼び出し任意で取り調べたところ、ひき逃げを偽装した保険金殺人であることを自供したため、米谷を合わせ3人を逮捕しました。

 

【村田満と実子殺害計画】

 

村田 満

 

保険金を詐取するためにわが子を手にかけた村田満は、5人きょうだいの末っ子として生まれましたが、1943(昭和18)年、9歳のときに父親が他界します。

 

1950(昭和25)年に中学を卒業した村田は、青森市内の自動車塗装会社に就職し板金塗装の技術を身につけたようです。

 

その後、1965(昭和40)年4月に独立して自動車板金塗装会社を始めた村田は、高度経済成長という時代背景もあったのでしょう会社は順調に成長し、数人の従業員を雇うまでになりました。

会社を始めたころに長女の和佳子ちゃんが生まれています。

 

ところが順調な経営に慢心したのか、村田は高級クラブに通って派手に遊ぶようになります。

仕事に身が入らない社長の下で会社の業績は落ち込み、従業員への給与の支払いにも窮するようになり、高利での借金が100万円を超える(消費者物価指数で換算すると現在の400万円以上)までに膨れ上がっていきました。

 

先に述べたように、妻もパートで働いて家計を支えましたが、ついに夫に愛想を尽かした彼女は家を出て行ってしまいます。

離婚の話し合いでは、彼女は娘たちを引き取りたいと強く申し出たようですが、村田がそれを聞き入れないまま、6月に裁判所で協議離婚が成立しました。

 

結果的に考えると、父親の村田が娘たちを引き取ったのは、子どもたちへの愛着からということではなく、保険金殺人をすでに考えていたからではないかと疑われます。

 

というのも、離婚の話し合いが始まった同年(1972)3月中旬の段階で村田は、160万円の保険をかけていた長女を殺害する計画をすでに立て実行に移そうとしていたからです。

 

朝日新聞(1972年9月11日)

 

「強盗を装って長女の首を絞めて殺してくれ」と村田が持ちかけた相手は、この時も杉田賢治でした。

保険金が下りたらそこから30万円を渡すということでいったん引き受けた杉田でしたが、決行日にしていた4月30日になって、「たった30万円の金で殺すのはつまらん」(朝日新聞)と思いとどまったことから、このときは未遂に終わりました。

 

ところが、5月17日に長女が満9歳6ヶ月となり、より多額の保険に入れると知った村田は、5月22日に先述した死亡保険金1700万円(現在の約7千万円)の保険を契約したのです。

 

こうして7月中旬になり、村田は再度長女に対する保険金殺人の計画を立てて杉田と米谷にもちかけました。

このときに村田が提示した犯行報酬はそれぞれ150万円と前回の5倍になったため、杉田も今度は納得して実行犯を引き受けました。

 

なお、長女に保険をかけた3日後の5月25日に、村田は次女にも同じ東邦生命で死亡保険金210万円の積み立て生命保険を契約しています。

これは長女の次に次女も狙っていたということなのか、長女だけ保険をかけていると怪しまれるので偽装工作としてそうしたのか、それについての供述は村田から得られていないと新聞は報じています。

 

朝日新聞(1972年9月6日)

 

あきれたことに村田は、月に19060円になる娘2人の保険の掛け金を支払うために、杉田ほか3人と共謀して信用金庫の集金係を襲って現金53万円をひったくるという強盗までやっていたことが自供から判明し、9月15日に共犯者が逮捕されました。

 

朝日新聞(1972年9月17日)

 

【殺害計画の実行】

8月23日、村田・杉田・米谷の3人は、和佳子ちゃんをひき逃げを装って殺害する計画を立て、先に述べた様に村田は2人にそれぞれ150万円を下りた保険金から支払う約束をしました。

 

実行犯を引き受けた杉田は、青森市長島3丁目に路駐してあったクリーム色の日産サニーを盗み、同市三内の第二青森中央自動車学校裏に隠しました。

 

日産サニー(同型車)

 

そして事件当日の8月28日夜、父親の村田はジュースを買いに行くという口実で娘2人を連れ、市道を殺害計画の現場へと向かいました。

道路の左側を左手で次女、右手で和佳子ちゃんの手を引き車道側を歩かせます。

 

事件現場に近いと思われる市道

道路の左端を→のように歩いていた

前方の黄色い○が「わかこちゃん地蔵」

 

杉田が運転する車は、まず正面からターゲットを確認するために走ってきて、いったん通り過ぎてからUターンし、時速70㎞というスピードで和佳子ちゃんめがけ背後から突っ込んだのです。

 

和佳子ちゃんは即死し、車もヘッドライトとボンネットが破損しましたが、杉田はそのまま車を約4㎞離れた市営の三内清掃工場(ゴミ焼却場の老朽化のため2011年に閉鎖し解体撤去された)裏の農道の草むらに乗り捨て、待機していた米谷のバイクに2人乗りして自宅に帰りました。

 

 

【裁判と判決】

村田・杉田・米谷の3人は、青森地裁(立原彦昭裁判長)で裁判にかけられ、1973(昭和48)年9月の論告求刑公判で検察は、主犯の村田満に死刑、実行犯の杉田賢治に無期懲役、共犯の米谷宜祐に懲役8年を求刑しました。

 

そして1973年11月7日の判決公判で立原裁判長は、「被告らの犯行は綿密に計画されたもので、私欲のために幼い無抵抗の子どもを殺したことは人道上許せない」としながらも、「村田は事件当時妻に離婚され、家業も倒産、借金に追われるなど精神的にもかなり動揺していた」と弁護側が主張した情状を取り入れ(朝日新聞)、父親の村田に無期懲役、杉田に別件の強姦罪(現在の不同意性交等罪)を併合して懲役18年、米谷に懲役5年の判決を言い渡したのです。

 

朝日新聞(1973年11月7日夕刊)

 

その後の情報は得られませんでしたが、死刑の求刑が無期懲役に減刑されたことから、村田は控訴せずに服役したのではないかと推測されます。

 

冒頭にも写真をあげたように、事件現場に近い三内共同墓地の入り口付近に、和佳子ちゃんの慰霊のためと言われる地蔵尊、通称「わかこちゃん地蔵」があります。

 

(Googleマップ)

 

ただこれがいつ誰の手によってどういう経緯で建立されたのか詳しいことは分かりませんでした。

事件から半世紀が経過し、今では近所でもこの事件を知る人は少なくなっているそうです(「実子保険金殺人から50年/青森」陸奥新報、2022年8月29日)

 

 

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小川里菜の目

 

我が子を食べるという話は、ギリシャ神話に端を発しローマ神話で語られた「我が子を食らうサトゥルヌス(ギリシャ神話のクロノス)」がよく知られており、有名な画家たちがこのテーマで作品を残しています。

 

ゴヤ

 

ルーベンス

 

しかしこの神話は、我が子が成長すると自分の地位・命を奪うという予言に恐れをなした父親が、身を守るために生まれた子を次々と呑み込んだというもので、親を害するものとしての我が子が前提になっています。

 

また人の子をさらって食べたという、ヒンドゥー教の神話に始まる「鬼子母神」の話は、我が子を育てるために他人の子どもを食べていた悪鬼が、釈迦の教えを受けて子どもと安産の守り神になるという仏教説話で、我が子をしかも自分の欲望のために食べていたのではありません。

 

鬼子母神像(Wikipedia)

 

そう見てくると、金を得るという目先の欲望のために何の罪科(つみとが)もない我が子の生命を親が意図的・計画的に奪うことが、いかに救いのない非人間的行為であるかがよく分かります。

 

これまでにこのブログでは、親が実の子を保険金目当てに殺害した事件として次の2つを取り上げました。

 

名古屋実娘保険金殺人事件(1986年)

 父親の今村郁夫(当時57歳)が二女の陽子さん(20歳)を便利屋を雇って殺害

 

 

長崎・佐賀連続保険金殺人事件(1992年、1998年)

 母親の山口礼子(40歳)が愛人・外尾計夫と共謀して二男の高校生・吉則さん(16歳)を殺害(1998年)*1992年は夫を殺害

 

 

いずれの事件も、殺された子どもには何の落ち度もなく、親が保険金を得るためだけに殺害したもので、同情の余地なき犯罪でした。

 

ましてや今回の事件は、被害者がまだ9歳という幼気(いたいけ)ない少女で、しかも実の父親が手をつないだ状態で自分の目の前で実行犯に車ではね殺させるという想像するのも恐ろしい凶行に、人間はここまで良心を失い邪悪になれるのだと、暗たんとした気持ちになります。

 

殺人事件の大半は顔見知りの犯行で、夫婦・親子・きょうだいは仲がこじれると人間同士の距離が近いだけに憎しみが大きくなる傾向にあります。

けれども、これまでに見た限りの実子保険金殺人では、関係の悪化が昂じ憎しみに駆られてという面はまったく見当たりません。

 

和佳子ちゃんが別れた妻に似ているため村田に憎しみがあったのでは……と書いているものがありましたが、顔かたちが似ているだけでそんな風に考えるとはとても思えません。

 

それよりも小川が思ったのは、私たちの社会に根深くある親の子どもの人権に対する感覚の希薄さです。

 

親といえども子どもは独立した一個の人格であり、子どもの人権は最大限尊重しなければなりませんが、日本では親の事情で子どもを道連れに死なせる「親子無理心中」が仕方ないことだと同情されがちなように*、子どもは親の付属物、もっといえば親の所有物のような感覚がいまだに根強くあるように思うのです。

子どもへの虐待もそうした感覚が背景にあるでしょう。

 *これも以前にブログ「昭和に起きた親子心中」で取り上げた「サンタモニカ入水心中事件」で、親に同情的な日本の世論と、子どもの立場から有無を言わさぬ殺人だとするアメリカ人の受け止め方の違いを紹介しました

 

 

今回の事件の裁判については資料が得られませんでしたから裏づけがとれないのですが、YouTubeで紹介されていた村田被告の弁護人が公判で情状酌量を訴えた論理に、小川は唖然としてしまいました。

 

「ふくしま事件ちゃんねる」の「青森実子保険金殺人事件」というYouTube番組(元のものは「殺」がすべて「○」にされている)の中で、弁護側は「子が親を殺す“尊属殺人”が重罪となっているのと反対に、親が子を殺した場合は罪が軽いケースが多い。日本では大化の改新でできた大宝律令の昔から今に至るまでこの傾向は変わらない。子どもの人権は重んじなければいけないが、この事実は今回の判決にも適用すべきだ」と述べたというのです。

 

 

弁護側の主張がいつなされたものか番組では言われていませんが、この裁判が開かれた同じ年(1973)の4月4日に最高裁は、刑法第200条の尊属殺人の重罰規定は法の下の平等という憲法の原則に反し無効だという判決*を下しているのです。

 *この判決を引き出した「栃木実父殺害事件」(1968)もこのブログで取り上げています

 

 

もし弁護人の発言が最終弁論においてのものだとするなら、判決公判が11月ですので、上記の違憲判決が出た後ということになり、弁護士たるものが最高裁で違憲無効とされた尊属殺人をここで持ち出したなど本当なのだろうかと思わざるをえません。

 

しかしそれを置いたとしても、子どもの命は親の命よりも軽いのが日本の伝統的傾向(伝統文化)なのだから、それを現代でも適用すべきだと堂々と言い放つことができるのに恐怖さえ覚えます。

その立場からすれば、「子どもの人権は重んじなければいけないが」など「とりあえず言っておく」空疎な言葉でしかないでしょう。

 

そうだとすれば、親が困っている時には子どもは自分の命をお金にかえてでも親を助けるべきだとなり、親孝行の美談にすらされかねません。

 

短い新聞記事を読む限り、このような馬鹿げた時代遅れも甚だしい弁護側の主張を裁判所がくみ取ったとは思いたくありませんが、求刑の死刑を判決では無期懲役へと減じた*裁判官に、万が一にも同じような意識があって村田の情状により配慮したのであったとすれば、和佳子ちゃんの無念は「お地蔵さん」建立で慰められるどころのものではないというモヤモヤと憤りを小川はいまだに払拭できません。

 *もちろん、村田に求刑どおり死刑判決を下すべきだったと言っているのではありません

 

人権思想と人権尊重の意識が私たちの中にしっかりと根を下ろし、とりわけ子どもなど弱い立場の人たちの人権がゆるぎなく保障される社会にしなければと、あらためて思わされた事件でした。

 

 

余談ですが、事件のあった青森県三内稲元から南西方向約1㎞には、2021年に世界文化遺産に登録された縄文時代の大規模集落跡である特別史跡「三内丸山遺跡」があります。

 

 

 

ボクはときどき小川と大阪城に行くんだけど、先週は大阪城内にある「ピース大阪(大阪国際平和センター)」を一緒に見学してきたんだあしあと

 

究極の人権侵害は戦争だと言われますが、ここは、1945(昭和20)年3月13日から翌未明にかけての初回から、主なものだけで8回に及んだ大阪大空襲を中心に、戦災関連の情報・資料の収集・保存・展示等を通じて、戦争の非人道さと平和の尊さを次の世代に伝えるためにできた施設なんだよ三毛猫

 

見学したときに撮った写真を紹介するねカメラ

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

もし、大阪城に行くことがあれば、

ぜひ、近くにある「ピース大阪」にも立ち寄ってみてねニコニコ上差し

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今回も最後までお読み下さり

ありがとうございます🥹

次回もどうぞよろしくお願いいたします飛び出すハート

 

信徒となり小説を書いた死刑囚

バー・メッカ殺人事件

1953年

 

今回は、まだ戦後の混乱期に起きたとても有名な殺人事件です。

死刑囚となった主犯の男は、獄中で書いた小説が著名な文芸誌の新人文学賞最終選考作品の一つになり、また洗礼を受けたクリスチャンとなって小説家で精神科医の加賀乙彦氏と親交を深めたことなどでも知られています。

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毎日新聞(1953年7月28日)

 

【天井からしたたり落ちる血】

1953(昭和28)年7月27日の午後8時40分ごろ、国電(今のJR)新橋駅から徒歩すぐの東京都芝新橋1−10にあるバー・メッカで、カウンター席でビールを飲んでいた客の肩に天井から糸を引いて血がしたたり落ちているのを女性従業員が見つけ、大騒ぎになりました。

 

(サン写真新聞)

 

坪居そめさん(当時54歳)が経営するバー・メッカ(以下「メッカ」と表記)は3階建てで、1階は経営者の住居で2階が中央に小さなダンスフロアーのあるバー、中3階がバンドマンの控室兼物置になっていましたが、その中3階から天井の穴*を通って血がしたたり落ちてきたのです。

 *バンド演奏を照らすスポットライトのために開けられていた

 

(毎日新聞)

 

鑑識が白くマークしたところが血痕

 

中3階を見たところ、そこには軍隊用毛布にくるまれた中年男性の遺体があったので愛宕署新橋駅前派出所に届け出がなされ、警視庁の捜査員が駆けつけました。

 

遺体の様子を読売新聞の第一報(1953.7.28)は次のように伝えています(カッコ内の補足は小川)

「被害者は40歳位、五尺五寸(約167㎝)、中肉で茶のズボンに白ワイシャツ、革バンド、薄緑色の靴下をはきサラリーマンふうで顔面を5カ所、頭部を3カ所鈍器のようなもので滅多打ちされたうえ、電気のコードで首を3巻され、絞め殺されていた。現場には刃渡り五寸(約15㎝)の短刀が落ちていた。」

 

事件発生の翌日午後になり、事件をニュースで知った家族からの問い合わせと遺体確認で被害者の身元が判明します。

殺されていたのは横浜市神奈川区に住む金融業兼証券売買人(ブローカー)の博多周さん(40歳)で、27日の午前7時15分ごろ「仕事で東京に行く」と家を出たまま帰りませんでした。

 

被害者の博多周さん

 

博多さんには妻の京さん(34歳)12歳・8歳の2人の男の子がいました。

 

被害者の妻・博多京さん

 

遺体の状況から犯行時刻は「メッカ」開店前の27日午後1時から2時ごろと推定され、午後3時ごろに「掃除がすんだのでちょっと出てくる」と経営者に言ったまま戻らない住み込み店員の近藤清(19歳)を警察は有力容疑者と見て指名手配しました。

 

近藤 清

 

朝日新聞(1953年7月28日夕刊)

 

遺体と一緒に残されていた被害者のカバンから書類や預金通帳、現金が高級腕時計と共になくなっていた*ので、金銭目的の犯行と警察は考えましたが、遺体を中3階に持ち上げるのは一人では難しいことから共犯がいるものと見て捜査が進められました。

 *奪われた現金は約41万円、消費者物価指数で換算すると現在の約290万円。1954年の勤労者世帯の平均月収が2万8千円ほどだった時代です。なお、通帳は引き出す時に足がつくと思ったのか表紙が破られた状態で逃走に使われたタクシーの座席から見つかりました

 

朝日新聞(1953年7月29日)

 

その結果、捜査線上に浮かんだのが、「25、6歳、銀行員風のやさ男で大学を出て証券関係の仕事をしていると平生からいっていた」(朝日新聞)人物で、事件前々日の25日、日曜の休店日なのに見知らぬ男と現れ、事件当日の27日の午後1時ごろにも同店にいたことから、この男が主犯ではないかと思われました。

 

これが正田昭(24歳)なのですが、最初は「潮田」(朝日)や「塩田」(読売)と報じられました。

 

【相川貞次郎の逮捕】

「カギを握る男」正田の行方を追った警察が、立ち回ると思われる先に捜査員を張り込ませていたところ、7月29日午後8時ごろ、正田が下宿していた神奈川県藤沢市本鵠沼(ほんくげぬま)の民家に不審な人物が現れたため職務質問をしました。

 

男が、被害者である博多さんのスイス製腕時計「ベルカ」をはめていたことから「メッカ」殺人事件の共犯者ではないかと追及したところ、「犯行は知っていたが直接手を下してはいない」とあっさり自供したのです。

 

「ベルカ」ブランドの腕時計(例)

 

「第3の男*」と報道されたのは、相川貞次郎(22歳)という正田昭の麻雀仲間でした。

 *ミステリー映画「第3の男」が日本で公開され評判になったのは、前年の1952年です

 

読売新聞(1953年7月30日)

 

相川は定職を持たない遊び人で、姉夫婦が東京都港区芝三田四国町で経営する麻雀店「オパール」に寝泊まりしながら、店の客相手に小切手詐欺などを働いていたようです。

 

愛宕署に連行される相川貞次郎

(朝日新聞、1953年7月30日)

 

店の客であった正田に強盗に加わるよう誘われた相川は、事件の前々日に3人で打ち合わせをしています。

先に述べた正田が「メッカ」に連れてきた「見知らぬ男」とは相川のことでした。

 

ところが事件当日、相川は「メッカ」に現れず直接殺害には加わらなかったのですが、事件後に落ち合う先に決めていた藤沢市本鵠沼の家に行き、正田から口止め料として2万円(現在の約15万円)と被害者の腕時計を渡されました。

 

しかしこれでは分け前が少ないと思い返した相川が、正田に掛け合うために藤沢市の家に再び行ったところで、張り込んでいた捜査員に逮捕されたのです。

 

相川の話や、事件後に正田と近藤と見られる2人を乗せたタクシー運転手の証言をもとに、警察は7月30日に2人の詳細な特徴と写真の手配書を全国に配布し、行方を追いました。

 

読売新聞(1953年7月30日夕刊)

 

その後、各地で目撃したとの情報が寄せられながら、正田と近藤の行方はなかなか掴むことができませんでした。

 

【自首してきた近藤清】

ところが、8月3日午前9時40分ごろ近藤清が、7月29日から旅館に潜伏していた静岡市内の駒形通り派出所に、所持金を使い果たして自首してきました。

 

近藤清は、朝鮮の全羅南道に本籍があり大阪市東淀川区で生まれた金琪燁*で、住んでいた兵庫県明石市から事件の前年(1952)に上京してきました。

 *全羅南道で生まれたという報道もあります。なおこのブログでは名前は「近藤清」で通します

 

彼はヒロポン*の常習者で金に困っていたらしく、ボーイをしていた「メッカ」に客として来た正田と知り合い、金欲しさで事件の誘いに乗りました。

 *大日本製薬が1943(昭和18)年から1950(昭和25)年にかけて販売した覚せい剤の一種であるメタンフェタミンで、「ヒロポン」はギリシャ語の「フィロポノス/労働を愛する」からつけられた商品名(Wikipedia)。疲労倦怠感を取り眠気を飛ばすという効能から「疲労ポンと取る」の意味だという通説も生まれました。戦時中は軍隊などで用いられましたが、敗戦後には軍用品の流出や密造品を含め一般にも広く蔓延して、工場が労働者にヒロポンを支給して長時間労働や深夜労働を強いるようなこともあったそうです。しかし、青少年の集団犯罪を誘発するなど「ヒロポン中毒」が大きな社会問題となって、1951(昭和26)年に覚せい剤取締法が制定されました。なお、現在でも「ヒロポン」は処方箋医薬品として医療目的に使われています

 

 

 

逮捕直後に近藤は、犯行に加わったものの人を殺すとは聞いておらず、被害者殺害に直接関わっていないと述べていましたが、その後の調べで正田が博多さんの首に後ろから電気コードを巻きつけて絞めたので、近藤も壊れていたイスの脚で被害者を滅多打ちにし、それも致命傷(失血死)となったことが判明しました。

また近藤は正田から、分け前として3万円(現在の20数万円)を受け取っていました。

 

読売新聞(1953年8月3日夕刊)

 

近藤清は8月5日に強盗殺人容疑で身柄を送検されましたが、正田昭の行方を警察はなかなか掴むことができません。

 

正田から手紙が来たと届け出たかつての同僚女性や、正田らしい男が女連れで鎌倉の旅館に宿泊した、正田そっくりの男が一人で逗子の旅館に現れたなど、虚実交えた多くの情報が警察に寄せられ、この事件への社会の関心の高さをうかがわせましたが、逮捕に結びつく手がかりはなかなか得られないまま日が過ぎて行きました。

 

「メッカ」が事件翌日から営業を再開したことや

正田の長姉が婚家に居づらくなり、子どもを連れて

実家に戻ったことなども書かれている

朝日新聞(1953年8月17日)

 

8月20日、「第3の男」と言われた共犯の相川貞次郎が、強盗については犯意なしとして殺人容疑で起訴されました。

 

東京愛宕署の捜査本部は8月26日、当時は珍しいモンタージュ写真2枚を含む11種(9種との報道も)の正田の写真*のついた手配書を全国の警察署に送って追い込みをかけました。

 *正田はふだんメガネをかけていますが、1951年に名古屋大学で実証実験が成功したばかりのコンタクトレンズを逃走中に装着していたことも見つかりにくかった一因だったのではないかと言われています。ただモンタージュ写真の1枚はメガネなしでした

 

朝日新聞(1953年8月26日)

 

読売新聞が掲載した9枚の写真

(左下の2枚がモンタージュ写真)

 

【正田昭の逮捕】

 

読売新聞(1953年10月13日)

 

帝銀事件(1949年に行員ら12人が毒殺された銀行強盗事件)以来という大捜査網を敷いて正田を追った警察ですが、逮捕のきっかけは市民からの通報でした。

 

1953年10月12日の朝、京都市左京区北白川小倉町の学生アパート「南尚志舍」の管理人から、8月初めに入居した「山本一雄」と名乗る「学生」が手配の正田に似ていると通報があり、午後2時ごろに捜査員が踏み込んで部屋にいた「山本」に任意出頭を求め取り調べたところ、正田昭であることを認めたため強盗殺人容疑で逮捕しました。

事件発生から78日目でした。

 

毎日新聞(1953年10月13日)

 

通報があったちょうどその時、京都市内で正田に似た変死体が発見されたため、警視庁の捜査員が正田の母親と次兄を伴って京都に来ていました。

その変死体の新聞記事(10月11日)に載った正田の写真を見て、管理人の知人で正田の麻雀仲間の男性が、管理人と相談のうえ間違いないと通報したのです。

 

逮捕時の正田昭

 

アパートに入居したあと正田は、「金のあるのにまかせ、競輪、女、酒と遊び暮らしたが、数日前から無一文状態になり、困っていた」(読売新聞)と述べており、布団まで金に換えての逃避行は限界に来ていたようです。

 

読売新聞(1953年10月13日)

 

逮捕直後に博多さん殺害の主犯は近藤だと言っていた正田ですが、護送された東京愛宕署での取り調べで、10月18日になり犯行を全面的に自供しました。

 

【正田昭の出生から事件まで】

 

東京に護送される列車内での正田昭

刑事が見せた手配写真を欲しがる女性が

大勢いたという彼の優男(やさおとこ)*ぶり

がよく分かる写真

*姿かたちが上品ですらりとしている男(コトバンク)

 

正田昭は、1929(昭和4)年4月19日、大阪市天王寺区(当時、後の阿倍野区昭和町)に父・伊三郎と母・ちゃうの末っ子として生まれました。

上に3人の兄と2人の姉がいる6人きょうだいです。

 

石川県出身の父親は、横浜の英語学校を出て渡米し、苦労してカリフォルニア州立大学を卒業し弁護士資格を取得してサクラメントで法律事務所を経営しました。

 

大正の初めごろ(1910年代後半か)に帰国した父は、結婚して商船会社や電力会社で働きます。

その間に6人の子宝に恵まれますが、1929年9月、昭が生まれてまだ5ヶ月の時に54歳の若さで狭心症で他界してしまうのです。

 

東京女子大学を出ていた母親のちゃうさんは、女学校などで体育教師として働きながら女手一つで子どもたちを育てなければなりませんでした。

 

彼女は自分名義の社債や株券などを入れた貸金庫のカギと印鑑を肌身離さず持って歩き、たとえ必要なことでもお金を出ししぶるような、お金への執着が非常に強い女性だったそうです。

また、子どもたちに慈愛深く共感的に接するタイプでなく、長兄(長男)は「賢母ではあるけれども、家庭的には冷たい」母親だったと否定的に述べています。

 

ただ、戦前に6人の子どもたちを女性一人で育て上げようとすれば「鬼」にもならねばならなかったでしょうし、明治生まれで旧い家意識もあっただろう母親としては、夫亡き後に家長となる長男に対しことさら厳しく接したという事情があったかもしれません。

 

その一方で末っ子の昭に対してかなり甘く、彼が母親の金をくすねるなどの問題行動を起こしても少しも注意しようとしなかったそうです。

 

彼女は子どもたちを、長男=早稲田大学、次男=イタリアのフィレンツェ大学、三男=東京大学、四男(昭)=慶応大学と名だたる大学に学ばせ、娘2人も女子大学に行かせています。

ただし、長男は母親から学費をいっさい出してもらえず独力で卒業したそうですし、昭も次兄(次男)に学費を出してもらっています。

 

そうした母親への強い嫌悪感から、長兄は家庭内暴力を振るうようになり、そのため次兄や姉は神経衰弱の症状(疲労感、不安、抑うつ、頭痛など)に苦しめられます。

 

正田自身も、後に裁判の上告趣意書の中で、「あの晩(幼い頃に長兄の暴行が始まった晩)以来「大人」といわれるひとたちをこころから憎み、怖れておりました。あのひとたち(長兄、母、姉たち)は、幼い私が死ぬ程こころを痛めているときに、すこしも私を助けようとはして下さいませんでした。理解しようとさえしませんでした。「大人」はずるくて、薄情で、残虐で、嘘つきで、エゴイストなんだ。私のこの拭い難い不信と憎悪の対象である「大人」」(加賀乙彦『死刑囚の記録』、カッコ内の補足は加賀、太字は原文では傍点)と書いており、この体験は正田の心に事件にもつながる根深い人間不信を刻みつけたようです。

 

地元の大阪市立阿倍野小学校と大阪府立住吉中学校(旧制、現在の住吉高校)を優等生で卒業した正田昭は、旧制高校2校(1950年の学制改革により大阪大学に包括された大阪高校と、埼玉大学に包括された埼玉高校)の受験に失敗したあと、一年浪人して長兄の暴力から逃げるように上京*し慶応大学経済学部の予科(旧制大学の教養課程)に1948(昭和23)年入学します。

 *埼玉高校の受験もこの意味があったようです

 

正田は、すでに東京で海産物業を営んでいた次兄の荻窪のアパートに住まわせてもらい、先に書いたように学費も次兄が出してくれました。

また1949(昭和24)年からは、神奈川県藤沢市辻堂に次兄が家を買ったので、長兄から離すために母と次姉も大阪から呼び4人で暮らしました。

 

新制大学に切り替わった学部1年生の20歳の時、予科からの同期で4歳年上の友人に誘われ藤沢のダンス教修所に通い始めた正田は、7月にひとつ年下の19歳ながらすでに学校の体操教師をしていた杉崎弥生という女性と出会います。

 

明るく活動的な彼女は、はっきりと自分の意見を言う女性で、まだ学生の正田は「自分よりずっと大人で、姉のような感じがし、また性格も男のような強いところがあって、むしろこちらが彼女に頼っていた」(後述の吉益精神鑑定書)と述べています。

 

下の絵は、正田が潜伏していた京都のアパートの自室に飾っていた自作の「ルンバを踊る女」ですが、正田昭作品集を編んだ川村湊氏によると、この絵の女性が杉崎弥生さんに似ていると言われるそうです。

 

 

出逢ってひと月で深い仲になった正田は、この魅力的な女性に強く心を惹かれ、やがて二人は結婚を約束し合うようになります。

 

ところがある日、自分をダンス教修所に誘った友人から、彼女は多くの男性と関係のあった「浮気な女」で自分も性的関係をもったと聞かされた正田は、大変な衝撃を受けます。

 

何事につけ積極的に行動する彼女にそういう噂があったのは事実のようで、正田の母親も「身持ちの悪い女」だと彼女を嫌い、二人の結婚には大反対でした。

しかし、噂がどこまで本当であるかは明らかでありませんし、友人の告げ口も彼女にフラれた腹いせからのことだったかもしれません。

 

ただそれが正田の生来の猜疑心と嫉妬心に火をつけ、10月ごろにはひどい神経衰弱の状態で、昼間は家に閉じこもり夜になると当てもなく家を出て歩き遺書めいたものまで書くほどでした。

何か恐ろしいものに背後から襲いかかられるような恐怖心を覚えて、短刀を持ち歩いてもいたそうです。

 

そうした異常な行動は、ひと月ほどして彼女と和解したことから寛解(軽減)はしましたが、子どものころからの根深い人間不信と杉崎さんへの嫉妬心に苦しみ、今で言う自傷行為でもあったのでしょうか、麻雀を覚えて多額のお金を賭けるようになり、育英資金や授業料まで使い込む自堕落で自己破滅的な浪費生活で身を持ち崩すようになります*。

 *母親はそうなっても昭をたしなめることなく、息子を堕落させたと杉崎さんを責めたようで、一方彼女はそういう母親の態度が昭をだめにしたと言い返したそうです

 

杉崎さんとの交際はその後もぎくしゃくしながら続きました*が、彼女が妊娠したときに正田は、自分の子だとの確証がもてず育てることもできないと3度も中絶させています。

 *恋慕と憎悪という杉崎さんへの相反する感情を正田はずっと抱き続けます

 

こうして大学4年生になった正田は、日産自動車の入社試験を受けました。

ところがまったく予期せぬことに、身体検査で「肺浸潤(はいしんじゅん:X線撮影で肺に影のある状態で、肺結核の初期状態が疑われた)」と診断されて身体検査に合格が必須の「一流会社」への望みを断たれた正田は愕然とします。

 

杉崎さんとの結婚も危うくなった正田の絶望感はいっそう深まって自棄的になり、賭け麻雀に遊郭にと金づかいはさらに荒く、暴力をふるったりふすまを蹴破ったりウソをついて母親から金をせびり、勝手に家を担保に借りた8万円(現在の60万円近く)をひと月で使い果たすことさえありました*。

 *こうしたことから、1953(昭和28)年3月に藤沢市辻堂の次兄の家を飛び出した正田は、先にあげた藤沢市本鵠沼(ほんくげぬま)の知人宅に無理やり下宿しました

 

こうして正田は、1953(昭和28)年4月*に不本意ながら中堅の証券会社である三栄証券にとりあえずのつもりで就職します。

 *卒業単位が足らなかった正田は、追試験を受けてようやく5月に大学から卒業を認められた

 

就職してもなお失意のどん底から立ち直れない正田は逃避的な浪費生活がやめられず、職場でただ一人の大卒者という期待に反して勤務態度は悪いものでした。

そんなおり、正田と面識のあった杉崎さんの叔母が、彼の営業成績をあげてやろうとの好意から株の信用取引を依頼し、売買の証拠金として現金10万円(現在の70万円あまり)と株券1700株(約20万円相当、現在の約150万円)を彼に預けました。

 

しかし、信用取引に失敗した正田は現金のほとんどを失った上に、勤務態度不良として入社から2ヶ月後の6月25日に三栄証券を解雇されてしまいます。

このことで杉崎さんからも愛想を尽かされ別れを告げられました。

 

職と恋人を失った正田は、杉崎さんの叔母から預かっていた株券を無断で換金し、そのお金で株取引をして損失を取り返し彼女とも復縁しようと考えました。

 

その時に株券の換金を頼んだのが、三栄証券の社外外交員で被害者となる博多周さん*だったのです。

 *後の精神鑑定で正田は、博多さんの話す内容や自分への態度が初めから大嫌いで、自分が会社を解雇されたのも彼が上司に良からぬことを吹き込んだからではないかとの恨みを抱いていたと述べています。正田にとって博多さんは、先に見た「不信と憎悪の対象である「大人」」の典型だったのです

 

ところが乱れきった浪費生活を改められない正田は、換金したお金までもずるずると使ってしまったため、切羽詰まったあげくに偽りの金融取引を口実に現金を持参させて博多さんを呼び出し、殺害して金を奪おうと計画したのです。

 

こうして知り合いの近藤清と相川貞次郎に声をかけて仲間に引き込んだ正田昭は、解雇から約1ヶ月後の7月27日、バー「メッカ」で強盗殺人事件を起こすに到りました。

 

【裁判と判決】

1953年12月19日に東京地裁で正田・近藤・相川の初公判が開かれ、満員となった傍聴席には正田を直に見たいという女性の姿が目立ったそうです。

 

罪状認否では、正田と近藤が起訴事実をほぼ全面的に認めたのに対し、相川は殺人容疑を否認しました。

 

読売新聞(1953年12月19日夕刊)

 

裁判では、正木亮弁護人が正田昭は犯行当時精神病を罹患して心神耗弱の状態にあったと精神鑑定を請求したため、正田を都立松沢病院に入院させ林暲院長が鑑定に当たりました。

 

入院中に母親は何度も面会に来ましたが、戦後再来日していた著名なカトリック教会のソーヴール・カンドウ神父が信者である次兄の計らいで面会に訪れ、彼の教えに心打たれた正田は回心し1955(昭和30)年7月9日に母親と共に洗礼を受けます。

 

松沢病院での正田昭と母親のちゃうさん

(『作品集』より)

*勾留後に正田は小太りした

 

カンドウ神父

 

精神鑑定の結果は、1956(昭和31)年11月15日の公判で林鑑定人が供述したように、正田に分裂病質の傾向はあるが精神分裂病(現在の統合失調症)ではなく*、以前に分裂病に罹患していたとしても今それを認めるべき証拠はない。犯行時に妄想ともいえる被害観念を抱いていたが是非善悪の弁識能力ならびにその弁識に従って行動する能力が著しく減退した状態にあったとは認められないから、心神耗弱の状態にはなかった、というものでした。

 *精神分裂病(統合失調症)が脳の機能異常による幻覚・妄想などの精神疾患であるのに対し、分裂病質は他者への無関心や孤立を好むなど性格・パーソナリティの傾向を指します

 

1956年12月15日の判決公判で白河裁判長は、求刑どおり正田に死刑、近藤に懲役10年、相川に懲役5年の判決を言い渡し、近藤と相川は判決を受け入れて刑が確定しましたが、正田は控訴しました。

 

読売新聞(1956年12月15日夕刊)

 

東京高裁でも一審に引き続き正田の刑事責任能力が争われ、正木弁護人の要請で吉益脩夫東大教授(助手・武村信義)による再度の精神鑑定がおこなわれました。

 

この鑑定書は、内村祐之・吉益脩夫監修『日本の精神鑑定[増補新版]』(みすず書房、2018)に収録されていますが、犯行に到るまでの正田の精神状態や異常行動はもちろん背景をなす生育環境から人間関係など、本人と関係者からの聞き取りを含め非常に詳しく述べられており、このブログでも多くを参照させてもらった事件を知るための必読文献です。

 

 

吉益鑑定でも一審の林鑑定と結論部分が大きく変わることなく、それも踏まえて1960(昭和35)年12月21日の判決公判で長谷川裁判長は控訴棄却を言い渡しました。

 

少し長くなりますし古めかしい裁判所の用語・文体で読みにくいとは思いますが、判決文の結論部分をあげておきます。

 

「本件は白昼都心において突如として行われた極めて残虐な殺人であり、まさに鬼畜の所為を思わしめるものがある。その動機は、放埒放蕩の果ての物欲に出で、計画は綿密、陰険にして、しかも大胆である。被害者にはこれといってとがむべき点は見当たらないのであって、被告人はさきにも被害者から金融を受けたことがあり、同人が警戒しないのに乗じて、これを誘い出したに過ぎないのである。一朝にして一家の支柱を失った被害者の遺族の悲嘆と痛恨はいうに及ばず、犯行後長期間逃晦して、社会に与えた恐怖と不安は深甚である。まことにこの上もなく犯情重大であるといわなければならない。

 他方、被告人は幼にして父を失い、母の手一つに、末っ子として、比較的我侭に育てられ、長じても適当な監督者や相談相手に欠け、加うるに生来多少分裂気質の傾向もあるところへ不幸にも愛人との間が破局的となったため、自暴自棄に陥って無軌道の放蕩に耽り、やがて本件の大事を企てるに至ったのである。今や被告人は深く過去を悔悟し、信仰により懺悔の境地に立ち到ったものの如くであり、漸く老いたる母はまた己にかえても被告人の刑の軽からんことをこいねがっている。これらに思い致せばまことに同情の念を禁じ得ないのである。

 さりながら、被告人にとって有利と認められる右各般の事情につき深甚な考慮を加えても、上記の犯情重大なるにかんがみれば、当裁判所としてもまた被告人に対し極刑を以て臨むのを相当とすると断ぜざるを得ないのである。」

 

被告・弁護人がさらに上告したため、裁判は最高裁まで続きました。

そうして1963(昭和38)年1月25日、最高裁第2小法廷の奥野裁判長が上告棄却を言い渡したことで、事件発生から9年6ヶ月して正田昭の死刑が確定しました。

 

朝日新聞(1963年1月25日夕刊)

 

そして1969(昭和44)年12月9日、東京拘置所で正田昭の絞首刑が執行されました。

被害者・博多周さんが亡くなったのと同じ40歳でした。

 

なお、一審判決で服役した共犯の相川貞次郎はもちろん、被害者を一緒に殺害した近藤清も正田の死刑執行と相前後して刑期を終え出所したものと思われます。

 

 

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小川里菜の目

 

【死刑判決】

1983(昭和58)年に最高裁が、控訴審での永山則夫被告への無期懲役判決を破棄して高裁に差し戻した判決で9項目の死刑適用基準(いわゆる「永山基準」)を示して以来、原則的に被害者が1人=無期懲役、同3人以上=死刑、同2人=死刑と無期のボーダーラインが目安となっています。

 

厳罰化傾向から近年はより厳しい判決も出されていますが、今なら正田昭は無期懲役になった可能性が非常に高い事件です。

ただ1950-60年代は、被害者が一人であっても死刑判決が多く出された時代でした。

 

【表現者となった正田】

以前このブログでもとりあげた横須賀線電車爆破事件(1968)の若松善紀は、死刑判決を受けてからクリスチャン(プロテスタント)となり、「純多摩良樹」の名前で懺悔の気持ちと獄中での日々を短歌に詠み、その作品と才能が高く評価されました。

 

今回の事件の正田昭も、先に触れたようにカトリックの洗礼をうけてクリスチャンになり、一審の死刑判決後に書いた小説「サハラの水」が文芸誌『群像』(講談社)新人文学賞の最終選考5作の一つとなって同誌1963年9月号に掲載され、その後も短編小説や習作、日記を書き残しています(川村湊編・解説『サハラの水 正田昭作品集』インパクト出版会 2023、に多くが収録)

 

 

しかし作品の中で正田は、抽象的に人間の罪に触れることはあっても、自分の犯罪やそれへの反省、被害者・遺族への謝罪などを語ることはありませんでした。

もちろん、だからといって彼の中に殺人の罪の自覚や悔悟、贖罪の気持ちがなかったということではないと思います。

 

【時代背景と性格の偏り】

この事件は、これもブログですでに取り上げた「光クラブ事件」(1948)などと共に「アプレゲール*犯罪」と呼ばれました。

 *「戦後」を意味するフランス語(英語にすれば「after war」)で、もともとは第一次大戦後にフランスで生まれた新しい文芸潮流(戦後派)を指した言葉

 

つまり敗戦後の混乱の中で、それまでの価値観や生き方、モラルなどが失われた(しかしそれに代わるものが見出せていない)、社会学で言う「アノミー(無規範)」状態の中で生まれた享楽的で刹那的な犯罪ということでしょう。

 

そうした時代の空気が正田に影響したことは、彼が安易に欲望に任せた自堕落な生活に堕ち、さしたる深慮もなく殺人の大罪を犯したところを見ても確かだと思います。

しかしそれ以上に大きかったのは、おそらく彼に生まれついた、そしてその後の家族環境と時代環境の中で助長された性格的な偏りではなかったでしょうか。

 

吉益鑑定では正田昭の「精神的現在症」として、次のような点があげられています(小川による抜粋、太字強調も小川)

 

[会話内容から]

・立居振舞はいつも礼儀正しく、丁寧でおとなしく女性的な印象を受けるほどにつつましやかである。対座するときわめて人当たりがよい。積極的に検者(吉益)に関与する意志がうかがわれ、決して常に嫌人的であるのではない

・質問内容が、とくに自己自身の性格や物や考え方に向けられたときは非常に積極的に話をするが世間一般や他人についてはほとんど十分な関心を示さない。すなわち被告人の関心の中心は常に自己自身に向けられている

・その感情はむしろ冷たく温かさに乏しく多少鈍感で単調である。事件の内容を語る時も驚かされるほど淡々として平然たる様子で、あたかも自分のことを他人ごとのように、あるいは強く自分をつっぱなして客観的になって語っているように見受けられる。

自我感情の強さ自己主張の強さは看守に対する要求の態度からも知ることができる。被告人の看守に対する態度はかなり横柄で、強く命令口調に話すようなところがある。その反面鑑定人に対しては極めて丁重であり、両方の場合の態度の相違はかなりいちじるしい。

・被告人の会話内容が具体性に乏しく抽象的であることが多い。

・会話に目立った虚言は含まない。しかし、自己正当化の意志はかなり明瞭で、自己顕示的に感ぜられたりする。

 

[テスト成績から]

・被告人の知能は優秀であり、ことに理論的総合力、抽象力がすぐれていて、創造性に富み、空想性も著しく豊かである。一方不安徴候がみられ不安定感強く強迫的傾向*が認められ、かつ幾分心気的**でさえある。

 *自分の意思に反して不快な考え(手が汚れているといった強迫観念)が頭から離れず、それを打ち消そうと過剰な行動(際限なく手を洗うといった強迫行動)を繰り返してしまう状態

 **些細な不調を重篤な病気の徴候と思い込み、不安や恐怖にかられること

・その感情生活は豊かであるが、易変性*に傾き、やや自己統御力に乏しい

 *気分・感情が激しく変化しやすい

 

それらを概括して、「全体的にみて、神経症的傾向*の認められる分裂病質者**が縷々(るる)示す反応内容である」と述べられています。

 *不安、怒り、悲しみなどのネガティブな感情を感じやすく、ストレスや環境の変化に敏感な性格特性

 **他者との交流に関心を持たず、孤立を好み、感情表出が乏しい性格傾向をもつ人。冷淡に見えるが、内面は敏感で空想や内省に没頭する人も多い

 

一言でいえば過剰な自己中心的性格傾向、裏返すと他者や外界へのリアルな感覚や共感性の欠落のどこまでが生まれつきのもので、どこからが後天的・環境的なものなのか、その腑分けはよく分かりませんが、以上の鑑定内容を踏まえると正田昭の行動をある程度理解できるような気がします。

 

被害者の博多さんや2人の共犯者に対しても正田の扱いは非常に冷淡というか、自分の身勝手な欲求を満たすための単なる道具としか思っていないところがあります。

 

【杉崎弥生さんと正田昭】

杉崎弥生さんに対する正田の態度に小川はそれを強く感じました。

 

杉崎さんについては情報がほとんどありませんので小川の想像混じりですが、先にも書いたように彼女は、おとなしく男性(夫)に尽くす控え目でおしとやかな「良妻賢母」「貞女の鏡」的生き方に満足する旧い道徳に縛られた女性ではありませんでした*。

 *だからこそ、正田ら旧い男性優位の観念に縛られた男たちや女(正田の母)から「浮気女」「身持ちの悪い女」とバッシングされた

 

 

自由で活動的で奔放でダンス指導者としての野心にもあふれた彼女は、そもそも正田のような「小さい男」の手に負える女性ではなかったのです。

 

案の定正田は、自分の対極にいる杉崎さんに憧れ心を奪われますが、彼女を自分の「小さな世界」に閉じ込めて独占支配できないことに落胆しいらだち、それに「一流会社」への就職を断念せざるをえない不本意な現実に直面して、子どもがだだをこねるように自堕落な生活へと逃避し、挙げ句の果てに強盗殺人事件まで起こしてしまったのです。

 

頭の良い正田は、それが愚かで破滅的な行為でしかないことを理解していました。

しかし、あたかも他人の行為をただ眺めるかのように彼は自分で自分をどうすることもできず「地獄」へと堕ちて行ったのです。

 

【神の愛、母の愛、自己愛】

それを正田は、次のように自己了解しています。

「私は、進んで破滅を求めたのです。私にとっては、もはや破滅だけが長い間ひとびとの視線の向こう側に絶望して蹲(うずくま)っている本当の自分を取り戻す、たった一つの、避け難い方法でございました。」(上告趣意書、太字は原文では傍点)

 

小説「サハラの水」には、不毛と見える乾ききった沙漠の地下深くには豊かな水流があるという話が出てきます。

そして小説は、自分が蔑みの目で見ていた雑用係の現地人が、沙漠で迷い渇いて死にそうな雇い主の白人たちに水筒から水を飲ませようとする光景を、同じく死に瀕した「私」が幻視するところで終わっています。

 

信用できない醜い人間(おとな)たちや不条理に満ちた現実(沙漠)から、目に見えない自我の内面を掘り進んでいくと、ついには尽きることない神の慈愛(水)に到達できる——。

 

文学の素養のない小川には、正田の作品を評価する能力はありませんし、宗教心のない小川が正田の信仰について深く理解し論じることもできません。

 

正田が、彼なりに生きることに苦しみあがいて罪を犯し、救いを求め信仰を通してある境地へと到ったことは事実でしょうし、それを言語的に表現しえたのはとても希少なことだったと思います。

 

ただ、正田昭が最後までリアルに共感的に尊厳あるものとして受けとめられなかったのは自分とは異質で独立した他者(他我)*であり、彼にとっての神の愛とは母の愛に包まれた母子一体の幼児的自己愛ではなかったのかと思わずにはおれませんでした。

 *逆に自分に対して共感的に接してくる同質的な人たち、加賀乙彦氏や文通し結婚まで考えたクリスチャンの高校教師「美絵さん」などに対して、彼は深く心を開いて交流しました

 

「ぼくの大好きなおかあさん、優しいおかあさん、いいおかあさん、愛に満ちた、ほんとにほんとにすばらしいおかあさん、世界一のおかあさん、さようなら!

でもまたすぐ会いましょうね。だからあまり泣かぬように。

さようなら、百万べんも、さようなら!

今こそ、ぼくはおかあさんのすぐそば、いや、ふところの中ですよ、おかあさん!!」(母への最後の手紙、1969年12月8日)

 

死刑執行前の正田昭

(「作品集」より)

 

 

毎年4月2日は国連が定めた「世界自閉症啓発デー」だよ💙💙

この日は、世界172カ国の有名なランドマークが青い光でつながる💙💙

また、4月2日から8日は「発達障害啓発週間」にもなっているんだね💙💙

 

 

去年の4月2日ボクは、青くライトアップされた明石城を小川と一緒に見に行ったんだ😸💙

 

そして今年は、小トラも連れて兵庫大仏とメリケンパークに行ってきたんだよ💙😸

メリケンパークの桜は8分咲きだった😺💙

 

 

 

 

 
来年はどこに行こうか、楽しみだな😻💙
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読んでくださり、ありがとうございます🥹

次回もよろしくお願いします🙏

妻の妹を愛人にした詐欺男の

「トルコ嬢」保険金殺人事件

1976年

今回は、今からちょうど50年前に起きた事件ですが、小川が見た限りではネットでも取り上げられていない非常にマイナーな事件です。

 

しかし同じ1976年の5月6日に、以前にブログで取り上げた歌手の克美しげるが元「トルコ嬢」の愛人女性を殺害する事件が起きており、また1970年代は保険金目的の殺人事件が多発し始めていたことから、この時代に特徴的な犯罪として以前から小川が気にとめていたものです。

 

 

ここで言われる「トルコ嬢」とは、当時「トルコ風呂」と呼ばれていた風俗店の女性従業員のことですが、「トルコ風呂」というのは不適切だとトルコ人留学生らから大使館を通して抗議があったため、1984年に「ソープランド」に改名されています。
このブログでは、あくまでも当時の言い方として最小限用いていますが、後でも触れるようにこの種の性風俗店の業態とトルコの公衆浴場とはまったく異質なものですので、その点は明確に申し上げておきます。
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朝日新聞(1976年7月3日)
 
【事件の概要】
1976(昭和51)年4月3日の夜、横浜市神奈川区西寺尾の民家から110番通報があり、警察官がかけつけたところ若い女性が倒れており、すぐに救急搬送しましたがすでに死亡していました。
 
事件現場の家
(『週刊文春』1976年7月15日号)
 

亡くなっていたのは福島県出身の橋本洋子さん(当時20歳)で、遺体に外傷や薬物反応がなかったことから警察は病死と判断しました。

 

この家は、同年(1976)1月に「渡辺盛」と名乗る男が借りたものですが、引っ越し時も布団とわずかな家財道具しか搬入せず、昼間から雨戸を閉めて門扉には針金を巻きつけ、回覧板なども不要だと近所との交流を避けていることから、近隣住民は「気味の悪い家」だと感じていたそうです(『週刊文春』)

 

橋本さんはこの家に、同年2月初めごろからお手伝いさんとして住み込んでいました。

 

警察はいったん事件性なしとして橋本さんの変死を処理したのですが、1975(昭和50)年に石田明男という人物が起こした取り込み詐欺事件の捜査過程で、石田と「渡辺盛」が同一人物(「渡辺」が偽名)だと判明したことから、疑念を抱いた警察があらためて橋本さんの死について再捜査を進めました。

 

その結果橋本さんは、「渡辺」こと石田明男(同40歳)と彼の義妹(妻の妹)である杉田時江(同23歳)という女が共謀し、生命保険金をだまし取るために殺害されたと分かったのです。

 

石田は裁判でも殺害したことを否認し続けましたが、警察の捜査と杉田時江の供述によって事件の真相が次のように明らかとなりました。

 

主犯の石田明男

石田明男は、1936(昭和11)年に埼玉県上尾市に生まれて地元の小学校に入り、戦争中に千葉に疎開しました。

 

彼は千葉の中学校を2年で行かなくなりますが、その間に窃盗などで少年院に入るなど、すでに悪の道に入り込んでいたようです。

 

主犯の石田明男

 

戦後石田は、埼玉県大宮市(現在はさいたま市)で「東邦家具」という会社を設立し、その時に取引先だった農協に勤める女性と知り合い結婚しました。

石田の妻となったその女性の8歳下の妹が、事件の共犯者となる杉田時江だったのです。

 

埼玉県大里郡寄居町寄居に新居を構えた石田夫妻には、4人の子どもも生まれます。

 

その後、1970(昭和45)年から石田は、「東邦」や「群栄」などの名前で会社を設立してはつぶすを繰り返していたようです。

 

社長が常務を保険金殺人?

その間に石田は、保険金殺人だったのではないかと疑われた出来事に関与しています。

 

朝日新聞(1976年7月3日夕刊)

 

1971(昭和46)年に石田は、群馬県で「群栄」という商事会社を設立し社長になりますが、その常務だった高柳登さん(当時42歳)が1972年1月8日に埼玉県内で行方不明になり、10日に同県行田市佐間の武蔵水路で水死体となって発見されました。

 

高柳さんには、石田と同社の専務(同43歳)を受取人にした1千万円を超える保険金がかけられており、2人は保険金を受け取っていました。

 

当時、行田署が石田らに事情を聴きましたが犯罪との確証が得られず、高柳さんは事故死として処理されたからです。

 

高柳さんの保険金で味をしめた石田が、橋本洋子さんを殺害してもう一度多額の保険金を手に入れようと企んだのがこの事件でした。

 

取り込み詐欺と義妹との家出

1973(昭和48)年3月、埼玉県浦和市(現在はさいたま市)の青果物卸売市場で石田は、1800万円*余りの取り込み詐欺を働きます。

 *消費者物価指数で換算すると、現在の6〜7千万円に相当

 

この詐欺は、石田の妻の父親(義父)が借金して約2000万円の弁償金を支払うことで示談になったようですが、「おかげでかなり大きな農家であるこの家の田畑の半分近くは差しおさえられ、これからさき7年かかって借金の返済に苦しまなければならないはめになった」(『週刊文春』)そうです。

 

この件もあって石田と妻との仲は完全に冷え、そのすきに石田が手を出したのが妻の妹である杉田時江だったのでしょう。

義妹と愛人関係になった石田は、2人で逃げるように横浜に家出しました。

 

共犯の杉田時江

 

そこで金を稼ごうとした石田が思いついたのは、まじめに働くことなどではなく、またしても取り込み詐欺でした。

 

1975(昭和50)年5月、性懲りもなく石田は横浜中央卸売市場で仲買業者に「小切手を家に忘れたが、金は後で払う」と嘘をつき、タマネギやジャガイモなど約130万円(現在の300〜350万円)相当の品をだまし取ったのです。

 

しかし、手っ取り早くもっと大きな金を手に入れようと思った石田が考えたのが、以前に成功して味をしめた保険金詐欺でした。

 

再度狙った保険金詐取

愛人(義妹)の杉田時江はそのころ川崎市内の「トルコ風呂」で働かされていましたが、石田から「何とか金をつくろう。女をさがして来い。殺して保険金をとろう」と言われます。

 

実父が石田のせいで借金返済に苦しんでいるのを知っている時江は、彼に言われるがまま同僚の「トルコ嬢」の中からカモにできそうな女性を探しました。

 

1975年10月ごろ「性格がややヨワかった」(『週刊文春』)橋本洋子さんに目をつけた時江は「家事を手伝ってほしい」と彼女を誘い、1976年2月初めに事件が起きた横浜市神奈川区の「渡辺」(石田の偽名)宅に住み込ませたのです。

 

被害者となった橋本洋子さんは、福島県田村郡(現在の田村市)船引町春山の出身で、5人きょうだいの末娘でした。

 

被害者の橋本洋子さん

 

船引中学を卒業した橋本さんは、福島県郡山市の日東紡績富久山工場で2年間、女工として働きます*。

 *橋本さんが中学を卒業したと思われる1971年の女子の高校進学率は、全国平均で85.9%(学校基本調査)ですので、もう「中卒で就職が当たり前」という時代ではありませんでしたから、家に経済的余裕がないなどの理由があったのではないでしょうか

 

その後、工場勤めを辞めて上京した橋本さんは、いくつかの仕事を経て川崎市内の「トルコ風呂」で働くようになり、杉田時江と知り合うのです。

 

お手伝いさんをすると思って住み込んだ橋本さんですが、石田は時江と共謀してすぐに恐ろしい「殺人計画」を実行に移します。

 

冷酷に実行された殺人計画

 

読売新聞(1976年7月3日)

 

橋本さんを外出させず軟禁状態に置いた石田らは、便秘に効くと称して大量のヒマシ油*や鎮痛剤を飲ませたり、夜尿症対策だとして冬の最中、水温10度ほどの水風呂に連日1〜2時間も入れるなどして彼女の体力を消耗させました。

 *「トウゴマ」の種子から抽出される植物性油脂で、即効性の便秘薬として用いられますが、多用・連用すると下痢や慢性的な栄養不良に陥る危険性があります

 

その一方、2月16日に神奈川県農協の養老生命共済保険(30年満期、保険金2千万円で病死・災害死の場合も同額)に橋本さんと杉田時江が互いに受取人になる形で加入します。

2人分で月に9万8000円(現在の約20万円余り)にもなる掛け金は、作家の「渡辺盛」と名乗った石田が支払う形での契約でした。

 

しかし掛け金を支払ったのは最初の2ヶ月だけで、3回目の4月は1人分しか支払いがなかったそうです。

 

その間に、橋本さんの殺人計画、「死に至る虐待」はエスカレートします。

約50錠もの睡眠薬を細かく砕いて食事や飲み物に混ぜて飲ませ慢性中毒*にし、水風呂も2〜3時間と長くして風呂を出てからも床に裸で寝かせたまま風をあてたり冷水をかけたりして彼女の体を衰弱させました。

 *どういう薬剤を飲ませたのか分かりませんが、当時は副作用が強かった睡眠薬からより安全なものへの移行期で、もし従来からの「バルビツール酸系」睡眠薬を高橋さんに大量に飲ませていたとすると、副作用で呼吸機能が低下し死に至る危険性がありました

 

こうして橋本さんは気管支肺炎を発症するのですが、なんの治療もしないまま虐待が続いたため、ついに4月3日に彼女の生命は尽きたのです。

 

その日の朝彼らは、水風呂で体調不良を訴えた橋本さんを風呂から出して寝かせ、放置したまま2人で埼玉に出かけましたが、夜に帰宅したら彼女が死んでいたので110番通報したと供述しています。

 

先に述べたように、いったんは警察が橋本さんを自然死と認めたため、石田は4月23日に神奈川県農協に生命保険金2千万円の支払いを請求します。

しかし農協は、橋本さんの死に疑念があるとして支払いを保留しました。

 

事件の発覚

そうしているうちに、先に述べた横浜での取り込み詐欺の容疑者である石田明男が、橋本さんを雇っていた「渡辺盛」と同一人物だと判明したため、橋本さんの死に改めて疑いをもった警察は、埼玉県の寄居に逃げていた石田らを取り込み詐欺容疑で別件逮捕し、この保険金殺人事件についても取り調べをおこないました。

 

それまで何度も警察に捕まり、刑事訴訟法や取り調べのノウハウについて知っていた石田は、被疑者の権利を行使して「疑わしきは罰せず」に持ち込めば「完全犯罪」にできる*と考え、杉田時江にも決して自供するなと釘を刺していたようですが、否認を貫く石田と異なり心底悪に染まってはいなかった時江は、一週間後に「取り込み詐欺で家族に2千万円近い借金があり、石田に言われるままに洋子さんを殺して保険金をだまし取ろうとした」と犯行を自供したのです。

 *下の記事にあるように、高橋さんを殺してから石田らは、彼女が使っていた布団や食器その他証拠になりそうなものをすべて、2回に分けて埼玉県内の荒川などに捨てています

 

朝日新聞(1976年7月25日)

 

【裁判と判決】

1976年7月7日、横浜地検はまず横浜中央卸売市場での詐欺罪で石田と時江の2人を起訴しました。

 

朝日新聞(1976年7月8日)

 

次いで7月24日、横浜地検は本命である橋本洋子さんの殺人と保険金の詐取未遂で2人を起訴しました。

 

朝日新聞(1976年7月24日夕刊)

 

横浜地裁で1976年11月25日に開かれた第二回公判の罪状認否で、石田は殺人・保険金詐取未遂容疑を別件の取り込み詐欺も含めて全面否認し、睡眠薬は橋本さん本人が自分の意思で飲んだもので殺意も何もないと言い張りました。

 

朝日新聞(1976年11月26日)

 

1983(昭和58)年10月18日の論告求刑公判で検察は、「残忍な手口で被告に反省の色がない」と石田に無期懲役を求刑します。

 

読売新聞(1983年10月18日夕刊)

 

それを受けて横浜地裁の小川陽一裁判長は、1984(昭和59)年5月8日の判決公判で、「何の落ち度もない女性を、陰湿、執よう、残酷な方法で殺すなど、類を見ない非道な犯行だ。反省もせず、再犯の恐れも十分にある」と厳しく石田を断罪し、求刑どおり無期懲役の判決を下しました。

 

なお、全面否認を続ける石田被告は、この場でも裁判長に暴言を吐き、主文言い渡し後に退廷させられたそうです。

 

朝日新聞(1984年5月8日夕刊)

 

容疑を全面否認した石田明男ですから、無期懲役判決に対して控訴したのではないかと思われますが、新聞報道ではこれ以上追いかけることはできませんでした。

 

一緒に起訴された従犯の杉田時江については、罪を認めていたことから石田とは別に裁判がおこなわれ(分離公判)、懲役12年の一審判決がそのまま確定し、刑に服したようです。

 

なお石田明男の妻は、夫が自分の妹と愛人関係になって一緒に家出したことを知らなかったようで(『週刊文春』)、事件後に離婚しています。

 

 

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小川里菜の目

 

広岡敬一『戦後性風俗体系』(朝日出版社、2000)によると、「昭和26(1951)年4月1日、日本で最初の〝トルコ風呂〟が開店する。東銀座の「東京温泉」だ。延べ1600坪の建物は、蒸し風呂付きの大浴場のほか、30の個室も設けられレストランや喫茶の設備もある、当時は豪華を極めるレジャー施設だった」(p.84)そうです。

 

 

「東京温泉」

 

東京温泉は、ボックス式の個人用スチームバスと垢すり・マッサージを女性従業員がおこなう店で、このころは性的サービスなどなく「正統マッサージだけ」でした。

銀行員の初任給が3千円の時代に、「美人ぞろい」の女性従業員は月に7、8万円の高給*をとっていて、客がお金をちらつかせて性的サービスを求めても応じる必要がなかったのです(広岡)

 *消費者物価指数で換算すると現在の300万円にも相当するそうです

 

開業当初の「東京温泉」

 

東京温泉が「トルコ風呂」と呼ばれるようになったのは、夕刊紙「内外タイムス」が開店を伝える記事に「日本に初めてトルコ風呂が」と見出しをつけたからだと言われます。

整理部記者が、トルコ共和国の蒸し風呂(サウナとマッサージを組み合わせたトルコの伝統的な公衆浴場「ハマム」)を連想したからだそうです(広岡)

 

その後、満員盛況の東京温泉をまねた店がたくさんできましたが、こうした店がいわゆる性風俗店になっていったのはずっと後の1970年代に入ってからだそうです。

 

しかし、性的サービスや事実上売買春までおこなわれる性風俗店となった日本の「トルコ風呂」は、下の記事にあるようにトルコの公衆浴場とはまったく無縁のものです。

 

朝日新聞(1984年10月1日)

 

こうした強い抗議を受けて、業界団体は1984年に店の一般名を「ソープランド」に変更したのです。

 

この事件が起きた1970年代は、性サービスを始めた「トルコ風呂」が人気を集め、良い内容・条件での仕事につけない女性たちが生活のためにそこへと引き寄せられていきました*。

 *女性差別撤廃条約(1979)を日本が批准し、男女雇用機会均等法が制定されたのはようやく1985年になってのことで、このころは女性の就労機会も職場での地位や賃金もずっと条件の悪いものでした

 

しかし、「トルコ嬢」と呼ばれた彼女たちの周囲には、お金目当てのうさんくさい男たちが集まってきた(いわゆる「ヒモ男」に働かされた女性も多かった)らしく、この事件を報じた新聞記事を探していると「トルコ嬢」が被害者となった事件がいくつも目につき、彼女たちがそれなりの稼ぎと引き換えに危険と隣り合わせの世界で生きていたのだと実感しました。

その中から8つの事件に関する記事を上げておきます。

 

①「無期と懲役15年判決 新宿のトルコ嬢殺し」(1966年)

犯行当時19歳の無職男が愛人と一緒に元愛人の「トルコ嬢」の家に侵入して彼女を絞殺し、現金と電化製品などを奪った事件。

 

読売新聞(1967年3月11日夕刊)

 

②「愛人のトルコ嬢を殴り殺す 「稼ぎが悪い」と」(1975)

岐阜県で前科5犯無職の男が、「トルコ風呂」で働かせていた愛人女性の稼ぎが悪いとこぶしや木刀で10時間以上も殴り続け、死亡させた事件。

 

読売新聞(1975年1月20日夕刊)

 

③「トルコ嬢、遺体で発見 不明事件 池谷が殺し埋める」(1976年)

静岡県の「トルコ嬢」が客の男性に金を奪う目的でドライブに誘い出されて殺され、山梨県の用水路の底に埋められた事件。

 

朝日新聞(1976年7月6日夕刊)

 

朝日新聞(1977年3月11日夕刊)

 

④「トルコ嬢、山に埋めた」東京から松山に連れ出し」(1978年)

銀座のクラブのママ殺しで捕まった会社社長の男らが、別件で「トルコ嬢」をお金目当てに殺害し四国の山中に埋めたことを自供した事件。

 

読売新聞(1978年7月22日夕刊)

 

⑤「味しめたヒモの生活 バラバラ殺人」(1979年)

東京西池袋のマンションで、自分は働きもせずに韓国人の「トルコ嬢」に寄生していた男が、別れを切り出されたことから殺害し遺体をバラバラにして逃走、その後、新潟でも愛人を「トルコ風呂」で働かせて「ヒモ生活」を送っていたところを逮捕された事件。

 

読売新聞(1979年7月14日)

 

⑥「トルコ嬢殺人 浮き草稼業のはかなさ」(1982年)

東京板橋区のマンションで、一人暮らしの「トルコ嬢」が殺害された事件。都内の高校を中退し21歳で「トルコ嬢」になった被害女性は、月約150万円ほどと見られる収入のほとんどをホストクラブなどで男に貢ぎ、持ち金は40万円余りしかなかった。

 

 

読売新聞(1982年2月18日)

 

⑦「トルコ嬢殺人に懲役12年 東京地裁」(1984年)

身よりも金もない客に同情してホテルに同宿させた「トルコ嬢」が、勘違いした男から一緒に暮らそうと持ちかけられ、断ったために絞殺された東京都の事件

 

朝日新聞(1984年6月4日夕刊)

 

⑧「ソープの恋、悲しい結末  実直運転手、「純情」ゆえの凶行」(1988年)

東京新宿区のマンションで、吉原の売れっ子ソープ嬢がタクシー運転手の中年男に刺し殺された事件。客としてタクシーに乗せたソープ嬢に好意をいだき借金までして店に通い詰めた男は、彼女の愛想のよい接客態度から好意を持ってくれていると勘違いし結婚を申し込んだが冷たく断られたために凶行に走った。

 

読売新聞(1988年4月20日夕刊)

 


今回取り上げた事件については、当時は生命保険が顧客獲得のために親族以外の他人でも簡単に受取人になれた*ため、保険金殺人を誘発したことが根本的な問題としてあげられねばならないでしょう。

 *現在も法的には誰でも保険金の受取人になれますが、保険会社のルールとして二親等内の親族以外は保険会社が理由があると認めない限り基本的には受取人になれなくなっています

 

とはいえ、あまり恵まれた生育環境でなかったことは推測できますし、戦中戦後の時代の不幸もあったのでしょうが、石田明男は詐欺や怪しげな商売を繰り返して世渡りしてきた人物で、結婚し4人の子どもに恵まれながらも家庭をいっさい省みることなく、義父に詐欺の弁済金を肩代わりさせ、妻の妹には手を出し、一度はうまくいった保険金殺人に味をしめ、安易に大金を手に入れようと何の罪もない若い女性をだまして家に連れ込み、2ヶ月もの間計画的かつむごい虐待を続けて衰弱死させるという、文字通り血も涙もない悪逆非道というしかない男です。

 

そうとうな収入があるという作家の「渡辺盛」こと石田明男の家で住み込みのお手伝いさんをしないかと同僚だった杉田時江に誘われた橋本洋子さんは、これで親にも言えなかった風俗の仕事からやっと抜け出せると人生に希望を取り戻したかもしれません。

 

ところが、住み込んですぐに軟禁状態におかれ、虐待が始まったのです。

保険の契約に訪れた農協の職員は、部屋に「渡辺センセイ」(石田)とサングラスの女(時江)、そして「ふやけた感じの若い女性」がいたと語っていますが(『週刊文春』)、橋本さんはもうすでにこの時点で生気が感じられないまでに衰弱していたのかもしれません。

 

睡眠薬の慢性中毒で意識もうろうとなりながら、真冬に長時間水風呂に入れられる拷問のような日々に、橋本さんはいったい何を支えに消えかかる命の火をともし続けたのでしょうか……、遠いふるさとの懐かしい風景や親きょうだいの顔なども頭に浮かんだに違いないと想像するだけで、心が苦しくなる小川ですショボーン

 

橋本洋子さんのふるさと

福島県田村市船引町春山の風景(現在)

(Googleマップ)

 

 

今日はボクが好きな大阪にある昭和レトロな喫茶「マヅラ」を紹介するね

現在の場所で開店したのは、大阪でアジア初の万国博覧会があった1970(昭和45)年だよ

 

 
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コーヒー豆と一緒にウィスキーの卸もしていた関係で

ジョニー・ウォーカーの人形が今も入り口でお出迎えしてるよ

 

オープン当日の写真が店外に飾ってある
今と変わってないね
 


 

 

 中はこんな感じだよ
 

別の場所で営業していたころのお店だって

 

 

当時から使われているイスだよ
ボクにはちょっと大きすぎるかな……
 

今の時代にコーヒーが350円なのはすごいけど
少し前までは200円だったとか……
 

よし、ケーキセットにしよう!
 

お店で手作りしてるバスクチーズケーキだって
 

この電灯も開店当時のままなんだ
 
梅田の大阪駅前第1ビル地下という立地の良さもあって、
若い人からサラリーマンまでお店はいつもにぎわってる
喫煙室があるのも最近では珍しいらしいね
もし近くに来ることがあれば
ぜひ寄ってみてね😸
 
今回も最後までお読みくださり
ありがとうございます😍
次回もよろしくお願いします💕

 

【リクエスト企画】

奈良小1女児殺害事件

小林薫の36年の半生

2004年

今回はリクエスト企画です。

自分が被害者と同じ年齢なのでこの事件がとても気になって……、という方からリクエストをいただきました。

 

よく知られている事件ですので概要は簡略にし、今回は小林薫死刑囚の36年の半生を中心にまとめました。

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読売新聞(2004年11月18日夕刊)

 

【事件発生から犯人逮捕・起訴まで】

2004(平成16)年11月17日午後6時45分ごろ、奈良市学園大和町に住む有山茂樹さん(当時30歳)の妻・江利さん(同28歳)から、長女の奈良市立富雄北小学校1年生・楓(かえで)さん(同7歳)が学校から帰宅しないと、奈良県警奈良西署に通報がありました。

 

この日、午後1時に楓さんは下校しましたが、母の江利さんは保護者のバレーボールのために同校に向かっており、途中の午後1時40分ごろに楓さんと携帯電話で「今どこにいるの?」「学校の近所にいる」「ランドセルを家に置いてから学校においで」「自転車で行く」という内容の会話を交わしています。

 

ところが、楓さんは学校に現れず江利さんが何度電話しても通じない状態で、自宅にも帰った形跡がありませんでした。

そこで母親は近所の人たちと手分けして通学路を探しましたが楓さんが見つからなかったため、学校と相談のうえ警察に届け出たのです。

 

有山 楓さん

(遺族提供)

 

約1時間20分後の午後8時4分、母・江利さんの携帯電話に「娘はもらった」という楓さんの画像を添付したメールが、楓さんの携帯電話から届きました。

 

身代金の要求などはありませんでしたが、警察が誘拐の疑いで捜査していたところ、日が変わった11月18日午前0時5分ごろ、同小学校の南西約6キロの奈良県平群(へぐり)町菊美台の道路側溝(幅、深さとも約30㎝)で、車で通りかかった男性により楓さんの遺体が発見されたため、県警は誘拐殺人・死体遺棄事件として奈良西署に特別捜査本部を設置して捜査を進めました。

 

遺体が見つかった側溝を調べる捜査員

(産経新聞)

 

なお、見つかった楓さんは下校時と同じ服装でしたが両方とも裸足で、携帯電話やランドセル、靴と靴下、それにジャンパーは見つからず、また遺体に目立った刺し傷や絞殺の痕が見られない*ことから、口がふさがれるなどによる窒息死と見られると発表されました。

 *実際には遺体は死後に損壊されていたのですが、凄惨な状態からこの時点では警察は公表を控えていました

 

読売新聞(2004年11月18日夕刊)

 

遺体発見現場が通学路から外れているため、楓さんは別の場所で殺害されたあと運ばれて遺棄されたものと思われ、「下校時に車に乗せられる楓さんを見た」との目撃情報もあることから、警察は聞き込みを進めるなど確認を急ぎました。

 

12月14日の未明、母親と親族の携帯電話に犯人から、楓さんの遺体と楓さんの携帯電話に保存されていた妹の写真が添付された「次は妹だ」というメールが届きました。

 

警察が事件の容疑者にたどりつく手がかりとなったのは、楓さんの携帯電話はGPS機能がついたもので、メールの発信元をたどることができたからです。

ただ、1回目のメール(11/17)は平群町の基地局とまでは分かったものの車で移動中だったのか場所の特定には至りませんでした。

しかし、2回目のメール(12/14)では約5mの範囲という精度で場所が絞り込めたため、捜査本部はその一帯に捜査員約120人を投入して、集中的に聞き込みに当たらせました。

 

 

読売新聞(2004年12月31日)

 

その結果、捜査本部はGPSが示した近くに住む毎日新聞西大和ニュータウン販売所(河合町中山台2,現在の西和販売所)従業員・小林薫(同36歳)の犯行と突き止め、12月30日にまず裏づけのとれたわいせつ目的誘拐容疑で小林を逮捕し、殺人・死体遺棄容疑でも再逮捕して全容の解明に取り組みました。

 

小林が勤務していた新聞販売所

(Googleマップ、2015年撮影)

 

聞き込みによると小林は、同販売所に2004年7月から勤務しており、事件後に自宅近くの飲食店で複数の客に楓さんが写ったとみられる携帯電話の画像を「ネットにあった殺された子の写真」だと自慢げに見せていたことが判明。

また事件当日(11/17)は小林は休みでアリバイがなく、知人から借りた車(緑色のカローラⅡ)に乗っていたことから、30日朝に警察が任意同行を求めて取り調べていました。

 

読売新聞(2004年12月31日)

 

そして小林が住んでいたワンルームマンション(生駒郡三郷町勢野東)の家宅捜索では、室内から楓さんのランドセルや携帯電話、ジャンパーなどが発見されました。

 

小林薫が2階202号室に住んでいたマンション

(Googleマップ、2015年撮影)

 

逮捕された小林は、取り調べにおいて楓さんをわいせつ目的で誘拐してその死に関与し、遺体を損壊・遺棄したと認めたことから、検察はわいせつ誘拐・強制わいせつ致死・殺人・死体損壊・死体遺棄・脅迫・窃盗・強制わいせつの8つの罪で小林を奈良地裁に起訴しました。

 

【有山楓さんの誘拐と「殺害」】

小林薫の初公判は、2005(平成17)年4月18日、奈良地方裁判所(奥田哲也裁判長)で開かれました。

 

罪状認否で小林被告は「間違いありません」と起訴事実を認め、検察は取り調べ段階での被告の供述などを踏まえて、この異常な犯行について冒頭陳述をおこないました。

 

読売新聞(2005年4月18日夕刊)

 

取り調べ段階での小林の供述調書の内容と彼が公判中に「獄中手記」として書いた内容とは、犯行の動機と楓さんの死について異なる点がある*のですが、そのことに触れながら楓さん誘拐から死体遺棄までの経緯について、あらためて見ていくことにします。

 *ただ、後に触れるように公判廷の場で小林はそれについて証言することを拒み、自らの死刑を強く求めました

 

なお資料としては、供述調書を踏まえた奈良地裁の判決文(『判例タイムズ』No.1257、2008.2.15所収)と、小林の手記(「奈良女児殺害事件 小林薫被告 獄中手記」、『創(つくる)』2006.2月号〜12月号所収)を用い、さらに篠田博之『増補版 ドキュメント死刑囚』(ちくま文庫、2015)を参考にしています。

 

 

 

2004(平成16)年11月17日、この日は仕事が休みだったので午前9時半か10時ごろに目覚めた小林薫は、コップ酒を飲みテレビを見ながら時間を過ごしていましたが、日ごろのストレスから「どうせ死ぬなら好きなことをしてから死のう」と思い、同僚に借りていた車に乗って、大阪府八尾市方面にわいせつ行為*の対象となる少女を探しに出ました。

 *当時は、マスコミなどでは「いたずら」という言葉が用いられていますが、このブログでは引用文を除いて「わいせつ行為」とします

 

しかし、平日(水曜日)の昼間という時間帯もあって対象が見つからず、奈良に引き返す途中で買い物をしようと思い立った小林は、毎日新聞鹿ノ台販売所に勤めていたころに知っていた奈良市押熊町のスーパーに寄りました。

 

それから自宅に戻ろうと誘拐現場となった富雄地区を午後1時半ごろに通りかかった*小林は、下校中の小学生を目にしてわいせつ行為をしたいという欲求を再び覚えました。

 *判決文では、少女を物色する目的でわざとこの地区を通ったとされています

 

その時、少し急いでいるように1人で歩く自分好みの少女(有山楓さん)に目にとめた小林は、午後1時50分ごろ、人目の少ない場所で彼女を追い越しざまに車を停め、「どうしたん、乗せていってあげようか」と声をかけて巧みに車内に誘い込んだ*のです。

 *小林の手記では、「彼女はまったく疑うことをせず、「うん、ありがとう」と言って、自分で車のドアを開けて乗り込んだ」とされています

 

楓さんが小林の車に乗せられたと思われる付近

(Googleマップ、2011年撮影)

 

近くにわいせつ行為のできる死角がなかったことから、車を発進させた小林は、「忘れ物があるからちょっとおっちゃんのとこ先に行くわな」と自宅近くまで行って車を停め、「荷物多いからちょっと手伝って」とスーパーで買った食料品を運ぶのを口実に、楓さんをマンションの自室に誘い込みました。

 

【食い違う「事実」】

〈判決文による楓さん殺害の経緯〉

部屋に入った楓さんが宿題を始めたのを見た小林は、問題をすらすらと解き、受け答えもしっかりしている彼女を家に帰すと、自分が警察に捕まるかもしれないと思い、強姦した後で殺すしかないと思いました。

 

午後3時ごろ、楓さんが宿題を終えたので、「膝と手が汚れているので風呂に入り」と促し、入浴している彼女の胸を触るなどしたところ「おっちゃん、エッチ」と言うなど拒否反応を示したことから、このままだと大声を出されて近隣に気づかれてしまうと感じ、潜水ができるかと声をかけて顔を湯につけさせた上、殺意をもって約5分間、楓さんの頭と腰を両手で押さえつけて午後3時20分ごろに溺死させたのです。

 

その後、アリバイ工作のため勤務先に行き、行きつけの料理店で飲食するうち、屍姦しようと思いついて自宅に戻りましたが、うまくできなかったため、口を開けさせようとしたもののそれもうまくいかず、フォークやサバイバルナイフで遺体の歯をえぐり取って損壊しました。

 

その後、携帯電話にかかってきていた母親(江利さん)の動揺した声を聞いて、楓さんを自分のものにしたという満足感を伝えるとともに、世間を騒がせてやりたいという気持ちから、遺体の写真を撮って母親に送信したのです。

 

〈小林の手記による楓さんの死の経緯〉

部屋に入った楓さんが「トイレに行きたい」というので、小林はトイレの場所を教えました。

 

その間に、このままわいせつ行為に及ぶと声を出されると思った小林は、睡眠薬「ハルシオン」を持っていることを思い出し、「飲ませて眠らせてからにしよう」と考え、睡眠薬5〜6錠をコップに入れて水で溶かし、トイレから出てきた楓さんに飲ませたのです*。

 *遺体の司法解剖では薬物の痕跡は検出されませんでしたが、ハルシオンは「超短時間型」に分類される睡眠薬で体内での分解・排泄が早いため、不検出は楓さんがハルシオンを服用しなかった証明にはならず、服用の有無いずれの証拠もありません

 

宿題を始めた楓さんはやがて「なんか、頭がフラフラする」と言いだしたので、風呂に湯を張り、「薬が効いてきた」と思って風呂に入ることを勧めましたが、意識ははっきりしていたものの酩酊状態で自分で服を脱ぐこともできない彼女の服を小林が脱がせ、風呂場まで抱きかかえて連れて行き浴槽に入れました。

 

部屋に引き返した小林は、「いよいよ一緒に風呂に入ってわいせつ行為ができる」とドキドキした気持ちをタバコを1本吸って落ち着かせ、服を脱いで風呂場に入りました。

ところが、風呂場の扉を開けると、楓さんは浴槽の中で顔を湯につけた状態で溺死していたのです。

 

それを見た途端、小林は「ここに居たくない」と逃げるように自宅を飛び出して車で勤務先に行ったあと、いつもの居酒屋で酒を飲みながら遺体をどうするか考えました。

 

そして考えたのが、「このまま何もせず遺体を遺棄するよりも、死体を陵辱した様に見せかけてから遺棄した方が罪が重くなり死刑の判決を受け死ぬことができる」ということでした。

 

自宅に戻った小林は、遺体を浴槽から出してタオルで拭き、ベッドに運んで判決文でも言われている陵辱行為をおこなって遺体を損壊した*のです。

 *遺族感情などにも配慮し、発表された「手記」では編集者によってその詳細は伏せられています

 

それから、「この姿を写メールで母親に送れば、残虐非道ということで死刑は確実になるやろう」と思いついて、写真を撮ってメールで送りました。

 

【犯行の動機・背景について考える意味】

上にあげた楓さんの死をめぐる二つの「事実」のうちどちらが真実なのかについて断言することはできません*。

 *法的に言えば、判決文どおりだと楓さんの死は「殺人」であり、小林の手記どおりだとすれば「過失致死」で、量刑判断にかかわる大きな違いが出てきますが、強く死刑を望んでいた小林が、罪を軽く見せて死刑を回避したいという意図から「異なる事実」をねつ造したのでないように思われます

 

もちろん、何の落ち度もないいたいけない7歳の少女が、小林のせいで生命を落とし遺体まで損壊されたことのおぞましさと犯人の罪の重さ深さは、いずれが事実だったとしても変わらないことは言うまでもありません。

 

ただ、なぜこのような犯罪を小林が起こしたのかについて考え、同じような犯罪を防ぐ戒めとするには、小林の死にたいという念慮と自暴自棄のような行動がどういう事情から生まれたのかについて見ることなく、ただ犯人憎しだけで事を済ますならば、楓さんの死はまったく虚しいものに終わってしまうと思うのです。

 

そこで、小林薫の犯行に至る半生について、分かっている範囲で見ていくことにします*。

 *今回は、被害者である有山楓さんやご両親の無念について詳しく触れることはしていませんが、法廷での両親の証言(篠田前掲書、p.159〜p.167)を読んでも、無惨に娘を奪われた親の悲しみと犯人への憤りには心が締めつけられる思いがします。

 

【小林薫の半生】

 

 

小林薫は、1968(昭和43)年11月30日に大阪市住吉区にプロパンガスの販売店を営む両親の長男として生まれました。

彼には2人の弟(1歳下と9歳下)がいます。

 

寂しい子ども時代と父親の暴力
昔あるあるなのかもしれませんが、子どもにとって年に一度の楽しみである親戚から貰うお年玉は父親が中身を取って空袋だけ渡され、子どもの日やクリスマスなどの行事ごともなく、誕生日に買ってもらえるのは運動靴などの実用品だけ、お祭りや遊びに一緒にでかけることもないなど、子ども時代は「面白味のない一年の繰り返し」だったと小林は回想しています。

 

その一方で「しつけ」にうるさかった父親は、特に長男である小林に厳しい体罰を加えました。

そして彼がすぐ下の弟をストレスのはけ口にしていじめると、問答無用で鉄拳だけでなくゴルフクラブで殴ることさえあったようです。

 

そんなときにかばってくれたのが優しい母親で、「記憶に残っているのは、生前のお袋の優しさと温もり。親父への憎悪の気持ちだけ」と彼は獄中手記に書いています。

 

以上のような経験から小林は、「犯罪者の私が言うのはおかしいかもしれないが、(…)お子さんが居てる方に言わせてください」と、「父親に対し思い望んできたこと」として次の6点をあげています。

 

「子供と一緒に食卓に着き団欒の一時を過ごしてあげて下さい」

「子供の話を聞いてあげて下さい」

「子供を信じてあげて下さい」

「子供と遊んであげて下さい」

「子供を叱る時、何で叱るのか、何が悪いのかを言いきかせて教えてあげて下さい」

「子供が2人、3人と居るなら平等に接してあげて下さい」

 

父親の体罰は度を越したものでしたが、ただ身体的暴力そのものよりも小林の子ども心を深く傷つけたのは、父親が子どもと接する際に心を開いて共感の絆を結ぼうとしなかったこと、言い換えれば父親の言動に子どもへの愛情がまったく感じられなかったことではないでしょうか。

 

そうした小林の心が壊れないよう包んでくれていたのが母親でした。

 

優しかった母の死

小林にとって小学4年生の夏、7月5日は悲劇的な「運命の日」となりました。

3人目の出産を控えて入院した母親が、難産の末に帝王切開で三男を出産したものの、出血多量で命を落としたのです。

 

未熟児で生まれた三男は自分で産声を上げることもなく、何とか命は取り留めたましたが身体と知的の両方に障害が残りました。

大好きだった母親の命と引き換えに生まれた「かわいそうな弟」に、小林はミルクを飲ませたりオシメを変えたり、保護具をつけた自転車に乗せてあちこち連れて行くなど、かいがいしく世話をやいたそうです。

 

母との死別について、小林は小学校卒業を前に「悲しかったこと」と題する次のような作文を、泣いている自画像を添えて書いています(篠田前掲書、p.171)

 

 

悲しかったこと       小林 薫

 ぼくの母は、[昭和]53年7月5日に赤ちゃんを産んですぐに出血多量で死んだ。ぼくは、5時間以上ないた。死ぬ前の日、みんなでおいわいをして病院に行くお母さんを、おくった。それが、お母さんといっしょにいた最後だった。5年になって、ぼくはそのことを『かわいそうな●*』という詩にかいた。その詩が本にのった。この詩を、天国にいるお母さんに見せたい。

 授業参観や日曜参観、そのときにはみんなのお母さんが来る。でも、ぼくのお母さんは来ない。そのたびに、みんながうらやましくなる。考えると、お母さんの寿命はふつうの寿命の半分しかなかったのだ。幼稚園のとき、ぼくは、足の骨を折ったことがある。お母さんはつきっきりで看病してくれた。今まででも、心配をかけすぎて、寿命が縮まったのかもしれない。

 もうすぐ小学校卒業。お母さんが死んでもう2年になる。今、お母さんは墓石の下でねむっている。いつか、お母さんのいる天国へ、おばあちゃんも、お父さんも、ぼくも、弟二人も行く。お母さんとこんどあうときは人をいじめないようになってあおうと思う。

 *原文では末弟の名前が入っていたと思われます

 

小林にとって母親の存在は、船にとっての母港のようなもので、外洋で嵐に遭い荒波にもまれ傷ついても、母港に帰れば船の損傷を直し船員の疲れを癒やせるからこそ、もう一度外洋に出て苦難に立ち向かおうとする自信と勇気を持つことができるのですが、母港を失ってしまった船は寄る辺なく海原を漂い、時に立ち寄る港があったとしても、そこで深い安らぎを得ることはできません。

 

小林が自分の生きる世界に抱いた根本的な不信感と孤立感は、こうして身についたのではないでしょうか。

それに輪をかけたのが、学校でのいじめ被害です。

 

学校でのいじめと新聞配達

幼稚園から始まっていたという小林へのいじめは、小学校に入ってエスカレートします。

 

運動が鈍く、生まれつき左目が強度の弱視(0.01)で右目も矯正視力0.3と目が悪かった小林がメガネをかけ始めたのもいじめのきっかけとなり、「メガネザル」「ウンコたれ」といった言葉の暴力や、ランドセルや靴などを隠されるといったいじめを毎日のように受けたようです。

 

母親が亡くなってからは、いじめられて家に帰っても味方になってくれる人はもうおらず、「夢も希望もなく苦痛の毎日」を「ただ生きていた」と彼は手記に書いています。

 

1981(昭和56)年4月に中学に入ってからもいじめは続きよく泣かされますが、小林の言うには教師も見て見ぬふりで、彼には「家でも学校でも味方になる人物は居ず、心の拠り所となる人は一人もいなかった」のです。

 

自分をいじめる不良グループに逆らうことができなかった小林は、言われるままに万引きなど彼らの使い走りのようなこともさせられていましたが、「自分をイジメた奴ら」を刺して自分も死のうと何度も考え、家にあった出刃包丁を持って学校に行ったこともあったようです。

しかし、その時は教師に見つかって実行には至りませんでした。

 

中学時代の小林薫

 

中学1年生の夏、小林は嫌な父親と顔を合わせなくてすむように新聞配達を始めます。

午前3時ごろに起きて弁当を作り販売所に行って午前6時ごろまで朝刊を配り、午前7時半に学校に行って弁当を食べ、当然のこと授業中は居眠りが多くなります*。

 *教師は、小林のアルバイトを知っていたこともあって、それも見て見ぬふりをしていたそうです

 

学校が終わると販売店に行って夕刊を配り、後には事情を知った販売店主の好意で店の2階に泊めてもらうこともあったようです。

そうして得た収入の半分以上*を小林は父親に渡していました。

 *5万円のうち3万円を渡していたという話と、7万円の半分を渡していたという話があります

 

なお、佐木隆三氏(『わたしが出会った殺人者たち』新潮文庫、2014、p.303)によると、小林の学校での成績は「下の下」だったとのことですが、それは上記のような事情のためで、彼の文章を読む限り標準的な学力は十分に備えていたと思われます。

 

 

中学3年生になった小林は、卒業するとすぐに就職したいと思っていたようです。

しかし、父親に高校ぐらいは出ておけと強く言われ、受験勉強をすることになります。

 

年末年始も休みなく机に向かうよう強いられた小林は、目がぼ〜っとすると父親に訴えますが、「勉強するのが嫌やから、そんなことを言うんやろ! ご飯も勉強机で食え!」と取り合ってもらえませんでした。

正月明けにやっと眼科を受診すると網膜剥離一歩手前で、あと1日か2日遅ければ失明の危険すらあったそうです。

 

眼の手術を受けた小林は、豊中市にある私立の履正社高校に合格したものの、高校に行けと言った父親から私学にやるお金はないと言われます*。

 *新聞配達のお金をずっと渡してきたことを言うと、あれはこれまでの養育費だと父親からにべもなく言われたと小林は書いています

 

高校卒業と就職

担任の先生に相談して大阪育英会で学費を借りなんとか進学した小林は、高校では特にいじめに遭うことはなかったようです。

 

1987(昭和62)年に高校を卒業した小林は、父親から離れるために家を出て寮のある勤め先を探し就職しました。

 

母親の死後に同居するようになった祖母(社員寮の元賄い婦)の包丁さばきを見て調理師になりたいと思った小林は、学校の紹介で居酒屋チェーン店に勤めますが、口うるさく叱る先輩から包丁の峰で手や腕を叩かれるなどのしごきに耐えられず1年余りで退職、その後いくつかの仕事を経て、1989(平成元)年3月に大阪府箕面市の読売新聞販売店に就職します。

 

その販売店では、人間関係も良好で仕事をまじめにこなし、店長からの信頼も得ていたようです。

 

ところがその間に事件を起こしたことから、小林の人生は負のスパイラルに落ち込んでいきます。

 

女児へのわいせつ行為と人生への絶望

中学生の思春期になると小林も性への興味と欲求をもつようになりますが、女児にわいせつ行為をするきっかけになったのは、高校2年生の時に友人から借りた「くりぃむレモン」というアダルトアニメビデオ(兄と幼い義妹との性的関係が出てくる)を見てからだったと小林は供述しています。

 

女児を性の対象と意識するようになった小林は、高校3年生の夏に写真部の合宿で訪れた鳥取で、下校中の小学女児の後をつけマンションの踊り場で抱きついて体を触るなどし、騒がれて逃げ出しています。

 

また、1989年の4月と5月にも、上述した新聞販売店に勤めながら5歳の女児の性器を触る強制わいせつ事件を2度起こして6月に逮捕され、同時期にやった窃盗とあわせて懲役2年執行猶予4年(保護観察付き)の有罪判決を受けて勤め先を解雇されました。

 

その後、運送会社に勤めた小林は、大きな問題こそ起こさなかったものの「遅刻が多く、時間にルーズ」で「注意をしても改善しない」など職場での評価はかんばしくなく(判決文)、このころにはもう小林の中では、この先の人生に希望が持てず生きることに見切りをつけ始めていたのかもしれません。

 

1991(平成3)年7月、小林は帰宅途中の5歳の女児に団地の階段の踊り場でわいせつ行為をしようとして騒がれたため、黙らせようと首に手をかけたところを住民に見つかり、強制わいせつ致傷の疑いで逮捕されて、同年10月に懲役3年の実刑判決を受けます。

 

前回の執行猶予を取り消されて約4年間服役した小林は、1995(平成7)年11月に父親が身元引受人となり*満期を待たず仮出所します。

 *逮捕時に小林に勘当を言い渡した父親ですが、服役中に面会に行き仮出所した息子を実家に迎え入れ就職の世話もするなど、子どもとの接し方に致命的な欠落があったとはいえ、ただ暴力を振るうだけの無責任な「毒親」とは必ずしも言えなかったように思います。なお父親は、小林が女児誘拐・殺害事件で逮捕されたあと、ほどなくして亡くなっています

 

仮出所後の小林は「もう一度少女に対して、いたずらをしたい」という気持ちが強かったため、極力女児に近づかないようにしていたようです。

ところが、職場でのストレスが昂じるにつれ、またしても女児へのわいせつ衝動が抑えきれなくなります。

 

父親の知人のラーメン店で当初はまじめに働いていた小林でしたが、たまたま刑務所時代の仲間が客として現れたことから、「前科がばれる」と思い逃げるように店を辞め、その後は新聞販売店を中心にトラブルを起こしては職場を変わるを繰り返すようになります。


その事情について小林は、「私は、前刑出所後(平成7年12月)から何人もの人を信じ、その信じた人達にことごとく裏切られてきました」(篠田前掲書、p.135)と手紙に書いていますが、詳細は不明です。

 

ただ小林が何度も手記等で書いているのは、2003年10月から2004年5月にかけて働いていた毎日新聞湯里販売所(大阪市東住吉区湯里)で、所長から勤務中にたびたびひどい暴力を振るわれたことです。

 

「もうええ、俺がいくら、頑張っても認められへんし、何かにつけ暴力振るわれ指は折れるし、多分ろっ骨もヒビ入ってるしで、こんな所居れるか!」と思った小林は、集金したお金を持ったまま逃げ出したのです。

 

こうしてますます孤立し追い詰められ自暴自棄になった小林は、かろうじて自分にはめていた女児に対する性的欲求のタガが外れていったのでしょう。

 

読売新聞の販売店を経て、事件を起こした2004年の7月から毎日新聞西大和ニュータウン販売所で働き始めた小林ですが、9月に5歳と6歳の女児の性器を触り上半身を撮影したことで、親から警察に被害届けが出されます。

 

「もう、この世に生きていても何もいいことはないし、裏切られるのももう嫌や」と死を願いながらも「自殺」をする勇気はないので、「どうせ死を選ぶなら好きなことを実行し、そして司法によって死刑を言い渡してもらい、この世からおさらばしよう」と考えた小林は、11月17日に取り返しのつかない事件を起こしたのです。

 

「事件は、私の気持ちを風船に例えれば(空気をこれ以上は入らない状態まで膨らました様に)いつ破裂してもおかしくない状態で起こしたのです」と彼は篠田氏への手紙に書いています(篠田前掲書、p135)

 

【裁判と判決】

裁判では、先に述べたように小林は自分の罪を認め、検察が冒頭陳述した事実関係(取り調べでの「自供」に基づく)についても篠田氏への手紙や「獄中手記」で告白した「事実」とは大きく異なる点があるにもかかわらず争おうとはせず、法廷でも「死刑を望んでおり、減刑は望んでいない」と明言しました。

 

読売新聞(2006年3月27日夕刊)

 

死刑を望む理由について小林は手紙で、「これまで法廷で言ってきた「生きていても仕方がない」「つまらない」というだけではなく、私が私なりに「被害女児へ償うにはどうしたらいいか」と考えた末、「死刑」になることで、ほんの少しでも償えたらと結果的に思ったことなのです」と書いています(『創』2006年8月号)

 

また弁護人も、こういう事件ではよくある「心神喪失」や「心神耗弱」を主張して犯行時の被告の責任能力の有無を争うという法廷戦術はとりませんでした。

 

ただ弁護人が、小林が生まれてから犯行に至るまでの情状について考慮すべきだと鑑定(情状鑑定*)を求め裁判所もそれを認めたことから、2005年9月から12月にかけて小林の身柄を奈良少年刑務所から東京拘置所に移して鑑定が行われました。

 *鑑定の方法は「精神鑑定」とほぼ同じだそうです

 

山上浩・小畠秀吾両鑑定人により2006年2月17日に奈良地裁に提出された鑑定書では、「被告人の性格には、顕著な自己中心性、対人理解の不足、共感性の乏しさ、道徳感情の希薄さ、他責性、顕示性、虚言傾向等、多様な面における深刻な隔たりが認められ、精神医学的には「反社会性人格障害」と診断されるとし、また、被告人には小児性愛の傾向が認められ、精神医学的にも「小児性愛」と診断される」とされました(判決文)

 

そして、そうした性格が形成された原因について鑑定は、「父親による虐待と幼稚園や学校におけるいじめによる人格発達の障害が大きな役割を果たしたものと思われる」と結論づけながらも、山上鑑定人は公判で「被告人は、父からの暴力、母の死、いじめ等の要因によって、性格的及び情緒的な成長が止まってしまったというよりも、自分なりに防衛をして生き延びるため、その場しのぎに、悪いことをしてでも生きていくという生き方を被告人自身が選んでいき、結果的に普通の人間関係の中での感情交流を自ら遮断していった」と証言し、小林の行為を「いじめや環境のせいだけにすることはできない」と説明した(判決文)そうです。

 

この鑑定書で指摘された環境的要因と主体的(選択的)要因それぞれの実態がどうであり、両者の関係と比重をどう判定するかが小林の犯した罪とそれへの罰を考える際に重要なポイントになるのですが、裁判ではそれらが十分に解明されたとはいえないまま、加害の残酷さと遺族感情、社会に与えた衝撃、そして小林自身の死刑願望に引きずられるようにして、裁判は死刑の求刑から判決へと一直線に進んでいきました*。

 *小林被告への死刑判決は、死刑のやむをえない選択について1983年に最高裁が示したいわゆる「永山基準」(下の記事参照)を超える異例に厳しいものでした

 

読売新聞(2006年6月5日夕刊)

 

読売新聞(2006年9月26日夕刊)

 

【真相告白と被害者への謝罪】

死刑になりたい一心で取調官の示唆するとおりに楓さんの殺害を認めた小林ですが、楓さんへの殺意と直接的な殺害行為はなかったと、初めて自分の言葉に耳を傾けてくれると感じた篠田氏への手紙や彼が編集・発行する『創』への手記で「真相」を告白しました。

 

それを法廷の場で言うべきだと勧められた小林ですが、司法への不信とマスコミは減刑狙いのウソだと報道するに違いないという諦め、また公判の途中になって自供の核心に関わる内容を覆すことに弁護人も難色を示したことから、最後までそれについて法廷で語ることはありませんでした*。

 *弁護人や検察官からハルシオンについて問われたことはありましたが、彼は「それについては答えたくない」と口を閉ざし続けました

 

また、被害者や遺族に対する謝罪の気持ちについても同様で、反省と謝罪の気持ちがあるならそれを遺族に向かって言葉にして伝えてほしいとの弁護人や篠田氏の勧めに、一度はその気になった小林ですが、マスコミの報道ぶりから「テレビは視聴率、新聞・週刊誌は購買数を稼ぐのを優先させ「真実」を故意に曲げ伝えるのがマスコミだと分かりました。ですから、私が心から謝罪してもマスコミは真実を否定的、批判的に世間へ伝えるのですから謝罪しても仕方がないのです。もちろん、被害者の少女やその両親に対する私の気持ちは、今までと変わりありませんが、それでも口にすることは止めました」(6月11日付の手紙)と心を閉ざしてしまいました。

 

しかし、判決公判を前にした2006年8月1日の篠田氏宛の手紙で、小林は次のような遺族への謝罪文を記しています*(『創』2006年12月号)

 *この手紙では、判決公判で死刑判決が出たらこの謝罪文を読み上げるつもりだと書いていますが、上記のような不信と諦めから、結局小林は最後まで謝罪を口にすることはしませんでした

 

 

 2004年11月17日、私は、私の欲求と自己中心的な考えから、御遺族から大切な娘さんを連れ去り命を奪ってしまいました。

 私が、どのような言葉を述べようと決して遺族の方がたは許せないでしょう。

 世間に言われるまでもなく、私自身〝人間のすることじゃない〟ことは充分にわかっています。

 第一回目の公判から毎回法廷では、〝死刑〟の判決が出る様に、裁判官三名の心証を少しでも悪くしようとの思いから、私は不本意ながら、あのようにふてぶてしい態度を続けてしまいました。

 また、幾度か裁判長から遺族に対して「言うことはないか」と促されましたが、その都度、私は発言を拒みましたのも、〝死刑〟判決が出る様にとの思いからなのです。

 毎回の傍聴で不愉快な思いをさせてしまい申し訳ありませんでした。

 さて、以前私はお嬢さんに対して行った〝真実〟を「創」紙面に書いたのですが、警察をはじめ、朝日新聞奈良支局の女記者やその他各マスコミなどは、「減刑を望んでのウソ」「妄想」とししてしか報じませんでした。

 犯人である私の言うことよりも、刑事による作文で出来た供述調書を信用するマスコミや世間ですが、私がお嬢さんに〝ハルシオン〟を飲ませたことは、まぎれもない事実なのです。

 事件の真相がどうあれ、お嬢さんの命を奪ってしまったのは間違い有りませんので、私は私なりに考え、お嬢さんと御遺族の方がたへ少しでも償うには、私がこのように生きているのは申し訳なく死をもって償うほかないと思っています。

 ですから、公判中に私が口にした「生きていてもつまらない」というような意味だけではなく、先に述べた様なことも含めて〝死刑〟を望んでいるのです。

 7月19日に奈良小刑[少年刑務所]の教誨師にお願いし、読経を上げてもらいました。

 読経の最中、お嬢さんと交わした言葉や表情を想い出し、心の底から本当に申し訳なく思い、心の中で「ゴメンな」と謝っていました。

 もしかしたら、遺族の方がたは、私が行った読経供養さえも許してはくれないでしょうが、少しでも償いたいという気持ちからしたことですので、お許しください。

 今現在、お嬢さんの命を奪ってしまったこと、御遺族の悲しみを深めてしまったことを、深く後悔しています。

 出来ますなら、法の力を借りず、御遺族によって私の命を奪ってもらいたいと思っています。

 言葉をいくら重ねても謝りつくせるとは思いませんが、どうか、私の死をもって少しでも償わせてください。

 御遺族にとって本当に大切なお嬢さんの命を奪ってしまい、本当に申し訳ありませんでした。

 

平成18年8月1日

小林 薫

 

【死刑の確定と執行】

主任弁護人の高野嘉雄弁護士は最終弁論で、「情状鑑定で明らかになった通り、被告人の反社会性人格障害とされるものは生来のものでなく、学校でのいじめや父親の暴力といった生育環境に負うところが大きい。犯罪が社会の病理現象だとすれば責任の一端は社会にもあるのであって、被告人に全責任をおしつけて抹殺すればよいと考えるべきではない。女児と遺族がもちろん最大の被害者ではあるが、被告人もまた一人の犠牲者だと考えられないことはない。被告人は小学生の時に人間味あふれる作文を書いており、今回のような残虐な犯罪との落差に愕然とせざるをえない。被告人が本来持っていた人格にもう一度戻ってほしい。もう一度戻ることはできるのだと信じたい」(篠田前掲書、p.169)と述べ、死刑判決に対しても職権で即日控訴しましたが、小林自身が「被害者の命日までに死刑を執行してほしい」と控訴を取り下げたことから、彼の願いどおり死刑が確定しました。

 

読売新聞(2006年6月26日夕刊)

 

しかしその後、事の真相は明らかにすべきだとの周囲の説得に応じた小林は、一審判決には事実誤認があったと控訴取り下げの無効を申し立て、それが棄却されると再審請求をしましたが、それも認められないまま、2013(平成25)年2月21日、大阪拘置所で小林の死刑が執行されました。

享年44でした。

 

朝日新聞(2013年2月22日)

 

 

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小川里菜の目

 

この事件は、ちょうどこのころ全国で未成年者の略取・誘拐事件が多発していたこともあって社会に大きな衝撃を与え、子どもを犯罪からどう守るかという議論が広がり安全対策が講じられるきっかけとなりました。

 

読売新聞(2004年11月18日夕刊)

 

また、小林薫が過去にも女児へのわいせつ事件を何度も起こしていたことから、性犯罪の再発を防ぐための措置や矯正教育についても関心が高まり、厳罰化や「涙の反省」だけでは再犯を防げないと、2006年に刑務所での性犯罪者に対する特別プログラムが導入されました。

 

今年で20年が経過したそうした取り組みにどんな成果と課題があるか検証すべき時ですが、ブログの残り字数が少なくなっていますので、ここではこの事件で大きく問題となった「小児性愛」について小川なりの考えを記すにとどめます。

 

「小児性愛症」の臨床診断基準(「DSM-5-TR」)は、「思春期前の小児(通常13歳以下)を対象とする性的興奮をもたらす強烈な空想、衝動、または行動が6カ月以上にわたり反復して認められる」こととされており、それには小児のみに性的興奮を覚える「専従型」と小児と成人の両方の「非専従型」がある(MSDマニュアル プロフェッショナル版)とのことですので、風俗店や出会い系サイトで知り合った何人もの成人女性と性関係をもっていた小林薫の場合は「非専従型の小児性愛症」となるでしょう。

 

小林自身も『創』編集部との一問一答(同誌、2006年7月号)で、「私が女児にいたずら行為をするのは、成人女と違い抵抗されずに自分の思いどおりに従うことも理由ですが、それよりも純真無垢で疑うことを知らないあどけなさがかわいいからです」、「性的関心は「大人」と「子供」を比率で表すと5:5で半々です。マスコミが「でっち上げ」報道しているような「成人女性を相手にできない」ということは決してないのです」と述べています。

 

あどけない子どもを見て「かわいい」と思うのはごく普通の感性だと思いますが、それが性的欲求と結びつくのは歪んだ性嗜好と言わざるをえません。

 

その歪みが生まれついてのものなのか、あるいは何らかの条件下で形成されたものかは定かではありませんが、小児性愛症のほとんどは男性に見られる(MSDマニュアル プロフェッショナル版)ことからも、性欲求が相手への支配欲求と結びつきがちな男性のセクシュアリティ*と小児性愛とは深く結びついているのではないでしょうか。

 *一方的な「見る/見られる」関係が性的興奮と結びつく「盗撮」の犯人のほとんどが男性であるのもこのことと関係していると思いますし、「若さ」(今では「幼さ」と言ってよいほど若さの基準が低年齢化している)が女性の価値だとする多くの男性の性意識も「支配/服従」関係に傾きがちな男性のセクシュアリティの表れでしょう

 

とすれば小林の場合も、先に本人が言う理由は本当は逆で、「あどけなさがかわいいことも理由ですが、それよりも抵抗されずに自分の思いどおりに従うからです」というのが真実だろうと思わざるをえません。

 

そして、父親の暴力と自分を守ってくれた母親の喪失によって形成された、先に「母港のない船」でたとえた自信のなさや無力感、他者への不信、拒まれることへの恐れと不安が、小林において性的欲求の対象を思いどおりに支配できる女児へと特異的なまでに歪めさせたのではないかと思います。

ところが、容易に支配できるはずの女児に騒がれたり抵抗されたりすると、予想外の事態に狼狽し極端な行動に出てしまう……

 

もしそうであるなら、この事件を単に小林薫という「特異な性的変質者」が引き起こした「異常で例外的な事件」として片づけるのではなく、子どもの生育環境(特に人と人との親密関係)がどれほど人間としての正常な発達に深い影響を及ぼすか、また性犯罪の多くがどのように男性のジェンダー(男らしさ)とそれに影響されたセクシュアリティ(性意識・欲求・行動)に根ざした問題でもあるかについて、この悲劇的な事件を通して考えなければならないと思う小川です。

 

今回も最後までお読みくださり

ありがとうございます

次回もどうぞよろしくお願いいたします🥹

 

 

乱診乱療

富士見産婦人科病院事件

1980年

🎍2026年も小川のブログをどうぞよろしくお願いします🐱✨

 

今年の初ブログは、1980年に起きた富士見産婦人科病院事件です。

無資格の理事長による意図的と疑われる「誤診」により、不必要な手術で多くの女性が子宮や卵巣を摘出され、自殺者まで出たことから、金もうけのための「乱診乱療」との批判が病院(理事長・院長夫妻と執刀医たち)に向けられ、刑事・民事の裁判が起こされて、大きな社会問題となった事件です。

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【事件の発覚】

この事件が大きく社会に知られるようになったのは、朝日新聞が1980(昭和55)年9月12日に掲載した次のスクープ記事によってでした。

 

朝日新聞(1980年9月12日)

 

この記事が出た日のことを、元患者の1人は怒りを新たに次のように回想しています(富士見産婦人科病院被害者同盟編『乱診乱療』晩聲社、1982、p.70)

 

「昭和55年の9月10日という日を、私は一生忘れないだろう」と院長北野千賀子は、『文藝春秋』の手記の中で書いているが、私たち患者にしてみたら、「昭和55年9月12日(北野早苗逮捕の報道)という日を、富士見産婦人科病院にかかっていた患者たちは、一生忘れないだろう」と言いたい。医者と信じきっていた人に裏切られたのだ。ワラにもすがりたい思いの患者の気持ちを逆手にとり、医師たちはつぎつぎとお腹を切り開き、子宮、卵巣を摘出した。院長、あなたの医療が正しかったのかどうか、それはあなたが一番よく知っているはずである。意味もなく子宮や卵巣を摘出された女の恨み——、あなたも女性であるなら、悔やんでも悔やみきれない女の痛みがわかるはずである。

 

【富士見産婦人科病院】

事件の現場となった埼玉県所沢市西所沢の医療法人芙蓉会富士見産婦人科病院は、1958(昭和33)年に当時まだ独身であった浅岡千賀子医師ともう1人(2人という報道も)の女性医師が共同で開設した医療法人芙蓉会第一診療所に始まります。

 

浅岡千賀子の治療態度に嫌気がさした共同経営者が去り、1963(昭和38)年にこの診療所が閉鎖されたあと、診療所の土地と建物を買い取ったのが北野早苗でした。

それ以前から愛人関係にあった2人が結婚して夫婦となったのも(北野早苗は妻と別れての再婚)このころです(以下基本的に、北野早苗は「北野」、北野千賀子は「千賀子」と記述)

 

北野はさらに隣接する土地を買い増し、木造2階建てだった元の小さな診療所を1967(昭和42)年に鉄筋コンクリート6階建ての病院に建て替えて、芙蓉会富士見産院を開設します(さらに増築を重ねて1971年に芙蓉会富士見産婦人科病院に改称)

 

また、翌1968年(昭和43)年には千賀子が同市緑町に個人で開設していた芙蓉会産院を芙蓉会産婦人科医院(1979年に芙蓉会富士見産婦人科病院分院と改称)にし、北野が医療法人芙蓉会の理事長として病院経営の実権を握り、妻の千賀子は分院の院長から本院(富士見産婦人科病院)の院長になりました。

 

北野千賀子院長

 

 

【北野早苗の野心】

 

北野早苗理事長

 

富士見産婦人科病院事件の主犯であったのが医師の資格を持たない北野早苗理事長(1980年の事件発覚時55歳)です。

 

1925(大正14)年6月に福島県西白河郡大信村(たいしんむら、現在は白河市)に生まれた北野ですが、本人が自称していた東洋大学経済学部卒という学歴*も、毎日新聞社勤務という職歴もそれぞれの記録にはなく、1948(昭和23)年に団体等規制令に基づいて当時の日本共産党白川地区細胞員の届け出がある以外、どういう経歴の人物なのかよく分かりません。

 *1948(昭和23)年4月に東洋大学経済学部卒と履歴書に書かれていたとのことですが、そもそも同大学に経済学部が開設されたのは1950(昭和25)年4月ですし、当時あったどの学部の卒業生名簿にも彼の名前はありませんでした

 

戦後の一時期に政治に向いていたのかもしれない彼の関心は、その後は自身の立身出世へと向けられ、人や組織を操る才を活かして権力欲・名誉欲を満たそうとする野心に北野の人生は導かれていったように思われます。

 

朝日新聞(1980年9月12日夕刊)

 

上の記事にあるように、富士見産婦人科病院での「乱診乱療」「高額な診療費」で手に入れたお金を北野は、高級外車などに使っただけではなく、地元の所沢市や市立小中学校、福島県の出身地に多額の現金や備品を何度も寄付しています。

それによって彼は地域・郷土の名士としての名誉を手に入れ、7回も紺綬褒章や銀色飾版章*の叙勲を受けており、郷里の大信村の名誉村民にも選ばれています。

 *紺綬褒章(こんじゅほうしょう)は公益団体に多額の寄付をした者に授与され、すでに紺綬褒章を受けている者が重ねて叙勲されるときには銀色飾版章(銀製のプレート)が授与されます。なお、銀色飾版章5つで金色飾版章1つに交換されるそうです

 

4つの銀色飾版章が付加された紺綬褒章(例)

 

この叙勲の推薦を受けるときに北野が所沢市に提出した履歴書に、先に見た虚偽の記載(学歴と職歴)があったのですが、それだけでなく、1970(昭和45)年11月に病院を舞台にした贈賄容疑で起訴され1973(昭和48)年10月に浦和地裁で罰金刑が確定した前科を、叙勲の欠格事項となるからでしょう彼は履歴から隠していました。

 

さらに北野は、所沢市議など地元政界をはじめ代議士から厚生大臣*に至るまで政治献金として金をばらまき、市長選挙ではフィクサーとして勢力をふるう市の有力者にまでなりました。

 *北野から合わせて千数百万円の政治献金を受けていた斎藤邦吉厚生大臣は、事件発覚後の9月19日に大臣を辞任した

 

その北野が病院経営に関わるようになった経緯を、毎日新聞は次のように報じています。

 

毎日新聞(1980年9月19日夕刊)

 

それによると、不動産業を営んでいた北野は、1960(昭和35)年ごろに「臨床医学新聞」という新聞を発行し、東邦大学医学部などの教授たちに法外な原稿料で執筆させて新聞を権威づけながら、「八百長記事」(毎日新聞)で病院の宣伝をし「詐欺同様の手口」(同)で集客を請け負うという事業を始めます。

 

共同経営者が去って1人で芙蓉会産院を切り盛りしていた浅岡千賀子院長と北野が知り合ったのはこの新聞が縁で、彼は個人的にも親密になった千賀子の産院を「子宝に恵まれる病院」と紙面で持ち上げました。

 

上の記事の元職員の証言によると、千賀子は専門外の手術を強行したり手術の手順を守らなかったり常識より3、4割も高い妊娠中絶費用を請求するなどで評判が悪く患者が激減していたところ、北野が「芙蓉会産院」がいかに優秀かを「臨床医学新聞」で特集したり、退院した患者を集めて座談会を催し同院で不妊症が治ったという印象を与えるように編集した記事を載せて患者を増やすことを繰り返したようです。

 

こうして先に見たように、北野は芙蓉会産院の不動産を買い取って富士見産婦人科病院に建て替え、千賀子と二人三脚で経営するようになる*のです。

 *「臨床医学新聞」は、北野が同病院の経営に参画するようになると発行所を富士見産婦人科病院内におき、病院宣伝のために発行が続けられました

 

【乱診乱療】

北野早苗が所沢市での産婦人科病院の経営で巨利が得られると考えたのには、次のような背景がありました。

 

「所沢市は、埼玉県西部に位置し、戦前、戦中は陸軍の飛行場のある町として有名で武蔵野の雑木林が点在し、麦畑、野菜畑が広がる典型的な東京周辺の農村地帯であった。しかし、戦後は、元陸軍飛行場が米軍に接収されたほか、東京のベッドタウンとして急速に人口が増加した。」(『乱診乱療』p.106)

 

1950(昭和25)年には4万人だった所沢市の人口は、1978(昭和53)年には22万人を超えるまでに膨れ上がりましたが、人口の急増に教育施設や上下水道・道路など都市のインフラ整備が追いつかず、その立ちおくれは医療設備についても同様でした。

 

そうした中、若い世帯が多く市に転入することで産婦人科病院に対する医療需要増大を見込んだのが北野早苗だったのです。

 

北野は、富士見産婦人科病院の豪華な設備や細やかなサービス(それらは結局は高い治療費・入院費として患者の負担増につながったのですが)を売り物にし、巧みな広告戦略によって患者を集めました。

 

所沢市が妊婦全員に配布した母子手帳のカバーは

数年にわたって富士見産婦人科病院の宣伝だった

 

病院の設備の中でも目玉となりまた悪用もされたのが、当時最新の医療用電子工学機器(ME:Medical Engineering)であった「超音波断層診断装置*」です。

 *富士見産婦人科病院では、この装置のことも「ME」と通称されていた

 

レントゲンやCTのような放射線ではなく超音波を用いるために妊婦でも安全に検査ができる「エコー」と呼ばれるこの装置は、いまでは小型化され子宮だけでなく臓器の検査・診断に広く用いられていますが、導入され始めたころは非常に大型で高額な装置*でした。

 *同病院では計5台の装置を導入していたそうですが、北野が用いた最も高額のものは約5千万円(消費者物価指数で換算すると今の1.5〜2億円に相当)したそうです

 

同病院の「ME室」と呼ばれた部屋に置かれていた

「超音波断層診断装置」と「ビデオ機器」

 

「最新設備」をウリに導入した非常に高価かつ日進月歩する機器を短期間(たとえば5年)で減価償却するためには、できるだけ多くの患者を日々検査しなければならず、それも事件の背景となったのではないかと指摘されました。

 

毎日新聞(1980年9月13日夕刊)

 

さらに富士見産婦人科病院では、「検査づけ」にとどまらず、検査の結果を偽って必要もない手術(その大部分が子宮・卵巣の摘出手術)を1000人を超える女性患者たちにおこなっていました。

その「ME」による検査と診断をもっぱらおこなっていたのが、そのために必要な医師免許を持たない北野理事長でした。

 

朝日新聞(1980年10月1日)

 

北野が撮った超音波断層写真を事件発覚後に専門鑑定医が見たところ、検査の基本手順すら守られていなかった*ために写っている部位がどこかすら分からないようなものが大半でした。

ところがそれを見せながら北野は患者に、いかに子宮や卵巣がひどい状態にあるかを説明していました。

 *たとえば、子宮の断層写真を撮るときには膀胱に尿を溜めた状態でおこなうべきところ、北野は必ず検査直前に排尿させていた

 

こうして、妻の千賀子院長だけでなく青井保夫副院長ら同病院の勤務医5人が、診察した患者にME検査を指示する→理事長が検査し手術が必要だと「診断」する→それに従って担当医が手術をする、という「乱診乱療」の流れが繰り返された*のです。

 

青井保夫副院長

 

 *どのようにターゲットを選別したのかは分かりませんが、もちろんすべての患者を「乱診乱療」の対象にしたのでは病院経営が続けられません。特に口コミで病院の評判を広め新たな患者を呼び込むため、北野は無料で人間ドックが受けられる特典などで元患者を「友の会」に加入させ、病院のコアな支持者となるように組織しました。この人たちが、事件の裁判では被告となった北野夫妻ら病院側の支援者として嘆願書を提出するなどの活動をしたのです

 

【被害者たちの声】

被害を訴える女性たちの体験を読むと、北野による検査と診断がほぼ同じパターンでおこなわれていたことが分かります。

 

「50年[1975]12月25日ごろ、生理がなく富士見に行きました。分院の堀[八重子]先生は「少しおかしいよ。すぐMEをかけてみましょう」と言われました。そして29日に本院に行くと、秘書の方に「尿をすませてME室に入ってください」と言われ、すぐそのとおりにしてME室に行きました。そこには白衣を着た男の人がいました。それが理事長だったのです。「下着をぬいでそこに横になりなさい」と言われ、そのようにするとお腹の上にヌルヌルするものをつけ、そしてボールペンのようなものでお腹の上をぐるぐると動かしていました。そうするうちに「うん」とか「大変だ」と言いはじめたので、「どうですか」と聞くと、横になったところにテレビみたいなものがあり、そこに黒くなにか写っており、それを見て「黒いところがみな悪い」と言うのです。ME室を出ると、理事長室に呼ばれて「そこに座りなさい」と言われました。「さあ、なんて話をするかな」と言われ、「どうなんでしょうか」と尋ねると、「あんた大変だよ。子宮も卵巣もぐちゃぐちゃだ。すぐ手術しないとあと1ヶ月でガンで死ぬよ」と言われました。」(子宮と卵巣を全摘出された当時29歳の平岩三津子さんの手記、『乱診乱療』p.22-23、[ ]の補足と太字強調、文章の短縮は小川)

 

「生理の量が2人目を出産してから多めで、下腹部が重くるしい感じがしたので、ガン検診のつもりで富士見病院へ行きました。ME室には、理事長と看護師ではない女の人が2人*いました。理事長がMEを見るとすぐ、「あんたの子宮はすごいよ。これじゃガンになって死んでしまうよ。卵巣もだめになっている。早く手術しないと心臓も悪くなるし……」と多くの言葉を言いましたが、もう私は驚きとともに目の前が真っ暗になってしまいました。」(同じく当時29歳の愛川貴美子さん、同書p.39)

 *看護師ではなく理事長の秘書という女性2人がME室で北野の助手をしていましたが、この2人は千賀子の親族だったようです

 

「昭和52年[1979]9月、夫の転勤で私たちは所沢に引越してきました。11月ごろから腰痛と少し出血がありました。主人の友だちの奥さんが富士見産婦人科病院に出産のため入院したことを思い出し、車で5分とかからないのと、他の婦人科を知らなかったこともあって、足を向けました。担当医師は佐々木[京子]医師でした。内診のあと、ME室へ通されました。北野が入ってきて、「お腹を出して横になりなさい」と言い、ベトベトしたものを塗り、ME写真を5、6枚写していました。MEが終わり身支度をしていると、「ご主人と一緒ですか」と聞かれ、主人とともに理事長室へ行きました。「奥さんは、すぐ手術をしないと命がない。もっても半年ぐらいだ。子宮筋腫で心臓を圧迫しているので死んでしまう」と北野に言われました。命がないという言葉に大変なショックを受け、思わず涙が出てきて止まりませんでした。」(同じく当時28歳の須藤芳枝さん、同書p.41-42)

 

佐々木京子医局長

 

「私は忘れもしません。昭和53年[1978]7月17日、二女の誕生日にはじめて富士見産婦人科病院をおとずれたのでした。その前日、近所の産婦人科医をたずね診察してもらったところ、「おめでたのようですね」と言われていましたが、過去3人の子どもを妊娠したときと様子がぜんぜんちがうので、どこか悪いところがあるのではないかと心配になりました。富士見のことは知人から、「すごい機械があって、痛くもかゆくもないのに身体の内部までわかる」と聞いておりましたので、精密検査のつもりで病院の門をくぐったのでした。

院内に入り、診察室に行きますと、眼鏡をかけた50歳ぐらいの女医[院長]がいました。内診が終わり机の前に座ると、「子宮が大きい、筋腫があるみたいだ」と言われました。「検査してみましょう」と言うので「筋腫がそんなに大きいんですか」と聞くと、「だから検査するんでしょう」とどなられたのです。

そして理事長の秘書に呼ばれてME室に入ると、理事長自らベトベトしたものを腹部に塗って、ペンシルのようなもので、たてに横になでながら、ときおり「あれ」「フーン」とびっくりするような声を出しています。理事長は、「あんた大変だよ。卵巣の片方が風船のようにはれていて、片方がブドウ状のようになってい。そして穴があいて、血うみが腹膜にたまっているよ。いますぐ手術をしないと、1、2週間で死んでしまうよ」と言うのです。

私が半信半疑でいると、理事長は自ら「この機械だから発見できたのだ。あんた、手術ができるだけ幸せなんだ」と言うのです。でも万一と思い、私が「どうしても手術が必要ですか」とたずねると、「いますぐにしないと、癌になって死んでもいいのか」と言い、それは半分おどしのようにも聞こえました。」(同じく当時25歳の山本純子さん、同書p.71-73)

 

『乱診乱療』には20人の証言(すべて実名、うち1名は被害者の夫)が、富士見産婦人科病院被害者同盟・原告団編『富士見産婦人科病院事件 私たちの30年のたたかい』(一葉社、2010、以下『たたかい』と略記)には19人の証言(一部匿名、6人は前著と重複)が掲載されています。

 

 

証言の一部しか紹介できませんでしたが、被害者たちが語るME室での北野理事長の不安をかき立てる言動と理事長室での「ぐちゃぐちゃだ」などおどろおどろしい表現で子宮や卵巣の病変を「説明」しながら「すぐに手術しないと死んでしまう」と脅す*一連の流れは、決められたシナリオどおりと考えざるをえないほど同じです。

 *証言から該当する箇所をもう少しあげると、「あなたの子宮は腐っている。すぐ手術しないと危ない。体の血が半分しかない。ガンだ」、「子宮におできがあり、卵巣は腐っている。すぐに入院してとってしまわないと死んじゃうよ」、「子宮筋腫が子どもの頭大になっているし、卵巣の片方が腐っている。すぐに手術しなければ命にかかわる」など

 

朝日新聞(1980年11月20日夕刊)

 

【自殺した患者の告発】

事件の被害者は不必要な手術で子宮・卵巣を摘出された人が主ですが、それだけでなく不適切な措置による合併症に苦しめられ、絶望のあまり自殺する女性も出ました。

 

毎日新聞(1980年9月13日)

 

上の記事の島田トミ子さん(当時49歳)は、1977(昭和52)年6月に富士見産婦人科病院で子宮筋腫と診断され摘出手術を受けました。

 

島田トミ子さん

 

しかし、手術の前後に「体力をつけるため」と称して保存血の点滴を連日受けたことから「血清肝炎*」(輸血など血液を介して感染するウィルス性の肝炎)にかかって寝たきりに近い状態になり、1979(昭和54)年12月17日に自ら命を断ちました。

 *手術後7月に退院するも体調が悪く、8月に再入院しますが快方に向かわないため、ひと月後に国立西埼玉中央病院に転院して「血清肝炎」と診断された

 

島田さんの診断と手術が正しく必要なものであったのかは今となっては分かりませんが、子宮筋腫の場合、よほど重篤な貧血でもない限り、ましてや「元気をつける」という理由での輸血(しかも新鮮血ではなく感染リスクのある保存血の輸血)は常識的にありえないそうです。

つまり、病院が利益を得るための不必要かつ不適切な輸血で島田さんは健康と人生を奪われたのです。

 

島田さんがつけていた8月12日(再入院後)の日記には次のように書かれています(朝日新聞1980年9月13日夕刊)

 

理事長室にすぐ行くように院長先生に云はれ、何もわからずにドア(理事長の)を開けると同時に、何だお前か、バカヤローだなあと、いきなり怒り、このバカヤロー、今年になって2人目の大バカヤローだ。お前は血清(肝炎)じゃないんだぞ、人に聞かれたらどこか悪くなりそうだから入院したと云え、人に聞かれると困るんだ、皆が手術をこわがる、困るんだよ。(原文のママ)

 

また、自殺のひと月ほど前、11月2日の日記に島田さんは夫の幸吉さんに呼びかけるように次のように書いています。

 

パパさん御免なさい、許して下さい、私は苦しいよ、なおりたい、皆といっしょにいつまでも生きたい。パパさん助けてください。(中略)芙蓉会病院のやり方さえ間違ってなければ、こんなに苦しまないでも済んだのがくやしい。

 

毎日新聞の記事によると、島田さんは西埼玉中央病院を退院後、所沢医師会長と所沢保健所長に宛てて富士見産婦人科病院の実態を「告発」する次のような手紙を書いています。

 

「いままであまりにも多くの人が同じめにあっています。入院する全部の人が理事長室を通るようになっていて、私も再入院のとき院長から理事長室に行くように言われ、そこで理事長からバカ呼ばわりされました。患者は病院を信じ切っているのです。理事長にはウソ(血清肝炎であることを否定したりすること)を言ったり患者をおどかすことをしないよう注意してください。」

 

島田さんは北野千賀子院長にも理事長にバカ呼ばわりされた無念さをつづった手紙を送りましたが、院長からの返事は「私は所沢市で20年以上も産婦人科の診療を続けて居り、今まで患者さんに嘘をつかねばならないような、ミスやごまかしをしたことはありません。[理事長が]私の大切な患者さんを、悪意をもって、バカヤロー呼ばわりをするとは考えられません」(1979年1月30日付の島田夫妻への返信)というものでした。

 

さらにその直後(2月1日付)には、理事長の弁護士から「ひぼうが度重なれば、相応の措置を採らなければならない」と脅す内容証明郵便が送られてきたのです。

 

こうした病院側(院長・理事長)の「逆ギレ」とも言える不誠実な対応が、心身ともに苦しむ島田トミ子さん(ら被害者たち)をさらに追い詰めたことは想像に難くありません。

 

【多すぎる「誤診」】

 

朝日新聞(1980年9月18日夕刊)

 

先に証言を紹介した平岩三津子さんと須藤芳枝さんもそうですが、富士見産婦人科病院での診断に疑問を抱いた20人が、術前あるいは術後に同じ所沢市内にある防衛医大病院で再診療を受けたところ、上の記事にあるように実際に手術が必要とされたのは5人だけで、15人(75%)は正常・異常なしもしくは手術不要と診断されています。

 

また、埼玉県警が富士見産婦人科病院から押収したカルテや摘出臓器、検査写真など40人分の鑑定を専門医に依頼したところ、その大半は手術が不要との結果だったと朝日新聞がスクープ記事を掲載しました。

 

朝日新聞(1981年11月30日)

 

さらに、被害者同盟医師団の本田勝紀医師が、被害者側が証拠保全したカルテのうち、「子宮筋腫と卵巣嚢腫」と診断されて全摘された子宮の重量が記載されている68例を調べています。

それによると、子宮筋腫の摘出基準は「こぶし大以上」とされており、重量でいえばほぼ200g以上となるのですが、富士見病院の場合はこの基準に達する事例はごく一部しかないことが分かったそうです。

下の記事の図表は他病院の事例と比較したもので、富士見病院の異常さは一目瞭然であり、本田医師はこの結果を国際産婦人科学会で発表するとのことです。

 

朝日新聞(1982年8月16日夕刊)

 

【立ち上がった被害者たち】

 

被害者同盟結成大会に詰めかけた元患者・家族たち

 

1980年9月10日に富士見産婦人科病院の北野理事長が無資格での診療行為の疑いで埼玉県警保安課と所沢署に逮捕されたのを受け、9月20日の午後、所沢市文化会館で被害者同盟結成大会が開かれました。

大会には予想をはるかに超える約500人が集まり,会場を急きょ大ホールに切り替えるほどでした。

 

元患者や家族が、口々に被害の実態を訴えたあと、「私たちは富士見産婦人科病院のデタラメ診療で回復のできない侵害を受けた。このような不祥事を2度と起こさないように、そして、被害者に対する謝罪と完全な補償を求め闘うことを明言し、北野のほか同病院の責任を追及する」とのアピールを採択しました。

 

朝日新聞(1980年9月21日)

 

その日、被害者同盟に集った元患者たちのうち、闘いがこの先30年近くに及ぶものになると予想した人は果たしてどれだけいたでしょうか……。

 

【被害者たちの闘いと裁判のゆくえ】

富士見産婦人科病院被害者同盟を中心とした被害者たちの闘いのその後と刑事・民事の両裁判について紹介することは、概要ですら質量ともにこのブログにとても収まるものではありません。

事件に関心を持たれた方は、これまでに書名をあげた被害者同盟の出版物をぜひお読みいただくようお願いいたします。

 

そこで以下では、主に裁判の経過と結末の概略を記載するにとどめます(『たたかい』の年表を参照)

 

1980年9月10日 北野早苗理事長を医師法違反容疑で逮捕

 9月29日 告訴人12名が理事長・院長・勤務医4人を傷害罪で第一次告訴

 10月1日 浦和地検が北野を医師法違反で起訴

 10月14日 告訴人20名が理事長・院長・勤務医5人を傷害罪で第二次告訴

 11月17日 院長と勤務医4人を医師法違反幇助と保健婦助産婦看護婦法(保助看法)違反で、職員2人を保助看法違反で書類送検

 11月21日 北野早苗の医師法違反裁判初公判(浦和地裁川越支部)

 12月3日 富士見産婦人科病院が休止届を保健所に提出

 12月26日 浦和地検が北野千賀子を保助看法違反で起訴

 12月31日 富士見産婦人科病院が不渡り手形を出し事実上倒産状態

1981年3月6日 北野千賀子の保助看法違反裁判初公判(浦和地裁川越支部)

 5月1日 民事裁判第一次提訴(57名、13億5800万円、東京地裁)

 8月27日 傷害罪不起訴処分が初めて出る(告訴人1名)

 9月5日 北野千賀子が被害者同盟会員5名を名誉毀損で刑事告訴

 9月14、19日 院長・理事長の代理人から被害者同盟会員に内容証明郵便(民事訴訟と刑事告訴の取下げ要求、財産差押えの予告)

 10月2日 民事裁判原告3名に院長が反訴*(1回目)

  *民事訴訟で訴えられた側(被告)が、訴えた側(原告)に対し逆に訴えを提起すること

 10月17日 民事裁判原告2名に院長が反訴 (2回目)

 11月24日 傷害罪不起訴処分(告訴人3名)

 11月30日 民事裁判原告3名に院長が反訴(3回目)

1982年2月27日 傷害罪で第3次告訴(告訴人3名が院長・理事長・勤務医4名を)

 3月14日 埼玉県警が青井保夫・佐々木京子両勤務医を傷害罪で書類送検

 4月6日 傷害罪不起訴処分(告訴人2名)

 7月5日 傷害罪不起訴処分(告訴人2名)

 9月17日 民事裁判第2次提訴(7名、1億2400万円)

 11月1日 傷害罪不起訴処分(告訴人10名)

 11月25日 浦和検察審査会に傷害罪不起訴処分で不服申立(申立人3名)

1983年1月12日 浦和検察審査会が傷害罪不起訴処分で1名に不起訴不当、2名に不起訴相当の議決

 8月19日 傷害罪不起訴処分(告訴人35名のうち残り17名全員、県警が書類送検した勤務医2名も)/被害者同盟員に対する院長の名誉毀損罪不起訴処分

 9月14日 民事裁判原告10名に院長が民事提訴(反訴4回目)

 9月26日 傷害罪不起訴処分で浦和検察審査会へ不服申立(申立人13名)

 10月8日 北野千賀子が東京地裁に、朝日新聞、埼玉県、所沢保健所長、国と厚生大臣を提訴(謝罪広告・損害賠償・処分の無効確認)

1984年3月28日 傷害罪不起訴処分で浦和検察審査会が申立人2名に不起訴相当の議決

 7月13日 傷害罪不起訴処分で浦和検察審査会が申立人2名に不起訴相当の議決

 10月2日 傷害罪不起訴処分で浦和検察審査会が申立人3名に不起訴相当の議決

1985年3月28日 傷害罪不起訴処分で浦和検察審査会が申立人2名に不起訴相当の議決

 6月27日 傷害罪不起訴処分で浦和検察審査会が申立人2名に不起訴相当の議決

1986年1月10日 傷害罪不起訴処分で浦和検察審査会が残りの申立人2名に不起訴相当の議決

1987年1月13日 民事裁判第3次提訴(3名、7000万円)

 5月14日 医師法違反裁判の論告求刑公判(求刑懲役2年)

1988年1月28日 1審判決、北野早苗(医師法違反、懲役1年6月執行猶予4年)、千賀子(保助看法違反、懲役8月執行猶予3年)

 

毎日新聞(1988年1月29日)

 

 2月12日 北野早苗・千賀子が控訴

1989年2月23日 北野千賀子の控訴棄却(東京高裁)

 3月27日 北野早苗の控訴棄却(東京高裁)

1990年3月9日 最高裁が北野早苗・千賀子の上告を棄却、一審判決が確定

 

毎日新聞(1990年3月9日)

 

1994年9月16日 北野早苗と千賀子に破産の決定

 10月17日 北野千賀子が反訴取下げ(1〜3回の反訴の原告8名について)

1996年2月28日 朝日新聞裁判一審判決(朝日新聞勝訴)

1997年3月27日 朝日新聞裁判控訴審判決(控訴棄却で朝日新聞勝訴)

 5月27日 北野千賀子が反訴取下げ(4回名反訴の原告10名について)

 12月18日 朝日新聞裁判最高裁判決(上告棄却で朝日新聞勝訴が確定)

1999年6月30日 民事裁判一審判決(病院側にほぼ全面勝訴、国・県の行政責任は認めず)

 

朝日新聞(1999年7月1日)

 

毎日新聞(1999年7月1日)

 

 7月12日 勤務医と医療法人が控訴(東京高裁)

2000年6月26日 公判中に死亡した勤務医手塚一郎の遺族と和解成立

2003年5月29日 控訴審判決(勤務医4人の控訴棄却、6月11日最高裁に上告)

2004年7月13日 最高裁が勤務医4人の上告棄却、患者側の勝訴確定

2005年3月11日 北野千賀子が「医師免許取消処分」の取消を求めて提訴

 7月22日 北野千賀子が処分の取り消しを求めて行政訴訟

2008年6月17日 北野千賀子の行政訴訟、一審敗訴、6月24日控訴

 12月18日 北野千賀子の行政訴訟、控訴棄却、12月26日上告

2009年5月28日 北野千賀子の行政訴訟、上告棄却、敗訴確定

 

【北野夫妻と富士見産婦人科病院のその後】

富士見産婦人科病院は事件発覚後に倒産しましたが、病院再開の試みは「芙蓉クリニック」「ローズクリニック」と名称を変えて続けられました。

多額の負債を抱えていたことから病院の土地は競売にかけられ、北野の支援者が高額で落札したため病院を再建するかと思われましたが、両者にもめ事が起きて計画は頓挫した*ようです。

 *富士見産婦人科病院があった土地は別の業者に転売され、マンションが建てられています

 

しかし北野夫妻は、1984年11月に所沢市内の別の場所に千賀子が院長となって新たに「チェリィクリニック」という診療所を開設します。

このクリニックは10年ほどして他の場所に移転し、さらに隣りに「スコットレディースクリニック」という診療所も開設しました。

ところが、土地建物の債務をめぐるゴタゴタから「スコットレディースクリニック」は廃院となり、2003年に「チェリィクリニック」だけを隣接する土地(千賀子の親族が土地建物の名義人)に移して診療をつづけました。

このいわば新「チェリィクリニック」は、産婦人科だけでなく美容外科や皮膚科などを標榜科目に加え、事件を知らない若い女性がプチ整形などに通っていたようです。

 

「女性医療ネットワーク」(2003年結成)のメンバーリストより

 

ところが、院長の北野千賀子が2005年3月2日に医道審議会で医師免許取消処分を受けたことから、診療所を続けていくことができなくなります。

そのため千賀子は、処分の取り消しを求める訴訟を繰り返し起こしますが敗訴を続け、2013年6月27日に処分無効と医師免許再交付をもとめた行政訴訟に敗訴したことをもって、千賀子(とその裏にいる北野早苗)は、クリニックの再開を断念したようです。

 

看板が残る元「チェリィクリニック」の建物

(2014、Googleマップ)

 

彼らや支援者は今に至るも、事件はマスコミによるねつ造で被害者などいないと言い張り、何の反省も示さず謝罪もしていません。

 

 

サムネイル
 

小川里菜の目

 

患者の医療への信頼を悪用し、1000人を超える*女性たちの健康と人生、家族の幸せを破壊した北野早苗・千賀子と勤務医たちの罪の重さを考える時、彼らに下された罰の軽さ、とりわけ刑事罰の甘さには信じられない思いがします。

 *事件発覚後、所沢保健所に届け出た被害者は1138人ありました

 

それは、検察が傷害罪での起訴を立件が困難だとためらい、最高刑でも懲役3年という医師法違反(北野早苗の無資格診療)でしか罪を問わなかったことの当然の帰結だったでしょう。

 

その原因が、検察の能力不足ややる気のなさにあったのか、傷害罪での立件を阻む医療現場の密室性や医師同士のなれ合い・かばい合いという医学界の隠蔽体質*があったのか、あるいは北野が日ごろから政界官界だけでなく警察関係者にも手(金)を回して追及を封じたのか、それは分かりません。

 *事件が発覚する何年も前から、富士見産婦人科病院で問題のある診療がおこなわれていたことは医師たちの間でかなりうわさになっていたそうですが、それが表沙汰になることはありませんでした

 

被害者同盟とそれを支援する弁護士・医師・市民たちの粘り強い闘いにより民事訴訟でほぼ全面勝訴を勝ち取ったとはいえ*、被害の甚大さ深刻さと医師法違反という形式面でしか問えなかった刑事罰のあまりに大きな落差を考えると、こうした医療犯罪を繰り返させないためには構造的・制度的に問題点を改善していかなければならないと強く思いました。

 *民事訴訟で5億1400万円が原告61名に支払うよう病院に命じられましたが、長期化した裁判の過程で富士見産婦人科病院は倒産し、北野夫妻もそれぞれ破産が認められたため、賠償金が現実にどれだけ支払われたのか確認することはできませんでした

 

毎日新聞(1999年8月3日)

 

被害者(原告)の弁護団長を務めた内田剛弘弁護士は、上の記事において、医療裁判においては、立証責任を転換し医療側に負わせること、その際にポイントとなるのは医療情報を病院側に公開させる*こと、さらに被害者救済制度を確立させることの重要性をあげています。

 *傷害罪で不起訴(証拠不十分)とされた理由が、「病院という特殊な場での傷害の立証が困難」(検察の会見)ということでしたから、診療情報の保全と患者や司法機関への開示は不可欠でしょう

 

また、パワハラ的言動で患者を威圧し従わせていた北野のような「ニセ医者」は論外ですが、医師と患者が権威主義的な命令‐服従の関係になるのではなく、医師は患者の意思を尊重し、患者の側も医師への「お任せ」ではなく自分の病気と治療に対して主体的に向き合う姿勢が必要でしょう。

 

この事件が起きたころと比べると、今では病院での「患者の権利」の明示と尊重、インフォームドコンセント(必要十分な情報提供に基づく医師と患者の合意形成)やセカンドオピニオン外来の設置、インターネットで手に入る医学・医療情報(玉と石を見分けるリテラシーが必要ですが)など、医療環境の改善がなされていると思いますし、医療事故や医療過誤の被害者救済制度も不十分ながら設けられるようになっています。

 

しかしそうしたことも、この事件だけでなく医療の場で被害者となった人たちが諦めずに声をあげ、加害者の責任追及と被害の補償、問題のより根本的な解決を、自分たちと同じ苦しみ悲しみを2度と起こさないようにとの願いから闘ってこられた成果として私たちは享受できているのだとあらためて心に刻んだ小川です。

 

朝日新聞(1980年10月13日)

 

所沢駅前で初めてビラ配りをする被害者たち

(1980年9月27日、『乱診乱療』より)

 

最後にボクからです

2024年1月1日に起きた能登半島地震から今年で2年がたったね

ボクは、たまに小川と保護猫イベントに参加するんだけど

そこで能登半島で助けられた保護猫さんと出会ったので紹介するね

 

 

 
こちらは、能登半島地震で保護された猫の「だい」くんです
 

 

 
ボクを見たら近寄ってきてくれたんだよ
 

 

 
ボクとだいくんはすっかり仲良くなったよ
でも、うちには来てもらえないので残念だ……

だいくんにステキな家族が見つかるといいな🐱

 

サムネイル

 

今回も最後までお読みくださり

ありがとうございます🥹

次回もどうぞよろしくお願いいたします💓

 

リクエスト企画

大雪山系旭岳

SOS遭難事故

1989年

毎日新聞(1989年7月26日)

 

*これについては、Wikipediaなど「SOS遭難事件」とされていることが多いですが、遭難に関して本人または第三者による「故意」の要因がないことから、このブログでは「SOS遭難事故」としています

 

【大雪山系旭岳】

 

(Googleマップ)

 

大雪山系の諸峰(Wikipedia)

 

北海道の中央部に位置する大雪山は、一つの山ではなく、「北海道の屋根」とも呼ばれる2000m級の峰々が20以上も連なる巨大な火山群で、「大雪山系」と言われます。

一帯は「大雪山国立公園」に指定されており、なかでも道内最高峰として登山者の人気を集めているのが旭岳(標高2291m)です。

 

旭岳に向かう登山者

 

「登山の初心者でも挑戦できるのが旭岳。脚力に自信がなくても〈大雪山旭岳ロープウェイ〉を利用すれば、標高1600メートルに位置する姿見駅まであっという間に辿り着きます」(「おもいっきり北海道」)と観光案内サイトに書かれているように、五合目付近までロープウェイで上がると、あとはほぼ一直線に山頂まで片道2時間ほどで行けるとあって、旭岳は手軽に登れる山という印象が強くあります。

 

姿見駅から旭岳への登山ルート

(YAMAP)

 

「山の日」に登山客でにぎわう旭岳山頂

(毎日新聞、2016年8月11日)

 

しかしそうしたお手軽なイメージとは裏腹に、旭岳は遭難事故が多発している山でもあるのです(YAMA HACK「遭難事故の多い旭岳。なぜ?どこで?実際の事故原因から学ぶ対策方法」2020年9月12日)

上の記事によると、旭岳遭難事故のもっとも多い原因は「道迷い」だそうです。

というのも、「山の天気は変わりやすい」と言われるように、晴れていると思うと一転して天気が崩れ霧がでて視界が悪くなると、たとえ道標があっても道に迷ってしまうことがあるのです。

 

 

晴れている時(上)と霧が出た時(下)の旭岳登山道

(上記の記事)

 

この大雪山系旭岳で、1989年の遭難者捜索をきっかけにして、その5年前に起きたミステリアスな遭難事故が明るみに出たのです。

 

【発見されたSOS遭難事故】

1989(平成元)年7月24日の午後、同じ大雪山系の黒岳から旭岳に向かっている途中で行方不明になった東京からの登山者2名を捜索するため、北海道警察(以下、道警)のヘリコプター「ぎんれい1号」が旭岳周辺を飛行していたところ、同岳南方の湿地帯で倒木を組んだと思われる「SOS」と読める大きな文字を発見しました。

 

 

行方不明だった登山者2名は、その場所から3kmほど北で午後6時50分ごろに無事救助されたのですが、この文字については知らないとのことでした。

 

そこで道警は、他に遭難者がいるものと考え、翌7月25日にあらためてヘリを飛ばし、見つかった文字の周辺を捜索したところ、人骨と見られる白骨3片(大腿骨、上腕骨、骨盤のそれぞれ一部)と、カセットテープレコーダーとカセットテープ4本(1本はレコーダーに装着)、洗面用具や山王神社のお守りなどが入ったリュックサックが発見されました。

なお、骨には動物の噛み痕と見られるものがついていました。

 

 

朝日新聞(1989年7月26日)

 

発見された骨について旭川医科大学で鑑定したところ、骨盤の形状から20−40歳の女性のもので、身長は160cm前後、採取された骨髄から血液型はA型とされました。

 

「SOS」の木文字は、シラカンバ(白樺)の倒木を集めて3段に積み上げた長辺が5mと大きなもので、中には直径50cm長さ5mもの木もあり、これを作るには相当な労力(男性1人だと少なくとも丸2日)が必要と推定されました。

 

「S」の字(朝日新聞、1989年7月28日)

 

なお警察が調べてみると、この「SOS」の木文字は、1987(昭和62)年9月20日に林野庁と国土地理院が地図作成のために高度3700mから撮影した航空写真に、3文字合わせても幅は約0.9㎜と小さいながら写っていたことが分かりました。

 

読売新聞(1989年7月31日)

 

さらに、テープレコーダーにセットされていたカセットテープには、アニメ「超時空要塞マクロス」と「魔法のプリンセス ミンキーモモ」の主題歌や「マクロス」を話題にしたラジオ番組の録音のあとに、2分17秒にわたって男性が大声で「えーすーおーおーえーすー たーすーけーてーくーれー」のように一文字ずつ区切りながら叫ぶ声が録音されていたと7月27日に道警が発表しました。

その声は、当時テレビで何度も流され、今でもこの事件を扱ったYouTube動画で聴くことができます。

 

カセットテープレコーダー

 

カセットテープのケース

「ミンキーモモ」の切り抜きが貼られていた

 

(毎日新聞、同上)

 

また、7月28日にも道警がヘリで4人の捜査員を現地に降ろし捜索をしたところ、あらたに頭蓋骨*やカメラの三脚、男性用のバスケットシューズ(27cm)の片方など35点の遺留品が発見されましたが、周囲に新しいヒグマの足跡が多数見つかったために捜索を切り上げて撤収しました。

 *この頭蓋骨についても、旭川医科大学は先に見つかった骨と同様に女性のものと鑑定した

 

毎日新聞(1989年7月28日夕刊)

 

こうして、最初に見つかった骨が女性のものと鑑定されながら、他の遺留品やテープの声が男性のものであったことから、遭難者は男女のペアだったのか、男性と女性が別々の時期に同じ場所で遭難したのかなど、遭難者の身元確認は混乱することになります。

というのも、旭岳での女性の行方不明者の届け出は記録になかったからです。

 

(読売新聞、1989年7月28日)

 

【特定されたSOSの発信者】

当時、旭岳周辺で行方不明のままになっていた登山者は、1984年7月の愛知県の男性と1989年6月の東京都の男性の2人で、その他に1989年4月に札幌から網走の女満別に向かったまま消息を絶った3人乗り小型飛行機のルートもこの近くでした。

 

そのうち、発見された骨や遺留品の経年状態から、1984(昭和59)年7月10日に旭岳に登ったまま行方不明になっていた愛知県江南市の会社員・岩村賢司さん(行方不明時、25歳)の可能性が高いと見てテープの声を両親に聴いてもらいましたが、確証が得られませんでした。

 

ところが、7月28日に北海道放送(HBC)の取材班4人*が旭岳に入山し、29日に現場付近を取材中、「SOS」の木文字から北に約50mのところにある木の根の部分の自然にできた穴に倒木や枯れ枝を立てかけて雨露をしのげるよう細工し、ゴミ袋や雨ガッパを敷いてビバーク(登山での緊急時の野営)した跡があり、穴の中とそこにあった袋から岩村賢司さんの免許証やユースホステル会員証、印鑑、彼が愛用していたカメラなど30数点を見つけたのです。

 *取材班4人は、このあと過労のため自力で現場から動けなくなり、7月30日の朝に道警のヘリで救出されました

 

 

 

岩村賢司さん

毎日新聞(1989年7月30日)

 

読売新聞(1989年7月31日)

 

これら遺留品を、岩村さんの両親と会社の同僚に見せたところ、彼のものに間違いないと確認された*ことから、道警は木文字を作った遭難者は岩村賢司さんであるとほぼ断定しました。

 *下の記事にあるように、最初に発見されたお守りは岩村さんの実家(京都市右京区)の近くの山王神社のもので、父親が毎年交通安全のお守りを息子の賢司さんに渡していました

 

読売新聞(1989年7月30日)

 

道警は、8月3日にも4度目の捜索を現場でおこない、さらに人骨や毛髪、衣類、時計などを発見しています。

 

読売新聞(1989年8月4日)

 

4回の捜索をおこなった北海道警旭川東署は、8月4日に「捜すべきところはすべて捜した」として捜索を打ち切ると発表し、骨の「女性」はいったい誰かという謎を残しながら、「SOS遭難事故」は岩本賢司さんの遭難ということでひとまず落着しました。

 

【謎の「女性」の正体】

それから1年半後の1991(平成3)年2月28日、旭川東署は発見された人骨を女性のものとした当時の鑑定は誤りで、遺骨も岩村さんのものだったと発表しました。

 

DNA鑑定が本格的に導入され始めたのは1992年になってからで、1989年当時の鑑定は骨の形状によるものでした。

旭川医科大学では、見つかった骨片のうち主に骨盤の大きさと形状からそれが女性のものだと鑑定したのですが、頭蓋骨と生前の写真とを比較し、輪郭の他に鼻や口、耳、眉など特定のポイントの一致からその人物を特定するスーパーインポーズという新たな手法で再鑑定したところ、頭蓋骨が岩村さんのものであると分かったのです。

 

また、血液型についても骨髄が変質していたために当初A型とした鑑定は誤りで、岩村さんと同じO型であったと訂正されました。

 

こうして骨だけを残した謎の女性遭難者は最初からいなかったことが分かり、SOS遭難事故は岩村賢司さんの単独遭難事故だったことですべて決着がついたのです。

 

朝日新聞(1991年3月6日)

 

【岩村さんの登山ルート】

冒頭にロープウェイの姿見駅から旭岳山頂への登山ルートを紹介しましたが、岩村賢司さんはそれとは異なり、5年後に東京から来て遭難した2人の登山者(その捜索過程でSOSの木文字が見つかった)と同じ黒岳から旭岳に至る縦走コースをたどっていたようです。

 

岩村さんが届け出た登山ルートについては、全国紙では読売新聞(1989年7月29日付)だけが報じています。

 

それによると岩村さんは、1984年7月10日に宿泊していた層雲峡ユースホステル*(現在の層雲峡ホステル)を出て、黒岳(標高1984m)ふもとのロープウェイ駅から五合目の黒岳駅(1300m)に上がり、さらにスキー場のペアリフトに乗り継いで、7合目(1520m)からまず黒岳に登りました。

 *ユースホステル(YH)は、旅する若者たち(ユース)に安全かつ安価な宿泊所(ホステル)を提供しようという理念をかかげ20世紀初頭にドイツで始まった運動が世界に広がり,日本では第二次大戦後に多く作られた会員制の宿泊施設

 

層雲峡ユースホステル

 

黒岳ロープウェイのふもと駅

(右手奥に見えるのが黒岳)

 

ペアリフトで黒岳7合目駅へ

 

黒岳山頂から中岳・間宮岳を経て旭岳に登り、西の姿見駅からロープウェイで下山し、旭岳温泉に行くというのが岩村さんの計画でした。

 

YAMAPのルート地図に小川加工

 

YAMAPによるとこのルートは、黒岳7合目のリフト駅から旭岳の姿見駅まで11.9km、7時間を要する「きつい」部類のルート*になります。

モデルケースによると、朝の7時に黒岳7合目リフト駅を出たとすると旭岳に着くのは12時19分と5時間以上(約9.1km)かかるそうです。

 *このルートは、走破するのにどれだけのエネルギー(体力)を必要とするかを示す「コース定数」( 1.8 x 標準コースタイム(h) + 0.3 x 歩行距離(km) + 10.0 x 上り累積標高(km) + 0.6 x 下り累積標高(km))が「28」で、健脚向きの「きつい」コースだとYAMAPでは表示されています。ちなみに、姿見駅から旭岳を往復するだけならコース定数は「16」で初心者向きの「ふつう」です

(ルートの高低と距離、YAMAP)

 

岩村さんにどれだけの登山歴があり健脚だったのかは分かりませんが、スポーツマンというよりアニメ好きでやや太り気味だったと言われることも考えると、旭岳を出た時点ですでにかなり疲労が溜まっていたのではないでしょうか。

 

【遭難場所と遭難原因】

ところで、岩村さんが遭難しSOSの木文字を作った「旭岳山頂から南へ約4km」という場所がどこなのか、その正確な位置情報を得ることはできませんでした。

 

そこで、新聞各紙が載せた現場見取り図と後に述べる遭難ポイント、それに「saitama-n」さんが「YamaReco」に掲載しておられる日記(「SOS遭難事件」2021年3月2日)の地図を参照すると、次の場所ではないかと推定されます。

 

(YAMAP)

 

(Google Map)

 

このように、旭岳山頂からSOSの木文字の場所への位置関係から考えると、山頂から姿見駅に向かって下りるときに、ある地点で西方ではなく南方へと道を間違えてしまったものと思われます。

 

その「ある地点」とは、実際にそれまでも道を誤る人がしばしば出ていた場所で、岩村さんもそこで道迷いをしてしまった可能性が非常に高いと考えられています。

下の地図の、山頂から下ってほぼ直線に西の姿見駅に向かう手前で道がカーブしているところがその地点です。

 

(YAMAP)

 

この近くには、旭岳の道しるべとして有名な四角い「金庫岩」があり、山頂に上るときはこの岩を左手に見、下る時はこの岩を右手に見て通るのです。

 

金庫岩

(最上晶さんのブログ「追分日乗」より、2022年)

 

ところが、金庫岩から少し離れたところに、非常によく似た「ニセ金庫岩」と呼ばれる四角い岩があるのです。

 

ニセ金庫岩(同上)

 

上の写真に写っているように、SOS遭難事故が明るみに出た後の7月31日、環境庁(現在の環境省)大雪山国立公園の管理事務所は、旭岳登山道の中で最も迷いやすいニセ金庫岩の近くに新たに標識を設置し*、その後さらにロープを張って誤った方向に迷い込まないための措置を取りましたが、岩村さんが訪れた時には標識もロープもありませんでした。

 *今では地図にも、従来から記載のあった金庫岩に加えてニセ金庫岩が載せられています

 

朝日新聞(1969年8月1日)

 

可能性として、岩村さんは旭岳を下りるときに金庫岩を見過ごし(岩村さんの疲労に加え、上りと下りとで金庫岩は形が異なって見えるとの指摘もあります)、ニセ金庫岩の方を金庫岩と見誤り、それを右手に見て進んだため、出口のない道へと迷い込んだのではないかと思われます。

 

 

正しいルートだと、上図のように姿見駅へと西に向かって進むのですが、間違うと南に下りますので、もし岩村さんがコンパス(方位磁石)を持っていたり登山に慣れていればすぐに間違いに気づいたのでしょうけれど、軽装備で特に登山経験が豊富というわけではなかった岩村さんは、「ちょっとおかしいかな」と思ったとしても「まあ大丈夫だろう」という気持ち*で間違った道なき道をそのまま進んでしまったのではないでしょうか**。

 *危機が迫っていても「大丈夫だろう」「大したことない」と過小評価して心の平静を保とうとする「正常性バイアス」と呼ばれる心理的な自己防衛機制が働いたのかもしれません

 **2000年代後半から急速に普及したスマートフォンがこの時代にもしあれば、事故は防げたかもしれません

 

【遭難現場の状況と録音テープ】

岩村さんがどのようにしてSOSの木文字を作った湿原にまでたどり着いたのかは分かりませんが、湿原の周囲には「笹地」の地図記号が書かれているように、斜面が笹で覆われていました。

 

 

旭岳の笹は「チシマザサ(千島笹)」という大型の笹で、「主に標高1000メートル前後の山地は、山の斜面を埋め尽くすほどの大群落をつくることが多い」(Wikipedia)そうです。

1〜3mのチシマザサが伸びた斜面を下から登ることは非常に難しく、岩村さんがテープに「笹深く上へは行けない」と吹き込んだのは、いったん下りるともう元には戻れない状況を言っていたのだと思われます。

 

チシマザサ(那須岳:栃木・福島の例)

 

またテープの声に「がけの上で身動きとれず」とあることを含めて、山岳ガイドの宮下岳夫さんは、「リュックが見つかった現場付近には笹が一面に生えている。近くの忠別川を川下に4、500m下りていくと、急に切り立ったがけに出る。川を下れば人家に出ると判断して川下に向かった場合、急に両岸が高さ200mのがけに突きあたったら、一般のハイカーはパニックになる。テープの声はその時に吹き込んだものではないか。遭難した人物は湿原方向にやむなく引き返し、ヘリの助けを求めてSOSの記号をつくったのだと思う」(毎日新聞、1989年7月28日)と推測していますが、ほぼ事実に近いのではないかと思われます。

 

「SOS 助けてくれ 場所は初めにヘリに会ったところ」という点については、岩村さんの消息不明の知らせを受けて道警は救助ヘリを飛ばし旭岳一帯を捜索したのですが、彼を発見できませんでした。

 

ヘリでの捜索には多額の費用がかかるため、道警としてはいつまでも捜索を続けることはできず、岩村さんの会社の同僚たちが民間ヘリをチャーターしようとカンパを集めたりもしたそうですが、結局彼の発見には至りませんでした。

 

しかし、岩村さんの方はいずれかのヘリを見てそれに希望をつないだのでしょう。

 

テープレコーダーに救助を求める声を吹き込んだ時期や意図についてはよく分かりませんけれど、自分が衰弱して大声を出せなくなったときに備えたのかもしれません。

 

なお、岩村さんの死因についても、死後5年が経過し遺骨も部分的にしか残っていなかったことから特定できていません。

 

現場がヒグマの生息地であり、遺骨に動物の噛み痕があったことから、ヒグマに襲われた可能性もありますが、骨の散乱や噛み痕は死後のことかもしれず、またキツネの仕業との見方もあるようで、衰弱死の可能性も含めて真相は藪の中です。

 

岩村さんが、たった独りどんな思いで懸命に倒木を集めて巨大なSOSの木文字を作り、またテープに助けを求める声を吹き込んだのだろうかと考えると、ご遺族ならずともいたたまれない気持ちになります。

 

アニメ好きの彼が、テープに録音していたアニメソングやラジオ放送を聴いて心を慰めていたとも考えられますが、電池が消耗してしまうといざというときに録音が役に立たなくなるので、それも思うようにはできなかったことでしょう。

 

ただ、彼が作ったSOSの木文字が、5年後に他の遭難者を発見・救助するきっかけになったことが、せめてもの慰めと言うしかありません。

 

ちなみに、SOSの木文字は現在はもう目視できなくなっているようで、事故発生から41年が経過して自然に還ったのかもしれません。

 

サムネイル

小川里菜の目

 

「ミステリアスな遭難事故」と初めに書きましたが、SOSの大きな木文字、テープに吹き込まれた叫び声、遺骨の女性(これについては後に判明)といった「謎」が発見当初からさまざまな推測・憶測を呼び、今でも「事件」と呼ばれることが多いように人びとの興味を引きつけています。

 

遭難の現場が発生から5年も経って発見されたことから、今となっては確かに推測するしかない「謎」は残りますが、出来事自体は岩村さんの道迷いによる遭難であって、それをことさらミステリー仕立てにすることはないでしょう。

 

ただ、気になったことをあげるとすれば、読売新聞が報じた岩村さんの当日の登山計画は、彼の体力や技量に比してややハード過ぎたのではなかったかとの懸念です。

 

旭岳も観光案内に「初心者でも挑戦できる」「脚力に自信がなくても」とありますが、黒岳も「ロープウェイとペアリフトを利用すれば、比較的手軽に山域の高原風景や紅葉、雲海、雪景色を楽しむことができます。「大雪山 黒岳」は登山・トレッキングファンに定番の山であり、北海道の自然美を象徴するスポットの一つです。ロープウェイを使えば5合目駅(黒岳駅)まで上がれるため、体力に自信がない方でも高所の絶景を満喫できます」(北海道観光ツアーズ)と手軽さをアピールして登山者を誘っています。

 

しかし、脚力や体力に自信がなくても手軽に楽しめる旭岳と黒岳とはいえ、この2つの山をつないで縦走するコースは、先に見たようにかなり「きつい」ものであるにもかかわらず、岩村さんや5年後に同じルートで遭難した登山者たちは、山の魅力と誘い文句に惹かれるあまりつい見方が甘くなってしまった可能性を否定できないように思いました。

 

人間がいくら飼い慣らそうとしても、自然はそう簡単に人の思い通りにはならない厳しい顔を持っているという畏れと謙虚さを私たちは失ってならないことを、正常性バイアスに流された根拠のない楽天性ではなく最悪の事態を想定して危機を危機と認知できることの重要性とともに、事故の教訓として再確認しなければならないと小川は思いました。

 

もう一つ気になったことは、岩村さんの死にヒグマが関わっていた可能性です。

 

 

 

というのも、今年はクマ(ツキノワグマ、ヒグマ)が人間の生活圏に出没して被害を及ぼす事件がこれまでになく多発したからで、恒例の「今年の漢字」にも2025年は「熊」が選ばれたほどです。

 

(写真提供:日本漢字能力検定協会)

 

旭岳をはじめ大雪山系にはヒグマが多数生息しており目撃情報は多々ありますが、人命に被害が出た記録は1949(昭和24)年7月30日に1人が亡くなったただ一件だけです。

 

この事件は、北海道秩父別町から来た男性9人のパーティーが、愛山渓温泉から旭岳山頂を目指し往復26kmを日帰りするという、この場合は明らかに無謀な計画の中で起きました。

 

「日本クマ事件簿 vol.01」(ソトラバ、2023年5月20日)によると、午後1時に愛山渓温泉を出発した一行が、当時はまだなかった大雪山旭岳ロープウェイ(1967年開業)姿見駅の近くにある姿見の池に夕方になってようやく到着したものの、うち4人は疲労困憊していたために登頂を諦めて下山することにしました。

 

姿見の池と旭岳

 

ところが午後7時ごろ、下山していた登山路で下から上ってくるクマと出くわし、大声をあげて威嚇したのがかえってクマを刺激したのか、笹藪に飛び込んだ4人のうち21歳の男性がクマに押し倒されて犠牲になりました。

 

通報を受け8月1日になって20人の捜索隊が現場付近を捜したところ、男性の頭と足、そして胴体がバラバラに見つかりましたが、筋肉はほとんど食べられていたそうです。

 

ただ、どうしてこのときクマが人を襲ったのかについては、「クマが人間を襲う場合は、空腹や苛立ち、戯れ、恐怖と、さまざまな要因が考えられるため、本当の理由は推測の域を出ない」とこの記事は述べています。

 

クマによる死亡被害が確認されたのは、先に述べたように大雪山系ではこの1件にとどまりますが、行方不明者の中には同様の被害者がいる可能性があり、もしかしたら岩村さんもその1人なのかもしれません。

 

ところで、今年の特に東北地方を中心としたクマの出没と被害については、原因としてクマのエサとなるブナ(どんぐり)の結実が青森・宮城・秋田・新潟・山形で大凶作だったことが指摘されています。

 

読売新聞(2025年11月17日、新潟県版)

 

ブナの結実は、年によって波(豊作と凶作の周期)があるそうですが、岩手県内の状況(下表)を見てもここ10年豊作の年はなく、凶作や大凶作の年が増えています。

 

読売新聞(2025年11月7日、岩手県版)

 

ブナ凶作の原因としては気候変動による温暖化の影響が指摘され、山でエサの不足したクマが人口減少・過疎化にともなう耕作放棄地の増加もあり人里まで下りてきてそこを生息地にする個体が増えている*というです(石田雅彦「「クマ被害」増加の原因は「人口減少」と「温暖化」だった。東京農工大などの研究」Yahoo!ニュース2025年4月20日、など)

 *こうしたクマは「アーバンベア」と呼ばれ、冬眠も浅く短くなっているそうです

 

また、エサ不足の環境下ではクマにも変化があらわれ、臆病と言われてきたクマでもエサがないことで性格が一変し凶暴になると言われます(読売新聞、2025年12月22日岩手県版「記者ノート2025」)

 

岩手県内では今年10月16日、北上市の瀬見温泉で従業員の男性が露天風呂の清掃作業中にクマに襲われ行方不明になる(のちに死亡を確認)という痛ましい事件も起きており、人に直接の害を及ぼすクマ(個体)に対しては、緊急避難的措置として駆除することも必要でしょう。

 

読売新聞(2025年10月17日)

 

しかし、こうしたクマの異常行動の背景に気候変動や過疎化など人間の諸活動の影響があるとすれば、ただクマを駆除しさえすればいいということではなく、地球環境破壊に対する人類の責任を重く受けとめ、地球規模での有効な対策を国際的な協力関係のもと早急に講じることが必要でしょう。

 

 

 

ところが、「気候変動はフェイクだ」とする真逆の主張が台頭してそうした取り組みの足をひっぱり、国際社会に混乱が生じています。

 

いま増加しているクマ被害は、地球/自然の発する「SOS」なのではないのかと、小川には思えてならないのです。

 

 

 

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本年は小川のブログをお読みくださり

どうもありがとうございました🩷

来年も気持ちを新たにして

ブログに取り組みますので

どうぞよろしくお願いいたします🩷🩷

 

2025年も今日で最後だね

小川のブログを読んでくれて、ありがとう

 

ボクは小川が作ってくれた蝶ネクタイをして、12月28日に一緒に神戸のスペイン料理店カルメンで忘年会をしたよ

 

 

 

 

 

 

 

 

ナイヤガラ種ブドウジュース / 前菜(タパス:小皿料理)

タマネギとニンニクと玉子のスープ / サラダ

フラメンカ・エッグ / ヒレステーキ

パエリア / デザートのロールケーキとコーヒー

 
来年も小川のブログをよろしくね💞
ボクもときどき登場するよ🐱
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戦後2人目の確定女性死刑囚

3人を毒殺した

杉村サダメ事件

1960年

朝日新聞(1960年12月31日)

 

【事件の概要】

1960(昭和35)年12月28日の午後、熊本市長谷町(はせまち、現在の西区春日)に住む衣類行商人の奥村キヨノさん(51歳)が、行きつけの熊本市高江町(たかえまち、現在の南区南高江3丁目)杉村サダメ(49歳)宅を集金に訪れ、出された納豆(当時は、熊本特有の表現で「ねば納豆」と言った)を食べたところすぐに苦しみだして午後5時ごろに亡くなりました。

 

地図は現在のもの

*同地区に当時の農村の面影はまったくない

 

奥村キヨノさん

 

それをきっかけに、サダメ宅で他にも近所の人が亡くなったといううわさを熊本県警川尻警察署(現在の熊本南警察署)刈草駐在所(現在は廃止)の巡査が聞き込んだことから捜査したところ、12月18日の午後1時ごろサダメ宅に売掛金の取り立てに訪れた熊本市近見町(ちかみまち、現在の南区近見)衣類行商人・村上敏子さん*(49歳)が、サダメにすすめられた鯛ミソを一口食べてから隣家に行商に回ったところで苦しみ始め、近所の人に助けられて自宅に帰ったものの意識不明の重体になっていた**ことが分かりました。

 *新聞報道ならびに熊本地裁判決文では「村上敏子」となっていますが、なぜか大塚公子『死刑囚の最後の瞬間』、深笛義也『女性死刑囚』では名前が「山村富士子」とされています

 **その後、一命は取り留めましたが、彼女は植物状態になりました

 

村上さんが苦しみだした時にサダメが駆けつけて来たのですが、その間に村上さんの財布に入っていたはずの1万3千円が無くなっていました。

 

さらにさかのぼると、12月6日の午後1時ごろ、サダメ宅に来た近所に住む義母(亡夫・杉村登さんの母=姑)の杉村クラさん(81歳)が、出された好物の乳酸菌飲料ヤクルトを飲んだあと近くに住むクラさんの弟宅で苦しみだし、自宅に運ばれてから死亡しており、また12月14日午前10時ごろサダメ宅の隣りに住む茶飲み友だちの嘉悦タケさん(45歳)が、サダメが持って来た馬肉煮を食べたところすぐに苦しみだして、午後3時50分ごろ運ばれた国立熊本病院で亡くなっていたことも分かりました。

しかし、両人とも医師が死因を脳卒中と診断したことから、その時は事件性がないとされていたのです。

 

嘉悦タケさん

 

疑惑が深まったと見た警察は、12月29日朝に杉村サダメ宅を捜索して農薬ホリドールの100cc入りビンなど4本に鯛ミソと納豆の食べ残りを見つけ押収し、県警鑑識課で調べたところ、鯛ミソと納豆から有機リン剤の反応が出ました。

そこで警察は、川尻署に同行を求めて彼女を取り調べました。

 

取り調べを受ける杉村サダメ

(読売新聞 1960年12月31日)

 

当初は容疑を否認していたサダメですが、自宅台所から押収された農薬が混入した鯛ミソと納豆という証拠を突きつけられると、行商人の村上敏子さん・奥村キヨノさんの件については関与を認めました。

しかし、義母の杉村クラさんと隣家の嘉悦タケさんについては医師の診断どおり脳卒中だと言い張りました。

 

サダメの取り調べを進める一方で警察は、奥村さんの遺体解剖に加え、30日には土葬されていた嘉悦タケさんの遺体を掘り起こして熊本大学法医学教室で司法解剖したところ、両遺体から有機リン酸の反応が検出されました。

なお、杉村クラさんの遺体は火葬されていたために司法解剖ができませんでした。

 

解剖結果を示されたサダメは、12月30日になって3人の毒殺と1人の同未遂に関与したことを自供したのです。

 

【杉村サダメと犯行の動機】

杉村サダメは、1911(明治44)年10月27日*、熊本県鹿本(かもと)郡川辺村鍋田(現在の山鹿市鍋田)に石屋をしていた猿渡己之平・シガ夫婦の長女として生まれました。

 *地裁判決文では「10月27日」ですが、大塚公子・深笛義也は誕生日を「12月29日」と記載しています

 

 

川辺尋常高等小学校*を卒業後、サダメは近くの農家に奉公したり家業の石屋を手伝ったりしていましたが、やがてとび職をしていた杉村登さんと出会い、1930(昭和5)年4月に19歳で熊本市高江町の杉村家に「嫁入り」しています。

 *尋常小学校6年と高等小学校2年の計8年在学で、13歳か14歳で卒業した

 

夫とは恋愛結婚だったと言われ、翌1931年に一人娘が生まれました。

 

ところが、相思相愛だったはずの夫は実は大酒飲みの暴力男で「女癖」も悪く、結婚して10年ほどすると子連れの愛人を次々と家に引き入れ、いわゆる「妻妾同居」の状態だった時期もあったようです。

たまりかねたサダメは離婚を切り出しますが夫はとりあわず、逆に殴る蹴るの暴力を振るわれました。

 

夫が酒を飲んでろくに働かないために、サダメは日雇い人夫をしたり小商いをして何とか毎日の生計を維持していたそうです。

 

1950(昭和25)年2月、娘のアヤ子さんが婿養子を迎えて同居するようになり、娘夫婦と一緒に戦後の農地改革で手に入れた農地(3反3畝=3300㎡ほど)を耕作しますが、生活は依然として苦しいままでした。

 

そうした過労や夫とのストレスも影響したのか体調を悪くしたサダメは、1952(昭和27)年に子宮筋腫のため子宮摘出の手術を受けています。

 

1953(昭和28)年6月に、酒乱だった夫が、当時は高価で手に入りにくい酒に代わるものして出回っていた人体に有毒な工業用メチルアルコール(メタノール)*を原料とする密造酒(ヤミ酒)を飲んで54歳で亡くなり、前後して実父母とも死別します。

 *飲用のエチルアルコール(エタノール)と違い、飲んだあとに体内の代謝で生成される「蟻酸」が有毒なため、個人差が大きいですが致死量(半数致死量:LD50)は体重1kgあたり30-100ml、失明する量は約10mlとされています(三協化学株式会社、下図とも)

 

 

さらに1957(昭和32)年9月ごろ、娘夫婦とは農地のほとんど(田2反3畝、畑1反)を財産分けする形で別居しました。

娘夫婦との別居は、サダメが新しく付き合い始めた男性が家に出入りするようになったことが原因と思われます。

 

志垣権蔵という名のヤクルトの配達員をしている男性(55歳)とサダメは内縁関係を結び、1958(昭和33)年の暮れごろからサダメの家で同居を始めます。

「やさしい男で、2人の仲はうまくいっていた」(サダメの供述)ようですが、しかしこの男は妻子ある既婚者でした。

 

当時の新聞は、2人が「派手な生活」を送っていた(冒頭の朝日新聞 1960.12.30)とかサダメが「派手好きで浪費が多く」(読売新聞)と書いていますが、実際は、同居していた男性が自分の決して多くない収入の大半を大学に通う次男の学資などとして妻子に渡していたため、農地の大半を娘夫婦に与えたサダメの生活は以前にも増して苦しくなり、親族・知人からの借金や商店の買掛金(ツケ)がかさんでいました。

 

読売新聞(1960年12月31日)

 

1960(昭和35)年11月末ごろには、借金の元利合計が約15万5千円、八百屋・魚屋・酒屋などの買掛金(ツケ)が約1万8千円あまり(両方合わせて約17万円*)にまでなり、当時の慣習として年末には借金の利息分だけでも支払わなければならなくなります。

 *日銀の資料を参考に試算すると、消費者物価ベースでは1960年の17万円は2024年の約105万円に相当するようです

 

「生来小心な反面、勝ち気で見栄っ張りの性格でもある」(熊本地裁判決文)サダメは、さしあたり3万円程度の現金を手に入れようとひとり苦慮します。

そして、12月の初めごろには農作物の消毒に使用し残りを保管していた農薬「ホリドール*」などを使って他人を中毒させ、苦しむすきに所持金を奪おうと考えるに至り、その機会をうかがうようになりました。

 *毒性が非常に強いため、日本では1971(昭和46)年に製造・使用が禁止されました

 

そして、最初におこなった義母と隣家の女性の毒殺がいずれも脳卒中として処理されたことに自信を得たサダメが、出入りの女性行商人を中毒させ現金を奪おうとしたのは先に述べたとおりです。

 

ただ肝腎の所持金の強奪は、村上敏子さんの財布から1万3千円を抜き取った*以外はことごとく失敗しています。

 *このお金をサダメはすぐに借金返済に使いました

 

義母の杉村クラさんは、内職で貯めた1万5千円程度の現金を常に手提げ袋に入れて持ち歩いていると知っているサダメがそれを狙って農薬入りのヤクルトを飲ませ、クラさんの弟宅で苦しむ彼女を介抱するふりをして身辺を探りましたが、周りに人がいたこともあり何も盗ることができませんでした。

 

また隣家の嘉悦タケさんは、3日前に結婚した長男の祝儀金があるだろうと農薬入りの肉を持参して食べさせ、苦しむタケさんの懐に財布があるのを見つけ手に取ったものの、この時も居合わせた家族に見られて盗ることはできませんでした。

 

奥村キヨノさんからは、彼女が苦しんで脱ぎ捨てたエプロンのポケットから財布を取り出すことに成功しましたが、売掛金の回収で大金が入っているとの期待に反し、中にはわずか15円分の硬貨があっただけでした。

 

【裁判と判決】

 

読売新聞(1961年1月1日)

 

1960年の大晦日、熊本県警川尻署は強盗殺人ならびに同未遂容疑で熊本地検に杉村サダメを送検しました。

 

熊本地裁の公判では、弁護人がサダメは犯行当時「心神喪失あるいは耗弱ないしはそれに類する異常な精神状態にあった」と主張したようですが、熊本地裁の安東勝裁判長は、諸状況や公廷での被告人の言動からその主張を退け、1961(昭和36)年6月27日の判決公判でサダメに求刑どおり死刑を言い渡しました。

 

読売新聞(1961年6月27日夕刊)

 

 

被告・弁護人は控訴しますが福岡高裁でも死刑判決はくつがえらず、1963(昭和38)年3月28日、最高裁第1小法廷が上告を棄却したことで、杉村サダメに戦後の女性で2人目の死刑が確定*しました。

 *下の記事にもあるように、戦後初めて死刑が確定した女性は、1949(昭和24)年に姫路市で夫婦を殺害し放火した山本宏子(1951年死刑確定)ですが、彼女は収監中に精神に異常をきたしたこともあり恩赦で無期懲役に減刑され、その後病死しています

 

朝日新聞(1963年3月28日夕刊)

 

読売新聞(1963年3月28日夕刊)

 

福岡拘置所に収監された杉村サダメの死刑は、1970(昭和45)年9月19日に執行されました。58歳でした。

 

杉村サダメの死刑執行は戦後女性では2人目で、1人目はホテル日本閣殺人事件(1961年発覚)の小林カウ(1966年死刑確定、1970年6月11日執行)です。

 

ホテル日本閣殺人事件の小林カウ

 

 

 

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小川里菜の目

 

「毒殺は女性の犯行」というイメージがあり、体力の問題もあって統計的にもその傾向は認められるようです。

殺人事件を起こすのは男性が約8割と圧倒的に多いのですが、「女性が一度殺意を抱くと、毒殺を選ぶ人は非常に多い」(「女性の殺人 追い詰められた末の犯行で、毒殺選ぶ犯人多い」『女性セブン』2016.6.22)のです。

 

この毒殺事件もその例に漏れないのですけれど、「カッとなって犯行に及ぶ男性に比べて、女性の殺人事件のほとんどが追い詰められた末の犯行」(碓井真史/犯罪心理学、上の記事)だと言われる点について、杉村サダメの場合はどうだったのでしょうか。

 

確かに、年の瀬に借金を抱えたサダメが金銭的に「追い詰められ」ていたことは事実ですが、金額的にも殺人を犯さなければならないほど切羽詰まった状況に置かれていたわけではなく、頭を下げて回ればその場はなんとかしのげたのではないかとも思われます。

 

ただ、あの時代の田舎の裕福でない家に生まれた女性には珍しくなかったのかもしれませんが、子どものころからサダメは長女として家のために懸命に働き、結婚してからも相手が悪かったこともあってずっと生活の苦労が絶えなかったという事情がうかがえます。

つまり、犯行時に追い詰められていたというより、彼女はずっと「追い詰められた人生」を生きてきたのではないかということです。

 

そんな彼女がようやく「やさしい男」とめぐり逢えたものの、彼は乏しい収入を妻子に渡していた既婚者で、戦後手に入れた農地のほとんどを娘夫婦に譲り渡したサダメは経済的にさらに「追い詰められ」ることになります。

 

何がきっかけになったのか分かりませんが、それまで悪事に手を染めた形跡のないサダメのずっと張り詰めていた心の糸があの時にプツンと切れた——そんなイメージを小川は抱いてしまいます。

 

それにしても、特段の恨みもなくむしろ親しくしていたように見える義母(姑)・隣家の茶飲み友だち・出入りの行商人に次々と毒を盛ることがどうしてできたのか、「情」が湧かない見ず知らずの他人の方が殺害へのハードルが低いだろうにと思います。

 

しかし法務省の「犯罪白書」(令和5年版)を見ても、殺人事件の被害者の内訳は、親族が44.7%、知り合いが39.7%、つまり約85%が身近な人となっているように、関係の近さは加害/被害の関係になる可能性を高める現実があるようです。

 

そこには、関係が近いと愛憎のもつれた関係になる可能性が高いという面と、犯行の機会が多くあるという面があるでしょうが、サダメの場合はおそらく閉鎖的な生活環境に置かれ交友関係が非常に限られる中で、ターゲットとなるのは義理の親族や顔見知りしかなかったということだったのではないでしょうか。

 

何ら落ち度のない3人の命を奪い、1人を植物状態にして人生を奪ったことの罪の重さは計り知れません。

その点で、杉村サダメに同情の余地はまったくないと言えるでしょう。

 

ただ、彼女が根っからの冷酷非道な悪人であったのかと言えば、彼女についても「加害者の被害者性」という面があったことを見ておかなければならないと思います。

 

彼女の生涯について詳しいことは伝えられていないため分かりませんが、それは貧困であり、戦中・戦後の時代・社会状況であり、男尊女卑の意識が強い中で夫の暴力や理不尽な行いに耐えながら家のため子どものために生きなければならなかった女性の苦しみであったことでしょう。

 

一時期紙面を騒がせたものの、ほとんど忘れられた存在であった杉村サダメがあらためて世に知られるようになったのは、死刑囚として31年あまりの獄中生活を余儀なくされた後にえん罪が認められ再審無罪になった免田栄さんが、「松村さん」という仮名でサダメについて著書で書いたことがきっかけだったと言われています。

 

免田 栄さん(2007)

 

免田さんが容疑者とされた強盗殺人事件は、奇しくも杉村サダメが逮捕された12年前(1948・昭和23年)の同じ日(12月29日)に、場所も同じ熊本県(人吉市)で起きました。

 

1952(昭和27)年に死刑が確定した免田さんは、無実だとして再審を請求し続け、ようやく1983(昭和58)年に再審無罪が確定しました。

その翌年(1984)に『免田栄獄中記』が出版されています。

 

 

[昭和]45年9月19日 死刑執行 松村さん

彼女は敗戦後、男女同権が叫ばれる社会のなかで、女性の犯罪として類をみないことをしている。この彼女も罪を悔いて信仰に入り、同囚の模範的な人物になっていた。けれどもYという支所長から極端にきらわれ、どれほど日常善行を尽くしても、支所長が巡視にくるたびに家庭内のいやみをいわれた。そのきらわれかたは、支所長が八ッ当たりしているのではないかと噂されるほどであった。しかし彼女は仏門に帰依して驚くほど立派な最後だったといわれている。問題のY支所長は退職して間もなく世を去った

 

先に見たように、当時の新聞はサダメを「派手好きで浪費が多い、金ほしさの中年女」といかにもの悪女、文字通りの「毒婦」として描きましたが、このように獄中でもなお彼女はY(山地)支所長から「女の分際で人を殺したうえに、亭主が死んで早々に別の男を引っ張り込むような女だ」といびられ続けたようです。

 

免田さんは2004年に出した『免田栄 獄中ノート 私の見送った死刑囚たち』において、サダメの実名をあげながらより具体的に次のように書いています。

 

1970年9月19日 杉村サダメさん

女性の死刑囚ということで、社会からたいへん注目されていたらしいが、本人は素直な性格だった。初めて出会ったとき、「こんにちは、免田さんですね。よく話をうかがっています」と、明るく言葉をかけられ、返す言葉を迷った。女性死刑囚は九州で初めてだろうという噂に、どんな女性だろうと好奇心と怖さが重なっていたが、会ってみて全く期待はずれで普通の女性と変わりないじゃないかと思いながら、「あー、お元気ですか」と答えた。彼女が男二人を扱って証人[商人?…小川]に毒まんじゅうを食わせて殺し*、所持金を奪っていたとは、彼女に会うたびに不思議に思う。彼女は面会の帰りに、花園の手入れをしている私の所に来て、「免田さん、免田さん、花ください」と言って、花をもらって帰っていった。

山地支所長から「女性の分際で人を殺すなんて」と嫌われ、女区を巡視するたびに雑役にでて働いている彼女を呼びつけ、掃除・整頓について叱責する。「母ちゃんに言えず、杉村に言うとる」と噂されるほどの扱いを受けた。しかし、処刑の知らせを受け、「ありがとうございます」と言って、静かに死刑台に立ったということを後日聞いた。

 *当時はこのように誤って伝えられていたようです(小川)

 

 

また大塚公子さんは、「サダメは死刑確定後、処刑されるまで福岡拘置所の特別舎に収監されていた。ここで同囚の女性収監者たちに〝4階のおばあちゃん〟と親しまれ、慕われていた。教誨、娯楽などの集会時に、同囚者の苦悩を聞いてやり、励ましたり慰めたりを年長者らしくする。このとき出される茶菓を皆にすすめ、自分はあまり口にしなかったとも伝えられている。常に謙虚で慎み深い生活態度であった。とくに印象的なのは、正月に特別食のぜんざいが配当されたときのことだ。畳に三つ指を突いて「ありがとうございます。ごちそうになります」と言い、合掌して感謝していた。こうした態度からは、連続毒殺魔のおもかげはまるでかけらもうかがえなくなっていた」(『死刑囚の最後の瞬間』p.142)と書いています。

 

 

仏門に帰依し罪を悔いたサダメの心中を軽々に推察することは小川にはできませんが、死刑の執行が告げられると彼女は、次のように挨拶して合掌し、刑場におもむいたそうです(大塚、p.143)

 

私のような人間のために、こんな最後のひとときを設けていただきまして、本当にもったいない気持ちでいっぱいです。私を真人間に生まれ変わらせてくださった教誨師の先生、長い間お世話をしてくださった拘置所の先生方に深く感謝いたします。本当にありがとうございました。感謝の気持ちを持ちながら死んでいける私は幸福です。ではお先にまいります。あの世では被害者の皆さんに会って、罪を償いたいと思います。本当に皆さん、ありがとうございました。さようなら。

 

獄中で彼女に会い直接言葉を交わした免田さんが伝える話をあわせて考えると、杉村サダメは「真人間に生まれ変わった」と自分では思っていたのかもしれませんが、そうではなくて、一時の狂気からもとの「真人間に戻って」死んでいったのではないかと小川には思えてならないのですショボーン

 

 

早いものでもう12月だね

2025年ももうすぐ終わってしまうね……

 

ボクも小川も、クリスマスだからといって特別なことは何もしないんだけど

季節を感じるために

毎年どこかのクリスマス装飾と一緒に写真を撮ってるんだ

 

 

 

今年も、クリスマスツリーを見かけたので

ボクもサンタ帽をかぶって撮ってもらったよ

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 今回も最後までお読みくださり

ありがとうございますニコニコ

次回は、リクエスト企画をしようと思います

どうぞよろしくお願いします💓

【リクエスト企画】

京都・大阪

連続強盗殺人事件

1984年

 今回のリクエストは、京都の事件の犯行直後に逃げる犯人とぶつかりそうになったという生々しい体験をお持ちの読者の方からいただきました。

ご本人の了解を得て、リクエストの文面を下にあげます。

 

○*・○*・○*・○*・・*○・*○・*○・*○

毎回興味深く拝見させて頂いております。

私は57歳の普通のサラリーマンです。

高校時代は京都市内に住み、自転車通学しておりました。

高校1年の夏休みが明けて数日経った頃の帰り道、船岡山公園近くを通っていた際、

その公園から走り出てきた中年の男性とぶつかりかけた事がありました。

その後家に帰ったら、船岡山公園で警官が殺されたと……。

ぶつかりかけた中年の男性……、広田雅晴死刑囚でした。

多分、警官を殺して間無しに出会ったんだと思います。

今思い出してもゾッとします。

広田雅晴死刑囚の事件も取り上げて欲しいです。

よろしくお願いします。

○*・○*・○*・○*・・*○・*○・*○・*○

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【京都 警察官殺害・拳銃強奪事件】

 

朝日新聞(1984年9月5日)

 

1984(昭和59)年9月4日午後12時40分ごろ、京都府警西陣警察署十二坊派出所*(現在の北警察署十二坊交番)に外部からの電話がありました。

 *「派出所」と「交番」は同じものですが、1994年からは「交番」が正式名称となりました

 

 

電話に出た同派出所勤務の鹿野人詩巡査(30歳)は昼の休憩時間でしたが、「不審者が船岡山公園に上がっていく、すぐに来てくれ」との電話を受け、西陣署通信司令室に警らに向かうと連絡してから午後12時42分にオートバイで同公園に向かいました*。

 *通常は2人勤務ですが、この時は相棒が巡査部長昇任試験を受けるため不在だったので、鹿野巡査が1人で対応したのが仇になりました

 

船岡山公園(マップピンが事件現場)

 

鹿野人詩巡査

 

午後12時50分ごろ、船岡山公園に到着しバイクを降りた鹿野巡査は待ち伏せていた何者かに刃物で襲いかかられ、右肩や背中、太ももなど16カ所をめった刺しにされて倒れたところを、彼の拳銃を奪った犯人にとどめを刺すように背後から1発撃たれたのです。

 

奪われたニューナンブ38口径 銃弾5発装填

(Wikipedia)

 

携帯していた警察無線で鹿野巡査から「至急、至急、助けてくれ」と緊急通報があったため行方を捜していたところ、「警官が倒れている」との110番通報が公園を散歩していた住民からあり、午後1時10分ごろ駆けつけた警察官が公園南側斜面の参道で血まみれで倒れている鹿野巡査を発見しました。

鹿野巡査*はすぐに西陣警察署向かいの相馬病院に救急搬送されましたが、出血多量により現場ですでに死亡していたことが確認されました。

 *同日付で警部補に2階級特進

 

病院に駆けつけた妻の鹿野真理子さん(30歳)

異様な雰囲気に泣き出す長男(3歳)

夫はすでに亡くなり解剖台に乗せられていました

(「FOCUS」1984年9月14日号)

 

船岡山公園の事件現場に建つ

鹿野人詩警部補の顕彰碑

「船山の山の歴史にとこしえに

職に殉ぜし君を語らむ」(左の歌碑)

 

【大阪 消費者金融強盗殺人事件】

 

読売新聞(1984年9月5日)

 

京都の事件から3時間後の午後4時ごろ、大阪市都島区東野田町2丁目永井ビル2階の消費者金融「ローンズタカラ京橋店」に、赤い半袖ポロシャツにサングラス、黒い手袋をして手に拳銃をもった男が押し入りました*。

 *この少し前に同じと見られる男が、同ビル4階にある「ローンズ善木」で融資を頼みましたが、証明書類が必要と言われるとそのまま去りました。そこには複数の男性従業員がいたため強盗を諦めた可能性があるようです

 

マップピンが事件現場の永井ビル

 

読売新聞(1984年9月5日)

 

男は、自席で新聞を読んでいた従業員の鈴木隆さん(23歳)にカウンター越しに拳銃を向け「金を出せ」と脅しましたが、鈴木さんが「冗談でしょう」と取り合わなかったため、いきなり彼の胸部に向け発砲しました。

鈴木さんが読んでいた新聞には弾丸が貫通した穴があいており、ほぼ即死状態でした。

 

鈴木 隆さん

 

恐怖に凍りつく女性従業員(26歳)に「金を出せ」と要求した男は、出された約60万円を持参の紙袋に入れて慌てる様子もなく立ち去ったのです。

その直後、女性従業員が110番通報しています。

 

【容疑者として浮かんだ男】

京都で奪われた拳銃と大阪で使用されたものと銃弾の線状痕が一致したことから、警察は両事件を同一人物による犯行と見、9月5日に広域重要指定「115号事件」として捜査を進め、手がかりとなる次のような情報を得ました。

 

①午後1時50分ごろ、タクシー運転手から第一現場(京都)近くで「白いシャツの中年男を乗せ、千本通中立売(せんぼんどおりなかだちうり、第一現場から南西に約2km)で降ろした」との110番通報。この時に男は行く先を「千中(せんなか)」と通称で言ったことから、京都に土地勘のある人物と思われる。また後部座席のカバーに血痕が付着しているのが見つかった。

 

②タクシーが客を降ろした直後ごろ、近くの映画館「西陣大映」に左肘や顔に血のようなものを、ズボンに白い土のようなものをつけた不審な中年男が現れ、ロビーの自動販売機で清涼飲料水「リアルゴールド」を買って入ったが、5分ほどして出ていった。清涼飲料水の空きビンからは男のものと見られる指紋が採取された。

 

③午後3時30分ごろ、第二現場(大阪)近くのクレープ店「あんどれ」に、若い女性客が多い同店には珍しい40歳くらいの赤の半袖シャツを着た男がひとりで訪れ、レモンのかき氷を食べ紙コップで水を飲んだ。これらのカップ類からも指紋が採取された。

 

その他、両現場周辺の聞き込み捜査で有力なものだけでも30人を超える目撃情報が得られましたが、30−40歳の中年男性、身長160−165cm、小太りあるいはがっしりした体格、色黒、短髪という特徴、それに京都では白シャツか白シャツを左腕に巻いたランニングシャツ姿、大阪では赤いポロシャツ、ベージュの紙袋といった点がほぼ一致していました。

 

そして、上記の特徴と②と③の指紋から容疑者として浮上したのが京都府警の元巡査・廣田雅晴(41歳、身長161.5cm、体重63kg)でした。

また、当時はまだDNA鑑定が捜査に使われていませんでしたが(1992年度以降に導入)、①の血痕も鹿野巡査と同じA型でMN型(赤血球の抗原の型)であることから、彼の血液痕と見て矛盾がないと鑑定されました。

 

読売新聞(1984年9月5日夕刊)

 

【廣田雅晴の経歴と前科】

 

 

廣田雅晴(結婚前の旧姓は「神宮」)は、1943(昭和18)年1月5日、大阪市に5人きょうだいの第3子(次男)として生まれました。

1歳のころ、母親の故郷である千葉県山武(さんむ)郡成東町(なるとうまち、現在の山武市成東)に家族で転居*し、両親は農業で生計をたてました。

 *1944年に米軍の本土空襲が始まり、8月末には大阪市の学童疎開が始まっているので、転居には戦火を避ける意味合いもあったのでしょうか……

 

マップピンが山武市成東

 

しかし家は貧しく、きょうだいで高校に進学できたのは雅晴だけだったようです。

 

地元の小中学校を卒業し1958(昭和33)年4月に千葉県立成東高校に進学した廣田は、8クラスのうち1つだけある就職クラスに入りました。

クラスでは上位2−3番目の良い成績で、欠席や遅刻も不良グループとの関係もまったくありませんでしたが、小柄で特にこれといった特技はなく、いつもニコニコと人の後に従うタイプの生徒だったようです(読売新聞 1984年9月6日)

 

1961(昭和36)年3月に同高校を卒業した廣田は、東京都江東区の石川島造船化工機(現在は親会社の「株式会社IHI」に統合)に就職しますが、高所作業が苦手なため1年ほどで退職しました。

 

その後、都内で司法書士事務所事務員などとして働いたあと関西に行き、京都で製麺会社の従業員になります。

 

1964(昭和39)年6月の深夜、京都の五条通を歩いていた廣田は、七条警察署(現在は下京警察署に統合)の警察官から職務質問を受けました。

 

その時の廣田のがっしりした体格や素直な受け答えに好感をもった警官に、警察官にならないかと声をかけられた彼は、高校のころに警察官になりたいと思った時期もあったことから、すぐに勤めていた製麺会社を辞めて受験勉強を始めます。

 

その年(1964)の京都府警採用試験に合格した廣田は、10月1日付で巡査として採用され、1965(昭和40)年9月の警察学校修了とともに九条警察署(現在の南警察署)警ら課に配属され、下殿田(しもとのだ)派出所勤務を命じられます。

 

下殿田交番(現在)

 

廣田は、「警察職員として功労があり、若しくは成績が優秀であると認められる者」(警察官表彰規則)に対して授与される本部長賞誉を受けるなど勤務態度は良好で、近隣住民からも「ダッコちゃん*」の愛称で親しまれていたそうです。

 *1960年に大流行した空気で膨らませるビニール製の人形。昭和を代表する玩具でしたが、黒人差別ではとの批判もあって販売が停止されました。なお、2001年に青・赤・黄など多様な色とデザインでリバイバル販売されています

 

 

1967(昭和42)年4月に婿養子となって結婚した彼は、姓を神宮から廣田に改めて3人の子どもにも恵まれました。

 

1971(昭和46)年に巡査部長昇任試験に合格した廣田は、翌年(1972)峰山警察署(現在の京丹後警察署)外勤課に転属、2年間の主任在職中に署長褒賞を4回受けるなど順調にキャリアを積み重ねていました。

 

京都市内での勤務を希望していた廣田は、異動願が受け入れられて1974(昭和49)年に西陣警察署(現在の北警察署)外勤課に移り、当初は通信指令室(110番通報を受けて現場出動をパトカーや派出所に指令する業務)に勤務します。

しかし、巡査部長になったからにはより幹部に近い仕事に就けるという期待と現実との落差*に加えて仕事の多忙もあり、彼は不満をつのらせたようです。

そのことで上司との関係も悪化していったようですが、詳しいことは分かりません。

 *警察官の階級には、巡査から警視総監まで9段階あり、巡査部長は下から2つ目(巡査長と呼称される役職を入れても3つ目)で「現場主任」というのが通常の役どころで、幹部職に就くには警部補以上になる必要がありますから、彼の期待の方が過剰だったのではないでしょうか

 

ところが1977(昭和52)年、廣田は十二坊派出所勤務を命じられます。

これを事実上の降格と受け取った彼は、「努力して巡査部長になっても交番勤めか」と知人に愚痴をこぼしていたようです*。

 *最初の九条署でも次の峰山署でも、廣田は派出所勤務を生き生きとやって何度も表彰され、同寮や住民の信頼も厚かったと言われますので、それほどまでに「交番勤め」を不満に思った理由がよく分かりません

 

そうした不満もあってか廣田は休日になると競馬や競艇といったギャンブルにのめり込み*、やがては仕事も休んで消費者金融から借金を重ねるようになりました。

 *小豆相場にも手を出していたと言われる(Wikipedia)

 

借金の額が膨れ上がって金に困った彼は、ついに警察官でありながら強盗を働くことを計画したのです。

 

1978(昭和53)年7月17日、廣田は西陣警察署の拳銃保管庫*から、管理者がいないすきをついて他の警官の拳銃(実弾を5発装填)を袋に隠して盗み出しました。

 *派出所勤務の警察官も、出勤時と退勤時に警察署に出向いて拳銃を管理者立ち会いの下で保管庫に出し入れする規則だが、その管理がずさんであった

 

19日に拳銃紛失が明らかになったため、特捜班が保管庫に出入りした署員をリストアップして捜索していたところ、20日になって「田中」と名乗る男から上鴨警察署(現在は統合されて北警察署)に、拳銃を盗んだ者だが後日警官を通して返すとの電話がかかりました。

 

電話があった翌日の7月21日午前11時45分ごろ、下京区上珠数屋町通(かみじゅずやまちどおり)をバイクで走行していた近畿相互銀行都支店の店長代理(32歳の男性)に向けて拳銃1発が発射されました。

弾丸はバイクの風防ガラスを貫通したものの行員には当たらなかったため、犯人はそのまま逃走しました。

 

そのすぐ後の午後12時10分ごろ、南区東九条の札の辻郵便局に拳銃を持った男が押し入り、女性局員に金を出せと脅しました。

ところが女性局員が大声を上げたため、男は拳銃で彼女の頭を殴りつけてケガを負わせ、自転車で逃走しました。

 

この日の夕刻、上鴨警察署に再び「田中」と名乗る男からまだ拳銃を持っているが弾は撃ち尽くしたという電話がありました。

 

翌7月22日になり、「犯人から拳銃の隠し場所を教える電話があった」と廣田が署に届け出たため、指定された南区の六孫王(ろくそんのう)神社境内を探したところ、盗まれた拳銃(実弾4発と空薬莢1つ)が見つかりました。

 

六孫王神社

 

廣田は拳銃が盗まれた日に保管庫に出入りした署員の1人にリストアップされており、犯人から電話があったという話にも曖昧な点が多いことから、重要参考人として取り調べを受けましたが、自分は拳銃発見の功労者だと容疑を否認し続けました。

 

直接の物証はなかったのですが、警察は7月23日に廣田を窃盗容疑で逮捕し、24日に銃刀法違反と火薬類取り締まり法違反の容疑を加えて京都地検に送検し、同日付で彼は懲戒免職処分となりました。

 

26日に郵便局での強盗傷人容疑で再逮捕された廣田は、8月17日に近畿相銀行員への強盗未遂が追加されて京都地裁に起訴されます。

 

逮捕後も容疑を否認していた廣田ですが、強盗事件があった7月21日のアリバイとして彼が申し立てたことがすべて虚偽と判明したことから徐々に自供を始め、計画性についてのみ否定したものの8月1日にはほぼ全面自供をしました。

動機については、拳銃窃盗は上司を困らせるためで、強盗は借金の返済に迫られてとっさに思いついた犯行だったと主張しています。

 

1978年10月16日、京都地裁(吉田治正裁判長)での初公判が開かれましたが、廣田は盗まれた拳銃の所持以外は起訴事実すべてを否認し、裁判では事実認定から争われました。

 

また彼は、公判中に京都拘置所から反権力的な指向のある『人民新聞』に、「公安の実態を暴く これが警察の内状だ」と題して、証拠は警察のでっち上げで自分は無実であり「出所したら警察に復しゅうしてやる。このままでは死にきれない」と書いた手記を投稿しています(掲載は1978年11月5日付の同紙)

 

朝日新聞(1984年9月5日夕刊)

 

1980(昭和55)年6月10日、京都地裁の吉田裁判長は、懲役8年の求刑に対し事件に計画性はなかったとして廣田に懲役5年の実刑判決を言い渡しました。

 

廣田は裁判には期待しないとして控訴しませんでしたが、検察側が量刑不当として6月21日に大阪高裁に控訴しました。

被告の廣田が控訴審に出廷しないまま、大阪高裁の吉川寛吾裁判長は1981(昭和56)年2月19日の判決公判で、被告人は反省しておらず一審の量刑は軽すぎるとし、一審判決を破棄して懲役7年の実刑としました。

 

廣田は上告せずに刑は確定し、加古川刑務所で服役することになりました。

刑期は懲役7年から未決勾留日数を除いた約5年半です。

 

廣田の服役態度は良好で、2級ボイラー技士や危険物取扱者(乙種)の資格を取得し、簿記などの勉強に励むなど、犯した罪の重さから仮出所はないとされていたにもかかわらず、身元引受人(成東に住む母親と弟)の存在や改悛の情と更生の意欲が見られるという理由で、刑期を1年残し1984(昭和49)年8月30日に仮出所しました。

 

出所した廣田は、出迎えた妻子・母親と一緒に滋賀県大津市のホテルに1泊したあと、妻に用意させた現金20万円をもって8月31日に母親と千葉の実家に行きます。

 

【犯行から逮捕まで】

9月3日の早朝、東京に仕事を探しに行くと母親に告げて家を出た廣田は、東京を素通りし新幹線で京都に向かいました。

 

午前10時ごろに京都駅に着いた廣田は、上京区千本通の金物店でステンレス製包丁1本*を購入し、さらに銃砲火薬店でボウガン(洋弓銃)1丁と矢6本、射撃用革手袋にサングラスを購入して持参した紙袋に入れました。

 *後で店に戻って折りたたみ式の金ノコを追加購入しましたが、それはボウガンを携帯しやすくするために銃身と銃床を切り離すのに使ったようです。しかし後述するようにボウガンの使用は断念しました

 

廣田が立ち寄った銃砲火薬店

(手前の道路が千本通)

 

ボウガン(例)

*2022年3月施行の改正銃刀法で

ボウガンは原則所持禁止となった

 

購入したうち、包丁とサングラスは犯行で使われましたが、全長約78cmのボウガンは持ち運びに目立ち過ぎるため使用を断念し、代わりに警察官から使い慣れた拳銃を奪取しようと廣田は考えました。

 

詳細は省きますが、この日の夜、彼は二度にわたり「放置バイクがある」など虚偽の電話で嵐山と十二坊の各派出所警官を公園におびき出そうとし、また以前に職務で出入りしたことのある南区の質店に警察官を装った電話で店を開けさせようとしましたが、いずれも失敗*に終わっています。

 *嵐山派出所からは警官が2人でやってきたため襲うのを諦めたようです。ですから、もし鹿野巡査が同僚と一緒に船岡山公園に行っていたなら、惨劇は起きなかったかもしれません

 

この夜、東山区三条大橋東の「京都スポーツサウナ」(閉業し跡地はマンションになっている)に宿泊した廣田は、9月4日午前7時40分ごろに同サウナを出て、午後12時40分ごろに船岡山公園正門付近の公衆電話から十二坊派出所に電話をかけ、鹿野巡査をおびき出して殺害し拳銃を奪ったことはすでに述べた通りです。

 

 

大阪での事件後の足どりですが、驚いたことに廣田は午後4時45分ごろ大阪市北区曽根崎1丁目のソープランド「トルコエレガンス」に行き、その1時間ほど後に近くのピンクサロン「サロン将軍」に立ち寄っています。

 

開店時間直後のピンクサロンでは、10万円を払ってホステス全員を指名し、その1人に5万円を渡して白いポロシャツにズボン、下着と靴下、それにボストンバッグを買いに行かせ、店内で着替えてから1時間ほどして店を出ています(着ていた服は持参の紙袋に入れた)

なお、いずれの店からも廣田の掌紋が検出されています。

 

その後、廣田はタクシーで京都駅に行き新幹線で上京、江戸川に紙袋とボストンバッグを捨てて*から千葉に向かいました。

 *後の捜索で、江戸川河川敷で口が開き空っぽの状態のボストンバッグだけが見つかりました

 

先に見たように、9月5日には警察は廣田を有力容疑者と見て行方を追っていましたが、午前8時前に西陣署に「廣田や、京都にはおらん、千葉におる」との電話があり、千葉の実家にかかってきた電話の逆探知からも千葉市内にいることが確認されました。

 

そうして午後3時45分、廣田がタクシーで実家に戻って来たところを張り込んでいた警察官が身柄確保して成東署に任意同行を求めました。

 

午後5時37分に京都の強盗殺人容疑で逮捕された廣田は新幹線で京都に移送されましたが、車中では、あっさりと捕まったことについて記者団に「京都府警にはヘタを打たしてやる(下手をしてしくじらせる)が、千葉県警にヘタを打たすわけにはいかんのや」と言ったそうです。

 

新幹線車内での廣田

 

朝日新聞(1984年9月6日)

 

9月6日午前1時49分に西陣警察署に到着した廣田は、その後の取り調べで容疑を全面否認します。

 

凶器の包丁や拳銃、返り血のついた着衣といった直接的物証がないまま全面否認を続ける廣田に取り調べは難航し、拘留期限が切れる9月27日の午後、処分保留のまま釈放された廣田をその場で大阪府警の捜査員が大阪の強盗殺人事件で再逮捕し都島警察署に連行するという展開になりました。

 

読売新聞(1984年9月27日夕刊)

 

 

読売新聞(1984年9月28日、写真共)

 

大阪に移された後も、肝心な点について廣田は黙秘を続けていましたが、10月9日になってようやく「二つの事件は自分がやった」と犯行を認める自供を始めました。

 

しかし、京都の事件では自分も現場にいたが殺害したのは服役中に知り合った覚せい剤関係の仲間だとか、拳銃は知人が江戸川べりの橋桁の下に埋めたとか、残りの弾丸と金は京都の山中に隠したなど、供述内容は裏が取れないまま二転三転します。

 

何枚もの地図を書いての供述に、警察はそのつど人を動員して捜索しますが、手袋とバラバラにされたボウガン以外の決定的な証拠は何も発見することができず、虚実を織り交ぜた供述に警察は翻弄されました。

 

朝日新聞(1984年10月11日夕刊)

 

動機については、京都府警への恨みと見られていましたが、廣田は「親子3人で一緒に暮らすため東京に家を買いたかった」と述べたようです。

 

1978年の事件で廣田の弁護人を務めた京都弁護士会の堀和幸弁護士*は彼の性格について、「一口にいえば、我の強い変わり者」、自分の考えに固執するタイプで感情的な起伏が強く、思い込んだらいちずな行動に走る性癖がみられ、その場その場で自分の行動に理屈をつけるのがうまく「弁解するより、自分を正当化する」傾向が強いと評し、前回逮捕された時も警察での自供がくるくる変わったが、変わった理由について彼一流の理屈を述べていたといいます(朝日新聞 1984年9月5日夕刊)

 *堀弁護士は、この事件の裁判でも廣田の弁護人を務めた

 

10月15日には、廣田が2つの事件とも自分がやったと犯行をほぼ全面的に自供したと報じられ、19日に大阪地検は京都・大阪の連続強盗殺人事件を一括して大阪地裁に起訴しました。しかし、直接の物証を欠いたまま指・掌紋*に目撃証言という状況証拠と自供だけによる立証には懸念も残りました。

 *先に見たように、強盗殺人の現場に残されたものではない

 

朝日新聞(1984年10月20日夕刊)

 

【裁判と判決】

強盗殺人罪などに問われた廣田雅晴に対する初公判は、1984年12月24日、大阪地裁(青木暢茂裁判長)で開かれました。

6年前と同様に罪状認否で廣田が捜査段階での自供を覆し、起訴事実を全面的に否認して無罪を主張したことから、裁判は目撃証言の信憑性や自白の任意性・信用性を中心に全面的な争いとなりました。

 

朝日新聞(1984年12月24日夕刊)

 

特に犯行を認めた自白について廣田は、取調官による拷問とも言える暴力*によって無理強いされたものだと主張しました。

 *廣田の主張によれば、殴る蹴る、首を絞める、タバコの火などで火傷を負わせる、急所を痛めつけ辱める、失禁した床に顔を押しつけるなど

 

一方、1988(昭和63)年7月12日の論告求刑公判で検察は、「自白の中心部分を裏付ける多くの目撃証言や客観的証拠がそろっており、犯罪の証明は十分」だとして廣田に死刑を求刑しました。

 

1988年10月25日、大阪地裁の判決公判で青木裁判長は、「昭和59年8月30日に仮釈放となり、保護司をはじめ、被告人の妻や実母、更には姉、兄弟らも被告人の更生を望みこれに助力する態勢にあったと見られ、被告人の自覚と努力次第でその後更生して地道な社会生活を送ることができた筈であり、また、当時特に経済的に差し迫った状況にあったとも認められないのに、仮出所してわずか5日後に、自己本位な物欲の赴くまま、しかもさしたる道義的抵抗感を抱くことなく、現職警察官の殺害とけん銃の強奪及び金融機関での強盗殺人などという重大事犯を企図実行したものであって、結局、右犯行に至る経緯、動機につき酌量すべき事情は何ら見出せない」とし、京都・大阪両事件とも「犯行の態様は、終始自己の身勝手な目的のためには他人の生命を全く顧慮しないという憎むべき態度で貫かれており、各殺害方法も凶悪極まりないもの」で、「被告人に対してはもはや矯正教育の効果は期待しえず、その犯罪傾向や反社会的性格は改善すべくもないといわざるを得ない」として求刑どおり死刑を言い渡しました。

 

朝日新聞(1988年10月25日夕刊)

 

被告・弁護側は判決を不服として即日控訴しましたが、1993(平成5)年4月30日、大阪高裁の村上保之助裁判長は一審判決の事実認定を追認したうえで、「被告人は、本件各犯行当日の5日前の前刑仮出獄の際には、家族から暖かく迎えられ、妻には当面の入り用のために現金20万円を用意してもらい、被告人としては右仮出獄後の生活に何ら不満を抱くような事情がなかったと認められることに徴すると、原判決のいうように、本件各犯行の動機につき酌むべき事情は何ら見出せないといわざるをえない」として控訴を棄却しました。

 

朝日新聞(1993年4月30日夕刊)

 

大阪高裁の控訴審判決に際して読売新聞(1993年4月30日夕刊)が裁判での主な3つの争点を簡略に整理していますので、参考までに下に再録しておきます。

 

 

なお、この裁判では事実関係からの全面的な争いになったため、検察・弁護双方の主張を詳細に検証した地裁の判決文は資料等を省略したものでも6万字を超え(標準書式でA4用紙44枚)、高裁の判決文も2万字を超える膨大なものとなっており、このブログではそれらの内容の主要な一部を要約紹介することしかできていません。

裁判での争点と裁判所の判断に関心や疑問をお持ちになられた方は、直接判決文にあたってご検討ください。

 

 

 

被告・弁護側はさらに最高裁に上告しましたが、1997(平成9)年12月19日、最高裁第三小法廷(園部逸夫裁判長)は一・二審の死刑判決を支持して上告棄却の判決をくだし、これによって1998(平成10)年1月26日、廣田雅晴の死刑が確定しました。

 

なお、1997年11月14日に廣田は姓を結婚前の「神宮」に戻しています。

 

死刑確定後、神宮(廣田)雅晴は7回にわたって再審請求をおこない、2011(平成23)年には第8次の再審請求をおこなったとされますが(Wikipedia)、それについての情報を得ることはできていません。

 

なお神宮(廣田)は、2009(平成21)年11月16日の夕刻、未遂に終わりましたが独房内で首つり自殺をはかっています。

 

大阪拘置所に今も収監されている神宮(廣田)*死刑囚は、執行がなされないまま死刑確定から28年がたち、現在82歳になります。

 *以下では煩雑さを避けるために、姓の記述を事件当時の「廣田」のままにします

 

 

サムネイル
 

小川里菜の目

 

読売新聞(1984年10月15日夕刊)

 

上の新聞記事に見られるように、この事件(広域重要指定115号事件)は、同年(1984)3月の江崎グリコ社長拉致に始まるグリコ・森永事件(広域重要指定114号事件)と時期が重なり、社会に大きな衝撃を与えました。

 

すでに述べたように、凶器の包丁と拳銃は結局発見されず、直接の物証を欠いた事件でしたが、裁判所が認めたように多数の目撃証言を含む状況証拠だけでも廣田雅晴の犯行に間違いないと小川も思います。

廣田が言う「真犯人は別」という可能性をうかがわせるものは何もありませんし、死刑制度の是非論は別にして、彼のえん罪を認めて支援する運動も伝えられるものはないと思います。

 

ですので、彼が京都と大阪の2つの事件の犯人であるとの前提での話になりますが、廣田の犯罪行動は不可解の一語に尽きます。

 

1978年に起こした最初の事件(拳銃の窃盗と強盗未遂)でも、勤勉で優秀な警察官であった廣田が、職場での処遇に不満があったとはいえ、家庭をもち子どももある身でありながらギャンブルに多額の借金、そのあげくに強盗を画策するという極端なブレようには、小川の想像力が追いつきません。

 

同じことは、服役中に職業的資格の取得や勉強に励んで特例的に仮出所を認められ、地裁・高裁の判決文で言われるように妻子や母親、弟そして保護司が彼の更生を信じて支えようと手を差し伸べていたにもかかわらず、それまでの模範囚の顔から一変して出所後わずか5日にして連続強盗殺人を犯してしまったことにも言えます。

 

しかも、警官時代の上司にいくら恨みがあったとはいえ、京都事件で殺害したのはかつての自分自身と重なる交番勤務の巡査なのです。

 

また殺害方法も、京都ではめった刺しにされもう抵抗できない瀕死の状態で倒れ込んでいる警官に背中からとどめの一発を撃つ残虐さですし、大阪でも「金を出せ」との脅しにすぐに反応しないからと情け容赦なく胸をめがけて拳銃を発射し殺害しています。

同じく居合わせた女性従業員には発砲しなかったのですから、目撃者の口封じに撃ったということでもありません。

 

無意味としか思えない殺戮に、「冷血」とはまさに廣田のためにある言葉のように感じますが、彼がどうしてそこまで人間性を喪失してしまったのか、彼の生い立ちや環境を考えても特に非道な扱いを受けた体験があるわけではなく、理解の糸口さえ見いだすことができませんでした。

 

最後に言いたいことの一つは、廣田が自白は取調官の「拷問」によるものだと主張した点についてです。

 

裁判官は彼の身体に傷跡があることは認めながら、それは暴行によるものではないと結論しています。

小川も、廣田が言うとおりの「拷問」があったとも、犯行を認めた彼の自供が強いられた虚偽のものであったとも思いませんが、警察への社会的信頼を大きく毀損し仲間の警官を殺害したいわば「裏切り者」でありながら白(しら)を切り続ける廣田に対して、取り調べで何らかの制裁的な暴力が振るわれた可能性まで払拭することのできない後味の悪さが残りました。

 

裁判で自供をひるがえしそれが暴力的な取り調べによるものだと言い逃れる余地を無くすためには(またえん罪を生まないためにも)、録音や録画による取り調べの可視化が不可欠です。

日本では、2019年の改正刑事訴訟法で一部の重大事件について可視化が義務づけられるようになり、それは一歩前進ですが、日弁連などが強く求めている全面的な可視化に向けて早急に対象事件を拡大していく必要があるのではないでしょうか。

 

もう一つは、京都事件で殉職された鹿野人詩警部補のために事件現場に顕彰碑が建てられ、その後も命日に追悼式がおこなわれているのは当然のことだと思います。

 

上京・北の両警察署員による追悼式

(2018年9月7日)

 

しかしその一方、大阪事件で命を落とした鈴木隆さんについては、当時の新聞報道でも遺族の声など大手紙を見る限りは伝えられることもなく、その後もすっかり忘れ去られた感があることに心が痛みます。

 

そこで、大阪地裁と大阪高裁が判決文で鹿野・鈴木両被害者について触れている箇所を最後にあげて、理不尽にも命を奪われたお二人への追悼の気持ちといたします。

 

「鹿野人詩巡査は、昭和29年4月山形市で生まれ、昭和48年3月山形県立山形南高等学校を卒業後、私立竜谷大学に進学し、昭和54年3月に同校を卒業して同年4月京都府巡査に採用され、同年9月西陣警察署外勤課外勤第二係配置となり、昭和56年3月から同署十二坊派出所に勤務し、その間昭和55年に結婚して二児をもうけたものであるが、周囲の者から職務熱心で責任感が強いとの評価を得ており、上司や同僚及び地域住民の信望も厚かった。

鈴木隆は、昭和35年11月大阪市で生まれ、昭和40年に両親が離婚したため、父親に引き取られて一時は養護施設に預けられるなどし、昭和51年4月大阪産業大学付属高等学校に進学したが、父親が出奔して所在不明となったことなどから同校を二年次で中退し、その後ラーメン店店員、自動車販売会社のセールスマンなどをして稼働し、昭和59年3月から、金融業を営む宝産業株式会社京橋支店で勤務していたものであり、その間昭和55年に結婚して一児をもうけていた。」(大阪地裁判決文)

 

京都事件の被害者鹿野人詩巡査は、当時30歳で妻と幼児二人をかかえて一家の支柱であったし、大阪事件の被害者鈴木隆は、当時妻子と別居中であったが、いまだ23歳で妻との仲を取り戻して再出発する望みを抱いていたものであり、右両事件の結果は、このような被害者二名の生命をその場で奪ったもので、まことに重大であるというべきであって、所論指摘の大阪事件で強奪された現金が約60万円にとどまることなどは、特に被告人のために斟酌すべき事情とは考えられない。」(大阪高裁判決文)

 

 

今回も最後までお読みくださり

ありがとうございますおねがい

次回もどうぞよろしく

お願いいたします飛び出すハート

 

 

女子高生は二度殺された

近畿大学附属女子高校

〈体罰殺〉事件

1995(平成7)

今回は、今から30年前の1995年に起きた「近畿大学附属女子高校〈体罰殺〉事件」を取り上げます。

この事件では、生徒の態度を反抗的だと感じ激高した教師から、殴る突き飛ばすという暴力を執拗に受けて倒れた女子高生が、コンクリートの柱に頭を激突させ亡くなりました。

ところが、加害教師が逮捕されると、元同僚教師や顧問をしていた体育系クラブの卒業生らが減刑嘆願署名を集め出し、その過程で被害生徒と両親に対して「体罰を受けても当然」とばかりに暴行を正当化する内容の根も葉もないデマ(誹謗中傷)が拡散され、遺族への嫌がらせ行為が相次ぎました。

「体罰殺」させられた女子高生は、二度殺されたのです。

サムネイル

 

毎日新聞(1995年7月18日)

 

 

【女子高生の死】

1995(平成7)年7月17日の午後4時35分ごろ、福岡県飯塚市にある飯塚病院救命救急センターに意識不明になった1人の女子高校生が救急搬送されてきました。

 

学校の衛生看護科講師(医師)により応急措置を施されていた女子高生は、病院に運び込まれた時点で自発呼吸もなく心臓も停止し、すでに臨死状態でした。

それでも救命救急センターの医師たちは心臓マッサージを続け、人工呼吸器などを使いながら、集中治療室(ICU)で懸命の蘇生措置をおこないました。

 

両親と兄、祖母や親族らが病院に駆けつけ、なんとか息を吹き返してほしい目を覚ましてほしいと彼女に声をかけたり身体をさすったりしましたが、翌7月18日午後2時37分に医師から臨終が告げられました。

 

まだ16歳の、あまりにも早い死でした。

 

【暴行死の経緯】

彼女は陣内知美(じんのうち・ともみ)さん、飯塚市立岩にあった近畿大学附属女子高校(前身は白木学園嘉穂女子高校、現在は校舎も移転した近畿大学附属福岡高校)に通う2年1組(担任・棚橋敏雄教諭)の生徒です。

 

同校には「普通科」と「衛生看護科」があり、「普通科」には、短大や専門学校をめざす進学コース、4年制大学をめざす特別進学コース、就職希望の情報処理コースの3つがあって、知美さんは学年に1クラスある情報処理コース(通称「就職コース」)に所属していました。

 

近大附属女子高校の旧校舎

(今は内部が改築され学生向けマンション「セトル飯塚」)

 

そして知美さんを体罰死させたのは、進路指導部長で彼女のクラスの副担任をしていた宮本煌(あきら、当時50歳)です。

 

1945(昭和20)年生まれの宮本煌は、福岡大学商学部を1968年に卒業すると同時に同校の非常勤講師になり、1972年には教諭となって、事件が起きるまで通算27年間勤続の「ベテラン教師」でした。

事件を起こしたときに彼は、2年生の「商業」(内容は主に簿記)を担当していました。

 

1995(平成7)年7月17日の放課後、宮本は11月におこなわれる予定の日商簿記3級の資格試験に備え、模擬試験で再試験をしても合格点(70点)が取れなかった2年1組の10人の生徒を対象に再々試験をおこなおうとしていました。

 

再々試験は学校の指示によるものではなく、生徒に簿記の資格をとらせてやろうと宮本が自発的におこなうものでした。

ちなみに知美さんは、36人のクラス中3位の成績(86点)で合格しており、再々試験の対象外でした。

 

午後3時40分からの試験のため宮本が2年1組の教室に入ると、受験する生徒が試験用紙を受け取りに来て、それぞれ自分の席に戻ったところで解答を始めました。

 

そのとき宮本は、試験の対象ではない知美さんが一番後ろの自席に座り、「下校時の身だしなみのために机の上に鏡を立てて櫛で髪の毛をといて」(福岡高裁判決文)いるのに気づきます。

特に約束はなかったようですが、この日は朝から30度を超える暑さでもあり、涼しい教室内で友だちが試験を終えるのを待っていたのかもしれません。

 

宮本は教卓から彼女に向かい「試験に関係ない者は出れ」と言いましたが、よく聞こえなかったのか知美さんはすぐに席を立とうとしません。

 

『そんな陣内の態度を見て、私の言葉を無視したように感じ』た宮本は(以下、供述調書からの引用は二重カギ括弧で記載、太字強調は小川)、知美さんの席に近づいて「陣内、試験に関係ないから出ていけ」と『普通の口調で』言いました(居合わせた友人は『大きな声で怒鳴った』と供述)。*

 *供述調書等の関係者の証言内容は、福岡地裁と高裁の判決文のほか、藤井誠二『暴力の学校 倒錯の街』(雲母書房1998、朝日文庫2002)から引用しています

 

 

 

知美さんは何も言わずに立ち上がって出ていこうとしましたが、その様子は宮本の目には『私の言葉に対して何も言わず、少しふてくされたような感じでしぶしぶ黙って立ち上がり』と映りました。

 

教室を出ようとする知美さんの後ろを「出れ」と言いながらついていった宮本は、彼女が出入り口近くの壁にある鏡の前で立ち止まり、両手で髪を整える仕草をしたことで怒りの感情に火がつきます。

 

鏡は、教室の黒板脇に掲示された生徒信条の「八、女子高等学校の生徒は、いつも端正に制服をつけ、清潔である」をふまえ、生徒たちが身だしなみを整えるために設置されていたのでしょう。

 

しかし宮本は、『それを見て、私が教室から出て行けと言ったことに対し反発をして、これみよがしに髪をとくような仕草をしていると思い』、『そのような態度をとる陣内に対し腹立たしくなり、横着もんと思って頭にきました』。

 

そのとき彼は、知美さんがスカートを腰のところで2回折り曲げ、短くしていることに気づきます。

同校の校則では、スカートは膝の皿が隠れる長さにするよう定められていたのです。

 

それを見つけた宮本は、『なおも感情的に腹立たしくなり、このまま見過ごすわけにはいかないと考え』、『スカートの折り曲げたところを右手で掴みながら、「元に戻せ、直さんか」と少し強めの口調で』言ったところ、知美さんが「わかっちょる」と『反発するような口調で答えた』ことから、カッとした宮本は「なに言いよってか」と言い、右手の平手で彼女の頭部を殴打しました。

 

教室で試験を受けていた友人のひとりが、『私はその様子を見て、いつものことがまた始まったと思いました。宮本先生は(略)生徒を注意するときにはビンタをすることがよくありますので、この時も宮本先生と知美のやり取りを見て、また宮本先生のいつものことが始まったと思い、私はその光景に見慣れていたので、特に気に止めることなく答案用紙のほうに目を移したのです』と供述するように、宮本が叱責すると同時に(段階を踏むこともなく)手を上げるのは、生徒が「いつものこと」「見慣れていた」というほど常習的だった*のです。

 *ビンタにとどまらず、同じ年の6月14日にも宮本は、別の女子生徒に対し「教科書を持ち帰っているかどうかの確認をするためにカバンの中を見せろといって追い回し、足を引っ張って階段を引きずり降ろす等の暴行を加えるという事件」(福岡高裁判決文、太字強調は小川)を起こしています。カバンを見せることを拒んだ生徒は、生理中のためカバンに入れていたナプキンや下着を男性教師に見られたくなかったからだと言っています

 

曲げていたスカートを両手で直しながら(すぐ近くの席にいた友人の証言)教室を出ようとしていた知美さんの背中を、宮本が追い打ちをかけるようにいきなり右手で強く押したため、バランスを崩して前のめりになった彼女は、教室の床に倒れ両手両膝をついた四つん這いのかっこうになったのです。

彼女が肩にかけていたカバンが落ちて、中から櫛やエチケットブラシが飛び出しました。

 

友人によると、すぐに立ち上がった知美さんは、「そんなんしたら直されんやん」と言いながら教室を出ていこうとしましたが、宮本は『さらに知美の背中を押して、「何ちゃ」と言いながら知美の後ろから廊下に出ました。廊下に出ると、2人は向かい合うような恰好になり、すぐに宮本先生が知美をビンタし始めた』のです(友人の供述)

 

ところが、最初に背中を押したあたりからもう宮本は自分が振るった暴力については記憶にないと言いつつ、『このまま見過ごしてしまうとみんなの手前よろしくない』と思い、『個人的感情でも頭にきていたので体罰を加えて指導しようと思った』と供述しています。

 

このヤロウ」というように腹立たしく思っていた』宮本は、試験監督をしている最中にもかかわらず知美さんの後から廊下に出て、彼女に向き合うかっこうでなおも「スカートを下ろせ」と言いました。

 

「下ろしよろうもんちゃ(下ろそうとしているでしょ)」と答える知美さんに、『右手を頭のところまで振り上げ、力いっぱい知美の左頬を叩きはじめ』(友人の証言、宮本は叩いた記憶はないと供述)た宮本は、下駄箱の方に後ずさりする彼女の肩をさらに力を込めて後方にのけぞらせるように突き飛ばしたのです。

 

伝えられる内容をもとに、廊下の様子を生成AIで再現してみたのが下の図です。

実際とはもちろん異なっている*でしょうが、大まかな場のイメージ(下駄箱、鉄柵のある窓、コンクリートの柱)はもっていただけると思います。

 *小川が使用したGoogle Geminiで作成できたのは「叱責する」画像までで、「生徒に暴力をふるう教師」のシーンは倫理的に問題があるという理由からでしょう作画が受け付けられませんでした

 

 

突き飛ばされた知美さんは下駄箱に乗り上げるようになったため、「先生何しよっとね」と言いながら必死で身体を起こそうと、しがみつくように宮本の襟首あたりをつかみました。

 

それを、自分に立ち向かってきたものと勘違いした宮本は、知美さんの手を払いのけ、彼女の右の頭部を左手で下から上に突き上げるようにして力まかせに押しました。

 

後方にのけぞった知美さんは、「下駄箱の上に座るようにして倒れ、廊下の窓付近でその後頭部を強く打ちつけ、その勢いで左側に崩れるようにして、コンクリートの柱で頭頂部を強く打った」(藤井、文庫版 p.51)のです。

 

この時の様子を目撃していた衛生看護科の友人は、『宮本先生は左手で知美の右側頭部を強く叩きつけたのです。(略)知美の右側頭部に手を置いて押すようにして叩いたということです。知美は後ろの窓の辺りで後頭部を一回ガーンと打ちつけ、その後コンクリートの柱に頭頂部をぶつけたのをはっきり見ました。知美は、窓のところに後頭部を一回ぶつけたあと、お尻を下駄箱の上に乗せたまま左側のコンクリートに頭をぶつけたのです』と供述しています。

 

『目はうつろで顔色は真っ青、唇の色は紫色をしており、「ウーッ」と唸って』(友人の供述)口から白い泡を吹きながら失神して床の上に崩れ落ちた知美さんを見た宮本は、ようやく我に返ってうろたえます。

 

事件が起きたのは午後3時45分ごろですが、知美さんが救急車で飯塚病院救命救急センターに運び込まれたのは午後4時35分ごろで、一刻を争う事態にもかかわらず、50分もの時間が経っていました。

 

詳しい事情は分かりませんが、知美さんに一目見て分かるような外傷や出血がなかった*ことと、体罰が日常的になされている中で突いたり叩いたりしたぐらいで命に別状はないだろうという教師たちの甘い見方が、初動対応の遅れ**をもたらしたのかもしれません。

 *病院でも原因が脳の損傷だとすぐにはわからず、心臓に持病がないか家族は聞かれたようですが、知美さんは中学時代は陸上の短距離選手で、高校でもほとんど休むことのない健康体でした。

 **思いがけない事態にうろたえた宮本は「すぐに救急車を呼んでくれ」と叫びましたが、それを聞いた同僚教師は119番通報をためらって養護教諭を探すことを優先し、10分後にやっと養護教諭が通報しています

 

先に述べたように、病院に運び込まれた時点で知美さんはもう臨死状態になっていましたが、脳死の可能性を告げられながらも何とか命だけは救ってほしいと懇願する家族に、医師たちは必死の救命措置を続けます。

しかしそれもむなしく、7月18日午後2時37分、知美さんの臨終が宣告されました。

 

19日におこなわれた司法解剖の結果、死因は頭部を激しく打ちつけたことによる「急性脳腫脹」とわかりました。

 

朝日新聞(1995年7月19日)

 

20日は一学期の終業式で、冒頭の黙祷に続いて山近博幸校長が事件の経過を全校生徒に説明しました。

校長が「断腸の思いがした」と言ったところで、知美さんと同じ2年生の生徒たちから「ウソつくな!」「知美を返せ!」という声が上がりましたが、それに対して、後に知美さんに加えられる誹謗中傷の予兆のように、3年生の1部生徒からは「うるさいっちゃ!」との声も上がったそうです(藤井 pp.70〜71、下の朝日新聞記事、「きょういくブログー福岡「体罰死」事件から15年」2010.7.17)

場が騒然とする中、終業式はわずか5分という異例の短さで終わりました。

 

朝日新聞(1995年7月21日)

 

同日午後におこなわれた告別式には200人あまりの友人らが参列し、号泣しながら知美さんと最後の別れをしました。

 

山近校長ら学校関係者も弔問に訪れましたが、「体罰があることを知らなかった」と発言した校長に対し、取り囲んだ生徒からは「いつも暴力があったじゃない!」と抗議の声が浴びせられたそうです。

 

【裁判と判決】

7月17日の119番通報を受けて救急隊員と同時に学校に駆けつけた警察官は、すぐに事件を目撃していた生徒4人から詳しい事情聴取をおこないました。

 

宮本煌についても、警察は傷害容疑で飯塚警察署にパトカーで連行し事情を聴きましたが、その内容が生徒の証言と大きく食い違うため、証拠隠滅の恐れがあるとの理由で宮本を逮捕しました。

 

知美さんの死去により容疑を傷害から傷害致死に切り替えられた宮本は、8月8日に福岡地裁に起訴されました。

 

7月25日に懲罰委員会を設置した近畿大学は、8月8日の起訴を受け同日付で宮本煌の懲戒免職処分を決定しています。

 

朝日新聞(1995年8月9日)

 

1995年10月2日に福岡地裁(陶山博生裁判長)で開かれた初公判で、宮本被告と弁護人は起訴事実についてはほぼ認めながら、知美さんの頭部をコンクリート柱に激突させたのは故意ではなく彼女の死亡は「不幸な事故」だったとの取り調べ段階からの主張を繰り返しました。

 

朝日新聞(1995年7月19日夕刊)

 

この時に弁護人は、後で詳しく触れますが、宮本に対する減刑嘆願署名を裁判所に提出することを表明し、署名運動に参加した卒業生5人を証人として呼ぶことも申請しました(藤井 p.86)

 

公判での尋問で宮本は、教室を出ようとする知美さんの背中を押して四つん這いになる形に突き倒したことについて「記憶にない」「覚えがない」「わからない」と繰り返しながら、検察調書の供述で記憶があやふやだった時に認めたほどの暴力は振るっていないとまで言っています(藤井 p.206)

 

1995年12月25日の判決公判で陶山裁判長は、宮本被告に懲役2年の実刑を言い渡しました(求刑は懲役3年)

 

宮本と弁護人は執行猶予がつくことを期待していたようですが、裁判長は「被告人は、被害者のすぐ前に立ち、怒りのあまり我を忘れて、手加減を加えずにいきなり力を込めて被害者をコンクリート柱等の方向に突くなどしたため、被害者は不意を突かれて身構える暇もなくコンクリート柱等に激突して頭部を強打したのであって、本件行為の持つ危険性は大きい」と指摘したうえで、「被告人は日頃から体罰禁止は建前に過ぎないと考え、安易に力に頼る指導をしていたこともあって、本件においても、右のような説諭等による指導を十分行うことなく、被害者の態度に短絡的に激怒して本件犯行に及んだものである。本件の動機は、被害者の校則違反を是正しようとする等の教育的意図がなかったということはできないにしても、もっぱら被害者の態度に誘発された私的な怒りの感情に基づくものであるから、特に酌むべき事情は認められない」としました。

 

朝日新聞(1995年12月25日夕刊)

 

にもかかわらず求刑の懲役3年より判決を軽くしたことについて、上の記事にもあるように、①被害者をコンクリート柱にぶつけようという意図はなく、結果を予想していなかった、②被害者の態度にもまったく原因がないとまではいえない、③懲戒解雇され社会的制裁を受けている、④日頃から生徒の就職活動のために熱意をもって取り組んでいる、⑤卓球部の活動を通して被告人を慕う卒業生も多数いる、⑥被害者の冥福を祈り*心から反省している、といった「酌むべき事情」を認めてのことだと判決文は述べています。
⑤の卓球部については減刑嘆願署名運動との関係で後で触れることにしますが、⑥についてはその後の宮本の言動を考えると疑問を感じざるをえません。
 *拘置所で写経を始め公判では「供養のために仏門に入りたい」とまで言った宮本ですが、仮出所後に保護司に付き添われて一度だけ陣内家を訪れ、前触れなしの来訪に気持ちの整理がつかないから出直してほしいと知美さんの両親に言われて帰ると、その後保護司を通して遺族が連絡をとっても知美さんの遺影の前に頭を垂れに来ることは二度とありませんでした
 
懲役2年という非常に軽い判決にもかかわらず、1996(平成8)年1月8日、宮本は一審判決を不服として福岡高裁に控訴します。
 
朝日新聞(1996年1月9日)
 

控訴趣意書を執筆したのは、宮本被告の弁護人である桑原昭熙(あきひろ)弁護士福岡地家裁飯塚支部長)で、福岡高裁判決文の要約によると控訴の趣意は「事実誤認、理由齟齬(そご)」と「量刑不当」にありました。

 
そのうち問題の核心というべき事実誤認というのは、宮本被告は知美さんの態度に激怒して犯行に及んだのではなく、スカートの丈を短くするという校則違反を見過ごすことで知美さんが不利益処分を受けたりしないよう、また彼女の将来や他生徒への影響を考えて教育的立場から指導したのであり、さらに知美さんを突いたのは彼女が宮本の襟首をつかんで来たために手加減しながら突いたに過ぎず、それを私的な怒りの感情から死を招くほどの激しい暴行を加えたかのように一審判決が認定しているのは誤りだというのです。
 
この主張は、現場で目撃していた生徒たちの証言とまったく食い違い、宮本のしたことは知美さんや生徒たちのことを思うあまりの教育的配慮に基づく自制の効いた行為であって、それが知美さんに死をもたらしたのは滑りやすい廊下など偶然が重なった不幸な事故に過ぎないという、一審で宮本と桑原弁護士が繰り返した主張のままです。
 
このあからさまな居直り、あるいは「御為(おため)ごかし」(広辞苑:表面は相手のためになるように見せかけて、実は自分の利益をはかること)の典型とも言うべき控訴趣意書からは、一審判決が「酌むべき事情」としてあげた宮本の「心からの反省」など微塵も感じることはできません。

 

福岡高裁の神作良二裁判長が、1996年6月25日の判決公判で一審の実刑判決を支持し、被告・弁護人の控訴を棄却する判決を言い渡したのはまったく当然のことでした。

 

毎日新聞(1996年6月25日夕刊)

 

判決文は、「16歳の若さで思いもかけないことから突如として一命を奪われることとなった被害者本人の無念さはいうに及ばず、これまで愛情を込めて育てあげてきてその成長を楽しみにしていた両親や身内の者が被害者を喪ったことにより受けた悲しみの深さには察するに余りあるものがある」とし、「同校では服装等について細かな校則が定められ、躾教育重視の方針からこの点について日頃厳しい指導がなされ、表向きは体罰が禁止されいたものの一部教師の間では口で注意をしても改めない場合に体罰を用いて生徒の指導にあたる*ことが必ずしも珍しいことではなく、かつこれが許されるという風潮が弥漫(びまん:一面に広まる)して」いたと具体例を挙げて指摘しています。

 *これまで見たように、宮本の場合は「口で注意」と「体罰という名の暴力」は同時に、もしくは口より先にいきなり殴ることすらしていました

 

そうして判決文は、知美さんが宮本に対して「実力をもって反抗したような事情は認められず、せいぜい被告人に突き転ばされた被害者が「そんなんしたら、直されんやん」と抗議し、更に加えられた暴行を被害者が避けようとして被告人を押し返すようにした事情が窺えるだけであるのに、被告人はこれを反抗的態度と受け取り、「なめられてたまるか」という気持ちから被害者に対し一方的に暴行を加えたものであって(略)遂には教育の名に値しない私憤に由来する暴行に終わったもので、まさしく違法な体罰であったといわなければならない」太字強調は小川)と断じています。

 
もしこれが「学校」や「教師と生徒」という枠内ではなく一般社会で起きた事件であれば、無抵抗の相手への一方的暴行によって死に至らしめた罪への罰が、たった2年の懲役刑で済んだとはとても思えません。
 
ちなみに、傷害致死罪の法定刑の下限は2005年の刑法改正で懲役3年に引き上げられましたが、当時は宮本に下された懲役2年が最低限でした。

傷害致死罪は当時の上限が15年、刑法改正後は懲役20年(他の刑が加重される場合は30年)もありうる非常に重い罪なのです。

 

ところがそれが「教育」の名の下におこなわれると、スポーツ(卓球)で鍛えた50歳の「大の男」が身長150㎝で体重40㎏足らずの16歳の少女を力まかせに殴り突き飛ばして死なせても、下限の量刑どころか執行猶予まで当然のように求めて恥じない当事者・関係者の意識に、暗澹(あんたん)たる思いがします。

この事件では目撃した生徒が多数いたために加害者に言い逃れができませんでしたが、もしこれが密室でなされた暴行であればと思うと、背筋が寒くなります。
 

なお、宮本が最高裁に上告しなかったことから高裁の控訴棄却によって懲役2年(未決勾留日から110日を刑に算入)が確定し、1997年7月17日、高裁判決から1年あまりで宮本は仮釈放で出所しました。

その10日後に保護司に連れられた宮本が陣内家を事前の連絡もなしに訪れた時の様子は、先に見たとおりです。

 
【「娘は二度殺された」】
裁判に向けて宮本の関係者らが減刑嘆願署名を集める運動を始めたことは先に触れました。
 
宮本が起訴されたのは8月8日ですが、知美さんが亡くなった7月18日から一週間経つか経たないうちに、つまり事件の詳細がまだ明らかになる以前に、宮本の減刑を求める嘆願署名が動き始めたのです。
 

朝日新聞(1995年7月28日)

 

その中心のひとりが、福岡県立嘉穂高校定時制で長くつとめ近大附属女子高校に転職してから宮本の同寮となった井上正喜(事件の前年1994年に定年退職、敬称略)です。

宮本と井上教諭とは、卓球部の顧問同士であり元同僚として27−28年の長い付き合いがありましたが、宮本が役員をしていた県の卓球協会や顧問だった近大附属女子高校卓球部の部員・卒業生(OG)とその家族ら卓球人脈が嘆願署名運動の中心となったのです。

 

7月25日付で井上の名で書かれた「嘆願署名のお願い」は、宮本が「スポーツマンらしく明るく朗らかな性格で常に人に親しまれ、先輩には礼儀正しく後輩、生徒の指導に誠意をもって当たってこられました」と述べ、同校卓球部を十数年連続して筑豊地区優勝に導いた実績も「愛情に基づく共に汗にまみれた指導によるもので、力による暴力を背景とした結果ではありません」とし、事件は「魔がさしたとしか思われ」ない不幸な事故だったと減刑嘆願署名への協力を求めています(藤井 pp.103-104)

 

宮本が暴力的な「指導」とはまったく無縁の「明るく朗らか」な人物だったとするこの「お願い」は、「ビンタはいつものこと」という生徒たちの証言とまったく食い違う事実*を前提にし、事件当日の状況にまったく触れることなく「魔がさした」だけだと決めつける根拠薄弱で一方的な内容ですが、ただここには知美さんを貶める言葉はありません。

 *親しい同寮や彼に従順な生徒に宮本が見せていた顔が井上の言うようなものであった可能性まで小川は否定するものではありません

 

署名がいわば「身内」でおこなわれていた間は、「人柄」や就職・部活で世話になった「恩」を前面に出し宮本への「同情」を誘うものだったのでしょう。

しかし、わずか3ヶ月あまりで7万5218筆*も集めた署名活動が地縁・血縁・社縁などをフル活用してよく事情を知らない人たちにまで広がるにつれ、「生徒を死なせた」という事の重大さを打ち消すために、被害者が「そんな目にあわされても仕方がない不良生徒」だったというストーリー(誹謗中傷する話)がねつ造され広められていきます。

 *署名した人は飯塚市にとどまりませんが、参考までに言うと1995年時点の飯塚市の人口は約14万人でした

 

つまり、「悪いのは宮本先生だけではない」から「悪いのは生徒の方で、教育熱心な宮本先生はむしろかわいそうな被害者」へと話がずらされ善悪が転倒させられていったのです。

 

知美さんへの誹謗中傷は、「地域でも評判の悪い子」「シンナー常習者」「入れ墨をしていた」「茶髪でピアス*」「覚せい剤を打った注射の痕があった」といった内容で、「入れ墨」や「覚せい剤の注射痕」には彼女が運び込まれた「飯塚病院の看護師の話では」という事実無根の「証拠」まで添えられていたそうです。

 *ここにあげた中では、彼女が耳に「ピアス」の穴を開けていたことだけが事実ですが、それで「不良生徒」のレッテルを貼るとしたらどれだけ多くの「不良」がいたことでしょう

 

宮本の暴力で殺された知美さんは、悪意ある噂によって死後にも尊厳を踏みにじられ、二度殺されたのです。

 

また、悪意ある噂は「父親は入れ墨のある暴力団(あるいは右翼団体)の幹部」「母親は事件直後に学校に怒鳴り込んで保証金を要求した」「両親は離婚(あるいは別居)している」「放任家庭なのに事件後に急に騒ぎ出した」などと知美さんの両親にも向けられ、家には親が悪いと責める電話や手紙(下は実際に届いた手紙の一部)があり、注文してもいない寿司やカラオケセットが届けられるという嫌がらせを受けました。

 
    

「お前さんは子どもの教育やしつけを間違えたばっかりに、先生の家庭を目茶苦茶にした。先生は悪くない。お前の娘が一方的に悪い。100人が100人そう思っている。反省するなら自殺しろ。死んで子どもの所に行って一から教育のやり直しだ。わかったらすぐに実行に移すんだ。あんなに涙を流すなら親子3人*で死ぬんだ。死んで先生にお詫びして先生に謝罪しろ。そうしたらお前たちは神様に許して頂ける。馬鹿野郎、娘のためだ、自殺しろ。死ね。夫婦で死ね。」(福岡)

 *知美さんには2歳上の兄がいた

(藤井 pp.88-89)

 

この噂の出処や伝播については、藤井誠二さんが詳しく取材していますのでぜひ著書をお読みいただきたいのですが、井上ら署名活動の中心人物がデマをねつ造して組織的に流したということではなさそうです。

 

しかし、むしろ自然発生的に憶測や脚色を重ねた(中には偽りと知りながら作ったものもあったでしょう)デマがネットのない時代にこれほど広がったことには怖さを感じます。

敷き詰められた枯れ草は、わずかな火種からでも大きく燃え広がるように、噂が広がっていったように思われるのです。
 

この噂の場合に「枯れ草」に当たるのは、「お上(学校や先生)は常に正しい」「お上に逆らうこと(先生の言うことをきかない生徒)は常に悪である」という権威主義的意識で、それを支えたのが「お上」は就職の世話などの「恩」を施し、施された者は「報恩」(恩返し)でそれに応えるべきという上下の関係性とその経験だったでしょう。

 

この上意下達の権威主義的意識は、筑豊炭鉱の中心であった飯塚市が炭鉱業で財を成した麻生財閥発祥の地であり、今も麻生一族の関連企業が君臨する「城下町」*であるという土地柄を色濃く反映しているように思われます。

 *知美さんが救急搬送された病床数1000床を超える巨大な飯塚病院も、医療法人ではなく株式会社麻生が経営する企業立病院です

 

飯塚市忠隈に今も残る高さ121mのボタ(捨石)山

 

また1966(昭和41)年に飯塚市に福岡キャンパスを開設した近畿大学(産業理工学部、九州短期大学、附属高校)も地元では大きな存在だったようで、そんな「立派な学校の先生の言うことを素直にきかない生徒や先生を非難する親は事情を問わずそもそも悪い」という強固な先入観に、デマを流した人とそれを真に受けた人たちは囚われていたのでしょう。

 

しかし考えてみると、こうした権威主義は決して「旧態依然とした田舎の意識」にとどまるものではなく、程度の差はあれ日本の社会に広く根づいており、いまだに教育現場で繰り返される「体罰」*とその容認論・必要論の根もそこにあるのではないでしょうか。

 *教師の権威主義的意識の極めて歪んだ表れが、生徒を教師の性的支配の対象として扱う盗撮など学校での性犯罪でしょう

 

「記憶がない」(本人の供述)ほど我を忘れて知美さんに暴力を振るい続けた宮本の怒りは、他の生徒たちの面前で彼女に「先生」としての自分の権威を無視(否定)されたのではないかという恐怖、一言でいえば高裁判決文にある「なめられてたまるか」という気持ちだったように思います。

 

 
サムネイル

小川里菜の目

 

陣内知美さん

(藤井著書、単行本表紙より)

 

【体罰と権威主義教育】

藤井誠二さんは著書のあとがきで次のように述べています。

 

「私が、このルポルタージュの副題を「体罰死事件」とせず「殺人事件」としたのも、「体罰によらない教育」という言い方があるように、あたかも裏を返せば「体罰という教育方法」があるかのごとく錯覚してしまう危険性があり、おそらく多くの人にとって「体罰」という字面や響きが「教育」的なイメージを喚起させてしまうであろうことを危惧したためである」(藤井 p298、太字強調は小川)

 

「体罰」は「教育」ではなく、「権力的強者と弱者の関係を前提におこなわれる一方的で卑劣な暴力である」とする主張には小川も基本的に同意します。

 

その上であえて言いたいことは、「体罰」もある種の「教育(権威主義教育)方法」ではないかということです。

 

この事件で宮本が暴力を振るう端緒となったのは、知美さんがスカートを膝頭が見えるまで短くしていたからです。

それがなぜ「罪」(「(体)罰」というからには「罪」が前提になる)かといえば、校則でスカートの丈は膝のお皿の下までと決められていたからです。

事件当時、近大附属女子高校には180項目もの校則があったそうで、スカートの丈もその一つでした。

 

しかし、スカートの丈が数㎝長いか短いかが本来の「教育」(education:個人が可能性としてもつ能力・特性を引き出す(educare)こと)にとって教師が血眼になるほど重要な意味を持つのか、合理的な説明ができるとは思えません。

 

とすれば、不合理な校則の意味は「校則の内容」にあるのではなく「校則を守るかどうか」という形式にあるのです。

つまり、「学校(お上)が決めた校則には無条件に従う」という「権威への服従」の習性を身につけさせるのが「校則教育」のポイントなのです。

 

そのためにはむしろ、「校則は不合理なものであればあるほど良い」ことになります。

すんなり納得できる校則より、いくらバカげた校則であっても学校(お上)決めたことには黙って従わせる方が、権威主義教育にとって良い訓練になるからです。

そしてもし従わない生徒がでてくると、「権威」の仮面をかなぐり捨てた「権力」が表に出て、「体罰」と称する「暴力」が振るわれることになります。

 

訓練されるのは生徒だけでなく教師もだったでしょう。

スカート丈どころか下着の色が生徒の才能を引き出す教育にどう関係するのか、教師自身もわけが分からないまま生徒を従わせることに汲々とし、もし違反する生徒を自分のクラスから出せば管理職や他の教師から責められる——その意味では、彼個人を懲戒免職にしただけで近畿大学本部を含め学校自体の加害責任はうやむやなままにコマとして使い捨てられた宮本は、権威主義教育の被害者としての一面もあったのではないでしょうか。

 

【知美さんの死を忘れず】

知美さんの父・陣内元春さんと母・明美さんら遺族が、喪ったばかりの娘を「二度殺される」誹謗中傷や嫌がらせを受けて二重三重の苦しみを味わわされている中、「陣内さん支援ネットワーク」を立ち上げて彼らを支えつづけたのが佐田正信さんです。

 

1960(昭和35)年、飯塚市に隣接する福岡県直方(のおがた)市に生まれた佐田さんは、東京の大学を出たあと郷里に戻り、家庭教師をしながら1990年に「登校拒否を考える会・筑豊」や「学校に行かない子どもを支える会・直方」を発足させ、1992年にはフリースペース「スペーストトロ」という不登校の子どもたちが交流できる居場所に自宅を開放し、彼らの話し相手になるなどの社会活動をしていました。

 

佐田正信さん

 

佐田さんらは、事件から3ヶ月後の1995年10月1日に「陣内知美さんの死を忘れない飯塚集会」をもち、1996年7月には知美さんの追悼集会を開いてネットワークを「陣内知美さんの死を忘れない追悼集会実行委員会」にあらため、その翌年からも7月に知美さんの追悼集会を開催しました。

 

ネットには、佐田さんが書いた2000年7月9日の追悼集会の案内が残されています。

 

 1995年7月17日のあの悲しい夏の日から数えて6度目の夏を迎えようとしています。私たちは、事件の現場、福岡県飯塚市で毎年、この追悼集会を持ちながら事件のその後を見守ってきました。事件そのものは残念ながら風化しています。
 事件の現場近畿大学付属女子高(現・近大付福岡高校)に境を接する男子校でも教員による対生徒暴力(体罰)事件が起きました。しかし、その一方で「実際に今現在学校に通い常に暴力の危険にさらされている若者たちの命を守るために動いていこう。そのことによって知美さんの死を追悼していこう。彼女の死を活かしていこう。」という私たちの思いは“体罰ホットライン”を生み出しそこに寄せられる情報に対応し教育現場に警鐘を鳴らし続けています。
 また、その動きの中から全国の仲間たちと「教員による対生徒暴力(体罰)を告発する全国市民ネットワーク」が立ち上がりその歩みを始めました。そのような動きの原点となった、この集会で今年も知美さんの死の重み命の重みを、日々の暮しに流されがちな私たちの身に刻み込み明日からの何らかの標にする一日を持ちたいと思います。どうぞ、ご参加ください。

 

ここに書かれている「体罰ホットライン」や「教員による対生徒暴力(体罰)を告発する全国市民ネットワーク」について具体的なことは分かりませんでしたが、各自治体や弁護士会、法務省にいじめや体罰などについての相談を電話やメールで受けつける「子どもの人権110番」といった相談窓口が設置されるようになったのには、佐田さんら市民の活動が大きく寄与したのではないでしょうか。

 

法務省の「子どもの人権110番」(2006年開設)

 

佐田さんは1997年8月、仮出所した宮本煌に保護司に託して手紙を書き、知美さんの追悼集会に出席しマスコミに今の心境を語ってほしい、事件を心から反省しているのなら知美さんや遺族にしっかり詫びたうえで、加害者になってしまった立場から二度とこのようなことが起きないよう社会に向けて発言してほしいと提案しました(藤井 pp.278-284)

 

手紙の末尾に追伸として、佐田さんは次のように切々と宮本に呼びかけています。

 

この2年間、陣内家のみなさんは、大変な状況に翻弄されてこられました。誹謗中傷、嫌がらせ……。そんなことと、日々直面しながらの2年間でした。そして彼らが、ただ一つのことを待ち続けていた2年間でもありました。その、たった一つのこと、それは貴方を心から許し、貴方に心を開ける日がくることであります。

どうか、どうか、今までは立場の違った歩みをしてきた私たちが、知美さんの死を無駄にしないための努力を、それぞれが生涯続けていくという一点で、お互いの手と手が結べる日が来ることを……。

 

ところが宮本は、「受け取る理由がない」と手紙を開封することすらせずに送り返してきたそうです。

宮本としては、事件のことはもう忘れてしまいたいという気持ちとともに、「先生は悪くない、むしろ被害者だ」と署名を集めた人たちの手前、今さら「罪を悔いた加害者」として振る舞うことはできなかったのかもしれません。

 

その意味で、身内をかばうことだけを考えてなされた減刑嘆願署名運動は、知美さんの遺族を苦しめただけでなく、宮本自身の更生の道まで閉ざしてしまう二重に罪作りなものだったと、小川には思えるのです。

 

なお、2000年10月31日、佐田正信さんが40歳の若さでガンのため急逝されたことを、追悼の気持ちを込めてここに書き留めておきます。

 

佐田正信さんの遺稿集(向陽舎、2002)

 

🔚

 

今回のブログは、書きながら悲しみと怒りで何度も心が押しつぶされそうになりました。

そんな心のバランスをとるために、不謹慎とのお叱りを受けるかもしれませんが、ブログ内容とはまったくかけ離れた楽しい写真を最後に掲載します。
 
神戸の老舗スペイン料理店「カルメン」で開かれたフラメンコディナーの様子です。
トラ吉を連れて秋の一夜、食事とフラメンコライブを楽しんできましたのでご覧下さい。
サムネイル

 


 

 

 

 

 

今回も最後までお読みくださり

ありがとうございましたおねがい

次回はリクエスト企画にします飛び出すハート

 

恋人の逢瀬を邪魔しようと

無関係な人を死傷させた

横須賀線電車爆破事件

1968年

朝日新聞(1968年6月17日)

 

爆発直後の車内で倒れた乗客たち

毎日新聞(1968年11月10日)

 
【事件発生から犯人の逮捕まで】
1968(昭和43)年6月16日の日曜日、この日は「父の日」でした。
午後3時30分ごろ、国鉄(現在のJR)横須賀線の東京行き電車(10両編成)が大船駅の手前約100mの踏切にさしかかったとき、突然前から6両目の網棚に置かれていた荷物が大音響をあげて爆発しました。
 
 

朝日新聞(1968年6月17日)

*座席の○は乾電池が見つかったところ

 

爆発物の破片に加えて破損した天井の鉄片や窓ガラスなどが車内に飛び散って突き刺さり、同じ車両にいた50人ほどの乗客のうち重軽傷を負った多数の人*が病院に運ばれて、そのうち網棚の下に座っていて頭部に重傷の広島勇さん(30歳)が大船中央病院で亡くなりました。

 *裁判で加害者が罪に問われた被害者数は死者1人を含む15人ですが、直後の新聞記事には死者1人、重軽傷者28人と報じられています

 

亡くなった広島 勇さん

 
広島さんは、4月に生まれたばかりの長女が入院している逗子市内の病院に見舞いに行った帰りでした。
 
朝日新聞(1968年6月17日)
 

ちょうど1年前の「父の日」、1967年6月18日に兵庫県神戸市垂水区の塩屋駅構内で、山陽電鉄の姫路行き普通電車の網棚に置かれた荷物が爆発し、女性2人が死亡、29人が重軽傷を負う大惨事(未解決事件)があり、類似点から一時は同一犯の仕業ではないかと疑われました(その後、使用された火薬の違いなどから犯人は別と警察が判断)

 

読売新聞(1968年6月17日)

 

1962年から63年にかけて、「草加(「そうか」もしくは「くさか」)次郎」を名乗る犯人が、東京都内で十数件の爆破・脅迫事件(1978年に公訴時効)を起こして以降、上の記事にあるように模倣犯と見られるものを含めて未遂を含む何件もの爆破・爆発事件が起き、未解決が多くなっていたことから、警察庁は翌18日にこの横須賀線電車爆破事件を「第107号広域重要事件」に指定し、警察の威信をかけて事件解決に取り組む決意を示しました。

 

読売新聞(1968年6月18日夕刊)

 
犯人の手がかりを求めて、飛び散った破片から爆発物について捜査本部が復元したところ、「火薬を詰めたパイプ・タイムスイッチ・乾電池」を組み合わせた次のような構造の手製爆弾であると推定されました。
また、乾電池ケースと電線やパイプのフタなどの接合部分にはハンダが使われていました。
 

朝日新聞(1968年6月17日夕刊)

 
その後判明したことを含めて遺留品から分かったことは……
【爆発物】
①火薬:猟銃で散弾の発射薬などとして用いられる無煙火薬
 

朝日新聞(1968年6月18日)

 

②パイプ:ガスや水道の配管工事で使われる鋳鉄製の三方継ぎ手(T字型パイプ、直径約5.2cm)

 

読売新聞(1968年6月19日)

 

三方継ぎ手(例)

 
【タイムスイッチ】

松下電工(ナショナル、現在のパナソニック)製のゼンマイ式タイムスイッチ

 

「ナショナル時間スイッチ」(例)

 

【点火用電源】

①電池:単一(1.5v)乾電池4本

②乾電池ケース:主に生徒・学生が勉強に使うクラウン社製テープレコーダー「クラウン・マイスタディ・ジュニア」の電池ケース

 

 

 

「クラウン・マイスタディ」シリーズのテープレコーダー(例)

同、L型の電池ケース(単一乾電池4本が直列)

 

【包装物】

①箱:爆弾が入れられていたのは、「みすづ総本店」が製造販売した名古屋銘菓「鯱(しゃち)もなか(10個入)のボール紙の箱

 

朝日新聞(1968年6月20日)

 

読売新聞(1968年11月10日)

 

②新聞紙:菓子箱を包んでいたのは毎日新聞(1968年4月17日付、多摩版)、輪転機に固有の微妙な印刷ズレから三多摩地区(八王子・立川・日野方面)に配られたものと判明

 

読売新聞(1968年11月10日)

 

これらのうち、特に新聞紙と火薬から、三多摩地区の毎日新聞購読者で猟銃を所持している者をピックアップし、捜査員のべ2万500人を投入してしらみつぶしに当たったところ、1人の容疑者が捜査線上に浮かびました。

 

日野市上田に住む大工の若松善紀(当時25歳)です。

警察は、若松が爆弾に使用された三方継ぎ手などを入手できたか慎重に捜査を進め、若松の隣りに住む夫婦から前年10月に「鯱もなか」を新婚旅行のみやげとして彼に渡したとの有力な情報が得られました。

 

毎日新聞(1968年11月10日)

 

こうして事件発生から約5ヶ月がたった11月9日朝7時、都内の工事現場の宿舎に泊まっていた若松善紀に警察が任意同行を求めました。

 

当初は関わりを否認していた若松ですが、午後になって犯行を自供し始めたことから、同日午後6時40分に爆発物取締罰則違反、電車汽車転覆致死、殺人、殺人未遂等の容疑で彼を逮捕しました。

 

朝日新聞(1968年11月10日)

 

読売新聞(1968年11月10日)

 

【若松善紀という人物】

 

 

若松善紀は、1943(昭和18)年8月10日、日本有数の豪雪地帯である山形県尾花沢(おばなざわ)市大字野黒沢(のぐろさわ)に5人きょうだいの末っ子として生まれました。

長兄は生後すぐに亡くなっているので、実質的に善紀のきょうだいは姉2人と兄1人*です。

 *長姉(9歳上)、次姉(6歳上)、兄(2歳上)

 

 

山形県尾花沢市

 

父親は運送会社の経営がうまくいかずトラック運転手として働いていましたが、1944(昭和19)年11月の2度目の召集で陸軍自動車部隊の軍曹としてフィリピン戦線に送られ、1945(昭和20)年3月17日、レイテ島カンギマット山で戦死しました。

父親が35歳、善紀がまだ2歳になる年で、彼は父を知らずに育っています。

 

36歳で夫を失った善紀の母親レイさんは、5反歩(約50アール)ほどの田畑を耕しながら姑と4人の子どもを養う評判の働き者だったそうです。

 

よちよち歩きを始めたのがようやく3歳のころと成長の遅かった善紀は、手のかからないおとなしい子どもで、忙しく働く母親や姉たち、兄をかわいがる祖母*からあまりかまわれることなく育ちました。

 *善紀の父親は婚外子(私生児)で実母が子を置いて家を出たため、父の祖母が戸籍上も母親となって彼を育てたので、善紀が「祖母」と思っていたのは実は「曾祖母」でした

 

1947(昭和22)年3月、東京から来た母娘が若松の家の物置小屋を借りて生活するようになります。

 

この母親は、大工だった夫の野黒沢の実家に東京からひとり娘を連れて「疎開」してきていたのですが、窃盗事件を起こした夫が服役中に獄中で病死したため、夫の実家におれなくなったのです。

そして雅子*という善紀の幼なじみで遊び相手となる同い年の娘が、後に彼が事件を起こす原因となる「運命の女」だったのです。

 *大判例に収録された横浜地裁の判決文に「小幡雅子」と彼女の名前があげられています。これが仮名でなければ、「小幡」はのちに母親が再婚してからの姓と思われます。なお、佐木隆三『殺人百科3』(以下、佐木)の「爆破狂 若松善紀」では「彼女」とのみ記され、加賀乙彦『ある若き死刑囚の生涯』では「山田敏子」、同『死刑囚の記録』の「鉄窓の宗教者」では「M子」と書かれていますが、このブログでは「雅子」としておきます(簡潔にするため敬称を略します)

 

 

 

雅子は、善紀が「自分のおふくろに似て、気が強くて短気」(佐木、p.206)と言うように、遊びでも善紀を常にリードする存在でしたが、おとなしい彼にはそのような関係がむしろ性に合ったようです。

なお、雅子は自分の父親が窃盗事件で服役し獄中死したことを成人してからも知りませんでした。

 

1950(昭和25)年3月、雅子の母親が亡夫の知り合いの大工と再婚することになり、母娘は横浜に去ってしまいます。

 

その年の4月、善紀は野黒沢にあった尾花沢市立福原中部小学校(2014年に閉校)に入学します。

 

おとなしいながら友だちは多く、成績も中の上くらい、図工が得意で機械いじりが好き、切手集めが趣味という目立たない子どもでした。

 

兄によると「気持の変わりやすい」性格だったらしく、友だちと遊びに行っても急にいなくなって1人で別の所に行くなどの行動が見られた一方、これと思うと距離をいとわず歩いて行ったり真夜中に起き出して機械いじりに熱中することがあったそうですから、現在なら発達障害であるADHD(注意欠如多動症)とASD(自閉スペクトラム症・アスペルガー症候群)の併存*と診断されたかもしれません。

 *ADHDは落ち着きがなく衝動的に行動しがちで、ASDは人間関係が不器用で特定のことにこだわりが強いという相反する特性をもちながら、両方の障害を合わせ持つ人も少なくないそうです

 

小学2年生の時に祖母が亡くなり、豆腐業を営む既婚男性が家に出入りするようになって家庭が複雑になりながら、豆腐作りを教わることで一家は経済的に助けられます。

 

小学2年か3年のころ、親戚の女の子の口まねをしたのがきっかけで善紀に吃音(きつおん:一般に「どもる」と言われる発話障害)が出始め、1956(昭和31)年4月に市立福原中学校に入ると症状がより顕著になりました。

 

中学校での善紀は、社会・図工・英語が得意科目で、卒業時の成績は約160人の生徒の中で30番くらいと学力的には高校進学が十分可能でした。

本人も、将来は船舶の無線通信士か電車の運転士になることを希望していましたが、高校にやるお金はないと母親に言われたため、進学を断念せざるを得ませんでした。

高校進学率が全国平均で6割に達していない時代で、善紀の姉たちや兄も中学を卒業しただけで結婚したり働いたりしていたのです。

 

1959(昭和34)年3月に中学を卒業した善紀は、働きながら定時制高校に通わせてもらえると期待して、4月に山形市錦町の指物大工に弟子入りしました。

しかし、1年ほど働いて高校の話を親方に持ちかけたところ、大工が学校に行っても仕方がないと断られたため、1960年7月の休みの日に親方に無断で実家に戻ります。

 

定時制高校に行きたいと訴える善紀に、次姉や学歴での苦労を知っている兄は、きょうだいで一番成績の良い弟には高校に行かせてやりたいと口添えしてくれましたが、中途半端なことをせず手に職をつけろと母親が強く反対したため、進学を諦めざるを得ませんでした。

 

【東京での仕事と抱いた夢】

1960(昭和35)年8月末、同郷の親方が東京都保谷(ほうや)(2001年に田無市と合併して現在は西東京市)で営む工務店に、善紀は3年の見習い契約・お礼奉公*半年という条件で働き始めました。

 *見習い修業(住み込みで作業着と食事が支給され小遣い銭をもらい下働きする)をさせてもらったお礼として、契約が終わったあと一定期間無給で働く制度

 

善紀のまじめな働きぶりを認めた親方は、1963(昭和38)年8月、見習い期間が終わるとお礼奉公を免除し、一人前の大工として月給4万円*で雇用してくれました。

彼が20歳になる年のことです。

 *30人以上の事業所を対象とした「毎月勤労統計」によると、1963年の常用労働者の平均賃金は3万円弱(2万9941円)でしたから、条件としては悪くなかったでしょう

 

1964(昭和39)年1月に、東京都新宿区西落合に4畳半一間のアパートを借りて暮らし始めた善紀は、昼の弁当を作って出勤し、ラジオを組み立てるなど電気関係のものをいじることを趣味にしながら、仕事から帰ると数学やNHKラジオ講座で英語の勉強をするという、質素で勤勉な毎日を送りました。

酒も付き合い以外1人では飲まず、当時の職人にありがちな酔っ払った姿を見せたこともありません。

 

また子どものころから図工が好きな善紀は、親方からのアドバイスもあり、暇さえあれば設計図面を見て建築の勉強をし、二級建築士から一級建築士の資格を取得して将来は自分の設計事務所をもつことを夢見ていたのです。

熱心に英語の勉強をしていたのは、海外での仕事も視野に置いていたからです。

 

そんな折り、彼のアパートに工務店の先輩の弟で福原中学の一学年上であった渡辺喜代光(上記横浜地裁判決文による、敬称略)が、飯場暮らしがいやだからしばらく置いてほしいと転がり込んできます。

仕方なく同居してみるとそれなりに楽しかったようですが、この渡辺がのちに事件を起こす原因の一端になろうとはこの時は想像すらできませんでした。

 

3ヶ月ほどして渡辺は、善紀の住まいから徒歩で10分くらいのところにアパートを借りて出て行きます。

 

1965(昭和40)年に善紀は、吃音を治したいと池袋にあった言語矯正施設に通い始めました。

しかし、ここにも彼の潔癖症的なこだわりが現れているように思われますが、仕事で遅刻することが多くなったという理由で3ヶ月ほどで行くのをやめてしまいます。

 

1966(昭和41)年11月2日、善紀は猟銃の所持許可をとって水平2連の散弾銃を購入します。

山形に帰省したときイノシシを撃ちに行ったことはあるようですが、東京では射撃場で的を撃つくらいだったのではないでしょうか。

 

水平2連散弾銃(例)

 

事件を起こすまでに善紀は銃砲店で5回*、250gずつ無煙火薬を許可をとって購入しており、これが事件で爆発物に使用されました。

 *1966年11月と12月、1967年1月と10月、1968年3月

 

火薬を購入したのは、実包(実弾)を既製品で買うより、火薬や部品を購入して自分で組み立てる(自家装填という)方が使用済み薬莢の再利用もできて安上がりであるのと、目的に合わせて自分で火薬の量を調整できるからです。

 

図右の火薬や部品を購入し組み立てる

 

【雅子との再会と失意の別れ】

1967(昭和42)年2月、善紀は思いがけず17年ぶりに雅子と再会します。

正月に山形の実家に帰ったとき、雅子の母親から来ていた年賀状を見て横浜市戸塚区の住所を知った彼が母親に挨拶の手紙を出したところ、雅子本人から返信があったのです。

 

2月16日、東京に行くから昔の思い出話をしたいという彼女との初デートを楽しんだ善紀は、せがまれて西落合のアパートにも案内し、東京駅13番線*ホームから横須賀線で帰る彼女を見送りました。

 *東北新幹線のホーム増設など駅の改造により、現在の東京駅に13番線は存在せず、横須賀線は地下3番線と4番線から発着しています

 

川崎市で従姉が経営する食堂を手伝っていた雅子は、夕方に仕事が終わると善紀から聞いた下駄箱に隠した鍵を使ってアパートに入り、夕食を作って善紀の帰りを出迎え、おしゃべりをして終電で帰るようになります。

 

3月の初め、3年前から好きになり付き合っていた藤原という男性が、前年冬に吐血し急逝したという打ち明け話をしていて終電を逃した雅子は、初めて善紀のアパートに泊まり2人は性的な関係をもちます。

 

工務店の親方に勤勉さを見込まれ、娘婿として会社の2代目社長にと望まれていた善紀ですが、郷里を引きずりたくない彼はその気になれず、関係をもったのを機に雅子に結婚したいと申し出ると彼女もあっさりと承諾したのです。

 

こうして2人は、次のような結婚誓約書(佐木、p.182)を作成し署名に血判まで押して、同棲生活を始めます。

 

結婚誓約書

一、甲乙双方は絶対離婚を認めない。

一、甲乙双方は家庭平和を維持するために最善の協力を惜しまない。

一、甲はいかなる理由を問わず、乙の前歴(所謂、結婚経験及び藤原との交情)に触れて、乙を苦境に晒すことをしない。

一、乙に全生計を預けるため、甲は全給料を乙に手渡す。

一、外出の際は甲乙双方互いに連絡し合わなければならない。

一、甲乙双方はマイホーム建設の希望をもって努力し合う。

一、右建設遂行のため、甲乙同伴の外出を、最高月1回に制限する。

一、甲は乙の両親の扶養の義務を負う。

一、甲も乙も浮気は、これを認めない。飲酒喫煙は甲のみ認むる。

 以上を以って、甲を夫、乙を妻とし同一のものを二通作成し、甲乙双方署名捺印し、各々1通ずつを所持するものとする。

 私たちは右事項を固く守ることを誓います。

昭和42年3月10日

 

「誓約書」はおそらく善紀の発案だと思いますが、まるで設計図を想わせる彼の生真面目さやこだわりが強く表われた堅苦しく息が詰まるような内容に、雅子が心から賛同して署名したとはとても思えません。

 

というのも彼女は、その場の空気や流れには逆らわず従順そうに見えるけれど、結局は自分の欲求や感情のままに行動する我の強いタイプの女性*だったように思われるからです。

 *先に述べたように、善紀は雅子を「気が強くて短気」「キツい性格」と言っているように、プライベートな場では思い通りにならないとキレて手近な物を投げつけることもあったようです

 

結婚誓約を交わしてからわずかひと月ほど後の4月16日、善紀が仕事から帰ると雅子は書き置き一つ残さずにアパートを出て行ってしまっていました。

 

後日彼女から来た手紙には、「(雅子は)犯罪者の血を引いたロクな娘ではない」と結婚に反対する善紀の母から彼宛の手紙をアパートで見つけて読み、自分の父親が服役中に獄死したことを初めて知って大きなショックを受けたこと、またその手紙に雅子に結婚経験があると書かれていたため善紀にそのことを聞かれてはぐらかした*けれど、実は自分は既婚者だとの告白が書かれていました。

 *結婚誓約書」に「乙の前歴(所謂、結婚経験云々)」と書かれていたのはこのことです

 

横浜市の会社に中卒で就職した雅子は、9歳年長の上司にプロポーズされ、18歳で結婚していたのです。

彼女に上司への恋愛感情はなかったのですが、彼が借家住まいの両親に持ち家での同居を申し出たことから、両親が娘に結婚するよう強く迫ったからです。

 

状況に逆らえず結婚した雅子ですが、夫が子どものできない体質で職場での「不倫」のうさわもありますます心が離れ、新婚3年目になる成人式の帰りにたまたまラーメン屋で知り合った藤原征広という同い年のサラリーマン男性と意気投合して深い仲になりました。

 

夫は妻の「不倫」を知りながら責めようとせず、ただ離婚の求めには頑として応じませんでした。

 

こうして3年続いた藤原との関係は、大酒飲みだった彼のあっけない吐血死で幕を下ろしました。

失意の渦中にあった雅子は、善紀からの便りに懐かしさを覚えると同時に彼への好奇心がつのり、会いたいと手紙を出したのです。

 

やりたいようにさせてくれる善紀の優しさに一時は心が引かれた雅子ですが、コソコソと落ち着きがなく彼女に頼りがちで、その一方で見栄をはって才能をひけらかす善紀の性格が嫌になった、「それに吃音だし……」と事件後に彼女は供述しています(佐木、p.206)

 

しかし、その場しのぎで気分まかせ、裏表の顔を使い分けて男を翻弄する小悪魔的な雅子の言動に、生真面目な善紀の方が振り回されたことも否定できません。

 

姿を消した後に雅子から来た手紙の末尾には、善紀のアパートにヘアピンを忘れたので3日後に取りに行くから顔を合わせなくて済むよう留守にしておいてと書かれていました(佐木、p.187)。

たかがヘアピン1本を取りにくるというのも変ですが、実際に彼女がアパートに来たのは、顔を合わせるのを意図したかのように予定前日の善紀が在宅していた時間でした。

 

会ったからには当然復縁しようと口説く善紀に彼女は応じるそぶりを見せ、性関係までも復活したので、善紀は今度こそ彼女と結婚できると期待しました。

ところが、夫や両親が二人の仲を裂こうとしたとはいえ、雅子は結婚にはそっけない態度をとり続けます。

 

それだけではなく、一時期善紀のアパートに同居していた渡辺喜代光に、善紀と別れたいのにしつこく結婚を迫られて困っているから助けてほしいと相談をもちかけ、何度も会ううち二人は深い仲になってしまうのです。

 

自分のすぐ近くにいる渡辺のアパートに雅子が頻繁に入り込んでいると知った善紀は、1967年10月16日、善紀に代わって渡辺の兄が親方の娘婿として2代目社長になりそうな保谷市の工務店に辞表を出して別の工務店に転職、住まいも日野市に新婚世帯向けに建てられた一軒家を借りて四畳半一間のアパートから引っ越します。

 

新居の隣りに住む新婚夫婦から、新婚旅行のみやげとして「鯱もなか」をもらったのが10月26日のことで、善紀はその菓子箱を捨てずに置いていました。

 

若松善紀が日野市内に借りた一軒家

読売新聞(1968年11月10日)

 

広い新居に家財道具をしつらえることで雅子の心をつかむという彼なりの賭けに出たのでしょうが、引っ越しの前日まで荷造りの手伝いをしていた雅子の気持ちは、本心ではすでに冷めてしまっていました。

 

この期に及んでなお結婚についても渡辺との関係についてもあいまいな態度をとる雅子に業を煮やした善紀がつい言葉を荒らげたため、口論になって雅子は彼のアパートを飛び出し、その足で渡辺のアパートに行きました。

 

次の日、彼は2人の新婚住居となるはずだった家に、自分ひとりで引っ越します。

 

【横須賀線がなければいい!】

1968(昭和43)年の2月ごろを最後に雅子と会うこともなくなり、失恋の傷心を抱えたまま迎えた6月16日の日曜日、かなりの雨のため善紀は建築現場の仕事が休みでした。

 

「父の日」ということで、父親のいない自分の不遇さを思い起こすうちに、今日は渡辺も仕事が休みだろうから、仕事を終えた雅子がまた横須賀線に乗って彼のアパートに行くに違いないという考えが浮かぶと、ムシャクシャした気持ちをどうにも抑えることができませんでした。

 

そしてこれが、あることにこだわるとそれ以外の物事が見えなくなる視野狭窄に陥り、後先考えずに衝動的に行動してしまう彼の特性なのですが、「横須賀線がなければいいんだろう!」と、以前に作って家に置いていた爆発物で横須賀線を不通にしてやれと浅はかにも考えたのです。

 

正規に購入した無煙火薬と職場にいくらでもある三方継ぎ手で善紀が手製の爆発物を作ったのは、雅子と会えなくなった後の1968年4月初めごろ*だったようです。

 *横浜地裁の判決文では、すでに2月中旬ごろから時限爆破装置の試作を始めていたとされています

 

裁判では、すでにこの段階で善紀は爆発物を使って世間をあっと言わせ雅子へのうっぷんを晴らそうと計画していたとされましたが、そこまで用意周到に計画したのなら、届けを出して購入した猟銃用の火薬に職場で使用している部品、隣家からのもらい物の菓子箱に自分が購読している新聞紙など足のつきやすいものばかりを使ったのは、こだわりの強い彼にしては不用心にすぎます。

 

さらに、火薬の量を変えて彼は爆発物を4つ作りますが、うち3つを工事現場の近くの砂浜や建築中のマンションの中などで他の従業員に爆発させて見せたのも、それで犯罪を行おうと思っている者の行動にしてはあまりに不自然です。

 

加賀乙彦『ある若き死刑囚の生涯』(p.10、以下「加賀」と略記)には善紀の手記をもとに、「友人たちが喜んでくれるので、おのれの孤独を卒業させるよい機会だと、工具部品の三方継ぎ手に火薬を詰めて爆発させることができたときは前宣伝をして3回も花火大会をしてみんなに見物させた。故郷の山国では、花火の代わりに手製の爆弾を破裂させて喜ぶ風習があったので、それが別に危険な悪いことだとは思わなかった」と書かれています。

 

山形の尾花沢あたりにそのような風習があったのか確認することはできませんでしたが、「爆弾」を作った段階では職場の同僚を驚かせる花火程度の遊びとしてやったのだというのです。

 

火薬の量を変えて4つ(12g、15g、15g、35g)作ったものを、火薬量の少ないものから日を置き異なる場所・条件で爆発させ、3つ目(火薬15g)は先述したように建築中のマンションの4階で爆発させたため、床や天井のコンクリートが破損し、彼は上司からこっぴどく叱られました。

こうして使う機会を失った4つ目(火薬35g)の「爆弾」を善紀は家に持ち帰ったのです。

 

一番威力の大きなものを事件で使ったのが意識的なのかは分かりませんが、それまでの経験から3つ目の倍以上の量の火薬を詰めたものがどれほど破壊力があるか、善紀に想像できなかったはずはありません。

 

彼は裁判で、人を殺傷するつもりはまったくなかったと証言しており、確かに意図的な殺意はなかったとしても、網棚の上という乗客から至近距離での爆発で人的被害がまったくないというのは素人判断でもありえないでしょう。

横浜地裁が善紀に未必の殺意を認めたのは、当然のことだと思われます。

 

こうして善紀は、三方継ぎ手の爆発物に炊飯器に使っていたタイムスイッチや英会話の勉強用のテープレコーダーの電池ボックスなど家にある部品を組み合わせて時限爆弾を作り、3時間30分後に爆発するようセットして家を出ました。

東京駅まで家から1時間半ほどかかりますので、電車の発車後2時間ほどで爆発する設定です。

 

かつて雅子を何度も見送った東京駅13番線ホームに入構していた午後1時45分発普通電車の5号車の網棚に爆弾の入った包みを置いた善紀は、それから中央線で新宿に出、京王線で府中競馬場に行きました。

 

一方、爆弾を乗せた電車は午後2時59分に横須賀駅に到着、5分後の午後3時4分に東京駅に向けて発車しました。

本来なら横須賀駅で折り返す時、駅員が忘れ物などないか車内をチェックすることになっているのですが、停車時間が5分と短く、すぐに東京方面に向かう乗客が乗り込んできたので、ほとんどチェックはしなかったようです。

 

競馬場から帰った善紀が爆発で負傷者が出ていることを知ったのは午後7時のニュースで、翌17日の新聞朝刊で現場の惨状と1人が亡くなったことを知りました。

 

読売新聞(1968年6月17日)

 

【裁判と判決】

1968年11月9日に逮捕された後の若松善紀は、取り調べを受けた大船署で素直に犯行を供述し、取調官に促されて11日に次のような手記を書いています(佐木、p.201-202)

 

 

手記

私しママは横須賀線電車を爆破したのですが別に世の中にふまんが有ったのではありません。

社会に対して反感もありません。

只、電車の中で爆発をやって見たかっただけです。

現在の私しの気持ちは本当に申し訳ないと思っております。

どんなつぐないでもするから許して下さい。

  十一日

 

「電車の中で爆発をやって見たかっただけ」というのは事実でありませんが、「女性に振られたうっぷんを晴らすために」とは彼の「見栄」からも言えなかったのでしょう。

 

1968年12月25日から横浜地裁(野瀬高生裁判長)で開かれた公判で若松は、犯行については認めながら、乗客を殺傷する意図と爆破の計画性については否認しました。

 

1969年3月3日の論告求刑公判で検察側は、「個人的な動機から、このような事件を起こした行為は非人間性、反社会性の現われであり、長期かつ綿密に計画された残忍な許しがたい犯行」と断じ、「爆破魔に対する社会の恐怖と憎しみからして極刑が妥当」として死刑を求刑しました。

 

朝日新聞(1969年3月3日夕刊)

 

検察の論告に見られるように、草加次郎事件以来の多くの未解決爆破事件に対する「社会の恐怖と憎しみ」を若松は一身に背負わされることになり、3月20日の判決公判でも野瀬裁判長は検察の主張をほぼ全面的に認め、求刑どおり死刑を言い渡しました。

初公判からわずか3ヶ月というスピード審理でした。

 

読売新聞(1969年3月20日夕刊)

 

法廷で若松は、「申し訳ないことをしました。深くお詫びします」と頭を下げて謝罪しましたが、裁判長は、「未だ所謂草加次郎の犯行など未解決のものもあり、この種犯罪の持つ独自のスリルと猟奇性および犯人検挙の至難性のため、その模倣性は充分に考えられ、同種犯行の再発のおそれなしとは云えないのである。よってこの種犯行の量刑にあたっては、この点も十分考慮しなければならないところである」と模倣犯罪を予防するためという死刑宣告の意図を明らかにしています。

 

異例の撮影が認められた法廷での若松善紀

 

1969年12月4日、東京高裁(樋口勝裁判長)で初公判が始まった控訴審では、弁護側が一審から求めていた若松の精神鑑定が認められ、東京医科歯科大学犯罪心理学教室の中田修教授が鑑定にあたりました。

 

鑑定の結果は、若松には「狭義の精神障害」はないが、犯行時の精神状態は「情動の著しいうっ滞(たまりとどこおっている状態)と、その衝動的な解放による意識的視野の狭窄など、やや特異な心理状態にあったと考えられる」というものでした(佐木、p210)

 

「発達障害」という概念が日本に入ってきたのは1970年代で、この時にはそうした面からの言及はありませんが、鑑定書に言われる状態の原因として彼に発達障害があると現在なら指摘されるかもしれません。

 

いずれにしても、鑑定が若松の責任能力を否定するものでなかったことから、1970年8月11日の判決公判で控訴棄却の判決がくだされました。

 

読売新聞(1970年8月12日)

 

若松は、裁判は一連の爆破事件の重圧を自分に課して模倣犯を防止するためのみせしめに過ぎないという強い不信感から上告しない意向でしたが、支援者の説得もあって最高裁に上告します。

 

1971年4月22日、最高裁第一小法廷(藤林益三裁判長)は、上告趣意はいずれも上告適法の理由に当たらないとして上告を棄却し、若松善紀の死刑が確定しました。

 

読売新聞(1971年4月22日夕刊)

 

若松は、裁判が始まったころから誰かが差し入れた聖書を読んでキリスト教に関心を持ち、教誨師であった泉田精一牧師の導きで1973年2月27日に念願の洗礼を受けプロテスタント信者になりました。

 

また短歌を作り始めた若松は新聞や雑誌に投稿し、「純多摩良樹(すみたま・よしき)」というペンネームで本格的に作歌に取り組むようになります。

やがて彼の歌は、太田青丘氏が主宰する歌誌『潮音』にしばしば掲載され、その作品が高く評価される歌人となりました。

 

「運命(さだめ)とは不思議なりけり父の無き われ〈父の日〉に罪を犯せり」

「一瞬に人を殺(あや)めしわが罪を おもへばこの身凍る思ひす」

「わが希(ねが)ひ歌に託して読みゆかん 処刑さるる日近づきてゐむ」

 

1975(昭和50)年12月5日、死刑確定から4年半という早さ*で、若松善紀の死刑が東京拘置所において執行されました。

32歳でした。

 *秋葉原通り魔事件(2008)の加藤智大死刑囚の執行(2022)の際の記者会見で法務大臣が、2012年から2021年の10年間の確定から執行までの平均期間は約7年9ヶ月と述べています

 

遺志により遺骨は泉田牧師が引き取り、20年後に遺族の申し出で故郷に還りました。

また彼が生前望んでいた歌集が1996(平成8)年2月、『死に至る罪 純多摩良樹歌集』(短歌新聞社)として出版されています。

 

 

 

サムネイル

小川里菜の目

 

「一人の乗客が私の爆破で犠牲になった。幼い女の子のいる父親だった。父親を亡くすとは自分の過去に照らしても、まったく許せない大罪だと思う。私は自分の非を、殺人の大罪をおかしてしまった悪事を認めた」(加賀、p.21-22)と本人が言うまでもなく、彼が軽薄にも犯した罪の重さははかりしれません。

亡くなった広島勇さんのほかにも、左手を切断するほどの重傷を負った女性や、後遺症にその後も苦しめられた被害者がたくさんおられたのです。

 

そのことを大前提にしながらも、若松善紀という人間と事件に至る経緯を知ると、当初マスコミが流した「爆破狂」や「爆弾魔」という印象とは異なるものを彼に感じます。

 

向学心・向上心に富み、仕事にも勉強にも人一倍熱心に取り組みながら、人づき合いが不器用でこだわりが強く、感情がたかぶったり何か思い込むと周りが見えなくなって衝動的に行動してしまう——そんな男が偶然としか言いようのない人間関係に翻弄されたあげく、魔が差したように起こしてしまった大罪、そのように小川には思えるのです。

 

若松が、罪を犯した結果として獄中でキリスト教の信仰と短歌に出会い、もちまえの真面目さでそれらにのめり込むことで、彼は生まれて初めて自分自身と深く向き合う内省の時を得たのではなかったでしょうか。

 

宗教心がなく短歌の素養もない小川に、彼の信仰や作品について評価し論じるだけの能力はありません。

 

しかし、死刑囚となり「純多摩良樹」としていわば再生した若松善紀が、生きることの喜びや命の重みを日々感じつつ、自分の罪から目を背けることなく最期を迎えたことは間違いないと思います。

 

そのような人間を処刑することにどれだけの意味があるのかという根源的な疑問については、残された字数がなく機会をあらためることにいたします。

 

純多摩良樹(若松善紀)は、すべての歌を辞世のつもりで作っていると言って、あえて「辞世の歌」を残しませんでした。

最後に小川の心に残った一首をあげておきます。

死刑囚の独房で彼は文鳥を飼っていました。

 

「生きのこる文鳥のためあたたかき陽は少しづつ部屋にさしこむ」

 

 

〈参照〉

・事件を報じた朝日、読売、毎日の各紙記事

・佐木隆三『殺人百科 三』(徳間文庫、1984)

・加賀乙彦『ある若き死刑囚の生涯』(ちくまプライマリー新書、2019)

・加賀乙彦『死刑囚の記録』(中公新書、1980)

 

今回も最後までお読みくださり

ありがとうございましたおねがい

次回もよろしくお願いします飛び出すハート