修学旅行

上海列車事故

1988年

 

前回のブログでは、昭和の時代に起きた修学旅行中の事故について取り上げました。

 

そこでは国内での事故に限定しましたが、昭和の最後の年となった昭和63(1988)年に、中国の上海郊外で高知学芸高校の修学旅行生を乗せた列車が大事故を起こし、多くの生徒が死傷しました。

 

今回は、「【昭和の時代】修学旅行に行くのも命がけ」の補足として、この上海列車事故を取り上げます。

 

朝日新聞(1988年3月25日)

 

朝日新聞(1988年3月25日夕刊)

 

【事故の概要】

1988(昭和63)年3月24日午後2時19分ごろ(現地時間、日本時間だと午後3時19分ごろ)、上海と杭州を結ぶ滬杭(はこう)線のバイパスである外環線(単線)の匡巷(きょうこう)駅で、駅の待避線に待機して対向列車と行き違うはずだった蘇州発杭州行きの急行311列車が、待避線で停止せず本線に160メートル入ったところ、わずか20秒後に、対向してきた長沙発上海行きの急行208列車と正面衝突しました。

 

ちなみに、前回のブログで、この事故の32年前、日本の鉄道にATS(自動列車停止装置)がまだ装備されていない時に、同じ単線での行き違いミスで衝突事故が起きた参宮線での「六軒事故」を紹介しましたが、中国ではまだこの時点でもATSが装備されていませんでした。

 

この事故に巻き込まれて多数の死傷者を出した高知学芸高校の修学旅行団が乗車していたのが急行311列車でした。

 

(西岡省二氏作成)

 

急行311列車は、滬杭線の運行が過密になったために造られた外環線に入るために、上海に近い真如(しんにょ)駅でスイッチバック(反転)する必要があり、機関車を末尾の客車の前に付け替え、車列の前後が反対になる形で外環線に入りました。

 

そのために、それまでは最後尾の3両(1号車〜3号車)だった修学旅行生の客車が、反転により先頭になりました(3号車〜1号車の順番)。

そして、下図のように2号車で乗客の死者のすべてが出たのです。

 

(西岡省二氏作成)

 

正面衝突で対向の208列車は脱線転覆(機関士は死亡)し、311列車は下の写真のように先頭客車の3号車が乗り上げる形で2号車を押しつぶし(2号車の左側面だけはまだ原形をとどめています)、また311列車の後続客車のブレーキ制動が遅れたことから、2号車には後ろからの衝撃も加わって、最も大きな被害が出たようです。

 

(「上海列車事故の備忘録」より)

※元の説明では、前方で乗り上げた形の車両は

208号列車機関車」と書かれていますが、

同列車に連結の郵便貨車(下写真)です

 

 

この事故で旅客28人と乗員(208機関士)の計29人が亡くなりましたが、亡くなった旅客のすべては、日本からの修学旅行生と引率教員でした(うち生徒の1人は、重体で帰国後に死亡)。

 

事故の原因については、311列車の機関士が待避線で停止すべき匡巷駅で信号を見落とし、本線に進入した過失だとされました。

しかし機関士は、ブレーキが効かなかったと主張し争いましたが認められず、周子牛機関士(当時45歳)と張国隆機関助手(同33歳)に「交通事故惹起罪」で懲役6年半と懲役3年の判決が言い渡されています。

ちなみに、311列車の機関士たちは衝突直前に機関車から飛び降りて無事でした。

 

この裁判は、長引いて日中友好ムードに水をさすことを中国当局が恐れたのと、機関士の過失とすることで上層部に責任が波及することを食い止めたいという政治的思惑が働いたようで、機関士が主張したブレーキの故障あるいはスイッチバック時の接続ミスの可能性は十分に検証されないまま、公判開始から判決までわずか1日でスピード結審しました。

 

上海鉄路運輸中級法院で裁判を受ける

機関士(左)と機関助手(右)

(西岡省二「上海列車事故35年」より)

 

また、事故の直接原因ではありませんが、311列車が本線に進入した直後に衝突事故が起きたのは、208列車が手前の駅を予定より2分早く出発した過失のあったことが、後になって明らかにされています。

 

【高知学芸高校生の受難とその後】

高橋真優「修学旅行の歴史と変遷」によると、海外に修学旅行先を求める動きは1980年代に入ってからだそうですが、文部省(当時)の調査によると、1986(昭和61)年度に海外修学旅行を実施した高校が134校(28940人)だったのに対し、1988(昭和63)年度には204校(50728人)と急増しています(原著の誤記を小川が訂正)。

 

1988年には、公立高校としては初めて埼玉県浦和市立高校が中国に修学旅行に行っていますが、私立の高知学芸高校もこれが最初の中国への修学旅行でした。

 

高知学芸高等学校は、県内屈指の進学校として知られる高校です。

その1年生179人と引率教員9人(男性教諭8人と女性教諭1人)、医師、カメラマンそして旅行を手配した日本交通公社(現在のJTB)の添乗員3人の計193人が同校の中国修学旅行団でした。

 

一行は、1988(昭和63)年3月21日午後に高知港から大阪南港に向けてフェリーで出発、翌22日の朝に到着するとすぐに大阪国際空港から上海虹橋国際空港に飛んで中国入国、そのまま上海駅から京滬線を急行で蘇州まで行って宿泊、23日は蘇州観光をして、24日の昼すぎに蘇州駅から杭州に向けて急行311列車に乗り事故にあったのです。

 

蘇州観光で撮られたものでしょうか

ここに写っている生徒の多くが

事故の犠牲となりました

(遺族提供の写真)

 

最もひどく損壊し、死者のすべてが集中した2号車には、1年D組の全員とA組の一部の約60人が乗っており、亡くなった生徒27人のうち21人までがD組の生徒(女子生徒10人は全員がこのクラス)でした。

 

大阪新聞(1988年3月26日)

 

1年D組の集合写真

 

衝突後、犠牲者の救助活動は、駆けつけた救助隊員や鉄道関係者、それに近隣の農民たちも加わって懸命に行われましたが、2号車の損壊があまりにひどいために思うように進まず、生存者の救出と遺体の収容が終わったのは、翌日になってのことでした。

 

3号車に押しつぶされた

2号車の捜索活動

 

 

救出され運び出される女子生徒

 

また、生存者と犠牲者の数や氏名の確認もなかなか進まず、死亡と公表された生徒が違っていたなど、現場は混乱を極めました。

 

結局、この事故で亡くなった修学旅行団関係者は、生徒27人(うち10人が女子生徒、重体だった男子生徒1人が帰国後に死亡)、引率教員1人、中国人ガイド1人の計29人となりました。

また、負傷者は7日以上の入院者が24人、その他12人の計36人です(38人という記述もある)。

 

亡くなった生徒のうち3人(うち女子生徒1人)は、遺体の損傷が激しいために、家族が駆けつけるのを待って現地で荼毘に付されました。

 

病院で仮安置された遺体

 

朝日新聞(1988年3月26日夕刊)

 

事故現場を訪れた中田恵子さんのご両親

(毎日新聞、1988年3月撮影)

 

高知空港に帰ってきた

わが子を抱きしめる母

(週刊朝日、1988年4月8日号)

 

学校では、合同慰霊式が行われ、クラスでも亡き級友を悼んで遺影と花が友人たちの手でそれぞれの机に供えられました。

 

 

いずれも「毎日新聞」


その後、1990(平成2)年に、高知学芸高校の正門脇に「永遠の碑」という慰霊碑が建立され、事故から35年になる2023年3月24日にも慰霊式が行われています。

 

「永遠の碑」

2017年に西岡省二氏撮影(毎日新聞)

 

 

 

サムネイル

小川里菜の目

 

この事故の責任が中国側にあることは明らかで、中国当局もそれは全面的に認めています。

 

それでは、修学旅行を実施した学校側には事後対応を含め何の責任もないのでしょうか…ショボーン

 

学校に設置された「上海列車事故慰霊碑」(永遠の碑)には、事故で亡くなった川添哲夫教諭と生徒の名前がプレートに刻まれていますが、生徒の名前は24人しかありません。

下の写真を見ていただくと、不自然に空いた行間とそこに名前を削りとった跡が3箇所あるのに気がつかれると思います。

 

それは、3人の生徒の遺族が、この事故での学校の責任回避の姿勢が納得できないと、今も子どもの名前の掲載と慰霊式への参列を拒否しているからです。

 

 

学校、特に当時の佐野正太郎校長の、遺族には不誠実と映る事故後の言動や、早々に「学校には事故の法的責任はない」との通知を遺族に送付したこと、修学旅行の下見と称して校長夫婦が修学旅行の行き先にはない北京の名所や万里の長城などを、しかも当該学年の教員には何の相談もなく観光して帰ったこと(事故後に明らかにされた)、さらには学校の事故報告書が21年もたった2009(平成21)年になってようやく出されたものの、そこでは学校の責任について一切触れていないことが、一部遺族の学校への不信感と批判を生んだのです。

 

中国との補償交渉の顛末についてはここでは省略しますが、6遺族(6人の生徒の両親)はそれとは別に学校の責任を明らかにしたいとして、学校を相手どって損害賠償請求の民事訴訟を1989(平成元)年に高知地裁に起こしました(当初は8遺族が訴訟の意向だったとも言われます)。

ただ、裁判を継続することの負担は相当なもので、原告のうち1遺族は途中で訴えを取り下げ、2遺族は学校と和解したため、判決には3遺族が臨みました。

 

提訴から5年が経った1994(平成6)年の判決公判で、高知地裁の溝淵勝裁判長は、原告の請求を棄却する判決を下し、原告が控訴しなかったために確定します。

つまり、この事故は、学校としてやるべき法的義務を果たしたとしても回避困難であり、損害賠償の前提となる学校と事故との因果関係が存在しないというのが原告敗訴の理由でした。

 

毎日新聞(1994年10月18日)

 

しかし同時に裁判長は、学校の対応について次のように厳しく指摘をしています。

 

「被告らには、本件修学旅行の準備に際し、学芸高校として初めての海外への修学旅行であるにもかかわらず、事前の下見も極めて不十分であるなど、学校として必要とされる事前調査を怠ったものであることが認められ、その他にもより適切な対応が可能であったと思われる部分がある。(中略)

被告らは教育機関として、法的賠償責任の有無とは関係なく、学校行事において前途有為な27名という多数の生徒が死亡したことについて、真摯に、学校としての問題点を検討・改善するとともに、生徒・遺族に対して、十分な誠意をもって対応すべきであったのに、学校の事前調査の問題点を取り繕うことに意を注ぐ余り、遺族の心情を十分に顧慮することがなかったことが窺われる。

本件訴訟に至った原告ら遺族の心情は、優秀校といわれる学芸高校に強い期待を抱いていたことの裏返しともいうべきものであって、校長その他の教職員及び理事会を含めた学校側の対応が原告らの期待とは掛け離れたものであり、その教育者としての責任を追及する適切な手段が他に無かったが故に、なお損害賠償責任の追及という形式で争わざるを得なかったことは十分理解できるところである。」

 

これを読むと、法の形式論で原告は敗訴しましたが、訴えの内容については裁判所も原告の主張に根拠があることを認めた実質的に原告勝訴とも言えるものであったように思います。

 

それにもかかわらず、判決から15年も経って出された学校の報告書は、裁判所の指摘をまったく無視した内容でした。

また、2014(平成26)年に就任した橋本和紀・現校長は、事故から30年が経つ2018(平成30)年の慰霊式で、事故報告書の改訂について質問した記者に、報告書には「大きな間違いはないものと考えている」として、あくまでも改訂には応じない姿勢を改めて示しています。

 

慰霊碑に子どもの名前を刻むことを拒否するのが適切かどうかという議論はあると思いますが、裁判所の指摘を真摯に受け止めて報告書を改訂し、学校としての責任を明らかにすべきだと求める遺族の声は、このような事故を2度と起こさないためにも、十分理解できるものだと小川は思いました。

 

高知学芸高校には、「永遠の碑」のほか、以前は生徒会室だった部屋を「メモリアルルーム」として、亡くなった生徒の写真や事故当時の資料が保存・展示されており、毎年命日(事故の日)にはかつての同級生が集い、展示物を清掃しながら亡き友を偲ぶ場所にもなっているそうです。

 

また、2017(平成29)年10月には、事故に遭った同級生有志が同校グラウンドの片隅に、しだれ桜の若木を植えました。

 

「事故当時からの対応などを巡って学校に不信感を抱く遺族もおり、校内の慰霊碑には生徒3人の名前が刻まれていない。「みんなを思い出せる場所が必要。それが最大の供養になる」。友人らと話し合い、誰もが集まれる場所を作った。」と、事故当時先頭の3号車に乗っていた藤川聡詩さん(51歳)は植樹の思いを語っています(読売新聞オンライン、2023年3月24日)。

 

有志で植樹したしだれ桜と藤川さん

 

参照資料

・関連する新聞記事

・「上海列車事故の備忘録」

・西岡省二「「習近平中国」と向き合うための教訓……上海列車事故35年(下)」Yahoo!ニュース、2023年3月25日

・民事訴訟 高知地裁判決文

 

前回のブログで、昭和の時代に起きた修学旅行中の事故について取り上げています

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今回も最後までお読みくださり

ありがとうございましたおねがい