【昭和の時代】

修学旅行に行くのも

命がけだった

 

コロナ禍で修学旅行が取りやめになったり、最近では修学旅行自体をやめる学校も出てきているようですが、修学旅行は、卒業したのちも折に触れて思い出すことの多い学校行事ではないでしょうかにっこり

 

日本における修学旅行の歴史は明治時代にまでさかのぼりますが、第二次大戦後は1950年代以降になってようやく再開されたそうです。

 

しかし、まだ各種インフラの整備が不十分だった昭和の時代には、修学旅行中の事故で命をおとす子どもたちがたくさんいました!

 

最近の修学旅行での大惨事といえば、2014(平成26)年4月16日に、韓国で起きたセウォル号沈没事故が記憶に新しいと思います。

 

総トン数6825トンの大型客船「セウォル(世越)号」は、乗員乗客合わせて476人を乗せ、4月15日の夜に仁川港から済州島に向けて出航しましたが、そこには修学旅行に行く韓国の高校2年生325人と引率教員4人も乗船していました。

 

ところが出航から一夜明けた16日の朝9時前、突然船が傾き始め、約1時間半後には沈没してしまったのです。

 

傾いたセウォル号

 

沈没までに避難する時間的余裕はあったはずですが、乗員が適切な避難誘導をせず、高校生たちに船室で救助を待つようにとだけ伝え、また救助の遅れや不手際もあって、沈没に巻き込まれた325人の生徒のうち248人が死亡、2人が行方不明(全体では476人中、死者・行方不明者304人)という、韓国海難史上最悪の大惨事になりました。

 

特に犠牲者の大半が高校生の若者たちだったことから、この事故は韓国社会に大きな衝撃と、救助もせずに真っ先に逃げた船長など事故の責任者への激しい怒りを呼び起こしました。

 

完全に転覆したセウォル号

 
セウォル号の事故は今回のメインテーマではありませんので、原因や責任問題その他の詳細は省くことにします。
 
ただ、このようなことが自分の国で起きるとは考えられないと思った日本人が多かったでしょうが、昭和の時代には修学旅行中に生徒が多数犠牲になる事故が多発していたのです。
それらについて、当時の新聞記事とともに見ていくことにしましょう⇩
 
①「修学旅行の35名死傷 栃木県 バス、東武と衝突」(1953年)
 
朝日新聞(1953年5月21日夕刊)
 
戦後、修学旅行が再開されて間もないころに起きた事故だと思われます。
 
1953(昭和28)年5月21日の早朝、東京に行く予定の栃木県安蘇郡(今はその大半が佐野市)葛生町(くずうまち)の中学1年生54人と引率教員1名を乗せた修学旅行バスが、町内の踏切で東武鉄道の準急電車と衝突、バスは5メートルのがけ下に転落して大破しました。
 

転落・大破したバス

 
この事故で、巻き込まれた通行人2人を含め、死者1人、重傷者11人、軽傷者23人が出ました。
 
電車には被害がなかったようですが、当時はバスが3台連なって走っており、舞い上がる道路のホコリで視界が悪くなったため、バスが一時停止をせずに踏切内に入ったことが原因と見られています。
 
田舎道とはいえ、バスの通るような道がホコリを巻き上げるほどの荒れた未舗装道路で、しかも踏切に警報器や遮断機がついていなかったようなのが、時代を感じさせます。
 
②「紫雲丸(宇高連絡船)沈没 修学旅行団も遭難」(1955年)
韓国セウォル号の事故の時に、60年近く前に日本で起きたこの事故を思い出された方もあったのではないでしょうか。
 
1988(昭和63)年に本州四国連絡橋が全線開通するまでは、岡山県の宇野駅と香川県の高松駅を結ぶ国鉄(現在のJR)の宇高(うこう)連絡船は、本州四国間の幹線交通路でした。
その連絡船同士が衝突し、修学旅行中の生徒多数を乗せた紫雲丸が沈没したのです。
 
紫雲丸
 
朝日新聞(1955年5月11日夕刊)
 
四国新聞(1955年5月12日)
 
1955(昭和30)年5月11日の午前6時40分、乗客730人と乗員66人の計796人を乗せた宇高連絡船「紫雲丸」(1480総トン)が、高松港を出航してまもなくの午前6時55分、高松港の北約4キロの女木島(めぎじま)西方で、宇野港から高松港に向かっていた貨車運送船「第三宇高丸」(1282総トン)と濃霧の中で衝突し、わずか4〜5分で紫雲丸は左舷側に傾いて沈没しました。
 
 
 
紫雲丸には、下の表にあるように、修学旅行中だった高知・広島・愛媛・島根の小中学校4校の生徒たち計349人(他に教員・保護者25人)が乗っており、そのうち生徒100人、教員・保護者8人が犠牲になりました。
 
犠牲になった生徒100人のうち81人が女子生徒で、原因はよく分かっていませんが、男子生徒が甲板にいたのに対して、女子生徒の多くが船室にとどまっていたためと見られています。
また、せっかく甲板にいながら、修学旅行のお土産を衝突後に船室に取りに戻って犠牲になった子どももいたようです。
 
また教員の中には、救助された後に生徒を助けに船に戻って亡くなった方もいました。
 
 
高知市立南海中学校HPより
 
傾いた紫雲丸の右舷側から
脱出する乗客たち
 
助けを求める乗客
 
11日は朝から、高松海洋気象台が濃霧注意報を出していました。
しかし、両船とも港での視界は比較的良好だったので、念のためにレーダーなど当時最新の機器も使いながら予定どおり出港しました。
 
事故が起きた時間には、濃霧で視界が50メートル以下にまで低下していましたが、レーダーで両船はお互いの存在を確認していました。ただ、無線での直接連絡は、うまくできなかったようです。
 
衝突までの両船の動きについては、愛媛県立庄内小学校の卒業生で事故の生存者の方たちが作成された「紫雲丸いでたちしまま」というサイトにある下図にわかりやすくまとめられています。
 
赤線の強調は小川
 
図にあるように、紫雲丸が第3宇高丸の前方で左に舵を切ったため、紫雲丸の右舷やや後方に第3宇高丸の船首が斜めに突き刺さるようにぶつかったようです。
 
衝突直前の想像図(手前が第3宇高丸)
 
この紫雲丸の左旋回(左転)の理由については、次のように考えられています。
 
大型船同士がすれ違う時には、衝突回避のために左舷通行(互いの左舷側を通行する、言い換えれば右側通行)というルールがあるのですが、この航路では、高松港に船首から接岸する構造の第3宇高丸は、女木島付近で船長判断により左に船を振る形で高松港に向かうことがあったらしく(その場合は下図のように、互いの右舷側を通行することになる)、そのため第3宇高丸がこの時もそう動くと思い込んだ紫雲丸の船長が、相手の進路を空けるため左に舵を切ったと考えられているのです。
 
 
 
紫雲丸の中村船長が衝突直前に「あらおかしい」と言ったのは、左に舵を切ると思っていた第3宇高丸がそのまま直進してきたためと思われます。
 
第3宇高丸は、衝突後しばらく紫雲丸とつながった形だったので、第3宇高丸に乗り移って避難した乗客もあったようです。
ただ、衝突から沈没まで5分ほどしかなかったため紫雲丸は救命ボートを下ろすことができず、上にあげた写真のように、横倒しになって沈む紫雲丸から海に投げ出される乗客が多数ありました。
 
横転した紫雲丸の右舷外板上で
助けを求める乗客
 
海に入った乗客たちは、第3宇高丸や付近にいた漁船、駆けつけた海上保安庁の巡視船などに次々と助け上げられましたが、救助される前に溺れ死んだ人たちもありました。
 
上の写真にも、救命胴衣をつけた人とそうでない人が写っていますが、子どもたちは救命胴衣の入った収納庫にまで手が届かず、また配られても使い方を知らないために、泳げない子どもが犠牲になりました。
 
海中から引き上げられるこの子は
助かったのでしょうか……
 
また、衝突と同時に紫雲丸の電源が落ちて船内放送が使えなくなったこともあり、船室にいた女子生徒の多くがすぐに逃げ出せず亡くなったことは先に述べたとおりです。
 
なお、紫雲丸の中村正雄船長は、退船を拒んで沈む船と運命を共にしています。
 
この事故について高等海難審判庁は、1960(昭和35)年8月29日、「本件衝突は、紫雲丸船長及び第三宇高丸船長の運航に関する各職務上の過失によって発生したものである」との裁決を言い渡しました。
 
紫雲丸遭難者慰霊碑
(高松市西方寺)
 
なお、この紫雲丸事故を受けて修学旅行に対する不安が保護者に広がり、急きょ日程を変更し修学旅行を切り上げた学校が続出したと新聞は報じています。
 
朝日新聞(1955年5月13日)
 
③「修学旅行にまた犠牲者 岩手県北上でバス転落 児童ら死者12人」(1955年)
紫雲丸事故からわずか3日後、岩手県で修学旅行から帰る途中の小学生らを乗せたバスが河原に転落するという事故がありました。
 
朝日新聞(1955年5月15日)
 
1955(昭和30)年5月14日の夜7時半ごろ、岩手県稗貫郡(ひえぬきぐん)石鳥谷町(いしどりやちょう、現在の花巻市)の八日市小学校の6年生34人と引率教員3人、付き添いの保護者12人(うち子ども1人)の計49人を乗せたバスが、北上市飯豊(いいとよ)町の飯豊橋(当時は木製橋)で、対面からふらふらと来る荷を積んだ自転車を避けようとハンドルを切りすぎ、腐食していた橋の欄干を突き破って7メートル下の大堰川(おおせきがわ)河川敷に転落しました。
 
この事故で、生徒4人と保護者8人の計12人が死亡、30人が重軽傷を負いました。
 
事故の直接の原因は、24歳の運転手の運転ミスですが、修学旅行の日程自体が過密で、運転手が帰りを急いでいたこともミスを誘発したのではないかと指摘されました。
 
バスに付き添いの保護者が多数乗っていたのを不思議に思った方もあるでしょうが、今と違って泊まりがけでの旅行がまだ気軽にできなかった時代、生徒の家族が修学旅行に同行することは珍しくなかったそうです。
それだけに、1泊2日の日程に見学先を目一杯盛り込もうとしたのでしょう。
 
事故後、犠牲者を悼む慰霊碑が河川敷に作られましたが、今は新しく架け替えられた橋の脇に移転されているそうです。
 
北上バス転落事故の慰霊碑
 
なお上の新聞紙面には、「船旅の中止続出」という紫雲丸事故の続報も見られます。
 
④東田子の浦列車衝突事故(1955年)
 
朝日新聞(1955年5月17日夕刊)
 
紫雲丸事故からまだ1週間も経たない1955(昭和30)年5月17日の深夜2時19分、東海道本線の東田子の浦駅と原駅の間にある植田踏切で、京都発東京行きの修学旅行列車が、立ち往生していた在日米軍のトレーラーと衝突、120メートルほど走行して止まりましたが、トレーラーの荷台に積まれていた塗料から火が出て、機関車と客車4両が全焼、1両が半焼する事故が起きました。
 
この修学旅行列車は11両編成で、837人の生徒らが乗っていましたが、2人が重傷、31人が軽傷を負ったものの、乗員らが燃える後部車両を切り離して延焼を防ぎ、また適切な避難誘導もあって、奇跡的に死者は出ませんでした。
 
この事故は、地理不案内なトレーラーの運転手(米兵)が、道を誤って植田踏切に入り込み、動けなくなったのが原因でした。
 
なお、修学旅行生の巻き込まれる事故が相次いだことから、修学旅行を中止する動きがさらに広がり、危機感を抱いた関係官庁や学校、また受け入れ先の観光地などで、「安全な修学旅行」実施に向けた対策や取り組みが進められることになりました。
 
 
朝日新聞(1955年5月18日夕刊)
 
ところがその翌年、また修学旅行生が犠牲になる鉄道事故が起こるのです。
 
⑤六軒事故「坂戸高生 修学旅行で遭難」(1956年)
 
朝日新聞(1956年10月16日号外)
 
読売新聞(1956年10月16日)
 
1956(昭和31)年10月15日の午後6時20分ごろ、三重県一志郡三雲町(現・松坂市)の国鉄(現在のJR)参宮線三雲駅で、どちらも重連(2台連結)の蒸気機関車に引かれた快速列車同士が衝突する事故が起きました。
 
まず、全線単線の参宮線では、この上り下りの列車は本来は松坂駅で行き違うはずでしたが、下りの快速列車が遅れていたため、臨時に六軒駅で行き違うことになったのです。
しかし、列車無線がまだない当時、変更を知らない下り列車の運転士は、六軒駅の信号を見間違って通常通り駅に進入・通過しようとしました。
 
六軒駅ホーム先端の信号でようやく停止すべきだったと気づいた運転士は急ブレーキをかけますが間に合わず、列車は安全側線(衝突防止のために本線から別の線路に列車を進入させる短い側線)に入りますが、2台の機関車は車止めを突破し脱線、田んぼに転落、引いていた客車も脱線して本線上にはみ出る形で停止しました。
 
安全側線の模型
 
その約20秒後に走行してきた上りの快速列車が、下りの客車に衝突する大事故になったのです。
 
上にあげた読売新聞は、「機関車が車止めを突破して田んぼの中に頭から突っ込んだ上に〔客車が〕突きささるようにして激突した瞬間バラバラとなって脱線、転覆したところへさらに上り列車が衝突、乗上げその下敷となる二重事故」と生なましく報じています(〔 〕内は小川の補足)。
 
また、転覆した蒸気機関車から高熱の蒸気が噴き出したため、それで火傷を負った人も多くありました。
 
(Wikipediaより)
 
この下り列車には、修学旅行中だった埼玉県の東京教育大学附属(現在は筑波大学附属)坂戸高校の生徒57人と引率教員3人が乗っていました。
坂戸高校の生徒たちは1両目の客車に乗っていたため、生徒26人と教員1人と多くの犠牲者を出すことになりました。
 
なおこの列車には茨城県の土浦第一女子高校生も修学旅行で乗車しており、後続の客車だったために幸い死者は出ませんでしたが、5人の生徒が負傷しています。
 
この事故では、坂戸高校関係者27人に加え一般乗客11人と国鉄職員4人の合わせて42人が犠牲になっています。
 
その後、事故現場近くには「参宮線列車事故遭難者慰霊碑」が建立されました。
 
 
また、和歌山県の橋本運動公園には、上りの快速列車を牽引していた蒸気機関車「C57110」(事故後に補修され再使用されていた)が保存・展示されています。
 
 
⑥「十国峠で観光バス転落 47人が重軽傷 広島の高校修学旅行団」(1957年)
 
朝日新聞(1957年10月23日夕刊)
 
六軒事故から約1年後の1957(昭和32)年10月23日午前9時40分ごろ、熱海・箱根間にある十国峠の伊豆箱根鉄道の専用道路で、広島県三次(みよし)市の高校2年生53人と引率教員1人、乗員2人を乗せたバスが、45度の勾配を50メートル下に転がり落ち、乗員を含む47人が重軽傷を負いました。
 
朝日新聞(1957年10月23日夕刊)

 

事故にあった広島県塩町高校(現在の県立三次青陵高校)2年生141人の修学旅行団は、教員6人に引率され22日午後に広島を出発して23日早朝に熱海着、3台のバスに分乗し4泊5日の日程で箱根・江ノ島・東京・日光を訪れる予定でした。

 

事故原因については、バスの故障か運転手の居眠りではないかとこの記事では書かれていますが、続報やネットでの情報がないために不明です。

 

 

サムネイル
 

小川里菜の目

 

今回は、「修学旅行」「事故」というキーワードで新聞記事を検索した結果上がってきた大きな事故を6件取り上げました。

 

実はこれだけでなく、昭和最後の年となった1988(昭和63)年3月24日に、中国の上海郊外で起きた列車事故で、高知学芸高校の修学旅行生26人と引率教員1人が亡くなるという大惨事がありましたが、今回は国内での事故に限定しました。

 

大きな事故が起き大勢の犠牲者が出てはじめて、再発の防止と安全への取り組みが進むということは、これまで取り上げた火災事故でも繰り返されたことです。

 

なぜ事故が起きる前に防ぐ対策が取れなかったのかという思いがつのりますが、知恵の大半が「後知恵」である人間には避け難いところがあるのかもしれません。

 

強く責められるべきは、そうした教訓がありながらなお問題を放置したり、あるいは「営利は倫理を駆逐する」とばかりにカネもうけ優先で、人命にかかわる危険性を無視・軽視することでしょう。

 

今回取り上げた事故が1950年代後半(昭和30年代)に集中していたのは、インフラの整備がまだできていないという時代的制約が大きかったように思われます。

 

したがって道路や橋が改良され、列車事故についてもその後に導入が進められたATS(自動列車停止装置)などの安全設備によって、同様の事故が起きる可能性は今日では格段に低くなっているでしょう。

 

それでは事故の教訓は、ソフト面での改善にどのように活かされてきたのか、紫雲丸事故の場合で見てみようと思います。

 

1955年の紫雲丸沈没事故では泳げない子どもがたくさん亡くなったことから、それを教訓にして「命を守る水泳学習」が学校でおこなわれるようになりました。

そのおかげで日本の子どもの多くは、小学校の体育の授業を通して最低限水に浮きバタ足で進むなどの基本が身についていると思います。

 

ちなみに、2021年では小学校の87%、中学校の67%に屋外プールがあり、小学校の場合だと6月から9月にかけて1回2時間(2コマ)で4〜5回、年間で計10時間程度の水泳授業を実施しているそうです。

 

こうして紫雲丸事故により「命を守る」という目的で行われるようになった水泳学習ですが、一方では昔からある「水練」(泳ぐ技術の習得や心身の鍛錬・修養)を目的とした伝統的な水泳学習もあり、この両面が合わさる形で学校での水泳授業は行われてきたようです。

 

日本の学校でプールが急速に普及したのは、1964年の東京オリンピックをにらんだ1961年のスポーツ振興法により、学校でのプール建設に補助金が出されるようになってからです。

それもあって、スポーツ(競泳)としての水泳の基礎を教えるという傾向が、水難事故に備えて命を守るための実用的な知識・技術を習得させるよりも(両者は必ずしも相反するものではありませんが)、1960年代以降になると強まってきます。

 

近年では、「命を守る水泳学習」の視点に戻って、着衣で水に入るなどの体験を取り入れたりもしているようですが、その一方では老朽化するプールが維持できずに廃止したり(設置率が2018年の小学校94%が2021年では87%、中学校の同73%が67%とかなり急速に減少しています)、水泳学習の意義や成果がよくわからないとして取りやめる学校も出てきているそうです。

 

紫雲丸事故の教訓が生んだ水泳学習をこれからどうしていくのか、なし崩しの成り行き任せではなく、「命を守る水泳学習」を安全に生きるために必要な術の一つとしてすべての生徒に保障するなら、内容を再検討し必要な資金も投入した上できちんとおこなう、習いたい子どもだけ民間の水泳教室で学べば良いものと考えるならそうすると、私たち国民自身が決めなければいけないと小川は考えます。

 

最後に補足として、では韓国ではセウォル号沈没事故の教訓はどう活かされているのでしょう。

 

事故にあった多くの高校生が泳げずに溺死したことは、韓国でも大きな衝撃と悲しみをもって受け止められました。

 

韓国ではそもそも学校に体育という授業科目がなく、当然水泳の授業もありませんでした。

ですから、高額なスイミングスクールに通える富裕層の子どもは別として、子どもも大人も泳げない方がむしろ韓国では当たり前だったそうです。

 

しかし、2014年のセウォル号沈没事故の反省から、韓国の小学校でも「水上安全教育」(「生存水泳教育」と訳している人もあります)が義務化されました。

 

内容としては、標準的には小学3・4年生で1回2時間×2回、年間計4時間実施されているようで、そうであれば日本の半分以下の時間です。

内容としては「水上安全教育」という名のとおり水難事故にあった時にどうするか、救命胴衣の着用法や空のペットボトルを浮きがわりに持って浮くといった実用的な体験学習に特化したもので、平泳やクロールといった泳法の学習はしていないようです。

 

ただ、プールのあるのは小学校全体の約1.3%でしかないため、民間の水泳教室のプールを利用者の少ない午前中に借り切って生徒をバスで連れて行くケースが多いらしく、それも学習時間の制約要因になっているでしょう。

 

この「水泳安全教育」については、学習時間が少ないこともあって3〜4割の子どもは体だけの(ペットボトルなどを持たない)状態では浮くことができないまま終わったり、他の学習も中途半端なものになっているという批判が韓国内でも出ているようです。

 

 

こうした過去の事故を折に触れて振り返り、今日的な視点から活かせる教訓がないかを考えることは、犠牲になった人たちのことを忘れない心とともに、人間の知恵を蓄積し継承する意味で必要なことではないかと思う小川です。

 

お読みくださり、ありがとうございましたニコニコ飛び出すハート