今回もリクエスト企画ですニコニコ飛び出すハート

三崎事件  親子3人殺害

1971年

 ただ 一人生き残った 
息子の証言が決め手に  
 

朝日新聞(1971年12月22日)

 

事件現場の現在

二階建てだった本店兼住宅は取り壊され

北角に平屋の事務所だけが建っている

 

 

【事件の概要】

1971(昭和56)年12月21日午後11時30分ごろ、「マグロの町」として知られる神奈川県三浦市三崎で船舶食糧販売業「岸本商店」を営む岸本繁さん(当時53歳)の本店兼自宅の1階事務室で繁さん、1階浴室で入浴中だった妻の喜代子さん(同49歳)、そして2階への階段の上部付近で次女の昌子さん(同17歳、高校2年生)の家族3人が、訪ねて来ていた知人と見られる中年男性に刃物で刺され、夫婦は即死、次女は重傷を負いながらも助けを求めて外に逃げましたが、救急搬送先の三浦市立病院で22日午前0時17分に亡くなりました。

 

 

当時家にいた家族4人の中では、次男の昌孝君(同14歳、中学2年生)だけが2階から飛び降りて逃げたため、助かりました。

 

昌孝君の証言によると、22日の午後11時5分ごろ、商店西側の勝手口の施錠していないシャッターと内側のガラス戸を開けて男が入ってきました。

1階事務室のソファーで新聞を読みながら父親の帰りを待っていた昌孝君は男に、「どちらさんですか。何のご用ですか」と聞いたのですが答えないまま男が「ソファーに座れ」と言うので一緒に座り、約7分ほど話をしたそうです。

 

男が、「お父さん、お母さんは元気か」「お父さんはどこに行った」「8歳のときに会ったのが最後だったが、ずい分大きくなったな」などと話かけてくるので昌孝君はそれに応じていました。

10分か15分して父親の繁さんが、長男に任せている岸本商店原町店から帰宅し、事務室に入ってきて男を見ると、「めずらしい人が来たな」と言ったそうです。

 

昌孝君は、男と父親が話を始めたので2階に上がり、寝床につきました。

 

ところが、それから10分ほどして階下で大きな物音と母親の「キャー、助けて」という叫び声がしたので、姉弟が階段の降り口に出て下を見ると、先ほどの男が血のついた刃物を持って下の廊下に立っており、二人が「人殺し」と叫ぶとものすごい勢いで階段を昇って来たそうです。

 

昌子さんは階段の上から2段目付近で男に刺されながら階下から外へと逃げました。

一方、昌孝君は男が追ってきたので北側の自室の窓から道路に飛び降り、路上にいた姉と一緒に家の向かいにある食堂「かねしろ」(上の航空写真の「食堂の跡地?」は小川の推測ですが、この辺りにあったと思われます)に駆け込んで助けを求めました。

 

読売新聞(1971年12月22日夕刊)

 

昌子さんは「かねしろ」の座敷に倒れ込みましたが、昌孝君が食堂にいた人と一緒に外に出ると、岸本商店の勝手口の近く(現在の全日本海員組合三崎支部付近)に駐車していた乗用車(コロナマークⅡ)の側に立っていた男が、「(犯人は)あっちだ、あっちだ」と大通り(横須賀三崎線)の方を指さし、自分は車に乗り込んで走り去ったのです。

 

この男は、同日の午後8時から9時ごろまで「かねしろ」で酒を飲んで焼肉を食べており、また事件後に騒ぎを聞いて外に出て男を目撃した近所の別の食堂の女将が、この男を知っていました。

 

こうした目撃証言をもとにその男を事件の容疑者と見て行方を探していた警察は、捜査線上に浮かんだ横浜で寿司店「あらい」を経営する荒井政男(同44歳)を、12月26日に長女の友人宅で発見し任意同行を求めました。

 

朝日新聞(1971年12月27日)

 

パトカーで浦賀警察署に連行し下車させようとした時、上の記事にあるように、突然荒井が警察官に頭突きをするようにして押しのけ路上に飛び出し、走ってきた車と接触して頭頂部に負傷したのです。

本人は否定していますが、後で述べる理由もあって自殺を図ったのではないかと見られています。

 

すぐに病院に運ばれた荒井は、比較的軽傷だったため、治療が終わった時点で殺人容疑で逮捕されました。

その後、警察は荒井の身柄を三崎警察署に移して取り調べを行いました。

 

読売新聞(1971年12月27日)

 

荒井政男は、1955(昭和30)年ごろにマグロ漁船でコック長をしていたころ、食糧品の仕入れを通じて岸本さんと知り合います。

1960(昭和35)年ごろに船を降りた荒井は、魚の行商を始め2、3年後には鮮魚店を開きましたが、時折り岸本さんの店を訪ねてはお茶を飲む程度の付き合いは続いたようです。

ところが、事件の9年ほど前に荒井が交通事故に遭ったころから付き合いは途絶えていました。

 

その後、横浜市金沢区谷津町の鮮魚店を寿司店「あらい」に改造した荒井は、それ以外にも団地のショッピングモールなどに鮮魚小売店4店舗を経営するまでになりました。

 

荒井政男

 

ところが、事件当時は店の経営が非常に苦しくなっており、三千万円を超える借金を抱えた荒井は、その一部でも年内に返せないと店舗の一つを開け渡さねばならないほどに追い詰められていたのです。

 

順調に商売を拡大してきた荒井の人生に狂いが生じたのは、事件前年の1970(昭和45)年9月に、詳細は不明ですが長女が「不幸な事件」に遭い、ぐれて家を出て行方不明になったことが原因でした。

 

鮮魚の仕入れだけは自分でした荒井ですが、あとの仕事は妻や店員に任せきりで、自分は娘を探すのに必死になり、仕事に身が入らなくなりました。

おまけに店員が売上金を横領するようなことも起き、経営状態がどんどん悪化して借金がかさんでいったのです。

 

また、長女を探している時に「不良仲間」に取り囲まれた荒井が激しい暴行を受けたことがあったため、彼は護身用として小刀を携行するようになっていました。

 

このように、借金返済のための金策と、娘を見つける手がかりを得ること、この2つが荒井の行動の背景としてありました。

 

【荒井の自供と否認】

東京高裁の判決文によると、12月26日に逮捕され三崎署で取り調べを受けた荒井容疑者は、その日のうちに犯行を自供しましたが、28日に検察庁に送られ検事の取り調べを受けると一転して犯行を否認します。

しかし29日になるとまた犯行を認め、それは翌1972(昭和47)年1月12日の最終取調べまで変わりませんでした。

 

ところが、横浜地裁横須賀支部で第一審の公判が始まると、荒井は再び犯行否認に転じ、その後の裁判を通して彼は一貫して無実を主張し続けたのです。

 

そこでまず、東京高裁の判決文(『判例時報』1367号所収)を参照して、彼の自供にもとづく事件の顛末を見ておきましょう。

 

ただし、犯行を認めた供述も、後であげる犯行を否認した供述も、取り調べや証言の段階で内容が変化したり、互いにつじつまの合わない話やどういうことか理解に苦しむ話が出てきますので、できるだけ筋が通るように小川がいくらか供述内容を取捨選択したことをお断りしておきます。

 

〈 犯行を認めた供述 〉

①娘の家出で商売に身が入らなくなり借金がかさんで金策に走り回っていた1971(昭和46)年11月20日ごろ(事件のひと月ほど前)、たまたま岸本商店の前を通りかかった荒井は繁さんに出会い、100万円ほどの借金を申し込んだところ心よく承知してくれ、ひと月後の12月20日ごろに取り来るよう言われた。

 

②そこで荒井は、12月21日の午後7時ごろ、岸本商店近くまで車で行って店を訪ねたが、繁さんは不在とのことで、妻の喜代子さんが出してくれたファンタ*を飲んでから一旦店を出た。

 *ファンタの容器(おそらくビン)に付着の指紋が、店内で検出された唯一の荒井の指紋

 

③車の中でウィスキーを飲んで待っていた荒井は、空腹だったので食堂「かねしろ」に入り、午後8時から9時過ぎまで焼肉などを食べながらまたウィスキーを飲んだ。

 

④食堂を出て車を勝手口に近い海員組合ビルのあたりに移動させた荒井は、飲み過ぎて下水の溝に嘔吐し路上で寝てしまった。

 

⑤午後11時ごろに目が覚めたので、勝手口のシャッターを開けて岸本商店に入った。

1階事務室にパジャマ姿の息子(昌孝君)がいたのでしばらく話をしていると、繁さんが帰ってきた。

 

⑥息子が2階に上がったので借金の話を持ち出すと、以前と態度が違って「1万や2万なら……」と繁さんが言うので、「話が違うじゃないか、そんなこと言わないで頼む」と言うと、「馬鹿野郎」と言いながら頬や頭を平手打ちされ、風呂場からも「だめだめ」という喜代子さんの声が聞こえたので、我慢できなくなった荒井は「ええくそと思って」持っていた小刀を抜いて繁さんを刺した。

 

⑦喜代子さんが大声を上げたので、風呂場に行って夢中で彼女を刺し、さらに2階の方からも大声がするので行くと、誰か(昌子さん)が階段を転がり落ちるように来てぶつかり、小刀が当たった。

 

⑧階段は2、3段以上には登らず、入ってきた勝手口から外に出て停めていた車に乗り、藤沢市の辻堂団地にある自分の鮮魚店の一つに行き、服と靴を替えて団地の焼却炉で小刀と一緒に燃やした。

 

⑨その後、アリバイ作りのために横浜市戸塚区飯島町の知人宅を22日の午前1時ごろ訪れ、「小田原まで集金に行った帰りに渋滞で遅くなったが、妻が心配するので自分が21日の午後10時ごろからここにいたと自宅に電話し妻に話してくれ」と知人に頼み、午前3時ごろまで話をして帰った。

 

一方、犯行を否認した後で荒井は、当日の自分の行動を次のように供述しています。

 

予め言っておきますと、荒井が「かねしろ」で飲食したこと、岸本商店に入り事件の現場を見て、外に出たところを多くの人に目撃され車で走り去ったことや、その後に知人宅を訪れたことは荒井自身も認めています。

 

〈 犯行を否認した供述 〉

❶12月21日の午後4時半か5時ごろ、荒井は家出中の娘を探そうと車で横須賀市内に行き、6時ごろまで探しても見つからないので、以前に何度も行ったことのある食堂(「かねしろ」とは別の近くの食堂)で腹ごしらえをしようと三浦市三崎に行った。

 

❷大通りの方に車を停めて車内でウィスキーを飲んだ後、上記食堂に行こうと岸本商店の前を通りかかると、シャッターの下が開いていたので、「コーラ」でも飲ませてもらおうと入り、妻の喜代子さんからファンタをご馳走になってその場で飲んでから店を出た。

 

❸結局、近くの食堂「かねしろ」に入り、午後8時ごろから1時間ほど焼肉などを食べながらウィスキーをコップで飲んだ。

この時に、護身用に持っている小刀をテーブルの上に出して居合わせた人に見せた。

 

❹車を海員組合ビルの近くに移動させたが、飲み過ぎて気持ちが悪くなり、下水の割れ目に嘔吐してからその近くに座って寝込んでしまった。

 

 

❺岸本商店のシャッターの開く音で目が覚めてそちらを見ると、男が店内に入っていくのが見えた。時計を見ると午後11時だった。

男は店員だろうと思ってしばらくトロトロしてから、車に入って寝ようとした時、岸本繁さんがシャッターの前にいたので挨拶を交わすと、繁さんは家に入って行った。

 

❻車の後部座席に横になって少しすると、人の声がしてシャッターが開き、人(昌子さん)が出てきて道路にしゃがみ込み、その後に男が出てきて荒井の車の側を通って北東の方向に走り去った。

 

❼そこで、夢中でシャッターをくぐり店内に入ると、事務室で繁さんが血だらけで倒れており、呼んでも返事がなかった。

まだ誰かいる気配がしたので、持っていた小刀を出して手に持ち、「誰かいるか!」と言ってから外に出た。

 

❽食堂「かねしろ」の外にいたパジャマ姿の男の子(昌孝君)が、「あの人を捕まえて」と自分を見て叫んだので、左手を少し上げながら「何言ってるんだ、犯人は逃げた、いないよ」と言ってから車に戻ったが、小刀を手にしていて犯人呼ばわりされたのでこれはいけないと思い、車を発進させた。

その時、食堂の主人が電話しているのが見えたので、110番通報をしていると思い自分はしなかった。

 

❾その後に知人宅を訪れたのは、別の知人から取引の仲介を頼まれ、うまくいけば借金の保証人になってやる(その別の知人の証言では「マージンを支払う」)と言われたからで、夜中でないと本人が帰宅しないと以前家人に言われたので真夜中の訪問になった。

妻への電話を頼んだのは、妻がいつも過剰に交通事故の心配をし、すぐに警察に問い合わせの電話をするので、心配しないようかけてもらった。

 

 

こうして知人宅を後にした荒井のその後の行動はどういうものだったでしょう。

 

12月22日の真夜中に知人宅を訪問したその日の朝、午前9時半ごろ、荒井は知り合いの生命保険会社の女性を訪ねて、今日中に保険に入りたいと言って五千万円の保険を契約しています。その時、交通事故で死んだ時の保険金支払いについて聞いたそうです。

この保険契約は急に思い立ったことのようで、初月に支払う保険料も持っていなかった荒井は、女性に立て替えてもらっています。

 

12月23日に荒井は金策のため郷里の石川県に行き、実弟から100万円を借りて25日に横浜に戻っています。

その足で彼は、かつて自分の店で働いていた知人宅に行き、23日に石川に行く旅費として借りていた5千円を返してから話をしたそうですが、知人によると彼は「自殺する」とか「最後の挨拶に来た」といった話をしたそうです。

 

12月26日、荒井は長女を探すために、横須賀市の娘の友だちの家を訪ねています。

その家に荒井がいた午後1時半ごろ、彼を探していた警察官がやってきて荒井は任意同行されました。

 

先に見たように、任意同行で浦賀署まで行った際に荒井は、警官を突き飛ばしてパトカーからいきなり車道に飛び出し、車と接触してケガを負いましたが、それは自分の死亡時保険金で家族が三千万円余りの借金を返済できるようにと思っての自殺未遂だったのかもしれません。

 

なお長女ですが、荒井が逮捕されて取り調べを受けている間に、事件を知ったからか、家に帰ってきたそうです。

 

【 裁判と判決 】

すでに見たように、取り調べで一旦は犯行を自供しながらそれを覆し、その後また犯行を認めて裁判にかけられた荒井は、そこでまた犯行を否認し、その後は一貫して無実を主張し続けます。

 

そうした荒井に対し、一審の横浜地裁横須賀支部は、1976(昭和51)年9月25日、犯人と顔を合わせている昌孝君の目撃証言は「きわめて信ぴょう性の高いもの」である一方、「被告人の犯行の手口は、残虐きわまりないもので、公判廷での供述は弁解のための弁解であって、反省の余地は見られない」として、求刑通り死刑を言い渡しました。

 

読売新聞(1976年9月25日夕刊)

 

被告・弁護側が無実を主張し控訴したため、東京高裁で控訴審が開かれましたが、1984(昭和59)年12月18日の判決公判で小野慶二裁判長は、犯行を否認する被告の供述には不自然なものや前後矛盾するなど内容に疑問が多く、虚偽と断ぜざるを得ないとして、控訴を棄却し原判決の死刑を支持しました。

 

読売新聞(1984年12月19日)

 

被告・弁護側は最高裁に上告しましたが、1990(平成2)年10月16日、最高裁第3小法廷の坂上壽男裁判長は、1、2審の死刑判決を支持して上告を棄却し、荒井政男に対する死刑が確定しました。

 

毎日新聞(1990年10月16日夕刊)

 

死刑確定後の1991(平成3)年1月31日、荒井死刑囚の弁護団は、横浜地裁横須賀支部に再審請求を行いました。

 

目撃証言以外に荒井の犯行を裏づける客観的な物証がほとんどないこの事件で、ほぼ唯一の物証とされたのが、荒井の車のトランクにあった大工道具袋に付着の血液が被害者の岸本繁さんのものだとされたことです。

 

荒井も岸本さんも、大工道具袋に付着のものと同じ血液型(A型)で、荒井は自分が以前にケガをした時についたものだと主張しましたが、MN式血液型では袋=M型、岸本さん=M型、荒井=MN型と出たため、岸本さんの血液だと裁判では認められ、有力な物証とされたのです。

 

しかし、古い血液痕ではMN式血液型の正確な判定はできないことが明らかになったため、弁護側はDND鑑定を求めて再審を請求したのです(第1次再審請求)。

 

ところが、2009(平成21)年9月3日、糖尿病や高血圧を患って7月中旬ごろから体調が悪化していた荒井死刑囚は、敗血症のために東京拘置所で病死(82歳)してしまいます。

 

そのため、「父は最後まで、私に無罪だと言っていた。獄中で死んだ父の無念を晴らしてほしい」という長女ら遺族が再審請求を引き継ぎました(第2次再審請求)。

 

読売新聞(2010年4月7日)

 

それを受けて2010(平成22)年3月16日、横浜地裁横須賀支部は、再審前にDNA鑑定を実施するとの異例の決定をし、大工道具袋の血痕が弁護側の主張どおり荒井のものであるかどうか鑑定しました。

しかし、結果は荒井のものでないことが分かり、2011(平成23)年8月23日に再審請求は棄却されました。

 

遺族・弁護団は、ミトコンドリアDNAの鑑定で道具袋の血痕は被害者の岸本繁さんのものでないとする鑑定書を添えて即時抗告しましたが、高裁・最高裁も2022(令和4)年4月までに再審請求を棄却しました。

 

遺族・弁護団は、棄却決定はDND鑑定の結果を正しく評価していないとして、2023(令和5)年1月17日に、横浜地裁横須賀支部に第3次再審請求をおこないました。

現時点では、その結果はまだ出ていません。

 

読売新聞(2023年1月18日横浜版)

 

 

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小川里菜の目

 

高校生の娘を含む一家3人が刺し殺されるという残虐な事件です。

容疑者として逮捕され、裁判で死刑判決を受けた荒井政男は、公判で無実を主張し、死刑確定後も再審を請求しました。

本人は病気のために獄中死しましたが、遺族が跡を継いで再審請求が続けられています。

 

荒井が判決どおり殺人犯だったのか、それとも不幸な偶然が重なって犯人と思われながら真犯人は別にいて罪を免れたのか、どちらと言えるだけの確証は小川にはありませんショボーン

 

確かに、荒井の不可解な行動や二転三転する供述、一方おおむね一貫した昌孝君の目撃証言、荒井の車の側を通って逃げたという「真犯人」を誰も見ておらず足音も聞いていないことなどを考えると、荒井の犯行でほぼ間違いないのではないかと小川も思います。

 

ただ、「誰が見てもいかにも犯人らしい」からこそ、予断に囚われることなく、本当にそうなのか慎重に裏づけを取る必要があるとも思うのですキョロキョロ

 

けれども、これまでにも述べたように、この事件では荒井を犯人とする客観的な物証がなく(事実上唯一の物証だった道具袋の血痕も、被害者のものだとした裁判での判断が、ミトコンドリアDNA鑑定で疑わしくなっている)、自白した内容(服や靴、凶器の刃物を団地の焼却炉で燃やしたなど)を裏づける証拠も得られていないようです。

 

また、被害者に近づいて小型の刃物*で刺殺したわけですから、犯人ならかなりの返り血を浴びずにはすまないと思われるのですが、荒井の車の運転席付近からは「米粒大」と「粟粒大」の血痕数点が見つかっただけで(微量すぎて血液鑑定はできなかったのでしょう)、荒井が血痕を拭き取った可能性がないのか、警察はルミノール反応の検査をすべきところしていません。

 *未発見の凶器の刃物については、傷口から刃渡り20cmぐらいのものと推定されており、「クリ小刀」や「アナゴ裂き包丁」(もしそうであれば刃渡りは普通10〜15cm)などと高裁判決文では書かれていますが、いずれにしても荒井が持っていたのはポケットに携帯できる程度の小型の刃物と思われます。

 

そして、小川が一番疑問に思うのは殺害動機ですびっくりマーク

 

荒井が犯人だとして、それが計画的な犯行でないことは裁判所も認めています(真犯人が別にいるなら、計画的犯行の可能性もあります)

 

自供では、借金を断られた上に岸本さんからバカにするようなことを言われ、頭や頬を平手打ちまでされた(岸本さんが日頃からすぐに手をあげるような人でないなら、このシチュエーションも想像しずらい)のでカッとなって刺したというのですが、行商から叩き上げた苦労人の荒井が、その程度の屈辱で我を忘れ、さらには侮辱した本人だけならまだしも、すぐに逃げずに風呂場にまで行って入浴中の妻を刺し殺し、子どもたちまで殺そうとしたのは、かねてから相当強い恨みを蓄積させていなければ想像しにくいことです。

しかし、そこまでの怨恨を荒井が岸本さん一家に抱いていたとは裁判でも言われていません。

 

また、いざとなれば「事故」を装った自殺で支払われる自分の保険金で家族が借金を返せるようにと考えるまで追い詰められた心境にあった荒井ですが、事件の翌日からそれまでと変わらず金策と娘の捜索を続けています。

 

荒井の犯行を疑わせる理由については、「荒井は交通事故で足が不自由になっているため、昌孝君の言うように階段をすごい勢いで駆け上がるのは難しい」「現場に残されたゴム長の靴跡が荒井が普段履いているものよりサイズが小さい」「靴跡は正常な歩行をする者のものだと鑑定されている」「突発的な犯行にもかかわらず、荒井の指紋がファンタの容器以外は室内から検出されない」などが弁護側からあげられています。

 

控訴審の東京高裁は、これらの疑問点についてかなり詳しく検討を重ねており、裁判官の誠実さを感じさせる判決文になっています。

 

ただ、それらの検討の結果は、荒井の犯行だとしても「不自然とまではいえない」「考えられなくはない」といった可能性を認めるにとどまる箇所が多く、残念ながらどうしても決め手に欠ける印象を払拭するには至っていないというのが、小川の正直な感想です。

 

車のルミノール検査をしなかったことなど、荒井の逮捕当日の自供で「決まり」と警察は早々に考えたのかもしれませんが、死刑という「誤審だった」ではすまない判決を下す限りは、自白と目撃証言だけに頼らず、徹底した裏づけ捜査で確かな物証*を発見する努力をもっとすべきでなかったのかと悔やまれますキョロキョロ

 *犯人が事務所で吸ったタバコの吸い殻が、警察が撮った現場写真に写っているにもかかわらず、犯人特定につながる可能性のあるその大事な証拠品が、行方不明になったそうです。

 

その後に導入された検査・鑑定技術なども駆使して、再審有罪であれ再審無罪であれ、今からでも真実により近づく可能性が少しでもあるのならば、荒井自身はもう亡くなっていますが、被害者と加害者双方の遺族のためにも、再審を通してこれまでよりも確かな形で決着をつけるという判断に裁判所は踏み切ってほしいと思う小川です。🔚

 

 今回、最高裁の判決文は「大判例」で見つかったのですが、地裁と高裁のものが見つからず、高裁の判決文が掲載された『判例時報』のコピーを国会図書館から取り寄せるのに2週間かかりました😂

 

 

5月19日の日曜日は、

神戸の元町に映画を観に行きました

 
サムネイル

 

日曜日は普段は仕事なのですが、この日は午後からの出勤にしてもらいました。

日曜日にお出かけするのは、すごく久しぶりでした😸

 

 
以前に書いた、ベトナム戦争時に米軍が大量に散布した枯葉剤の影響と見られる結合双生児、「ベトちゃんドクちゃん」についてのブログです⬇️

 

 

観に行ったのは「ベトちゃんドクちゃん」のうち、「ドクちゃん」の今を描いたドキュメンタリ映画で(兄の「ベトちゃん」は、2007年に26歳で逝去)、制作にあたって小川もほんの少しですがカンパさせてもらいました。
 

*だいぶ早く入ったので写真ではガラガラですが

上映時には多くの観客が来られていました


こちらが、今回観た映画です⬇️

 

 

ドクさん一家(妻と双子の兄妹フジとサクラ)の現在の生活や、誕生から分離手術を受けた後のドクさんの結婚・子育て・仕事などの様子が、美化せずありのままに、お子さんにも分かりやすく描かれています。

家族でご一緒に、また「ベトちゃんドクちゃん」を知らない若い世代の方にもぜひ観ていただきたい映画だと思いましたおねがい

 

 
読んでくださり、ありがとうございました😺飛び出すハート