最近、不法行為が問題になっているビッグモーターが、道路から店がよく見えるようにしようとしたのか、店舗前の街路樹に除草剤を勝手に撒いて枯らしてしまったというニュースがありました。

 

それを読んだ時、「除草剤」という言葉からすぐに頭に浮かんだのが、いつも小川が読むある方のブログに書かれていたベトナム戦争でアメリカ軍が使用した「枯葉剤」と、その有毒物質を摂取したお母さんから生まれたベトちゃんドクちゃんという双子の障害児のことでした。

 

下半身が共有されつながった状態で生まれた

ベトちゃんとドクちゃん

 

先に、長崎の原爆忌に寄せて核兵器の非人道性について書きましたが、今回は、猛毒の化学物質を飛行機から大量散布するという、日常感覚からは考えられないことが普通に行われた「戦争」の非情さ残酷さについて、ベトちゃんドクちゃんの話を交えながらあらためて考えたいと思います。

 

【ベトナム戦争と非人道行為】

ベトナム戦争は、第二次世界大戦後に植民地支配からの解放を求めてフランスと戦い、北半分で独立を達成した社会主義のベトナム民主共和国(北ベトナム)が、ベトナム南部の解放と祖国統一を成しとげようと、南ベトナム解放民族戦線を支援するという形で戦いを続けたことに端を発します。

 

産経新聞(2015年4月29日)

 

  

北ベトナム  解放民族戦線  南ベトナム

 

当時、アメリカとソ連のいわゆる東西冷戦対立のもとで、アメリカはインドシナでドミノ倒しのように社会主義圏が拡大するのを恐れていました(いわゆる「ドミノ理論」)。

 

そうした事態を阻止するためにベトナム共和国(南ベトナム)を支援するアメリカは、1964(昭和39)年に軍事介入の口実となる事件(アメリカの駆逐艦が北ベトナムの哨戒艇から魚雷攻撃を受けたとされた事件)をでっち上げ、1973(昭和48)年の撤退までにのべ260万人もの米軍兵士をベトナムに投入しました。

 

火力・機動力で圧倒するアメリカ軍

 

ところが、圧倒的な軍事力と物量を誇ったアメリカ軍でしたが、ジャングルを拠点にゲリラ戦を仕掛ける解放民族戦線に対して、第二次大戦で使用された以上の量の砲弾・爆弾を投下しながらも、なかなか成果を上げることができませんでした。

 

疲弊する米軍兵士

 

あせった米軍は、解放戦線のゲリラが潜んでいると思われる村やジャングルに、ナパーム弾(東京大空襲で使われた焼夷弾と同様、飛び散ったジェル状の油脂が人や物にへばりついて高熱で焼き尽くす爆弾)など各種の非人道的兵器を使用しました。

 

巨大な炎を上げるナパーム弾

 

一瞬で衣服を焼かれ大やけどを負いながら

裸で逃げまどう「ナパーム弾の少女」

(1972年6月8日)

 

また、解放民族戦線を支持しているのではないかと思われた農民への恐れと憎しみから、非武装の住民を米兵が村ごと皆殺しにする虐殺事件も起きました。

 

1968年3月16日、ソンミ村を襲撃した米軍の小隊は

4時間かけて女・子ども・老人男性ら500人以上を虐殺した

 

虐殺を指揮したウィリアム・カリー中尉

内部告発があり軍法会議で終身重労働刑とされたが

ニクソン大統領(当時)の命令で即時釈放された

虐殺の責任は誰もとっていない……

 

【枯葉剤の大量散布と環境汚染】

そうした中アメリカは、解放戦線の兵士たちが隠れる森の木々をすべて枯死させ、また彼らに食糧を供給する農村の耕作地を使えなくしようと考えました。

そのために、J.F.ケネディ大統領(当時)が実行を承認した1961(昭和36)年から、米軍は「ランチハンド(農場労働者)作戦」のコードネームで、10年以上にわたり推定約1200万ガロン(約4250万リットル)以上の枯葉剤を空中散布しました。

 

猛毒の枯葉剤「エージェント・オレンジ」を

ベトナムの森林に撒き散らす米軍のUC-123輸送機

 

枯葉剤で見渡す限り枯死した

マングローブの森で遊ぶ少年

(中村梧郎さん撮影)

 

枯葉剤には何種類かあり、容器のドラム缶につけられた色で区別されていました。

そのうち、もっとも多く使われたのが「オレンジ剤(Agent Orange)」と呼ばれる枯葉剤です。

 

「オレンジ剤」が入った缶

 

大量に積まれた「オレンジ剤(Agent Orange)」

 

オレンジ剤は、「2,4,5-T」(2,4,5-トリクロロフェノキシ酢酸)という非常に猛毒のダイオキシンが不純物として混入した化学物質でできており、木々を枯らすだけでなく、その後も長く残留して土壌や水を汚染し続けます。

 

とてつもない規模の環境汚染が、戦争に勝つためとして意図的になされたのです。

 

それがいかに見境のない狂気だったかは、味方である枯葉剤の散布に関わった航空機の乗員など1500人から2100人の米兵からも、退役後に慢性リンパ性白血病、ホジキン病および非ホジキンリンパ腫、前立腺がん、2型糖尿病などを発症して苦しむ者が出、さらにその子どもたちにも二分脊椎症(脊髄が背骨で覆われない)や口蓋裂(唇の一部に裂け目がある)などの影響が見られたことからも分かります(「オレンジ剤に汚染された航空機を使用した空軍退役軍人に補償の可能性」BEYOND PESTICIDES, 2015.6.23

 

それは、そもそも第一線の兵士など単なる消耗品としか考えない、軍隊という組織の持つ冷酷さをも表しているように思います。

 

【ダイオキシンの危険性・毒性】

ダイオキシンは、1983(昭和58)年に日本でも、主にプラスチック系ゴミを比較的低温の300℃程度で不完全燃焼させたときに発生することがわかり、問題になりました。

 

枯葉剤の大量散布と比較すれば少ない量ですが、それでも大問題になって、ゴミを高温で焼却するよう全国の焼却炉の補修が急がれ、また1999(平成11)年には「ダイオキシン類対策特別措置法」が公布されました。

 

 

次の文章は、ダイオキシンの毒性・危険性について、子ども向けに分かりやすく書かれたものです(「Gakken キッズネット」)。

 

「ダイオキシンは、(…)「人類が作った、もっとも強くて、もっとも悪い毒」といわれている。

ダイオキシンが体の中に入ると、ガンなどさまざまな病気の原因になる。また、女の人の体に入るとおなかの中で赤ちゃんが育たなかったり、生まれてくる赤ちゃんに奇形を起こしたりする。

1960年から始まったベトナム戦争で、アメリカ軍はダイオキシンの混じった枯葉剤を空からまいた。(…)そして1975年に戦争が終わった後、ベトナムではたくさんの赤ちゃんに奇形があらわれた。」

 

ダイオキシンの慢性毒性(発がん性や催奇形性:胎児に奇形が起こる可能性)については、動物実験では明らかにされていますが、実験のできない人間への影響については十分に解明されていません。

しかし事実として、上の説明に書かれているように、ベトナムでは戦争が終わった後、枯葉剤で汚染された地域に住む妊婦から、死産や奇形児の出産が相次ぎました。

 

ホーチミン市のツーズー病院に保存された

死産した奇形児たち

(FRIDAY、1986年6月20日号)



【ベトちゃんドクちゃんの誕生】

そうした中、1981(昭和56)年2月25日に、中部ベトナムのコントゥム省で農民夫婦の子どもとして生まれた双子の兄弟がいました。

 

 

枯葉剤が撒かれた地域(米軍資料)

数機編隊での散布を赤線にし重ねたもの

青い円がコントゥム省の汚染地域(小川)

 

兄弟は、下半身(臓器や排泄器官、足)を共有しながらY字型に身体が癒着した「結合双生児」と呼ばれる障害児でした。

 

FOCUS(1987年5月22日)

 

枯葉剤が何度も撒かれた地区に戦争が終わった後に移り住んだ母親は、汚染された水を飲んでおり、そこに含まれるダイオキシンの影響で胎児に奇形が発生したのではないかと考えられています。

 

結合双生児は2人以外にも生まれましたが、1983年時点で生存していた1例を除いて、死産か生後すぐに死亡したそうです。

 

2人はまず地元の病院に預けられ、その時、父親が逃げるように去って両親は離婚します。

それから1歳の時に、ハノイのベトナム・(東)ドイツ友好病院に転院し、兄はベト(ベトナム)弟はドク(ドイツ)と名づけられました。

 

彼らのことが日本に紹介されると、2人は「ベトちゃんドクちゃん」の愛称で呼ばれ、戦争被害のシンボルとして大規模な支援活動が市民の間で広がりました。

 

【ベトちゃんの病いと分離手術】

奇跡的に元気に育っていた2人でしたが、1986(昭和61)年6月に兄のベトちゃんが急性脳症を発症し意識不明になりました。

 

FRIDAY(1986年6月20号)

 

朝日新聞(1986年6月13日)

 

そのため、2人は日本に緊急搬送され、日赤医療センターで脳症の手術がなされました。

 

朝日新聞(1986年6月20日)



FRIDAY 1986年7月11日号

それにより2人は命をとりとめましたが、ベトちゃんには後遺症が残りました。

 

その際、日本の病院で2人の分離手術をすることも検討されたそうです。

しかし手術のリスクが大きく、また一つしかない臓器をどう配分するかという難しい問題もあって、この時には手術は見送られました。

 

ところが、1988(昭和63)年3月に、ベトちゃんが再び意識不明の重体におちいります。

このままではどちらの命も危ないと、10月にツーズー病院で急きょ分離手術がおこなわれることになりました。

 

手術の様子は日本でも連日大きく報道され、多くの人たちが固唾を飲んで手術の行方を見守りました。

 

朝日新聞(1988年10月4日)

 

朝日新聞(1988年10月5日)

 

朝日新聞(1988年10月6日)

 

12時間以上に及ぶ大手術は、日本からも医師4人が派遣されて支援し、無事に成功しました。

 

分離手術後、歩行訓練を始めたドク(1989年3月撮影)

(読売新聞オンライン)

 

朝日新聞(1989年9月28日)

 

【兄の死とドクさんの就職・結婚】

弟のドクさんはその後、学校にも通ってコンピュータープログラミングを学び、ツーズー病院の事務員になります。

 

仕事のかたわらボランティア活動もしていたドクさんは、2006(平成18)年に活動を通して知り合った女性と結婚します。

 

(共同通信)


ドクさん夫婦は、兄を引き取って介護していましたが、2007年10月にベトさんは腎不全と肺炎を併発して26歳で死去しました。

 

 

そうした悲しみもありましたが、2009(平成21)年10月にドクさんの妻テュエンさんが男女の双子を出産するという喜びもありました。

 

娘のアインダオさんと息子のフーシーさん

それぞれ日本の「」と「富士」にちなんだ名前

(朝日新聞デジタル、2015.12.15)

 

ドクさんはその後も何度も来日し、両国の架け橋としてベトナムと日本の友好に努めながら、戦争と枯葉剤の非人道性を訴え続けています。

 

2023年6月16日撮影のドクさん一家

(読売新聞オンライン、2023年7月10日)

 

【今も続く枯葉剤の被害と責任を認めないアメリカ】

ベトナムの枯葉剤の被害者協会によると、戦争中に約480万人が枯葉剤を浴び、その子や孫を含めて今でも約300万人もが奇形やがんなどで苦しんでいるとのことです。

 

朝日新聞(1983年1月14日)

 

なお、ワシントンポスト紙の記事によると、2018(平成30)年になってアメリカのマチス国防長官(当時)が、手つかずの「ホットスポット」(高濃度に汚染された場所)の一つであるホーチミン市郊外のビエンホア空軍基地に残された枯葉剤の除去に、国防総省の予算から1億5千万ドルを当てると表明したのが、枯葉剤作戦の責任をごく一部ながらアメリカ政府が公式に認めた初めての例で、枯葉剤とがんや奇形等の因果関係については科学的に証明されていないとしていまだに責任を認めていません。

 

「ベトナムの有毒物の遺産は今も続き、

オレンジ剤が不気味に立ちはだかっている」

(ワシントンポスト、2023年3月23日)

 

 

サムネイル
 

小川里菜の目



【戦時国際法・国際人道法のもとでの現代の戦争】

戦争といえば、勝つためには手段を選ばないものというイメージがありますが、「ジュネーブ条約」(1886)や「ハーグ陸戦条約」(1900)などの戦時国際法(戦争の開始・終結の手続きを定めた開戦規定と、戦争で守るべきルールを定めた交戦規定からなる)の時代の戦争は、非武装の一般人を殺傷したり捕虜を虐待するなどの行為を禁止するルールの上で戦闘行為がなされることになっています。

 

【非人道兵器の廃絶に向かう世界と、それに逆行する動き】

今では、戦時・平時を問わず人間の尊厳を守ることを目的とした国際諸法規を包括して「国際人道法」と呼んでいます。

 

そして、国際人道法の趣旨から、戦争で使用する兵器についても、無差別な殺戮や人(敵兵も含む)を残酷に殺傷するものは、国際条約で禁止や制限がなされています。

 

詳しくは、赤十字国際委員会の「戦争で使ってはいけない武器とは?」をお読みいただきたいのですが、人道・人権の観点から、「生物兵器」、「化学兵器」(枯葉剤「エージェント・オレンジ」も含まれる)、「対人地雷」、「クラスター弾」、「核兵器」などが「戦争で使ってはいけない武器」に当たります。

 

そのうち、「生物兵器禁止条約」(BWC、1972年発効)のような国際条約によって禁止されている兵器もありますが、具体的な禁止条約がまだないものや、「核兵器禁止条約」(TPNW、2021年発効)のように核保有国や日本を含む主要国が署名していないため、現時点では実効性が大きく制限されているものもあります。

 

長崎新聞(2020年10月26日)

 

クラスター弾は、親爆弾が大量の子爆弾を拡散させて殺傷力・破壊力を高めた兵器ですが、多くの不発弾が残留し、戦争後にそれに触れた子どもなど多くの犠牲者が出ている非人道兵器です。

特に被害が深刻なのは、1970年代にクラスター弾が多く使われたカンボジアです。

 

(朝日新聞デジタル)

 

それに対して、ノルウェーの呼びかけでクラスター弾の生産、貯蔵、使用、移譲を禁止し、犠牲者への支援を締約国に義務づけた「オスロ条約」が2010年に発効し、2023年現在、日本やEU諸国を含む世界の111ヵ国が条約に加盟しています。

 

ちなみに、対人地雷についても同様の「オタワ条約」が、世界の市民団体(NGO)と禁止に積極的なカナダやノルウェーなどの政府が協力して1997年に成立し、2020年末で日本を含む164ヵ国が批准しています(アメリカ、中国、ロシア、インドは「オスロ条約」と同様に、この条約にも加盟していません)。

 

ところがつい先日、時代に逆行するかのように、オスロ条約に加盟していないアメリカが、弾薬不足を理由に、同じく非加盟のウクライナの要請でクラスター弾を供与し、やはり非加盟のロシア軍に対して使用したというニュースが流れました。

 

下の日テレニュースの画面にあるように、ウクライナ支援では一致しているイギリス、ドイツ、カナダ、スペインなどの国々も、クラスター弾の供与については異議を表明しました。

しかし残念なことに、オスロ条約の当初からの加盟国である日本の政府は、「コメントは差し控える」(官房長官)と黙認する姿勢を示しています。

 

日テレニュース(2023年7月11日)

 

【人間と両立しない非人道兵器の残虐さ】

勝つためには人間の尊厳も人権も二の次にする戦争の現実を前に、国際人道法だ禁止条約だといくら言っても、結局は無慈悲な現実に押し流されてしまうのだという諦めや、禁止運動への冷笑、あげくの果てには、もし現実がそうなら、必要とあれば私たちも非人道兵器をもつべきだとまでいう声が聞こえてきます。

 

しかし大きな目で見れば、非人道兵器や、対立の暴力的解決方法である戦争の勃発を防ぎ、なくしていこうとする国際世論は、一進一退しながらも着実に広がってきているのではないかと期待も込めて小川は思っています。

 

その時に出発点・原点となるのは、長崎原爆忌のブログでも書きましたように、非人道兵器や戦争がもつ人間破壊のむごたらしい現実です。

 

原子爆弾で傷つき原爆症で苦しめられた渡辺千恵子さんら被爆者たち、今回取り上げた化学兵器(枯葉剤)の二世被害者であるベトちゃんドクちゃん、そしてクラスター弾や対人地雷で命を落とし傷ついている多くの人たち・子どもたち——、私たちがまず見なければならない現実とは、こうした人たちが体験した/している現実なのではないでしょうか。

 

クラスター弾で手を失った

カンボジアの少年

 

対人地雷で足を失った

アフガニスタンの少女

 

【「悪魔の兵器」廃絶を求める人びとの熱い思い】

それと同時に、ベトちゃんドクちゃんに心を寄せ、親身になって支えた多くの人たちの善意や、非人道兵器廃絶のために奔走している世界中の人たちの願いと熱意という現実に対しても、私たちは注目しなければならないでしょう。

 

ではどうすれば?という政治の議論は、この原点の上に立ってなされるべきだと思う小川です。

 

参照資料

・関連する新聞・雑誌の記事

・中国新聞 ヒロシマ平和メディアセンター連載記事「ベトナム 枯葉剤半世紀 1部〜3部」(2012)

・松谷みよ子・井口文秀『ベトちゃんドクちゃんからのてがみ』童心社、1991

・赤十字国際委員会「戦争で使ってはいけない武器とは?~国際人道法の観点から」(2023.1.25)

・NPO法人「美しい世界のために」ウェブサイト(ドクさんが顧問)

・一般社団法人「カンボジア地雷撤去キャンペーン」ウェブサイト

・NPO法人「地雷廃絶日本キャンペーン」ウェブサイト

 

 

このブログを書くのに、図書館で資料を読み、当時の新聞記事を探し、

何度も読み返して修正を重ね、やっと完成しました😂

 

 

 

お子さんにお勧めしたい絵本がありますニコニコ

松谷みよ子さんが書いた『ベトちゃんドクちゃんからのてがみ』という絵本(井口文秀・絵)は、2人の誕生から分離手術後のころまでを、現地を訪れ、ドクちゃんの語りにして書かれた本です(1991年刊行なので、ベトちゃんの死には触れていません)。

 

 

 

 

 読んでくださり、ありがとうございました🥹✨

 




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