「しごき」という名のリンチ殺人

東京農業大学ワンゲル部

死のシゴキ事件

1965年

 
    

昨年(2023)、小川が体罰やいじめを無くしたいと言っているからだと思いますが、アメブロを通じて東京都在住の元教師の方からメッセージをいただきました。

それは、その方が1970年代に東京のK大学に在学中、部活で先輩たちが後輩全員に、火のついたタバコを皮膚に押し当てる「根性焼き」をしており、非常に苦痛で怒りを覚えたにもかかわらず、自分たちが先輩になると今度は後輩に同じことをしてしまったという悔恨の告白でした。

その部活では、先輩が後輩に根性焼きをすることが「伝統」になっており、当時は何も考えずそれに従ってしまったというのです。

その話がずっと小川の心に残っていましたので、今回は大学の部活動で死者まで出したシゴキ事件を取り上げました。

 

【ワンダーフォーゲルとは】

ドイツの古語で「渡り鳥」を意味するワンダーフォーゲル(Wandervogel)とは、19世紀末にドイツの学生が始めたもので、本来は自然に親しみながら仲間と共にプランを立て野山を歩いて語り合い、楽しみながら健全な心身を鍛え成長する野外活動を言います。

 

「ワンゲル」と略称されるこの活動は、第二次対戦後に日本の学生の間でも広がりましたが、長い歴史と訓練のノウハウを持つ山岳部と異なり、山登りについてはいわば素人集団に誰もが気軽に参加できることで、上級生による未熟な指導や未経験者・体力のない学生に過酷な訓練を課すといった問題が、一部の大学のワンゲル部で見られることになりました。

 

朝日新聞(1965年5月22日夕刊)

 

今回取り上げたのは、その中でも最悪の結果を引き起こした事件です。

 

【事件の概要】

朝日新聞(1965年5月22日)

 

朝日新聞(1965年5月22日夕刊)

 

1965(昭和40)年5月15日から18日にかけて、東京農業大学ワンダーフォーゲル部は新入生を対象とした奥秩父を縦走する足掛け4日、実質2泊3日の「新人錬成山行(れんせいさんこう)」を行いました。

 

一行は、監督と他のOB、4年生6人、3年生4人、2年生8人、そして1年生(新入生)28人の合計48人でした。

 

その過程で監督と上級生から1年生に対する激しい「シゴキ」が加えられ、新入生のうち造園学科1年の和田昇くん(当時18歳)が入院先の東京・練馬病院で5月22日午前3時40分に死亡、同じく造園学科1年の木村弘君(同19歳)が全身の打撲と右手首骨折など2ヶ月の重傷で慶應病院に入院、さらに農業学科1年の松本定君(同18歳)も重傷で自宅療養するという事件が起きました。

 

事件は、和田君の死を不審に思った練馬病院が警察に届け出たことにより発覚しました。

 

和田君の遺体は22日に東大法医学教室で司法解剖され、その結果、和田君の「背中には直径20センチぐらいのえぐられたような傷あとがあり、みけんから鼻にかけて大きな打撲傷。また特に下半身の打撲傷がひどく、出血していた。この外傷のため内臓がひどく圧迫された」(朝日新聞、1965年5月22日夕刊)と分かりました。

 

彼の直接の死因は、肺水腫肺炎による呼吸困難ですが、東京地裁は判決文でその原因を、「ほとんど全身に見られる皮下筋肉組織に及ぶ広汎高度の外力による挫滅の結果による循環機能障害(いわゆる外傷性二次性ショック)をおいては考えられない」としています。

 

この「新人錬成山行」は、次のようなルートで行われました。

 

山行行程表

(東京地裁判決文別紙)

 

そこで山行の行程においていつどのような「シゴキ」が行われたのか、東京地裁判決文をもとに次のような表を作ってみましたのでご覧ください。

なお、「シゴキ」については亡くなった和田君に関するものだけを要約記載しており、木村・松本両君その他へのものは割愛しています(表中敬称略)

 

東京地裁判決文をもとに小川が作成

 

上の表にある「シゴキ」の加害者は、判決文に名前のある者の一部ですが、傷害致死罪・暴行罪などで起訴・有罪となった以下の7人のみ実名を記載し、他は仮名にしています。

 

 ①石塚彬丸(よしまる、当時25歳):監督、同大卒業生で同部OB、事件時は会社員

 ②渡辺利治*(同21歳):主将、造園学科4年

  *直接振るった暴力で地裁判決文が名前をあげているのは松本君に対する殴打

 ③森 茂(同23歳):副主将、農芸化学科4年

 ④寺岡 広(同21歳):副主将、林学科4年

 ⑤薄倉英行(同21歳):総務、造園学科4年

 ⑥藤岡 徹(同20歳):装備、農学科3年

 ⑦古屋隆雄(同21歳):農学科4年

 

なお、②渡辺から⑥藤岡までの5人が、同部の最高意思決定機関である運営委員会の構成メンバーで、5月初めに「新人錬成山行」の計画を立てた際、例年どおりということなのでしょうが、「錬成のためには新入生に暴行を加えることもやむをえない」と決定し、上級生で確認し合っていたようです。

 
しかし、15日の深夜に新宿駅を出て、塩山駅からバスと徒歩で16日未明に山行の出発点に着き、早朝5時半には山を登り始め、2回の休憩を取って昼前に宿営地である笠取小屋に到着、水なしの乾パンだけという昼食の後すぐに笠取山にピストン登山(同じ道の往復)というハードスケジュールのため、この日早くも1年生の中にへばる者が相当数出始めていました。
 
というのも、新入生は不慣れというだけでなく、笠取山へは荷物なしで登りましたが、それまでは自分のものに加え部と上級生の荷物など合計約20kg(重傷の木村君の証言では約30kg)を背負って歩かされていたからです。
それに対して上級生は、サブザック一つという身軽さでした。
 
次の写真は、16日の笠取山登山の時にたまたま一行に遭遇した一般登山者が撮り、朝日新聞社に提供したものです。
 

朝日新聞(1965年5月29日)

白く見えるのが黄色いシャツを着た1年生

黒く見えるのが緑色のシャツを着た上級生

最後尾(矢印)の新入生はすでに遅れてふらついていた

 
かつて日本山岳会に所属し山歩き40年というベテランの撮影者は、次のように話しています。

 

笠取小屋から農大の一行のすぐ後ろについて私も笠取山に向かった。農大生の最後尾についた一人はとくに疲れがひどく、平地でも上級生に腕を支えられ夢遊病者のようによろめいていた。笠取山正面の急斜面にかかった時は完全に立てず、はってのたうち回っていた。それでも上級生2人がかかえて強引に頂上まで登らせたらしい。額と鼻のわきにはなぐられたような傷があり、口のまわりもはれ上がって口も満足にきけなかった。(中略)

16日夜は強い雨だったから、テントの連中はほとんど眠れず、翌朝2時に起きての雲取山行きでさらにへばったのではないか。落伍者の体調も考えず追い立てる上級生などは、昔の軍隊の行軍よりひどい。

 

和田 昇君
 
亡くなった和田君は非常にまじめな性格で、この山行を楽しみに張り切って参加しており、初日(16日)は元気の良さで目立つほどだったそうです。
ですので、上の記事では最後尾でふらつく1年生が和田君ではないかと書かれていますが、別の学生だった可能性があります。
 
しかし登山未経験者だった和田君は、初日に頑張りすぎて体力を消耗し、17日になると急に疲れが出て歩行のペースが落ちました。それは、初日に元気だったことから、荷物をさらに5kgほど増やされたことも一因でした。
 
それでも上級生は、和田君の調子が前日までから急に変わったため、気が緩んだのではないか、疲れたように偽っているのではないかとさえ疑い、「気合を入れる」ために特に彼に厳しく当たったようです。

 

新入生に対して「シゴキ」として振るわれた暴力をまとめると、次のようなものでした。

 

①手で殴打する

顔面の平手打ちが最も多いのですが、手拳(こぶし)による殴打もあり、倒れている1年生を上級生が抱えて立たせてから殴り倒すこともありました

 

②木棒で殴打する

先端を尖らせた長さ約50cm〜1m50cm、太さ約2〜5cmの生木の棒で頭部や臀部を殴打しました

「精神棒」「シゴキ棒」と称したこの棒は、監督の石塚がナタで生木を切って現地で作り、これで殴るよう上級生に渡したとみられています

亡くなった和田君の背中に15〜20cmの「えぐられたような傷」があったそうですが、素手ではできない傷ですから、木棒もしくは次にあげる登山靴でのよほど強い打撃でできたものではないでしょうか

 

③登山靴で蹴る・踏みつける

遅れて歩く1年生の背後から臀部を蹴るほか、倒れている者の顔面を登山靴で踏みつけました

 

1960年代の登山靴(例)

 

④ロープで殴打する

棒状(長さ約40cm、太さ約4cm)に束ねたザック用細引きロープで顔面を殴打しました

 

棒状に束ねたロープ(例)

 

⑤暴言その他の虐待

暴行は、「蹴られたくなかったら、さっさと歩け」「遅れやがって」「甘ったれるんじゃない」「立て馬鹿野郎」「こんなに根性のない奴は初めてだ」などの暴言(いずれも地裁判決文より)を伴っていたほか、四つん這いで歩いたり足を投げ出して倒れている者の両足を持って道を引きずったり、歩いている間は水分補給をいっさい許さず、昼食も乾パンを水なしで無理に口に詰め込ませました。

 

重傷を負って入院した木村君は、取材に応じて自分の体験を次のように話しています太字加工は小川)

 

1日目、30キロの荷をしょわされ歩かされた。しばらくして倒れたところ、シリを木の枝でたたかれた。直径5センチぐらい、なま皮をはいだ枝で、先をナイフでとがらしてあった。

一行からちょっとでも遅れると、クツでシリや足をけられて痛みだした。また、荷が重すぎて、1日目で左手がしびれだした。上級生に実情をいったところ、厳しい言葉でしかられ、またたたかれた。

3日目も、ちょっとでも遅れると棒で頭をなぐられロープや素手でほおを打たれた。口の中が切れて血が出てきた。歩いているあいだ一切、水は飲ませてくれない。昼食になるとカラカラののどに乾パンを押込まれる。早く食べたものからジュースを一口ずつ飲ませてくれるという状態だった。

何度なぐられたか数え切れない。新宿に着いた時は一人で歩けなかった。

(朝日新聞1965年5月22日夕刊)

 

このような状況で、石塚監督はその様子を写真に撮り、約100枚を自分のアルバムに整理して貼っていたそうで、警察が石塚の止宿先の家宅捜索でカメラなどと共に証拠品として押収しました。
 

朝日新聞(1965年6月4日夕刊)

 
押収された写真を見た記者は、次のように書いています太字加工は小川)
 

みんな身長ほどもあるナマ木を持って、上級生たちがたむろしている姿はまるで暴力団のなぐり込み。地べたに倒れた新人の腹の上にドロだらけの大きな登山グツが乗っかったり、頭をかかえてしゃがんでいる新人の上に棒切れをふりあげていたりする。完全に目をつぶった新人の両手足を四人がつかんでまるで死んだ動物でも扱うようにひきずっているところもある。”なぶり殺し“の現場そのもののふんいきがなまなましく伝わってくる写真ばかり。そんな光景を石塚や上級生が笑いながらみている姿も写っている。

しかも、どんな神経なのか、この写真には被害者の名前が矢印できちんと書込んである。いかにも楽しそうにシゴキ、写真をとった彼らの気持ちがさむざむと感じられる写真集だ。

朝日新聞(1965年6月4日夕刊)

 

次の写真は、石塚がアルバムに貼っていたうちの1枚で、新入生が東京農大の応援歌「青山ほとり」を歌いながら「大根踊り」をさせられている写真です。
 

週刊『昭和タイムズ 昭和40年』ディアゴスティーニ

 

事件を担当した東京・練馬警察署は、大学生のクラブ活動中の出来事ということから慎重に捜査を進めましたが、亡くなった和田君を除く1年生全員27人から事情を聴取した結果、極めて悪質な集団暴行事件であると断定して、まず5月25日に渡辺利治主将を傷害致死、藤岡徹副主将を暴行の容疑で逮捕しました。
 

朝日新聞(1965年5月22日夕刊)

 
さらに、OBや上級生の証拠隠滅の動きを察知した警察は、監督や他の上級生の責任追及のための証拠固めを急ぎ、最初に逮捕した渡辺・藤岡両容疑者の自供も踏まえて5月28日にさらに6人の学生の逮捕状を取ったほか、6月4日には先に見たように石塚彬丸監督を傷害致死容疑で逮捕しました。
 

藤岡副主将               渡辺主将

 

 石塚監督
 
最終的に起訴されたのは、監督と部のリーダー(運営委員)である主将・2人の副主将・総務・装備、そして4年生1人の計7人でした。
他に、和田君に何度も暴行した未成年の2年生1人が家庭裁判所に送られ、保護観察処分になっています。
 
警察の捜査と並行して、大学も5月25日に緊急教授会を開き、主将の渡辺利治を退学処分に、他の上級生全員を無期停学処分にすることを決め、6月2日には同部部長の新屋和夫助教授を「監督が不十分」として3ヶ月の休職処分にすると発表しました。
 
なおウィキペディアに、2年生のうち「シゴキ」に批判的で、この山行でも新入生への暴行に加担しなかった学生がひとりいたと書かれていますが、教授会は「事件と直接関係ないとみられる学生」についても「教育的な立場から全員を処分した」と記事には書かれています。
 
積極的に「シゴキ」を止めることまではしなかったとしても、その場を支配していた「空気」の中で、監督や上級生・同輩からの圧力を感じながらも「シゴキ」に手を貸さなかったとすれば、それだけでもとても勇気ある行動だったのではないでしょうか。
 
その事実を知りながら、軽重をつけず一律に処分した同大教授会は、「連帯責任」の名のもとに集団の全員に制裁を加えるという、よくある「体罰」の論理と変わらないのではないかという疑問を抱かざるをえません。
 
起訴された7人の初公判は、1965(昭和40)年8月27日、東京地裁刑事第7部(津田正良裁判長)で開かれました。
 
被告らは、個々の暴行についてはほぼ認めましたが、「共謀」については全員が否認したほか、「倒れている和田君を登山グツでけったのも激励のためだった」(石塚)とか「和田君が眠いからなぐってくれといわれてやった」「気力をふるいたたせるためなぐっただけで、和田君の死因に影響を与えるようなことはしていない」と口々に述べたそうです。
 
毎日新聞(1965年5月27日夕刊)
 
それに対して、1966(昭和41)年5月23日の論告求刑公判で大塚利彦検事は、アウシュビッツ強制収容所の例をひきながら「人間を人間として扱わず、馬や野良犬などの動物のように考えている行為だ。錬成とはいえない意味のない暴行で、たとえ、先輩から受けついだ方法であったにしても、無批判に受け入れた責任は大きい」として、石塚監督と渡辺主将に懲役5年、他の5人の被告に懲役3年を求刑しました。
 
毎日新聞(1966年5月24日)
 
1966(昭和41)年6月22日の判決公判で津田裁判長は、石塚・渡辺両被告に懲役3年執行猶予3年(求刑は懲役5年)、森・寺岡・薄倉・藤岡・古屋の5人に懲役2年執行猶予3年(求刑は懲役3年)を言い渡しました。
 
判決文は、同部の人間性を軽視した「伝統的錬成方法」とそれを無批判に踏襲した被告人等の「自主性の欠除」を次のように厳しく批判しています。

 

大学は人間形成の府であるから、そこで行われることはすべて、人間形成につながらなければならないのであって、聊(いささ)かも人間性を軽視するが如き行動は許されない。従って、体力を鍛錬し、精神力を涵養するにしても、ただ肉体、気力の錬磨であってはならないのであって、そこには個人の価値を尊ぶ自主的精神の育成がなければならぬ。殴る蹴るということは、一個の人格を否定する行為であり、その対象は物体に等しく、訓練される動物と選ぶところはない。このような事が大学体育部の名に於いて行われてよい筈(はず)はない。大学のクラブ活動には、考えること、批判することは不可欠のものであるが、農大ワンダーフォーゲル部に於いては下級生は上級生の行うことに絶対服従し、現役学生は先輩の為したことに無批判的に従って居るという実情であって、かかる風潮が、新人錬成の場に於いて殴る蹴るという方法を生みこれを伝統的な不変的錬成方法にまで育てたのである。

 

さらに判決文は、「本件を悲惨なものとしたことには参加の自由はあっても離脱の自由がなかったということである」と指摘しています。

 
執行猶予がつけられたのは、この事件が「伝統という抗し難い壁の中」で起きたもので被告等の個人的要因のみから生じたものでないこと、被告等は自らの行動を反省し被害者や家族に対し贖罪しようとしていること、和田君の父親である和田嘉平さんが「父としての悲しさを超え被告人等の行為を許したいと証言し被告人等の反省を認めている」との理由からでした。
 
この地裁判決は、双方が控訴せずに確定しています。

 

サムネイル
 

小川里菜の目

 

この事件は、新入生が命を落とす事態まで至ったため明るみに出ましたが、それがなければ闇に葬られたことでしょうショボーン

 

ということは、同部においてはこれまでにも錬成山行で重軽傷者が出ていたのでしょうし、さらに東京農大に限らず運動部の活動で広く同様の「シゴキ」が行われている可能性があります。

 

朝日新聞(1965年5月25日夕刊)は、「伝統の名でのさばる暴力」という見出しで、実例を紹介しています。

 

 

某大学のサッカー部は新人を毎週1回練習のあとで一列に並べ、先輩がビンタを張ることを“伝統”にしている。「なぜわれわれはひっぱたかれるのですか」などと聞こうものなら「そんなことを聞く根性がイカン」とまたピシャリ。実は、ひっぱたいている本人も理由がわからないのである。「自分も新人のとき上級生にそうされた」——これがたった一つの理由なのだ。

新人同士が向かいあって並び、互いにひっぱたき合う。これも伝統的な行事になっている野球部もある。(略)この場合は敵を徹底的にたたきのめす“不屈“の精神と根性を養うのが目的だといい伝えられている。

 

のちに何人もの死者・行方不明者・自殺者を出した戸塚ヨットスクールのいわゆる「スパルタ教育」にもつながるものですが、力づくで人間を生命の危険を感じる限界にまで追い詰めることが精神的な強さ(根性)を鍛えることになるという非科学的な精神主義が運動部において根強くあり(戸塚宏も学生時代にヨット部でそれを身につけた)、それが指導者・先輩による「シゴキ」や「体罰」を生んできたのですびっくり

 

農大ワンゲル部の「シゴキ」にもありましたが、運動中の水分補給が推奨された小川の世代と異なり、いま35歳ぐらいより上の世代までは、部活中に水を飲むことはどこでも禁止されていたようですガーンあせる

 

今となってはまったく非科学的で生命の危険すら引き起こしかねないことなのですが、科学的な根拠があるかどうかよりも、「苦しさに耐えることで精神面が鍛えられるはずだ」という「信念」(主観的思い込み)がその理由だったのでしょう。

 

苦しいだけで効果がなく身体にも悪いとわかって今では誰もしない「うさぎ飛び」が、足腰を鍛えるためのトレーニングと称して広く行われていたのも、「根性を鍛える」という同じ理由からだったと思います。

 

『巨人の星』より

 

先にあげた新聞記事には、「このようなバカげたことを歓迎する空気が、大学当局や父兄の一部にあることも事実のようだ」と書かれていますが、最初は「バカげたこと」と感じていた本人自身が、それをやり続けるうちに次第に肯定的になり、そのうちそれを強制する側に回るというのが怖いところです。

 

東京地裁の判決文でも、「被告人等は新人、2年の時には体に手をかける錬成方法に疑いを抱いたが3年になってからはこれを肯定するようになったといい、身体に手をかける錬成方法は絶対必要であると供述している」と書かれています。

 

そこには、自分が苦しい思いをしてやったことを否定したくないという自己肯定の欲求が働いているでしょうし、何より学年が上がるにつれて「身体に手をかけられる」側から「かける」側に自分が立つことがもたらす優越感が大きかったのではないでしょうかキョロキョロ

 

この事件について知った時、最初は小川は、上級生らが新入生に「シゴキという名のいじめ」をして楽しんでいるのではないかと思いました。

 

しかし、東京地裁の判決文に書かれたシゴキの様子を読むにつれ、和田君を死に至らしめるほどの暴力を振るった上級生の中には、本当にそれが彼のためになると信じ、ある意味「善意」で殴ったり蹴ったりした者も多かったのではないかと思えてきたのです。

 

それはとても怖いことです。

なぜなら、悪いことと知りながら悪を行う人と異なり、善いことだと信じて悪を行う人は、自分の悪行を反省することができないまま悪を重ねてしまうことになるからです。

 

(オウム教団から見た)悪人を殺すことは、その人を救う慈悲の行為だ」という、まやかしでしかない「ポア」の論理で、教祖の命ずるまま幼い子どもさえも容赦せずに殺人を重ねたオウム真理教の信者たちに、その最も醜悪な姿を私たちは見ることができるでしょう。

 

最後に一つ付け加えておきたいことがあります。

それは、この事件にはワンゲル部だけでなく東京農大自体が当時持っていた暴力的な体質が関係しており、農大当局もそれに対して決して無関係ではなかったということです。

 

5月26日、亡くなった和田昇くんの慰霊祭が大学で行われました。

 

 

この時に、一部の学生が「事件の真相を発表せよ」「責任を明らかにせよ」と追及したことから、翌27日に大学は体育館で「経過報告」を行いました。

 

朝日新聞(1965年5月27日)

 

しかし、二千人ほど集まった学生たちのほとんどはその内容に満足せず、ただちに同大学学生会が緊急学生会に切り替えて「農大から暴力追放」など6項目を決議しました。

 

朝日新聞(1965年5月28日)

 

学生大会が5月28日に続いて開かれましたが、「農大からの暴力追放」に関連して同大学応援団の暴力的な勧誘や学内での行動に批判の声が上がったことから、応援団員と見られる学生たちが壇上に駆け上がってマイクを奪ったり「学生大会」の横断幕を引きずり下ろしてわめくなどの暴力行為におよび、会場は「異様な光景」を呈したそうです。

 

朝日新聞(1965年5月29日)

 

先に見たように、この事件で大学は、ワンゲル部の主将を退学に、他の上級生を無期停学にしましたが、学生たちは、学内の暴力に目をつぶって学生だけに責任を負わせるのはおかしいという理由で処分の撤回も要求したそうです。

 

処分しないことが妥当とまでは思えませんが、大学側が事件を生んだことへの自らの責任に口を閉ざしたまま、第三者のような顔をして直接(末端)の当事者だけを処分して終わりとすることへの学生たちの不満や怒りは十分理解できます。

 

その後の経過については調べられていませんが、この事件がきっかけとなって、運動部のあり方の見直しだけでなく、東京農大にあったとされる暴力容認の土壌が払拭される方向に進んだのであれば、和田君の無念の死も決して無駄にはならなかったと思い、そうあってほしいと願う小川ですショボーン

 

【 追記  2024,4,25

このブログをアップした後で、読者の方から石塚元監督のその後についてご教示をいただきました。

改めて調べたことを追記しておきます。

 

石塚元監督の出身地は、在日米軍横田基地のある東京都西多摩郡瑞穂町で、石塚家はその地の旧家・名家らしく、代々の当主には「幸右衛門」という名跡(みょうせき)があって、石塚彬丸(「りんまる」と読むようです)元監督も襲名後は第6代「石塚幸右衛門」を名乗っています。

事件当時彼はある会社に勤めていましたが、裁判時には無職となっていますので、起訴により解雇されたか辞職したと思われます。

その後彼の名前が公の場に出てくるのは、1997(平成9)年4月に瑞穂町の町議会議員になった時です。

実は彼の父親である第5代幸右衛門(石塚敏之助)は、瑞穂町ができた時(昭和15年、この年に息子の石塚元監督が誕生した)の初代町長で、その後にも1期町長になっており、彼はいわゆる地元の世襲政治家になったのです。

さらに石塚元監督は、2001(平成13)年5月から四期連続して2017(平成29)年まで瑞穂町長になっています。

次の写真は、2010(平成22)年に福生(ふっさ)青年会議所が開いた「瑞穂町長を囲む会」での石塚元監督/町長(まもなく70歳になる)です。

 

 

裁判の判決に服したわけですから、その後こうして政治家となり町長を務めたこと自体、非難すべきことではありません。

 

しかし、今年83歳になった彼が、かつて自分の行った「シゴキ」によって、まだ18歳で命を奪われた和田昇君や重傷を負った木村弘君・松本定君(後遺症はなかったでしょうか……)とそのご遺族・ご家族にどのような贖罪をしたのか、その時の真摯な反省から、町長として学校でのいじめや体罰をなくし町民の人権意識を高めるためにどのように努力し実績をあげたのか問いただしたいですし、それに応える責任が石塚彬丸(幸右衛門)氏にはあると思う小川です。

 

参照資料

・新聞の関連記事

・東京地方裁判所 昭和40年(合わ)182号判決

 

 

 

 先週は大阪で3日間の介護研修に参加しました。

帰りに同僚4人でネモフィラを見に行きました音譜

雲っていて18時前でしたが、綺麗な写真が撮れましたにっこり

 

 

 

 

 

 

読んでくださり、ありがとうございましたニコニコ💙

 

 

 


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