城丸君事件

1984年

毎日新聞(1998年11月16日)
 


1984(昭和59)年、札幌市豊平区に住む小学4年生の城丸秀徳君(当時9歳)が、電話で呼び出されて家を出たまま行方不明になり、4年後の1988(昭和63)年にとある農家の納屋から人骨が見つかり、さらに10年後の1998(平成10)年にそれが城丸君の遺骨であると判明する、何とも不可解な事件が起きました。
 
城丸秀徳君の写真を掲げ
公判での真相解明を訴える母の照代さん
 
【城丸秀徳君の失踪】
事の発端は、北海道では学校がまだ冬休みだった1984(昭和59)年1月10日の午前9時30分ごろ、城丸さん宅にかかってきた一本の電話でした。
 
これから朝食をとろうとしていた城丸家では、母親は食事の支度を、父親はリビングで新聞を読んでおり、小学6年生の兄と中学1年生の姉もそこに居合わせたそうです。
 
リビングに置かれた電話の受話器を取ったのは、末っ子の秀徳君でした。
 
電話は彼にかかって来たものらしく、年上の人と話すように緊張し、家族に会話を聞かれたくないかのような小声で受話器を手で隠すように「はい、はい……」と聞いていた秀徳君は、「分かりました」と言って電話を切ると、「ちょっと出かけてくる」と急いで外出しようとしたのです。
 
電話の様子を不審に思った母親が、どこに行くのか尋ねたところ秀徳君は、「ワタナベさんのお母さんが、僕の物を知らないうちに借りた。それを返したいと言って、来てくれと言うんだ。函館に行くと言っている。車で来るから道で渡してくれる。それを取りに行く。」「100メートルくらい離れたところに、おばさんが持って来てくれる。」(高裁判決文)と説明したそうです。
 
ただこの「説明」は常識ではありえない内容のため、秀徳君がとっさに考えた「嘘」ではないかという指摘があり、その可能性は高いように思われます。
ちなみに、秀徳君の友人や家族の知人に「ワタナベ」という人はいないとのことです。
 
居合わせた家族も彼の言っていることの意味がよく分からないまま、寒いからと差し出したコートを着て飛び出した秀徳君を心配した母親は、ついて行くよう兄に頼み、彼も弟の後を追って家を出ました。
 
ところが秀徳君は、60mほど後ろからついて来る兄に気づいたのか逃げるように駆け出し、あるところで左に曲がったように見えた*まま姿を消したのです。
 *兄は視力が悪いためにはっきりとは見えなかったという
 
矢印の方向に秀徳君は行き
二楽荘付近あるいはその先のT字路を
左折して姿が消えた
緑の丸は渡部さん宅(事件と無関係)
 
兄は、秀徳君が見えなくなったあたりを探しましたが見つからず、「渡部」という表札の家があったのでここに入ったかと思ってしばらく前で待っていましたが、弟が出てこないので一旦家に帰って事情を話し、母親が一緒に来て渡部さん宅を訪ねました。
 
ところが、出てきた渡部さんの娘さん(当時高校3年生)は、朝から両親は不在であり、電話はしていないし、そのような少年も来ていないと言うのです。
 
母と兄と後から駆けつけた父・姉も一緒になって付近を懸命に探しましたが、秀徳君の姿はどこにもありません。
 
途方にくれた両親は、地区の交番に電話をして息子が行方不明であることを話し、その後も彼が家に戻らないので、午後になって交番に出向き捜索を依頼しました。
 
そこで交番の警官が行方不明になった付近の聞き込みに回ったところ、有力な情報が得られました。
 
それは、二楽荘2階の1号室(写真の2階手前の部屋)に1歳7ヶ月の娘と住んでいる工藤加寿子(当時28歳)という女性が、午前10時前に外の空気を吸おうと部屋を出て1階に降りると、そこにいた少年から「2階に玄関*のあるワタナベさんという家を知りませんか」と聞かれたので、二楽荘の北隣の渡部さんのことかと思って教えたが、そのあとのことは知らないというのでした**。
 *積雪の関係で北海道では、階段を上がった2階に玄関のある家は珍しくない
 **高裁判決文にこの記述はなく、単に秀徳君が(「2階に玄関がある家」と間違って)二楽荘に来た(ので隣家の渡部さん宅を教えた)ことを工藤元被告は認めたと書かれている(カッコ内は小川の推測による補足)
 
2010年に撮られた二楽荘
外階段を上がった2階の手前が工藤元被告の部屋
現在はマンションに建て替えられている
 
そこで警察官は渡部さん宅を訪ねますが、母と兄が聞いたのと同じ話しか得られず、念のためにと任意で家の中も見せてもらったそうですが、事件と関係ありそうな点は何も見当たりませんでした。
 
工藤元被告が秀徳君の最終接触者だと分かったので、午後4時ごろに警察官が再び二楽荘の工藤宅を訪ねて改めて話を聞き、その時に任意で部屋の中をざっと見たそうですが、秀徳君はおらず不審な点もなかったそうです。
 
秀徳君の父親の城丸隆さん(同54歳)は、二つの会社の代表取締役を務め、豪邸に3台の外車を持つ近隣ではよく知られた裕福な家庭だったので、営利目的誘拐の可能性を考えて城丸さん宅に警察官が10日間泊まり込んで犯人からの電話を待ちましたが、何の連絡もありませんでした。
 
1月14日に警察は、公開捜査に踏み切って情報提供を待ちましたけれど、有力な情報は何も寄せられなかったそうです。
 
その時点で警察が、城丸さん宅に泊まり込んだように、工藤元被告を秀徳君失踪の有力容疑者としてその動きを徹底的にマークしていれば、事件は(残念な結果とはいえ)すぐに解決した可能性がありました。
 
というのも、事件当日である1月10日の夜に工藤元被告は、義姉に頼んで車で二楽荘に来てもらい、大きな段ボール箱を運び出すという不審な動きを近所の人に見られているのです。
 
段ボール箱の中に何が入っていたかは分かりませんが、工藤はそれを転居のたびに持ち運び、最後は後で述べる再婚相手の農家の庭で焼却しているのです。
その時、ひどい異臭が漂ったことを近所の人は覚えており、後日、秀徳君のものと判明する袋に入った人骨が発見されたのは、その農家の納屋の中でした。
 
このことから考えると、工藤元被告が事件当夜に大胆にも運び出した段ボール箱に、変わり果てた秀徳君が入っていた可能性は極めて高く、張り込んでいた警察官が現場を押さえていれば、決定的な証拠もろとも犯人を挙げることができたわけです。
 
しかし、身代金を要求する連絡もなく、有力な情報もないままに、捜査は暗礁に乗り上げてしまったのです。
 
そして、事件から1週間後に工藤元被告は生活保護を申請し、さらに1月26日には二楽荘を引き払って札幌市清田区のアパートに転居しています。
いったんは親戚(義姉?)宅に預けた例の段ボール箱を早く引き取る必要があったことも、急な転居の理由だったでしょう。
 
ちなみに、転居直後でしょうか、同日に警察は二楽荘の工藤の元居室でルミノール反応検査をしていますが、室内から血痕は見つかりませんでした。
秀徳君の骨からも死因は特定できませんでしたけれど、情況を考えると刺殺ではなく、絞殺ではないかというのが大方の見方です。
 
こうして城丸秀徳君の行方不明事件は、何の手がかりもないまま虚しく年月が過ぎていったのです。
 
【工藤加寿子元被告とは】
1955(昭和30)年に北海道新冠(にいかっぷ)郡新冠町に、両親と兄姉の5人家族の次女として生まれた工藤加寿子元被告は、中学を卒業すると集団就職で上京します。
 
しかし、勤めた紡績工場になじめず、北海道に戻って登別温泉で販売店員になりました。
そして、19歳(1974年)で静岡県熱海市のスナック従業員となってから、いわゆる水商売の世界で生きるようになり、横浜や神戸、東京と各地を転々とします。
 
工藤加寿子
 
1982(昭和57)年に東京上野でショーパブを経営する男性と結婚し娘を出産した工藤ですが、翌年には離婚しています。
 
その後、札幌の歓楽街ススキノの高級クラブでホステスとして働くものの、東京にいる時から店や同僚に借金を重ねていた工藤は、事件当時は合わせて800万円を超える借金を背負って、一部は早急な返済を迫られていたそうです。
 
工藤が陥っていたこの経済的にせっぱつまった状況が、事件を起こす動機だったのではないかと強く疑われたのです。
 
【思いがけない展開】
二楽荘から姿を消した工藤元被告は、2年後の1986(昭和61)年に、北海道樺戸郡新十津川町の農業・和歌寿美雄さん(当時35歳)と見合い結婚をしています。
 
それまで農業一筋で生きてきた和歌さんとホステスの女性とでは生活環境や価値観が違い過ぎてうまくいくはずないと家族はこぞって反対したそうですが、女性経験の乏しい和歌さんは、男の扱いに手慣れた工藤元被告に一目惚れしてしまい、「農業はしなくてもよい」など工藤の要求をすべて受け入れて結婚しました。
 
先に見た秀徳君の遺体が入っていたのではないかと思われる「段ボール箱」を工藤が燃やしたのは、和歌さんの自宅の庭においてです。
 
こうして「専業主婦」になった工藤は、農業どころか主婦としての家事もせず、昼ごろに起きてきては暇を持て余して毎日パチンコに通ったり、娘を連れて旅行に出たまま1週間も帰らないような好き放題の生活をするようになります。
 
新婚早々から寝室も別で、和歌さんが家の建て替えにとコツコツ貯めてきた2千万円とも言われる貯金を勝手に下ろして使い果たすような「妻」の行状に、さすがの和歌さんも心身の調子を崩して、心をゆるした義兄に「殺されるかもしれない」と酒の席で打ち明けるようになります。
 
義兄からも離婚を強く勧められた和歌さんが、ようや工藤と別れる決意を固めた矢先の1986(昭和61)年12月30日午前3時ごろ、和歌さん宅から出火し母屋が全焼、焼け跡から和歌さんの焼死体が見つかるという「限りなく事件に近い事故」が起きます。
 
【不審火で亡くなった夫に2億の保険金】
深夜の出火にもかかわらず、逃げ出した工藤母娘はおでかけの時のように着飾って化粧もしロングブーツを履くという「避難姿」で、衣服などの二人の荷物だけは母屋の外に運び出されていて火災を免れました。
 
また、預金通帳や印鑑、保険証書などをしっかり持ち出す準備の良さとは裏腹に、消防への一刻も早い通報が必要であるにもかかわらず、わざわざ隣家ではなく自宅から300mも離れた家に行って呼び鈴を鳴らして家人が起き出してくるのを悠長に待っているという信じられない行動を工藤元被告はとったのです。
 
しかも、工藤は和歌さんに勧めて、妻を受取人とする死亡時1億9千万円もの生命保険をかけさせていました。
 
毎日新聞(1998年11月16日)
 
どこから見ても工藤の関与が疑われる出火で、警察は保険金殺人を疑ったようですが、地方の小さな自治体の消防では火災調査の経験もノウハウも乏しかったのか、火元や火事の原因を特定することができないまま、この一件を「事故」として処理してしまいます。
 
和歌さんの葬儀での工藤加寿子
 
そこでさっそく工藤元被告は、和歌さんの生命保険金の支払いを保険会社に請求します。
しかし、さすがに保険会社は不審な事案として支払いを拒否したために、工藤は訴訟に持ち込みました。
けれども、裁判の場で真相が暴かれることを恐れたのか、工藤は途中で訴えを取り下げ、高額の保険金を受け取ることはできませんでした。
 
火災の翌年、1988(昭和63)年6月、義兄ら和歌さんの親族が焼け跡の整理をしていた時、延焼を免れた納屋の中から、ビニール袋に入った人骨を見つけ警察に届け出ました。
 
全焼した母屋と焼けなかった納屋(左)
 
当時のDNA鑑定技術では身元の特定はできなかったものの、血液型や身体の特徴が行方不明になっている城丸秀徳君とほぼ一致したため、工藤が関与しているのではないかと疑った警察は、1988(昭和63)年8月4日に彼女から任意で事情聴取をし、ポリグラフ(いわゆる「嘘発見器」)にもかけました。
 
 

 
ポリグラフ検査では、「秀徳君の首を絞めて殺しましたか」などいくつかの質問に精神的動揺を示す反応が見られたものの、情況証拠にできるほどの結果は得られなかったようです。
 
また、任意での事情聴取で工藤から、秀徳君失踪に関わっていることをほのめかすような言動があったとされますが、具体的に踏み込んだ供述はありませんでした。
 
【工藤の逮捕と裁判】
それから10年が経過した1998(平成10)年2月に警察庁が「短鎖DNA鑑定」という従来より精度の高い新しいDNA鑑定法を導入したのを受け、9月に北海道警察科学捜査研究所が秀徳君ではないかと思われる人骨を改めてDNA鑑定したところ、秀徳君とほぼ特定することができました。
 
そこで警察は、当時15年だった殺人罪の公訴時効が迫っていることから、11月15日に工藤加寿子を城丸秀徳君の殺害容疑で逮捕し、12月7日に札幌地裁に起訴しました。
なお、この時までに傷害致死(7年)や死体遺棄(3年)、死体損壊(3年)など可能性・関連性のある罪状はすべて当時の公訴時効が成立していたため、工藤容疑者が黙秘という姿勢を貫く中で、殺害の動機や方法、とりわけ殺意の立証という極めてハードルの高い殺人罪でしか工藤を起訴することができなかったのです。
 
毎日新聞(1998年11月29日)
 
毎日新聞(1998年12月8日)
 
札幌地裁での初公判は、1999(平成11)年4月26日に開かれ、工藤加寿子被告は起訴事実を全面的に否認し、弁護側は公訴棄却を求めました。
 
被告は、冒頭の罪状認否以外は、400余りのすべての訊問に対して黙秘の態度を貫きました。
 
毎日新聞(1999年4月26日夕刊)
 
2001(平成13)年5月30日、札幌地裁の佐藤學裁判長は、工藤被告の事件への関与が濃厚ではあるが、秀徳君への殺意については疑いが残るとして、無期懲役の求刑に対し無罪を言い渡しました。
 

 

車に乗せられ出廷する工藤被告

 

法廷に入る秀徳君の両親と祖母

 
検察側は判決を不服として札幌高裁に控訴しましたが、門野博裁判長は2002(平成14)年3月19日の判決公判で、「手段、方法は特定できないが、被告が秀徳君の死につながる行為に及んだことが認定できる」と一審の判断を追認しながらも、被告が経済的にひっ迫していたとしても「殺意を推認させる証拠もなく、殺意を認定することはできない」と工藤被告に無罪を言い渡しました。
 
それに対して検察が上告を断念したため、工藤被告の無罪が確定したのです。
 
無罪確定後に工藤元被告は、2002年5月2日に勾留期間の刑事補償1160万円を請求する訴えを地裁に行い、11月に928万円の支払い決定を受けています。
 
工藤元被告については、3度目の結婚・離婚をしたとも伝えられますが、その後の消息は知られないままで、もし存命であれば今年で69歳となるはずです。
 

 

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小川里菜の目

 

真相は闇の中ながら、これは、わずか9歳の少年が何らかの形で命を奪われた悲惨な事件で、また仮に和歌寿美雄さんの焼死も人為的なものであり、かつ同一人の犯行だとすれば、連続殺人事件ともなる凶悪犯罪だったことになります。

 

 

 

城丸君失踪の容疑者とされ殺人罪で起訴された工藤加寿子元被告への疑いは、札幌地裁と高裁のいずれにおいても関与が事実上認定されるほど濃いもので、小川も和歌さんの焼死を含めて彼女が犯人ではないかという心証を強く持っていますキョロキョロ

 

それにもかかわらず工藤元被告が無罪となったことについては、「黙秘権」の行使に注目が集まりましたけれど、それが有罪への壁になったと小川は思いませんショボーン

犯罪の立証責任は訴える側にあり、被疑者に自分に不利な証言をしない権利として黙秘権が保障されているのは、現代の司法として当然のことだからです。

 

また仮に、彼女が法廷で検事による被告人質問に黙秘でなく答えたとしても、自分の罪を自白するようなことでもしない限り、「無罪」という結果は同じだったと思われるからです。

 

有罪を立証するための物証がない最大の原因は、初動捜査に甘さがあったことではないでしょうか。

 

例えば、ネットでも指摘があるように、すぐに警察犬を投入して秀徳君の足跡を追わせることはできなかったのか、そして先に書いたように、最終接触者で警察も何らかの関与を疑っていたはずの工藤元被告人を、家宅捜索の令状をとるまではできなかったとしても、どうして行動をマークせず、彼の遺体が入っていたと思われる段ボール箱の当日夜の搬出をみすみす見逃してしまったのかです。

さらに、これも先に述べましたが、和歌さん宅の火災の原因が解明できないまま、工藤元被告の行動に不審な点が山ほどありながらも簡単に「事故」と断定してしまい、それ以上の捜査をしなかったことです。

 

城丸秀徳君と和歌寿美雄さんのいずれかで、もっとしっかりした初動捜査が行われていれば、その時点での事件解決も可能だったと思われるだけに、残念で仕方ありませんショボーン

 

最初のチャンスを逃してしまったあと、人骨が発見されてからそれが秀徳君の遺骨だと確定するまでに10年かかったのは、DNA鑑定技術の問題で仕方なかったと思います。

その結果、殺人罪以外の罪状がすべて公訴時効を迎え、殺人罪の時効成立もあとわずか2ヶ月ほどと迫った中での無理を承知の起訴となってしまいました。

 

初動捜査の不備が悔やまれるのは、工藤の犯行だと仮定しての話ですが、それが緻密な計画的犯行ではまったくなく、首をかしげるほどずさんな犯行だったからです。

 

和歌さん宅の出火時にも、午前3時に母娘が着飾って「避難」し、消防への通報もすぐにせずに十分燃えるのを待っていたかのような行動をとるなど、工藤元被告には常識的に考えて被災者を装うだけの知力も欠けているのではないかと思うほどの奇妙さです。

 

秀徳君の場合も、冬休みでまだ家族が家にいる可能性の高い時間帯に、誰が取るかもわからない家の固定電話にかけて呼び出すというのも妙な話です。

もし、何時に電話するから必ず秀徳君が取ってと前もって打ち合わせていたのなら、そんな面倒なことをせず、待ち合わせの場所と時間を決めておけば済む話です*。

また呼び出すとしても、秀徳君を利用して良からぬこと**を考えていたとすれば、自分の家に直接来るように言うなど、あまりにも用心深さに欠けます。

 *電話の主に秀徳君が何らかの弱みを握られ脅かされていたのではという指摘については、電話で話す秀徳君の緊張した様子からも可能性があると思いますが、それならなおさら家族に知られないように秀徳君を呼び出すのが普通だと思います

 **検察は、工藤元被告による身代金目的の誘拐という見方を示していましたが、誘拐という犯罪の難しさから、高裁段階では秀徳君を操って家からお金を持って来させようとしたのではないかという可能性を裁判官は示しています。ただ、わずか9歳の子どもに家からまとまった額のお金を持って来させることなどできるのか、という疑問は残ります。

 

こうした「普通に考えるとありえない」としか思えないことから、だから工藤は「無実」だという主張があるかもしれませんが、秀徳君の遺骨の保管という工藤以外の関与が考えられない事実がある以上、「無実」という推理は成り立たないでしょう。

 

とすれば先にも触れたように、工藤元被告人自身が、計画的かつ常識的に考え行動するだけの知力に欠ける人物だったとしか小川には考えられないのです。

 

工藤が抱えていた膨大な借金も一体何に使ったお金なのか、和歌さんが貯めていた2千万円とも言われる貯金をわずか数ヶ月でパチンコだけに使い果たしてしまったのか……、そこから感じるのは、彼女の「悪知恵」というより、後先も考えずにその時々の気分で散財する、何の思考も働かさない「愚かな欲望」でしかありません。

 

もしもそのような人物のずさん極まりない犯行で何の罪もない2人の人間の命が奪われ、行為のずさんさにもかかわらず結果としてそれが「完全犯罪」になることを許してしまったのだとしたら、亡くなった城丸秀徳君と和歌寿美雄さん、そしてその遺族の方たちの無念は癒やされることがないでしょうショボーン

 

一事不再理の原則から、工藤元被告の無罪は確定したまま再び裁かれることがないだけに、せめてこの事件の捜査のどこに問題があったのかの検証だけはしっかりとしなければならないのではないかと思う小川です🔚

 

 

休日の昼下がり、昭和レトロな喫茶店に行ってみました♡

 
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やっぱりスタバとは違い、扉を開けるのに勇気がいります驚き💦

 

入ってみると音楽が控え目にかかり、人も少なく静かで、時の流れが急にゆったりしたような気持ちになりました。
 
昭和な雰囲気に誘われて、クリームソーダ、アイスクリーム、プリンアラモードと、ついついたくさん食べてしまいましたよだれ飛び出すハート

 

 

 

 
読んでくださり、ありがとうございましたニコニコ
次はリクエスト企画にします。
次回もよろしくお願いいたします💕

 





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