1988(昭和63)年
 
 
朝日新聞(1988年7月22日夕刊、23日)
 
1988(昭和63)年7月18日、東京都豊島区西巣鴨にあるマンションの一室で、兄である14歳の少年と2人の妹(7歳と3歳)、それに生後6ヶ月ぐらいの乳児の白骨化した遺体(前の住居で突然死した次男の遺体を、母親がトランクに入れて持ってきていた)が見つかったこの事件は、社会的にも大きな反響を呼びました。また、2004(平成16)年には、この事件をモチーフにした映画『誰も知らない Nobody Knows』(監督 是枝裕和)が公開され、あらためて注目を集めました。
 
 
【事件の背景と概要】
有名な事件だけにネット上にもたくさんの関連記事がアップされ、事実関係についてはほぼ言い尽くされていますので、ここでは主に事件の背景とそれに関係する出来事についてまとめることにします。
 
社会学者の中森弘樹さんによると、1970年代に入ってマスメディアで「蒸発」(自分の意志で突然姿を消すこと)、特に「妻(主婦)の蒸発」が話題として多く取り上げられるようになったそうです。その後、1980年代の後半になると、雑誌などでこの話題が取り上げられる数は急速に減少していったようですが、最初にあげた新聞記事には、依然として「母が蒸発」という言葉が見出しに使われています。
 
警視庁の調べによると、「妻の蒸発」の原因としては「家庭不和」(夫への不満)が最も多く、妻の「異性関係」がそれに次いで多かったようです。その背景には、たとえ夫や家庭に不満があっても妻は我慢して耐えるべきだという古い「女の美徳」が廃れてきたこと、そしてそれとも関係しますが、女性も結婚や家庭という枠に縛られることなく自分の欲望に忠実に生きて良いのだというウーマンリブ(女性解放)的な価値観の影響があったと思われます。
 
ですのでメディアでも、「女性の自由」という視点から「蒸発」をある程度肯定的に捉える論調がある一方で、それが「子捨て・子殺し〝犯人〟になる可能性が大だから始末に悪い」(『アサヒ芸能』1974.10.17)といった否定的評価の両面があったようです。
 
この「子ども置き去り」事件を起こした40歳の母親がまさにその「子捨ての〝犯人〟」になったのですが、彼女は全部で6人もの子どもを産みながら一度も結婚したことはありません。しかも、子どもたちの多くの父親は異なる男性でした。
 
母親は、最初に産んだ子どもを養子に出した後、次の子(兄である少年、長男1973年生)の父親と同棲を始め、彼が婚姻届を提出し子どもの出生届も出したと思い込んでいましたが、実は父親がそれらを出さずにいたという説があります。そして母親は、子どもが小学校入学を迎える年になっても役所から何の連絡もないことを疑問に思い問い合わせたことでようやくそのことに気づいたというのです。しかし、裁判の判決文では私生児であることから母親本人が出生届を出さなかったと書かれており、出生届についてはこちらの方が事実と思われます。
どちらであったとしても、それによって少年は「無戸籍者」となり、現在の制度では社会的には存在しない人間として扱われる状態に置かれたのです。
 
母親はさらに、同棲していた男性が借金を作って失踪したあと、次々と別の男性と関係しては子どもを産んで別れるを繰り返し、生まれた子どもたち(長女1981年生、次女1983年生、次男1984年生/同年死亡、三女1985年生/1988年死亡)もすべて「無戸籍者」となってしまいます。
戸籍がなければその存在が公的に認知されず、その状態を放置したままだと義務教育を受ける教育権などの権利を行使して公共サービスを受けることもできなくなります。
 
朝日新聞(1988年8月5日夕刊)
 
たとえば、亡くなった次男と三女については、戸籍がないために火葬の許可がおりず、事件が発覚して2週間たっても2人が解剖された東大医学部内に置かれたままになっていました。
 
身元不明の行き倒れ人の場合には、死亡診断書の代わりに司法解剖の結果出される死体検案書によって埋葬・火葬の許可が出るのですが、その場合はいわゆる「無縁仏」になってしまいます。
それでは亡くなった子どもたちがあまりにも不憫です。
 
そこで役所は、2人は母親の存在が明らかなので、母親以外に内縁の夫や妊娠中にかかっていた病院の医師、妊娠に気づいていた周囲の人など出生を証明できる人を探し出して、新たに戸籍を作る方向で動きました。
 
その結果、後で見るように、8月9日に母親が出した出生届をもとにして、ようやく子どもたちの戸籍が作成されたのです。
 
児童虐待は「身体的虐待」「性的虐待」「心理的虐待」「ネグレクト」の4つに分類されます。そのうち「ネグレクト」(「無視」「放置」を意味する英語のneglect)は、食事を与えないなど一般に「育児放棄」と言われるものを指しますが、このように子どもを無戸籍者にしてそのまま放置する行為はもっとも根源的なネグレクトと言うべきものでしょう。
ただ、「ネグレクト」という言葉が初めて法律で用いられたのは2000(平成12)年に施行された「児童虐待防止法」からなので、この事件当時はまだネグレクトの概念は一般にはよく知られておらず、殴る蹴るのような見えやすい身体的暴力しか虐待と認識されていなかったかもしれません。
 
母親は、マンションで子どもたちと暮らしていた間は、デパートで販売員として働きながら子どもたちの面倒を見ていたようですが、新しい男性と付き合うようになり、事件前年(1987)の秋に彼と千葉県内で同棲するため20万円を置いて出ていきます。男性と暮らす浦安市の住所を少年に教え、時たま様子を見に戻ったりしていたといいますが、1988年の1月中旬ごろから訪ねてくることもなくなります。
このように、本当なら中学校に通っているべき少年に、学校にも行かせず幼い妹たちの世話をすべてやらせて自分は新しい恋人とよそで生活するというのは、弁解の余地もないネグレクトそのものです。
 
そのような状況にもかかわらず少年は、妹たちの面倒を献身的に見ていたようです。けれども、母親が書留郵便で送ってきていたお金が滞りがちになり、思い出したようにわずか2万円ばかりが送られるだけになってからは、2月を最後に月9万円の家賃も滞納するようになって、ガスと電話が止められてしまいます。
マンション1階にあったコンビニに毎日のように少年はおにぎりや食材を買いに行ったそうですが、ガスが使えないために風呂も水風呂、それにお金も底をつくという八方ふさがりの状態で、発見された時に妹たちは衰弱し切っていました。
 
現在のマンション(店は当時と異なる)
 
また、実はこのマンションには3人目の妹(2歳)がいました。ところが、少年がお菓子屋で知り合った2人の「不良少年」(いずれも12歳)がマンションにたむろするようになり、ある時そのうちの1人が、自分が置いていたカップ麺を食べたと疑ってこの末の妹に暴行し、その後で面白半分に押し入れの上から落としたり蹴ったりして死なせてしまいます。
困った「不良少年」たちと兄は、遺体を埼玉県秩父市内の雑木林まで運んで捨てますが、最初の暴行には兄も一部関わっていたことが判明します。そのために、置き去り事件が発覚後に兄も傷害致死と死体遺棄容疑で逮捕されました。
 
 
朝日新聞(1988年7月25日、26日)
 
兄はそれまでにも、言うことを聞かないと妹たちを叩いていたらしいですが、まだ中学生の年齢で毎日の生活のやりくりをしながら幼い妹たちの面倒を懸命に見ていたその重荷とストレスを考えると無理からぬ話で、妹たちへの暴力の原因は親のネグレクトという暴力にあることは明らかです。
 
この子ども置き去り事件は、家賃の滞納が続いたためにマンションの大家が家を訪ねて子どもたちだけで生活していることが分かり警察に知らせたことから発覚します。そして事件を報じるテレビのニュースを見た母親が警察に出頭して、保護責任者遺棄容疑で緊急逮捕されました。
 
朝日新聞(1988年7月24日)
 
その後、少年は東京家庭裁判所に送致されますが、検察は「母親がいれば起こらなかった事件であり長男には教育的措置が必要」だとして、児童福祉施設である教護院(1997年に児童自立支援施設に改称)へ送ることが相当との異例の処遇意見を付けました。また2人の「非行少年」については刑事責任を問える年齢ではないとして補導されたようです。
 
朝日新聞(1988年8月11日)
 
また子どもたちの戸籍については、母親が8月9日に出生届を提出してあらたに戸籍が作られました。また、東京地方裁判所での保護責任者遺棄致死罪の公判では、母親が同棲していた男性と共に、正式に結婚して子どもたちを引き取り育てると誓約したことを裁判官も考慮したのでしょう、懲役3年執行猶予4年という比較的寛大な判決が下されました。
 
朝日新聞(1988年8月10日)
 

 

サムネイル

小川里菜の目

 

この事件では、自分が新しい恋人と生活するために、子どもたちを放置した母親の無責任なネグレクトが厳しく批判されました。

 

新聞報道や東京地裁の判決書によるとこの母親は、川崎市内の私立高校を卒業後に服飾専門学校に進みます。その後、歌手を志してコロンビアレコードから実際に数枚レコードを出したようですがヒットせずに断念、1968(昭和43)年ごろからデパートのマネキンガール(商品の服を着て販売する女店員)として働くようになります。

その時に出会った男性と同棲し、結婚したいと両親に話しますが猛反対されたそうです。この男性との間にできた子どもが養子に出した最初の子と、事件での兄の少年です。この2人は産院で出産しましたが、男性が失踪した後に付き合った男性たちとの間にできた子どもはすべて自宅でひとりで出産しています。

 

歌手と結婚どちらの夢も破れた彼女は、その後は漂流するような不安定な生活を続けます。そうしてついに出会えたと思った男性(当時は既婚者で、この事件の裁判の過程で離婚して彼女と再婚する意志を示した)との新たな生活に人生を賭けたのでしょう、子どもたちの存在を話していなかったことから、子どもたちをマンションに置き去りにして彼のところに飛び込んだのです……凝視

 

朝日新聞(1988年8月1日夕刊)

 

このように見てくると、母親は夢を追うタイプの情熱的で行動力もある女性のようですが、子どもの存在についてはあまりにも思慮と責任感を欠いていると思わざるをえませんプンプン
 
異なる男性との間に何人もの子どもを産んだことも、すべて自分で引き受ける覚悟の上でありまた実際に責任を果たしたのなら、それも一つの生き方として第三者が口を挟むことではないでしょうびっくりマークしかし、その覚悟もなしの「できちゃった」妊娠の末のネグレクトであれば、子どもへの虐待としてその軽率さと無責任は厳しく批判されねばなりません。
母親が逮捕された後になってもなお、長男(兄)は母親を気遣う様子を見せていたと言いますが、彼に対していったいどんな顔向けが彼女にできるのでしょうか………凝視
 
そのように母親(女性)のネグレクトが厳しく問われる一方で、父親(男性)のネグレクトがほとんど問題にもされることなく済まされていることに、小川は大きな違和感と疑問を覚えますショボーン
最初の男性は、同棲している女性との間に子どもができていることを知りながら放置し、自分の借金のために女性と子どもを置き去りに「蒸発」してしまいます。
また、その後に生まれた3人の女の子の父親たち(違う男性だと言われます)は、まったく姿を見せないままで、どこの誰とも分かりません。
関係を持った女性が妊娠したことをまったく知らなかったのでしょうか? それとも妊娠を知って逃げたのでしょうか? 百歩譲って知らなかったとしても、避妊もせずに性関係を持つという無責任な行為をした、その責任の少なくとも半分は男性にもあるはずです。
母親についてはマスコミも過去をいろいろ調べながら(生活に困窮した一時期、窃盗や売春で警察に捕まったこともあるということまで暴露されています)、父親たちについてはまったく無関心にスルーされているところにも、子どもについては産んだ女性(母親)にすべての責任があるかのような偏った性差別的な見方があると思わざるをえませんショボーン
 
さらに言えば、社会のネグレクトです。
兄が毎日のように通っていた階下のコンビニの店長は、「おかしいと思っていた」と言いますが、それについて何のアクションも起こしませんでした。近隣の人たちはどうなのでしょう? 昼間から家にいる兄を不審に思って声をかけた近所の人に対して彼は、母親から教えられていた通り「立教中学校に通っている」と答えたそうです。それを聞いて「おかしい」と思った人はいなかったのでしょうか? こうした他人の生活に干渉しない社会のネグレクト(「誰も知らない」ふり)の風潮が、無戸籍者であった子どもたちをいっそう「誰も知らない」存在のままに放置してしまったのではないでしょうか…ショボーン
 
ネグレクトを生き延びた子どもたちのうち、長女と次女は母親の新しい家庭に引き取られました。一方長男は教護院を出てから大学に進んだという話がありますが確かなことはわかりません。
いずれにしても、児童虐待のサバイバーである彼と彼女らが、その後は人間関係に恵まれてそれぞれなりの幸せな人生を送っていて欲しいと願う小川です🥺
 
参考資料
・『朝日新聞』各紙面
・東京地方裁判所 昭和63年(刑わ)2072号 判決(1988年10月26日)

 

今月(11月)は児童虐待防止月間です!

 
読んでくださり、ありがとうございます🥹💕

 

⬆️YouTubeアップしました☺️