女子高生の一言が生んだ危機

豊川信用金庫事件

1973年

2024(令和6)年は、1月1日に能登半島地震、2日に羽田空港でのJALと海保機の衝突事故と、災害・事故が相次ぐ年開けとなりました。
 

北國新聞(2024年1月1日特別号外)

 

そうした中で、これら地震や事故に関してSNSなどで多くの偽情報・デマが発信され、社会に混乱を引き起こす事態が生じています。

 

たとえば、地震発生から3時間後にX(旧ツイッター)に、東日本大震災の時の津波動画をあたかも今回のものであるかのように見せた投稿があり、数百万回も表示されたそうです。

 

また、実在の住所を記載し「息子が挟まって動けない、助けて!」と被災者を装った投稿があり、警察が出動して事実無根と判明するなど、救助を要請する多くの偽情報が発信され、現場を混乱させています。

 

さらには、外国人窃盗団が全国から被災地に集結しているといったものや、被災地への寄付を募るニセサイト、これは人工地震だとする陰謀論的なものなど、根拠なく不安を煽ったり災害につけ込んで詐欺を働こうとするデマが多数流されています。

 

(関西テレビNEWS)

 

こうした災害時のデマは、以前にこのブログでも取り上げた関東大震災(1923年)でも見られましたが、近年の災害においても毎回のように起きて問題になっています。

 

うわさやデマが大きな社会問題を引き起こした有名な例が、1973(昭和48)年に起きた豊川信用金庫事件です。

 

豊川信用金庫につめかけた

預金引き出しを求める人たち

(朝日新聞、1973年12月15日)

 

この事件は、デマが広がる過程がかなり詳細に明らかにされた世界的にも珍しいケースとして、今でも社会心理学などの授業で取り上げられ、小川も学生時代にそれで知りました。

 

それでは、事件の概要を見ておきましょう。

 

事の始まりは、1973(昭和48)年12月8日の朝、国鉄(現在のJR東海)飯田線の車内で、通学途中の女子高校生3人が何気なく交わした会話でした。

 

愛知県宝飯郡小坂井町(ほいぐんこざかいちょう、現在は豊川市)に本店のある豊川信用金庫に就職が内定していた生徒に向かって友人の1人が、「信金なんて危ないわよ」と言ったそうです。

「金融機関は強盗に狙われやすい」あるいは「大手銀行と比べて経営が不安定」のような意味だったとされますが、いずれにしても冗談半分のものでした。

 

言われた生徒は寄宿していた叔母の家に帰って、叔母にそのことを話しました。

それを聞いて気になった叔母は、豊川信金の近くに住む義姉に連絡して、大丈夫か調べてくれないかと依頼したそうです。

この時点で、最初は「信金」だった話が、「豊川信金」と固有名詞になっていました。

 

義姉は、同信金に勤めている知人に聞いて、そのうわさは事実無根だと叔母に連絡してきました。

 

12月9日、義姉は行きつけの美容院で、「こういううわさがあるの知ってる?」と世間話をし、美容院の女性がそれを親類に話しました。

これが「うわさ」の広がるきっかけになったのです。

 

当初この話は真剣には受け取られていなかったものの、10日になると「うわさ」は口伝えで街中にも広まり始めていたようです。

 

そして12月13日、うわさを夫から聞かされていたクリーニング店の妻は、たまたま店に電話を借りにきた人が「豊川信金からすぐに120万円を引き出せ」と話すのを聞きます。

電話の人は、単に商売で必要だから預金を下ろすようにと連絡しただけなのですが、うわさが頭にあったクリーニング店の妻は、やっぱりうわさは本当だったのだと思い込んでしまったのです。

 

彼女はあわてて外に出ていた夫に連絡をし、豊川信金が危ないから預金を引き出すよう伝えました。

このクリーニング店夫妻は、以前に別の金融機関が経営破綻した時、預金をおろせずに大きな損害を出した経験があったのです。

 

あわてた夫婦は、善意から友人・知人20数人に手分けして「豊川信金がつぶれそうだからすぐに預金を下ろした方がいい」と電話などで連絡を入れます。

それを聞いた中に、アマチュア無線をしている人がいて、無線でこの話をさらに20数人に広げました。

 

*細部で事実と異なる記述がある

朝日新聞(1973年12月17日)

 

こうして12月14日になると、豊川信金小坂井支店を中心に、複数の支店で預金を引き出そうとする人が押しかける「取り付け騒ぎ」が起こったのです。

 

うわさが広まる過程で、伝言ゲームのように「職員が5億円を持ち逃げしたらしい」とか「理事長が自殺したそうだ」といった話が付け加えられ、さらにもっともらしくなっていきました。

 

その一方で「うわさはデマだ」と打ち消す話もあったようなのですが、身近な人からうわさを聞いたり、同じ話を別の人からも聞いたことで、多くの人たちがそれを信じて豊川信金に押し寄せる事態になったのです。

 

いったんこうした動きが広がると、たとえば、信金が支払いをスピーディーにするため引き下ろしを万単位にしようとすると「一万円以下は切り捨てられるらしい」となり、押しかける客の整理に警察官が出動すると「信金に捜査が入るらしい」など、どんなことでも信用不安と関連づけてさらなるうわさが生まれました。

 

朝日新聞(1973年12月15日)

 

取り付け騒ぎの拡大を受けて、全国信用金庫連合会(現在の信金中央金庫)や日本銀行が記者会見などで同信金の経営には問題がなく、預金の引き出し希望者には万全の措置を取るという声明を出しました。

豊川信金も、松井文一理事長の指示で、日銀から運び込まれた札束を大金庫の前に客に見えるように山積みし、閉店時間が過ぎても残っている客には引き出しに応じるといった措置を取りました。

そしてマスコミもうわさはデマだとするニュースを流したことで、14日をピークにして事態は沈静化に向かい、15日の土曜日は豊川信金の全店舗で平常通り正午に閉店できるまでになりました。

 

結局、12月13日から17日の間に、延べ6600口座から20億円もの預金が引き出されましたが、いったん解約した預金を預け戻す客も出るようになり、取り付け騒ぎは終息したのです。

 

朝日新聞(1973年12月15日夕刊)


なお、一連の騒ぎの中で警察は、豊川信金への信用毀損業務妨害の疑いでデマの発信者を捜査しましたが、悪意や犯意をもってうわさを流した者は見つからなかったことから、捜査を打ち切りました。

 

しかしデマはすぐには収まらず、騒動の後で現地に入って調査をした研究者によると、騒ぎが終息して「犯人」探しに人びとの関心が移ると、「信金に融資を断られた朝鮮人が、腹いせにあちこち電話をした」など、差別意識もあらわな事実無根の新たなデマが流れたとのことです。

 

朝日新聞(1980年12月22日)

 

 

サムネイル

小川里菜の目

 

コミュニケーション論・メディア論が専門の松田美佐さんは、この事件を取り上げながら、次のように指摘しています。

 

一つは、「うわさは既存の人間関係のなかで広がっていく」ことです。

つまり、誰彼かまわず語られるのではなく「知り合いの輪のなかで拡大していく」というのです。

しかも、直線的に伝わるだけでなく、人間関係の網の目を通して異なるルートを迂回し同じ話を聞くことにもなります。

 

現在のようなSNSで不特定多数に向けて情報が発信・拡散される時代では、状況は変わってきているかもしれませんが、豊川信金事件のように口コミがまだ情報伝達の大きな手段だったころは、知り合いからの(しかも複数の知り合いからの)話というだけで「うわさ」は信ぴょう性を帯びたことでしょう。

 

ただ、「デマに踊らされる」という言い方がありますが、うわさを単純に信じる人がいる一方で、真偽を確認しようとする人も決して少なくなく、豊川信金事件でも直接問い合わせた人がいたそうです。

 

デマというと、人びとがパニック(感情や行動などの調整が困難になり混乱した状態)に陥りただやみくもににうわさに踊らされるというイメージがありますが、実際には自分なりに情報を確認しようとしながら、確かとは言えなくても「念の為に」と思って行動したり、「善意から」友人知人に情報を伝える人が多いのです。

 

そのことに関連しますが、災害時には「パニック」よりも、むしろ「正常化の偏見」(目前の危険を日常生活の範囲内と過小評価すること)の弊害の方が大きいと研究者は指摘しています。

たとえば、避難警報が出ているのに自分のところは大丈夫だろうとすぐに避難せず被害に遭うように、過度の「落ち着き」の方がむしろ危険な場合があるのです。

 

ですから、特に危機的状況である災害時には正確な情報が何より大切であり、また情報を正しく見分けて受け取る力が私たちの側にも重要となります。

 

SNSの普及によって私たちは、緊急時にも迅速に情報を共有できるようになりました。

その一方で、多くの偽情報(デマ)が災害時に飛び交うようになっています。

下手をすると、多くの情報を得ながら何が正しい情報か分からなくなって、適切な行動が取れなくなるおそれも出てきます。

 

災害時にデマが広がる背景について、ネットメディア論などを研究する山口真一さんは、「承認欲求」と「アテンション・エコノミー」の存在を指摘しています。

 

「承認欲求」とは社会的な承認や注目を浴びたいという心理状態のことです。

 

(読売新聞オンライン)

 

上のリストにある2016(平成28)年に起きた熊本地震では、神奈川県の20歳の男性会社員がTwitter(現在のX)に投稿した動物園からライオンが逃げたという画像付きのデマ情報が恐怖を呼びました。

 

 

彼の動機も「注目を浴びたい」という個人的な欲求でしたが、人騒がせなこの男性は、動物園に対する業務妨害で逮捕されています。

 

「関心経済」と訳される「アテンション・エコノミー」とは、人の注意を引きつけることで経済的な価値が生まれることで、これが「承認欲求」を一層強化しています。

 

これについては、ツイッター社を買収したイーロン・マスク氏が、特定の条件(500人以上のフォロワー数や3ヶ月の表示回数が500万件以上)を満たすアカウントが広告収入を得られるというシステムに改めたことが、過激な投稿や偽情報の流布に動機を与えているとの批判が寄せられています。

 

 

さらに山口さんは、生成AI(画像や動画、ストーリーや音楽などさまざまなものを作成できるAI=人工知能)の普及によって、誰でも簡単に偽画像や偽動画を作ることができるようになったことをあげています。

 

2022(令和4)年の台風15号による静岡の災害では、偽ドローンの被災地映像が流されましたが、それは一般市民が寝床で作成し投稿したものだったそうです。

 

このように、実物かどうか簡単には判別できない偽映像などが簡単に作成・発信できる今日では、個人的な承認欲求や経済的利益、さらには政治的な意図などから膨大な偽情報が流され、社会的な混乱を一層加速させる事態が生まれてきています。

 

そうした事態を避けるためには、先に述べたように私たち自身が情報を正しく識別し、適切に判断して行動する力を身につけることが重要なのは言うまでもありません。

 

山口さんは、具体的に次の6つの対策をあげています。

 

 

こうした個人として注意すべきことに加えて、不穏なデマが広がる土壌となる社会不安を緩和・解消することが政治経済の課題として必要不可欠です。

 

そうでなければ、貧困の拡大による生活不安や将来への絶望、個人の孤立や社会の分断・対立、行き過ぎた私益の追求、不正の横行や政治不信といったデマの土壌が蓄積される中で続く情報技術の革新は、期待とは裏腹に、社会の大きな危機をもたらす要因にならないか、心配になる小川ですショボーン

 

参照資料

・新聞の関連記事

・松田美佐『うわさとは何か」中公新書、2014

・山口真一「災害時のSNS「デマ・誤情報」惑わされない対策6つ」東洋経済ONLINE、2024年1月6日




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