名古屋アベック殺人事件
1988(昭和63)年

 


読売新聞(1989年2月27日夕刊)
 
1988年2月、名古屋市で戦後日本の犯罪史上稀に見る残虐非道な事件が発生しました。世に言う「名古屋アベック殺人事件」です。
 
さらにこの年の11月には東京都足立区で、この事件に勝るとも劣らぬ残虐な「女子高生コンクリート詰め殺人事件」が起き、どちらも名古屋の一人を除き未成年者による犯行だったことから、社会に大変な衝撃を与えるとともに、少年法改正の議論にも大きな影響を与えました。
 
【事件の概要】
 

金城ふ頭

 

 

 

大高緑地公園の事件現場に供えられた花束

(中日新聞)

 
1988(昭和63)年2月23日の午前4時30分ごろ、名古屋市緑区の県営大高緑地公園の駐車場に車を停めて夜景を見ながらデートを楽しんでいた理容師の野村昭善さん(当時19歳)と同じ理容店に勤める理容師見習の末松須弥代(すみよ)さん(同20歳)に、2台の車に分乗した男4人、女2人の6人グループが金品を強奪する目的で襲いかかりました。
 
被害者の野村さんと末松さん
(『新潮45』2003年10月号)
 
6人は、主犯格の小島茂雄(当時19歳)、徳丸信久(同17歳)、高志健一(同20歳)、近藤浩之(同18歳)、筒井良枝(同17歳)、龍造寺リエ(同17歳)で、高志以外は未成年者でした。
 
成人だったために、ただ一人
顔写真が公開された高志健一
 
6人のうち小島、徳丸、高志は山口組系暴力団弘道会薗田組の構成員で、高志と交際し事件当時は小島と付き合っていた龍造寺も同組事務所に出入りしていました。また、近藤は弘道会の別の組の構成員で、筒井もまた山口組系の他の組の暴力団員と同棲しており、全員が暴力団と関わりがありました。ただし、小島と徳丸は事件当時は組を抜けていたようです。
また彼らはシンナーの乱用経験者で、事件の時にも袋に入れたシンナーを持っていました。
 
6人は、名古屋のテレビ塔付近にたむろする「噴水族」「テレビ塔族」と呼ばれた若者集団の一員でしたが、常にこのメンバーで行動するよく知り合った者同士のグループではありませんでした。
そのことが、強盗後に被害者を拉致するという当初の計画になかった展開の中で、互いに腹を探り虚勢を張り合いながら二人の殺害にまで犯行をエスカレートさせていった一因ではないかとも指摘されています。
 
名古屋のテレビ塔と噴水
 
この日、テレビ塔近くでたまたま出会った彼らは、遊ぶ金と刺激欲しさから「バッカン」(「アベック=カップル」の車を襲う強盗の隠語)をしようという小島の提案で、この事件を起こすまでに名古屋市港区の金城ふ頭など2ヶ所でカップルの車を襲撃、乗っていた男女に暴行して金品を強奪していました。
しかし思ったほどの収穫がなかったため、場所を大高緑地公園に移して野村さんらの車に目をつけ襲ったのです。
 

 
そのやり方は、2台の車を被害者の車が逃げられないよう挟んで停め、用意していた木刀や特殊警棒(伸縮式の警棒)で車の窓ガラスを叩き割り、まずは野村さんを引きずり出してめった打ちにし足蹴にもして「金を出せ」と脅す手荒いものでした。
筒井と龍造寺もハイヒールで野村さんの頭部を踏みつけるなど、暴行に加わっています。
 

 

壊された被害者の車

 
さらに助手席の末松さんも髪の毛をつかんで車外に引きずり出し、同じように木刀などで殴りつけて抵抗できなくさせたうえ、上半身を裸にしました。
そして近藤と徳丸は彼女を少し離れた場所に連れて行ってレイプし、高志もそれに加わりました。
その間に小島と女性二人は車から現金やめぼしい品物を奪っています。
 
駐車場に末松さんを連れ戻した後も残虐な暴行は続き、小島の「やきを入れたれ!」の言葉で筒井・龍造寺・徳丸がそれぞれタバコの火を末松さんの胸や背中に押しつけ火傷を負わせただけでなく、持っていたシンナーを彼女の下腹部にかけて火をつけるという信じられないような行為までしました。
 
その後、警察に通報されることを恐れた彼らは被害者を拉致し、野村さんはそれから丸1日、末松さんは2日にも渡って連れ回しながら、暴行と筆舌に尽くしがたい性暴力を執拗に繰り返しました。
 
予想外の展開で二人の「始末」に困った小島らは、翌24日の午前4時30分ごろ、愛知県長久手市の卯塚墓園にある暴力団弘道会本家墓所の前で、小島と徳丸が野村さんの首に洗濯用ロープを二重に巻きつけて両端をそれぞれがもち、「やめて下さい。助けて下さい。」との懇願を無視して20分にもわたって首を締め続け、窒息死させました。
 
この時、野村さんと二人で理容室を持とうと夢見ていた末松さんは、「殺さないでください」と必死に彼の命乞いをしましたが、加害者らが耳を貸すことはありませんでした。
 
この墓の前で野村さんは殺害された
 
野村さんが殺されたと知って絶望した末松さんは、連れ回される途中で名古屋港の埠頭から身を投げて死のうとまでしています。
 
そのあと彼らは、車のトランクに野村さんの遺体を乗せて三重県阿山郡(現在は伊賀市)大山田村の山林内の私道に末松さんを連れて行きます。
 
25日の午前3時ごろ、下着一枚にした無抵抗の彼女の首にビニールヒモを二重に巻き、それが外れると野村さん殺害に用いた洗濯用ロープをさらに巻きつけて三重にし、小島と徳丸がその両端を持って「綱引きだぜ」「このたばこを吸い終わるまで引っ張ろう」などと言いながら30分にもわたりじわじわと首を締め続け、彼女を絞殺しました。
 

 
そうしておいて彼らは、現場付近に掘った穴に二人の遺体を投げ込み遺棄しました。
 
 
証拠隠滅を図って逃げようとした6人ですが、最初の被害者からの通報や大高緑地公園に壊れた車と血のついた遺留品があるとの通報、被害者二人の親からの捜索願い、連れ回していた途中で立ち寄った店やホテルでの目撃情報などをもとに警察は6人を割り出します。そして、2月26日午後、近藤の家に集まって逃げる準備をしていた高志以外の5人の身柄をまず確保します。
 
27日の取調べで5人が二人の殺害を含む一連の犯行について自供したため、強盗致傷・殺人・死体遺棄容疑で逮捕し、行方をくらましていた高志も28日に発見し同容疑で逮捕しました。
 
名古屋地方裁判所は、1989(平成元)年6月28日の判決公判で、「遊ぶ金目当てに強盗を計画し、犯行の発覚を免れるため、殺害を決意した。命ごいする被害者を長時間、死の恐怖にさらして平然と順次殺害した行為は残虐、冷酷きわまりない。精神的に未熟な少年の集団犯罪であったことなど有利な情状を考慮しても刑事責任は重大」と述べ、主犯格の小島に死刑、徳丸に無期懲役、高志に懲役17年、近藤に懲役13年、筒井と龍造寺に5年から10年の不定期刑を言い渡しました。
 
名古屋地裁での判決公判
(中日新聞)
 
犯行当時19歳の少年だった小島への死刑判決は、下の記事にあるように、1968(昭和43)年に起きた4人連続射殺事件の永山則夫死刑囚(犯行当時19歳、1997年に刑執行)以来10年ぶりのことでした。
 
 
朝日新聞(1989年6月28日夕刊)
 
一審の判決に、徳丸・近藤・筒井・龍造寺は従う意思を示して刑が確定しますが、小島と高志は控訴し、名古屋地検も無期懲役を求刑していた高志について控訴したので、この二人は名古屋高裁で審議されることになります。
 
高裁では、殺害の計画性を焦点に、襲撃後に被害者を連れ回す過程で加害者たちの間でいつどこでどのような謀議と殺害の意思決定がなされたかについてかなり細かな事実検証がなされました。
 
しかし、弁護側が一審では不十分であったとして求めた、彼らがこの犯罪をおかすに至った情状を明らかにするために必要な未成年の未熟な人格や集団の心理への理解・検討を、心理鑑定や共犯の4人への証人尋問などによってするべきとの主張は、裁判長からことごとく認められませんでした。
 
小島の度重なる弁護団解任の影響もあって長期化した裁判でしたが、1996(平成8)年12月16日の判決公判で名古屋高裁は、小島と高志への一審判決を破棄し、あらためて小島には無期懲役、高志へは懲役13年を言い渡しました。
 
 
判決が、被告人らは「他人の痛みや生命すらも意に介することなく、短絡的に自らの欲求や目的の実現を追い求める態度が顕著であって、被告人らの年齢やその社会的成熟度等を考慮しても、斟酌すべきものはなにもない。」「社会一般の通常人の感覚ではとうてい理解できない暴挙がもたらした結果の重大性は、本件の量刑に当たり重視されるべきものである。」としながら、高志を懲役17年から13年に減刑したのは、野村さんの殺害に関わっておらず、末松さん殺害についても直接の関与を拒んだと認められたからです。
 
また、小島が無期懲役へと減刑されたのは、それまで窃盗での保護観察処分はあるものの粗暴犯での前科前歴がなく、暴力団からの脱退届を警察に提出して事件当時はとび職として働いていたこと、鑑別結果でも凶悪犯罪への危険性をうかがわせる著しい性格の偏りは指摘されておらず、一審判決の「犯罪性が根深い」との断定には疑問があり矯正可能性が残されているとの判断によるものでした。
 
双方が上告しなかったことから2人の刑もこれで確定し、無期懲役となった小島と徳丸は「懲役8年以上で犯罪傾向の進んでいない受刑者」を収容する岡山刑務所に収監され、現在も服役しています。
 
岡山刑務所
 
被収容者の居室
 
なお、彼ら以外の有期刑の4人は、現在は刑期を終えて出所しています。
 

 

 

小島の名前の訂正について

 

事件当時19歳の未成年だった小島の名前については、書籍や雑誌では匿名や記号で書かれているため、ネットで明らかにされている「実名」を参照して小川もそのまま「小島茂夫」と書いていました。

 

ところが、正しくは「小島茂雄」だという指摘をTwitterで「さすらう」様からいただきました。

ソースとして、小島の弁護団が証拠調べ請求を却下されたのを不服として最高裁に特別抗告した時の棄却決定が「最高裁判所裁判集刑事:集刑」261号に載っており、そこに小島の名前が記されているとしてその画像を送ってくださいました。

 

また、『年報・死刑廃止96』にも載っているとのことで、小川が同書を入手して調べたところ、「高裁係属中の死刑事件」のリストに、やはり「小島茂雄」と記載されていました。

 

 

「小島茂雄」の名前は、小川が見たかぎりですがネット上にはまったくなく、すべて「茂夫」との記載です。

おそらく、最初に小島を本名で取り上げた方が「茂夫」と書いたため、小川と同様に後の人はそれをそのまま引用して広がったものと思われます。

ネット情報の落とし穴を垣間見た思いで、小川としても今後はさらに気をつけようと思いました。

 

ご指摘くださった「さすらう」様に感謝すると共に、ブログ中の名前を訂正いたしました。

 

2023年7月13日

 

 
サムネイル
 

小川里菜の目

 

被害者の心情を察するにつれ、これほどまでに気が滅入る事件は少なく、人はここまで非情になれるのかと思うと、人間不信になりかねないほどです。

 

特に、具体的な描写をあえて避けましたが、末松須弥代さんに対して加害男性たちが繰り返し加えた性暴力は、同じ女性である小川として身の毛がよだつほど恐ろしく許し難いものです。

 

直接手を下した者はもちろん、傍観していた者も含めて、ことごとく死刑に処しても足りないほどの憤りを覚えますし、ましてやなんの落ち度もないのに長時間にわたって死の恐怖を味わされ、なぶり殺しにされた若いお二人やご遺族の方の無念はいかばかりかと言葉を失います。

 

けれど少し冷静になって考えると、死刑で命を奪えば加害者たちに罪を償わせることができるとも思えませんショボーン

「命をもって償う」という決まり文句がありますが、それは「まやかし(虚妄)」ではないでしょうか。

たとえ加害者が自分の命を差し出したところで、被害者の失われた命を償うことなど決してできないのですショボーン

 

ではどうすれば良いのでしょう……

 

その答えは簡単ではありませんが、被害者遺族の方々の思いに手記などで触れる限り、次のようなことがあげられるのではないかと小川は思います。

 

①被害者の身にどんなことが誰によってどういう状況で起こされたのかという事の真相と、事件がなぜ起きたのかその原因・背景を明らかにする

②加害者が、犯した罪と真摯に向き合い罪を悔いて、心から被害者と遺族に謝罪し贖罪する

③同じような犯罪が二度と起きないよう、事件を風化させず、被害者の死を決して無駄にしない

 

そして①と②は、③のために必要な条件となるでしょう。

そこで、分かっている範囲でそれらに関係することを補筆しておきます。

 

【加害者6人の人物像】

まず①に関してですが、加害者の6人はどういう人物だったのでしょうか。

 

凶悪な事件になればなるほど私たちは、加害者を「普通の人間」とは本質的にちがう特殊な異常者(「モンスター」「鬼畜」など)と考えがちです。

けれども、たとえば他者への共感性を欠き、人に痛みを与えることに罪悪感を覚えない「反社会性パーソナリティ障害」(いわゆる「サイコパス」)の人が人口の0.2〜3.3%ほど存在すると推定されますが、そういう人が凶悪犯罪者になるというわけではありません。

 

ですから、悲劇を繰り返さないためには、「凶悪事件を起こすようなヤツらは善良な自分たちとはそもそも違う」と他人事のように傍観するのではなく、多くが偶然的な条件の連鎖によって誰もが「鬼畜」へと堕(お)ちてゆく可能性があると考えなければいけないと思うのです。

 

そこで、名古屋地裁の判決文と中尾幸司氏の取材記事をもとに、加害者たちがどのようにして事件に至ったかを見ていきます。

 

⑴小島茂雄

1968(昭和43)年、長野県東筑摩郡に二男として生まれ、1975(昭和50)年から名古屋市中川区で生活。神経質で怒りっぽく権威的にふるまう父親に反発しながらも、その態度を模倣するようになります。

中学に入ってから非行に走り、3年生の時に原付バイクを盗んでは補導されるを繰り返します(いずれも処分は免れる)。その時の少年調査記録には、「人前で見栄や虚勢をはりやすく、自己顕示性と自己中心性の強い性格」と書かれているそうです。

中学卒業後に愛知県総合職業訓練校に入りますが、学内で起きた不審火への関与を疑われたことにキレて教師に暴力をふるい退学、その後は職を転々とします。

1986(昭和61)年、交通事故を起こし山口組系弘道会の暴力団薗田組とトラブルになって連れ去られた弟を助けようと組事務所に乗り込んだ度胸を買われ、弟を釈放する条件として組員になります。

その後も窃盗などを繰り返して保護観察処分を受けたりしていましたが、1987(昭和62)年10月ごろから龍造寺リエと交際を始めます。

生活費を稼いで二人で暮らそうとした彼は、組を無断で抜けて、事件当時は建築会社でとび職(高所作業を専門とする職人)として働き始めていました。

しかし、それまでの仲間との関係は切れず、龍造寺と一緒に事件を起こすことになります。

 

⑵徳丸信久

1971(昭和46)年、名古屋市熱田区に長男として生まれますが、事業に失敗した父親が酒びたりになり、一家は子どもの給食費を払えないほど経済的に困窮します。学校では先生から叱られ、級友からは「貧乏人」「乞食」といじめられました。

家庭内で暴力を振るっていた父親は、「売られたけんかは買え。けんかをするなら負けるな。」と子どもをけしかけるような人間で、学年が上がるにつれ徳丸も級友に暴力を振るうようになります。

勉強にもついていけず学校嫌いになった彼は、中学に入ると不良仲間とシンナーを吸うようになります。それを知った父親は「将来、ヤクザにでもなれ。」と言ったそうです。

中学時代から窃盗で何度も補導され、卒業後も職を転々とした徳丸でしたが、ある女性との結婚を考えた真剣な交際を機にやっと落ち着くかと思われました。

ところが、彼女が高校を中退したことに怒り暴力を振るったために、彼女とは別れることになりました。生活意欲を失った彼は、またシンナーを吸うようになります。

そんな時に中学時代の不良仲間から「女もできるし、金も手に入る」と誘われて、暴力団薗田組の組員になったのです。

 

⑶高志健一

1968(昭和43)年、鹿児島県薩摩郡に長男として誕生。翌年に両親が離婚したため父方の祖母に預けられます。

しかし、小学3年生ごろから万引き事件を起こすようになり、祖母も高齢だったことから、1977(昭和52)年に情緒障害児短期治療施設に、小学校卒業後は児童養護施設に収容されます。

中学卒業後に就職しますが、突然に母親が姉と共に訪ねてきて一緒に暮らすようになり、母が再婚してからは義父とも暮らすことになりました。

けれども、酒におぼれた母親が毎晩のように酔っ払っては前夫のことで彼に当たり散らし、義父との折り合いも悪かったため、たまらず家を出ます。

ろくな仕事にもつけずに職を転々とする中で、金に困ってひったくりをはたらき保護観察処分を受けた高志ですが、更生保護施設の園長に紹介された運輸会社に就職して社員寮に入り、再起を図りました。

ところが運悪く、配達先でたまたま義父と出会ってケンカになり、それを理由に会社を解雇されます。

絶望した高志は、シンナーを吸引するなどして不良集団と交遊するようになります。

そのころ、知人の紹介で暴力団薗田組に入った彼は、小島や徳丸と知り合い、組員がよく行くスナックでホステスをしていた龍造寺とも知り合って一時期交際します。

1988(昭和63)年1月に高志は、弘道会会長のボディーガードになります。

 

⑷近藤浩之

1969(昭和44)年、名古屋市瑞穂区に長男として誕生。6歳の時に両親が離婚し、二人の弟と共に母親に育てられます。

まだ小学生でしたが、父親のいない家庭を長男の自分が支えなければと思った近藤は、自分の気持ちを抑えて母親の期待に応えようとかなり無理をしていたようです。

生活費を稼ぐのに手一杯の母親は、息子のそうした態度に安心して彼をかまうことなく放任していました。

ところが中学に入るとその反動もあってか生活が乱れ、不良仲間と一緒になって窃盗やカツアゲなどの問題行動を起こすようになります。

中学卒業後も職を転々とした近藤は、1987(昭和62)年の夏ごろから自動車学校で知り合った人物に誘われてシンナー遊びをするようになり、やがて暴走族「栄噴水族」に加わって幹部にまでなります。

その時に近藤は、「暴走族のリーダーになれと言われている」と母親に打ち明けたそうですが、母親は深く考えもせず止めようともしませんでした。

当時の近藤の性格について少年調査記録では、「虚栄心が強く、仲間の評価を気にし、自分を大きく見せようとする」「快楽指向や遊興指向が強く、周囲に同調的、迎合的で付和雷同しやすく(…)、雰囲気に流され、すぐその気になる等、状況依存的、他者依存的で、自律、自制する力は弱く、成り行き任せ」と指摘されていました。

その後、小島や徳丸、高志らと知り合った近藤は、弘道会の暴力団高山組の組員となり、小遣い銭をもらいながら幹部の妻を車で送迎するなどの雑役をするようになります。

ちなみに、事件の時に彼が乗っていた車は組幹部から借りていたもので、身勝手な話ですが、被害者の野村さんが逃げようと車をバックして近藤の車にぶつけバンパーを破損させたことが、彼が野村さんに過剰な暴行をした理由でした。また、破損の弁償を野村さんにさせようと考えたことが被害者拉致の動機の一つになったようです。

 

⑸筒井良枝

1970(昭和45)年、名古屋市中区に長女として生まれましたが、持病のある父親は入退院を繰り返し、経済的に苦しい中を母親は働きに出ながら気難しい夫の世話もしなければならなかったため、彼女は3歳のころから事実上祖父母に養育されます。

家庭環境に恵まれず、中学では授業中に騒いだり他の生徒に暴力をふるうなどの問題行動を起こしていた筒井ですが、なんとか卒業して調理師専門学校に入ります。

しかし、居心地の悪い家を嫌ってしばしば外泊するようになった彼女は、専門学校を卒業しても就職せず、アルバイトも長続きせずに、お昼まで寝ては夜に遊びに出る生活を送るようになります。

1988(昭和63)年10月に母親と口論の末に家を出た彼女は、不良仲間とシンナーを吸うようになり、近藤とも知り合います。

さらに、山口組系の暴力団花井興業の組員と半同棲生活を始めて、彼との結婚を考えます。しかし、男を両親に紹介しましたが反対され、また家を飛び出します。

そして事件の日、金に困った彼女は、貸していたわずか千円のお金を返してもらおうと近藤に会いに行ったその足で犯行に加わったのでした。

 

⑹龍造寺リエ

1971(昭和46)年、名古屋市千種区に長女として生まれます。

妹の出産後に精神が不安定になった母親は、酒を浴びるように飲んではパチンコ店に毎日出かけ、またふらっと家を出ては何日も帰らないような生活を送るようになります。

まだ小学校低学年でしたが、龍造寺は長女として弟や妹の面倒をよく見ていたようです。けれども、自分をかまってくれる親はいませんでした。

やがてアルコール依存の母親に幻覚や幻聴の症状が出始めたため、彼女が10歳の時に両親は離婚し、父親と暮らした龍造寺は懸命に家事をこなしていたそうです。

ところが、中学2年生だった1984(昭和59)年に、父親が、交際していた17歳の少女を妊娠させて再婚します。

歳も4つほどしか違わず性格のきつい「義母(ままはは)」とは折り合いが悪く、父親が妊娠中の妻の都合を優先したために、龍造寺は父方の叔父の家に預けられます。

しかし、そこでも叔父の妻と合わなかった彼女はさらに伯母の家に預けられ、さらにそこでも折り合いが悪くて、最後は児童養護施設に入所させられます。その間に彼女は中学校を何校も変わらなければなりませんでした。

1986(昭和61)年に中学を卒業した龍造寺は、美容室に見習いとして勤めますが、口数が少なくなかなか人と打ち解けられない彼女は人間関係がうまくいかず、親しかった同僚が店をやめると自分も退職し、それからは不良仲間と交遊してシンナーを吸うようになります。

裁判で提出された弁論要旨によると、まだ15歳だったこのころ、彼女は6、7人の男に輪姦されるという性暴力被害にもあっています。

1987(昭和62)年、ひと月ほどスナックのホステスをしていたとき、客だった高志と知り合って交際するようになり、彼について薗田組の事務所に出入りしているうちに、小島や徳丸とも知り合います。

また、組幹部の紹介で別のスナックに勤めますが、勤務状態が悪いと2週間で解雇されています。

ちなみに、離婚後の母親はホームレスのような生活を送りながら、誰かの子どもを出産したそうです。1986年に、ずっと音信不通だった母親が突然連絡をしてきたことがありましたが、龍造寺には嬉しいという感情はまったく湧かず、困惑しかありませんでした。

父親の方も、若い妻が別の男性と親しくなったために離婚しています。

その後、小島と交際するようになっていた彼女は、彼と一緒に事件に加わることになります。

 

 

名古屋高裁の判決文は、「被告人らは、もとより各人によって差異はあるものの、いずれも、不遇な環境の中で生育し、他人の痛み、苦しみへの認識、理解に欠けるすさんだ生活体験を経てきており……」と述べています。

 

もちろん、家庭環境や人間関係に恵まれなかった、貧困家庭で辛い思いをした、学校でいじめられたなどなど……だから犯罪をおかしても仕方なかったという話でないことは言うまでもありません。

 

けれども、もしこの時に本気で叱ってくれる大人がいたら、ここで社会的な支援を受けられていたら、辛い気持ちを受けとめてくれる人が一人でもいたら……、彼ら彼女らの人生はまた違ったかもしれず、被害者たちも人生を奪われなかったかもしれません。

 

まだ10代の身で、寄る辺なくさまよいながら堕ちていった彼ら彼女らに束の間の安らぎをもたらしたのがシンナーで、居場所を与えたのが暴力団だったというこの現実を、私たちはどう受けとめればいいのでしょう。

 

【罪の自覚と謝罪・贖罪】

それでは、②の謝罪・贖罪についてはどうでしょうか。

 

『反省させると犯罪者になります』(新潮新書)など意表をつくタイトルの著書で知られる臨床教育学者で立命館大学教授であった岡本茂樹さんという方がいます。

2015年にまだ50代で亡くなりましたが、彼は「ロールレタリング」という手法(手紙を書く心理療法)を用いた犯罪者の更生プログラムを刑務所で実施していました。

 

上の本のタイトルにあるように、学校などで問題を起こした生徒に反省文を書かせ、それらしい内容が書かれていれば、反省の気持ちが見られるとして処分を解くというやり方がよくなされますが、岡本さんはそれは有害無益だと厳しく批判します。

なぜなら、自分のしたことがなぜ罪であり、またどうして自分はそのような罪を犯してしまったのかという自覚なしには、反省などそもそもありえないからです。

形ばかりの反省で罪を許されたという悪しき成功体験は、彼らをさらなる悪の道へと誘うことになりかねないのです。

 

 

興味のある方は本をお読みいただければと思いますが、岡本さんは受刑者に、被害者や自分の親や自分自身などを宛先に想定した手紙(謝罪文ではなく自らを語る手紙)を書かせ、それによって受刑者に自分の正直な気持ちと向き合せ、罪の自覚を促し、さらになぜ自分が罪を犯す人間になってしまったかに気づかせるという手間暇をかけたプログラムを実施しました。

最初は、自分が罪をおかしたのは被害者にも問題があったからだというところから始まることが多いようです。

 

犯罪者の生い立ちに的を絞る彼のやり方には異論の余地があるかもしれませんが、自分自身と自分の罪に深く向き合うことなしには謝罪も贖罪も始まらないというのは確かなことだと小川も思います。

 

ですから、おそらく罪の自覚を欠いたままのこの事件の加害者たちが、被害者や遺族への謝罪もなく、課せられた刑期を刑務所で過ごした以外はほとんど贖罪らしいこともしていないのは、腹立たしいですけれど不思議なことではなく、また彼らが特別に邪悪な人間たちだからでもありません。

 

出所した4人のうち誰一人として被害者遺族の元を謝罪に訪れていませんが、それだけでなく、遺族からの損害賠償請求の申し立てによって名古屋簡易裁判所が加害者とその親にそれぞれ支払額を調停し合意させた賠償金(一部は調停不能)についても、ほとんどが一部しか支払われずあるいはまったく支払われないまま終わっています。

 

以下は、中尾幸司氏による2003(平成15)年時点での状況です。20年経った今も、おそらくほとんど変わっていないと思われます。

 

⑴小島茂雄:本人は無期懲役で出所のメドが立たないため賠償金については調停不能となっていますが、刑務所での作業報奨金を年に2回遺族に送っています。両親は調停に従って野村・末松両家に合わせて2千万円余りを1999(平成11)年までに完済しています。

 

⑵徳丸信久:本人は無期懲役のため調停不能ですが、両親は息子の公判にさえ顔を出さず、賠償金を支払う意思も見せていません。

 

⑶高志健一:出所後すぐに行方をくらませ、末松家と合意した賠償金はまったく支払っていません(野村家とは調停不調)。また両親は親権を放棄して調停の席にすらついていません。

 

⑷近藤浩之:調停で合意した本人の賠償金はまったく支払っておらず、両親も支払う意思がなく調停不能となっています。

 

⑸筒井良枝:本人分は出所後に分割で支払われ始めましたが、途中で止まっています。両親分については完済されています。

 

⑹龍造寺リエ:本人分は出所後に数回支払われただけで、父親分は一部が未払いになっています。

 

加害者6人の中で、少し様子が異なるのは、主犯格で無期懲役囚の小島茂夫です。

 

朝日新聞(1989年6月28日夕刊)

 

一審の名古屋地裁で一度は死刑を宣告された小島ですが、捕まった当初は「少年だから大した罪にはならない」「出所したら龍造寺リエと結婚する」と脳天気に語っていたそうです。

 

ところが、検察官が死刑を求刑したことでやっと彼は事の重大性に気づき始めます。

判決公判で死刑が言い渡された後、小島に接見した雑賀正浩弁護士は、「自分の命が奪われることになって、初めて他人の命というものに向き合ったんだろう」とその時の印象を語っています(「中日新聞」2022年8月30日)。

 

小島自身も2008年に関係者に宛てた手紙で、「自分の命と真剣に向き合うということは、本当にとても大切なことで、自分の命の大切さを知れば、当然被害者の方の命の大切さも知ることになり、そういうことを通して少しずつ人としての心を取り戻していくことができるようになるのだと思います。」と書いています。

 

無期懲役囚として岡山刑務所に服役するようになって5年後の2001(平成13)年から、小島は被害者二人の遺族に、供養代として作業報奨金の一部を謝罪の手紙とともに送りはじめます。

それに対して2005(平成17)年に末松さんの父親・末松克憲さんから小島に初めて、「大変だなと思いますが、罪は罪として向き合うよう願っています。」と書かれた返信があり、その後も文通が続けられているそうです。

 

そのやりとりの経緯や、小島と末松克憲さん双方の思いについては、佐藤大介「名古屋アベック殺人事件「謝罪 無期懲役囚から被害者の父への手紙」」に詳しく紹介されています。

 

また、加害者の親のほとんどが無関心・無関係の態度を取る中で、小島の母親は彼を見捨てず、時に叱り時に励まして彼が自分の罪から逃げないよう諭(さと)し続けたことも、彼にとっては罪と向き合う大きな支えになったようです(『毎日新聞』「塀の中生活の元少年 心に刺さった母の言葉」2009年2月21日)。

 

さらに、2020(令和2)年に小島がくも膜下出血で倒れ、生死の境をさまよったことも、あらためて命の重さについてリアルに考える機会になったと、接見した佐藤氏に次のように語っています。

 

「[意識が薄れていった]その時、被害者の方も含めて、命の重みというものをリアルに感じたんです。生きているのは、とてもありがたいことなんだと。それだけに、私が命を奪ってしまった被害者の方は、どれだけ無念だったのだろうかと、一層よく考えるようになりました。」

 

「亡くなった被害者は帰ってこないのに、加害者がいくら反省し謝罪・贖罪しようがそれがなんだと言うのだ」という消えない怒りもあるでしょう。

「どうせ仮釈放ねらいで、心にもないことを口先で言ってるだけだ」という冷ややかな見方もあると思います。

 

どちらの気持ちも分かりますし、それらを否定することは小川にはできません。

けれども、人の支えを失って人の心をいったんは失った人間が、人に支えられて人の心を取り戻すのはありえないことなのでしょうか。

また、何をしても失われた人の命を取り戻すことはできない、そのことを大前提にしながら、では「被害者の無念の死を決して無駄にしない」とはいったい何をどうすることなのでしょうか。

 

「[小島受刑者が]更生してほしいとか、そうなったら私も救われるとか、そういうことを考えて手紙を書いてはいません。ただ、彼が謝っているのもわかる。それは事実でしょう。そして、娘が帰ってこないのも事実です。彼は一度死んだ人間。裁判で判決が決まって、刑務所の中で一生懸命がんばっている。そのことは受け止めています。」と語る末松克憲さんの苦渋の思いにどう応えればいいのか……、

 

 

この重大事件は、罪と罰、死と再生、人間性の喪失と回復という人間にとっての重い課題を私たちに投げかけているのではないかと小川は思います。

 

 

 

参照資料

・関連する新聞記事

・ウィキペディア「名古屋アベック殺人事件」

・中尾幸司「追跡!犯人直撃 1988「名古屋アベック殺人」少年少女たちのそれから」『新潮45』2003年10月号

・佐藤大介「「名古屋アベック殺人」主犯少年のいま、無期懲役の身に置かれて」デイリー新潮、2021年5月11日

 

 

・佐藤大介「名古屋アベック殺人事件「謝罪 無期懲役囚から被害者の父への手紙」」『世界』2009年8月号

・名古屋地方裁判所判決文

・岡本茂樹『反省させると犯罪者になります』新潮新書、2013、ほか