「日本社会党が衆議院における3分の1の議席確保を重視した理由とは一体何か❓」
を問う大学入試問題が出題されたことがあります。
今回の「日本史の考え方」では、この問題を考えてみたいと思います😊
みなさんは、日本社会党という政党を知っていますか❓
日本社会党という政党は、戦前・戦後のどちらにも存在していた政党です。
戦前の日本社会党は、1906(明治39)年に結成されています。
堺利彦(さかい としひこ)らによって結成された日本社会党は、第1次西園寺公望(さいおんじ きんもち)内閣時に結成され、「法律の範囲内」における活動を目指しましたが、東京市電値上げ反対運動で、日本社会党の西川光二郎(にしかわ みつじろう)が兇徒聚衆罪(きょうとしゅうしゅうざい:多人数を集合せしめて暴動し、人を殺害し、家屋などを破壊・焼失した罪)で2年間投獄されてしまいます😓
さらに日本社会党内部では、直接行動派と議会を中心に社会主義を広めていこうとする議会政策派とが対立するようになります。
直接行動とは、政府・資本家との妥協を一切排除し、自力で労働条件の改善をはかり、さらには賃金制度のない社会を実現するために採用された闘争方法です。
特に、ゼネラル・ストライキ(略してゼネ・スト)は、現存の制度を一挙に変えてしまうための最高の戦術として重要視されていました。
ゼネラル・ストライキとは、全国全産業の労働者が統一された指令のもとにいっせいに仕事を停止してしまうことです。
しかし、1907(明治40)年、日本社会党は明治政府によって結社禁止が命じられ、わずか1年で政党としての活動を終えることになってしまうのです😓
第二次世界大戦後の1945(昭和20)年、戦前の無産政党を統合して日本社会党が結成されました。
無産政党とは、資産のない階級(労働者・農民ら)を基盤とする社会主義政党の総称です。
この日本社会党は、アメリカの「ある戦略」がもとで右派と左派の両派に分裂してしまうことになるのです。
この「ある戦略」とは一体何か…。
「この戦略」こそ、サンフランシスコ平和条約の調印です。
1950(昭和25)年6月に始まった朝鮮戦争は、アメリカに対日講和条約・日米安全保障条約の成立を促す契機になりました。
朝鮮戦争を継続する上でアメリカが必要とした武器・弾薬の製造、自動車や機械の修理などは全て日本で行われました。
この膨大な特需(とくじゅ:戦争などにより増大した需要)によって、日本の経済は活気を取り戻すことになったのです。
そして何と言っても日本はアメリカにとって、極東の平和を考えた際に地理的に非常に良い場所に位置していました。
アメリカは、沖縄と日本本土を軍事基地として確保・利用しようと考えたのです。
朝鮮戦争で日本の戦略的価値を強く認識したアメリカは、占領を終わらせて日本を西側陣営(資本主義陣営)に早期に編入しようとする動きを加速させます。
アメリカは対日講和からソ連などの社会主義国を除外し、講和後もアメリカ軍を日本に駐留させようとしたのです。
このような動きを受けて、日本国内では大きな対立が起こることになります。
アメリカ側とだけ講和することを主張する「単独講和論」と、ソ連・中華人民共和国などを含む全交戦国との講和を主張する「全面講和論」の対立です。
日本社会党は、「全面講和」を目指すべきであると主張します。
しかし第3次吉田茂内閣は、再軍備の負担を避けて経済復興に全力を注ぐためにもアメリカ側のみと講和することで独立を回復し、アメリカ軍への基地提供の見返りに独立後の安全保障をアメリカに依存する道を選択します。
こうしてサンフランシスコ平和条約が調印されるのですが、条約が締結されたのちに、当事国の最終的確認・同意の手続きが必要とされます。
この手続きを「批准(ひじゅん)」といいますが、この批准をめぐって日本社会党は党内で激しく対立することになるのです❢
この対立はどのような結末を迎えるのでしょうか❓
この続きは、次回にしたいと思います😊