2018年4月よりブログを始め、今回がちょうど200記事目となります😊
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さて、今回も大学入試問題を題材として、歴史を深めてみたいと思います。
今回は、「なぜ日中戦争は長期化したのか❓」を題材として扱ってみます。
日本は、1931(昭和6)年9月18日、奉天【ほうてん:現在の瀋陽(しんよう)】郊外の柳条湖で南満州鉄道の線路を爆破し、これを中国軍のしわざとして軍事行動を開始します。
満州事変の始まりです。
翌1932(昭和7)年には、満州の主要地域を占領し、3月には清朝最後の皇帝であった溥儀(ふぎ)を執政として、満州国の建国を宣言させます😲
同年9月、5・15事件で犬養毅が殺害された後に組閣された斎藤実(さいとう まこと)内閣は、日本が満州国を独立国として承認した両国(日本国と満州国)間の条約である「日満議定書(にちまんぎていしょ)」に調印します。
「日満議定書」は、満州国が日本の実質的従属国ないし植民地であることを国際条約の形式で確定したもので、国際連盟・中国・アメリカなどの強い反発を招き、日本の国際連盟脱退へとつながっていきます。
この頃の世界経済を見てみると、各国は1929年10月にニューヨークのウォール街で起こった株価暴落に端を発した世界恐慌からの脱出をはかって苦しみ、もがいていました😓
日本は円安を最大限利用して、飛躍的に輸出を伸ばしていたのですが、イギリスをはじめとする欧米列強は、日本の貿易政策をソーシャル=ダンピング(他国に対して輸出品を安く売ること)であると激しく非難します。
世界的な不況の中、日本の輸出がグロック経済により阻(はば)まれ出し、さらには米英からの輸入も楽観できない情勢となっていきます😔
イギリスのブロック経済が有名ですが、ブロック経済とは、本国と植民地が結びついて1つの経済圏を作り、重要物資の自足自給・商品市場の確保などを図ることです。
こうした情勢は、日本に満州国のみならず、さらなる市場獲得を求めて一層の軍事行動を引き起こさせるのに十分な理由を与えることになりました。
満州国の南方、チャハル・綏遠(すいえん)・河北・山西・山東の5省を日本側では「華北(かほく)」と呼んでいました。
この5省の豊富な資源と市場に対する渇望(かつぼう)を抑えることができなかった日本は、華北を蔣介石(しょうかいせき)率いる国民政府の統治下から切り離して、日本の支配下に取り込もうとする華北分離工作を公然と進めていくのです😲❢
このような日本の膨張政策は中国の民族的危機感を強め、抗日救国運動(こうにちきゅうこくうんどう:日本を排除し、国を救おうとする運動)が広がっていくことになります。
そして、この抗日救国の気運を著しく高めた事件がありました。
1936(昭和11)年12月に発生した、西安(せいあん)事件です。
西安は、中国唐の都長安が置かれた地として知られています。
ここで中国国内の状況に少し触れなければなりません。
孫文によって1919(大正8)年に結成された中国国民党は、広東(かんとん)を中心に中国南方に勢力を広げました。
1921(大正10)年には中国共産党が上海(しゃんはい)で創立されるのですが、中国国民党と中国共産党は当初、提携関係を結んでいました。
これを第1次国共合作といいます。
しかし、1927(昭和2)年に国民党と共産党が分裂した後は敵対関係であり、中国国内は国民党と共産党による内戦状態が長く続くことになるのです。
歴史を見れば、第2次世界大戦後、蔣介石率いる国民党と毛沢東(もうたくとう)率いる共産党との内戦の結果、共産党が勝利し、1949(昭和24)年に中華人民共和国が建国されています。
第1次国共合作が崩壊して内戦が続く中、「抗日」という共通の目的を見出した両党が西安事件を契機として、手を結ぶのです。
こうして第2次国共合作が行われるのですが、ここに大きく関わった「ある人物」が存在します。
一体誰でしょうか❓❓
この続きは、次回にしたいと思います。
みなさんも是非、調べてみて下さい😊