今回は、摂政や関白に就任するためには、どのような条件が必要となるのかということについて考えを深めてみたいと思います😊
摂政・関白といえば藤原氏❢❢となるのですが、藤原氏は実に長い年月をかけて摂政・関白(摂関といいます)の座を獲得しているのです。
ここでまず、藤原氏がどのようにして摂関の地位を獲得していったのか、について概観してみたいと思います😊
藤原氏の祖である中臣鎌足の第一子、定恵(じょうえ)は出家後若くして亡くなっており、第二子である不比等(ふひと)が藤原姓を独占継承しました。
藤原不比等の4子、武智麻呂(むちまろ)・房前(ふささき)・宇合(うまかい)・麻呂(まろ)はいずれも公卿(くぎょう:3位以上の上級貴族)となり、それぞれ南家(なんけ)・北家(ほっけ)・式家(しきけ)・京家(きょうけ)に分立して一族繁栄の基盤を広げます。
そしてこの4家の中で、のちに摂政・関白を輩出することになったのが北家です。
平安時代の810(弘仁元)年、平安京にあった都を奈良時代の都であった平城京に再遷都しようとする事件が発生します😲
この事件は、平城太上天皇(へいぜいだいじょうてんのう)の変と呼ばれています。
平城太上天皇の動きを阻止することで平城京への再遷都を許さず、平安京を帝都として確定させたのが、平城太上天皇の弟の嵯峨(さが)天皇でした。
この時、嵯峨天皇が自らの秘書官長として設置した令外官(りょうげのかん:令に規定されていない新しい官職)である蔵人頭(くろうどのとう)に任命されたのが、北家出身の藤原冬嗣(ふゆつぐ)でした。
藤原冬嗣は平城太上天皇の変で嵯峨天皇の信頼を獲得し、さらに自らの子である順子(じゅんし)を嵯峨天皇の子である仁明(にんみょう)天皇に嫁がせます。
仁明天皇と順子の子が文徳(もんとく)天皇として即位することで、藤原氏北家は天皇の外戚となり、天皇家との姻戚(いんせき)関係を結ぶことに成功するのです。
藤原冬嗣の子である良房(よしふさ)は、文徳天皇に自らの子である明子(あきらけいこ)を嫁がせ、文徳天皇と明子の子を清和(せいわ)天皇として即位させます。
866(貞観8)年、藤原良房は孫にあたる清和天皇から「天下の政(まつりごと)を摂行(せっこう)せよ」との勅(ちょく:天皇の命令のこと)を受け、初めて人臣摂政(じんしんせっしょう)の道を開きました。
人臣摂政とは、皇族ではない人が摂政に就任することです。
この間、藤原氏は自分たちの勢力拡大に障害となる政敵を、様々な策略を駆使して没落させることを忘れてはいません😓
藤原良房の地位を継承した藤原基経(もとつね)は、仁明天皇の第三皇子である光孝天皇を55歳という高齢で即位させています。
光孝天皇はこれに報いるため、884(元慶8)年に藤原基経を初めて関白に任命するのです。
光孝天皇の子である宇多天皇、宇多天皇の子である醍醐(だいご)天皇、そして醍醐天皇の子である村上天皇の時代には摂政・関白が設置されませんでしたが、969(安和2)年に醍醐天皇の子で左大臣の源高明(みなもとのたかあきら)が左遷されると、その後はほとんど常に摂政・関白が設置されるようになります。
摂政・関白の地位には、藤原基経の子である藤原忠平(ただひら)の子孫が就任することになります。
つまり!
810年から969年。
実に約160年間の長きにわたる時間をかけて、藤原氏北家は摂政・関白の座を手中に収めたことになるわけです❢
藤原氏北家は、勢力拡大に障害となる貴族を徹底的に排除し【他氏排斥(たしはいせき)といいます】、天皇家と身内となることで、というよりも天皇家と身内の関係にならなければ摂政・関白として権力を行使することはできませんでした。
これは当時の「結婚のあり方」というものが深く関係しています。
次回は、この当時の「結婚のあり方」から歴史を深めてみたいと思います。
みなさんも是非、考えてみて下さい😊