まず第1回目は、「関所」について考えてみたいと思います。

 

関所は、一般的な辞書には「交通の要所や国境に設けて、通行人や通過物を検査し、また、脱出や他からの侵入に備えた所。」と記載されています。

 

ですが日本の長い歴史を見ると、関所の使い方も時代によって様々であることがわかります。

 

古代における関所の使い方】~軍事的・治安維持的機能

 

重大事が発生した時、関所を封じて交通を遮断し、防衛の施設として設けられた

 

固関(こげん)」という防衛

 

古代律令制において、天皇の病状悪化・死去などの国家の非常事態時に、三関(さんげん)と呼ばれた国家が最も重視したとされる伊勢(現:三重県)の鈴鹿関美濃(現:岐阜県)の不破関(ふわのせき)、越前(現:福井県)の愛発関(あらちのせき)の門を閉鎖して通行を禁止させました。

 

なぜこのようなことをするのでしょうか

 

それは権力の空白に乗じて、中央に謀反者が出た場合に備えるためでした。謀反者が朝廷の軍事的基盤である東国方面に侵入して軍事力を確保し、反撃することを予め防止する目的があったとされています。つまり軍事的・治安維持的機能関所は持っていたということになります。

 

具体例を1つ見てみたいと思います。

 

具体例:壬申(じんしん)の乱672年)

 

壬申の乱とは、天智天皇の弟である大海人皇子(おおあまのおうじ)と天智天皇の子である大友皇子(おおとものおうじ)が、天智天皇死後の皇位継承の座をめぐって争った日本古代史上最大の皇位継承戦争です。

 

大海人皇子側は東国豪族による軍事動員に成功して大友皇子側を倒したのですが、実はこの大きな軍事力を有していた東国を大友皇子側も目指していました。しかし迅速な動きで東国へ通じる美濃の不破関(現:岐阜県不破郡関ヶ原町)を支配した大海人皇子は、大友皇子を自殺へと追い込み、皇位継承戦争に勝利することになります。

 

「壬申の乱」についての知識は、大学受験では基本知識です。

センター試験レベルとお考えいただいてよろしいかと思います。

 

授業では図版を用いて三関の位置を確認させ、古代の内乱に際してなぜ当事者たちは東国へ向かおうとするのか東国の重要性)、畿内(現:京都府・奈良県・大阪府)と東国を遮断する意味について考えさせるようにしています。

 

次回は、「関所:中世史編」のお話です。