アーライツ法律事務所10周年の企画として始めることにした"Salon Howlin’-新しい時代への私たちの役割-"@銀座ハウリンの第1回目が3月12日(土)、元経済企画庁長官、新党さきがけ代表代行だった田中秀征さんをゲストにお招きして開催した。

 

 この企画の趣旨は以下の通りだ。

 

 時代の転換期、分岐点などといわれて久しい。しかし我々は、未だに次の時代への一歩を踏み出すことができないままだ。今こそ、新しい時代にふさわしい新しい価値観による新しい社会を創造することが求められている。

  社会に大きなインパクトを与えた著作「人新世の『資本論』」は、例えば気候変動について、人類が経験したことのない甚大な被害を回避するためには、今すぐシステム自体を変えなければ「間に合わない」という。彼がいう「脱成長コミュニズム」が正解かどうかは別として、我々一人ひとりが自らの意思で行動を始めるべき時が迫っていることは、その通りであろう。

  そこで、”サロン・ハウリン”と題し、様々な現場で行動する人たちの声を聞き、議論する場を提供することで、「新しい時代への私たちの役割」について考える端緒としたい。
 

 3月より毎月第2土曜日17時スタート    

配信(第1位部のみ)無料

 こうして秀征さんとトークをするのはもう4回目になるのかな。お互いに慣れてはいるんで、秀征さんも事前の打合せについては「僕とあんたの関係だから、まあ適当でいいね」という感じなんだけど、僕としては今回はちょっと違う。趣旨が明確なシリーズイベントの1回目だし、結構、緊張感をもって臨む必要があると感じていた。そこで、以下のような内容で考えてる旨を伝えた。

 

国の危機管理について。

考えてみれば、阪神大震災以降、バブル崩壊、原発事故、西日本大豪雨、コロナ・・・と数年おきに大きな災厄がやってきてる。

コロナは初めて日本中、世界中の人たちが同時に被害を被る災厄になってるけど、今進行中の気候変動はそれよりはるかに大きい危機。

そう考えると、これにどう備えるかっていうのは、現代の最大のテーマといえる。

阪神大震災のとき、村山さんの首相特別補佐として国の中枢にいた秀征さんが、その時の経験を踏まえ危機管理をどう考えるか、それが気候変動への対応にどうつながるかっていうのが、凄く興味深い。

 

 ところが、前日になって、「やっぱり今、大方の人たちが関心を持ってるのはウクライナとロシアの問題なんで、それでいこう。そこに危機管理とか色んなテーマを含めて話せるだろ」と電話があった。

 うーん、ちょっと心配だけど、もうそれで行くしかない。

2021年1月28日のFBへの投稿

 

時短要請に応じず20時以降も営業してる店は、大体大入りだ。

ほとんどの店が閉店して暗くなった街の中で、そんな店は目立っている。

協力金を放棄しても、その方が利益が得られるという経営判断だろう。

酒屋も八百屋も肉屋も、そしてアルバイトも、多くの人たちが助かっているはずだ。

20時以降に仕事が終わって食事をしたい人や、まだまだ飲み足りない人たちも当然いるだろうしね。

誰も経験したことのない災厄の中で、足並み揃えることなく、それぞれの判断でバラバラに生きてる。

そんな日本は、美しいと思う。

罰則なんていう安易な手段でこの風景を汚すのは勘弁して欲しい。

PS.医療従事者をはじめ、社会や人々の生活を支えるために懸命に働くエッセンシャルワーカーの皆さんに感謝を、すべての労働者にエールを送ります。

 

 

 父の移転先はまだ見つからない。今、お世話になってる施設でもコロナ陽性者が発生したりして、その対応で動きが鈍くなってるのもあるようだし、やっぱり暴言を吐くような老人を引き受けてくれるところは、そんなにないのかな。

 

 僕が司法試験に受かって、もちろん、家族はめちゃくちゃ喜んでくれたわけだけど、その中でも父の喜びようは半端じゃなかった。というか、ちょっと異質だった気がする。

 弁護士として働くようになってからは、仕事の話をすると、「俺はそういう話を聞きたいんだがや」と心から嬉しそうだった。

 東京に来る機会があれば、やたらと事務所に来たがったし、たまたま長時間の尋問があった時は、最初から最後まで傍聴した。その時、相手方の当事者は、大柄で迫力満点のもの凄く気の強い女性で、そのことが遠因となって激しい争いに発展したわけなんだけど、僕は尋問でかなり追い詰めて、様々な矛盾を容赦なく問い詰めた。尋問後、裁判所の外で一緒になった父は、「あの相手の人、終わった瞬間、がっくりうなだれて、倒れそうになっとったなあ」と、つぶやくように言った。感想らしいことはそれだけだ。

 ある時、「俺は、お前が弁護士になって、初めてちゃんと話ができるようになった気がしとる。それまでは、何か壁みたいなもんがあるような感じがして、うまいこと話せんかった」というようなことを言われた。そのときは「そうかな」ぐらいにしか思わなかったけど、考えてみれば、僕はそれまで両親の期待とは相反する方向へまっしぐらに進もうとしてるっていう自覚があったんで、まともに向かい合おうとしてなかったのかもしれない。いわゆる負い目か。もちろん、音楽をやり続ける覚悟を隠さず伝えたし、音源も聴かせ、ライブにも呼んだ。でも、それは表面的なことで、実際はその場を取り繕うことだけを考えて、本当の意味での本音は常に見せないようにしてたのかも。

 いや、それだけじゃない。実際、両親と3人で旅行に行ったのは、小学校を卒業した春休みの四国旅行が最後だ。ずっと反抗的な子どもだったわけじゃないけど、なるべく疎遠な関係であるように振舞ってきたように思う。一人っ子だからといって、甘やかされた存在にはなりたくなかったというのもある。妙な意地とか、独立心みたいな。

 生きてるうちに、もう少し親孝行しなきゃな。