鞆の浦二千年の歴史を紐解く“鞆の浦研究室”/Discovery! 鞆の浦
第四回 鞆の浦検定/開催延期のおしらせ

 このたびの東日本大震災により、尊い生命を失われた方々に深く哀悼の意を表しますとともに、被災されました皆様に心からのお見舞いを申し上げます。
 また、全力を挙げて復旧作業に携われている皆様に深く敬意を表しますとともに、被災地域の一日も早い復興を心から願っております。

 第四回 全国一斉 鞆の浦検定は、上記非常事態や問題用紙印刷の電力・配送状況の影響などを鑑み、2011年4月29日に開催を予定しておりましたが、開催期間を延期し、2011年9月9日に開催することに決定いたしました。
 全国一斉 鞆の浦検定の開催を楽しみにされておられた皆様、既に開催期間中、鞆の浦への旅行を検討されている皆様に、深くお詫び申し上げますとともに、何卒ご理解を賜りたくお願い申し上げます。

 第四回 全国一斉 鞆の浦検定 主催:Think(シンク)鞆の浦は、今回の検定実施におけるすべての印刷・配送費用を日本赤十字社を通し4月2日、被災地へ寄付しました。

第四回 全国一斉 鞆の浦検定 主催:Think鞆の浦/代表 深藤(フカトウ)

第四回 全国一斉 鞆の浦検定
『日東第一形勝』呼称300年の歴史
~山紫水明處~


平成23年9月9日(金)午前9時から! <受検料¥0>

◎上記5つのコンテンツ『神(神社)』『仏(仏閣)』『祭(祭事)』『史(歴史的遺産)』『人(鞆の浦の偉人・鞆の浦への訪人)』に沿って、ブログテーマ一覧は下記左に記してあります。※旅人への観光名所ご案内ブログ
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備後の首府/キリシタン燈籠と織部燈籠

阿彌陀寺 キリシタン灯籠
阿彌陀寺 キリシタン灯籠 posted by (C)深藤龍眼

【キリシタン燈籠/織部燈籠】
茶の宗匠・千利休の高弟・古田織部重然(ふるたおりべしげよし)が創案されたと伝えられる茶庭用の燈籠に似せて作られた。

阿弥陀寺の庫裡の門を入ると石燈籠があり、竿丈60.5cm、基壇露出部21.5cmの白御影石に童児尊像を浮き彫りにしている。
笠や火袋は失われているが「隠れキリシタンの礼拝物」で十字架を象徴する「キリシタン燈籠」と呼ばれている。

当時、鞆の浦は織田信長と対立していた毛利領であったのだが、

『鞆は公方様(足利義昭)が住んでいるが、夜もふけたので、誰にも気づかれなかった/フロイス(1581年)』

宣教師は、鞆の浦を避けて瀬戸内海を航海していたが、関ヶ原の戦い(1600年)後はキリスト教を擁護した福島正則領となったため、『キリスト教を保護する諸公の中での第一は福島正則』と云われ、クリスチャンからは「備後の首府」と呼ばれた。

その後、布教活動は活発になり、慶長九(1604)年には教会も建てられた。
「1616年イエズス会年報」によれば、
『異境の親族たちはキリシタンたちと、蝋燭・松明・提灯を持って、夜景に壮観を添え、葬式を盛大にした』と伝えている。
商家の中には西洋との交易もあり、敬虔な信者も多く、当時の鞆城城代・津田因幡守の妻はキリシタンとして亡くなった。
祥月命日には、キリシタン儀礼により、肉と魚の料理で追悼していた。

水野時代となり、寛永十六(1639)年の鎖国令以降は、キリシタンへの弾圧と迫害は厳しくなる。
この燈籠は、寺院庭園等に置く「織部燈籠」と言われるもので、キリスト教文化に特別の関心を持った古田織部が考案した西洋的な文様と形の燈籠を伝えている。


阿彌陀寺 本堂
阿彌陀寺 本堂 posted by (C)深藤龍眼


◎関連ログ/阿弥陀寺

【雲洞和尚/阿弥陀寺十代住職】
http://ameblo.jp/rediscovery/entry-10846641895.html

【恵心僧都/眼明本尊絵像】
http://ameblo.jp/rediscovery/entry-10846593711.html

【心光山阿彌陀寺】
http://ameblo.jp/rediscovery/entry-10189588676.html

名刹/臨済宗妙心寺派/萬年山小松寺

萬年山小松寺/本堂
萬年山小松寺/本堂 posted by (C)鳶眼

萬年山小松寺/山号標
萬年山小松寺/山号標 posted by (C)鳶眼

【萬年山小松寺】
有髪薬師地蔵尊
ボケ封じ・婦人守護

宗派/臨済宗妙心寺派
山号/萬年山
院号/
開基/
本尊/観世音菩薩
住所/

萬年山小松寺
萬年山小松寺 posted by (C)鳶眼

<小松寺略記> 臨済宗妙心寺派

安元元(1175)年、春小松内府平重盛卿は、父・清盛が守護神として祀った厳島神社参詣の途次、旅の安全を祈願するため船を渡守の地に立ち寄った。重盛は西方の正覚山静観寺の七堂伽藍、空高くそびえ立つ五重の塔の偉容に打たれ、この地に滞在。静観寺(当時で創建370年を超えていた)境内に自作護身の阿弥陀仏像を安置して一宇を建立し、その際記念に松の木を植えた。重盛は「もし、この松が天に伸びれば平家は栄え、地に這えば平家は衰退するだろう」と言い残す。(樹齢850年の偉容を誇っていたが、昭和二十九年の台風によって倒伏した。)

寿永二(1183)年、平家福原都落ちの際、病死した重盛の二男・資盛は、一族より離れこの地を訪ね、亡き父の菩提を弔うため五、六日逗留した。平貞能、京より重盛公の遺髪を持参し、五輪塔を建立し盛大なる法会を営む。

建武二(1335)年、小松寺は盛大となり、草谷(くさのたに)一帯の山麓を占め、伽藍も盛大だった。

延元元(1336)年二月、足利尊氏が九州から大挙東上の途中、弟直義と当寺に宿陣して軍義した。光厳院の院宣を受け錦旗を掲げ意気衝天した。

暦応二(1339)年、鞆合戦。南北朝期当寺に本営を置きし北朝軍と大可島に陣する南朝軍との激戦は十数日にも及び、旧記什物は勿論殿堂灰燼に帰し、大永年中安国寺六世曇叟華禅師再建し禅刹とす。
※暦応三(1340)年とも・・・

大永年中(1525年頃)、安国寺六世・曇隻華(どんそうか)禅師が再建し禅刹とした。

天正三(1575)年、京を追われた15代将軍・足利義昭が、当地に宿陣の毛利輝元を頼って当寺に愚居したが、羽柴秀吉と毛利の和議が成立するや、常国寺(山を隔てた熊野町)に移住した。
古人曰く「足利は小松に興り、小松に亡ぶ」といわれた。

慶長年中(1610年頃)、久留米の梅林寺第二世・湘山玄澄が再興し、梅林時と併せ守った。

元和九(1623)年、九州久留米の梅林寺三世・澤雲禅師が京都・妙心寺派として再建・禅刹・法系とし、今日に至る。その後、備後安国寺の末寺となり、現在は京都・妙心寺派に属する。

慶安年中(1648~1651)、福山藩主・水野勝成が当寺の寺域の大半を祇園宮(沼名前神社)社地とした。この時本尊だった平重盛自作護身の阿弥陀仏像は水野勝成が回収し同家の菩提寺(賢忠寺)の本尊とした。※現在小松寺には両脇士観音勢士のみ。

貞享二(1685)年、再び境内を割いて社地となされ今日に至る。
本堂前に祀る有髪薬師地蔵尊は、非常に珍しい石仏で古来霊験顕著として遠近より参詣者が多い。

寛政二(1790)年、琉球使節・向生が、この地で病死した。

寛政八(1796)年、琉球使節(向生の父親・祖父)が、鞆港で病死した琉球使節の楽師・向生七回忌の供養に小松寺訪れ、「容顔如見(ようがんみるごとし)」の扁額を奉納。

昭和二十九(1954)年、国の天然記念物の見事な巨大・松は、台風により倒伏した。
シーボルトもその松之図(版画)を収集している。

 竹原に、京都の清水寺を模して造った普明閣で知られている西方寺があり、本尊は十一面観音で、広島県の重要文化財。ですが、これは“秘仏”とされています。この寺の文書によれば、この観音像はもともと鞆の小松寺の本尊で、戦乱が鞆に迫ってきたので、住職が本尊を背負って竹原へ逃れてきたと書かれています。そこで三原城主、小早川隆景が普明閣を建立して、十一面観音を安置したという。

瀬戸内の要港にある古刹であり、要港であったがため、戦乱に巻き込まれ栄衰していった小松寺の歴史である。


萬年山小松寺/山門
萬年山小松寺/山門 posted by (C)鳶眼

【小松寺山門】

【小松寺本堂】

【地蔵堂】

萬年山 小松寺 地蔵堂
萬年山 小松寺 地蔵堂 posted by (C)深藤龍眼

【有髪薬師地蔵尊】
平家の子孫と伝える老婆の夢枕に
「小松寺に埋まっている仏像を早く掘り出しておくれ」というお告げがあり、すぐにも掘り出して祀ったのが、この薬師地蔵だというのである。女性の悩みとボケ封じに霊験あらたかという。


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【琉球使節】
江戸時代の初め慶長十四(1609)年、薩摩藩は、琉球王国を侵略し、王を虜にして帰り、琉球王国は薩摩藩の支配となった。
薩摩藩は琉球を通して中国貿易を復活するために、琉球王国を独立国のように見せかけていた。
それから、幕府は薩摩藩を仲介者として琉球王国を掌握、支配し、琉球王国は江戸幕府の将軍が代替りするごとに慶賀使を、また琉球国王の即位の時も謝恩使を江戸へ派遣し、入貢した。
慶賀使謝恩使の江戸への旅は、琉球国王の一世一代の儀礼とされ、これを「江戸上り」と呼んだ。一行は約100名の使節団で、江戸時代に18回江戸上りを行っている。
その途中、鞆へはすべて寄港・宿泊している。
薩摩藩は、琉球使節に服装や言葉などにも異国風を強制し、琉球王国が独立国であることと薩摩藩の存在を誇示した。しかし、これによって中国や琉球文化は各地に伝播した。

【琉球使節の木額】h57cm / w123cm
「容顔如見」(ようがんみるごとし)の扁額は、寛政八(1796)年に琉球使節(向生の父親・祖父)が、鞆港で病死した琉球使節の楽師・向生7回忌の供養に小松寺へ奉納したもので、今も本堂に掲げられている。赤地に黒、金箔などの華やかな琉球様式となっている。


瑠(琉)球司楽向生碑/総高190cm
瑠(琉)球司楽向生碑/総高190cm posted by (C)深藤龍眼

【瑠(琉)球司楽向生碑】総高190cm
福山藩では、鞆町奉行が琉球使節の接待を勤め、藩の別邸「御茶屋」と薩摩藩の御用商人、猫屋を宿舎としていた。「江戸上り」の途中、鞆で病死した楽師・向生は、猫屋の菩提寺、小松寺に埋葬され、墓石と共にこの追悼碑が、福山藩によって建てられた。
これで、福山藩や鞆の人々が琉球使節を暖かく遇していたことも分かる。
向生とは与世山向道は琉球貢使の従者で、寛政2年(1790)に来日したとき、この地で病死した。
また境内の墓地に、小松内府平重盛の供養塔がある。

萬年山 小松寺 平重盛
萬年山 小松寺 平重盛 posted by (C)深藤龍眼

萬年山 小松寺 平重盛
萬年山 小松寺 平重盛 posted by (C)深藤龍眼

【臨済宗/臨濟宗(りんざいしゅう)とは】
中国禅宗五家(臨済、潙仰、曹洞、雲門、法眼)のひとつで、唐の臨済義玄(?-867年)を宗祖とする。
彼は『喝の臨済』『臨済将軍』の異名で知られ、豪放な家風を特徴として中国禅興隆の頂点を極めた。
公案に参究することにより見性しようとする看話禅(かんなぜん)であり、座禅に徹する曹洞宗の黙照禅と比較されることがある。

【妙心寺派とは】
妙心寺(みょうしんじ)は、京都市右京区花園にある臨済宗妙心寺派大本山の寺院。
山号を正法山と称する。
本尊は釈迦如来、開基(創立者)は花園法皇、開山(初代住職)は関山慧玄(かんざんえげん、無相大師)である。
日本にある臨済宗寺院約6,000か寺のうち、約3,500か寺を妙心寺派で占める。
近世に再建された三門、仏殿、法堂(はっとう)などの中心伽藍の周囲には多くの塔頭寺院(たっちゅうじいん、子院)が建ち並び、一大寺院群を形成している。
平安京範囲内で北西の十二町を占め自然も多いため、京都市民からは西の御所と呼ばれ親しまれている。


心光山阿彌陀寺

心光山阿彌陀寺
心光山阿彌陀寺 posted by (C)鳶眼

【心光山阿彌陀寺】
鞆の大仏
往生浄土此世及後世常照護

阿弥陀寺
阿弥陀寺 posted by (C)ロコボーイ

宗派/浄土宗・智恩院末
山号/心光山
院号/法泉院
開基/天誉上人
本尊/阿弥陀如来
住所/広島県福山市鞆町後地1344

阿弥陀寺の写真はコチラ
http://photozou.jp/photo/list/223474/905620



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天誉上人開山の名刹、必見!「鞆の大仏」
深津郡引野村に在ったが、天誉上人という高僧が永禄八(1565)年に鞆・古城山の西脇に移し、開山と称えたが、次代が慶長十二(1607)年に現在地に再転されたと記録されている。
慶安五(1652)年、有磯町妓楼・奈良屋が梵鐘を寄進した。
述宝年間(1673~1680年)に関町の豪商・大阪屋平左衛門が観音堂建立、同年、地蔵堂を道越町・堺屋が建立したものと伝えられる。

江戸前期~中期にかけて十代目・雲洞和尚が時運を隆盛させた。
元禄四(1691)年、雲洞和尚が京都の仏師・安清を呼び寄せ。二年がかりで彫作させたといわれる「阿弥陀如来像」。一説には・・・
元禄十六(1703)年、鞆の大仏「木造阿弥陀如来座像」が造立。とある。
※鞆の大仏「木造阿弥陀如来座像」の詳細については下記参照

境内には、江戸時代の多彩で見事な石造物が多くあり、鞆の町人文化の興隆振りもよくうかがえる。
江戸時代を通して、朝鮮通信使の常宿でもあった。


【眼明本尊の絵像(かいがんほんぞん)
多田満中の妻が我が子・美女丸の死を悲しみ慟哭のあまり失明してしまったのを不憫に思った恵心僧都(けいしんそうづ)が、衣の袖に弥陀の絵を描いて与えたところ、失明した両眼が再び光を得た。という由緒あるもの。

多田満中:平安中期(960年頃)の武将。摂津国多田(兵庫県川西市)の多田源氏を称えた。別名:源満中。藤原氏に属し源氏発達の基礎を築いた武将。

恵心僧都:平安中期の天台宗の僧。恵心流の祖。大和生。諱は源信、恵心僧都は通称。比叡山横川の恵心院に住んだため、この名が生まれた。
良源に師事し、顕密二教を学ぶ。また『往生要集』を著し、のちに浄土宗信仰の展開に大きな影響を与え、宋でも高く評価された。寛仁元年(1017)寂、76才。


【木造阿彌陀如来坐像(鞆の大仏)光背までの高さ約4m
雲洞住職の代の元禄十六(1703)年に作られた丈六の大仏。
江戸中期の都仏師による実に堂々とした優作で、これ程の大きさの仏像は地方においては極めて珍しく、鞆の経済力を如実に示している。

阿弥陀寺
阿弥陀寺 posted by (C)ロコボーイ
【鞆の津塔群】
江戸前期に鞆の商人が建立した鞆独特の大規模な石塔で町人階級のものとしては格段に立派なものである。
この「鞆の津塔」が阿彌陀寺境内には12基もまとまって現存し、当時の鞆の商人の隆盛振りを如実に示している。

心光山阿彌陀寺
心光山阿彌陀寺 posted by (C)鳶眼
【石造地蔵菩薩坐像】像高67cm 総高219.3cm
延宝三(1675)年、わざわざ遠方の名石工・肥前州小城郡の富永仁右衛門に製作を依頼したもの。
鞆の商人が先祖の供養につくったもので、その豊かな経済力もみてとれる。木彫仏に迫る細密な表現で、また精神性の込もった近世日本で屈指の石仏に入ると思われる傑作である。

阿弥陀寺
阿弥陀寺 posted by (C)ロコボーイ

心光山阿彌陀寺
心光山阿彌陀寺 posted by (C)鳶眼
【梵鐘】
「慶安壬辰」慶安五(1652)年、有磯町妓楼・奈良屋が寄進したもの。
鞆でわずかに残る二つの梵鐘の内の一つとして貴重である。

Discovery 鞆の浦-阿弥陀寺

Discovery 鞆の浦-阿弥陀寺


心光山阿彌陀寺
心光山阿彌陀寺 posted by (C)鳶眼

【放生(ほうしょう)の池】
雲洞和尚(阿弥陀寺十代住職)が名付けた泉水

【樹齢三百年の榧(かや)】


阿彌陀寺 鞆の大仏
阿彌陀寺 鞆の大仏 posted by (C)深藤龍眼

釈迦・弥陀を拝む鞆の大仏
<浄土宗新聞平成3年7月号より記載>

阿弥陀寺がある鞆(とも)の浦は、瀬戸内山陽道の中央に位置し、古代から行き交う船の潮待ちの港として栄えてきた。寺社も多く「鞆の浦古寺めぐり」があるほどで、港町と古都の魅力を兼ねそなえた町である。
阿弥陀寺は永禄八(1565)年に開かれた古刹。寺に参ってまず驚かされるのが本尊の阿弥陀さまで「鞆の大仏」と呼ばれる丈六(約2.6メートル)の座像、元禄時代の作という。
造像を発願した中興・雲洞上人は、多くの人々を救いたいと願っていたところ、現に阿弥陀さまが現れ、その姿をもとに仏師に願いこの像を作ったという。
仏像には恵心僧都作の御首をいただき、生地は当時の高僧の袈裟に経文を書き記して着せたのちに黒漆を塗り、眉間の白亳には唐の鑑真和尚招来の仏舎利(お釈迦さまの遺骨)を、胸中に経文、胎内には当時の念仏講の過去帳と信者の手によって描かれた百万遍念仏図説が収められているという。
それにより、この像を拝むことにより、釈迦、阿弥陀さま、そして経典までも一度に拝めるということで多く信者を集めている。
また、以上のことを何も知らない外国人及び若者でも、接すれば美しい慈悲のお相に心うたれる仏様です。

阿彌陀寺 本堂
阿彌陀寺 本堂 posted by (C)深藤龍眼

◎関連ログ
【雲洞和尚/阿弥陀寺十代住職】
http://ameblo.jp/rediscovery/entry-10846641895.html

【恵心僧都/眼明本尊絵像】
http://ameblo.jp/rediscovery/entry-10846593711.html

【備後の首府/キリシタン燈籠と織部燈籠】
http://ameblo.jp/rediscovery/entry-10840570032.html

二十六代住職:吉浦宏栄師


阿弥陀寺
阿弥陀寺 posted by (C)ロコボーイ


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