平重盛 | 鞆の浦二千年の歴史を紐解く“鞆の浦研究室”/Discovery! 鞆の浦

平重盛

【平 重盛(たいら の しげもり)
保延四(1138)年-1179年9月2日(治承3年閏7月29日)
平安時代末期の武将、公卿。平清盛の嫡男。

改名/重盛、浄蓮
別名/小松内大臣、小松殿、灯篭大臣
官位/蔵人、従五位下、中務少輔、従五位上、中務権大輔、正五位下、左衛門佐、遠江守、伊予守、従四位下、左馬頭、従四位上、右兵衛督、従三位、参議、正三位、権中納言、従二位、権大納言、正二位、大納言、内大臣


保元・平治の乱で若き武将として父清盛を助けて相次いで戦功を上げ、父の立身とともに累進し、最終的には左近衛大将、正二位内大臣にまで出世した。
嫡男ではあったが継室の時子の子である宗盛や徳子とは母が異なり有力な外戚の庇護はなく、室が藤原成親の妹・経子であったため、成親失脚後は一門のなかでは孤立気味であった。
政治的には平氏一門の中で最も後白河法皇に近い立場にあった。
清盛の後継者として期待されながらも、清盛と後白河法皇の対立では有効な対策をとることができないまま、父に先立ち病没した。
六波羅小松第に居を構えていたことから、小松殿ないし小松内大臣とも、またその邸宅に48の灯篭を建てていたことから灯篭大臣とも称された。


重盛に対する同時代人の評価は、
「かくの如きの時、必ず使を送られ殊に
 芳心(親切な心)を致されるなり」
(『山槐記』)、
「イミジク心ウルハシク」(『愚管抄』)、
「武勇時輩にすぐると雖も、
 心懆甚だ穏やかなり」
(『百錬抄』)
 など好意的なものが多く、優れた武人であると同時に
 穏和で気配りのできる人物だった
(ただし九条兼実は重盛を嫌っていて、非難の言葉を日記に記している)

中山忠親の送った見舞いの使者に対しても
「年来の素懐、障りなく遂げおはんぬ。
 喜悦きはまりなし」

と返礼を述べている。
その温厚・誠実な人柄で後白河の信任も厚く、『平家物語』において平氏一門の良識派的な存在とされていることも、その人柄が後世に伝わっていたことによると思われる。

しかし、清盛と後白河の間に立たされた重盛は、平氏の棟梁とはいっても全権を掌握していたわけではなかった。
自らの意思を封じ込め調整役に回らざるを得ない立場が、彼の温厚な性格を形成したといえる。
しかし、その性格は本来のものではなく、努力と自己抑制による後天的なものと思われる。
保元・平治の乱での勇猛で生き生きとした姿は影を潜めるが、殿下乗合事件を見ると、激しい感情を心の底に隠していたと考えられる。
重盛がつぶやいたという
「忠ならんと欲すれば孝ならず、
 孝ならんと欲すれば忠ならず」
(『日本外史』)
の言葉も史実かどうかは不明だが、
『愚管抄』でも重盛は
「トク死ナバヤ(早く死にたいものだ)」
と生きることに望みを失った言葉を残しており、清盛と後白河の対立の中で無力であった状況を考えれば、あり得ない話ではない。更に重盛の母は身分が低かったため、支えてくれる有力な親族を持たず、同母弟の基盛が早くに死去していたことも、重盛の孤立感を深めたと推測される。
異母妹の徳子を養女として高倉天皇の中宮としたものの、実際に外戚として重んじられたのは徳子の同母兄弟の宗盛・知盛・重衡らであり、平氏の棟梁としての地位すら危うくなっていた
(これは重盛の没後、重盛の子である維盛ではなく宗盛が棟梁となっていることからも分かる)
重盛の死は、清盛と後白河法皇の対立を抑えていた最後の歯止めが失われたことを意味し、両者の同盟関係を完全に崩壊させることになった。


◎関連ログ
灯籠大臣/平重盛
http://ameblo.jp/rediscovery/entry-10856023886.html


鞆郎くん
 『鞆の浦いいもの再発見!/Discovery! 鞆の浦』
 みんなで考えよう「官民一体のまちづくり」
 一人百歩の前進よりも、百人一歩の前進を!*

 鞆の浦のための「まちづくり書籍」一覧
 http://ameblo.jp/thinktomo/entry-10155533035.html

画家/(故)藤井軍三郎さんが、遺してくれた言葉です

◎「ゼロ・エミッション」
http://ameblo.jp/thinktomo/entry-10151433157.html#main

◎環境にやさしい「無洗米」の提議
http://ameblo.jp/thinktomo/entry-10167263345.html

◎「地産地消」産業
http://ameblo.jp/thinktomo/entry-10149169892.html