琉球使節 | 鞆の浦二千年の歴史を紐解く“鞆の浦研究室”/Discovery! 鞆の浦

琉球使節

【鎖国(さこく)
江戸幕府が日本人の海外交通を禁止し、外交・貿易を制限した政策のこと。
また、そこから生まれた外交関係における孤立状態を指す。
しかし、実際には孤立しているわけではなく、外交だけでなく貿易の権限を
幕府が制限・管理した体制である。

「鎖国」は日本だけにみられた政策ではなく、
同時代の東アジア諸国においても「海禁政策」が採られた。
現代の歴史学においては、「鎖国」という表現ではなく、
東アジア史を視野に入れてこの「海禁政策」という用語を使う傾向がみられる。


【琉球使節団(りゅうきゅうしせつだん)
江戸時代、幕府は鎖国政策をとっていましたが、
朝鮮通信使、オランダ商館長や琉球使節の江戸参府が何度もあり、実際は近隣諸国とつながっていました。

海に開かれた王国として独自の文化をもっていた琉球王国は将軍や国王の代替わりに、
琉球使節団を派遣しました、この使節団の江戸参府は「江戸上り」とも呼ばる
薩摩の侵攻以降、琉球国中山王府が徳川幕府に対して送った使節団を、琉球使節団という。
これには、琉球国王即位の際に派遣される「謝恩使」と、
幕府将軍襲職の際に派遣される「慶賀使」とがあり、
これら使節の往来は1634年から1850年までの間に18回を数えた。
なお、1873年に明治維新の慶賀使が上京したが、これは通常「江戸上り」としては数えない。

※諸説では、1873年の明治維新時に送られた慶賀使も含む計19回とする記述もある。


【旅程・道中】
6月ごろ季節風に乗り琉球を出発、薩摩山川港に至る。
琉球館にてしばらく滞在し、
9月ごろ薩摩を出発、九州西側の各港を寄港、長崎を経て下関より瀬戸内海に入り、
瀬戸内でも御手洗、鞆の浦、室津などへ立ち寄り宿泊しながら大阪まで航海しました。
浦々を抜けて大阪に上陸。京都を経て東海道を東へ下り江戸に着くのは
11月ごろである。
この長い道中が、琉球と日本の文化を互いに知り合うよい機会となっていました。
1~2ヶ月ほど滞在し、年が明けてから江戸を出発、
大阪までは陸路、その後海路にて薩摩を経由し琉球へ戻る。
ほぼ1年掛かりの旅であった。
その道中は
「異国を支配する薩摩藩」および
「異国からの使節の来訪を受ける幕府」を前面に出すことによって
両者の権威高揚に利用された。

【構成人数】
100名前後

【鞆の浦との関わり】
瀬戸内の要港の鞆の浦は、琉球使節の寄港地として、
このほとんどが往復立ち寄って宿泊し、身近に国際交流が行われた港町です。
鞆の浦では、長い船旅のためなどで琉球使節の楽師・向生(向道亨)が病死し、
福山藩や鞆町人が温かく遇して、立派な供養碑「琉球司楽向生碑」を小松寺へ建てました。
その後、その楽師・向生(向道亨)の父・朝郁、祖父・朝紀が小松寺へ「容顔如見*」扁額を奉納し、今でも本堂に掲げられています。

※「容顔如見」の意味:福山藩と小松寺の心温まる対応に感謝し、
 「まるで向生の容貌、顔色、その身を傍らに見るようだ」という意味

※鞆の浦での宿泊先:朝宗亭(ちょうそうてい)
嘉永3年(1850)の書状
「琉球人来津に付、朝宗亭例之通、掃除立砂水樋出し、座敷辺飾り例之通」
この朝宗亭は普段一般公開しておりません

【TIPS】
朝宗(ちょうそう):身分の高い人に拝謁すること


【琉球王国(りゅうきゅうおうこく、正式国名:琉球國)
沖縄本島を中心に存在した王国。
1429年に尚巴志の三山統一により成立したが、1462年に王統が交代した。
15世紀に明の冊封国となり、17世紀初頭に薩摩藩(日本)の付庸国となった。
1871年の廃藩置県で鹿児島県下に編入されたが、1872年には琉球藩となる。
1879年の琉球処分で王統の統治権がなくなり日本本土の一部となった。
最大版図は奄美諸島と沖縄諸島及び先島諸島(大東諸島と尖閣諸島は含まない)。
この範囲の島々の総称として、琉球列島とも言う。
王家の紋章は左三巴紋で「左御紋(ひだりごもん:フィジャイグムン)と呼ばれた。
かつては琉球國と称していたが、今日では一般に琉球王国と呼ばれている。
「りゅうきゅう」は元来中国の史書『隋書』卷81 列傳第46 東夷 流求國に記述される、
大業6年(610年)に隋の属国にされた国の呼称流求によるものである。
後の『北史』、『通典』、『諸蕃志』では『隋書』の内容を踏襲、
『太平寰宇記』においても内容に大差はなかった。
『文献通考』により琉球は、台湾と沖縄県周辺の混同記述となった。
明との交易が始まった14世紀頃には沖縄県周辺の呼称として定着し、
また自国の呼称として琉球國という国名が、明治5年(1872年)の琉球藩設置まで用いられた。
明治7年(1874年)サン・デニーは『文献通考』の一部を翻訳し、
その琉球条により流求は台湾であるとする説を発表し、
明治28年(1895年)グスタフ・シュレーゲルは、元以前の琉球は台湾で、
明からは沖縄県周辺が琉球になったとする説を発表した。
明治30年(1897年)帝国大学文科大学(現東京大学)
史学科教授ルードヴィヒ・リースの著書『台湾島史』(吉国藤吉郎訳、1898年)でも
流求は台湾とし、他に漠然と中国東方にある島々を指していたとも言われて、
必ずしも今日の沖縄県周辺を意味する呼称ではなかったとされる。


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