岩崎公宏のブログ
Amebaでブログを始めよう!
1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 最初次のページへ >>

第三の男  その148

 日清戦争の講和交渉が山口県の下関で開催された。明治になってから近代の日本が最初におこなった対外戦争が日清戦争だった。1895年(明治28年)4月17日に下関講和条約が締結された。戦争に勝利したことで、莫大な賠償金と領土などを得ることができた。

 太平洋戦争で大日本帝国が惨敗したあと戦後の日本では、とにかく戦争は悪いという考えが絶対的な金科玉条のようになっている。しかし戦前の日本では必ずしもそうではなかった。その要因というのが日清戦争の戦果にあったと私は考えている。国民にあまり負担を与えることなく外国との戦争に勝利して、多くの果実を得ることができたことで戦争は儲かるものだという感覚が国民の間に醸成されたからだ。

 下関講和条約が締結された6日後の4月23日にロシア、ドイツ、フランスの三国から下関講和条約の結果として日本に割譲された遼東半島を極東平和の妨げになるという理由で清に返還しろという要求が日本に突き付けられた。いわゆる三国干渉だ。

中公新書から出版されている佐々木雄一氏の「陸奥宗光」を読むと、三国干渉が提示された3日前の20日にドイツの駐日公使が外務省の林董外務次官を訪問していたことが書かれていた。ドイツの駐日公使はそれとなく下関条約に干渉することを示唆したそうだ。でも当時の外務省は、極東に利害関係が薄いドイツから難題をふっかけられるという懸念を持つことはなかった。

 三国干渉というとロシアが主体となって、ドイツとフランスを誘って日本に圧力をかけて遼東半島を返還させたという内容を学校の歴史の時間に教えてもらったという記憶がある方が大半だろう。確かに主体はロシアだったと言っていいと思う。極東での権益を確保できる機会を虎視眈々と狙っており、日本が清と戦って得た利益を漁夫の利のように奪っていったからだ。しかしドイツの果たした役割も決して小さくなかったと私は考えている。

 ロシアだけで下関条約に干渉することは困難だった。仮にロシアだけで干渉したとしても日本に要求を呑ませて屈服させることは難しかったと思う。ロシアと同盟を組んでいたフランスと一緒になった二国干渉でも大差はなかったと考えている。ドイツが参加したことから干渉の有効性を高めることができたのだ。

 ドイツが参加した理由の1つとして、ヴィルヘルム2世が唱えていた黄禍論を無視することはできない。彼はアジア人を蔑視しており、ヨーロッパの君主として他国の君主に黄禍論を主張していた。彼が特に人種的な偏見が強かったというよりも、当時の欧米人の有色人種に対する嫌悪感、差別意識、蔑視的な考えが普通の感覚だったと言っていいのではないだろうか。

 日清戦争終了直後の1895年の夏には、ヴィルヘルム2世が原画を描き、宮廷画家に仕上げさせた「ヨーロッパの諸国民よ、汝らの最も神聖な宝を守れ」と題する寓意画を作成して、各国の皇帝や元首に配布して黄禍論を広めることをやっている。この画を見ると炎に包まれた仏陀として寓意された黄色人種がヨーロッパ人に迫って来るように描かれていて、彼らの警戒感を見てとることができる。

 黄禍論の他に現実的な利益としては、ドイツの極東進出のきっかけになること、ロシアの関心を極東に向かわせることでヨーロッパのドイツの安全保障に寄与することが挙げられる。

 日本は三国干渉に屈服することになった。首相の伊藤博文、外相の陸奥宗光は三国干渉について、受諾する、拒否する、列強との会議を開催する、英米の助力を求めるなどの選択肢を検討した。その結果5月4日に勧告を受諾して、遼東半島を清へ返還することになった。

 陸奥宗光が執筆した外交記録の「蹇々録」が彼の死後30年以上が経過した1929年(昭和4年)に公開された。この記録の中で三国干渉について「他策なかりしを信ぜむと欲す」と書いたこと、昭和40年代前半に佐藤栄作首相の代理人としてアメリカとの沖縄返還交渉に臨んだ若泉敬が、その内幕を記して1994年(平成6年)に文藝春秋社から出版した回想録のタイトルにしたことは有名なエピソードだ。

第三の男  その147

 ヴィルヘルム2世は父親のフリードリヒ3世が亡くなった1888年(明治11年)6月15日にドイツの第3代皇帝に就任した。ドイツだけでなくプロイセンの第9代国王にも就任している。

 フリードリヒ3世が56歳という当時としては高齢で就任したのとは対照的に、ヴィルヘルム2世は29歳で皇帝になった。結局、そのあと第1次世界大戦に敗れて1918年(大正7年)11月に退位するまで皇帝の地位にあった。

 皇帝に就任したときの年齢が若かったことで、どのように対応するかは人によって違うと思う。若さから来る経験の欠如を周囲の老臣たちの支援で乗り切ろうとするタイプなのか、若さによる覇気で自分が主導権を取って政治をおこなっていこうとするタイプなのかに大別できるのではないだろうか。ヴィルヘルム2世は後者だった。結果的にはこれがドイツ帝国を崩壊させたと位置付けられている。これは結果論であって、もし第一次世界大戦で勝ち組に入って、ドイツ帝国を発展させていれば評価は違っていたはずだ。

 彼の治世での出来事を時系列で見ていきたいと思う。皇帝に就任してから2カ月後の8月10日にヘルムート・フォン・モルトケが参謀総長を退任している。普仏戦争の終了後は戦争をしていなかったので、モルトケが活躍することはなかったとはいえ、彼がドイツ軍の象徴的な存在だったことから1つの区切りになったといっていいだろう。

 1889年(明治23年)5月にルール地方の炭鉱で労働者のストライキが発生した。これがヴィルヘルム2世とビスマルクの対立の発端となった。皇帝は労働者の立場に理解を示して、労働者を保護する法律の立法を考えた。これに対して、ビスマルクは期限切れが迫っていた社会主義者鎮圧法の延長を考えていた。

 ビスマルクはベルリンを離れて年に数カ月は自分の領地に帰って生活することを習慣にしていた。この年も同様で、翌年の1月まで大半を領地で過ごした。このときにベルリンを長期間離れて不在だったことが政治的な影響力を低下させ、皇帝の親政を強めた要因だったという見方がある。

 1890年(明治24年)3月には両者の対立は決定的となり、3月18日にビスマルクは首相辞任に追い込まれた。この時に皇帝は31歳、4月1日生まれのビスマルクは75歳の誕生日を迎える直前だった。

 ビスマルクが首相を退任したあと9月には社会主義者鎮圧法も期限を終えて廃止された。1875年(明治7年)に設立したドイツ社会主義労働者党は、このあとザクセン=アンハルト州のハレ(作曲家のヘンデルの出生地)でおこなわれた党大会において、ドイツ社会民主党に党名を変更している。この党名は現在も続いている。

 1887年(明治20年)にドイツとロシアとの間で締結されていた再保障条約について、ロシアは更新を希望したけどドイツはこれを拒否して条約は廃棄された。孤立を恐れたロシアは翌年からフランスに接近した。公式に露仏同盟が締結されたのは1894年(明治27年)1月だけど1891年から事実上の同盟状態にあったとされている

 

第三の男  その146

 ドイツにとって1888年(明治21年)は節目の年になった。その136でヘルムート・フォン・モルトケの晩年のことを書いた際に触れたように、ドイツ初代皇帝であるヴィルヘルム1世が亡くなったからだ。

 ヴィルヘルム1世は1861年に亡くなった兄のヴィルヘルム4世の後を継いでプロイセンの第7代国王に就任した。翌年には首相にビスマルクを就任させた。国王と首相との意見や考えがいつも一緒だったわけではなく対立することも少なくなかったと言われている。

 ヴィルヘルム1世というと普仏戦争の勝利によって誕生したドイツの初代皇帝という印象が強い。でも本人はあくまでプロイセンの国王という意識が強くて、プロイセンがドイツに吸収されることに嫌悪感を抱いて、ドイツ皇帝に就任することには消極的だった。彼のウィキペディアを読むまで、私はその事実を知らなかった。

 ヴィルヘルム1世のウィキペディアの「ビスマルクとの関係」という項目には「ヴィルヘルム1世は1862年9月23日にビスマルクをプロイセン首相に任じて以来、1888年3月9日の崩御まで25年以上にわたってビスマルクを首相として重用し続けた。しかし二人は人間的に惹きあうところはなかった」と最初に記されており、そのあとにはそれを裏付ける2人の発言や逸話が並んでいる。

 ビスマルクとモルトケも個人的には仲が良くなかったというエピソードを書いた。ドイツ帝国の創立に貢献した皇帝のヴィルヘルム1世、首相のビスマルク、参謀総長のモルトケのそれぞれの関係が良くなかったというのは意外な気がする。「それぞれ」と書いたけどヴィルヘルム1世とモルトケの関係は、以前に書いたように皇帝の信任が厚かったことから、モルトケが本人の意向に反する形で参謀総長を続けることになった。この3人の関係を見ると、どうやらビスマルクとの関係が悪かっただけという見方の方が正確なのかもしれない。

 1888年3月にヴィルヘルム1世が亡くなったあと息子のフリードリヒ3世が後を継いで2代皇帝に就任した。彼は6月15日に亡くなってしまったことから在位期間がわずか99日しかなかった。ヘルムート・フォン・モルトケの晩年のことを書いたときに、その事実に少し触れた。

 在位期間が短かったことから皇帝としての政治的な影響はほとんどなかった。皇帝に就任する前の皇太子時代から父親のヴィルヘルム1世と首相のビスマルクとの関係が良くなかったので、政治的な権力を行使することはできなかった。

 あまり有名な人物ではないけどフリードリヒ3世の人間像に触れておきた。1831年にヴィルヘルム1世の長男として誕生している。父親からは王家の伝統で軍務に就くことを求められた。モルトケから軍事学の指導を受けている。母親のアウグスタ王妃の勧めで、ボン大学で歴史学、文学、法律を学んでいる。ドイツ語だけでなく英語とフランス語にも堪能で博学な人物だったそうだ。

 1851年にロンドンで最初に開催された万国博覧会を見学したときに、ヴィクトリア女王の長女のヴィクトリア王女と出会っている。7年後に2人はベルリンで結婚した。夫人がイギリス出身だったこともあり、自由主義的な考えを持っていた。保守的な考えの父親とは対立することもあった。ただし父親を追放して自分が権力を握るというやり方を取ることはなく、むしろ皇太子として父親を支えたようだ。ヴィルヘルム1世がドイツ皇帝に就任するかどうか迷ったときも、皇太子は父親に就任することを勧めている。

 皇太子時代に政治的な影響力を持たなかったわりに、軍人としては有能で、普墺戦争のケーニヒスベルクの戦いや普仏戦争のセダンの戦いで功績をあげている。

 皇帝に就任する前年から喉頭がんに悩まされており、前述のように就任から99日目の6月15日に亡くなっている。

 フリードリヒ3世を継いだのが、彼の息子のヴィルヘルム2世だった。彼がドイツの第3代皇帝であり、そして最後の皇帝となった。

 

1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 最初次のページへ >>