岩崎公宏のブログ -5ページ目

第三の男  その137

その87の最後に記したように、事前にはフランスが有利だと予想されていた普仏戦争にプロイセンが圧勝したことで、ヨーロッパ各国でその要因の分析が始まった。

その88からずっと書いて来た参謀本部という組織に注目が集まった。各国ともきそって、参謀本部を組織することになった。フランスは普仏戦争に負けた年に、4つの部局を持つ参謀本部を設置している。

日本陸軍でも1875年(明治7年)に陸軍省の外局として参謀局が設置され、これが1888年(明治11年)に参謀本部へと改称された。陸軍はドイツに対して、教官の派遣を要請した。この要請にドイツが応じて、派遣されたのがクレメンス・メッケル少佐だったことはよく知られている。モルトケが推薦したのが愛弟子のメッケルだった。ただし本人は日本への赴任を拒否したそうだ。アジアの名も知れぬ国に赴くことに抵抗感が強かったのだろう。

司馬遼太郎氏の「坂の上の雲」がNHKでドラマ化された際に、陸軍大学で最初の講義を行う場面が描かれていた。自分がドイツの1師団を率いて戦えば、日本の3個師団にも勝てる(数字は記憶に頼っているので、正確ではない)という主旨の発言をして、受講していた学生が怒る場面があった。

メッケルのウィキペディアを読むと、これは小説、ドラマの創作ではなく実際に根津一という学生が、教官であるメッケルに食ってかかり騒動になったそうだ。根津一はこの騒動で陸軍大学を退学となり、参謀としての将来がなくなったことで、少佐で陸軍を退役している。それで人生を終えたのではなく、政界、財界、官界に沢山の人材を出したことで知られる上海に設立された日本の教育機関である東亜同文書院の初代院長に就任している。

メッケルに関する逸話として、他にも関ヶ原の合戦の東西両軍の配置図を見て、即座に西軍の勝ちだと語ったことが有名だ。ネットで検索すると原典が不明で司馬氏の創作ではないかという疑問が呈されていることがわかった。有名な逸話でも原典が不明瞭で、実は創作だった、事実と違っているという指摘がネットで散見される。

 以前に「ジョゼフ・フーシェ」を取り上げたときに、ナポレオンがエルバ島を脱出して、パリに帰還するまでのマスコミの報道の変遷が有名だけどその原典が明確ではないことを記したことがあった。歴史的な事実として巷間伝えられていることが、必ずしもそうではないということを肝に銘じておきたい。

 

第三の男  その136

普仏戦争が終わったあとのヘルムート・フォン・モルトケについて触れておきたい。

モルトケは普仏戦争が終わったあとも参謀総長の座にあった。戦後間もない1871年(明治4年)6月には元帥に昇進している。1872(明治5年)年1月には貴族院の終身議員になった。70代になっても帝国議会で軍事関係の演説を行っていたそうだ。

普仏戦争が終わったあとでも、これで平和が維持できるとは考えておらず、むしろフランスとロシアを仮想敵国として、相手の戦力が整わないうちに自国から仕掛ける予防戦争を考慮していたということは、彼が生粋の軍人だということを認識させられる逸話だ。

モルトケとは対照的に首相のオットー・フォン・ビスマルクは自国から相手に仕掛ける戦争をする意図はなかった。外交政策によって自国の権益を確保することを考えていた。ここは軍人と政治家との相違点だと思う。ビスマルクの方が、軍事的視点だけではなくより広い観点から建国して間もないドイツという国家を牽引した政治家だと言えよう。

モルトケとビスマルクは個人的には仲が良くなかったと言われている。しかし参謀総長と首相という関係では、これ以上の組み合わせは無いというくらいのコンビだったと思う。その要因は互いの職務に忠実で、干渉することが無かったからだ。政治と外交の領域はビスマルクが担当して、モルトケはたとえ自分の意見がビスマルクを違っていても皇帝に上奏するなどの行動をとることはなかった。上記の予防戦争についても、ビスマルクが反対すると、これに従った。軍人が独走して国家の方針を誤ることがなかったということだ。ビスマルクも戦争が始まったあとの終結方法の選択、戦後の講和条約の締結については、政治の分野なので自分が担当したけど、軍事計画など戦争遂行のための手段は参謀総長のモルトケに任せていた。

モルトケは80代になっていた1881年(明治14年)12月に、国王のヴィルヘルム1世に退任の意向を示した。これも却下されてしまった。その代わりに、アルフレート・フォン・ヴァルダーゼーを参謀次長に任命して、モルトケを補佐させた。またモルトケの甥にあたるヘルムート・ヨハン・ルードヴィヒ・フォン・モルトケを副官に就けた。甥のモルトケがいわゆる小モルトケであり、彼はのちに伯父と同じ参謀総長に就任して、第1次世界大戦でドイツ軍を指揮することになる。これについては、以前に「大いなる幻影」について取り上げたときに書いたので、ここでは繰り返さない。

1883年(明治16年)には、歴代の参謀総長が求めていた帷幄上奏権が認められた。これによって、参謀総長は国王に直接に意見を出すことができることになった。政府による軍隊の統制が及びにくくなることから、警戒してなかなかこの権利が認められなかった。ようやくここで実現したことになる。ただしモルトケ自身は、この帷幄上奏権の必要を感じていなかったそうだ。参謀次長だったヴァルダーゼーの意図が強かったようだ。渡部昇一氏の「ドイツ参謀本部」の170~171ページにかけてヴァルダーゼーに関して批判的な記述がある。

その133で書いたように、1888年(明治21年)3月にヴィルヘルム1世が亡くなったあと、フリードリッヒ皇子が2代目のドイツ皇帝フリードリッヒ3世として即位した。ただし彼も6月に亡くなったので在位期間は3カ月で終わった。

フリードリッヒ3世の息子が、ドイツ帝国の3代目で最後の皇帝になったヴィルヘルム2世だ。彼が皇帝の座に就いた2カ月後の8月10日にモルトケは辞表を出した。新皇帝もモルトケを引き留めたかったけど長年の願いを聞き入れることになった。

モルトケはベルリンの自宅と領地のクライザウで余生を送り、1891年(明治24年)4月24日に90歳の天寿を全うして亡くなった。

 

第三の男  その135

ヘルムート・フォン・モルトケが参謀総長に在任していた間に、1864年のデンマーク戦争、1866年の普墺戦争、1870年から翌年にかけての普仏戦争で、プロイセンが勝利した。この3つの戦争に勝利したことが、モルトケという軍人が現在でも軍事史に燦然と輝いている要因だ。3つの戦争に関して、普墺戦争と普仏戦争については、これまで書いて来たので、ここでは繰り返さない。

その83で簡単に触れたデンマーク戦争だけ取り上げる。この戦争の発端について「シュレースヴィヒ-ホルシュタインという小国があり、元々自国の支配下にあったこの国をデンマークが1863年に併合したことで問題が起きた」とその83に書いた。デンマークが1863年9月に憲法の改正を行い、シュレースヴィヒ-ホルシュタインを併合した。これについて、プロイセンとオーストリアが反発したことから始まった。

デンマークは外交交渉だけで、解決できると考えていたようだが、プロイセンとオーストリアは同盟を組んで軍事的な圧力をかけた。1864年1月にオットー・フォン・ビスマルクは、憲法廃止を要請した。しかもその返答の猶予として2日間しか与えなかった。デンマークはこの要請を拒否した。2月1日にプロイセンとオーストリアは、デンマークに宣戦布告して戦争が始まった。

プロイセンのヴランゲル元帥が連合軍の総司令官に就任した。彼は参謀本部など不要であり、その存在がかえって軍務を複雑にすると批判しているような軍人だった。そのためモルトケは遠征軍に参加することなくベルリンの参謀本部に待機した。現地の報告すらないという有様だった。

緒戦は連合軍の進撃がうまくいった。進撃がうまくいったというよりは、デンマーク軍が撤退して堡塁、要塞に立て籠もるという戦術をとったからと評したほうがよい。4月18日には、ドゥッブル堡塁を巡る攻防戦が行われた。クルップの大砲が威力を発揮したのが、この時の戦闘だ。カール・クリンケという工兵が決死の覚悟で第二堡塁を爆破する活躍を見せたことなどからプロイセン軍の勝利となった。またこの戦闘において、国際赤十字が戦時下の活動を初めて行ったそうだ。

デンマーク軍はアルス島のセナボー(ドイツでの地名はゾンダーブルク)まで後退してここで防衛線を敷いた。

イギリスの仲介で5月12日から休戦交渉が始まった。連合軍はあくまで、シュレースヴィヒ-ホルシュタインの全ての割譲を主張したことから、交渉はまとまらず6月26日から戦闘が再開された。

デンマーク戦争が起こる2年前の1862年にモルトケは、デンマークを相手にした戦争が起きた場合の対応について、正面ではなく側面に廻り込んでアルス島への後退を阻止して包囲する戦略を提案していた。こういった経緯もあってかアルブレヒト・フォン・ローン陸軍大臣は、現地軍の参謀長としてモルトケを任命した。

6月29日からアルス島への上陸作戦を敢行してわずか2日で島全体を占領することに成功した。

これによりデンマーク国王は戦意を喪失して、連合国の講和を申し入れた。10月にウィーンで講和条約が締結されて、デンマーク戦争は終結した。

モルトケは64歳になっていたこと、参謀総長を7年も務めていたこと、デンマーク戦争での戦功を置き土産として退役をする意向を示した。しかしデンマーク戦争での功績を認めた国王のヴィルヘルム1世は、モルトケの要望を認めす、逆に参謀総長を続けること命じた。これによって、彼は普墺戦争と普仏戦争で功績を残すことになった。