岩崎公宏のブログ -6ページ目

第三の男  その134

ヘルムート・フォン・モルトケを取りたててくれたカール・フォン・ライヘルが参謀総長に在任中だった1857年10月に亡くなった。これによっていよいよモルトケの時代が到来することになった。

ただしその129で書いたように、ライヘルが亡くなったあとすぐに総長に就任したのではなく、最初は総長代行で正式に就任したのは翌年の9月だった。

渡部昇一氏の「ドイツ参謀本部」の135ページに「参謀本部のことをドイツ語では「大参謀本部」(Großer Generalstab グローサー・ゲネラル・スタープ 渡部氏の著書では原語の表記はなくカタカナが振り仮名になっている)と呼んでいたが、その規模から言えば、大を付けるほどたいしたものではなかったようである。総人員六十四名、そのうち五十名が参謀将校である」という記述がある。

この人数を見たときに、渡部氏の指摘とは違って、人数が意外と多いというのが私の感想だった。次の136ページにモルトケがラインの経験を全く欠きながら、スタッフの大元締になったことを当時のプロイセン軍に置ける軍団長というラインの担当者の地位の高さを示すと同時にスタッフの担当者の地位の低さを端的に示すものであるという記述があるから尚更だ。

モルトケが鉄道を兵站の手段として重視して、従前とは違う戦略観を考案したことはその131で書いた。鉄道以外では、通信部隊を創設したことが挙げられる。訓令、命令の円滑な伝達を行うために各野戦軍に電気通信で連絡を取ることができる部隊を配置した。

参謀本部の編成も変更して、担当地域と国を決めた部局を3つにわけた。渡部氏の著書では、第1部局「ロシア部」、第2部局「ドイツ部」、第3部局「フランス部」と表記されている。ウィキペディアではロシアなどを担当する西方課、フランスなどを担当する東方課、ドイツ諸国を担当するドイツ課となっている。名称はともかく要するに自国と周辺諸国を3つの方面に分けて、担当部署を決めたということだ。

渡部氏の著書では触れられていないが、ウィキペディアには、モルトケが参謀総長に就任した翌年に起きたイタリア統一戦争に関する記述がある。プロイセンが参戦したわけではないので、渡部氏は触れなかったのだろう。この戦争において、モルトケは鉄道による兵員と武器の輸送での問題点を把握している。命令が順調に伝達されなかったことだ。

 この欠点を参考にしてモルトケは、部隊における通信手段の重要性を認識した。さらに指揮官が参謀本部からの訓令に漫然と従うのではなく、現場での状況の変化に臨機応変に対応して、自主的な判断で行動する習慣をプロイセン軍に浸透させることになった。

 

第三の男  その133

ヘルムート・フォン・モルトケは、1845年に参謀本部付きとして、ローマで病気療養中だったハインリッヒ親王の副官に侍従武官に就任した。

当時のローマはイタリア統一運動の最中であり、周辺諸国との関係もうまくいっていなかった。モルトケはローマに滞在しているときに、ベルリンにヨーロッパ情勢に関する報告書を送り、ローマとその周辺の地図の作成もおこなっている。

ローマに赴任した翌年にハインリッヒ親王が亡くなり、モルトケはコブレンツの第8軍の参謀へ転任した。コブレンツは普仏戦争の発端となったエムス電報事件の舞台となったバート・エムスの近くだ。有名な都市ではないけど、ウィキペディアを読んでみて、クレメンス・メッテルニヒとヴァレリー・ジスカール・デスタンの出身地だということを知った。

この頃にカール・フォン・ライヘルに見出されて、参謀本部の戦史課長に就任した。1848年3月のことなので、ライヘルがクラウゼネックと交代して参謀総長に就任した直後だ。この時期は前月にパリで起きた2月革命がプロイセンにも普及して混乱していたときだ。モルトケは軍人だったこともあり、革命には賛同することはなかった。妻を混乱するベルリンからホルシュタインに疎開させている。

1850年9月には中佐に昇進している。少佐になったのが1842年4月だったので、8年以上も少佐として勤務していたことになる。少佐に昇進したのが40代なので、階級が上がるのが早かったわけではない。この事を考えると、少佐での勤務が長かったことは、むしろ当然と解釈していいのかもしれない。ただしこのあとの昇進は早かった。中佐に進級した翌年には大佐に昇進している。

少佐の期間が長かったにもかかわらず、その後の昇進が早かった人物として私の頭に浮かんで来るのがドワイト・アイゼンハワーだ。彼はモルトケの倍の16年もの長きに渡って少佐を務めていた。でも中佐に昇進したあとは一気に上昇気流に乗って、わずか5年3ケ月で元帥に昇進している。

1855年9月に、モルトケはフリードリッヒ皇子の侍従武官になった。この皇子は1888年(明治21年)3月に父親のヴィルヘルム1世が亡くなったあと2代目のドイツ皇帝フリードリッヒ3世として即位する。ただし彼も6月に亡くなったので在位期間は3カ月で終わった。

ジョン・フォン・ノイマンとの共著を著し、ゲーム理論を経済学に持ち込んだことで知られるオスカー・モルゲンシュタインの母親はフリードリッヒ皇子の娘だ。ただし皇后の嫡出子ではなく庶子だった。

フリードリッヒ皇子はイギリスのヴィクトリア女王の娘と結婚したことからモルトケも一緒に渡英する機会が多くなった。またロシアのアレクサンドル2世の戴冠式に出席したり、フランスを訪問してナポレオン3世と謁見する機会もあったことなどからヨーロッパ各国の見聞を広めることができた。

 

第三の男  その132

プロイセンに帰国したヘルムート・フォン・モルトケは、参謀本部に復帰した。勤務の傍らトルコでの経験をまとめた著作を執筆している。

1841年にはベルリンとハンブルクの間の鉄道の理事に就任した。プロイセンの鉄道はその6年前の1835年12月7日にニュルンベルクとその近郊のフェルトという町の間に敷設されたのが最初であり、この日がドイツの鉄道開業日とされている。生粋の軍人で鉄道には素人であったモルトケがこの地位に就任したのは、デンマークとの鉄道敷設の交渉において彼の出自を利用しようという意図があったのではないかという見方がある。

この鉄道の理事の地位に就任したことが、彼の戦略観に大きな影響を与えた。鉄道の理事という名ばかりの地位に就いたのではなく、鉄道が持つ輸送機関としての潜在的な力を看破して軍事利用の視点から新しい戦略を構築したのだ。

鉄道を利用することによって、ナポレオンが得意とした主戦場に多数の戦力を投入する、そのために軍隊の進撃速度を速くするという戦術が従前とは違った形で実現できると考えたのだ。従前は複数の敵が位置する態勢で戦闘に臨むいわゆる内戦作戦が有利であるというのが主流だった。内戦作戦が有利であるというのは、分散している敵を自軍の主力が各個撃破することができるからだ。これに対して鉄道を利用した兵員と武器の輸送が可能になれば、分散して進撃しても、敵を包囲する形で戦闘をおこなう外戦作戦のほうがむしろ有利になるという戦術の転換をモルトケは思案した。

さらにこの他の鉄道の利点として、周囲を軍事国家に囲まれているにもかかわらず、それを防ぐための天然の要害がないプロイセンの地勢的問題にも対処することができることが挙げられる。要塞、陣地を構築して敵を迎え撃つよりも、鉄道を利用して兵員、武器、食料を輸送して戦闘をおこなう戦術の方が地勢的に有利であると考えたのだ。

軍人として勤務するときの地位として、鉄道の理事というのは栄転という印象は持てない。しかしそういう地位に就いたときでもふて腐れるのではなく、新しい戦略観を構築するモルトケという人物に能力の高さに敬服する。3年くらいの在職期間しかないのに、鉄道に関する制度や技術に精通して多数の論文を執筆していたという事実にも驚いてしまう。

鉄道の理事に在職中であった1842年に、モルトケは結婚している。相手はマリー・ブルトという16歳の女性だった。モルトケはこのとき42歳だったので、親子くらいの年齢差がある夫婦だったということになる。モルトケの妹がジョン・ブルトというドイツ在住の富裕なイギリス人と結婚していた。妹はブルトの2番目の妻であり、先妻との間に生まれたのがマリーだった。つまりマリーはモルトケの義理の姪ということになる。モルトケがオスマン帝国の軍に勤務しているときに、海外から家族宛に沢山の書簡を送っていた。この書簡を読んでいたマリーは義理の伯父を敬愛することになり、それが結婚へとつながったようだ。

この書簡について渡部昇一氏は「ドイツ参謀本部」の132~133ページに「彼が母や姉妹たちに書いた手紙は、後年にまとめられて『トルコ書簡』(Briefe  uber  Zustande  und  Belegenheiten  in der Turkei 1835-39、1841) として出版されたが、これには絵も付いていて、当時のトルコに関しては、これ以上の記録はなく、古典の一つと数えられている」と記している。私的な手紙が書籍として出版されるくらい価値があったということだろう。