岩崎公宏のブログ -4ページ目

謹賀新年

新年明けましておめでとうございます。

本年もよろしくお願いします。

 

第三の男  その139

プロイセン参謀本部のことからドイツ史のことに話しを戻したいと思う。

プロイセン軍によるパリへの攻撃がまだ終結していない1871年(明治4年)1月18日にヴェルサイユ宮殿の鏡の間においてドイツ帝国の成立が宣言された。ドイツ皇帝の戴冠式の絵が世界史の教科書には必ず掲載されている。プロイセン国王のヴィルヘルム1世がドイツ皇帝となり、プロイセン首相のオットー・フォン・ビスマルクが宰相となることでドイツ帝国が成立した。ここからドイツ帝国はプロイセンが主導して、プロイセンに有利な政治体制だったことが理解できる。

プロイセンが中心となっていたとはいえドイツ帝国は表面的には連邦制国家になっていた。立法府は連邦参議院と帝国議会で形成されていた。

連邦参議院というのは、この年の4月に発布されたドイツ帝国憲法に規定された25諸邦政府の代表会議で、法律批准権、外国に宣戦布告する権利、条約締結権、帝国議会の解散権などを持っていた。議長は宰相であるビスマルクが兼務しており、これによって彼は事実上独裁的な権力を行使することができた。

帝国議会は、全ドイツの25歳以上の男子の秘密投票で、人口10万人につき1人の割合で選出して構成されていて、予算審議権を持っていた。召集の権利は皇帝で解散権は上記のように連邦参議院にあった。従ってイギリスやフランスとは違って議会が政府を管理する力を持っていなかったので、外見的立憲主義と形容されている。

ビスマルクの執った内政の基本方針は、ドイツの産業の保護と育成だった。

宗教については、1870年(明治3年)に南ドイツを地盤としてカトリック派の政党である中央党が組織されて政府の中央集権化政策に反対していた。ビスマルクは反プロイセン的なカトリック教会や中央党を抑えつけようとして争いが生じた。これが文化闘争と呼ばれている対立だ。ビスマルクは反対派を抑え込むことができず、社会主義勢力の台頭を防ぐために、この勢力とは妥協して譲歩せざるをえなくなり1880年(明治13年)には文化闘争は終結した。

この時期に台頭した社会主義についても触れておきたい。最初に挙げる名前はフェルディナント・ラッサールになる。彼は1825年4月にブレスラウ(現在はポーランドのヴロツワフ)の裕福な商人の家庭に生まれた。1843年に地元のブレスラウ大学に入学したが、ヘーゲル哲学を学びたかったことから翌年の4月にはベルリン大学に転籍する。このあとパリを訪問したときに、クリスチャン・ハイネに会っており、同じユダヤ人だったこともあって意気投合することになった。卒業後には革命運動にも関与して「新ライン新聞」を発行していたカール・マルクスやフリードリッヒ・エンゲルスとも知り合って当初は良好な関係を維持していたが、のちに思想的に対立することになった。

F・ラッサールというと「労働者綱領」の著者として歴史に名前を残した思想家と言っていいと思う。これは1862年4月12日にオラーニエンブルクの手工業者協会に招かれてヘーゲル的な国家観を基礎として、労働者階級の使命に関しておこなった講演を書籍化したものだ。著作はすぐに警察に没収されて、ラッサールは起訴されて、一審は禁錮4カ月、二審で罰金刑となった。このことは彼の汚点になるどころか法廷での弁明などで労働者の間に彼の令名を高めることになった。

1863年には進歩党のブルジョア自由主義に嫌悪感を抱いて、党とは決別して独自の労働運動を展開することになった。5月23日にはライプツィヒに各地の労働者の代表が集まり、ラッサールが起草した綱領を採択して、彼を代表とする全ドイツ労働者同盟が結成された。

 

第三の男  その138

プロイセンが普仏戦争に勝利した最大の要因が、参謀本部という組織による事前の軍事計画の立案と準備にあったことは疑いない。

この本家の参謀本部が、そのあとどういう変遷を辿ったのかを書いておく。渡部昇一氏は「ドイツ参謀本部」の163ページに「モルトケの下でのドイツ参謀本部はまことに輝かしい存在になったが、今から見ればかげりの兆候がないこともなかった」と記して、最初に組織の肥大化を挙げている。

モルトケが参謀総長代行に就任した1857年には、参謀本部の将校は64名だった。それから14年後の普仏戦争が終わった1871年(明治4年)には、人数が倍以上の135名になっていた。そのあと不思議なことに戦争がなかったにもかかわらず組織が縮小されることなく、モルトケが参謀総長を退任した1888年(明治21年)には、239名にまで増加していた。

渡部昇一氏は「ドイツ参謀本部」の164ページで、パーキンソンの法則を取り上げている。英国の学者であるシリル・ノースコート・パーキンソンが1958年(昭和33年)に出版した本で、この法則について発表して世間に知られることになった。

パーキンソンの法則は、官僚機構における役人の人数は、仕事の量と無関係に増えていくというものだ。法則というよりは、現象と形容したほうが適切なような気がする。

その具体例として、パーキンソンは英国の官僚機構について調査した。植民地省という役所は、英国が世界中に植民地を所有していた時代には、建物はバラック同様の貧粗なものだったのに、植民地を喪失していくときに逆に建物が立派になり、職員の数も増えていったのだ。植民地自体は減っており、業務量も減っていたと推測されるのに、官僚機構としての植民地省には逆の現象が起きている。

その理由として、パーキンソンは、役人は組織内に競争相手ではなく部下の数を増やすことを望む、役人は相互に仕事を作り合うという2つを挙げている。組織に所属した経験のある方なら皆、思い当たる節があると思う。

「ドイツ参謀本部」の164ページに「プロイセン参謀本部の煉瓦造りの立派な建物が議会の向い側のベンドラー・シュトラーゼに建てられたのは普仏戦争の後のまもない頃であった。そしてこの建物が建ち、人員がふえ続けてから、実にドイツ軍は一度として戦争に勝ったことはないのである」と記されている。パーキンソンの法則が当てはまるという渡部氏の指摘に納得してしまう具体例だと言えよう。

かげりの2つ目として例として、前回に取り上げた各国がきそって参謀本部の制度をまねたことを渡部氏は挙げている。

さらに167~168ページでは、参謀の無名性の喪失について書かれている。ドイツ参謀本部が注目されたことで、モルトケは誰もが知っている有名な軍人になってしまった。参謀本部、参謀総長は相手にマークされないことが良い、1866年の普墺戦争の時には、師団長クラスですらモルトケの名前を知らない軍人がいたのに、普仏戦争のあとではビスマルクと並ぶ有名人になっていたことに続けて、「相手国の意表をつくような作戦を立てる仕事をする人が、最も明るい脚光を浴びることこそ危険の兆候であったのではないか」と渡部氏は指摘している。これも頷ける指摘だと思う。