岩崎公宏のブログ -2ページ目

第三の男  その145

 アフリカ大陸もアジアと同様にヨーロッパ列強による植民地支配が進んだ。

 1875年(明治8年)にはイギリスがスエズ運河を買収してエジプトに進出した。さらに1882年(明治14年)にはエジプトを保護国にして支配したにおさめた。アフリカの北側からだけでなく南側のケープタウンにも根拠地を持ちここからも植民地の拡大を図った。北側と南側から植民地を広げる方法から大陸縦断政策と称されている。

 フランスはジュール・ド・ポリニャックが首相を務めていた1830年6月にオスマン帝国の支配下にあったアルジェリアに軍隊を送って侵略を始めたことを前に書いた。派兵した直後に七月革命が起きて王政が終わった。新政府は王政の負の遺産ともいうべきアルジェリアの占領地域の扱いに苦慮していた。しかしアルジェリアから撤兵することはしなかった。

 アルジェリアを拠点にして東側のチュニジアを1881年(明治14年)に支配下に置いた。さらに南部の広大なサハラ砂漠も占領した。東側のジブチとインド洋のマダガスカルまでに及ぶ支配を目指して大陸横断政策を採った。

 イギリスとフランスに続いて、ベルギーとイタリアもアフリカへ進出した。イギリスとフランスより前に進出していたスペインとポルトガルもあって各国の利害関係が衝突する事態に陥った。

 そこでビスマルクがまた動いた。1884年(明治17年)にまたベルリンで会議を開催した。この会議が開催されたきっかけはベルギーの国王のレオポルド2世がアフリカでの植民地を求めてコンゴに進出して、ポルトガルと対立したことが原因だった。11月中旬から翌年の2月末まで約3カ月にわたってベルリンに14カ国の代表が集まって会議をおこなった。

 主要な課題はコンゴの扱いだった。会議の終了に際して全7章で38条の協定が締結された。コンゴの統治権は、ベルギーという国家ではなくレオポルド2世の私的な組織であるコンゴ国際協会が持つことが承認された。レオポルド2世はコンゴ自由国と称した。条約によってコンゴの自由貿易の容認、奴隷貿易の禁止、コンゴの中立化、コンゴ川とニジェール川の自由航行が決まった。

 ある意味でコンゴのこと以上に重要だったのが、第6章でアフリカの植民地分割の原則が合意されたことだ。簡単にいうと実効支配と先占権の2つだ。占領が認められるのは協定を締結した国の活動を保障することができるように実際にその地域を支配していることが必要であるとすること、ある地域を最初に占有した国が領有権を得るというこということを決めてしまった。これによって現地の住民の意図とは無関係にヨーロッパ各国がアフリカを分割統治することが一気に加速した。

 教科書などには出て来ないけれど、身体的にも能力的にも優れた白人が現地の有色人種を支配するのは当然だという意識があったと思う。

 ベルリン会議というと1878年(明治21年)のほうを指すことが多い。山川出版社の「詳説 世界史」もこちらを大きく取り上げており、会議の参加者を描いた絵も掲載されている。それと比較すると1884年の会議は、参加国が14カ国と多かった割には記述がない。アフリカの分割のことなので、ヨーロッパのことよりも関心が低いということだろう。

 

第三の男  その144

 1878年(明治11年)のベルリン会議のあと地中海への南下政策を阻止されたロシアはドイツと袂を分かつことになった。誠実な仲介人を自称していたビスマルクの外交政策にやられたという意識があったのだろう。ドイツから離れてフランスに接近する姿勢を見せた。これによって1873年(明治6年)に締結されたドイツ、ロシア、オーストリアー・ハンガリーの三帝同盟は破綻してしまった。

 ロシアの復讐に備えてドイツは翌年にオーストリアー・ハンガリーとの同盟を強化した。

 アフガニスタンをめぐってイギリスとロシアが対立したことから1881年(明治14年)にドイツ、ロシア、オーストリアー・ハンガリーとの間で三帝協商が成立した。これは事実上の三帝同盟の復活になった。

 その翌年にはドイツはオーストリアー・ハンガリーとの同盟にイタリアも加えて三国同盟を結成した。フランスがチュニジアを事実上の保護国としたことに不満を持ったイタリアを同盟に加えることによって、ドイツはフランスの孤立を狙ったのだ。ビスマルクの外交方針はフランスとロシアとの同時対立を避けるという点にあったと言えよう。東西の両方からの挟み撃ちを避けたいと考えたのは当然だ。第一次世界大戦でドイツがこれに失敗したことは以前に書いたことがある。

 1887年(明治20年)には、ロシアとオーストリアー・ハンガリーがバルカン半島で対立したことを原因として、三帝協商が消滅することになった。ドイツはロシアとすかさず再保障条約を結んだ。これはロシアとフランスの接近を警戒したものだ。

 1856年のパリ条約はヨーロッパ各国が大陸内で領土を拡張するための軍事的な衝突を抑制するという効果があったという見方がある。普仏戦争が終了するまで各地で戦争は起きた。以前のように領土が大きく変更するような対立はなかった。その理由として各国が大陸内部よりも海外の植民地の獲得に目を向けたからだ。

 1858年にはナポレオン3世がフランスの宣教師の保護を名目にしてベトナムに遠征軍を送った。その結果として1862年に阮朝とサイゴン条約を結んでコーチシナなどの領土の割譲と賠償金を獲得した。その後もインドシナ半島への武力進攻を継続して、1887年(明治10年)にはフランス領インドシナを形勢した。これは現在のベトナム、ラオス、カンボジアを含む広大な地域だ。

 イギリスはビルマに進攻した。ビルマ王朝は滅亡して1886年(明治19年)にはイギリス領インドに併合されてしまった。

 このため東南アジアの独立国はタイ王朝だけになった。東からのフランスと西からイギリスの植民地支配の緩衝地帯としての役割を担ったこと、タイの巧妙な外交政策があったことが要因だ。そのタイ王朝にしても無傷だったわけではない。英仏の砲艦外交によって何度も領土を割譲されているからだ。また独立国とは言いながらも外交関係では事実上はイギリスの支配下にあったという見方もあり、真の独立国であったかどうかは疑問を感じる面もある。

 アフリカ大陸でも植民地支配が進んだ。19世紀半ばまでは、インドへ向かう航路の途中の港湾、砂金や黒人奴隷の取引所など沿岸地域を除いた内陸部はほとんど知られていなかった。ヨーロッパ人からは暗黒大陸と形容されていた。

 そのアフリカ大陸もデビッド・リヴィングストンやヘンリー・スタンレーの探検によって次第に内陸部の様子も知られるようになった。

 

第三の男  その143

 ドイツ、ロシア、オーストリア=ハンガリーの三国同盟が締結された4年後の1877年(明治10年)にバルカン半島に居住するスラブ系の住民がオスマン帝国の支配に反対して反乱を起こした。スラブ系の住民たちを支援することを口実にして、ロシアが4月にオスマン帝国に宣戦布告して露土戦争が始まった。ロシアとオスマン帝国が戦う「露土戦争」が何度も出て来るけど、狭義の意味での「露土戦争」というとこの戦争を指している。

 ロシアが優位に戦争を進めた。翌年の3月にはオスマン帝国の首都のイスタンブールの近郊にまで迫り、サン・ステファノで講和条約を結んでロシアの勝利で戦争は終わった。この条約の締結によって、ルーマニア、セルビア、モンテネグロがオスマン帝国から独立した。

 さらにブルガリア大公国というロシアの影響力が強い自治領の誕生も決まった。この自治領にはオスマン帝国の軍隊が条約に従って撤退するかどうかを確認するという名目で、ロシア軍の駐留を認めたことからロシアの南下政策にも寄与していた。

 戦後の状況を見たイギリス、フランスはロシアの勢力の伸長に懸念を抱いた。サン・ステファノ条約が成立したわずか3カ月後の6月に「誠実な仲介人」を自称したビスマルクの提唱によって、7カ国の代表を集めたベルリン会議が開催された。

 山川出版社の「詳説 世界史」の254ページにはベルリン会議について「この会議はウィーン会議以来の大国際会議で、列強は外交の秘術をつくしたが、その結果、サン=ステファノ条約は廃棄され、新しくベルリン条約がむすばれた」という記述がある。

「ウィーン会議以来の大国際会議」というのは必ずしも正確ではない。1853年10月から1856年3月までフランス、オスマン帝国、イギリスなどの同盟軍とロシアが戦ったクリミア戦争の講和会議がパリで開催されており、ベルリン会議と同規模の7カ国が集まっているからだ。クリミア戦争は大規模な戦争であったにもかかわらず明確な戦勝国がなかったことが特徴だった。

 戦争が終結したのは、イギリスで戦費の調達のために財政が破綻したことを理由に内閣が交代したこと、フランスではナポレオン3世統治下で世論が戦争の継続に反対したこと、ロシアでは皇帝のニコライ1世が亡くなってアレクサンドル2世が新皇帝に就任したことなど各国の内部事情が原因だった。

 クリミア戦争のときに看護婦として従軍して、各国の負傷した将兵の治療をおこない「クリミアの天使」と形容されたのがフローレンス・ナイチンゲールだということは有名なエピソードだ。

講和会議の結果として1856年3月30日にパリ条約が締結された。講和に関することの他に海峡と河川の通行権、非武装地帯の設置などが決まった。ここに1815年から約40年に渡って続いたウィーン体制が終了することになった。

サン・ステファノ条約はそのパリ条約に代わる新しい条約とも言えたけれどベルリン会議によって内容が修正されることになった。

 山川出版社の「詳説世界史」には「列強は外交の秘術をつくした」という教科書に掲載される文章にしては珍しい表現がある。この具体的な内容について調べてみたけどよくわからなかった。

 1ヵ月続いたベルリン会議の結果として、ルーマニア公国、セルビア公国、モンテネグロ公国の3つの公国の独立が正式に承認された。ブルガリア大公国は3つに分割されてしまった。これがサン・ステファノ条約の大きな変更点になったと言えよう。そのためロシアは地中海への出口を失った。

 新しく締結されたベルリン条約によって、1453年の東ローマ帝国の滅亡以来のオスマン帝国による東ヨーロッパの支配が終わることになった。