岩崎公宏のブログ -3ページ目

第三の男  その142

 ドイツが普仏戦争に勝利したあとの外交政策について書いておきたい。戦争をやらない現状維持の現実的な外交政策を採用した。普仏戦争が終了したあと1914年(大正3年)に第1次世界大戦が起こるまで、ヨーロッパ大陸では大国同士が激突する大規模な戦争はなかった。この理由はドイツの外交政策がその基盤にあったと私は考えている。

 ヨーロッパの中心に位置するドイツが戦争を起こせば、周辺諸国にその影響が及ぶことは免れない。普仏戦争に勝利した直後のドイツには、ヘルムート・フォン・モルトケが参謀総長として在任だったし、わずか数カ月で大国フランスを圧倒したプロイセン軍も健在だった。領土的な野心があれば、さらに拡大することは決して無理ではなかった。

しかし軍人ではなく政治家だったビスマルクは、現状以上の領土の拡大は望むことなく周辺諸国との軍事的な衝突が起きないことに腐心した。前に書いたようにベルギー、オーストリア、フランスとの戦争の時でも相手国を軍事的に壊滅することを意図した軍部とは違って、戦後の外交政策まで深遠に見通して講和するという外交的な手腕があった。

 建国したばかりのドイツが対外戦争で弱体化しないこと、瓦解しないことを念頭に置いて国家運営をおこなったからだ。ヒトラーが際限なく領土を拡大しようとして、最終的にナチスドイツを崩壊させてしまったこととは対照的だ。

 ビスマルクが自国の状況と国際情勢を的確に判断して外交政策を取ったと言っても、太平洋戦争後の日本の進歩的知識人のように「戦争反対」とか「軍事費増大反対」などと口先だけの平和を唱えていたわけではない。観念的に平和を唱えているだけでは、現実の平和が達成できるわけではない。軍隊を全廃する、戦力を縮小して周辺諸国と平和条約を締結して戦争をやめるという空想的な平和主義に溺れることはなかった。

 ビスマルクは普仏戦争に勝ったからといって、フランスとの戦争が2度と起きないなどと考えることはなく、むしろ戦争に負けた復讐を遂げるためにドイツに仕掛けてくると予想した。それを防ぐために1873年(明治6年)にロシアとオーストリア=ハンガリーと三帝同盟(三帝協約とも呼ばれる)を締結した。ドイツがヴィルヘルム1世、ロシアがアレクサンドル2世、オーストリア=ハンガリーがフランツ・ヨーゼフ1世で、三国とも皇帝がいる帝国だったことが名称の由来だ。三国で同盟を組むことで、フランスを孤立させることが戦争の抑止につながるという「平和外交」だった。軍事力や外交による同盟関係といったことで軍事衝突を事前に抑止することが、現実的に「平和」を維持する手段であることを認識していたからだ。

 

第三の男  その141

  オットー・フォン・ビスマルクはこのような社会主義の台頭に対して、国家の敵とみなして弾圧する方針をとった。

 ゴータで結成されたドイツ社会主義労働者党は2年後の1877年(明治10年)に行われた選挙で約1割の得票を得て、12の議席を獲得した。

 議会の勢力としては弱小だったにもかかわらず革命をとなえる社会主義労働者党にビスマルクは嫌悪感を持っていた。1878年5月11日に発生した皇帝のヴィルヘルム1世の暗殺未遂事件の実行犯は社会主義者であるとして、ビスマルクは帝国議会に社会主義者の活動を禁止する法案を提出した。しましこの法案は国民自由党の反対があって否決された。

そのあと6月2日にまた皇帝の暗殺未遂事件が起きた。5月の事件のときと同様に実行犯が社会主義者であるという証拠はなかったにもかかわらず、ビスマルクは強引に彼らとの関係を主張した。最初の事件のときとは違って、法案を提出するのではなく議会を解散して、社会主義鎮圧法の是非を求めて選挙に打って出た。彼の政治的な意図は、社会主義労働者を抑制することよりも、5月の法案に反対した国民自由党を弱体化させることになった。

選挙の結果、ビスマルクの思惑通りになった。再度提案された社会主義鎮圧法は、マスコミを巧妙に利用した保守党の世論対策もあり、国民民主党も賛成に転じたことで10月に成立した。

ビスマルクは社会主義者を高圧的に弾圧するだけではなく、彼らから労働者を切り離すための政策も考慮していた。いわゆる「飴と鞭」の「飴」に該当するものだ。それは世界でも初めてと形容してもよい社会保険制度の導入だった。

最初の導入が検討されたのが労働災害保険だ。労働災害が発生したときの経営者と労働者の責任分担を定めた帝国責任法という法律は存在していた。これは経営者と労働者の双方を満足させるものではなく、むしろ訴訟を起こす可能性が高くて、労使関係を不安定にさせるものだった。

そこで保険の主体を政府として、経営者と労働者が保険料をともに負担する、所得の低い労働者には国が保険料を負担するという法案を1881年(明治14年)3月の議会に提出した。この案がそのまま成立したのではなく、保険の主体は各地の連邦政府として、保険料は経営者と労働者が一律で負担するという法案に修正されて6月に帝国議会で成立した。

ビスマルクはこの法案では貧しい者の負担が大きくなると主張した。帝国議会で成立した法案を連邦参議院で否決して、議会を解散して10月に選挙をおこなった。今度は彼の思惑通りにはいかなかった。所得の低い労働者に国が保険料を負担するという一見、庶民向けと思われる政策が、有権者に受けなかったからだ。財源にする予定だった煙草専売による収益について、有権者が煙草の値上げにつながると考えたことが敗因だったと言われている。有権者はいつも時代でも目先の利益のことで投票してしまうことがわかる。

ビスマルクの社会政策上の法案はそのあとも続いた。1882年(明治15年)6月には疾病保険法を成立させた。これは労働者が病気で働けなくなったときの保険制度で、労働者が3分の1の保険料を負担するというものだった。

さらに1884年(明治17年)3月には三度目の提案となった労災保険法をついに成立させた。4年後の1888年(明治21年)には障害・老齢保険法を成立させた。

ビスマルクの一連の社会政策は、上記のように他の政党の勢力伸長を抑制する、社会主義の台頭から労働者を切り離すなど政治目的が主たるものだった。必ずしも労働者など社会的な弱者を保護することが目的ではなかった。そのため種々の法律の成立が、労働者を社会主義勢力から切り離すという効果があまりないことを認識すると次第に目を向けなくなった。労働者の賃金が低かったこと、労働環境の改善が急には進まなかったこと、関税などの為に物価が高騰して労働者に生活の向上の実感が無かったことがその要因のようだ。

ビスマルクの社会政策が、必ずしも労働者の保護を目的としていなかったとはいえ、彼の実施した政策がそのあと各国の社会政策の模範となったことは歴史的な事実であり、先駆者としての評価もある。

 

第三の男  その140

 1862年にオットー・フォン・ビスマルクが議会でおこなった「現在の問題は、演説や多数決ではなく、ただ鉄と血によってのみ解決される」という演説は、鉄血演説と評されたことは以前に書いた。この鉄血演説は有名なので、これが支持された、そして彼の評価が高まったと考えている人もいるかと思うけど、そうではなく議員たちの反発を買って評判が悪かった。

そういう事情もあって、ビスマルクは、この時期にフェルディナント・ラッサールに接近した。1863年5月ごろから翌年の初めにかけて数回の秘密会談がもたれたと言われている。しかし2人の関係は長くは続かなかった。ラッサールが1864年8月28日に女性をめぐるトラブルで、ルーマニアの貴族と決闘になり、そのときに撃たれた傷で31日に亡くなったからだ。まだ39歳の若さだった。

ラッサール亡きあとシュバイツァーという人が全ドイツ労働者同盟を率いた。前任のラッサールと同様にビスマルクに接近するスタイルを継承した。

この時期にアウグスト・ベーベルという社会主義者がいた。彼は経営者と労働者の協調は可能であると考え、労働者は政治的に独立すべき主張するラッサールと対立していた。ラッサール亡きあとのシュバイツァーの路線にも反対だった。

A・ベーベルは1865年7月にライプツィヒに来たウィルヘルム・リープクネヒト(ドイツ共産党創始者で、スパルタクス団蜂起事件のときに射殺されたカール・リープクネヒトの父親)と知り合って、マルクス主義者となった。1864年11月1日にロンドンで結成されたヨーロッパの社会主義者の最初の国際政治結社である第1インターナショナルに、1866年に加入している。1869年にはアイゼナハで社会民主労働党を結成した。

全ドイツ労働者同盟(ラッサール派)と社会民主労働党(アイゼナハ派)は対立を続けて、ドイツの労働者運動の分裂は深刻な状態に陥った。

しかし両派をめぐる状況が変わった。普仏戦争の軍事公債の発行に反対したベーベルやリープクネヒトが逮捕されたこと、ドイツ帝国が成立したこと、官憲による弾圧が両方に及んだこともあって、ラッサール派とアイゼナハ派は次第に接近していくことになった。

1875年(明治8年)にゴータで両者は合同して、ドイツ社会主義労働者党を結成した。これは世界最初の労働者の単一政党であり、反資本主義、反君主制を標榜していた。党を結成した際の綱領草案が、カール・マルクスによって反対されたことは「ゴータ綱領批判」として知られている。