第三の男  その138 | 岩崎公宏のブログ

第三の男  その138

プロイセンが普仏戦争に勝利した最大の要因が、参謀本部という組織による事前の軍事計画の立案と準備にあったことは疑いない。

この本家の参謀本部が、そのあとどういう変遷を辿ったのかを書いておく。渡部昇一氏は「ドイツ参謀本部」の163ページに「モルトケの下でのドイツ参謀本部はまことに輝かしい存在になったが、今から見ればかげりの兆候がないこともなかった」と記して、最初に組織の肥大化を挙げている。

モルトケが参謀総長代行に就任した1857年には、参謀本部の将校は64名だった。それから14年後の普仏戦争が終わった1871年(明治4年)には、人数が倍以上の135名になっていた。そのあと不思議なことに戦争がなかったにもかかわらず組織が縮小されることなく、モルトケが参謀総長を退任した1888年(明治21年)には、239名にまで増加していた。

渡部昇一氏は「ドイツ参謀本部」の164ページで、パーキンソンの法則を取り上げている。英国の学者であるシリル・ノースコート・パーキンソンが1958年(昭和33年)に出版した本で、この法則について発表して世間に知られることになった。

パーキンソンの法則は、官僚機構における役人の人数は、仕事の量と無関係に増えていくというものだ。法則というよりは、現象と形容したほうが適切なような気がする。

その具体例として、パーキンソンは英国の官僚機構について調査した。植民地省という役所は、英国が世界中に植民地を所有していた時代には、建物はバラック同様の貧粗なものだったのに、植民地を喪失していくときに逆に建物が立派になり、職員の数も増えていったのだ。植民地自体は減っており、業務量も減っていたと推測されるのに、官僚機構としての植民地省には逆の現象が起きている。

その理由として、パーキンソンは、役人は組織内に競争相手ではなく部下の数を増やすことを望む、役人は相互に仕事を作り合うという2つを挙げている。組織に所属した経験のある方なら皆、思い当たる節があると思う。

「ドイツ参謀本部」の164ページに「プロイセン参謀本部の煉瓦造りの立派な建物が議会の向い側のベンドラー・シュトラーゼに建てられたのは普仏戦争の後のまもない頃であった。そしてこの建物が建ち、人員がふえ続けてから、実にドイツ軍は一度として戦争に勝ったことはないのである」と記されている。パーキンソンの法則が当てはまるという渡部氏の指摘に納得してしまう具体例だと言えよう。

かげりの2つ目として例として、前回に取り上げた各国がきそって参謀本部の制度をまねたことを渡部氏は挙げている。

さらに167~168ページでは、参謀の無名性の喪失について書かれている。ドイツ参謀本部が注目されたことで、モルトケは誰もが知っている有名な軍人になってしまった。参謀本部、参謀総長は相手にマークされないことが良い、1866年の普墺戦争の時には、師団長クラスですらモルトケの名前を知らない軍人がいたのに、普仏戦争のあとではビスマルクと並ぶ有名人になっていたことに続けて、「相手国の意表をつくような作戦を立てる仕事をする人が、最も明るい脚光を浴びることこそ危険の兆候であったのではないか」と渡部氏は指摘している。これも頷ける指摘だと思う。