第三の男  その136 | 岩崎公宏のブログ

第三の男  その136

普仏戦争が終わったあとのヘルムート・フォン・モルトケについて触れておきたい。

モルトケは普仏戦争が終わったあとも参謀総長の座にあった。戦後間もない1871年(明治4年)6月には元帥に昇進している。1872(明治5年)年1月には貴族院の終身議員になった。70代になっても帝国議会で軍事関係の演説を行っていたそうだ。

普仏戦争が終わったあとでも、これで平和が維持できるとは考えておらず、むしろフランスとロシアを仮想敵国として、相手の戦力が整わないうちに自国から仕掛ける予防戦争を考慮していたということは、彼が生粋の軍人だということを認識させられる逸話だ。

モルトケとは対照的に首相のオットー・フォン・ビスマルクは自国から相手に仕掛ける戦争をする意図はなかった。外交政策によって自国の権益を確保することを考えていた。ここは軍人と政治家との相違点だと思う。ビスマルクの方が、軍事的視点だけではなくより広い観点から建国して間もないドイツという国家を牽引した政治家だと言えよう。

モルトケとビスマルクは個人的には仲が良くなかったと言われている。しかし参謀総長と首相という関係では、これ以上の組み合わせは無いというくらいのコンビだったと思う。その要因は互いの職務に忠実で、干渉することが無かったからだ。政治と外交の領域はビスマルクが担当して、モルトケはたとえ自分の意見がビスマルクを違っていても皇帝に上奏するなどの行動をとることはなかった。上記の予防戦争についても、ビスマルクが反対すると、これに従った。軍人が独走して国家の方針を誤ることがなかったということだ。ビスマルクも戦争が始まったあとの終結方法の選択、戦後の講和条約の締結については、政治の分野なので自分が担当したけど、軍事計画など戦争遂行のための手段は参謀総長のモルトケに任せていた。

モルトケは80代になっていた1881年(明治14年)12月に、国王のヴィルヘルム1世に退任の意向を示した。これも却下されてしまった。その代わりに、アルフレート・フォン・ヴァルダーゼーを参謀次長に任命して、モルトケを補佐させた。またモルトケの甥にあたるヘルムート・ヨハン・ルードヴィヒ・フォン・モルトケを副官に就けた。甥のモルトケがいわゆる小モルトケであり、彼はのちに伯父と同じ参謀総長に就任して、第1次世界大戦でドイツ軍を指揮することになる。これについては、以前に「大いなる幻影」について取り上げたときに書いたので、ここでは繰り返さない。

1883年(明治16年)には、歴代の参謀総長が求めていた帷幄上奏権が認められた。これによって、参謀総長は国王に直接に意見を出すことができることになった。政府による軍隊の統制が及びにくくなることから、警戒してなかなかこの権利が認められなかった。ようやくここで実現したことになる。ただしモルトケ自身は、この帷幄上奏権の必要を感じていなかったそうだ。参謀次長だったヴァルダーゼーの意図が強かったようだ。渡部昇一氏の「ドイツ参謀本部」の170~171ページにかけてヴァルダーゼーに関して批判的な記述がある。

その133で書いたように、1888年(明治21年)3月にヴィルヘルム1世が亡くなったあと、フリードリッヒ皇子が2代目のドイツ皇帝フリードリッヒ3世として即位した。ただし彼も6月に亡くなったので在位期間は3カ月で終わった。

フリードリッヒ3世の息子が、ドイツ帝国の3代目で最後の皇帝になったヴィルヘルム2世だ。彼が皇帝の座に就いた2カ月後の8月10日にモルトケは辞表を出した。新皇帝もモルトケを引き留めたかったけど長年の願いを聞き入れることになった。

モルトケはベルリンの自宅と領地のクライザウで余生を送り、1891年(明治24年)4月24日に90歳の天寿を全うして亡くなった。