第三の男  その147 | 岩崎公宏のブログ

第三の男  その147

 ヴィルヘルム2世は父親のフリードリヒ3世が亡くなった1888年(明治11年)6月15日にドイツの第3代皇帝に就任した。ドイツだけでなくプロイセンの第9代国王にも就任している。

 フリードリヒ3世が56歳という当時としては高齢で就任したのとは対照的に、ヴィルヘルム2世は29歳で皇帝になった。結局、そのあと第1次世界大戦に敗れて1918年(大正7年)11月に退位するまで皇帝の地位にあった。

 皇帝に就任したときの年齢が若かったことで、どのように対応するかは人によって違うと思う。若さから来る経験の欠如を周囲の老臣たちの支援で乗り切ろうとするタイプなのか、若さによる覇気で自分が主導権を取って政治をおこなっていこうとするタイプなのかに大別できるのではないだろうか。ヴィルヘルム2世は後者だった。結果的にはこれがドイツ帝国を崩壊させたと位置付けられている。これは結果論であって、もし第一次世界大戦で勝ち組に入って、ドイツ帝国を発展させていれば評価は違っていたはずだ。

 彼の治世での出来事を時系列で見ていきたいと思う。皇帝に就任してから2カ月後の8月10日にヘルムート・フォン・モルトケが参謀総長を退任している。普仏戦争の終了後は戦争をしていなかったので、モルトケが活躍することはなかったとはいえ、彼がドイツ軍の象徴的な存在だったことから1つの区切りになったといっていいだろう。

 1889年(明治23年)5月にルール地方の炭鉱で労働者のストライキが発生した。これがヴィルヘルム2世とビスマルクの対立の発端となった。皇帝は労働者の立場に理解を示して、労働者を保護する法律の立法を考えた。これに対して、ビスマルクは期限切れが迫っていた社会主義者鎮圧法の延長を考えていた。

 ビスマルクはベルリンを離れて年に数カ月は自分の領地に帰って生活することを習慣にしていた。この年も同様で、翌年の1月まで大半を領地で過ごした。このときにベルリンを長期間離れて不在だったことが政治的な影響力を低下させ、皇帝の親政を強めた要因だったという見方がある。

 1890年(明治24年)3月には両者の対立は決定的となり、3月18日にビスマルクは首相辞任に追い込まれた。この時に皇帝は31歳、4月1日生まれのビスマルクは75歳の誕生日を迎える直前だった。

 ビスマルクが首相を退任したあと9月には社会主義者鎮圧法も期限を終えて廃止された。1875年(明治7年)に設立したドイツ社会主義労働者党は、このあとザクセン=アンハルト州のハレ(作曲家のヘンデルの出生地)でおこなわれた党大会において、ドイツ社会民主党に党名を変更している。この党名は現在も続いている。

 1887年(明治20年)にドイツとロシアとの間で締結されていた再保障条約について、ロシアは更新を希望したけどドイツはこれを拒否して条約は廃棄された。孤立を恐れたロシアは翌年からフランスに接近した。公式に露仏同盟が締結されたのは1894年(明治27年)1月だけど1891年から事実上の同盟状態にあったとされている