Welcome to world of mine. -3ページ目

not...? dry to dry.




bjorkの「拘束のドローイング」についてのインタビュー記事を読み返す。


「もし、私が日本についての映像作品を作るとしたら
マッカーサー元帥へ宛てた手紙で始める必要はない。
私には彼のような複雑なアメリカの歴史的事情はないの。
アイスランドは他の国に原爆を落としたことはないから。」


数年前と同じ箇所ではっとして手が止まった。
原爆を落とされたことに関して日本は被害者だというのが主流かも知れないけれど、落とした側だってその傷は世代を越えて受け継がれている、被害者も加害者もない、始まってしまえば十分に双方被害者なのだ。
キョウコさんの言葉を借りるならば、本当に、聖戦なんてない。
夏でもないのに、そんなことを思った。


簡単に世界の平和を謳う場面を目にするけれど、幸せとか平和という言葉は相対的なもので、その判断基準は個々の生きる文化と様々な私情に委ねられるものだと思うから、高らかにそして公にそういった意味での世界平和を謳うのは私の役割ではない、今のところ。

今までの歴史を顧みて思うのだけれど、多分争いのない世界なんて殆ど不可能だ。
ある人は言った
「ぶつかり合うことは宿命だ、
だって分子や原子の果てまでもぶつかり合っているのだから。」と。


それでも、せめて目に見える分かり易い方法として非武力と血を流さないことくらいは可能なんじゃないかと思った。
誤解を恐れずに言ってしまうけれど、こうやって私生活の隙間でそこはかとなく想いを巡らせることくらいが、私の生きた因果の上で出来得ること。
人はいつも、個人の生と並行してその時代と環境の生をも生きなければならないから。


母国の歴史を、その欠片の少しでもを潜在意識として背負って生きる人達の律義さを思う。

マシュー・バーニー氏の日本という国への興味が、少なくともビジュアル面だけでの興味では無くて、その上で傑作とも言えるあんなに素晴らしい作品を生み出してくれたこと、それを同じ時代で目撃できた偶然を至福と思った。







magnolia.



春の新緑あまって生命力までも漲っている感じに、思えば毎年私の体は二分の一小節くらい遅れて始まる、最初の春は決まって少し憂鬱。
それでも白木蓮が今にも咲き出しそうなのには心躍る程嬉しく、全てのエネルギーを使って咲いて、そのエネルギーあまってぼたぼた散っていって欲しいと思う。




時間は掛かったけれど推測が確信に変わった。
彼女は、"ずっと一緒に世界を目撃する"のはあくまで結果でいいと考えていて、そこは刹那を重んじている。
そして、その分、だからこそ、全力だ、一秒ごとに。
その都度考えた上でのそれは、本当に潔く、美しい。
ただ、"正しい欲望"に実に正直なのだ、幸せに慄く隙も無いくらいに。
例えば、「全部一緒だったらいいのに」なんて、そんな妄信的な台詞でさえ地に足を着けて言ってしまう、正しくだ。
中途半端な欧米化の所為かなんて私には判断できないけれど、イエスかノーで答えることは特に誠実でも何でもなく、寧ろ時にそれは私にとっては無責任や怠惰にさえ映る。
全てを二分法してしまえる程、もう世の中も脳みそもシンプルではないから。

そして最後には『409ラドクリフ』がまた、読みたくなった、多分これから先も、何度でも読みたくなるのだろうと思う、ノーラと夏美の居る、温くなった真夏のプールの底にあるみたいなニューヨークのラドクリフ通りに、一緒に沈んでしまいたくなる瞬間が。


江國香織氏が好きになった。
たまたま私が女として生きているから、きっと私がストレートな男性として生きていたならば、江國香織さんの文章は理解出来ない部分があるかも知れないと思うし、男の人の描く男性バージョンのこういう文章は私は多分全然読みたくない。
フェミニストではないけれど、下心は品性に欠けると思う、だから純度の高いフェミニスティックな言動程、高価なものは無いんじゃないだろうか、しかし、猛々しさと感じの良い男っぽさの境界は実に曖昧で紙一重だ。

生活が豊かだと思えるアイテムが増えてゆくこんな風に誘惑されるなら大歓迎だ、津波の様にやってきて全部持って行って欲しい、全くもって悪くなんかない。





plum.




先日、とてもスピリチュアルな話を聞いた。

その人は自分にとって良い状況を引きつけるパワーを持っていて、修行(冥想)をして自分のモチベーションを良い状態にしておくとそういったことが可能になるらしい。
私には信じている神様も宗教も無いし、占いなんかもいつも半信半疑で胡散臭いなあなんて立場から眺めているけれど、近しい人のそういった話は妙に信憑性があって、たくさん相槌を打ちながら随分と聞き入ってしまった。
多分、そういったスピリチュアルな領域のことは、物事を見る視点だとか、捉え方による解釈の違いなんだと思うけど、私自身に起こった出来事で、今考えてもどうにもこうにも説明出来ないし、偶然にしては偶然過ぎることがある時期に幾つかまとまって起こったことがあって、人間が生命の危機に直面すると思いも寄らない能力を発起することがある様に、極端な集中力とか、気の高まりとかの延長線上にその超感覚的な脳力が存在するならば、気や予知能力なんてものも可能性としては十分に持ち合わせていることになる。
そういった超感覚的な状態に在る時、人は今生きている次元とは別の次元とリンクしているのかも知れないなあなんて思ったりした。

信じる信じないは別にして、スピリチュアルな領域の話は好きだ、とても興味深いと思う。
例えば、気が集まると言われている場所とかの空気中の成分を調べて、共通してある何らかの物質が発見されたりなんかしたら面白いのに。


論理的なこともそうでないことも結局は視点の違いだから、生きる者の学びが尽きない様に、主観を鍛えるということはいつまでも絶えないのだろう。




日常の至る所に罠は張り巡らされていて、ぼんやりしているとうかうかと足を掬われそうになる。

身を守る為に私が科した単純なルール。


拒絶はしないし理解は出来る、しかし好きか嫌いかで考えると嫌いに傾く物事の自分の中での消化の仕方に困惑することがしばしばある、二分法ではないのだ、微妙なポジションに留めておくことは一番不安定で難しいのかも知れない。







r.i.p.




それでも否定できなくて、ここ数日、春のことばかり考えている。
どこでどう足を踏み外してもクロエの香水は付けないと自尊心に忠誠を誓ってH.P.Boutiqueで財布の紐を解いた。




「もう うたえないわ」

このフレーズだけでもう、YUKI先輩、最高だ。
warp tour final、こんなにテンション上がって、潔くて、切なくて、泣けて気持ちのいいLIVEはなかなか出逢えない。
youtubeは消費されるもの、か、なかなか言い得ている。






2月12日。
本当のところなんて私には解り得ないけれど、ああ嫌だなあ、今朝から色んな言葉が行き来しているけれど、ご冥福をと言うのも、残念だと言うのも、ありがとうと言うのも、やっぱり少し違う。
彼の栄光を活字にしてしまうのは野暮だ。
まだ逝かないで欲しかった。








eau chic.




相変わらず時間の使い方が上手になれないけれど、満ち足りた月に締め括られた一月の最後の週は充実していて、美味しい食事と共に過ごす夜は日々、どんどん更けて行った。

東京へはいつも今だと思い立った時に、ばたばたと厚かましくも心の準備だけは周到に済ませて、取り敢えず根拠も無く行っている気がする。
人が多過ぎて自分の理解の範疇を越えていることが分かっているから、始めからすれ違う他人に対して余計な神経とエネルギーは使わない、そんな暗黙の了解が東京の街には在る。
他人と知っている人の境界が目に見えるかの様にはっきりしていて、他人は他人、友人は友人、自分は自分で、必要以上には干渉されない、街の規模は大きくなれど、そんな空気が私にとってはとてもとても、その部分は関西に居るよりも遥かに楽だった。
なんだかいつも思うけれど東京は小さなアメリカみたいだ、色んな人がやってきて、目まぐるしくも流動的、そしてときにそれは暴力的な程に進むということを躊躇わない。
そこに足を付け、根を張り、自分の細胞とリンクさせていく、ような土地にはなり難いのだろうけれど、しかし利用するには十分過ぎる程のものが揃っている東京は、道具だ、"使っている"という感覚を滞在中ずっと強く感じていた。
内側だけで過ごすのはとても楽しい、しかしフィールドがしっかりするまでは浪費することも多いけれど外側とも向き合っていかなければならないんだろう。

東京に来たときには何故か必ずと言っていい程、知っている人を見かけたり、思いがけない人にばったり会ったりして、離れた土地という感じが全然しなくって、バスに揺られて冠雪富士まで見てきたというのに何だか変な気分だ。
離れた土地で偶然出くわす馴染みの顔というものは、哀愁めいていて悪くはない、現実はそんなロマンチックには出来ていないけれど、ロスト・イン・トランスレーションで描かれている漂流感溢れる東京を思い出した。
みんな上手に生きている。

変わっていくことが世の常だということを、私はもう少し理解しなければいけない。



Welcome to world of mine.