not...? dry to dry.
bjorkの「拘束のドローイング」についてのインタビュー記事を読み返す。
「もし、私が日本についての映像作品を作るとしたら
マッカーサー元帥へ宛てた手紙で始める必要はない。
私には彼のような複雑なアメリカの歴史的事情はないの。
アイスランドは他の国に原爆を落としたことはないから。」
数年前と同じ箇所ではっとして手が止まった。
原爆を落とされたことに関して日本は被害者だというのが主流かも知れないけれど、落とした側だってその傷は世代を越えて受け継がれている、被害者も加害者もない、始まってしまえば十分に双方被害者なのだ。
キョウコさんの言葉を借りるならば、本当に、聖戦なんてない。
夏でもないのに、そんなことを思った。
簡単に世界の平和を謳う場面を目にするけれど、幸せとか平和という言葉は相対的なもので、その判断基準は個々の生きる文化と様々な私情に委ねられるものだと思うから、高らかにそして公にそういった意味での世界平和を謳うのは私の役割ではない、今のところ。
今までの歴史を顧みて思うのだけれど、多分争いのない世界なんて殆ど不可能だ。
ある人は言った
「ぶつかり合うことは宿命だ、
だって分子や原子の果てまでもぶつかり合っているのだから。」と。
それでも、せめて目に見える分かり易い方法として非武力と血を流さないことくらいは可能なんじゃないかと思った。
誤解を恐れずに言ってしまうけれど、こうやって私生活の隙間でそこはかとなく想いを巡らせることくらいが、私の生きた因果の上で出来得ること。
人はいつも、個人の生と並行してその時代と環境の生をも生きなければならないから。
母国の歴史を、その欠片の少しでもを潜在意識として背負って生きる人達の律義さを思う。
マシュー・バーニー氏の日本という国への興味が、少なくともビジュアル面だけでの興味では無くて、その上で傑作とも言えるあんなに素晴らしい作品を生み出してくれたこと、それを同じ時代で目撃できた偶然を至福と思った。