乱歩酔歩--Random Walk official blog-- -231ページ目

『BOOTH』がリリースされましたね

どうも遊木です。

本日は赤司くんの誕生日ですね~。
もっと派手な演出絵で「赤司征十郎!爆誕!」って感じにしようかと思ったのですが、自重して普通に前髪あり帝光時代赤司くんを描いておきました。






さて、先日の12/19にピクシブがネットショップ作成サービス『BOOTH』をリリースしました。



個人的に、この『BOOTH』は面白い試みだと思います。
始まったばかりで実際はどのくらい機能するのかはまだ未知数ですが、私は従来の同人業界において、この「売る」という点は一番の穴だと思っていました。

同人業界において「作る」「発表する」「見る」「買う」までは、一定のサイクルが出来上がり、各項目が確立、連携して活発な流れが出来上がっています。しかし「売る」に関しては、数年前よりは格段に敷居が低くなってはいますが、やはりまだ他の項目より一段高いところに位置していることは確かでしょう。(もちろん、「売る」までに至る作品の質を生み出せる人間が限られていることもありますが)
同人業界において、「売る」手段の定番と言えばもちろんコミケなどのイベントでしょうが、このイベントも、買う側ばかりが散財のネタによくあげられますが、売る側の負担も馬鹿になりません。
例えばコミックマーケットなら、応募して受かろうが落選しようが、まず申し込みセットを入手するための1000円がかかります。仮に受かったとしたら、1スペースごとに7000円以上の費用が必要です。
もちろんサークルとして出るのだから、自分のスペースに置くための物を用意するのが普通でしょう。同人誌なら、人にもよりますが印刷代で1万~2万かかるのは当たり前、スペース装飾にまで凝れば、もっと高い費用が必要になります。
当然販売したものがすべて売れる保障などないし、一つも売れないことだって普通にあります。そう考えると、欲しいものをちゃんと手に入れて諭吉を失う買う側より、売る側の方がよっぽど財布の中身も精神的にも大赤字です。
だから同人活動は、収支のバランス云々は初めから度外視で、好きだから、気持ちが満たされるからという、精神的、経済的自己満足に耐えられる人だけが可能という大前提ができあがっているのだと思います。

同人活動において、好きだからやってる、というのが原点なのは当然ですが、やはり作るからにはより多くの人に見て貰いたい、自分の作品に価値を付けてくれる人がいるのなら買ってもらいたい、そう思うのが人間の当然の心理でしょう。この『BOOTH』というシステムは、そんな人間の心理をくみ取って、「売る」側の現実的な負担を少しでも軽くし、「売る」ことを「作る」「発表する」「見る」「買う」の流れの一部にうまく溶け込ませる可能性を秘めていると思います。そして「売る」ことの敷居がさらに低くなれば、より多く何かを「作る」機会も人も増えていきます。

「作る」「発表する」「見る」「買う」、そして「売る」。
これらがうまく噛み合っていけば、さらに同人業界、ひいては“創作”というジャンルがさらに活発化していくことでしょう。物を生み出す人間にとって、とても嬉しいことです。

可能性は未知数。
ぜひこの『BOOTH』という機能が創作を愛している人たちにとって、助けになるようなものになれば良いなぁと思っています。


aki

ややお久しぶりです遊木です。
最近なんだか、やりたいと思っていることの〆切が同時期に重なっていて地味に煮詰まっています。

この間のミーティングでは漫画組が事前にネームを描いていき、それを他のシナリオ組も交えて講評会をするというゼミをやったのですが、ここ最近ネームなり絵コンテなりを考えるタイミングが重なっていて、ちょっと頭の中がぐるぐるしています。

そのせいかわかりませんが、最近見る夢が妙にファンタジーです。
単純にファンタジーと言うと聞こえは良いですが、寝る前に「この話の主人公の過去はどうしよう…やっぱり幼少期に何かトラウマがあって…」とか考えていると、夢の中で明らかに人間でないものに追いかけられたり、よくわからないまま応戦しようとしても、自分の攻撃は全然あたらなかったりと、夢ならもっと夢主に都合のいいように展開しろよ!と思わせる夢ばかり見ます。

良く考えると自分は、夢の内容が結構現実に影響されやすいのかなぁと思いました。
学生時代は長期休みに入ると、かなりの割合で休み明けに宿題をがっぽり忘れる夢を見ていたし、合唱コンクールの前日は学校に遅刻する夢を見たし、テスト前は赤点取る夢ばっかり見ていた気がします。
…あれ、悪いことばっかりだ。

まぁ何か行事が近い時はそれに影響された夢を見ますが、普段見る夢も正直ネガティブなものばかりです。
多いのが、電車に乗ってるけど降りなきゃいけない駅に辿り着かないまま、何度も同じ路線を行ったり来たりする夢と、小学校か中学高校の校舎内で何か事件に遭遇している夢です。この年になっても結構制服着てる夢見るんですよね…なんでだろ。
ぶっちゃけ夢の内容を丸ごと覚えていたら、そんじゃそこらの話よりおもしろいものが作れる気がしますよね。私の場合明晰夢が多いので、夢の中で意識的に今見ている夢を頭に残そうと思うこともあるのですが、そう考え出すと急に今までの展開がぷっつり切れて別の内容になってしまうので、なかなかうまくいかないです。そして目覚めて少し経つと大抵内容を忘れます。


ただいくつか忘れられない夢もあります。
その中でも特にぞっとしたのが高校の時に見た夢です。

学校の旧校舎みたいなところに部活の先輩と入って行くのですが、どういうわけだか自分は「この校舎に入ったら二度と出てこれない」的な噂が広まっていることを事前に知っています。一緒にいた先輩も当然知っていて、2人で調査してる…みたいな感じなのですが、その校舎の廊下にはいくつも狭い部屋が並んでいて、その中に化け物みたいなのが沢山繋がれています。実際は暗かったので、何か化け物みたいなのが奥にいることがわかる、という夢独特の曖昧なニュアンスだったのですが、とにかく私と先輩は「なんかこの校舎でやばい実験がされている」という事実を突き止めます。
その後私たちは、夕方で西日が差し込んでいる出口に向かって走り、無事に校舎を出ます。でも、振り返ると一緒にいた先輩が出口で止まっているので、私も先輩のところに戻ります。すると先輩は何故かまた校舎内に入っていき、例の化け物っぽいものがいるところに私を連れて行きます。私は「どうしたのか」と先輩に質問しました。すると先輩は振り向いて、

「あなたのためにやっていたの」

と、私に言ったのです。



ここで目が覚めました。
当時は本当に怖くて、起きた途端に母に夢の内容をしゃべりました。なんでそんな夢を見たのかわかりませんが、大抵はどの夢も次に起こることが自分で予測できる、もしくは予感がするのに、その夢だけはまったく想像も予感もしていなかったオチだったので、心底ビビりました。一体どういう精神状態だったらあんな夢を見るのか…。


自分が見る夢の内容も興味深いですが、夢を題材に扱った作品も興味深いです。
漫画だとHOLiCや夢喰見聞とか。
HOLiCの胡蝶の夢になぞらえた、夢と現実の曖昧さ、これが夢なら誰が見ている夢なのか、的なニュアンス。夢喰見聞の、夢が現実に与える影響、現実の影響で生まれた夢、という流れもおもしろいです。

夢オチのタブーを使いながらも、それを覆す内容のものが好きなんですかね。



夢の中には自分が意識して考えるものより、よっぽどおもしろいネタが転がっているのは確か。
なんとかして、このネタをより多く抽出する方法を考えねば…ぬぬ。

枕元のメモ帳待機を復活させるか…。


aki

はるがくるまで もうすこし

乱歩酔歩

今年もあと半月くらいですね。

慌ただしい季節かと思いますが、皆さん如何お過ごしでしょう。
私はようやく来年用の手帳を買い、一月の予定を書き込めるようになりました。
年末に楽しい予定も控えているので、今が諸々の頑張りどころです。
夏野です。

皆さんに「卒制頑張って!」と温かく応援して頂いたおかげで、
卒制の方はどうにかこうにかなりそうな感じです!
まだ油断は出来ませんが、とりあえずよかった!



学校を卒業したら、当然ですが私は「学生」ではなくなって、
色々な物事が、きっと今とは違って見えることでしょう。

その「変化」が良い風に作用する場面もあれば、
逆の場合も起こることかと思います。

それは良いことでも悪いことでもなく、
「世界が広がる」とはたぶん、そういうことなのだと思います。


今の恋人と付き合い始める前、私は当然のように男女の恋愛ものを書いていて、
そういった恋愛のかたちが「普通」なのだと信じて疑いませんでした。

同性愛に嫌悪感があったとか、そういうことではありません。
あの頃、私にとっては「異性を好きになるのが普通」だったという、
ただそれだけの理由でした。

自分が同性を好きになる、ということが、まず頭になかった気がします。
言うなれば、世界が狭かったのだと思います。


知識として知っている世界と、自分の生きている世界は違います。
そう考えれば、「世界が狭い」ことは、
一概に責められることではないはずです。

けれど、世界は広いに越したことはないと、私は思います。
色々なことを知っていて、色々な考え方が出来ること、
それは、とても大事なことだから。


新しい世界の広がりにドキドキしつつ、
残りの学生生活を楽しみたいと思います。





早くあったかくならないかなぁ……と願う、夏野でした!
寒いよー!!


aka

12月の水族館

どうも遊木です。
気が付いたらもう12月になっておりました…。

そういえばこの間須々木氏の2〇歳の誕生日だったのですが、当日はやすじーが彼のために誕生日ケーキを持ってえっちらおっちら横浜本部に登場。しかもボジョレー・ヌーボーまで持ってきて、何この待遇…とちょっとギリギリしました←

せっかくだからと、本人がしなかったので私が成り代わって誕生日ケーキの写真をツイート。
絶対誰かが良い拾い方をしてくれるだろうと信じた…その結果、


私「fromやすG」
乱歩酔歩
(写真をツイート)

~その数分後~

魁「完全にデキてますね…」



あえて声を大にして言うと、魁ちゃんだけはそう反応してくれるって信じてた。
ツーと言えばカーと返してくれる友人って大切ですよね。

…一応彼らの名誉のために言っておきますが、周囲がネタにしているだけで二人はデキていません(真顔)





さて、そんなラブラブかそうでないかの話は置いといて(濡れ衣)、以前、突然植物園の資料が欲しくなり、思い立った30分後に家を出る後先考えない行動を起こした私ですが、一昨日もやらかしました。

水面の資料が欲しいなぁとフォルダを漁っていたのですが、これが驚いたことに水中の写真はいっぱいあるのに、水面が写っている写真が全然ないとな。月に一回のペースで水族館に行って、その度に写真を撮っているのに、欲しいと思うショットがなくてショックを受けたそんな4日の午前10時。

「ちょっと水族館行って来よう」

ハイ。12時前後にはもう水族館にいました。
平日の真昼間に一人で、明らかにベストショットなんか狙えないような、むしろお前そこで何撮ってるの?みたいな場所で変な角度の写真を撮りまくっていた私は、自分でいうのも何ですがすごく浮いてました←
私があまりにもそこでシャッターを切るので、観光で来てたっぽいおばちゃんたちが、私がどいたあと必死にそこに何があるのか探していましたが…ごめんおばちゃん。そこは水草しかないよ。

まぁでも取材は30分程度で終わったので、そのあとは普通に水族館を見て回りましたよね。今回はセイウチとイワシの水槽の前でぼぉーっとしてました。

12月になったせいかいろいろなものがクリスマス仕様になっていて、いつもと違う雰囲気だったのが良かったです。そういえばオタリアがトナカイになって、ソリ引いてました。


乱歩酔歩

乱歩酔歩

乱歩酔歩

乱歩酔歩


電車賃かからなかったら毎週行きたい…。
ちなみに入場料は年間パス持ってるんでかかりません(ドヤッ


aki

続編をつくれないはずの作品の続編をつくれる2010年代 ~『魔法少女まどか☆マギカ』所感~

須々木です。
わりと久々のブログです(今月2回目)。


いきなりですが、タイトルにもあるとおり、「魔法少女まどか☆マギカ」に関して、つらつらと書いていこうと思います。

テレビシリーズ、及び劇場版(新編)の核心的ネタバレを含むので、ご注意ください。

あと、例によって、すべて個人的見解なのでご了承ください。






   *   *   *






とりあえず作品を見て「おお!」と思ってグルグルして、それから一呼吸し、落ち着いて腰を据えて、作品を思い返してみると、いろいろ面白い事に気づいたりします。






すでに、現時点で、2010年代を代表するアニメ作品のひとつであると言っても過言ではない「まどマギ」ですが、じゃあこの作品のどこが凄いんでしょう?

オリジナリティーに溢れているから?


これはかなり微妙な気がします。

というか、「まどマギ」を構成する要素のほぼすべては、“どこかで見たもの”でしょう。




そもそも「魔法少女」自体が昔からテッパンネタであり、とりあえず「セーラームーン」を意識していることは明らかです。

特に、劇場版新編の変身シーンはその傾向が顕著でした。


・メインキャラ5人で5色(わかりやすいイメージカラー)。
・アクセサリー的なものが光って変身スタート。
・背景が切り替わって、キャラがクルクル。
・とりあえず一旦裸になる。
・必然性に乏しいいくつかのステップを経て変身が進行する。
・最後にドヤ顔で決めポーズ。
・これらが一人ずつ進行する。


アニメ版よりも尺を長く取っていた分、劇場版新編では、過去の変身モノのオマージュとしての側面を強く感じましたが、もちろんこれらの演出は基本的には既出のやり方を踏襲しています。




ループネタ・パラレルネタというのも、そろそろ新しさはありません。

遡ると、量子力学やら、エヴェレットの多世界解釈やらを引っぱり出したり、その考え方をサブカルチャーに転用した、ノベルゲームの分岐の概念やらに触れなければなりませんが・・・

ざっくり言えば、「まどマギ」は、「新世紀エヴァンゲリオン」のテレビシリーズ最終話が端緒となり、「ひぐらしのなく頃に」でショッキングに広まった、これらの概念を正当に継承している感があります。

ここで言う、〈これらの概念〉と言うのは、「時系列を整理しても、単純な一本線にならないが、それでいて作品として成立する」という概念です。

ひぐらしのときは衝撃的でしたが、その後、ループネタ、パラレルネタは転用されまくったため、これだけで何か真新しさを見せつけることはできなくなりました。

※複数の並行世界を知覚している存在がいる点も、共通します。エヴァなら渚カヲル、ひぐらしなら古手梨花、そして、まどマギなら暁美ほむら。




さらに、主人公とその周囲のごく限られた人々との人間関係が、中間項を挟まず、いきなり世界の行く末を左右してしまうというストーリーライン・・・いわゆる「セカイ系」の作品としても、「まどマギ」は非常に素直に描かれています。

これも、エヴァが火付け役ですが、ひねることなく継承している感があります。





ショッキングな展開の一つでもある、「魔法少女→魔女」という点についても、本来仲間だった人が、倒すべき敵になるということでは、同系統のものがたくさんあります。

特に、「まどマギ」のように、明らかに救える見込みのない敵になってしまうというのは、ゾンビモノに近いと言えるかもしれません。

これらは、短い話数に多くの要素を詰め込む現代のアニメでは、仲間の行く末を描きつつ、敵が何者であるかを同時に描けるという点で、大幅に説明の尺を短くできる極めて理にかなったストーリーラインとして定着しています。

味方のキャラを描き、それをリサイクルして敵キャラにするわけです。

このリサイクル的手法は、遡れば、すでに王道になって久しい「今日の敵→明日の味方」という少年漫画的展開の応用と言えるかもしれません(敵、味方の順序を入れ替えただけ)。






以上で触れた4つの点。

① 魔法少女(変身モノ)
② ループネタ・パラレルネタ
③ セカイ系
④ 味方→敵


これら「まどマギ」の中でも大きなウェイトを占める要素は、いずれも、ほぼそのまんま過去作品のオマージュです(しかも、いずれも非常に使い古されている)。

その点、「まどマギ」には単純な意味で、オリジナリティーがあるわけではありません。



演出が独特であるという意見もあるかもしれませんが、これも、過去の新房作品(「さよなら絶望先生」、「物語シリーズ」等)に触れている人にとっては、「いつものやつ」です。









じゃあ、結局、これだけの反響をもって受け入れられた「まどマギ」とはなんなのか?

その本質は、「過去作品の要素による、再構築と再解釈を試みた作品」ではないでしょうか。

主として、1990年代、2000年代のアニメを中心とするサブカルチャーの要素をふんだんに盛り込んだ上で、改めて構成し直し、解釈し直した作品ではないでしょうか(一種の批評とも言える)。



思えば、今まで、変身に理由はありませんでした。

だからこそ、主人公は第1話で変身してきたわけです。


しかし、「まどマギ」で主人公が魔法少女に変身するのは、テレビ放映の最終話です。

さんざんオープニングで流れていながら、結局最後の最後まで変身しません。



つまり、「魔法少女モノ」という一つのジャンルが、いままで「魔法少女そのもの」を描いてきたのに対し、今回は「魔法少女になる過程」を描こうと試みたわけです(「魔法少女」に対する新解釈)。

だから、魔法少女になったら最終回になってしまうのです。

あくまで、“過程”を描くことが本作品の本質であるが故に。




そして、その意味において、テレビシリーズ最終話で「まどかが魔法少女になった」物語に、続編をつくることは、本来できません。

ストーリーは目的地にすでに到着してしまっています。

“その先”は、この物語の領分ではないはずです。





しかし、現実には、続編として〈[新編] 叛逆の物語〉が制作されました。

これはどういうことか?




これは結局、テレビシリーズのオマージュだと思います。

もともと過去作品のオマージュとして存在した「まどマギ」を、さらにもう一回オマージュにしてつくりあげた作品だと思います。

より簡潔に言えば、テレビシリーズが「まどかが魔法少女になる“過程”」を描いたのに対し、劇場版新編では、「ほむらが悪魔になる“過程”」を描き、それを続編と呼ぶことにしたわけです。

つまりこれは、単純な続きではなく、まさしく再構築・再解釈です。

その意味で、「まどマギ」としてのアイデンティティーは維持されていますが、従来型の「続編」の概念との間にはギャップもあります。

どちらかと言えば、二次創作的な描き方であり、まさしく2010年代的な手法です。

※過去の他作品を批評的に再利用したテレビシリーズに対し、同じタイトルを冠する作品を自己批評するようにつくられている点が興味深い(自己オマージュ?)。そして、奇しくも、エヴァの新劇場版が似た性質を持つ。




よって、2000年代までをオマージュとして成立させている2010年代の創作というものを、見事なまでに体現する作品となったのではないでしょうか。

ある意味で、時代の本質のド真ん中をついていると思うわけです。












・・・なんてね。。


電車で外を眺めていたら思い浮かんだので、とりあえず書いておきましたよと(考えるのが趣味なんです)。

別に小難しいこと考えなくても面白いよ。


キュゥべえは歴代最凶キャラだよ。








sho